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 ぬえの集う街でVIII  ―― The past cannot be changed.
 第一章 突然の出来事
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 小さな工務店に勤務している三毛猫種の若者は、少し早めの昼食を調達するべく、作業着姿のまま通りをぶらついていた。全身あちこちに汚れがついているし、食事が終わったら近くとはいえ次の現場への移動もしなければならない。だから店には入らず、そこらで適当な軽食でも買って、道端に座り込んで食べるつもりだ。

 ―― さて、今日は何にしようかなっと。

 明るい琥珀色アンバーの猫目をきょろきょろと動かし、よさげなテイクアウトを物色していた彼は、ふと予想外なものを目にして瞬きした。
 二度見三度見を繰り返してみるが、やはり間違いではないようだ。

「お〜い!」

 大きめに声を上げ、軽く手を振ってみる。
 と、視線の先にいた人物が振り返った。

「アヒムさん」

 穏やかな声音がそう名を呼ぶ。

「ご休憩中ですか?」

 そう問いかけてきたのは、まるでモデルか何かのように整った体型の青年だった。
 肉体労働を続けてもいっこうに細いままなアヒムとは異なり、たくましいという程ではないが、長い手足にちょうど見合ったバランスで肉がついている。以前、教科書で見た旧世界の彫刻とやらを彷彿とさせる、とても見栄えのする体格だ。
 その顔立ちもまた、同様に整っている。めったに見ない左右色違いの目や女のように白い肌とも相まって、その造作は文字通り作り物めいた印象を感じさせるほどだった。
 しかし今は柔らかく微笑んでいるうえに、風がわずかにその銀髪を乱している。それによって、かろうじて親しみやすさが醸し出されていた。

「ああ。お前はどしたんだ。ここ、けっこう遠いだろ?」

 アヒムが住むアパートの1Fにある、行きつけのカフェレストラン【Katzeカッツェ】の従業員にして銀狼種のリュウ=フォレストは、めったに店と自宅のある建物から出ないことで知られている。
 仕事中、足りないものがあって調達に出ることなどはあるし、ペントハウスに居を移してからは、私的な買い物などもある程度はするようになったらしい。それでもたいていは、顔見知りが多いごく近場で済ませているそうで。店から徒歩で数十分も離れているような、こんな場所に用事があるとは思えなかったのだが。
 アヒムの問いに、リュウはわずかにうつむいた。どこか恥じ入っているように見えるのは、その尖った耳の先が、かすかに色づいているからだろうか。
 伏せた視線の先には、何やら紙切れが両手で広げられている。
 好奇心に駆られたアヒムは、耐えきれずにそれを覗き込んだ。

「……地図?」

 それは、この近辺を描いた地図であった。一度は丸めてしまったのか、丁寧に伸ばしてはあるものの、消えきらない皺があちこちに残っている。店売りの既製品ではなく、印刷機から打ち出したものであるのは、紙の質から見て察せられた。

「ええ……以前あの人から、土地勘を養っておいた方が良いと、渡されていたんです」

 この青年が『あの人』という呼び方をする相手は、一人しか存在しない。
 ペントハウスで同居している、人間ヒューマン女性。シルバー・アッシュこと、セルヴィエラ=アシュレイダ。市民権を得る前のリュウの元飼い主にして、現在の雇い主だ。そして【Katze】や多くの獣人種たちが居住する集合住宅を内包したビルの、家主オーナーでもある。
 紆余曲折 ―― で済ますにはいささか穏やかならぬあれこれを経た結果、そろそろ夏も終わろうとしている現在。人間ヒューマンでありながらも【Katze】の関係者達とはそれなりにうまくやり始めているかの女性を、アヒムも嫌ってはいなかった。
 むしろ不器用で謙虚すぎるその気遣いや、時おり妙にずれているところなど、親近感を抱くなという方が無理だろうと思う程度には気に入っている。
 どうやらこの地図も、そんな気遣いのひとつらしい。確かに半ば引きこもりと言って良いリュウに対し、もう少し外へ出たほうがと感じているのは、【Katze】に通う客達のほぼ全員であった。
 しかしそれにしては、

「 ―― お前、こないだ思い切り反対行こうとしてたよな」

 紙の傷み具合からして、この地図が渡されたのはだいぶ前のことだろう。
 だが先日、シルバーが一般居住区からなかなか戻らなかった際、店を飛び出そうとした彼は、最寄りの停留所バスストップを目指して、見事に逆へと向かいかけたのである。
 居合わせた連中総出で懸命に引き止め、代わりに探す羽目となったのは記憶に新しい。
 徒歩わずか十五分。ルディでさえほぼ毎日使用している停留所までの道を、建物を出た一歩目から間違える。それほどにこの青年の土地勘は、壊滅的だったはずなのだが。
 アヒムがそう口にすると、リュウは耳全体どころか、首筋までも赤くしてゆく。
 くしゃりと音がして視線を下ろすと、広げられていた地図に皺が増えていた。慌てたようにそれを伸ばしながら、リュウはますますうつむいてしまう。

「……必要な店だけ、覚えていればいいと思っていたんです。けれど、もしまた同じようなことがあったらと、その……反省、しまして……」

 声が徐々に小さくなり、最後は途切れるように消えてしまう。
 しかしアヒムは、その気持ちが理解できるような気がした。知っているべきことを知らず、軽んじていた事柄に足を掬われたことなど、アヒムとて幾度も経験している。まして学ぶことができる環境を持っていたのにも関わらず、それを無駄にしてしまった己とは異なり、ほんのこの間まで首輪付きとして虐待されていたこの青年は、ようやくその機会を得たばかりなのだ。少しぐらい知識が足りずとも、仕方のないことだろう。

「あー、うん。なんだ。これからだよこれから!」

 手を伸ばし、丸まっている背中をばんばんと音を立てて叩く。
 途端、反射的に強張る身体。しまったやらかしたと内心で冷や汗を流したアヒムへと、しかしリュウはすぐに背筋を伸ばし、ぎこちないながらも笑みを浮かべ直してみせる。

「……ありがとうございます」

 しみじみと噛みしめるように落とされた呟きに、アヒムは手を振って場の空気を変えようとした。

「その、なんならちょっと案内するぜ。昼メシはもう食ったのか?」
「あ、いえ。せっかくの休憩を、お邪魔する訳には……」
「いーって、いーって。オレも一人じゃ寂しーし?」

 言いながら、目をそらすついでに中断していた昼食探しを再開する。なにか美味そうなものは……と周囲を見回して、やけにこちらを向いている者が多いなと思った。
 首を傾げかけたが、しかしその視線が主にリュウの方へ集中していることと、そのほとんどが女性のものであることにより、何と言うかいろいろと察してしまった。
 今日の彼が着ているのは、無地の長袖Tシャツに濃い色のジーンズだ。それだけならごく普通の簡素な装いだが、喉元に三角に折ったバンダナを巻いているのが、非常に目を引いた。この街の獣人種は、首輪を連想させるような衣服や装飾を忌避する傾向にある。しかし白い線で幾何学模様が入った赤色のそれは、そんな風潮を差し引いてなお、彼にとても似合っていた。なまじ他の部分がシンプルなだけに、いっそう鮮やかな赤が際立ち、思わず目を向けると次は容姿の良さに気付かされる。

 自分がやってもよだれ掛けか、せいぜい汗拭きにしか見えないだろうに、この青年だと何故こんなにも洗練されて見えるのだろう。
 少々ひがみめいたものを感じるのは、男として仕方のないことだと、そう思うことにする。
 それでもさり気なく作業着の汚れを払ってみたりなどしつつ、ひとまず場を移そうとリュウへ声をかけた。


 結局昼食は、トウモロコシの粉で丸く焼いたトルティーヤに、さまざまな具を包んでもらえるタコスを選んだ。これなら直接手で持って、歩きながら食べられる。さすがにリュウを地べたに座らせる勇気は、アヒムにはなかった。
 少し厚めの生地に、たっぷりの香辛料で煮込んだ肉メインの具材を選んだアヒムは、予想していた以上のボリュームに満足して咀嚼を繰り返す。
 一方で薄めのトルティーヤに生野菜を主体で包んでもらったリュウは、一口一口を確かめるようにして味わっていた。水分が出ないように挟まれている大振りな葉の緑と、具材の多くを占める刻みトマトが目にも楽しい取り合わせだ。

 ―― ってかこいつ、こういうとこまじブレねえよなあ。

 アヒムは内心で苦笑する。
 家主オーナーの好物のひとつがトマトだとは、【Katze】の常連達みなが察しているところである。
 どうせ今もリュウは、同じものを再現し彼女に食べさせることを考えて、味つけや材料を確認しながら食べているのだろう。

 こんな彼など、記憶を失っていた頃からは想像もできなかった。
 人間種ヒューマンに対しては無論のこと、同じ獣人種キメラに対してさえ、ほとんど心を開こうとせず、満足に会話すらしない。偏屈でヒト嫌いな、元首輪付き。
 いつかきっと、こいつはダメになるのだろう。理屈ではないところで、そんなふうに思ったものだ。
 獣人種でも人権を持てるこのレンブルグに、希望を持って訪れるキメラはそれなりに多い。しかしそのほとんどが、新しい暮らしに適応することができず、『まっとう』な社会から消えていってしまうのだ。
 残るのはひと握りの幸運な者と、そんな者に救いの手を差し伸べられた、さらに幸運なごくわずかの中の、一部だけ。
 かつてのリュウは、差し出されたその手を掴み返そうと、努力はしていた。それでも伸ばされた手は、今にもすべり落ちてしまいそうで。見守っていた他の常連達も、既にあきらめの色が見え始めていたと思う。

 ―― けれど今は、違う。

 ちらりと横を歩く青年を見やって、アヒムは緩む口元を、食べかけのタコスで一度隠した。
 それから改めて、声を張り上げる。

「ほら、リュウ。あそこに看板出てるだろ! あの店のケーキがうまかったって、前にスイが大はしゃぎしてたぜ?」
「え、どこですか」
「あそこだよ。あの【CARINAカリーナ】って店」
「ああ、なるほど」

 指差して教えると、いったんしまっていた地図をポケットから取り出し、生真面目に確認している。

「この地図だと、店名は書かれていませんね」
「あー、このへんの店ってけっこうころころ入れ替わるし。そもそもキメラ居住区の地図なんて、こまめに直す奴なんざいねえだろ」
「……そうですか」

 指が何やら動いていたので、作業着の胸ポケットに挿していたペンを渡してみた。

「ありがとうございます」
「どーいたしまして」

 律儀に告げられる礼に苦笑いしつつ、もうちょっと砕けてくれても良いんだけどなあなどと考える。
 地図に書き込みを終えたリュウは、ペンをアヒムに返そうとした。アヒムは預かっていた食べかけのタコスを差し出しながら受け取る。しかしリュウの方は大きく手元を狂わせ、せっかくの昼食を地べたへと落としてしまった。

「あ! 気をつけろよ、もったいねえ」

 とっさにかがみ込んだアヒムは、リュウの方を見上げて思わず息を呑んだ。
 リュウの顔色が尋常ではなかった。
 腰を曲げたアヒムの背越しに遠くを見つめ、声も出ないというようにただ口唇を戦慄わななかせている。
 いったい何を見ているのかと、アヒムも上体を起こして振り返った。
 そうして同じように、声もなく両目を見開く。
 しかしその後の行動は早かった。アヒムはリュウの手首を鷲掴みにし、最も近い路地へと全力で駆け込んだのだ。そうして見えてしまった人影からこちらは見つからぬよう、少しでも早く遠くを目指して走る。
 途中で幾度か何かを蹴り飛ばしたような感触もしたが、とにかく足を動かした。そんなふうにして、どれぐらい経っただろうか。

「ア、アヒム、さん……っ」

 苦しげなリュウの呼びかけに、はたと我に返った。
 いつの間にか狭い路地をとっくに抜け、別の大通りのずいぶん先まで来てしまっていた。いくらなんでもこれだけ離れれば、先ほどの人影の視界に入ることはないだろう。
 肩を上下させつつリュウを振り返れば、こちらは完全に息が切れてしまっているようだ。急いで手を離すと、倒れ込むように側近くの街灯へと寄りかかる。
 そうして二人、しばらく無言で息を整えた。
 先に口がきけるようになったのは、肉体労働に従事しているアヒムの方だ。

「リュウ、お前……あいつらのこと、知ってん、の……?」

 額の汗を拭いながら問いかける。動いて体温が上がっているはずなのに、妙に冷たく感じる汗が、どうにも気持ち悪くてならない。
 リュウは無言で一度うなずくと、唾を飲んで喉を湿らせたようだった。
 気がつけば、無事だったはずのアヒムのタコスも見当たらなくなっている。途中で落としたか、あの瞬間に放り出してしまったのだろう。どのみち香辛料がきついあれで、喉を潤すことはできまい。

「……は、い。その……」

 まだ息を切らしながら、ようやくリュウが言葉を紡いだ。

「この街に、来た、日に……首輪を、見られて……」

 首に巻いたバンダナを確認するよう左手で押さえて、リュウは身を震わせる。

「それって……」

 リュウが記憶を失った経緯については、世間話のような形で既に聞かされていた。なんでも最初は身なりの良さから因縁をつけられ、その後は首輪に気づいて逆上した相手から、半死半生の目に合わされたのだと言う。
 ゴミ捨て場に放置されていた彼を【Katze】の女将が見つけた時の騒ぎは、アヒムも一応覚えていた。ちょうどその日も朝の掃除を手伝っていた彼は、まとめたゴミを捨てに行ったはずのアウレッタが、血相を変えて駆け戻り、そして向かいの診療所へ突進していったのを窓越しに眺めていたのだ。そうして再び出てきた彼女は、ドクター・フェイを伴って再び元の方向へと走って行った。
 いったい何があったのかを尋ねる暇もなく、なかなか二人は戻ってこない。やがて出勤する時間が来てしまったので、ひとまずその場は他にも手伝っていた常連達に伝言を残し、アヒムは勤務先の工務店へと向かったのである。
 その後に聞いたリュウの状態は、話だけでも身震いしたくなるようなものだった。もともとアヒムは、暴力を振るうのも振るわれるのも大嫌いだ。先輩職人の拳骨には耐えられても、チンピラの怒号はそれだけで身がすくんでしまう。
 ましてや記憶喪失になるほどの傷を負わされたリュウが、その相手と遭遇して、平静でいられなくなるのも当然だろう。
 アヒムは数度深呼吸して気持ちを落ち着かせると、努めて抑えた低い口調でリュウに語りかけた。

「この先、もしまたあいつらを見つけたら、全力で逃げろよ」

 本当はその背中をさすってでもやりたいところだったが、リュウ相手にそれは逆効果であろうし、自身にもそんな余裕はなかった。

「あいつらは、最低限のルールすら守れなくなった、心底どうしようもない連中だ。関わって良いことなんて、一個もないんだから」
「アヒム、さん……?」

 訝しげな顔をしているリュウに、強く念を押す。

「とにかく、絶対に逃げろよ。約束だからな!」
「は、はい……」

 戸惑いながらもうなずいたのを確認して、アヒムはようやく息を大きく吐いたのだった。


§   §   §


 翌日の【Katze】は、いつもとほんの少しだけ様子が異なった。
 普段ならおおむね9時頃、遅くとも10時には姿を現す家主オーナーが、やって来なかったのである。
 もちろん仕事が忙しい場合は、そういう日もある。しかしそんな時は必ず出前デリバリーとして、何かしらをペントハウスまで運んでゆくリュウが、何故かいっこうに準備を始めようとしない。

「ねえ、シルバーさん、今日はどうしたの?」

 常連の一人であるカワセミのスイが、カウンター席で昼の注文を待ちながら質問した。本日の選択は白身魚のムニエルにオニオンサラダ、そしてミックスジュースだ。
 水に晒したスライスオニオンの上へスモークサーモンを並べていたリュウは、その手を止めぬまま答えを返す。
「あの人なら、朝からドクターのところへ行っています」
「え、シルバーさん、またどっか調子悪いの!?」
 心配げに身を乗り出した少女へと、最後の一枚を乗せ終えたリュウが、微笑んでみせる。
「いえ、体調は特に問題ありません」
 確かに、もしも彼女の具合が悪かったのならば、彼がこれほど平静にしているはずがなかった。
 ならばいったいどうして、と。
 最近でこそ時おり仕事で外出をするようになったものの、それでもリュウ以上に出不精な彼女がわざわざ出かけるなど、まったくもって理由に想像がつかない。
 スイだけでなく話を聞いていた他の客達も、そろってその首を傾げていた。
 トレイに皿とグラスを並べたリュウが、カウンター越しに腕を伸ばし、それらを差し出す。
「なんでも、定期検診というものだそうです」
「ていき、けんしん?」
 スイの隣に座っていた3階の住人ディックが、鸚鵡おうむ返しに口を開いた。出版社勤務の羊種の男にも、その単語は覚えがなかったらしい。
人間種ヒューマンは、年に一度ほどの間隔をおいて、医療機関で全身の検査を受けるよう推奨されているのだそうです。そうやって、病気などを自覚症状が出る前に発見し、早いうちに対処して健康を保つのだとか」
「へー……そんなのがあるんだね」
「なんか面倒くさそうだな」
 離れた場所に座っていた客も、ついに口を突っ込んでくる。
 調子が悪いわけでもないのにわざわざ病院へ行き、金のかかる検査を受けるのか。本当に怪我や病気をしたとしても、満足に治療を受けることすらままならない獣人種の彼らにしてみれば、なんとも優雅というか、余裕のある話だと感じてしまう。
「まあこれまでは、行政からの通知が届いても、放置していたんですが」
 リュウは眉尻を下げる形の、どこか複雑そうな笑みを浮かべる。
 彼にしてみれば、獣人種達の気持ちもよく理解できるし、同時に大切な相手には極力健康を維持する努力をしてほしいとも考えるのだろう。
「でも今回は、ドクターからきつく釘を刺されたのだそうで」
 いわく『診療所うちの真向かいで手遅れの大病にでもなられたら、風評被害も甚だしいってもんだ』『主治医の俺は、下手したら医師免許剥奪だぞ!?』などとたたみかけられたらしい。
 確かに嘘は何も言っていないが、シルバーの深刻な医者嫌いを知る一部の者達は、さすがドクター・フェイだと内心で手を叩いていた。
 大輪の花のように、きれいな放射状に並べられた鮭の燻製へと、スイは笑顔でフォークを突き立てる。
「でも、それなら良かったよ。シルバーさんって、ちょっとぐらい調子悪くても我慢しちゃいそうだもん。きちんと調べてもらうんなら、安心できるよね」
 そう言って、薄い切り身で玉ねぎを巻き、口へと入れる。
 スモークサーモンのほのかな塩気とよく合う、瑞々しい玉ねぎの歯ごたえ。思わず目を細めて頬を押さえる彼女をよそに、店内の数名がなんとはなしに窓の外 ―― 道の向かいにあるビルへと視線を移した。
 その建物は、一階部分にいくつかのテナントが入っているだけで、残りの二階から四階と屋上まで、フロアすべてがドクター・フェイの診療所となっている。患者が主に出入りする診察室や各種検査室は二階にあり、三階と四階の一部が病室となっている。フェイの住居もその四階に設けられていた。
 キメラ居住区内では唯一の医療機関であり、獣人種を時間や所持金の有無をいちいち問わず治療してくれる、レンブルグでもたったひとつの場所である。だからこそこの街の住人が、ドクター・フェイ=ザードに寄せる信頼と期待は大きい。
 噂では、裏社会に属するような荒っぽい組織の幹部クラスでさえもが、彼には一目を置いて接し、時に便宜をも図るらしい。なにしろ抗争で構成員が大怪我を負いでもした日には、ドクターの機嫌ひとつで助かるかどうかが決まるのである。だからこそ敵対する組織に所属する者達でさえ、診療所周辺は中立地帯だと定め、仮に鉢合わせたとしても揉め事を起こさず、順番を守っておとなしく治療を受けるのだという話である。
 そういう意味では、以前このビル ―― 診療所真向かいの建物を買い取ろうとした組織は、治療手段の独占という、抜け駆けを目論んだのかもしれない。その後、事態を知った敵対組織複数から集中攻撃を受け、今ではもう存在していないというのは、果たして嘘か真か ――

 そんなことを考えながら診療所の方を眺めていた客達は、ぎょっとして目を瞬かせた。
 診療所のあるビルの玄関から、何やら大人数の集団が出てきたのである。みな妙に派手で、かつだらしない印象を感じさせる風体をしており、道路とはめ殺しの窓を隔ててもなお、けたたましい罵声を上げているのが聞こえてくる。
 いや、それよりも何よりも問題なのは、

「おい!」

 誰かが椅子を蹴り倒す音が、店内へと響き渡った。

「あれ、オーナーじゃねえか!?」

 どこか悲鳴のような叫びに、店にいた者すべての顔がいっせいにそちらを向いた。
 男達の一人が、肩へと担ぎ上げて運んでいる人物。垂れ下がる長い黒髪に細身のパンツスーツは、見間違いようがない。
 店内は一挙に騒然となった。立ち上がり店を出ようと飛び出す者。そのはずみに皿や料理が床に落ち、けたたましい音を立てる。椅子やテーブルが倒れ、狭い出口に殺到した数名が我先に外へ出ようとし、逆に身動きが取れなくなっている。
 奥のカウンターキッチンにいたリュウは、大きく出遅れていた。出口の混雑からはじき出され、ただ腰高の窓へと両手をつき、その名を呼ぶしかできないでいる。

「サーラ!!」

 バン、と。

 叩きつけられた両手が、はめ殺しのガラスを震わせる。

「サーラッッ!!」

 悲痛な声を上げるその目の前で、シルバーは道路に駐められていたワゴン車へと押し込まれてしまう。そうして男達も続いて乗り込むと、タイヤを空転させ勢いよく走り出した。
 為すすべもなく見送る一同の視界へと、玄関から現れた別の人影が映る。
 壁に片手をつき、よろめきながら現れたその人物は、見慣れた白衣姿の青年であった。しかしその白衣には、点々と赤いものが散っている。

「ドクター!」

 ようやく押し合いから抜け出した一人が、道を横断して彼へと駆け寄ってゆく。
 身体を支えているのとは別の手で頭部を押さえていたドクター・フェイは、その声に反応して、遠ざかるテールランプからそちらの方へと顔の向きを変える。
 その半面はべっとりと、鮮血で染まっていた ――


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