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 ぬえの集う街でVI  ―― Nightmare.
 前編
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 まなじりを伝う、汗とも涙ともつかぬ液体を、手荒にならぬよう、そっと拭い取った。
 そうして汚れたタオルを洗面器で洗いながら、リュウは深く息を吐く。
 ベッドに横たわる人は、高い熱に浮かされ、傍らにいる存在になど気付いてもいない。

「……な、い……か……ら……」

 苦しげな呼吸の合間から訴えられる何かしらも、けしてリュウに向けられたそれではない。
 天井へと伸ばされるその手を受け止めてみても、喉をかきむしろうとするその指を引き離してみても、魘される様子はまったく変わらないままだ。

 ―― いつも、こうだ。

 なにかしら……恐らくは左足に関わる物事が、許容範囲を越えた時、この人はこんなふうになる。
 軽い時には、足を引きずる度合いが増すだけですむ場合もある。
 もしかしたら自分が気付けていないだけで、表に出さぬまま体調を崩している頻度は、もっとずっと多いのかもしれない。
 しかし、今回のように隠しようもないほど高い熱を出し、意識があやふやになることも、けして少ない回数ではなかった。

 昨夜は、普段の通りだった。
 朝の早いリュウの方が先に就寝し、そしてこの人が目覚めるより早く、店へと出勤する。
 だから一日で最初に顔を合わせるのは、【Katze】が休業の日を除けば、9時を過ぎた頃合いになるのが通常だ。だいたいその時間帯に遅い朝食をとりにやって来るのが、リュウとの同居を再開してからの、この人の習慣となっている。
 なのに今日は、時間になっても現れなかった。それでも午前中は、調べ物に手間取るかもしれないと事前に言われていたから、昼まで待ってみた。そして昼を過ぎても姿を見せないことに胸騒ぎを覚え、携帯端末を呼び出してみたのだ。
 電脳関係を生業なりわいとしているこの人は、連絡に対する反応レスポンスがとても早い。
 ある程度の通話なら作業の手を止めぬままこなしてしまうし、届いたメッセージを読むのと同時進行で、ひとつ前のそれへの返信を作成していることも珍しくない。いったいどんな脳内処理を行えば、そんなことが可能なのだろう。
 ともあれ、よほど忙殺されてでもいない限り、この人が通話に出ないということはまずなかった。
 たった一言、いまは応答できない、と。合成音によるアナウンスだけでも、返してくれるのがこの人だ。そんなこの人が、どれだけ端末を鳴らし続けても反応しない。
 考えられる事態は極めて少なく、そしてもっとも高い可能性が ―― 幸か不幸か ―― 正解だった。
 7Fまでの階段を駆け上がり、ペントハウスに駆け込んだ時の衝撃は大きかった。
 この部屋に ―― この人の寝室に、自分以外の誰かがいる。そのことに気付いた瞬間の恐怖と、そして絶対にこの人を守らなければという、強迫観念にも似た強い衝動。
 相手がドクター・フェイだと気が付いても、湧き上がった敵愾心が消えることはなく。何故ここにいるのかという疑問よりも先に間へ割り込もうとし、そしてあっさりとたしなめられた。
 いったん落ち着いてみれば、浅はかだったとしか言いようがない。
 問われるままに己の知る事情を話し、補助装具を預け ―― そうしてそのまま店に戻らず看病できるよう手配されて、何時間が過ぎただろう。
 窓から見える太陽は、すでに建物の向こうへとその姿を没し、あたりが暗くなり始めている。

「…………」

 手を伸ばし、カーテンを引いた。そうしてサイドボードにある照明をつけ、明るさを最小に絞る。
 レールを金具がすべる甲高い音も、新たな光も、悪夢にとらわれる人には届かない。
 付き添い始めてしばらくは、ドクターの投与した薬が効いていたのだろう。多少の熱はあっても落ち着きを見せていた。しかし時がたつにつれ、容態はいつもと同じそれに変わっていく。
 こうなるともう、あとは体温が上がりすぎないよう冷やしたり、吸い飲みを使って水分を補給させながら、収まるのを待つしかできない。

 ドクターは、もし容態が悪化するならば、いつでも連絡しろと言っていた。
 職業意識の高い彼のことだ。本当に真夜中に叩き起こしたとしても、即座に駆けつけてきてくれるのだろう。
 けれど、これはいつものことなのだ。
 悪化などと呼ぶほどの、珍しい状態ではけしてない。

 またもさまようその手を受け止め、今度は両手で包むように握りしめる。
 掴まれていることなど気付いてもいないらしく、細い指が手のひらの中で、なおも弱々しく動き続けていた。
 それを己の両手ごと引き寄せて、額へと押し当てる。

「……サーラ……っ」

 漏れた声は、祈りというものに似ていたかもしれない。
 幾冊も読んだ書物に出てきた、『神』などという存在は正直よく判らない。
 たとえ何かを望み、求めたとしても、それが叶ったことなどほとんどなかった。数少ない実現した願いは、突き詰めればそのどれもが、この人によってもたらされたものだった。
 だから、この人自身に関することは、誰に対して願えば良いのか判らない。
 この人自身でもどうにもならないことを、一体どうすれば叶えられるのだろう。

 ―― どうか、これ以上苦しまないで欲しい。

 そんな、ごくごく単純な望みを叶えるには。

 すべての事情など、教えられてはいない。
 この人が、かつて死なせたというその相手は、いったいどんな人物なのか。果たしてそこに、どんな経緯いきさつがあったのか。
 何故にこの人は、こんなにも自分自身を責め続けるのか。
 どうしても判らない。
 そして本人に訊ねることもできはしない。
 だから自分は、こうしてただ、その名を呼ぶことしかできないのだ。
 そうして、どこへとも知れず、誰へとも判らぬままに、呟く。

 どうか、

 と。
 それをこそ、人間ヒューマンは祈りと呼ぶのならば。
 自分はいくらだって、捧げてみせるのに ――


§   §   §


 高熱と目眩と吐き気と……襲い来る様々な苦痛の中で、多くのものを見て、聞いた気がした。
 あるいは何かを問われ、何かを返したようにも思う。
 時には全身が焼けるほど熱く、時には震えるほどに寒く、そして汗で濡れる肌へと何かが触れ、干上がった喉へと何かが流し込まれる。
 そんな時間が、果たしてどれほど続いたことだろう。

 ふ、と。

 水底から浮かび上がるように、意識を取り戻した。
 まだはっきりとはしない思考の中で、開いた目をぼんやりと動かし、あたりを確認する。
 どうやら自分は、床に横たわっているようだった。
 遊びの後に、そのまま捨て置かれるなど珍しくもない。しかしそんな場合であっても、ある程度の時間が経てば、飼育係なり片付けを命じられた獣人種なりによって、叩き起こされるのが常だ。こんな静かな目覚めなど、ついぞ経験がない。
 しかもここは、室内ではなく廊下のようだった。見覚えのない狭い通路には、いくつか扉が存在していて、視界の先には広い空間へと繋がっていると思しき、開口部が見える。
 薄暗い廊下の、片隅。
 目に入る絨毯は、毛足が短く色も地味で、これまでの飼い主たちが好んだ、身体が沈み込むような贅沢なそれとはまったく異なっている。
 しかし、寝心地はそこまで悪くなかった。身体と絨毯の間には、紙を思わせる何かでできた、大きな厚手のシートが敷かれている。触れた感触がさらりと乾いていて、汗ばんだ肌にはちょうど良い。
 と、そこで己の身体に毛布がかかっていることに気がついた。
 衣服はすべて脱がされている。しかし汗の他に目立つ汚れはなく、はだけていた毛布も、暑さから自分で押しのけたのだろうと思える、自然な乱れかただ。
 弄ばれた後で放置されたにしては、いつもとあまりにも違いすぎる。
 上体を起こそうとして、持ち上げかけた頭が再び落ちた。全身がひどく重く、力が入らない。仰向けになっていた身体を、横向きにするだけで精一杯だ。
 そうしてわずかでも動くと、また気付くことがあった。頭の下に、枕のようなものが置かれている。けして厚くも柔らかくもないが、適度な弾力と冷たさを感じさせるそれに、熱を帯びた頬を押しつけてしまう。

「…………」

 そうしてしばらく冷気を味わってから、閉じていた目蓋を上げ、再びあたりへと視線を巡らせた。
 周囲は、予想以上に散らかっている。透明な液体の入ったボトルが数本と、適当に放り出されたといったていのタオルが何枚か。その間には丸まった小さなシートがいくつも落ちていて、水の入ったボウルまでが床へ直接置かれていた。その横には、やはり床に置かれたトレイの中に、こちらは畳んだ状態のタオルが重なっている。
 さらに視線を動かせば、己の頭近くの位置にもトレイがあった。乗っているのは、底にわずかばかり水が残った小さなガラスポットと、深皿に入っている、スープ……だろうか。匙が突っ込まれたままで、明らかに食べさしのようだ。
 そこまで見て取ったところで、思わず身体が硬直した。
 トレイの向こう側に、誰かの足が見えたのだ。
 反射的に息を詰める。
 毛布を握りしめながら、懸命に気配を押し殺した。
 そうして ―― 眼球だけを動かし、足の持ち主を確認しようとする。
 床に投げ出されたその足は、細身のスラックスに包まれていた。だから、最初は男のものだろうと思った。しかし視線を上げていくと、長い黒髪が目に入る。癖のないそれは首のうしろでひとつに束ねられていて、肩から胸元へと落ちかかってきている。ここまで髪を伸ばす人間ヒューマン男性は、皆無とまでは言わないものの、あまり見たことがない。
 その人物は、廊下の反対側で座り込んで、角になっている傍らの壁へと身体を寄りかからせているようだった。毛布を羽織っているためはっきりとは判らないが、それでもかなり細身の体格に見える。やはり女、なのだろう。
 片膝を引き寄せ、抱え込むようにして目を閉ざしている。
 その顔を見た瞬間、一気にこれまでの記憶が蘇ってきた。

「…………っ」

 こらえきれず、喉が小さく音を立てる。
 しまったと思った時には既に遅く、その人物 ―― 己の新しい飼い主は、目蓋を持ち上げていた。
 黒い ―― 奥底の見えない、闇のような色をした瞳がゆっくりと現れ、長い睫毛の下でこちらへと動く。
 一瞬、まっこうから視線が交わった。慌てて目を伏せ、ひざまずこうとする。しかし身体が思うように動かず、下になった腕を抜いて、うつ伏せになることさえできなかった。
 無様に足掻いていると、肩口を押さえられる。接近する気配に、抵抗をあきらめ力を抜いた。

「……無理を、するな」

 投げられた言葉の意味は、理解することができなかった。
 いったい何を言われたのかと考えている間に、再度肩を押され、再び仰向けの姿勢を取らされる。
 そうして新しい飼い主の女 ―― 名はなんと言ったか ―― は、無言で身体を検分してきた。額から首筋へと手を滑らせ、汗に濡れた胸元をたどり、何やら小さな器具も押し当てられた。
 飼い主に身体をまさぐられるのは、いつものことだ。しかし何故かその手は、これまでのものとは異なるように感じられて。

「熱がまだ、下がりきっていないな」

 器具へと視線を向けた女は、それを床のトレイへ置き、代わりにタオルを一枚取り上げた。ボウルの水で濡らしてから、まずは顔へと押し当ててくる。
 呼吸を奪うつもりかと思ったが、それは鼻や口を避けて、額や頬を拭っていった。反射的に閉じた目の周りも、強すぎない力で数度往復する。耳の裏側まで拭かれてから解放されると、思わず小さな息を漏らしていた。
 タオルを畳み直した女は、それからも首筋や胸元と、先程確認していたあたりを拭いていく。そうしながら、なにやら引っ張られる感覚に視線を向けると、身体のあちこちに貼られていたシート状のものが、剥がされるところだった。それらは適当に投げ捨てられて、元々床に落ちていた同じものと混ざる。
 タオルは何度か新しいものへと替えられ、全身を拭かれた頃には、べとつく汗の不快さがなくなっていた。そして首と脇の下、太腿の付け根に、新しいシートを貼り付けられる。
 ひやりとしたその感触に、一瞬、身体が跳ねた。

「……ただの冷却シートだ。熱を下げる効果がある」

 短く言って、女はずり落ちていた毛布を再びかけてきた。
 裸体はそれで、完全に包み隠される。

「喉は、渇いているか?」

 これは果たして、どういう遊びなのか。
 何も判らなかったが、逆らう気が起きるほど不快な行為でもなく、またそんな体力も残っていなかった。

「……は、い」

 嘘ではなかった。
 口の中が粘ついていて、同時に喉がひりつくような痛みもある。できるものなら口をすすぐか、せめて水を飲みたかった。
 女を見上げると、彼女はトレイに置かれていた、ガラスポットを持ち上げていた。手のひらに収まるほどの小さなそれは、注ぎ口が妙に細長い、見たことのない形状をしている。
 その底にわずかばかり残っていた水を、女は散乱する使用済みタオルの上へ捨ててしまった。
 目の前で為された所業に、ああと内心でわずかに落胆する。予想はしていた。それでも一度期待させてからの裏切りは、幾度経験しても、心のどこかを引っかかれるような感覚をもたらしてくる。
 無言で目を伏せていると、女は床に転がっていた透明なボトルを一本拾い上げて、その封を切った。ガラスポットの中へわずかに注ぎ込み、数回揺らしてからまた中身を捨て、さらにもう一度注ぐ。
 そうして改めてこちらへと向き直ってきた。
 片手が首の後ろに差し込まれ、わずかに頭部を持ち上げられる。

「ゆっくり飲め。慌てるとむせるぞ」

 口元へと長い注ぎ口を突きつけられて、驚きに目を見開いた。
 どうすれば良いのか判らず戸惑っていると、口唇の間に注ぎ口が挿し込まれてくる。とっさに拒もうと舌で押し返したが、そこから流れ込んできた液体に、気がつけば逆に吸い付いていた。
 少しずつ、少しずつ流し込まれるそれは、どこか甘かった。
 喉が渇いているからそう感じるのだと思っていたが、どうやら違っているようだ。口の中の粘つきが取れても、やはりその液体は甘い。

「味は感じるか?」

 ポットの中身すべてを飲み干すと、今度はそんな質問をされた。

「……甘い、です」

 思ったことを正直に答えると、彼女は小さくうなずく。

「まだ脱水が続いているか。……過労もあるようだな」

 そう言って、しばし無言になる。
 こういう状態の飼い主に、声をかけて良いことは何もない。邪魔をすれば怒りを買うだけだと、身に沁みて思い知っている。だからできるだけ息を殺して、次の行動を待った。
 やがて女は、再び視線を合わせてくる。

「悪いが、私の力ではベッドまで運べん。自力で移動できるようになるまで、ここで我慢しろ」
「がま、ん……」
「ああ。恨むなら、こんな場所で倒れた己を恨め」

 そう言って、女は頭の後ろから手を引き抜き、壁を支えにしながら立ち上がった。

「新しいスープと、保冷剤を持ってくる。……ああ、目が覚めたなら、服も着られるな」

 脱がすことはできても、着せるのはさすがに無理だ。
 そんなことを言いながら、床に散らばっている汚れたタオルやゴミを拾っていく。
 そうして廊下の向こうへと遠ざかっていく後ろ姿を、ただ呆然と見送るしかできなかった。
 身体を起こすこともできず、冷たいなにか ―― 後でそれが保冷剤だと教えられた ―― に頭を乗せた状態のまま。
 唯一動かせる色違いの目だけで、片足を引きずって歩く女を追いかける ――


§   §   §


 高熱を出しても、そこだけは何故か極端に冷たくなる。
 そんなシルバーの左足を、リュウは蒸しタオルで温めながらマッサージしていた。
 それまでにも、止まらない汗をタオルを替えながら幾度も拭い、乾いた清潔な服に着替えさせて、保冷剤や冷却シートで太い血管がある部位を冷やす。
 失った水分や各種電解質などを清涼飲料水で補給させつつ、体力が消耗しすぎないよう、消化の良いもので栄養も摂取させる。

 ―― そんなやり方を、教えてくれたのもこの人だった。

 この清涼飲料水は、脱水状態の際に効率よく必要な成分を吸収できるよう調整された、一種の医薬品だった。健康であれば塩辛さを感じるが、脱水症状を起こしていると甘く、もしくは無味に思えるのだという。
 実際、のちになって味見してみたそれは、とうてい甘いとは思えない代物だった。
 数日前、性質の悪い風邪で熱を出してしまった折り、見舞いに来てくれたゴウマらに話をしたことで、当時の記憶が蘇りやすくなっているのだろうか。
 今夜は妙に、あの頃のことを思い出す ――


§   §   §


 明るいダイニングキッチンのテーブルで、飼い主の女性と二人、向かい合って椅子に座り、同じ料理を口に運んだ。

「いかがですか」

 問いかけに、無言でしばしその目が伏せられる。
 それが考えをまとめている時の仕草なのだと理解したのは、いつ頃のことだったか。

「 ―― 火の通りは過不足ない。味付けも、喉を通りやすいな。ただもう少し、緑黄色野菜の割合を増やしたほうが良いだろう。加熱するとそれだけビタミン類は破壊されるが、その代わり全体の体積が減って、最終的な摂取量を多くできるらしい」

 ややあってから返ってきた答えを、しっかりと記憶する。
 味に関する言及は、めったにないことだった。今回のレシピは記録を残し、次に役立てるとしよう。
 そんなことを考えていると、相手からも質問がなされた。

「課題は、支障なく進んでいるか」

 カトラリーを置いて、記憶を辿った。

「国語は、レベル3に入りました。算数は4の途中です」

 お前用だと渡された端末には、知育アプリとかいうものが入っていた。なんでも人間種ヒューマンの子供が、基礎的な教育を受ける際に使用されるものだという。
 なんの酔狂か、調理の次は掃除と洗濯、さらには読み書き計算を身につけろと命じられた。なので最近は、その知育アプリに表示される問題を、順番に解いていっている。最低限の文字しか読めなかったため、最初は問われている意味を理解するのにさえ苦労した。しかし段階を踏んで進めていくにつれて、だんだん合格基準に達する速度が上がってきている。
 そのおかげで、時間がある時は好きに読めと言われた書斎に並ぶ本も、写真や絵がメインだったそれから、文字が多いものへと手を伸ばせるようになった。
 書かれている内容自体は、未だにほとんど理解できない。それでも、これまでまったく見聞きしたことがない事柄に触れるのは、どこか心が浮き立つように感じられた。

「 ―― そうか。そろそろ社会構造や歴史についても、学んでいけそうだな」

 後でアップデートしておこうと、小さく呟いている。
 その言葉が何を意味するのかは不明だったが、言われた通りに続けていれば良いのだろう。

「どうしても解けない問題はあるか。咎めだてはしない。正直に答えろ」
「今は、ありません。教えていただいた通りに、端末を使って調べています」
「……電脳ネットワーク上の情報は、全てが正確だとは限らない。何事も鵜呑みにせず、複数の情報源ソースを比較して、確実性の高い答えを導き出すことが重要だ」
「はい」

 うなずく。
 『うのみ』や『そーす』、『かくじつせい』といった初めて聞く単語は、あとで意味を調べよう。そう心の中にめ置いた。
 この飼い主が、いったい何を考えてこんなことをさせているのか。それさえも自分には判っていない。
 それでもこの生活は、辛いものではなかった。むしろ負担などほとんどなく、少しでも長く続いてほしいと、そう願ってしまう。

 それこそが、『楽しい』という単語で表現される感情なのだ、と。
 そんなことすら、当時の自分には理解できていなかったのだけれど ――


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※「注ぎ口が細長い小さなガラスポット」とは、いわゆる「吸い飲み」のことです。


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