鵺の集う街でV ―― Love is blind.
第六章 見出されたのは
― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
視線を向けもせず伸ばされたアルベルトの手に、控えていた護衛の獣人は、懐から出したものを乗せた。
反射的に警戒したジグだったが、それが武器などではなくただの薄い封筒であると気付くと、すぐに緊張を解く。
今はけして、己の感情に囚われていて良い状況ではない。
細く息を吐き、いつでも動けるように、つとめて身体の力を抜く。
青年は、軽く折り返されていただけの開き口からちらりと中を確認し、それをシルバーに向けて差し出した。
「……何だ」
すぐ手を出すことはせず、短く問い返す彼女へと、勿体ぶることなく告げる。
「身元保証人の、変更申請書だよ。こちらの必要事項はすでに記入してある」
どうぞとばかりに、数度封筒を揺らす。
シルバーは一度、ゆっくりと目蓋を上下させた。それからようやく封筒を受け取り、中に入っていた折り畳まれた紙面を取り出す。
片手で広げ、目を走らせる。そしてその視線を無言でアルベルトへ向けた。
促すような眼差しに、青年は意味ありげな笑みを深くする。それはどこか、悪巧みの共犯者へと向けるもののようで。
「僕としてもね、同じ手間を繰り返したくはないんだよ」
ことり、と。わざとらしく首を傾げてみせる。
「妻の不興を買うのは一度で済ませたいし、仕事上付き合いのある相手に弱みを ―― もとい、これ以上の迷惑をかけるのも失礼だからね」
「……それでこれを、何故私に渡す」
「妻は僕のものを、自分のものでもあると認識している。まあ、おおむね間違ってはいないよ。僕は婿養子だし、妻に差し出せるものは喜んですべて捧げようと考える程度には……彼女を愛している」
最後の一言は、噛みしめるように発音された。
視線を伏せる。その瞬間だけは、何かしらの形でずっと浮かべ続けていた笑みが、拭い去ったように消えた。
恐らくそれは、真実なのだろう。
あらゆる感情を笑顔という仮面のもとに曖昧にしてみせる彼が、そうすることを良しとしない、数少ない真情。
実際、この男は十年前、まだ婚姻が確定していなかった相手を、その身をもって救うことを選んだ。
彼女が誘拐され、監禁されたその場所へと、先陣を切って飛び込み ―― そうして、爆炎にすら怯むことなく盾になってみせた。
その場にいて、その状況を目の当たりにしていたジグだからこそ、判る。わずかでもタイミングや爆発の規模が異なっていれば、彼は本当に命を落としかねなかった。あの時に負った背の火傷は、たとえ人間種の医療技術を持ってしたとしても、完治しきってはいないだろう。
―― そうであればこそ、ジグは身を引くことを決意できたのだ。
この人物であれば、たとえどんな形であろうとも、彼女を不幸にする真似だけはしない。そう信じることができたから。
一度伏せた目を戻した青年は、再び口角を上げてみせる。
「 ―― でも、あの専属護衛は駄目だね。どう転んだところで、トラブルの種になるのは明白だ。むざむざ殺されて彼女を悲しませるだけならばまだしも、そのせいで彼女自身を危険に晒す結果にでもなったら、目も当てられない」
嫉妬に狂った他の護衛が、わざと足を引っ張った挙げ句に任務失敗。それでジグが死ぬだけならばともかく、エルニアーナ自身にわずかでも傷がついた日には、彼はことに関わった全ての獣人を容赦なく処分するだろう。
使えないどころか、持ち主に害を及ぼす道具など、百害あって一利なし。そう断じて。
その考えは、けして間違ってなどいない。ジグ自身、十年前にはそんな事態を引き起こすことを恐れ、自ら距離を置くことを望んだのだから。
しかし、と。青年は小さく頭を振る。
「僕が身元保証を担っている限り、彼女はいずれまた、連絡を取ろうとするだろうね」
今回のプロジェクトが終了すれば、シルバーとアルベルトの取引関係も終わる。
そうして『仕事』への不都合がなくなれば、エルニアーナは再度同じ行動を繰り返すはずだと、アルベルトは告げる。その段階で身元保証の期限が切れていれば良いが、なまじシルバーが優秀さを発揮したことで、プロジェクトは想定以上の速さで進む可能性もあった。
「……お前のところのセキュリティ管理は、いったいどうなっている」
シルバーもまた、ため息混じりにそう呟いた。
青年のそれは哀惜を帯びていたが、彼女のものには呆れの色しか乗っていない。
そもそも、たとえ配偶関係にあるとは言え、他者のパスコードを別人が好き勝手に使用できるという、その現状が問題なのだ。電脳の専門家であるシルバーからしてみれば、いくらプログラム面でセキュリティ強化を図ったとしても、使う者の意図的な過失には対処しようがないという認識がある。だからこそアルベルトの杜撰さを責めたのだが。
しかし青年は我が意を得たりとばかり、堂々と胸を張る。
「もちろん、妻を最優先に設定してあるさ」
当然だろう? と悪びれず告げるその態度は、どう見てもすべてを理解した上でのものだった。
「彼女はきちんと、分を弁えているからね。僕が手がけるべき仕事関係の情報には、いっさい手を触れようとしない。それは絶対に信頼できる」
アルベルトははっきりと断言する。
惚れた欲目……と言えなくもないが、それでも重ねてきた十年間があってこその、信頼でもあるのだろう。
「ただ、ね。使用人に関する情報は、僕の仕事とは関係ない。むしろそれは家庭内の ―― 女主人が管理するべき領域だ」
そんな『雑事』で、一家の主人を煩わせる訳にはいかない。そういった面で、影から夫を支えてこその良き妻であるのだ、と。
彼女は幼い頃よりそう教育され、忠実にそれを守っていると言う。
「……お前が配偶者を大切にしているというのは、良く判った」
この夫婦には、もはや何を言っても無駄だ。そんな感情が透けて見える、投げ遣りな答えが返された。
だいたいシルバーとて、リュウの生体情報で端末類のロックを解除できるようにしてあるあたり、あまり他人のことを取り沙汰できる立場ではないのだ。
そんな事情など、アルベルトが知るはずもなく。彼はそのまま先を続ける。
「だから、さ。それならいっそ、保証人を変更してしまえば良いと思ったんだよ」
「……ふむ」
「とは言え、機密の関係上、外部の人間にはおいそれと任せられない。かと言って身内の ―― 妻の親戚筋に頼んだとしても、ほとんどの相手は彼女に『お願い』をされたら、嫌とは言えない人達ばかりでね」
エルニアーナは、亡き実父を含めた親族達から、溺愛と言っていいほど大切にされている。仕事の上では汚い手を当たり前に使い、必要であれば女子供でも容赦なく利用する業界の怪物共が、彼女の前では孫に甘い好々爺のような姿しか見せようとしない。
そしてアルベルトもまたその一人であるからこそ、彼女の伴侶として受け入れられたという一面もあるのだろう。
それほどに彼らの一族は、エルニアーナを掌中の珠のごとく扱っている。
そんな彼女の望みとあらば、手持ちの獣人一匹ぐらい、いくらでも差し出すはずだった。
「だったらもういっそ、僕達とは商売的にも私的でもほとんど縁のない、赤の他人に権利を渡してしまうのが一番だと思ったんだ」
たとえ機密が漏れたとしても、それを利用する必要がないほどに縁遠い相手。そしてエルニアーナがどれほど訴えようと、情に流されることなく突っぱねてしまえる存在。
それがシルバーであるのだと。
「……利害関係ならば、存在していると思うが」
シルバーと青年は、仕事で知己を得て、これから同じプロジェクトに取り組む提携業者である。機密が漏れても困らない相手だとは言い切れない。
そう指摘されても、青年は小さく肩をすくめるだけだった。
「確かにまあ、少しはあると思うよ。でも、そもそも貴女ならば、獣人一人から得られる程度の情報ぐらい、別のルートでいくらでも入手できるだろう?」
ねえ。
意味ありげな口調で、彼はそう念を押す。
「『セルヴィエラ=アシュレイダ』?」
シルバーの瞳がわずかにすがめられた。
そしてそれに対するアルベルトの表情は、これまでで一番楽しげなそれとなっている。
「この都市の人間が、貴女やその先代を知らないとは、まったくもって本当に驚いたよ。所在も正体も不明の凄腕プログラマーに、直接顔を出せだなんて……あの社長も、ずいぶん無茶苦茶な要求を突きつけたものだ」
暴挙にもほどがあるね。
そう喉の奥でくつくつと嘲笑ってみせる。
「かの名高き〈銀の塵〉は、この都市に居住する足が不自由な女性だった。そんな情報の対価だと思えば、これぐらいは安いものさ」
誰もその正体を知らない。
どこに住んでいるのかはおろか、名前も年齢も性別も定かではない、その業界では伝説にも等しい超一流プログラマー。
〈黄金の塵〉と、その後継者たる〈銀の塵〉。
ことに〈シルバー・アッシュ〉は、その作り上げるプログラムがあまりにも正確無比なことと、電子会議におけるどこか人間味に欠けた反応から、一部では天才〈ゴールド・アッシュ〉が作り上げた人工AI ―― すなわち実在はしていない、サポートプログラムなのではとすら噂されていたという。
そんな馬鹿げた憶測すら、与太話だと一蹴できないほどにかの存在は優秀で……そしてそれ以上に、ゴールド・アッシュが突出した才能を見せつけていたのだ。
彼 ―― と、それさえも確定されてはいなかったが ―― であれば、それぐらいのことをやってのけても不思議はない。電脳関係者達の間では、そんな共通認識が今でも蔓延しているのである。
「…………」
今回のプロジェクトへ参加するに当たって、依頼者の強い要望に応じて、シルバーも表に顔を出さざるを得なかった。ただし会議にこそ参加したものの、本名や住所はいっさい公開しなかった。公にしたのはあくまで〈シルバー・アッシュ〉という、ビジネス上のHNのみである。
しかしジグの件では話が異なる。状況に応じて契約書の提示が必要なことも見越し、またこちらに後ろ暗いことなどないと示す意味も込めて、エルニアーナへは本名でコンタクトを取っていた。
彼女がプロジェクト関係者の身内だと、そう気付いた時には既に遅かったのだ。
実在の疑問視すらされていた謎の天才プログラマーと、ジグラァト=オークの雇用主である人間女性。
そんな二つの存在が、この場においてイコールで結ばれてしまった。
そしてセルヴィエラ=アシュレイダという本名と、性別に身体的特徴。このレンブルグに居住しているという情報がまとまって流出すれば、暗黙の了解を弁えぬ中途半端な『にわか』ハッカーの誰かが、彼女の正確な在所まで探り当てるのは、時間の問題だろう。
だからこそ、アルベルトは無言で告げている。
もしもそちらがジグから機密を引き出し利用するようであれば、こちらもまた相応の対応を取れるのだと。
情報には、情報を。
漏らされたくない秘密があれば、同じだけの秘密を天秤に乗せる。
それがまっとうな取り引きというものだろう? と。
「…………」
当然ではあるが、シルバーもまったく無対策で今回のプロジェクトに参加した訳ではない。
様々なフェイクを含めた撹乱情報を裏でいくつも流しているし、常日頃からセキュリティには惜しみなく技術を注ぎ込み、滅多な輩に個人情報を奪われることがないよう、対応は怠っていない。
それでも、蟻の穴から堤も崩れるという。どんな些細なリスクも、避けておきたいというのが本音であった。
長い沈黙ののち、シルバーは小さくため息を落とす。
「……ジグ、お前はどう思う」
唐突に名指しされて、交わされる会話をただ聞くしかできずにいたジグは、思わず肩を跳ねさせた。
「どう……とは」
かろうじてそう返すと、シルバーは肩越しにこちらへと視線を向けてきている。
漆黒の双眸が、いつものようにまっすぐジグを見つめていて。
「お前の身元保証人を、私に変更しようと、そういう提案だ」
その手元にある書類が、内容が見えやすいよう差し出されていた。
安っぽい合成紙には、『身元保証人変更申請書』と印刷されている。
「現在の保証人と新たな保証人、そして被保証者……この場合はお前だな。その三者全ての合意があれば、身元保証人の変更が可能となる」
「保証人の、変更」
オウム返しに口にするジグに、シルバーはなおも説明を続けた。
「個人情報にアクセスできる権限を持つ者は、現在進行形で保証人である存在に限られている。故に私に名義を書き換えたうえで、お前も住所と連絡先を変更すれば、エルニアーナ=フェセディン=シア=カタクスは新たなそれを調べることができなくなる。ほぼ確実に、縁を切れるだろう」
「それ、は」
魅力的な提案だった。
その話に同意すれば、ほとんど何の不利益も生じないまま、ジグは過去と決別することができる。
正直を言って、場合によっては今からでも、生命を奪われる可能性すら考えていた。確かにここは獣人種にも人権を認めた都市レンブルグであったが、そんなことなど何も関係がない。アルベルトが出てきた時点で、彼の手の者によって、人知れず暗殺される未来も見えていたのだ。一線を離れて久しい己一人と、今もなお現役で活動している、一級の装備を整えた部隊。そんなもの勝負にすらならない。
そしてそれが非合法な行為であろうとも、主人に命じられれば一瞬の躊躇も疑問もなく遂行する。それが部隊の役目であり、存在意義でもあった。
たとえばたった一言、この場でアルベルトがやれと口にすれば、その側に立つ男は即座に隠し持った武器をジグやシルバーへと向けるだろう。その結果として、レンブルグの当局に拘束され、極刑を言い渡されることとなろうとも。そして彼は一言も己の罪の理由を口にせず、弁明もせず、ただ主人の命に殉じたことへの誇りを抱いて死んでいくはずだ。
かつてのジグが、そうであったように ――
しかしこの話に安易に飛びついて、それで良いものなのか。
何か見落としていることはないのか。本当に不利益はないのか。
ジグは思案を巡らせる。
美味い話には、いつも何かしら裏があるものだ。本質的なことには何も気づかず、主人に命じられるまま盲目的に市民権を取らされた、あの十年前のように。
状況に流されて、ただ勢いでうなずいてはいけない。それだけは思える自分がいる。
あの頃の己と、今の自分は違う。
自分の意志で、きちんと考えて、そうして答えを出さなければならないのだと。
額に薄く汗さえ浮かべながら、ジグは今までただ傍観することしかできずにいたやり取りを、再度脳内で反芻し、その内容をひとつひとつ確認してゆく。
と、そんな彼へと、シルバーはさらに先を続けた。
「私が保証人となった場合、今度は私がお前の個人情報を握ることとなる。また、お前が問題を起こした際には、その内容に応じて切り捨てることを選択する可能性も否めん」
それは、ひどく冷たい宣告だったろう。
保証人にはなる。ただし責任は果たさない。そう断言されたも同然だった。
そもそも市民権を持った獣人種が犯罪や過失などにより損害を生じ、そしてその償いを行う能力がないと認められた場合、保証人である人間種には損害を肩代わりする義務が生じる。公的な契約である以上、それは逃れ得ぬものだ。
……しかしシルバーであれば、そのあたりでなんらかの手を打つことは可能だと考えられた。契約をなかったことにするような真似まではできずとも、ジグに賠償能力が存在すると証明するなり、あるいは既に他者へ保証を譲渡した後だと、日付を遡って偽造するなり ―― 彼女ならできるだろうと確信が持てる。
そして彼女は、けして薄情でこそなかったが、同時に博愛主義者でもあり得なかった。
もしもジグとリュウ、そしてその他の ―― アパートの他の住人達や【Katze】常連らすべての平穏とを天秤にかけた場合。効率的な手段のひとつとして、ジグを捨て駒にする道を選ぶのは、むしろ自然な流れとも考えられた。
しかし ――
それは同時に、ジグが問題を起こす可能性をもあらかじめ想定した上で、『その内容に応じて』対処していくという意味にも受け取れた。
そうだ。
ふ、と。
急に目の前が開けたかのような、そんな感覚を覚える。
同時に、全身に入っていた力が、どこか抜けた気がした。
今回の話を持ちかけた際にも、シルバーは最初に言ったではないか。『私ができる範囲内で、手を尽くす』と。
思い返せば、アンヌがルディの誕生会について相談を持ちかけた時もそうだった。
彼女はできないことはできないと、前もって必ず予防線を張る。そうしてその上で、できることに対しては、不思議なほど親身になり、文字通り可能な限りの力を尽くしてくれるのだ。
だから、さっきの発言も、きっと額面通りに受け取れば良いのだろう。
すなわち、『可能な範囲までならば、責任を持ってやる』と ――
アンヌもジグも、シルバーとは赤の他人だ。
人間種と獣人種であり、ただ彼女が購入した集合住宅の家主と複数いる住人の中の一人という、それだけの関係でしかない。
それなのに、彼女はいつでもどんな内容でも、真面目に話を聞いてくれる。
今回もわざわざ、こんな面倒な茶番に付き合ってくれた。それだけでも、返しきれないほどの借りができたというのに。
この書類に署名をしてしまえば、シルバーはジグと、この先も関わりを持ち続けることとなる。それは彼女にとって、決定的とまではゆかずとも、断じて無視し得ない柵となるはずだ。
それを、理解していない訳ではないのだろうに ――
「あとは、お前がどうしたいかだ」
こうして彼女は、決定権を己に委ねてくれる。
そこに強制はなく。それは命令でもなく。
彼女はあくまでただの雇用主として、契約を差し出してくるのだ。
ならば……
「もしも誰か、他に信頼できる人間がいるのなら……あるいは、私以外の誰かを望むならば、条件に合う存在を探すことも……」
「 ―― いや」
わずかに思案してから代替案を挙げ始めた彼女を、ジグは短く遮った。
狭いベンチに残されたわずかなスペースで、ほとんど密着するように腰を下ろしたまま。
頭を下げることはせず、ただシルバーに対して向き直り、背筋を伸ばしてまっすぐにその顔を見下ろす。
「俺は、あんたが良い。あんたの迷惑でなければ、よろしく頼む」
針のように細い瞳孔を持つ砂色の両目と、まるで赤子のそれのように奥底の見えない射干玉の双眸が、間近で互いを映し出した。
「……そうか。では後ほど役所で記入しよう」
うなずいた彼女は、広げていた書類を畳み直して封筒に戻すと、そのままジグへ差し出してきた。
せっかく一般居住区へ出てきているのだから、いったんキメラ居住区に戻って後日また出直すよりも、このまま帰りに提出していった方が手間も時間も省ける。そう判断したのだろう。それまで持っていろと言う意味だと理解し、ジグは受け取ってジャケットの内ポケットにしまい込んだ。
「近い内に、変更確認の通知が行くだろう」
「もちろん、承認と返すよ」
向き直ったシルバーに対し、やり取りを見守っていたアルベルトは満面の笑顔を返した。
今回の手続きの場合、申請する側は獣人種本人の遺伝子照合等が必要なため、実際に役所まで足を運ぶ必要がある。しかし権利を手放す側の人間に関しては、電脳上で意向を確認されるだけですむ。元の保証人が遠く離れた別の都市にいる場合も多いのだから、当然といえば当然だ。
では、と。
用事は終わったとばかりに、アルベルトがベンチから腰を浮かせた。
立ち上がろうとする彼を、しかしシルバーが片手で制する。軽く眉を上げて座り直したアルベルトの前で、シルバーは膝に置いていた携帯端末を持ち直した。
「手土産をひとつ、用意してある」
言いながら、慣れた手付きで端末を操作し、表示させた映像をアルベルトとその護衛に見えるよう向きを変える。
アルベルトは好奇心に誘われたように、護衛の獣人は周囲への警戒を怠らぬまま横目で、小さな画面へと視線をやった。
「…………ッ!?」
護衛の男が驚愕に目を見開き、一瞬遅れてアルベルトもまた、貼り付けていた笑みをはっきりと強張らせる。
位置的に画面を見ることができないジグは、いったい何が彼らをそこまで動揺させたのかと疑問に思った。その答えは、シルバーが教えてくれる。
「あの店に設置されていた、防犯カメラの映像だ。撮影時刻は昨日の15時53分22秒から16時14分38秒。昨日の襲撃の発生から、官憲が突入し制圧を終了するまでの様子が、一部欠損はあるもののおおむね確認できる」
「な ―― 」
「馬鹿な! 映像はすべて破損していたと……っ」
いったい何故そんなものを持っているのか。ジグがそう口にするよりも早く、アルベルトが声を荒げた。
反射的にだろう。その腕が動き、端末を支えるシルバーの手首を掴もうとする。それよりも早く、ジグはシルバーの上体を引き寄せ、己の身体を盾にしながら地を蹴り距離をとった。
その動きに反応して、護衛の男もまたアルベルトの前に出て身構える。腰を落として両手を軽く上げたその体勢は、攻撃にも守りにも一瞬で切り替えることができる、攻防一体のそれだ。身体のどこにどんな武器を隠しているか判らない以上、油断は禁物だ。
緊張を高めていると、背後に移動させたシルバーが平坦な声をかけてくる。
「落ち着け、ジグ。そちらの ―― ヤトと言ったな。お前もだ」
背骨のあたりを後ろから軽く叩かれ、ジグは従うべきか迷った。
相手の男の反応は、もっと顕著だった。教えてもいない名を言い当てられたことで、明らかに狼狽している。先刻までの身のこなしが嘘のように、隙だらけになっていた。
【Katze】の常連客にしてみれば、シルバーと初めて会話する際に名指しされるなど、もはや恒例行事のひとつである。今さら誰も、その程度で驚いたりはしない。しかし改めて考えると、かなり恐ろしい経験だと言えた。なにしろ目の前の相手に、いつの間にか個人情報を抜き取られているのだ。
ことに名前など記号に等しく、飼い主の都合でいくらでも変更される、首輪付きの獣人種。しかも時に組織の暗部を担う汚れ仕事をもこなす存在としては、果たしてどこまで深く情報を握られているのかと、それはもう混乱と……そして恐怖を抱かずにはいられないだろう。
歴戦の戦闘員をたった一言で抑え込んだ彼女は、改めてジグの背を押し、脇へどくよう促した。
この状態ならば大丈夫かと、ジグは半歩ほど場を譲る。ジグの身体から離れたシルバーは、かちゃりというかすかな金属音を鳴らして真っ直ぐに立ち ―― そうして再度端末を掲げてみせる。
「手土産と言っただろう。血相を変えずともデータは渡す。……不要と言うなら、それでも構わんが」
「い、いや……もらえると言うなら、確かにありがたい。とても、助かるよ。だけどそれを、いったいどうやって? 僕もあちこちに手を回してみたけれど、妨害装置のせいで当局にさえも、データの復旧は不可能だったと言われたのに……」
襲撃者の正体を探るためにも、また自分達はあくまで巻き込まれただけの被害者だと主張するにしても、あの時あの店内で何が起き、誰が何を発言して、どんな行動をとったのか、情報はあればあるほどに望ましいのだろう。主観に左右されない映像記録など、喉から手が出るほど欲しいに違いない。
もちろん当局にいろいろと ―― 合法的にも非合法的にも ―― 働きかけ、襲撃直後の現場状況などは入手してあるはずだった。少なくともジグがいた頃のカタクス商会であれば、それぐらいは呼吸をするのと同じほど自然にやってのけていた。当然、鼻薬や袖の下と言ったものも存分に活用したことだろう。
それでも、最初から存在していない情報は、どうあっても横流しのしようがない。
あの襲撃者達が妨害装置を使っていたのならば、それが作用していた間の映像は、すべてノイズで埋め尽くされていたはずだ。
なのに何故、シルバーがそれを持っているというのか。
昨日の状況を時系列順に振り返って、ジグは店を脱出してからのシルバーが、ひたすら携帯端末を操作していたのを思い出す。そして手持ちの端末だけでは処理が追いつかないと、不満を抱いていたことも。
まさかあの時点で、即座に破壊されたデータを入手し、そして映像として再生できるまでに修復してのけたと言うのか。
もしも、そうなのだとしたら ――
「は、はは……ははは……っ」
しばし呆然としたように掲げられた端末を見つめていたアルベルトは、やがて低く笑い声を漏らした。最初は小さく押さえられていたその声は、じょじょに大きくなり、やがては腹を抱えた大笑となる。
「 ―― ああ、本当に参った。僕は貴女を正当に評価しているつもりで、その実はまだ見誤っていたってことか」
汗顔の至りだね、と。
ようやく笑いの発作を抑え込んだ彼は、目尻に溜まった涙を指先で拭った。
「改めて思い知らされたよ。貴女は敵に回しちゃいけない存在だ」
あの襲撃から、まだ丸一日と経ってはいない。
だと言うのに、どんな手段を用いてかあの店の防犯カメラ情報を入手し、そして司法当局ですら不可能と言わしめたデータの復旧を、成し遂げている。
さらにはこの都市に知る者など一人もいないであろう、他都市の一企業の、その護衛の名まで把握しているのだ。
こんな化け物と敵対関係を築いた日には、とうてい無傷でなど済ませられないだろう。
もちろん、絡め手から物理的実力行使まで、手段はいくらでも存在する。しかしいざ決着がつくまでの間に、果たしてどれほどの反撃と損害を被るかと試算すれば ―― 商売人として出すべき結論など、ひとつしかないはずだ。
アルベルトはベンチから立ち上がると、身振りで護衛を下がらせる。
それから胸元に手を当て、小さくその頭を下げた。
「その情報、どうか私共にお譲りいただきたい。対価は ―― 」
口調を改めて言いかけたアルベルトへと、しかし被せるようにシルバーが口を開く。
「土産、と言っただろう」
そうして上着の胸ポケットを探り、指一本分ほどの大きさと形状の外部メモリを取り出す。
緩く山なりに放られて、獣人の男が片手で受け止めた。手のひらに収まるごくありふれた記録媒体を、複雑な目つきで見下ろす。
「言っておくが、それは映像として見られるだけで、証拠能力は何ひとつない。使い所を間違えるな」
通常の映像データに埋め込まれている、位置座標やカメラ自体の機種証明、持ち主の登記といった情報は破壊されたままだし、記録時間すら画面隅の表示で判断するしかない状態。何より入手経路が大っぴらにできない代物である以上、公的な場に出しても一笑に付されるしかない。そこを忘れるな、と。
そう念を押して、シルバーはもう興味を失ったようにジグを振り仰いだ。
「……杖を頼む」
乞われて初めて、先ほど飛び退いた時に杖を置いてきてしまったことに気がついた。黒塗りのシンプルな作りのそれは、ベンチの足元近くに転がっている。
どういう位置取りをすれば、シルバーを守備範囲に入れたまま回収しに行けるか。一瞬思案した間に、それを拾い上げる手があった。
武器を握った経験があるなどとうてい信じられない、爪の先まで丁寧に整えられた手。
特別たくましくも、さりとて細くもない。成人男性としてごくごく平均的に見える、これといった特徴を感じさせない両手が、丁重な手付きで杖を持ち直す。
そうして歩み寄ってくるアルベルトを、シルバーは片手でジグを制止することで受け入れた。
「先ほどは、とっさとは言え手荒な真似をして、失礼した」
「……悪意はなかったと判断しよう。だが、今後はもう少し気をつけることだな。相手によっては、それだけで足元を掬われるぞ」
「ああ、まったく ―― 耳が痛いよ」
アルベルトの浮かべる笑みが、どこかあきらめにも似た色を含んだような、それまでとはどことなく異なる雰囲気を宿しているように見えた。
心なしかそれは、親しみとすら呼べる空気を醸し出している気がして ――
「貴女なら、ホーフェンゲインでも立派に事業を起こせるだろうね。どうだい、今なら資金援助でも業務提携でも、諸手を挙げて相談に乗りますよ?」
冗談めいた口調で為されたその申し出は、かの都市で屈指の大商会を運営する男が口にするものとして、最上級の賛辞が込められたものだった。
差し出された杖を受け取ったシルバーは、数度地面について具合を確認する。それから顔を上げてアルベルトを見返した。
「当面この街を離れる気はないし、仮に拠点を移すとしても、ホーフェンゲインを選ぶ可能性は低いな」
きっぱりと断言する。
それから一瞬間を置いて、わずかに首を傾けた。
「 ―― が、プログラマーとしての依頼であれば、話を聞くのに吝かではない。条件次第で引き受けよう。ただ」
「ただ?」
「お前の配偶者は絶対に関わらせるな。あの認識では、機密もセキュリティもあったものではない」
普段、感情をあまり露わにしない彼女にしては珍しく、判りやすい形で不快を示していた。
確かに、家族なのだからパスワードの共有は当たり前。必要だと思った情報は利用し放題で、しかもあの様子では軽いおしゃべりの一環として、見聞きした内容を誰彼構わずあっさりと口にしかねない。
そこに悪意がまったく存在しないだけに、まったくもって手の打ちようがなかった。
あからさま過ぎるほどあからさまなシルバーの拒否反応に、アルベルトは再び先ほどまでのような、本心の伺えない ―― しかしどこまでも甘やかな微笑みを浮かべる。
「さっきも説明した通り、妻は仕事に関わることについては、いっさい手出ししないよ。すべて僕を信じて、全面的に任せてくれているからね」
「……それはそれで、どうかと思うがな」
はあ、と。
これまでで一番大きなため息をついて、そうしてシルバーは姿勢を改めた。
長い黒髪を風に流し、上質な仕立てのパンツスーツに身を包んだその姿は、杖と装具の助けを借りていてもなお、どこか見る者の目を、奪う ――
ぴんと伸ばされたその背筋が、どこまでも凛としていて、それでいてひどく自然体で。辺りを払う威厳のようなものさえ、感じさせるほどだ。
向かいに立つ青年もまた、居住まいを正した。
「とても、有意義な話し合いだったよ。貸しを作るつもりだったのに、気が付いてみればこの体たらくだ。いい勉強をさせてもらったと、感謝するべきかな?」
「……私は私の要望を通したかっただけだし、お前もお前なりの利益を確保した。それだけの話だろう」
「ああ ―― そういうことに、しておくよ」
そう言って、アルベルトは右手で杖をつくシルバーに対し、左の手を差し出した。
その手のひらを、シルバーはしばし無感動な目で眺めていた。
ややあって……アルベルトが動かないのを確認してあきらめたのか。左手に持っていた端末をポケットへとしまい込む。
向かい合って握手を交わしながら、アルベルトはあくまでシルバーの顔を見つめて、その口を開いた。
「保証人を代わってくれたのは、本当に助かったよ。何しろ僕は、あの護衛を『絶対に』戻らせたくなかったんだ」
「……随分と強調するな」
絶対にという部分にやけに力が込められていることを、シルバーが指摘した。
それに対してアルベルトはどこまでも純粋な ―― これまでで一番の笑顔を浮かべてみせる。
「だって、たとえ彼女にとっては空気みたいな存在にすぎなかろうが、それでも『特別』だなんて表現するような相手を呼び戻そうだなんて、見過ごせる訳がないだろう?」
そう告げてから手をほどき、アルベルトは笑顔のまま最後までジグの方を見ることなく、丁寧な暇乞いを告げた。そうして護衛の男とともに公園の出口へ向けて歩き始める。
遠目に見えるそちらには、見計らったかのようなタイミングで黒塗りの高級車が滑り込んできた。アルベルトと護衛の男は一瞬も足を止めることなく、別の護衛によって開かれたドアをくぐり内部へと乗り込む。
そうして走り去る車を見送ったジグは、ようやく緊張を解いて肩の力を抜くことができた。
そんな彼を見上げたシルバーは、何やらしばらく考え込む。それからもう見えなくなった車の痕跡を探すように、再び公園の出口の方へと視線をやった。
「 ―― あの男は、ずいぶんとお前を意識しているな」
「は……?」
あまりにも予想外のことを言われて、ジグは思わず間の抜けた声を出していた。
アルベルトにとっての自分など、たかが護衛の獣人種一匹。しかも十年も前にお役御免となった、過去の存在に過ぎない。そもそも使用人として仕える獣人種など、個体識別される方が珍しいほどだ。事実いまも彼は、最後まで一度たりともジグの方を見もせず、その名を口にすることさえなかったではないか。
意識どころか、個人として認識されているかどうかすら、怪しかったというのが正しいだろうに。
しかしシルバーは、己の分析に確信を持っているようだ。
「カタクス商会の婿養子といえば、一部では有名な曲者らしい。商売人としてもなかなかの手腕を持つが、それ以上に極端なまでの愛妻家として名を馳せている。なんでも妻へ害を為そうとしたという理由で、過去いくつもの組織を壊滅に追い込んだ実績があるのだとか」
そこで害を為した、ではなく『為そうとした』という動機なあたりが恐ろしい。
しかしアルベルトの過去を幾分なりと知っているジグにしてみれば、さもありなんとしか思えない。当然ながら、当時の己もまた同じ価値観を持っていたのだから、なおのことすんなり納得できる。
そんな男が、一介の獣人に過ぎないジグのことを、何かしらの形で意識に止めたというのなら ――
「俺が、彼女の害になると、判断した?」
それならば判らなくもない。
「いや、あれはむしろ……」
言いかけたシルバーは、しかし途中で言葉を切り、頭を振った。
それから再度端末を取り出し、何やら手早く操作する。
「 ―― 車を呼んだ。悪いが先に行っていてくれ」
公園の出口を視線で指し示す。
いささか距離があるそこへ、杖をついたシルバーがたどり着くよりも、タクシーが到着するほうが早いかもしれない。その場合に待たせておく必要があった。
「……ああ、判った」
腑に落ちないながらもジグは周囲に視線をやり、彼女に対して危害を及ぼしそうな存在がいないことを確認した。それからシルバーのそばを離れ、示された方向へと足を踏み出す。
今はとにかく、交渉がなんとか片付いたことを飲み込むだけで、手一杯だったのである ――
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