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 ぬえの集う街でV  ―― Love is blind.
 第五章 見せていないもの
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 美しく整えられた公園の中には、そこここに人影が見受けられた。
 一般居住区に存在する施設にしては、獣人種の数も少なくない。それは掃除や植木の剪定といった、公園そのものの手入れを生業なりわいとする者が、一定数存在しているからであろう。
 見ている間にも、かなり高齢らしき皺だらけの顔をした獣人種の老人が、ベンチ脇にあるゴミ箱の中身を回収していった。大きな袋を抱え、よろよろと危なっかしく遠ざかるその姿を、座っていた男が惰性のように見送っている。
 それは三十代前半頃とおぼしき、スーツ姿の人間ヒューマン男性であった。茶褐色の髪と瞳をした、中肉中背の ―― それなりに上質な身なりをしている他は、特にこれといって特筆するところのない人物だ。
 公園のベンチへと腰を下ろしていた彼は、視線を動かしたことでこちらの到着に気が付いたのだろう。その面差しに柔和な笑みを浮かべる。
 座ったままのその手が、軽く掲げられた。
 そちらへとゆっくりと歩み寄ってゆく、シンプルなステッキをついた、パンツスーツ姿の人間ヒューマン女性。

「……待たせたようだな」

 淡々とした、感情の色の伺えない声音で語りかけられて、男は苦笑いしながらかぶりを振った。

「いやいや、早く来てしまったのは僕の方だよ」

 ほら、と。
 公園内にある、高い場所に設置された時計を指し示す。

「 ―― ちょうど時間だ」

 その瞬間、かちりと時計の長針が動き、短い針ときれいに重なった。
 スピーカーから、正午を告げる短い曲が流れ始める。
 それが鳴り終えるのを待って、男は手のひらを自身の隣へと向けた。

「まずは座らないかい。立ったままだと辛いだろう?」

 人好きのする笑みを浮かべて、そう口にする。
 そうやって笑うと、地味と呼べるほどに目立たなかったその風貌が、大きく変化を見せた。快活な声がするりと耳に入り込んできて、何も警戒する必要などないのだと、肩に入った力を抜くよう促してくる。
 しかしそれは、けしてこの人物の本質ではない。
 シルバーの一歩後ろにつき従っていたジグは、内心で緊張を高め、いつでも動けるようひそかに準備を整えた。
 そんな様子に気が付いているのか、いないのか。
 笑顔を崩さぬまま、告げてくる男 ―― ホーフェンゲインのカタクス商会現会長にして、先代の一人娘エルニアーナ=フェセディン=シア=カタクスの夫にあたるアルベルト=カタクスへと、シルバーは色のない眼差しを向けた。それからその目は、ベンチの傍らで立っている、もう一人の人物へと移動する。
 そこにいたのは、獣人種の男だった。
 ジグはその相手のことも、油断なく観察する。
 短く刈り込まれた黒髪に、陽に焼けた肌をしていた。背はジグよりも頭ひとつほど低いが、それでも充分に鍛えられた身体つきだ。その衣服のあちこちに、わずかだが不自然な膨らみがある。何らかの武器を仕込んでいる可能性が高かった。
 どう見ても戦闘訓練を受けた ―― しかも先日の襲撃者や、エルニアーナが連れていた者達とは一線を画した実力者だ。恐らくジグと同じ、最初から要人警護を目的として製造・教育された、第一世代の規格なのだろう。
 いかついその顔面にはいくつもの古傷が走っており、奥にある鋼色の目が、鋭い光でこちらを射抜いてくる。
 と、その輝きに、ふと記憶を刺激された。それから改めて見返し ―― それが既知の人物であるのだと、ようやく思い出す。
 交わる視線に、相手もそれを察したのだろう。
 砂色の瞳で小さく目礼すると、かつてジグの同僚であったその男は、ごくごくかすかに気配を和らげたようだった。
 そんな無言の探り合いが終わるのを待っていたかのように、シルバーはベンチの背へと黒い絹手袋に包まれた指を伸ばした。アルベルトとの間に一人分の距離を空け、その腰を落ち着ける。
 それから、ジグの方へ目を向けた。

「…………」

 先日と同じ会話を、いま一度繰り返そうとする様子はない。そして大ぶりに作られたベンチは、まだかろうじてスペースが残っている。
 万が一のことを考えれば、臨機応変な対応ができるよう、立ったままでいる方が望ましかった。そもそもここには、周囲の目というものがある。ここで、いかにもそれなりに裕福だろうとうかがえる人間種ヒューマン二人と並んで座るのは、針の筵にそうするのとなんら変わりなかった。

 しかし ――

 ジグはそっとひとつ息を吸うと、シルバーを挟んだ男の反対側へ、慎重に腰を乗せた。
 黒髪の護衛が、一瞬かすかに気配を変じる。しかしそれがどういった意図に基づくものものであったのかを悟らせるより早く、彼は元通り表情を消した。
 アルベルト=カタクスはというと、そんなジグの行動などまったく気にしていないように、視線ひとつ寄越そうとしない。
 穏やかな光をたたえたその眼差しは、いつの間にか公園の中央部にある池の方へと向けられていた。ペンキだらけの作業着を着た獣人が、柵の塗装を直している。そのすぐ近くを白い羽根の水鳥がすべるように過ぎゆき、美しい波紋を広げていった。

「昨日は、妻がいろいろと迷惑をかけてしまったようだね」

 男は、そんなふうに、口火を切る ――
 人好きのする笑みをうかべたままの横顔だけが、ジグの目には映った。

「……確かに。迷惑でなかったとは、答えられんな」

 シルバーもまた、相手の方を真っ直ぐに見ることはしないでいる。いつものように、手のひらサイズの端末を何やら操作しながら、その手元へと視線を落としていた。
 遠目からは、たまたま隣り合わせになっただけの、他人同士に見えているかもしれない。
 少なくとも、その関係者とあまり後味の宜しくない交渉を繰り広げた挙げ句、理由も犯人の正体も定かでない襲撃に巻き込まれて、まだ二十四時間も経っていない人物だとは、誰も想像すらしないだろう。

 端末に指を滑らせるシルバーの言葉に、アルベルト=カタクスは口元へわずかに苦い色をいた。

「 ―― 事前に貴女が、エリィとあの店で話をすると教えてくれていたから、襲撃が生じて間もなく駆けつけることができた。おかげで無事に、彼女を救い出せたよ」

 恐らく、裏口で待ち構えていたあの伏兵達は、彼の命を受けた別の護衛らによって排除されたのだろう。
 そうして都合の悪い口は文字通り塞いだ上で、単に旅行先で事件に巻き込まれただけの、純粋な被害者を装った。それを完遂させるには、一分一秒も無駄にできない、最大限効率的な動きが必要だったに違いない。

「正直を言うと、いきなり妻に関して耳に入れたい話があると言われた時には、何事かと思ったんだ。でも、結果としてはそのおかげで迅速に事を進められた。本当に、感謝しているよ」
「私とて、まさかジグの保証人がお前で、連絡を寄越したのがその配偶者だったとは、思いもよらなかった。……世の中は狭い、ということか」

 シルバーはそう言って、小さくため息を落とす。
 アルベルト ―― ジグにとっては、かつての護衛対象であった少女の婚約者、という認識がいまだ拭いきれない ―― もまた、苦笑いと共に軽く肩をすくめる。

 昨日さくじつ
 もうそろそろ出かける準備をという頃合いになって、シルバーは最終チェックとすら呼べぬような流し見の最中、会議用資料に見覚えのある名を見つけてしまったのだという。
 それは発注元の半ば我儘とも言える要請によって、遠く他都市からわざわざ足を運んできた提携企業の会長名であった。
 そしてその他都市とは、他ならぬジグの出身都市、ホーフェンゲインで。
 そうと気付いてしまえば、同姓同名の偶然だろうと安易に流してしまう訳にもゆかず。限られた時間で急遽情報を精査し直した彼女は、やはりジグの保証人を名乗る女性 ―― エルニアーナが、自らの仕事に深く関わる企業の主と婚姻関係にあること。そしてその配偶者すなわちアルベルト=カタクスその人こそが、他ならぬジグの保証人である確証を得たのだ。
 もともと他者にさほど興味を持たないシルバーは、受注した仕事に関連する企業名はともかく、その会長のフルネームともなると、文字通り記号程度にしか認識していなかった。そのため異なるルートからもたらされた情報を、結びつけるのが遅れたらしい。
 そもそも企業の会長など、彼女がプログラムする予定のシステム部分に、関わってくるような存在ではなかった。現場に出ることもなく、上からただ漠然とした方向性を示すだけの役職など、何らかの事情で急遽代替わりした際に混乱が生じないよう予防処置を取っておく以上に、注意を払う必要など感じていなかった、と。

 過ぎた偶然……と思う程ではないのだろう。

 事情を知ってみれば、エルニアーナがまさに今このタイミングでジグへと連絡してきたのも、ちょうど夫と共に、レンブルグを訪れたことがきっかけだったのかと想像できる。
 未だ安全とも安価とも言い切れぬ都市間の移動など、そう頻繁に行われるものではない。ならば彼女がこの都市へと足を踏み入れたのは、この十年間で今回が初めてであろうから。
 そういう意味ではむしろ、ジグとシルバーの間に面識があったことの方が、はるかに確率の低い偶然だったと言える。

 そうしてシルバーは、こちらに後ろ暗いことなど何もないと示すためにも、また本来の保証人に対して不義理を働き話がこじれることを避けるためにも、事前に筋を通しておいたのだと言う。
 お前の配偶者が、現在自分が雇用している獣人種を引き抜こうとしている。そしてその獣人種の保証人はお前になっているから、事と次第によっては交渉の場に同席してもらいたい、と。
 会議が終了したのち、商社ビルを出る前に手早くこれまでの経緯を説明し、話し合いの席となるあの店の住所と約束の時間を知らせておいたらしい。

 結果として、エルニアーナとの会話で得るものがないと判断したシルバーは、交渉相手としてアルベルトを呼び出すべく端末で連絡を取った。そして本来ならば別に予定されていただろう用事をあらかじめ整理し、時間を空けていたアルベルトは、その連絡を受けてすぐあの店へと向かい ―― 襲撃の直後に到着することができたという次第である。

 無事キメラ居住区に戻ってからそれらを聞かされたジグは、そういうことはもっと早くに説明しておいてくれという思いで一杯になった。
 しかしシルバーとしても、出発直前になって明らかになった情報が多く、しかも獣人種とは言えまったく見知らぬ他人が運転するタクシー内で、うかつな内容を口にする訳にも行かなかったのだろう。
 それが理解できるだけに文句を言うこともできず、昨日のジグは非常に複雑な思いに翻弄されるしかなかったのである。

「 ―― それにしても、だ」

 シルバーはふと手を止め、端末の画面に表示されている文面を目で追った。
 ジグにも覚えのあるそれは、先日見せられた条例文のようだ。

「お前の配偶者は、市民権というものがどういったものであるのか、理解していないのか?」

 抑揚のない、淡々とした声音でそう問いかける。
 この間も説明された通り、市民権とは単純にその都市に居住する許可を指しているのではない。
 あのあとジグもまた、時間を見つけてそのあたりを調べ直してみた。十年前にはまったく意味の判らなかった難解な文章も、いまシルバーの解説を念頭に置いて何度も読み返せば、それなりに読み解くことができた。
 少なくともこのレンブルグにおける『市民権』というものは、その人物を一人の個人として法的に認め、行動や思想、財産の自由を保証する ―― まさに『人権』という言葉で総括される、そのすべてを表現する用語だった。
 そんな『市民権』を与えたのであれば、すなわちお前は自由であると告げたと同義だ。そしてその自由の中には当然、『戻らない自由』も含まれている。

 ……それでも、当時のエルニアーナが嫌がっているのに、その意向を父親が無視したというのならば。
 彼女が離したくないと願うジグを、無理矢理取り上げ、問答無用でこの都市へ送ったというのならば。
 それならばまだ、取り戻したいと望むのも ―― 共感はできないが ―― 理解できなくもなかった。
 しかし彼女は、みずからの口ではっきりと告げた。
 ジグに市民権を取らせ、レンブルグへ送ってくれと、自分で父親に頼んだのだと。

 それなのに彼女は、無邪気なまでに信じ切っている。
 十年が過ぎた今であっても、己が望めばジグは戻るのだと。
 戻らないという選択肢を持っている、そんなことすら、思いもせず ――

 シルバーが嘆息する。それを聞いたアルベルトは、水面を眺めやる目をわずかに細めた。

「……彼女は、自分の専属護衛にずいぶんと執心していたからね。もちろん、ただの護衛としてさ。でも、僕と結婚した当座なんて、幼い頃からずっといっしょだった相手がいなくなって、まるで自分の一部を失ったようだと嘆いていたよ」
「自分の一部、か。なるほど」

 シルバーは意味ありげに一度言葉を切る。

「 ―― 己の手足に個別の意思など、存在するとは思わんのだろうな」

 ジグは己の一部なのだから、己と違うことなど考えるはずがない。己が右と言えば右を見て、左と言えば左を向き、そして戻れと言えば無条件に戻ってくる。彼女にとってはそういう認識なのだろう。

「不快に思ったのなら、重ねて謝罪するよ。……ただ、ね。彼女に悪気はまったくないんだ。本当に、自分の専属護衛を大切に思っていて、ただただ帰ってきてほしいという、その一念で行動したんだ」

 アルベルトは、わずかに目を伏せる。
 苦味をたたえていた微笑みが、ふと愛おしげなそれに変化した。


「 ―― 可愛い我儘さ」


 呟きにも似たその感想に、シルバーはようやく端末から顔を上げ、横に座る男の方を向いた。
「我儘にもほどがあるだろう」
「あのどこまでも純粋な無邪気さが、エリィの一番の魅力だよ。ああ、もちろん魅力的な部分は、他にいくらでもあるけどね」
 聞きたいかい? と。
 アルベルトもまた、遠くを見つめていた眼差しを引き戻し、会話の相手へと向き直ってくる。
 なんとなくだがこの男は、諾と応じられれば嬉々として何時間でも語り続けそうな気がした。
 シルバーは当然のように最後の問いかけを黙殺し、つれないその反応に残念そうな素振りをしつつも、アルベルトはあっさりと引き下がる。
 しばしの沈黙が場に落ちた。
 ふ、と。
 口元をほころばせたアルベルトは、思わず漏れたといったそれを覆うように、片手を持ち上げる。

「……僕は一生、ああはなれない。だからこそ、いつまでも無垢なままでいて欲しいと、願いたくなるじゃないか」

 どこか楽しげな響きの交じる、独白めいた言葉。
 うつむいたその時、彼がどんな表情を浮かべていたのか。それは落ちかかる前髪と口元を覆った手のひらによって、見ることが叶わなかった。

「…………」

 ホーフェンゲインの中でも屈指の商会に外部から婿入りし、遣り手と謳われた会長の跡を継いで、さらにその商売を拡大していったという青年。その人生は、けして平穏かつ順風満帆なそれではなかったのだろう。一見すると地味で、人あたりが良いだけが取り柄の ―― 時に人畜無害にすら思わせられる彼。しかしもしも真実、彼が見た目通りの存在であったならば、今のカタクス商会の発展も ―― あるいは彼自身やその妻の生命さえ ―― なかったかもしれないのだ。
 少なくともジグはそのことを知っているし、おそらくはシルバーも概ね把握しているだろう。
 あの都市ホーフェンゲインにおける商取引とは、とても清廉潔白とか公明正大などといった御題目を唱えて、渡っていける世界ではないのだから。

 アルベルトが再び顔を上げたのと、シルバーが姿勢を変え背筋を伸ばしたのは、ほぼ同時であった。
 まるでそれまでのやりとりなど存在しなかったかのように、彼らはあっさりと会話を仕切り直す。

「私は、ジグが婚姻を機に護衛から外されたのは、一種の口封じだったと推測している。穿うがち過ぎか」

 シルバーは組んだ膝の上へと端末を伏せ、黒絹に包まれた指で押さえるように手を組み合わせた。
 ベンチの背凭れを使うことなく、上体を起こした彼女へと、アルベルトはどこか癖のある笑みを浮かべて見せる。
 笑顔の種類バリエーションが多いことだ。ジグは内心でそう思った。
 あるいは彼は、あらゆる感情のすべてを、『笑み』と分類される表情で現出させているのかもしれない。それもまた、彼が持つ商売人としての武装のひとつなのだろう。

「間違ってはいないね」

 返答はあっさりとした肯定であった。

「エリィの専属護衛は、あまりにも長期間、同じ任務を続けすぎた。本来ならばある程度ローテーションを組んで、一定期間で部署を移動させる。ひとつのことに深く関わらせないようにするのが、組織を安全に運営していく上で、重要なポイントなんだけど……」

 アルベルトの言葉の先を、シルバーが先回りして読み取る。

「彼女がそれを、拒んだと?」
「そう」

 こっくりと、大仰にも見える動きで彼はうなずいた。
「いったい何を気に入ったのか、彼でなければ嫌だと言い張ってね。他の護衛を一切受け入れようとしなかった。だから専属の彼は、他の護衛達と交流することさえ、ほとんどなかったらしい」
 なにしろ一日中、エリィとべったりいっしょだったそうだからね、と。
 婚約が成立する以前のことは、あくまで情報としてしか知らないのだろう。伝聞系で語りながら、傍らに控える黒髪の獣人をわずかに振り返る。幾筋も走る傷跡を除いても、充分に凄みのある顔つきをした男は、無言でわずかに頷いてみせた。
 この男はもともとカタクス家の所属で、アルベルトが実家から連れてきた存在ではなかった。そういう意味では、ジグと同様に夫妻の護衛から外されているのが道理である。しかし ――
 男の反応に満足したように、アルベルトは再びシルバーの方へと目を戻した。
「……それでも、当時はまだ、外出時などにチーム行動をとることもあったからね。そこそこのコミニュケーションは取れていたようだよ。だが、彼だけが知る事柄は多かったし……護衛が知るべきではない情報にも、数多く触れてしまっていた」
 そう言って、人差し指を立ててみせる。

「だから、ね」

 あっさりと軽く振られる指先。
「仮にあのまま彼女の専任から外れていたとしても、そんな存在をそのままチーム内へ戻す訳にはいかなかったってことさ」
「 ―― しかし、内情を知りすぎたジグを他の部署へ回すことも、あるいは別の持ち主へ譲ることも不可能だった」
 シルバーの言葉に、アルベルトは破顔する。
 一癖も二癖もある、どこまでも果てしなく胡散臭い笑顔だ。

 ジグほど一個人の護衛に特化していなかったことで、いま控える男を含めた他の護衛達は、アルベルトが使っていた人員と統合、再編成され、様々な部署に分散配置されたのだろう。そうして一定期間で異動を繰り返すという、システム内に組み込まれていった。
 そして当時から仲間内でも特に優秀と見做されていたこの男は、現在、会長を一人で守るという重責にあるらしい。仲間達の誰も ―― 昨日さくじつエルニアーナを守っていた数名でさえ ―― その抜擢に不服など唱えないはずだ。
 それほどまでに、その力量差は歴然としている。
 ……けれどそんな彼も、ある程度の期間が経てば、アルベルトの専属からは外されるのだ。
 何故なら、

「彼女が、どこかの市民権を与えたいと言い出してくれた時は、正直ほっとしたよ。僕としても、後から恨まれるのは避けたかったからね」

 そう語るアルベルトの口調は、どこまでも穏やかかつ軽妙だ。まるでちょっとした悪戯いたずらを見咎められたくないと、そんな程度のことを告げている重さしかない。
 余計なことを知りすぎた道具は、処分するのが当然のこと。そんな当たり前の行為に、余計な手間をかける面倒も、後日妻の機嫌を損ねるリスクも減ってくれて、実に一石二鳥だった、と。
 そんなふうに言われても、別に今さら驚きなどしない。
 むしろ殺処分するのではなく放逐という、ひどく甘い命令を言い渡されたあの当時の方が、よほど困惑した記憶があった。
 商売に対しては苛烈なほどに厳しくありながら、愛娘に対してはひどく甘かった、当時の会長エキノマスタ=ホールバレッド=カタクス。彼もまた、お気に入りの護衛をその手で殺したと知られることで、娘から批難される未来をできるだけ遠ざけたかったらしい。そう理解するまでには、何年もかかったものだ。

「……部外者の私ですら、推測できることを」

 シルバーの呟きは、もはや呆れすらも通り過ぎてしまったようだ。いつも以上に抑揚を欠いたその口調は、もはや情報を確認するという、義務感のみで発せられているように感じられる。
「そもそも、ジグが働いていたとは思わなかったと言うが。ならば、どうやって生きる糧を得ていたと思っているんだ」
 働かなければ、報酬は得られない。それは人間も獣人種も同じことだ。
 その中でも特に、いきなり首輪を外され『自由』という耳障りの良い名目の元、後ろ盾もなく見知らぬ土地へ放り出された獣人種達は、よほどの幸運が重ならない限り、まともな職にありつけることなど滅多になかった。
 ジグはその恵まれた体格と突出した戦闘能力、そして第一世代にしては珍しいほどの教養を持っていたおかげで、なんとかやっていけたに過ぎない。しかしそれさえも、いくつもの偶然と良い巡り合わせが噛み合わなければ、叶わなかったはずで。
「さあ、どうだろうね」
 アルベルトはそんな事情も、きちんと理解していたのだろう。
 ひたすらに笑顔のまま、何でもないことのように彼は続ける。
「なにしろ彼女は、生きるために働くということを、したことがないからね」
 食べるものも、着るものも、心地よい住まいも、彼女にとっては望めば ―― いや、望もうとすら考える前に、すべて周囲から与えられるものであった。ごく当たり前に存在しているそれらが、なにがしかの代償と引き換えにそこにあるのだと、想像すらしていないはずだ。
 だから彼女は、獣人種が人間と同様に暮らせるという都市に行けば、自分と同じように過ごせるのだと思ったのだろう。
 好きなものを好きな時に食べ、好きな服を着て好きな場所で、あくせく働くこともなく、『自由』にゆっくりと身を休めることができる。
 そんな、彼女にとってはごくごく当たり前の ―― 夢のような暮らしができるのだと。
 彼女の父親は当然、その無邪気かつ無知な考えに気が付いており、それらを充分承知した上で願いを了承した。彼女の意向をただ受け入れさえすれば、そのまま邪魔な道具が見知らぬ場所で、勝手に野垂れ死んでくれるからと、そう確信して。
 そして同じ結論に達していたはずのアルベルトは、シルバーを挟んだ向こう側で、ただただ微笑んでいる。
 その内心で、何を考えているのかは覗い知れない。だが細められた目蓋の奥で、褐色の瞳が冷えきっていることだけは、ひりつくほどに感じられた。

「…………」

 ジグにとっては嫌な汗が背筋を伝うほどの視線を、しかしシルバーは軽く肩をすくめただけで振り払った。

「まあ、それはもう良い」

 淡々とした声音が、緊張した空気をあっさりと霧散させる。
「とにかく、ジグは現在、戻ることを望んでいない。そもそも戻ったところで、ほとんど面識もない現在の護衛達と、協力して行動するのは不可能だろう」
 そうだな、と水を向けられて、ジグはいつの間にか詰めていた息を吐き出した。額に滲んでいた汗を無意識に拭ってしまい、はっと我に返る。
「ジグ?」
「あ……ああ……」
 重ねて問いかけられて、ようやくジグは答えを返すことができた。
 もう二度と、あの都市ホーフェンゲインへも、あの女性ひとの元へも、戻るつもりはない。はっきりとした意思を込めて、もう一度改めてうなずいて見せる。
 それを受けて向き直ったシルバーへと、アルベルトは首肯した。
「うん、僕もそう思うな。互いに協力するどころか、むしろ主人の寵を奪った『生意気』な『新入り』として、裏で陰湿な集中攻撃を受けるのが目に見えるようだ」
 軽くその膝を叩き、青年はどこまでも楽しげにわらう。


「 ―― 多頭飼いの、難しいところさ」


 目尻の垂れた、柔和な印象を与えるその瞳は、まっすぐにシルバーへと向けられていて。その隣に座すジグなどまるで存在しないかのように、一瞥すら向けてはこない。

「ある程度ならば、寛容に接しても構わない。それは信頼関係を構築する上でも大切なことだ。けれど主人が特定の個体を無闇に特別扱いすれば、他からの嫉妬が向くのは当然だ。その個体が、『群れ』の上位者として実力を示し、その立場を自力で勝ち取っていれば、また話は別だけれどね」

 一度言葉を切った彼は、きっぱりと結論を告げる。

「しかし十年も任を離れていた専属護衛には、もはやその『実績』が、ない」

 ただでさえ、序列争いにほとんど参加していなかった上に、十年が経った今では、当時の彼を知っている者さえ残り少ない。そんな場所へいきなりやってきたところで、群れの一員として認められるはずもない、と。
 くすくすと含み笑いを交えながら語るその口調は、どこまでも『道具』についてを論評するものでしかなく。

「……では、今回の話はなかったということで構わないな」

 シルバーの口調もまた淡々とした、どこまでも事務的なものであった。

「そうだね」

 返答はあっさりと告げられた。

「彼女には僕から説明しておくよ。妻は確かに天真爛漫なところが魅力だけれど、会長夫人としての責務は、むしろ過ぎるほどにわきまえているからね。仕事に関わる相手の不興を買って、商売に支障をきたすような真似など絶対にしない。貴女が今回のプロジェクトで重要な役割を担っている、替えの効かない優秀な技術者だと告げれば、それで納得してくれるさ」
「ならばそちらは任せる。それから世辞は不要だ。私の替えなど、いくらでもいる」
「は、まさか!」
 心外だと大きく顔に書いて、アルフレッドは芝居がかった仕草で両手を広げてみせた。
「昨日の会議で提示されたアイディアには、まさに度肝を抜かれっぱなしだったよ。画期的で、斬新で、それでいて恐ろしいほどに効率化されている ―― 期待以上どころか、想像の斜め上を行くというのは、まさにああいうのを言うんだろうね」
「……あれはまだ、素案とすら呼べん。ただの落書きレベルのイメージフローだ」
「いやいやいや。具体的な数値どころか、どの企業が何を担当するのかすらろくに決まっていない今の段階で、あれほどのものを作成してくるんだ。今でこれなら、この次はどうなるんだろうって、柄にもなく心が踊らされたよ!」
 声を高くするアルベルトの物言いは、しかし本心なのか定かではない。
 表情を偽ることも、複数の舌を使い分けることも容易くしてのけるのがこの男だ。シルバーのように、社交辞令の一種と受け取っておくのが正解なのだろう。
「いやあ、あの資料を見た連中の、手のひらの返しっぷりときたら……っ」
 シルバーに依頼を出した、いわば雇い主となるあの商社ビルの担当者などは、まだ計画の初期も初期と言った段階でいきなり披露された高い完成度の資料に、言葉も出ないと言った体たらくだったという。それまでは、礼儀知らずの小娘風情がと軽んじている表情を隠そうともしなかったのが、泡を食って態度を改めた様子は、実に見ものだった、と。
 声を上げて笑うアルベルトの様子は、心の底から楽しんでいるようにしか見えない。
 しかしそれも、果たしてどこまでが真実で、どこまでが見せかけフェイクなのか。

 そうしてそのまま、仕事に関係するいくつかのやり取りが交わされ、場の話題は雑談に近いものに変わっていった。

「…………」

 もはやジグの存在など関係ないと言わんばかりのそのやり取りに、物思うことはいくらでもあった。
 話し合いはあまりにもあっさりと終わり、ジグはこのままレンブルグで変わらぬ生活を続けられることが決定した。それは喜んで良いはずだ。
 それでも ―― 己の人生は、こんなにも簡単に他者の手で左右されてしまうものなのか、と。
 エルニアーナからの連絡で、あれほどまでに心乱されたこの数日は、いったい何であったというのか。
 ひそかに拳を握りしめるジグの内心など、すぐそこで向き合う人間ヒューマンふたりが知る由もない。
 それでも、もうすぐ話は終わる。それでこの場を離れ、またいつもの日常へと戻ることができる。
 そう思うことで平静を保とうとするジグだったが、しかしアルベルトは思い出したようにその口を開いた。

「 ―― そうそう、ひとつ提案があるんだよ」

 言いながら彼は、傍らに立つ護衛の男へと、片方の手を差し伸べていた。


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