<<Back  List  Next>>
 ぬえの集う街でV  ―― Love is blind.
 プロローグ
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 血溜まりにいくつもの死体が転がり、異臭と煙の充満する凄惨な港湾倉庫から手際よく連れ出された彼女は、側付きの者達に囲まれて、手厚い世話を受けていた。
 ようやく少女の域を脱したばかりの、吹く風にも折れるのではないかという印象を与える華奢な肢体を、幾重にも上質な毛布で包まれている。その姿は、いつもにもまして庇護欲をそそる、儚くもたおやかな雰囲気を漂わせていた。
 それもそのはずだ。商売敵となる組織に誘拐されて、半日余り。幸いにも無体な扱いは受けていなかったようだが、それでも大切に育てられてきた深窓の令嬢には、さぞ過酷な時間だったことだろう。
 憔悴した彼女の手を取るようにして、傍らに一人の青年が寄り添っていた。
 安心させるように穏やかな微笑みを向け、ゆっくりとした柔らかい声音で語りかけている。その佇まいは、つい先刻まで突入部隊を率い、さながら悪鬼か羅刹のごとく立ち塞がる全てを容赦なく薙ぎ払っていた、修羅の面影など微塵も伺わせていない。

「 ―――― 」

 青年の方へ顔を向けた彼女は、やつれた面差しにようやくほのかな笑みを浮かべた。
 それを受けた青年は、弾けるような満面の喜色を返す。それによって、彼女を包んでいた固い空気が、ゆるゆるとほどけてゆくのが判った。真っ白だった顔色にも、わずかずつだが血の気が戻り始めている。
 そんな二人の様子は、遠く離れた場所から眺めていても、はっきり見て取ることができて。

 救出したばかりの相手を、闇雲に刺激しないよう配慮したのだろう。青年はそれまで身に着けていた装備を全て外し、毛布を一枚だけ肩から羽織っている。
 その下には、最後の爆発から彼女をかばった際の、焼けただれた背中が隠されていた。共に戦っていた者達はみな、それを知っている。
 簡単な応急処置を施されただけの火傷は、まだかなり痛むはずだ。むしろショック症状からの血圧低下で、そのまま意識を失ってもおかしくない。それほどの重傷だったのだ。
 しかしあの青年は、そんなことなどおくびにも出さず、ただひたすらに、救出した相手を元気づける。そのことだけに傾注している。

 ―― あの男で、あれば。

 自身も負った、いくつもの怪我を確認しながら、そんなふうに思った。

 ―― きっと彼女は、幸せになれるだろう。

 親同士によって定められた、政略の色ばかりが前に出た婚約の申し出。
 ろくに人となりすら知らない、数度顔を合わせたことがあるだけの相手とのそれに、彼女は幾度か不安を匂わせる言葉を漏らしていた。
 しかし今の二人を見る者がいれば ―― 誰もが口を揃えてお似合いだと、そう評するはずだ。
 少なくともあの青年は、彼女のため危険に身を投じることも厭わず、それどころかその身を賭すほどの覚悟を持っているのだと、証明してみせた。
 そして彼女もまた、そんな青年に対して、心を開き始めている。
 もうなにも、心配することなどないのだろう。
 ……少なくとも、こんな地位も力も……それどころか、そもそもそんな権利すら持っていない、ただの道具ごときが、『心配』などとおこがましい想いを抱く必要など、どこにもありはしない。
 むしろ……もはや仕えるべき相手に対する忠義すらあやふやになっている、こんな壊れかけの不良品など、さっさといなくなってしまったほうが、彼女にとっても良いはずだ。
 そう。まだわずかでも理性が残っている、今のうちに……あの青年に、大それた感情を抱いてしまうような……そんな馬鹿げたことを、始めてしまう、その前に。

 ―― それが自分にできる、最後の務めなのだろう。

 たとえその先にあるのが、己の存在そのものを、この世から永遠に消し去られる未来なのだろうと。そう、理解していても。
 それを喜んで受け入れることができる、今のうちに……

 そんなふうに思いながら、二人から視線をそらし、針のような瞳をさらに細めて、払暁の空を振り仰ぐ。
 今日も白くけむっている天蓋は、心なしかいつもよりぼやけて、遠く滲んでいるように感じられた。


<<Back  List  Next>>



本を閉じる

Copyright (C) 2020 Makoto.Kanzaki, All rights reserved.