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 ぬえの集う街でIV  ―― Chicken or the egg.
 第二章 調理の理由
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 ペントハウスの広いダイニングを大きな歩幅で突っ切って、ルイーザはキッチンの入り口へと仁王立ちになった。

「ちょっと、リュウ!」

 紙袋を持っていない方の手でキッチン内を指差し、叱りつけるように声を上げる。

「いくら薬で熱が下がったからって、無理しないで寝てな、きゃ……?」

 しかしその言葉は途中で尻すぼみになり、突きつけた指も力を失って、中途半端に下を向いてしまう。
 驚愕の表情で言葉を失った彼女に、ゴウマとアヒムはどうしたのかと訝しんだ。鍋の中身をこぼさないよう気を遣いながらアヒムが上がり込み、ルイーザの横からキッチンを覗き込む。そしてファッ!? と素っ頓狂な声を発した。

「お、おおお、オーナー……っ!?」

 ひっくり返った声を上げる彼に、ゴウマはとっさに意味を理解できず、ルイーザを挟んだ反対側から同じように内部を確認する。

 最初に認識できたのは、予想していたよりもはるかに細い後ろ姿だった。
 長い黒髪を大ぶりのピン ―― 『カンザシ』といったか ―― で後頭部にまとめあげ、シャツの袖を前腕の半ばまでまくりあげている。その袖口から、かつての夜、獣人種の男に切りつけられた時の傷跡が、引き攣れて残っているのが痛々しく覗いて見えた。そして包丁を握った手の先では、緑色の何かが細かく刻まれていて。
 とん、と小さな音を最後に手を止めると、その人物は上半身を捻るようにして振り返った。
 細い首が、不思議そうに傾けられる。

「……リューなら、部屋で横になっているが」

 包丁をまな板へ置き、傍らにあった布巾で手を拭う。それからさらにその脇に立ててある、ノートサイズの携帯端末へと指を伸ばした。
 あまり大きいとは言えないその画面は、さらにいくつかに分割されていて、一部には防犯カメラからの映像と思しき、玄関先の様子が映っている。それからベッドへ横になった状態で、本らしきものを開いているリュウの姿。そして文章とともに写真も表示されている部分は……もしや料理のレシピだろうか。
 携帯端末の次には、左の耳へと手をやる。そこには無線式ワイヤレスの小さなヘッドセットが装着されていた。口元まで小さなマイクが伸びており、先程のインターホンでのやり取りやドアの解錠は、この場からそれらを使用して行っていたのだろうことが伺える。
 慣れた手付きでヘッドセットを操作した彼女は、何かを確認したのか、はっきりと一度うなずく。
「きちんと休んでいるようだ」
 そうして、今度は逆の方へと首を傾げた。
「無理は、していないと思う。……何か、問題があっただろうか」
 調理台についた手で反動をつけ、上体を大きく揺らすような動きで彼女 ―― シルバーは、三人の方へと身体全体を向き直らせた。
 その動作に伴い、カチャカチャと金属の触れ合う響きが生じる。

「え? えっと……いや、その……」

 なんというか、目の前の光景が予想の外にあり過ぎて。とっさに処理しきれなかったアヒムは目を白黒させつつ、意味のない声を発していた。ゴウマも似たような状態で、まともに反応することができないでいる。
 いち早く立ち直ったのは、ここでもルイーザであった。
「あの、オーナーって……料理、できた、の?」
 緑色のもの ―― どうやら細身のネギのようだ ―― を刻んでいたまな板の他にも、小さな片手鍋があり、加熱調理器の上へ乗せられている。恐る恐るキッチンへ入り中を覗き込んでみれば、弱火でくつくつと煮込まれているのは、白い米粒ライスだった。ところどころに混じっている薄茶色のものは、鶏ひき肉だろうか。
 湯気とともに漂う、ほのかな胡麻油の香り。
「栄養摂取に、支障がない程度だが」
 言いながら、彼女は一歩、二歩と流しの方へ移動する。
 そこには、深めの器が二つ用意されていた。その片方に入っていた生卵を危なげなく割り、殼をシンク内のゴミ捨てへと落とす。指に付着したわずかな白身を洗い流してから、調理台の上を滑らせるようにして、先に器を移動させた。そうしてまたゆっくりと、足元を確認するような動きで鍋の近くまで戻ってくる。
 かなり不自然なその歩き方に、一同の視線が集中した。
 よく見れば、左足を両側から挟むように、スラックスの上から金属製の平たい棒が装着されていた。大腿から膝関節、踵のあたりまで、何箇所も太いベルトで巻くようにして固定している。先程からの金属音は、そこから発生していたのだ。
 それを目にして初めて、彼らはシルバーがいつもの杖を使っていないことに気がついた。
「オーナー、その、足……」
「 ―― ああ」
 彼女もまた、三人に倣うよう己の左足へと視線を落とす。
「歩行を補助する、装具だ。あまり使いたくは、ないが……さすがにここでは、両手を空けていないと危険だからな」
 厨房には刃物があるし、今は沸騰した鍋もある。片手で作業するのは危ないし、下手に転びでもすれば、洒落にならない怪我をする可能性も高かった。嫌だなどとは言っていられないだろう、と。
 ため息をひとつ落として、鍋を数度かき混ぜる。そしてそのまま玉杓子を持ち上げ、口元へ運んだ。
「……まだ芯があるな」
 小さく呟き、つまみを動かして加熱温度を調整する。
 それから顔を上げ、三人の方を振り返った。
「部屋の場所は、判っているだろう。食事はもうしばらく掛かると、リューに伝えてくれ」
「わ、判った」
 いろいろと口にしたいことはあるのだが、もはや言われた通りにうなずくしかできなかったゴウマは、そのまま回れ右しようとし ―― そこで持っていた荷物を戸口にぶつけてしまう。
「あ、そうだ。これ……」
 両手のバッグを持ち上げた彼に、シルバーは訝しげな表情を浮かべた。アヒムもそれでようやく、手の中にある鍋の存在を思い出す。奇跡的に斜めになっていなかったおかげで、中のスープも下の床も、どうにか無事であった。
「女将さんから、二人分のメシと、あと保冷剤とか必要そうなもの。メシの方は、温めるだけで良いようにしてあるからって……言って、たんだ、けど」
 両手で持った鍋と、いままさに加熱調理器の上で煮込まれている最中の、実に旨そうな匂いを放つ鶏粥とを見比べる。その言葉が尻すぼみになっていった。
 困惑した表情になるアヒムへと、しかしシルバーは真顔でうなずいてみせる。
「それは、とてもありがたい。だが、店の方が忙しいのだろう? 大丈夫なのか」
「あ、うん。そっちは客の方も協力して、なんとかやってるんで。全然大丈夫ッスよ」
「ええ、その通りよ。だから店のことは気にしないで、リュウがきちんと治るまで、ゆっくり休ませてあげて欲しいの」
 ルイーザも言葉を添えて、念を押す。
 と、しばし無言で目を伏せていたシルバーは、やがて小さくその頭を下げた。
「……迷惑をかける」
「い、いやいやいやッッッ!!」
 三人は半ば条件反射で、激しく首を左右に振った。
 人間種ヒューマンで、しかもその物言いは時としてひどく傲慢にさえ聞こえるのに ―― それでも時としてこうやって、不器用ながらも率直に謝意を伝えてくる。これだからこの人との会話は、普通とはまた逆の意味で、心臓に悪いのだ。
 そもそも、自分の落ち度ではなく同居人の、それも獣人種のために頭を下げてくるのだから、本当にこの人は規格外のヒューマンなのだと、改めてそう実感する。

「ええと、その、じゃあこの鍋は、ここんとこに乗せとけばいッスかね!?」

 もはや混乱のあまり、どうでもいいから全部有耶無耶うやむやにしてしまえとばかりに、アヒムが空いている加熱調理器へと鍋を置いた。
 ペントハウスのキッチンは、もともとがホームパーティーなどを想定されていた設備である。加熱調理器だけでも、同時に四つは鍋を乗せることができた。ついでに言えば流しもゆったりとしていて、さらに調理台の他にも作業スペースとして使える大きなテーブルが、部屋の中央に設置されている。たとえ大人が四、五人いても、余裕をもって立ち働くことが可能な広さであった。おまけに自動調理器とはまた別に、大型のオーブンと食器洗浄機まで置かれている。
 ……この立派なキッチンが、リュウと同居を再開するまでろくに利用も掃除もされないまま、埃を被って放置されていたと言うのだから、宝の持ち腐れとはまさにこのことだろう。
「ああ、そこで構わない。冷却が必要なものは、そちらへ入れてくれるか」
 部屋の隅にある、かなり大型の冷蔵庫を指し示される。二人暮らしでは持て余しそうなほどの大きさだったが、これも最初から備え付けられていた、備品のひとつらしい。
 言われるままに持ってきた荷物を片付けた三人は、ひとまず清涼飲料のボトルと保冷剤だけを手に、どこかおぼつかない足取りでキッチンを後にしたのだった。


§   §   §


 玄関からもっとも遠く ―― そしてもっとも日当たりと風通しの良い、角部屋。
 このペントハウス内でも一番居住性の高いそこが、リュウの私室として割り当てられていた。
 本人達いわく、洗濯物を干す屋上を見渡すことができるし、また足の不自由なシルバーは、共用スペースに近い側の部屋を使うのが合理的だからと言うのが、その配置の理由らしい。
 しかしいくら部屋数に余裕があるとは言え、家主の人間ヒューマンとその被雇用者と称する獣人種キメラが、ほぼ同等 ―― というより、獣人種のほうがむしろ上 ―― な部屋に住んでいる状況は、どうにも違和感を覚えるというか、居心地が悪いというか。
 事前知識のあったゴウマとアヒムはともかく、やはり初めてその事実を目の当たりしたルイーザは、嘆息混じりに小さくかぶりを振っていた
 愛されてるわねえ、と。ついそう口にしかけ、なんとか思い留まる。そうして彼女は、パジャマ姿で起き上がろうとしているリュウを、身振りで押しとどめた。

「 ―― 調子はどう?」

 制止されたにも関わらず、ベッドに座る姿勢となったリュウは、穏やかな笑みを浮かべて応じる。
「熱はだいぶ下がりました。身体も楽になったので、もう充分に働けるのですが……」
 読んでいた本に金属製の栞を挟み、サイドボードへと置く。
「だから、薬で熱が下がっても、それで完治したって訳じゃないんだから。ちゃんと大人しくしてなさいよ」
 ルイーザは、今日何度目かになる注意を、ようやく目的の相手に向かって言い聞かせることができた。
「……ってか、お前やっぱしんどかったんじゃねえか」
 店ではまったく問題なさげに振る舞っていたリュウだったが、ここで楽になったと言うからには、やはり辛さを押し隠していたのだろう。
 なんでそう意地を張るかなあと呆れているアヒムは、それがかつての生活で叩き込まれた、防衛本能とすら呼べる域に達した自己保身であるのだと、思い及びもしない。
 たとえほんのわずかでも不調を見せれば、より飼い主の嗜虐心を煽るか、あるいは即座に廃棄処分とされかねない。そんな毎日が当たり前であった、『首輪付き』の中でも最も過酷な扱いを受けてきた存在。そんな彼らが、少しでも平穏に、少しでも長く生き延びようとするための、それは文字通り身を削ってでも行う習い性なのだ、と ――
 ただ静かに、柔らかな笑みを浮かべたリュウは、わざわざ見舞いに訪れてくれた三人へと頭を下げる。
「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません。店の方は、どうなっていますか」
 シルバーと同じ内容を質問する彼に、一同はつい苦笑いする。
「品数は減らしてるが、みんなで協力して、なんとか回してるよ。お前は気にしねえで、しっかり休みな。治りきらねえうちに出てこられても、かえって迷惑だからよ」
 この男には、こういう表現をした方が効果的だろう。そう判断したゴウマは、ことさら豪快に言い放つ。
 そして持ち込んだ飲み物などを置くべく、サイドボードの上へと目をやった。
「ん……?」
 そこには既に、トレイに伏せたコップとガラス製の水差し、濡らして絞ったタオルに、手帳サイズの小型端末が用意されていた。さらに視線を動かしてみれば、先程までリュウが頭を乗せていた枕の上に、タオルを巻いた大きめの保冷剤まで存在している。
 よくよく観察してみれば、身につけている綿のパジャマにも皺などほとんどついておらず、着替えてからそう時間は経っていないようだった。少なくとも、昨日から着たきりで、汗をかいてそのままといった様子には見受けられない。
「えー……と、これは」
 困惑した声を上げるゴウマに、リュウはああと説明する。
「何かあったら、それで知らせろと」
 言いながら手を伸ばし、立てかけた状態で充電器に置かれている、端末の角度を微調整する。どうやらその端末がカメラ代わりとなって、台所のシルバーへと映像を届けているらしい。すぐ手が届く距離に置いてあるのは、不都合があれば簡単に向きを変えたり、あるいは助けを呼ぶことができるよう配慮したからか。
 いや、質問したいのはそこ……というか、そこだけではないのだが。
 先程のキッチンでの様子といい、いろいろと突っ込みどころがありすぎて、一同はまったく思考が追いつかないでいる。

「なんつうか、その……料理とか、病人の世話とか……できたんだな、オーナー」

 予想に反して、まったく手出しする余地がないほど行き届いている手配りに、もはやそう評することしかできなかった。
 こう言ってはなんだが、シルバーはどうも生活感がないというか、家事や炊事といった日常生活に密着した分野において、まったく適性を持っていない印象がある。そもそもの興味がないから、知識も経験もない。だからこそリュウがハウスキーパーとして役立っているのだし、彼が行方不明になっていた間の生活が、ひどいことになっていたのだと。みな、そう思い込んでいたのだが。
 しかしリュウはと言うと、そう評されること自体が不可解なようで、目をしばたたかせている。

「……それはもちろん、ひと通りきちんとこなされますよ。そもそも、私に家事の基本を教えて下さったのは、あの人なんですから」

「は……あ!?」

 あまりにも意外すぎるその言葉に、期せずして三人の声が重なった。


§   §   §


 鍋の状態を時おり横目で確認しながら、シルバーは使い終えた包丁やまな板などを軽く水で流していた。そうして大まかな汚れを落としてから、食器洗浄機に収めてゆく。身動きをするたびに、足元から耳障りな金属音が聞こえてきたが、それは意識して耳に入れないようにし、黙々と作業を続ける。
 ちらりと視線を向けた端末には、リュウの寝室を訪れた三人の姿が映り込んでいる。音声は切ってあるので、会話の内容までは聞こえてこない。特段、険悪な様子でもないようだし、向こうからの呼び出しがあるか、センサーに異常が感知されない限り、放置しておいて問題ないだろう。

「…………」

 手押しワゴンを用意し、ドクター・フェイから処方された飲み薬と、粥を盛るための器とカトラリーを乗せる。
 来客用の茶は、粥と共に運ぶこととして、ひとまず人数分のグラスを並べた。実際に中身を注ぐのは、粥が完成してからの方が良いはずだ。
 現在できることをやり終えてから、再び鍋の中身をチェックする。
 まだもう少し、時間がかかりそうだ。
 そう判断した彼女は、作業台に寄り掛かる姿勢になって、しばらく待つこととする。

 ―― こうやって、調理を行うのは久しぶりだ。

 使い慣れぬ厨房内を眺めながら、そんなふうに考えた。
 少なくとも、このペントハウスに入居してからは、一度も料理など作っていなかった。
 リュウの記憶が戻る以前に、何度か飲み物を淹れてみたことはある。しかしそれも、本当に数回のことで。ドクターの差配により【Katze】へデリバリーを頼めるようになったおかげで、まったく必要がなくなってしまった。
 そのため、リュウが戻ってきた頃にはすっかり埃を被っていた設備を見て、彼はため息をついていたものだ。

 ―― それも、進歩と言えるのだろうが。

 ふ、と。
 口唇から漏れた小さな吐息は、あるいは笑みと呼べるものだったかもしれない。
 最初に顔を合わせた頃の彼は、たとえ荒れた厨房を目にしたところで、何も感じはしなかったはずだ。それは、確信を持って言える。

 視線を伏せれば、耳の奥に蘇る、初めてまともに交わした会話 ―― とも言い難い、ひどく行き違ったやりとり。

『 ―― 何をしている』
『…………』
『使っていい部屋は伝えたし、食事も冷蔵庫の中身を好きにしろと言った。そんなところで転がっていられては、邪魔だ』
『…………』
『 ―― 脱水症状を起こしているな。なぜ何も口にしていない。死にたいのか』
『………………い』
『何だ』
『……な……い……』

 しばらくかかりきりになっていた急ぎの仕事を終え、数日ぶりに部屋を出た、あの時。
 廊下の隅で、長身を小さく丸めるようにして倒れていた姿を見つけた。
 もしもあと何日か、気付くのが遅れていたならば。
 その時にはきっと、取り返しのつかない事態になっていたはずで ――


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