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 ぬえの集う街で  閑話 ... All's right with the world.
 後編
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 暑さが厳しくなり始めていたが、それだけに風を切って走るのは気持ちが良かった。
 愛用の自動二輪にまたがったスイは、鼻歌交じりに角を曲がり、目的地を視界に入れる。そうして日陰になる位置を選んで駐輪し、荷台から封筒を取り出した。近くで軽食の屋台を出している顔見知りの男へとひと声かけてから、アパートの出入り口をくぐる。
 細身のジーンズとスニーカーに包まれた足は、軽やかなリズムで階段を蹴った。その動きに合わせて金属質な光沢を持つ、鮮やかな色の髪が奔放に跳ねる。その様はまるで踊っているかのようで。
 一度も足を止めないまま十二階まで上がりきり、さらにその奥に位置する扉を数回ノックした。
「スイのバイク便です! 手紙のお届けに上がりましたっ」
 ドアの向こうまで届くように、高く通る声ではっきりと告げる。
 ややあってから、ゆっくりと扉が開かれた。
「こんにちは。あなたはいつも元気ねえ」
 顔を出したのは、中年のキメラ女性だった。穏やかなほほ笑みを浮かべて、息ひとつ切らしていないスイを、感心したように眺めてくる。
「それだけが取り柄ですから」
 そう言いつつ、手紙と伝票を重ねて差し出した。
 女性も心得ていて、手紙の送り主をちらっと確認し、持っていたペンで受領のサインを書く。
「あの子もあなたみたいに、元気でやってると良いんだけど」
 手紙に落とされるその視線には、どこか寂しげな色が宿っていた。
 この手紙は、一般居住区で住み込みの仕事についている娘から、母親である眼の前の女性に宛てたものなのだという。既に幾度か同じものを配達したスイは、問わず語りにそんな事情を聞かされていた。
 どうやら休みの日にもなかなか帰ってくることはできないようで、こうして手紙でやり取りをするのがやっとらしい。
 スイの親は既に亡く、彼女が手紙を送る相手などいはしない。それでも、もし両親のどちらかが生きていたら、こんな表情をしてくれたのだろうか。
 そんなことをちらりと考えたスイの前で、女性はあら嫌だと口元を押さえた。
「変なこと言っちゃったわね。お仕事お疲れさま。いつもありがとうね」
 笑顔でポケットを探り、何やら手渡してくる。
「はい、どうぞ。あの子も好きだったのよね、これ」
 目をぱちくりして手の中を見ると、半透明の包み紙にくるまれた、色とりどりの飴玉が乗っていた。
「え、あの、こんな……」
「いいのいいの。頑張ってる子にはご褒美よ。あの子の代わりだと思って、受け取ってちょうだい」
 女性はパチリと片目を閉じてみせる。そうしてスイが再び遠慮の言葉を口にするより早く、その肩を押してくるりと後ろを向かせてしまった。
「ほら、行ってらっしゃい」
 ぽんと背中を叩かれて、スイは反射的に口走った。
「い、行ってきます!」
 口にしてからかあっと顔が赤くなったが、満面の笑みで手を振る女性にそれ以上は何も言えず。
 ぺこりと頭を下げて、廊下を走り出す。
 またもノンストップで一階まで駆け下りた頃には、顔の赤みは上がった息に紛れて目立たなくなっていた。
「おい、大丈夫かい?」
 自動二輪を見てくれていた、屋台の男が訝しげに問いかけてくる。スイが普段、平気な顔で十二階まで往復していることを知っている彼は、いつになく真っ赤になっている彼女に、なにかトラブルでもあったのかと心配してくれたようだ。
「あ、大丈夫、です。ほんとに、大丈夫」
 両手で握りしめていた飴玉を身体で隠すようにして、スイはなんとか自動二輪へと向かった。荷台を開けて、バラバラと飴玉を入れ ―― ふと、思い直して一個だけ手元に残す。
 ねじられた包み紙の両端を引っ張り、中身を取り出した。ふわりと立ち昇る、ほのかに甘い香り。口の中に入れると、果実の素朴な味が広がった。
「おいし……」
 子供扱いされたのは恥ずかしいけれど、それでもなんだか心が浮き立つのは何故だろう。
 口の中で、ころりと飴玉を転がして、再び自動二輪へとまたがる。
 残りの配達も頑張ろう。そう思いながら、手元のレバーをひねり、エンジンをかけた ――


 それからも何箇所かの配達先を回り、最後に残ったのはドクターの診療所への荷物だった。薬品のたぐいらしく、取り扱い注意のラベルが貼ってある。これを届け終えたら、少し休憩がてら【Katze】で何か飲んでいくのも良いかもしれない。
 そんなことを考えながら、二階にある受付目指して階段を駆け上がる。
 と、聞き慣れた声が耳朶じだを打った
「だーかーらー、医者なんか行かなくて良いって言ったっしょ?」
「アホか! お前5階から落ちたんだぞ!? 普通なら死んでておかしくねえんだ。判ってんのか!!」
「5階、5階って言うけど、3階で止まったんだから、実質2階分じゃねッスか。それぐらいなら余裕ですってば」
「やかましいわ、この大バカ野郎がっ!」
「うわっ、ちょ……待っ……」
「あー、気持ちは判るが、とりあえず殴るのだけは止めといてくれ。一応、一日は安静にして様子見をってことなんで」
 廊下の真ん中で、頬に絆創膏を貼った三毛猫種の若者が、ヒゲもじゃの大男に掴みかかられていた。そしてその大男を、白衣を着た長い黒髪の青年 ―― ドクター・フェイが、面倒そうに制止している。ドクターの身体は髭男の半分ぐらいしか幅がなさそうなのに、振り上げられた拳を掴んだその片腕は、ぴくりともしていない。
 驚いて立ち止まったスイへと、白い髪をした女性看護師が歩み寄ってきた。
「こんにちは、スイさん。荷物ですか?」
 まるで何も起きていないかのように、目の前の出来事を綺麗に流して、彼女 ―― レンはにっこりと柔らかな笑顔を浮かべる。
「え……う、うん。お届け物……なんだけど。その、あれって、いったい……?」
 恐る恐る指さした先に目をやりもせず、レンはスイを受付へといざなった。ごく自然な動作で荷物を受け取り、貼られた伝票へと視線を落とす。
「仕事中に、アヒムさんの同僚の方が、高所から落ちかけたんだそうです。アヒムさんはそれを助けようとした結果、代わりに足を踏み外して ―― 」
「落ちたの!?」
「ええ。途中のひさしに掴まって、下までは行かなかったそうですが。それでも落下はしたので、同僚の方が大慌てで担ぎ込んでこられたんです」
 さらさらと、きれいな筆跡で受領サインが記される。二三度伝票を振ってインクを乾かしてから、そっと差し出してきた。
 なんとなく両手で慎重に受け取ってから、スイは恐る恐ると言うように上目遣いでレンを見返した。
「……擦り傷ひとつですんでいたのは、本当に良かったんです。捻挫や骨折どころか、痣ひとつありません。念のために経過観察はしますが、頭を打った痕跡も見受けられないので、ほぼ心配はいらないでしょう」
 レンはどこまでも笑顔のままだ。なのに何故か、その笑みが無性に恐ろしくてならない。
「不調を隠して、手遅れになるまで悪化させる患者さんを思えば、きちんと治療を受けに来たのもとても良いことです。アヒムさんは良い職場に恵まれましたね」
「う、うん。そうだね……」
 今の彼女に逆らってはいけない。本能的にそう悟って、スイはこくこくと頷いた。
 そんなスイの背後で、さらなる大声が発せられる。
「だいたいお前、朝メシ抜いたりなんかするから、フラフラすんだ! ひょろっこい癖に、俺なんか庇いやがって。百万年早いってんだ、この若造がっ!!」
「いやそれ関係ないッスよね? 俺落ちたの飯終わってからッスよね!? そもそも最初に落ちそうになったの、そっちですよね!?」
「うるせえ、バカ野郎!!」
「ああもうアヒム、おまえも火に油注ぐんじゃねえっ! 心配かけたのは確かなんだから、ここは黙って頭下げとけ!」
「横暴だ!?」
 その瞬間、なにかが壊れる、めきりという音が聞こえた。
 大声で喚きあっている三人は気づかなかったようだが、すぐ近くにいたスイはその音の発生源に目をやり、そして表情を引きつらせる。
 レンの持っていた筆記具が、真ん中から見事に折れ曲がっていた。
 彼女は微笑んだままで、ゆっくりと騒々しい三人の方へ向き直る。

「あなたがた、いつまで病人のいる場所で大騒ぎを ―― !」

 凍てついた叱責を最後まで耳にすることなく、スイは修羅場に背を向けて、全力で階段を駆け下りていったのだった。


§   §   §


 その日も集積場は、大量の荷物とそれをさばく労働者達とで、雑然とした空気に満たされていた。
 伝票を見ながら仕分けをする者もいれば、その指示に従ってそれぞれを定められた場所へと運ぶ者もおり、また適当に放置されたそれらを、荷崩れが起きないよう改めて整理し積み直す者もいる。
 一抱えもある木箱を二つ重ねて右肩に乗せ、左脇に大きな布袋を抱え込んだゴウマは、ふと足を止め、今しがたすれ違ったばかりの男を怒鳴りつけた。
「おいお前、んな持ち方すんな!」
「はァ?」
 その声に振り返ったのは、まだ義務教育を終えて数年も経っていないだろう、年若い男だった。尖った犬歯をむき出すようにして威嚇してくるその頭髪は、金茶に黒の筋が入っている。数日前に出入りするようになったばかりの新人で、なんでも虎種であるらしい。
 水牛種のゴウマは、若者よりもはるかに小柄だった。その頭は相手の胸あたりまでしか届いていない。
 しかし両足を開いてしっかりと立った彼は、荷を下ろすこともせず、まっすぐに若者を見上げた。
「たとえ小さかろうが重い物を運ぶ時は、前かがみにならず、背骨を伸ばしてまっすぐに立つんだ。そんな姿勢だと、すぐに腰をヤるぞ!」
 ゴウマの忠告に、しかし若者はぷっと吹き出した。
「はっ……なに言ってんの。バッカじゃね。アンタみたいな非力なおっさんと違って、オレは若いの。腰痛がぁとかほざく年寄りなんかといっしょにしねえでくれる?」
 嘲るようにげらげら笑う若者を、ゴウマはすがめた目で見返す。そこに怒りの感情はない。ただ世間知らずの若造に対する年長者の、呆れと ―― そして気遣いの色が浮かんでいるだけだ。
「おっさんこそ、ちっちゃいくせに見栄張って、でっかいだけの空き箱とか運んでんじゃねえよ。そんなに若いヤツにイイとこ見せたいの? もういっそ哀れ……」
 顎を突き出すようにして続けられる言葉は、しかし最後まで発せられることはなかった。
 近くにいた別の作業員が、背後からその尻へと前蹴りをぶち込んだのだ。不意のことに放り出された荷物は、さらに別の作業員が、阿吽の呼吸で受け止めている。
 無事ですまなかったのは、生意気な若者だけであった。
「いっ……な、何しやが……っ?」
 思い切り床へ叩きつけられた彼は、足跡のついた尻を押さえながら起き上がろうとする。しかし片手と膝をついて浮かせたその背中へと、ずしりとした重さがのしかかった。あまりの重量に、彼は再度固い床へと逆戻りする羽目になる。
「ゴウマさんに失礼な口利いた阿呆って、こいつ?」
「おうよ。空き箱運んでる見栄っ張りだとさ」
「はあ? 何言ってんだか。おい、それもう一個貸せ」
 救出した荷物を抱えたまま、しゃがんで覗き込んでいた男が、近くの作業員を呼び止めた。太い腕を持つ屈強な大男が両手で抱えているのは、ゴウマが肩に乗せているのと同じ、一抱えほどの木箱だ。虎種の若者の背中には、既に一個、それが乗せられている。その上に新たな木箱が重ねられた。途端に肺に残った息を押し出されて、若者は悲鳴のような呻き声をあげる。弱々しく動く手足が、虚しく床を掻きむしった。
「おーい、聞こえてるか? 言っとくけど、ゴウマさんはここらへんでも指折りの力持ちだかんな」
「重さだけなら、この木箱あと二つでも余裕で行けるヒトだぞー」
「あのヒトやさしーから、お前みたいなバカにもちゃんと指導してくれるんだ。だから話はちゃんと聞けよ?」
「そうだぜ、こいつみたいなマヌケも、あの人のおかげでそこそこの一人前になれたんだかんな」
「うっせえぞ! お前だって最初は……」
 木箱に潰されている新人を囲んで、数人の男達がやいのやいのと言い合いを始める。
 しばらくそれを眺めていたゴウマだったが、やがてひとつ大きく息を吐き、そして吸う。

「てめえら、いい加減にしろ!! 荷物で遊ぶんじゃねえ! 中身に問題でも生じてたら、全員分の給料から差っ引かれんだぞ!!」

 倉庫中の空気を震わせる怒号に、集まっていた作業員達が跳び上がるように姿勢を正した。

「さっさと仕事に戻りやがれ!」
「はいッッッ!!」

 異口同音に声を上げ、ばらばらと散ってゆく。
 若者の背に乗っていた木箱も、もともと運んでいた者が回収したのだろう。倒れたままのその傍らには、彼が最初に持っていた荷だけが、ぽつんと残されていた。
「 ―― おい、生きてるか」
「う、うぅ……」
 ゴウマの問いかけに、若者は言葉にならない唸りを返すことしかできない。
 これは無理そうだと判断したゴウマは、腰をまっすぐ伸ばしたまま膝だけを曲げ、姿勢を低くした。布袋を脇下に挟んだままの状態で左手を伸ばし、床の荷物にかけられている十字の紐を、指先で引っ掛けるようにする。
「通行の邪魔になるから、動けるようなら脇に避けとけ。あとどっかいためてたら、ちゃんと手当てしろよ」
 そう言って、すっと膝を伸ばした。先ほどまで若者が両手で運んでいた荷物は、数本の指だけでぶら下げられ、なんの抵抗もなく床から離れる。そのまま彼は、中断した荷運びを再開した。その歩みは安定していてなんの遅滞もなく、肩に重ねられた木箱にもずれひとつ生じていない。
 呆然とその背を見送る虎の若者を、周囲を行き交う作業員達は、苦笑いしながら見下ろしている。
 彼らのほとんどは、似たような経験や、あるいはそこまでは行かずとも同様な衝撃を受けて、この場所にいるのだ。いわばこれは、通過儀礼と言っても良い。
 気は優しくて力持ちな水牛種の小男は、力仕事に従事する日雇い労働者達の間で広く慕われている、面倒見の良い小さな巨人なのだった。


 出荷先別に仕分けされた山をチェックしていたゴウマは、馴染みの声に名を呼ばれて、書類が留められたボードから顔を上げた。
「おう、スイじゃねえか。もう配達終わったのか」
 鮮やかな朱色の瞳を持つ少女に、いかつい顔を綻ばせる。
 いつものように軽やかな足取りで駆け寄ってきた彼女は、ゴウマの横で立ち止まると、配送リストを覗き込んできた。エメラルドグリーンにオレンジのアクセントが入った長い髪が、さらりと手元へ落ちかかる。ついとそれを耳にかける仕草に、若手の作業員の何名かは、見惚れるように手を止めてしまっていた。
 実際スイは、かなり目を引く美少女である。活動的で生き生きとしたその立ち振る舞いも、こういった肉体労働者達とよく馴染み、好感を持たれやすいのだろう。
 わずかに立ち位置を変え、作業員達の視線を遮るようにしつつ、ゴウマはスイを見上げた。
 そんな気遣いなど知る由もない彼女は、リストと荷物の山を交互に眺めながら、んーと小さく声を上げている。
「思ったより早く終わっちゃったからさ、もう二三件行けそうかもって。はい、これ」
 受付所で選んできた、配送伝票を差し出してくる。
 その内容を確認して、手元のリストと照らし合わせたゴウマは、よしとひとつ頷いた。荷物のサイズも、配送先への移動距離も、スイの自動二輪で無理なく運べるだろう的確な選択である。
「ちょっと待ってろ」
 成長を垣間見せる若人わこうどを微笑ましく評価しつつ、ゴウマは山の中から伝票に対応した包みを選び出した。どれもスイの手の中に収まる程度の、小さな品ばかりだ。それだけに、大きな荷に紛れてしまうと、破損したり紛失する場合も多く、これはこれで扱いに気を遣うものである。
「じゃ、よろしく頼む。気を付けて行けよ」
「はぁい!」
 小さく手を振って身を翻したスイを、ゴウマも軽く手を挙げて見送る。
 おそらくあれらを届け終わる頃には、ゴウマの仕事も終わっているだろう。夕食時にはまた【Katze】で顔を合わせることになるかもしれない。
 そう思いながら振り返ったゴウマは、一部の若い連中が、まだぼーっとスイの後ろ姿を見つめていることに気がつく。当然、作業の手は止まったままだ。
 ぴきりと、ゴウマの額に青筋が浮く。

「お前ら、仕事しろーーーーッッッ!!」

 その日二度目となる怒号が、倉庫内に響き渡った。


§   §   §


 出勤前にシャワーを浴びて汗を流したルイーザは、身なりを整えるといつものように階下のカフェレストラン、【Katze】で夕食を摂った。同じ店のホステス達は、化粧が崩れるからと食事の後に支度をするらしい。が、ルイーザは店に着いてからの化粧直しで充分だと、この順番にしている。なにより、太りたくないからと食事量を減らしがちな彼女達と異なり、ルイーザは時間をかけてしっかりと食べる方なのだ。歌うのも演奏をするのも体力を消耗する。ダイエットなどとは言っていられない。それに【Katze】の料理は美味しいし、居心地も抜群なのだ。どうしてゆっくりせずにいられるだろう。
 今日も楽しいひと時を堪能してから、アンヌと共に自宅へと戻ってゆくルディに手を振って、彼女は店を後にした。
 ルイーザの勤めるクラブまでは、踵の高い靴で歩いても三十分ほどだ。急げばもう少し早く着くこともできるが、汗をかいたり息を切らした状態で店に出る訳にはいかないので、時間には充分な余裕を見ている。
 この街で女性が夜に独り歩きするのは、あまり褒められたことではない。しかしまだ日が暮れたばかりの時間帯は、人通りも多い。なによりこのあたりは、ルイーザにとって顔見知りがほとんどの、馴染みの場所だった。よほどのことがない限り危険な目になど遭わないし、仮にたちの悪い相手に絡まれたとしても、助けに入ってくれる誰かがいる。
 そう、たとえばちょうど、いますれ違おうとしている男のように。
「今日は遅かったのね」
 ルイーザが声を掛けると、背の低い水牛種の男は、足を止めてちょっと肩をすくめた。
「夕方になって、いきなりどどっとデカブツが届いちまってよ。ざっとでも片付けて搬入口を空けねえことには、明日の配送にも差し支えそうだったんでな」
 まったくまいったぜ、と。首筋に手をやって、こきこきと音を鳴らす。
 ずいぶんと小柄だが、そこらの獣人種の三人分は働けると噂のこの男だ。混乱する現場でも、きっと八面六臂の活躍をしてきたのだろう。
「お疲れさま。ゆっくりお風呂に入って、マッサージでもするのね」
「ああ、そうするわ。その前にまずはメシだけどな。お前さんも、頑張ってこいや」
「ええ。行ってくるわ」
 互いに挨拶を交わしあって、再び歩き始める。
 店のある繁華街へ近づくと、人の数はぐっと増えた。これから酒を飲もうという客達の他にも、店の客引きをするスタッフら、出勤する者や通行人を当て込んだ軽食の屋台などが道路のそこここを占めている。薄暗い路地の入り口には、勤める店を持たない流しの娼婦などが、妖艶な流し目を送りつつ今宵の相手を物色している。
 道端に敷物を広げ、手製の装飾品を並べた露天売りの前を通り過ぎて、ルイーザは店のあるビルの階段へと足をかけた。
 入り口に立つ黒服達に軽く手を挙げて中へ入り、ホステス達が共同で使っている控室へ向かう。
 壁一面を覆う大きな鏡と化粧台、そしてたくさんのロッカーとテーブルで占められた控室の中には、多くの女達がいた。その中を慣れた足取りで進み、自分のロッカーへと手荷物を片付けたルイーザは、化粧用のポーチを取り出して、鏡の一番端にあるスツールへと腰掛ける。
 その場所は、ほぼ彼女専用となっている席であった。他のホステス達はもっと目立ち、かつ広くて使いやすい中央部分に座りたがる。しかしルイーザには、そういった競争意識がない。他のホステス達に譲ってやっているうちに、自然とこの隅の椅子には誰も座らなくなった。たとえ、他に空いている場所がなかったとしてもだ。
 豊かな黒い巻き毛を手早くいて整えると、口紅を塗り直す。着替えは特にしない。煽情的なドレスが似合わないとは思っていないが、自分はあくまで店の添え物なのだ。客の目を惹くのはあくまでホステス達であって、自分は背景の一部であるべきなのだ。ルイーザはそう考えている。
 なのでけして地味でこそないが、通勤する時にそのまま着ていても不自然ではない程度の服で、彼女は店に出ることにしていた。
 そんなルイーザへと、ホステスの一人が話しかけてくる。
「あ、あの、姐さん、ちょっと良いですか」
「なにかしら、ハニス」
「その、今日の衣装なんですけど、口紅はどれが合うかなって」
 二十代になったばかりだろう、濃灰色の髪をベリーショートにしたそのホステスは、手の中に三本のルージュを持って、眉尻を下げていた。自分のセンスにまだ自信が持てないのだろう。ほのかにソバカスの残る顔に、不安げな表情をたたえている。
「そうねえ……貴女はどちらかと言うと、ボーイッシュな印象が先に立つから、いっそきついぐらいの赤で、攻撃的な印象を出したほうが良いかも知れないわね」
 ひときわ濃い深紅を手に取り、相手の口元に当てて鏡を見るように促す。
「それで、ある程度親しくなったお客さんには、ちょっと甘い感じのメイクでギャップを見せてあげたりしたら、特別感が増すかもよ?」
「な、なるほど……そういうのもありなんですね」
「まあ、あくまでこれは、私の考え方よ。参考程度にして、ちゃんと自分で選びなさい」
「はいっ」
 元気の良い返事を残してホステス ―― ハニスが離れてゆくと、今度は別の女が近づいてくる。
「ねえ、ルイーザ。仕事が終わってからで良いんだけど、話がしたいの。時間取れるかしら?」
「私は良いけど、貴女は大丈夫なの? イレイズ。今日も最後は彼氏とアフターなんでしょ」
「タンダには了解をとってあるから、大丈夫」
 いささか嫉妬深い恋人を持つベテランホステスは、豪奢な金髪をかき上げる。すらりと伸びた首筋が露わになり、同性でもはっとするほどに艶めかしかった。
 にこりと微笑んだ彼女は、上体を倒してルイーザの耳元に口づけするように、水色に塗った唇を近づけてくる。ほとんど吐息のような音量で、素早く囁きかけた。
「イーノとファミのことよ。このまま放っておいたら、取り返しがつかなくなるわ」
 最近、同じ客を取り合って、水面下で火花を散らしている二人の名を告げられる。それでもルイーザは表情ひとつ変えはしなかった。
 ただ鏡越しに該当する二人の様子を確認すると、パチリと音を立ててポーチの留め金を閉じる。
「惚気なら勘弁してちょうだい」
 スツールから立ち上がりながら、イレイズと視線を合わせる。アイスブルーの瞳は、ルイーザの目に浮かぶ了承の色を、しっかり読み取ったようだった。
「あら、貴女もいい加減、いい人を見つけたら? いつまでも若くはないのよ」
「大きなお世話」
 笑顔でひらりと手のひらを振る。鮮やかな赤に染めた、けれど短く整えている爪が残像を閃かせた。
 そうして控室を出た彼女は、自分の商売道具へと足を向ける。
 店の隅に置かれた、アップライトのピアノ。マホガニーを思わせる赤褐色に塗られたそれの前に腰を下ろし、鍵盤へと指を置く。まずは音が狂っていないかの確認。それから指と喉の慣らしを、開店までに終えなければならない。
 緩やかな旋律が、その手元から生み出され、まだ客のいない閑散とした店内へと広がってゆく ――


 アパートの階段を登りきったルイーザは、廊下の途中に大きな背中があることに気がついて、わずかに口元を緩めた。
 同じ六階に住む夜間警備員とは、時おり帰宅が重なることがあった。たいていはルイーザの方が数時間ほど早く上がるのだが、今夜 ―― というより、もはや昨夜と言ったほうが良いだろう ―― のように何がしかの相談を受けたりして、帰りが遅くなった場合など、こうして顔を合わせることとなる。
 けれど足音をほとんど立てず、気配も薄いこの大男の存在には、実際視界へ入らない限り気付けることなど、ほとんどなかった。もちろん相手の方は、こちらが背後にいる事実などとっくに悟っているのだろう。
「おはよう、ジグ。お疲れさま」
 驚く素振りもなく振り返った男は、わずかに上げた口角で挨拶に代える。
「そちらも疲れているようだな」
 交わす言葉は短く、どこか素っ気ない。それでもこういう、親し過ぎもせず、さりとて無視し合うでもない、そんな距離感は悪くないと思う。
 すっかり明るくなった外へと窓越しに視線を向けながら、ルイーザは小さく微笑んでみせる。
「今日もいい天気ね」
 何の意味もない、定型文のような言葉。それに応じてジグもまた、窓から空を見上げる。
「そうだな……良い一日に、なりそうだ」
 それだけ言って、彼は止めていた足を再び動かし、よりエレベーターに近い側にある、六〇一号室へと向かう。
「……お休みなさい」
 六〇二号室の扉に手をかけて、ルイーザは遠ざかる背中へと、再び声を掛けた。そうして玄関の鍵を開け、室内へと入ってゆく。
 廊下の窓から降り注いでくる朝日が、ゆっくり閉じていく扉に遮られ、細くなっていった。

「 ―― ああ、お休み」

 静かな低い声を最後に、玄関はぱたりと音を立てて、閉じたのだった ――


 〈 鵺の集う街で 閑話 終 〉        
(2018/12/02 15:53)
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