鵺の集う街でII ―― The binding cover to crack-pot.
幕 間
― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
高所から墜落する感覚に、はっと閉じていた目を開いた。
胸郭の内側では、心臓が激しく鼓動を刻んでいる。
詰めていた息を吐き出せば、入れ替わりに流れこんでくる新たな空気に、喉が喘鳴の音を立てた。
寝台に横たわった身体を、じっとりと濡らす冷たい汗。
まるで肌の外側に一枚膜を貼ったかのような冷ややかさが、奇妙に現実感を失わせる。
視界に映るのは、闇に沈む天井だった。
室内に照明は存在しなかったが、夜目の効く瞳は、窓の隙間から差し込む街灯のわずかな光だけで、物の輪郭を捉えられる。
ゆっくりと持ち上げた手が、細かく震えているのさえ見て取れて。
―― 夢だ。
指先の感覚を確かめるように、強く握りこみながら己に言い聞かせる。
昔の、悪い夢だ。忘れてしまえ。
できた拳を額に当て、幾度もそう繰り返す。
最近では、すっかり見ることの少なくなった、悪夢。
思い出すのも忌まわしい過去は、長い間、己を苛み続けていた。だがそれも、もう終わったはずだった。
あの過去とは決別し、新しい場所で新しい生活を送り始めた。
もうあの頃のことなど、思い出す必要はない。
―― 本当に?
耳元で、鈴のような声が囁いたような気がした。
甘い甘い、絡みつくような響きを持つ、女の声。
ぞくりと、全身が総毛立った。
支えるべく差し伸べた己の腕を、抱え込まれた時の感触が蘇る。
豊満な乳房へと、ことさら押しつけるかのような、その仕草が。
「……ッ」
気がつけば、布団を跳ねて起き上がっていた。
皮膚に残った柔らかさと体温の記憶を、こそげ落とそうと懸命に爪を立てる。
手の震えが、止まらない。
いや、手だけではない。
いつの間にか、全身が瘧にかかったかのように揺れていた。
下から見上げてくる、栗色の目に浮かぶ光は、見慣れたそれだった。
かつては、日常的に向けられてきた視線。
もう、そんなものとは、縁が切れたはずなのに。
―― 私、あなたのことが好きなんです!
弾む華やかな声が、その可憐さとは裏腹に、耳へとこびりついて離れない。
「…………っ」
喉の奥底から、何かがこみ上げてくる。
手のひらで口元を覆い、必死にこらえた。
視野の隅で、ちらちらと光の粒が踊る。呼吸を繰り返しても、喉仏が上下するばかりで、いっこうに酸素を取り込めている気がしない。
―― 本当に、逃れることができたのか?
実際には、やはり現実だと思っていた方が夢で、何も変わってなどいないのではないか?
決別したと信じていた、あの過去こそが、今も変わらず現実のままなのでは?
何故なら、あの栗色の瞳が要求しているのは ――
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我に返った時には、暗い廊下に立ち尽くしていた。
まだどこか、意識がはっきりとしない。
目に見えぬ何かから逃げだそうとした際に、室内履きのことなど忘れていたのだろう。裸足のままの足裏を、柔らかな絨毯が受け止めている。
ぼんやりと上げた眼に、光が飛び込んできた。
床へと扇型に広がるそれは、けして強い輝きではなかったけれど。
けれど闇に慣れた瞳にとっては、むしろ優しい暖かみを感じさせる。
引き寄せられるように、ふらりと一歩を踏み出した。
足音は、絨毯が吸い込んでくれる。
二歩、三歩。
扉が中途半端に開いたままなおかげで、わざわざ触れて動かさずとも、その内部をのぞくことができた。
「 ―――― 」
間接照明によって浮かび上がる、寝室の光景。
ほのかな光の中で、ベッドの上にある膨らみへと目が吸い寄せられる。
上掛けごしにも判る、細い身体つき。シーツの上に広がるのは、漆の色を持つ長い黒髪。
肩を下にしてこちらを向いている、その閉ざされた目蓋の、睫毛の数さえ数えられるようで。
―― ああ。
思わず嘆息がこぼれ落ちた。
急速に感覚がはっきりしてくる。
凍えたように痺れていた、手足の末端まで、血の通ってゆくのがありありと感じられた。
―― 夢では、ない。
今の、この光景こそが。
あの人のいる、いてくれる、この場所こそが。
大きく息を吸い込み、そして少しずつ吐き出す。
今度はきちんと呼吸することができた。
あれほど止まらなかった震えも、すっかり収まっている。
音を立てぬよう注意して、そっと膝を曲げ、その場に腰を下ろした。
片足を引き寄せて、廊下の壁へと背中を預ける。室内の様子は見えなくなったが、床に投げ出した太腿のすぐ傍らに、扇型の光が落ちている。
―― 夜が明けるまで、あとどれぐらいあるのだろう。
どのみち、遅くまで仕事をしているあの人が目を覚ますのは、いつも自分が店に出てからだ。
だから、大丈夫。
普段と同じ時間に動き出して、音を立てぬよう静かにこの汗を流して。
それから自動調理器へ、コーヒーの合成キューブとカップをひとつ、セットしておく。
そうして出勤すれば、いつもと何も変わらない一日が始められる。
だから、大丈夫 ――
ひたひたと満ちてくる安堵感と共に、ゆっくりと両の目を閉ざした。
押し寄せる睡魔がもたらしてくれたのは、今度こそ夢すら見ない、平穏な一時で……
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