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 ぬえの集う街でII  ―― The binding cover to crack-pot.
 第三章 彼女達の邂逅
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 カウンター席に陣取ったフランの隣へと、並んで腰を下ろして。ルイーザはできるだけ穏やかな表現になるよう、一言一言を注意しながら事情を説明していった。
 食品を扱う仕事である以上、埃と汗で汚れたリュウが、充分な身だしなみを整えて戻ってくるまでには、しばらくの猶予があるはずだ。彼の前ではあまり言葉にしにくい内容も口にすることを思えば、今を逃すともう後がない。

「 ―― と、言う訳でね。もうしばらくしたら、オーナーがご飯食べに降りてくると思うけど、あんまり過剰に反応しちゃ駄目よ。あの人は確かに人間ヒューマンだけど、そんなに悪い『ヒト』じゃないんだから」

 最後はあえて茶化すようにぱちりと片目を閉じて、話をしめくくる。
「…………」
 途中から口数が減り始めたフランは、今ではすっかり表情を暗くして、膝のあたりへと視線を落としてしまっている。
 一般的な獣人種キメラがいきなりこんな話を聞かされれば、そういった反応になるのも無理はなかった。なにしろここは、人間社会からはじき出されたキメラ達が、身を寄せ合うようにして作り上げた、いわば安住の地なのだ。この居住区にいさえすれば、人間達から理不尽な扱いを受けることもなく、肩の力を抜いて息をすることができる。たとえ仕事の上で人間と関わりを持たざるを得ず、日々鬱屈を貯めている者であっても、ひとたびこの場所に戻ってきさえすれば、気分を切り替え英気を養うことができる。そんな一種の避難場所シェルターになっていると言っても、けして大げさではない。
 そんな場所に、よりによって人間ヒューマンが現れるというのだ。しかも視察だの、気まぐれによる一時的な観光だのといった話ではなく、この場所に居を定め、日々の生活を営んでいるという。
 それは完全なるルール違反だ。人間と獣人種の間で取り決められた、両者が共存していく上での暗黙の了解を、頭から無視していると言って良い。
 傲慢な『人間』が、身の程知らずにもキメラの街でまで、我を通して横暴に振る舞おうとしている。そんなふうに思ってしまっても当然だった。

 けれど、シルバーは違うのだ。

 彼女はけして、そんな『ひとでなし』の輩ではないのだと。
 言葉を尽くして伝えようとしたルイーザだったが……やはりそう簡単には、信じてもらえないようだった。

「……なんなんですか、それ」

 ぽつりと、フランが呟く。
「人間が家主だってのは、判りますよ。でも、なんでわざわざ、ここに住んでるんですか。人間なら、人間の街に住むべきでしょう? こんなところにまで、土足で踏み込んでくるような、そんな真似……っ」
「だから、言ったでしょ。オーナーは、リュウのためにここを選んだんだって」
 ルイーザがなだめるように、力の入った肩へと手を乗せる。
「キメラのリュウには、この街のほうが暮らしやすい。自分はあまり外へ出ないから、リュウの都合に合わせたほうが便利だろうからって、そう」
 リュウが記憶を取り戻した段階で、すでに彼の生活基盤がこの街で確立していたこともある。そこから引き離す必要はないという理由や、もっと切実な経済的事情もそこにはあったのだが。
 しかしリュウがこの街で行き倒れ、記憶を失うことになった、そもそもの根本的な理由は、そこにあったのだ。
 外に出る用事を担当することになるリュウが、少しでも暮らしやすいように。平等の精神を謳ってはいても、結局のところは根深い差別が厳然として存在するこの都市で、彼がわずかなりとも楽に生きていけるように。
 彼女がそんなふうにリュウに対して心を砕いていたからこそ、彼は新たな棲み家を求めるのにこの居住区を候補に入れ ―― そうして、襲われたのだ。
 しかもその襲われた原因でさえもが、リュウがある意味、悪目立ちするほどに良い身なりをしていたのが一因となったらしいあたり、ことごとくが裏目に出たというか、巡り合わせが決定的に悪かったというか。
 しかしフランは、ふるふるとかぶりを振る。
「だから! そもそもその使用人ってのが、おかしいでしょう!? いっしょに住んで、二十四時間、四六時中面倒見させてるって、何様のつもりなんですか、その人間ヒューマンは!」
 太ももで握りしめたスカートが、大きな皺を形作っている。
「ここはレンブルグなんですよ。いくら人間だからって、そんな横暴……っ」
「ちょっと、落ち着きなさいな」
 ルイーザは慌ててフランの背を撫でた。
「オーナーは、ちゃんとお給料を出してるわ。それこそこの街に来る前からずっとね。けして不当に搾取してる訳じゃないの」
 それどころか、リュウが一言の連絡もなしに行方不明になってからも、居場所が判明するまでずっと、振込みが続けられていたのだという。仮に人間が人間を雇っていた場合でも、そこまでしてくれる雇用主はそういないだろう。
 だがそれを聞いても、フランの激昂はまったく収まらない。
「お金さえ出せば、何させても良いって言うんですか!? 違うでしょうッ!」
 濃い栗色の瞳が、きつい眼差しでルイーザを睨みつける。
 確かにフランが言っているのは、まったくの正論である。先日スイも同じようなことを口にしていたし、その時は常連達も、自分達の経験を重ね合わせ深く同意していた。
 事実ルイーザも、これで対象があの二人でさえなかったなら、その通りだとうなずいていただろう。
 しかし重ねて言うが、シルバーは異なるのだ。
 そのことを知っている常連達は、フランの憤りを理解しつつも、一方的に決めつけるその言い方に、不快なものを覚えつつある。

「だいたい、リュウさんはお店の仕事にビルの管理もしてて、そのうえ帰ったら寝るまで他人の面倒見て。しかも定休日には一日ハウスキーパー? 自分の時間がカケラもないじゃないですか。オーバーワークも良いところですよ!!」

 言われてみれば、確かにそれはその通りなのだが。
 しかし常連達はうすうす気づいている。もしも【Katze】の仕事とシルバーの身のまわりの世話の二者択一を迫られた場合、リュウは迷わずシルバーを取るであろうと。
 そしてそれは、けして飼い犬根性などと揶揄される、それしか生き方を知らない『首輪付き』の向上心のなさからではなくて……

「 ―― なるほど。それもそうだな」

 唐突に賛同の声が発せられて、顔をしかめていた常連達は、いっせいにそちらを振り返った。ぁあ!? と、気の弱い者なら逃げ出しかねない視線が集中した、その先に立っていたのは。

「…………」

 店に入ったばかりの位置で、顎に指を添えて思案しているその女性が誰なのか、誰の目から見ても間違いようもない。
 今日は木炭色チャコールグレイのスーツに、パールがかった銀鼠色アッシュグレイのブラウスと、黒曜石のついたループタイを合わせている。相変わらず細い腰から背中にかけてのラインが際立っていて、折れてしまうのではないかと思わせるほどだ。
「お、おおお、オー……ナー……?」
 いつの間に!? と驚愕の目を向けてくる常連達に、シルバーは少し首を傾けてみせる。
「どうした」
 まっすぐ目を見て問い返されて、常連のひとりはとっさに言葉が出てこず口ごもる。
 その横で、三毛猫のアヒムが、わたわたと意味もなく手を振りまわした。
「あー、いえ、その。きょ、今日はちょっと、早くないッスか」
 言いながら、ちらりと壁の時計を確認する。やはり、いつもの週末よりも、気持ち早めの時間帯だ。とはいえまあ、十五分程度の違いなど、誤差と呼べるほどでもないであろうが。
「ああ。打ち合わせが、思ったより早く終わったからな」
 キュッと床の上で杖の先が擦れる音を立てながら、立ち止まっていた彼女は再び歩き始める。アヒムがシルバーの定位置となっているテーブルの隣に陣取っていたこともあり、その足は自然とカウンターの方へ向けられた。

「 ―― ッ」

 まっすぐ近付いてくるシルバーの姿に、スツールに座ったまま半身を振り向かせていたフランが、喉の奥で引きつった声を立てた。とっさに後ずさろうとしたその背中が、カウンターの天板にぶつかる。
 フランの少し手前。いつもの席の横までたどり着いたところで、シルバーは歩みを止めた。胸元の石とよく似た色合いをしたその瞳が、感情をうかがわせない光をたたえたまま、フランの姿を映している。
 が、彼女が硬直したまま満足に反応を返せないでいる間に、その視線はふいとそらされた。そうして抱き寄せるようにその肩へ手を回してやっている、ルイーザの方を向く。
 なんとなく疑問らしきものを感じ取って、ルイーザは跳ね上がった心臓の鼓動を、必死になだめすかした。数度深呼吸して、気を落ち着かせる。
「あの、このはうちの店の後輩で、レトリバーのフランって言うの」
 あっさりと身元をばらしたルイーザを、フランは信じられないと言うような表情で凝視した。しかしルイーザはひとまずそれを無視し、手のひらをかざしてシルバーを指し示す。
「フラン。こちら、このビルの家主オーナーで、シル……じゃなくて。えっと、セル、セル……」
「セルヴィエラ=アシュレイダという」
 舌がもつれたのをフォローするように、本人が自身の口で名乗った。さらにごく小さくであったが、フランに対しての目礼が添えられている。
 しかしいきなり現れた人間ヒューマンの存在に身を固くしているフランは、それにまったく気付いていないようだった。無意識の仕草なのか、ルイーザの腕を掴んでいる指が、小刻みに震えている。

「……確かに今のリューには、完全な休みという日が存在していない。これは私の落ち度だった」

 気付かせてくれて、感謝する、と。
 淡々と続けられた言葉に、フランはようやくそろそろと視線を上げて、シルバーの顔を見た。
 そこに怒気や不快を示すものが存在しないことを確認して、かろうじてわずかに緊張を解いたようだ。
「その……オーナー?」
 ルイーザがためらいがちに声をかけると、シルバーは無言で視線を向けてくる。例によって表情はほとんど変わらないが、既に常連達はそれがいつものことであり、特に不機嫌さを示しているのではないのだと理解している。なので少々思い切った質問を投げてみた。
「どこから、聞いてたのかしら」
 フランの発言に気を取られて、常連達は誰もドアベルが鳴ったことに気づいていなかった。故に彼女がいったいどこまであの暴言 ―― と言って良いだろう ―― を耳にしていたのかと、固唾を呑んで答えを待つ。
 果たして、
「リューは店の仕事にビルの管理もしていて……というあたりだな」
 その返答に、一同はほっと胸を撫で下ろす。
 どうやらあの一方的な人間批判は、聞かれずにすんだようだ。
「……家事に関しては、定休日にまとめてやってもらえれば良いと考えていたが……そうだな。確かにこれでは、休める日がまったくない」
 リューが何も言わなかったとは言え、迂闊だった。
 シルバーは大真面目にそんなことを呟いている。
「いや、それは……」
 ちょっと違うのではないかと一人が口を挟もうとするが、黙考しているシルバーに対し、どう声をかけていいかわからないらしく。上げかけた手が不安定に宙をさまよう。

 そもそもリュウがこの店で働いたり建物の手入れをして稼ぎ出す金額など、ごくわずかなものでしかない。同時に、このビルの集合住宅部分から得られる家賃収入も、建物自体を維持管理する費用をまかなうので精一杯なのだという。いわばこの建物自体が、利益などほぼ生まない不良物件のようなものなのだ。だからこそ以前の持ち主は、キメラと取り引きをしてでも手放したがっていた。
 そんな建物をシルバーがわざわざ購入したのは、ひとえにリュウのためである。彼がここで働き、生活している。その日常を守るためにこそ、彼女は大金を投じてこのビルを手に入れたのだ。
 リュウは確かに【Katze】の従業員で、このビルの管理人補佐も務めている。しかしそれはシルバーがそう取り計らったからこそ、変わらず行えていることで。そうでなければ今頃の彼は、とっくに路頭に迷っていただろう。いや、それはけしてリュウだけでなく、アウレッタやルイーザを含めた、ここの住人すべてに当てはまっている。
 そして現在のリュウの生活費は、ほぼシルバーが負担する形になっていた。衣食住、そのすべてをだ。ある程度はリュウ自身の預金に手を付ける場合もあるようだが、それも元を正せばすべてシルバーの懐から出てきたものに他ならず。

 いわばリュウはヒモ ―― は言い過ぎだが、主夫と表現するのが一番近い立場にあった。【Katze】で働いているのも、経済的な理由というよりも、記憶を失っていた間に世話になったアウレッタや常連達に対する恩返し、あるいは近所付き合いの延長といった面が大きい。シルバー自身はリュウを働きになど出さずとも何ら困らないし、むしろ常に声の届く範囲にいてもらった方が、不自由な足を抱えた身としてはずっと助かるはずだ。
 もちろん主夫もまた立派な職業であり、酷使などもってのほか。適度な自由や気晴らしの時間、私的プライベートな交友関係を許容するのもまた、一家の働き手としては当然必要な配慮だろう。
 しかし毎日この二人を見ていれば、シルバーがそれを怠っているとは到底思えない訳で。

 むしろ話を聞く限り、仕事中毒ワーカーホリックと呼べるほど働き過ぎなのは、シルバーの方らしい。リュウが頃合いを見計らって制止をかけなければ、端末の前に座ったまま、『うっかり』食事や睡眠を忘れることなど日常茶飯事だという。
 【Katze】に通うようになったおかげで、きちんと食事を摂る回数が増えて助かっています。
 いつだったかなど、そんなふうにリュウがこぼしていたぐらいだ。
 ―― 多少話はずれたが。
 要するにリュウは現状に不満など持っていないし、心身に不調をきたすほどこき使われている訳でもなかった。
 むしろ衣食住を、キメラとしてはありえないほどの高水準に恵まれて、大切な相手と気心の知れた知人達と共に、充実した毎日を送っていると言えるだろう。
 しかしその誰の目から見ても明確な事実を、シルバーだけが理解していないらしい。
 部外者であるフランの、ろくに事情も知らないまま発せられた無責任な批判を受けて、彼女は深く考え込んでいる。

「あ、あのね、シルバーさん……」

 胸元で盆を抱えたアウレッタが、ためらいがちに声をかけた。と、それで我に返ったように、シルバーは顎をなぞっていた指を止める。
「ああ、すまない。邪魔だったな」
 そう言って、すぐ横にあった椅子を引き、いつもの席へと腰を落ち着ける。右手に装着した杖を外しながら、視線を少しさまよわせた。
「ハムエッグとトーストを一枚。トーストはバターで。食後にはアールグレイを頼む」
「あ、ええ。……はい」
 もういつもと変わらなくなった口調で注文されては、アウレッタとしてもうなずくしかできない。
「ハムエッグとバタートースト一枚ですね」
「 ―― 野菜が足りていませんよ」
 突然割って入ってきた声に、一同がぎょっとしてカウンターの方を振り返った。
 奥に繋がる出入口から、リュウが姿を現している。
 歩きながら麻のロングエプロンをかぶるその頭は、浴びたばかりらしいシャワーの雫でまだ湿っていた。いつもよりやや乱れた印象のある銀灰色の髪が、妙に意味ありげな雰囲気を漂わせている。
「シーザーサラダとカプレーゼ、どちらにしますか」
 注文しないという選択肢を最初から除外したその問いかけに、シルバーはしばし沈黙する。

「…………カプレーゼ。半皿で良い」

 リュウが腰の紐を結び終えるのを見計らったかのように、そう答えが返された。
「はい。サーラ」
 応じるリュウの微笑みは、いつも客達に向けているそれと、同じようでいて決定的に異なっている。色違いの瞳はまっすぐシルバーに向けられており、彼だけが呼ぶその名の響きは、どこか甘さすら含んでいるようで。
 目の前に座っているフランの姿など、彼はまったく視界に入れていない。
 すぐさま調理に取り掛かるリュウの動きに、常連達はようやく肩の力を抜いていた。
 その時彼らが感じたものは、紛れもなく安堵という感情だったのだろう。
 ああ、この二人ならば大丈夫だ。
 たったこれだけのやり取りなのに、何故だろう、そう確信できてしまったのだ。
 加熱調理機のスイッチを入れつつ、冷蔵庫から卵とハム、トマトにチーズを取り出して、薄切りの食パンに室温で柔らかくしてあったバターを塗ってゆく。その手際はすでに幾度となく繰り返されてきたのであろう、こなれたもの。他の客には毎回確認する焼き具合のリクエストも、シルバーに対しては訊ねもしない。

 きびきびと立ち働くその姿を微笑ましく見守る一同の中で、フランとシルバーの二人だけが、無言でその視線を己の手元へと落としていたのであった ――


§   §   §


 夜間警備員を生業とする禿頭とくとうの大男ジグは、たいてい朝早くに帰宅したのち、ひと眠りしてから昼過ぎ頃に【Katze】を訪れるのが習慣となっている。そして夕食は出勤直前の時間帯 ―― 【Katze】にとっては店じまい近く ―― を選んでいるため、実はシルバーとの遭遇率がそこそこ高かったりする。
 だからと言って、別に席を同じくしたり、親しく言葉を交わしたりはしないのだが。それでも彼は彼で彼なりに、彼女のことを気にかけていた。それはジグもまた、かつては人間に所有されていた経験を持つからかもしれない。
 自分の知らない……あるいは、自分が想像すらできなかった関係を構築している、人間ヒューマン女性と獣人種キメラの青年。それがジグの興味を引いているのは確かだった。
 だからこそ、先日から店を訪れては二人の間に割って入ろうとするホステスの存在を、彼はあまり歓迎していない。
 他人の色恋沙汰に口を挟むのは愚かしいし、余計なお世話だとは承知の上だ。それでもなお、あの二人に関しては、そっと見守っておきたいと思うのである。
 幸いにも、先週末に初めてシルバーの存在を知り、直接顔を合わせたホステスは、その後ぴたりと口をつぐむと、まもなく逃げるように店を出て行った。そして次の日もその翌日も、姿を現していないらしい。ルイーザからの情報によれば、職場でも根掘り葉掘りリュウのことを聞いてくるような真似はしなくなったのだという。
 ……その報告を聞いたジグや他の常連達は、むしろそれまでの間は、仕事中にそんな私的な会話をふっかけてきていたのかと、別の意味で眉をひそめたりもしたのだが。


 そして、週明けから中一日を置いた、本日。
 【Katze】の定休日を迎えて、ジグは昼食を摂りに街へと出掛けていた。いつもであれば適当に自炊するのだが、気がつけば冷蔵庫の中が空っぽだったのだ。
 たまには他の店に行くのも良いだろう。ついでに早朝帰ってきてから、寝るまでの間に軽くつまむ何かを仕入れてくるとしよう。
 そう思って、財布片手に昼過ぎの道を歩いていたのだが。
 ふと、見慣れた ―― しかし同時に、ひどく場にそぐわないものが視野をよぎった気がして、足を止める。
 なんだろう。こんな場所で目にするはずのない何かが、見えたような。
 いぶかしく思いながら、ぐるりとあたりを見わたす。
 ジグは、あまり視力が良くない。目蓋を半ば下ろすようにして、慎重に周囲を確認していった。
 そして、それに気がついた瞬間、細めていた目を見開く。
「 ―― リュウ?」
 思わず口にした声は、けして大きくこそなかったが、疑惑の念がありありと滲んでいた。
 数メートルほど先で、明らかにもの慣れぬ様子を漂わせながら立ち尽くしているのは、間違いなくくだんのカフェレストランの店員兼ビルの雑用係にして、家主オーナーの同居人。銀狼のリュウ=フォレストの姿だった。
 しかしジグは、彼が【Katze】から外に出たところを、ほとんど目にしたことがない。それは他の常連達も同じことで。リュウがあのビルと、その真向かいにあるドクターの診療所以外の場所にいるなど、あまりにも違和感を覚える光景だった。
 名を呼ばれたことに気が付いたのか。
 尖った耳がぴくりと反応し、リュウの顔がこちらへと向けられる。
 珍しい色違いの瞳が、ジグの姿を捉えて数度瞬きした。
 真昼の明るい日差しの中で、その稀有な双眸はいつもにもまして人目を引いている。右は灰色が抜けて澄んだ水色に見えるし、左は黄金色に輝いているかのようだ。
 銀を帯びた艶のある髪を、風が柔らかくなびかせている。身体に添うタイプの濃褐色のTシャツに、無造作に羽織った薄手のリネンシャツ。ほのかに透けるそれがスリムなラインのデニムと相まって、彫像のようなスタイルの良さを周囲に見せつけていた。
 首輪の存在を隠すため、いつものコックスカーフの代わりに、落ち着いた色合いのストールを巻いている。獣人種ばかりが集うこの街には、いささかそぐわない服装だ。しかしそれさえも、さりげない洒落っ気を演出しているように見えてくるのだから、やはり整った容姿がもたらす印象というのは大きい。
 ……本人にそんな意図など、まったくないのであろうが。
 事実、道行くキメラ達の何人か ―― 特に女性陣が ―― 顔を寄せ合うようにして何やらささやき交わしていた。ちらちらとうかがい見ているその視線に、だが当人はまったく気付いていないようだ。

「ジグさん」

 持っていた紙切れを畳みながら、笑顔を浮かべて歩み寄ってくる。リュウもかなりの長身だが、ジグはさらにその上を行く。リュウに見とれていた女性達も、2m近い禿頭の大男に近付いてゆくのを見て、そそくさと離れていった。
「どこかで昼食のご予定ですか」
 穏やかな口調でそう問いかけられて、ジグは小さく顎を引く。と、リュウはほっとしたように息を吐いた。
「あの、もし迷惑でなければ、ご一緒させていただけませんか」
 良さそうな店を、ご紹介下さるだけでも良いんですが、と。
 そんなふうに言ってくる。
「それは、構わないが」
 答えながらも、ジグはさらに周辺へと注意を向ける。しかし彼の目が届く場所に、探している姿は見当たらなかった。そんなジグの疑問を察したのか、リュウの笑みがわずかに色を変じる。
「あの人なら、自宅にいらっしゃいます。私一人ですよ」
「……そうなのか?」
 この男が、休日に彼女を置いて一人で外出するなど、いささか考えにくいことなのだが。しかも買い出しといった用事を頼まれたというのではなく、単なる食事でとなると、違和感どころの話ではない。
「その、たまには外に出て、羽を伸ばしてきたらどうだと言われまして」
 手の中の紙切れを、しきりに弄り回している。どうやら何故そんなことを勧められたのかが理解できず、困惑しているらしい。
「土地勘ぐらい養っておいたほうが良いと言うのは、確かにその通りなんですが……」
 皺だらけになった紙を、開いてみせる。どうやらそれは地図のようだった。どこかで買ったものではなく、印刷機から出力されたものだ。
 この街で暮らすようになってから一年以上が経つリュウだったが、まったくと言っていいほど外に出なかったせいで、未だにごく近場ですら、どこに何があるのかを知らないままである。ろくに買い物もしなかったこれまでは、それでも良かったかもしれない。だがシルバーと暮らすようになって、定休日の食料や日用品を購入する必要ができた。ならば確かに、引きこもってばかりいる訳にもいかないのだろう。
「しかし、ついでに一人の時間を楽しんでこいと言われましても……」
 長い耳が、心なしか力なく垂れているように見えた。
 自らの意志で生活の中心にシルバーを据えているリュウにしてみれば、一人で楽しめなどと言われても、途方に暮れるしかないといったところか。むしろ突き放されたように感じているのかもしれない。
「…………」
 シルバーがどうしてそのようなことを言い出したのか。心当たりはありすぎるほどにあった。まず間違いなく、週末にフランから指摘された、リュウを働かせ過ぎだというあれが原因なのだろう。
 ジグは思わず眉間を押さえそうになった。
 あの人間ヒューマン女性は、リュウのことをとても大切に思っている。それは疑いようがない。しかしそのために配慮する方向が、いつも致命的に間違っている気がしてならない。
 本人は心底から大真面目に行動しているのだろうが、結果としてことごとく裏目に出ているように思えるのだ。
 いや、今回に限っては、なにも彼女ばかりが悪いのではない。
 悪いのは……と。
 ジグがそこまで考えたところで、その耳に聞き覚えのある声が届いた。

「リュウさん!?」

 驚きと、そして隠そうともしていない喜色に満ちた、甲高く弾む声。
 リュウと同時にそちらを振り返れば、柔らかなプラチナブロンドを片手で押さえながら、若いキメラの女性が駆け寄ってくるところだった。

「……この、女だ」

 口の中で低く呟いた、ジグのことなど目にも入らぬように。
 レトリバー種のホステス、フランは、リュウの直前で立ち止まり、輝くような笑顔でその姿を見上げていた。


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