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 ぬえの集う街で  ―― Town Living of NU-E
 エピローグ
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 結局、ルディが最後まで帰ることを拒んだため、宴は比較的早めの散会となった。
 しかし記憶を取り戻して性格が一変したリュウと、新たな家主の人間シルバーと、アパートの住人や常連達が親睦を深めるという点では、想定していた以上に効果があったと言えるだろう。
 ことにリュウやルディがぶっちゃけた、もろもろの本音とか我がままは、参加者達の度肝を抜きつつも、鷹揚に受け止めるシルバーに対して一方的に抱いていた、マイナス方面の先入観を改める良いきっかけとなったのではなかろうか。
 終盤の方では、いい加減ずいぶんと酒を過ごしたルイーザが、シルバーに向かって嫉妬深い男のあしらい方を力説し始めたり、スイがするりとした手触りの黒髪に興味を持って触れているうちに、気がつけば編み込みにしてリボンを結んでいたりなどしていた。
 解散を宣言された後は、とりあえず真っ先に主賓であるシルバーを最上階のペントハウスまで送り届けてから、リュウは再び店へと戻ってきた。もちろん、後片付けに参加するためだ。準備こそ免除してもらったものの、基本的にリュウはこの店の従業員である。けして返しきれない諸々の恩のことも考えれば、他の誰よりも働く義務があった。
 だがまだ杖をうまく扱えないシルバーを浴室まで運び、着替えを用意などしていたら、少々時間がかかってしまった。既にほとんどの者が帰った店内は、すっかり片付いている。テーブルはすべて元の位置に戻され、上に椅子がひっくり返した状態で乗せられていた。明かりもほぼ落とされていて、キッチンカウンターの周辺だけが浮かび上がっている。集めて積み上げた食器類を、腕まくりしたアウレッタが洗っていた。手伝おうと近付いてゆくと、一人残っていたフェイが、ちょっと付き合えとスツールを薦めてきた。既に座るその手には、大ぶりな氷を浮かべたロックグラスがある。
 並んで隣に腰掛けると、フェイは手ずから同じものを作って寄越した。リュウは酒を呑んだ経験がない訳ではないが、別段、旨いと感じたこともない。この街に来てからは、一滴も口にしていなかった。琥珀色の液体が入ったグラスを持ち上げ、軽く匂いを嗅いでみる。それから味と強さを確かめるよう、ゆっくりと口に含んだ。
 かつて呑まされたものに比べれば、はるかに安っぽい合成酒だ。 ―― だが、悪くない。
 小さな水面を覗きこんでいると、フェイが静かな声で話し始めた。
「例の……お前に襲いかかって、シルバーに怪我させた、金髪のキメラだがな」
 はっと顔を上げたリュウを押し留めて、フェイは冷静に先を続ける。
「無抵抗の人間ヒューマンを傷つけて、重態に追い込んだんだ。本来なら官憲に連絡して、引き渡すべきなんだろう。……だが、ここはキメラ居住区だ。人間のために、同胞を売るような真似はできん」
「ですが ―― 」
「まあ、待て。そうは言っても元はと言えば、あの野郎が刺そうとしたのはお前キメラの方だ。しかも酔っ払った上での、一方的な行為。こうなると話はまた違ってくる」
「…………」
「で、だ。いろいろ考えたんだが、結局、俺から裏の方に、ちょっとばかり情報を流しておいた。俺が贔屓にしてる店で、刃物振り回して暴れた馬鹿がいるってな。これでもそれなりに顔は効く。殺されはしない程度に、相応の報復がされるはずだ」
 キメラを診察してくれる、唯一の医者。それだけでも人望を得るのは充分だが、相手が裏社会となると、さらに必要とされる度合いは増してくる。流血沙汰が日常茶飯事の裏組織は、フェイに代わる医者が皆無である現状において、脅迫や暴力といった乱暴な手段で強引に従わせるよりも、互いに持ちつ持たれつで良き協力関係を結ぶ方針を選んでいた。
 機会があれば恩を売っておきたい医者に、困った相手がいると耳打ちされれば、どの組織も喜んで身を乗り出すだろう。あの男が具体的にどんな目に合わされるかまではフェイの関知するところではなかったが、それでも人間を殺そうとしたキメラとして官憲に捕縛されるよりは、いくらかましな程度で収まるはずだ。行政に捕まれば、良くても市民権剥奪、むしろほぼ確実に殺処分される未来が目に見えているのだから。
「お前もいろいろ思うところはあるだろうが、ま、それぐらいで勘弁してやってくれ」
「……判りました」
 不承不承ながらもうなずいたリュウに、フェイは気掛かりがひとつ片付いたと笑った。
「そう言えば、シルバーはそのへん、何も言わないのか」
 入院していた間、現実を現実だとしっかり認識してからも、己へ刃を向けた男に関して彼女はまったく尋ねてこなかった。あの男はどうなったのか、逃げたのかとか、正体は判っているのかとか、疑問に思うのが普通であろうに。
「……あの人は、自分が害意を向けられる事に関して、慣れているというか……いちいち相手をするのは面倒だと思っている部分があるので」
 その傾向は、他ならぬリュウ自身も持っているからこそ、理解もできるのだが。
 もともと世間のすべてを消極的な『敵』とみなしていると、傷つけられるたびに腹を立てたり抵抗していては、きりがなくなってくるのだ。
 害を加えられるのは、当たり前。あまりに度を越したり、自分以外の大切なものにまで火の粉が降り掛かるようなら、そのとき改めて対処すれば良い。そんなふうに考えてしまう。リュウも今回負傷したのが自分の方であったなら、加害者のその後など別に気にもしなかったはずだ。
 それが、あの過酷な都市まちで生きてきた彼ら二人の、知らず知らず身に着けてしまった、己の心を守るための自衛手段だった。
「なんというか、お前らってやつは、まったく……」
 それを間違っていると一方的に否定できるほど、フェイは独善的ではなかった。彼らの過ごしてきた想像を絶する過去を思えば、無責任な正論を大上段に振りかざすなど、あまりにも滑稽すぎる。
 とは言えまあ、これから二人がこの街で暮らしていくのであれば、医者としてカウンセリングを兼ねた会話を繰り返すうちに、多少なりとも健全と呼べる方向に誘導するぐらいはできるだろう。
 カウンセリングと言えば、と。その単語をきっかけとして思考が展開する。
「お前、なんで記憶喪失なんかになったのか、そろそろ思い出せたか?」
 シルバーの負傷をきっかけとして、感覚的なものから取り戻し始めたリュウは、日を追うごとに少しずつ、記憶の欠片を拾い集めてきていた。やはりシルバーに関連した情報ほど早くに浮かび上がり、関わりの少ない事柄はなかなか引っかかってこない。生き物として忘却という機能が生来備わっている以上、どこまで蘇れば完治したと太鼓判を押せるのか、その判断基準すらもが曖昧という厄介さもあった。
 シルバーの退院を区切りとして、このところ毎日行っていたカウンセリングは、ひとまず週一回に戻すことが決まった。おおむねシルバーとの生活に不自由を感じない程度の記憶は取り戻したし、反動で何かを忘れている形跡も見受けられない。何よりも、例の死体捨場の悪夢をほとんど見なくなったからだ。毎晩それなりに眠れているそうで、睡眠薬の消費量も激減したという。
 なので前回のカウンセリングから、既に二日ほど経っていた。あれからなんらかの進展はあったのだろうか。
「そうですね……そのあたりについては、だいたい判ったと思います」
 氷が溶けて、色と味が変わり始めた酒を、リュウは不思議そうに揺らしてみながら返答する。
「以前にいた都市は、我々にはとても暮らしにくくて……あるトラブルをきっかけに、こちらへ移ることにしたんです。ここでなら、キメラの私でも、一人の個人として権利を認めてもらえるからと」
 どのように暮らしにくかったのかとか、トラブルの詳しい内容について、具体的には語らない。が、聞いても気持ちの良い話ではないのだろうと、想像するのは容易だった。
「ただ、下見をするような余裕はなかったので、とにかくまずは引っ越してきて、当面はホテルに泊まりながら新居を探すという形になりました。でも、思ったほど条件に合う物件が見つからなくて……」
 キメラが人権を持ち、自由に暮らせる都市だと聞いて、新しい住処にレンブルグを選んだ。もともと住んでいた場所からは、ほぼ大陸を横断しなければならないほどに離れていたけれど。たとえ繊細な精密機器をそれほどの距離無事に輸送させるため、気が遠くなるような手間と時間と大金をかけても、構わないほどの価値があると思えたからだった。
 しかし実際に訪れてみれば、この都市にも偏見が根強く存在していた。人間とキメラが住む場所ははっきりと分かれているし、チェックインしたそれなりのランクのホテルでさえ、従業員からごく普通にあからさまな差別を向けられる。しばらく便利や治安の良い人間ヒューマン向けの一般居住区で住まいを探してみたが、リュウが同じ場所で共に暮らせば、以前ほどではないにせよ、肩身の狭い不自由な思いをするのは明白だった。
 ならば、ほぼ外に出ることがないシルバーよりも、キメラである自分に合わせた方が良いのかもしれない。ふとそんなふうに思い立って、リュウは一人その足でキメラ居住区まで赴いてみた。
 都市開発から見放された感の強いそのあたりは、建物も通りも老朽化が激しかった。たとえ壊れても、修理の手すらなかなか入らないのだろう。しかしインフラそのものは、そう捨てたものでもないようだ。もともとこの新世界全体において、文化水準の進歩はさほど早くない。一度世界が崩壊しかけてから数百年をかけて、ようやく安定した生活を送れるまでにこぎ着けたのだ。今は新しい技術を作り出すよりも、いかに現在の生活水準をより広い範囲に適用させるかに重きが置かれている。なので二十年以上前に整備されたこの街でも、現在の一般水準とそう変わらない速度のネットワーク回線が通っているし、古くはあっても作り自体はしっかりしている建物が多い。一戸建てを期待するのは難しそうだったが、そもそも以前いた都市では建物自体に組み込まれていた様々な自動機械類も、ここレンブルグではさすがに望めないようだ。結果としてほぼすべての家事を手作業で行わねばならないだろう毎日を思えば、むしろ集合住宅程度の広さの方が、適しているかもしれない。とにかく最低条件は、高速回線の完備、二人分の寝室やキッチン、バス、トイレ等の他に、精密機械類をすべて運び込めるだけの広さがある作業用の一室。あとはシルバーが出かける気になった場合に、階段を使わずに済むよう昇降設備 ―― 壊れていない正常なもの ―― が備わっていること。
 そんなふうに脳内で検討していたリュウは、いささか注意が散漫になっていたらしい。
 無駄に見た目が良く、そして場違いなほど質の良い身なりをしていたリュウは、通りすがりのキメラ数人に因縁をつけられた。裏組織の下っ端らしいチンピラ共は、『裕福な飼い主の気まぐれから、市民権とまとまった当座の生活費を与えられたばかりの新参者』に見えるリュウから、金目の物を巻き上げようといった魂胆だったのだろう。その段階では、せいぜいちょっとばかり脅しつけて、小遣い稼ぎをする程度の軽い腹づもりだったのかもしれない。
 しかし ―― 抵抗したリュウの襟元から首輪が覗いて見えたことで、男達の態度は豹変した。
 あの晩の金髪男と同じように、『首輪付き』に対して過剰な反応を見せた彼らは、よってたかって際限のない暴力を振るった。首輪の電流装置が発動せぬよう、必死で庇おうとした行動がまた、男達の興奮に油を注いだようだ。
 そして、半殺しになった挙げ句にゴミ捨て場へ放置されたと、そういう次第である。
「……現金と共に携帯通信端末まで奪われてしまい、あの人と連絡を取れなくなったのが致命的でしたね。市民証に住所の記載がなかったのは、まだホテル暮らしだったからです」
 携帯通信端末を持っているキメラはまだ限られているため、それだけでも充分金に変えられる。たとえ生体認証でロックをかけていても、分解して部品パーツを取る分には何の支障もないのだ。
 それでも、もしリュウが銀行口座などにアクセスしていれば、シルバーはネットワーク上に残るその痕跡を、どんな手を使ってでも辿ってのけただろう。しかしパスワードを忘れたリュウは、市民証をただ持ち歩いているだけで、一年以上いっさい使用しなかった。またシルバーはあらゆる場所にある防犯カメラの映像を洗い出していたが、キメラ居住区のカメラはかなりの割合が壊れたまま放置されている上、リュウ本人がまためったに外出をしなかった。
 そもそもシルバーは、リュウがふと思いついたその足でキメラ居住区に向かった事実、それ自体をまったく知らなかったのである。
 人間の興信所に依頼しても、調べてくれるのは人間の居住する範囲内のみ。しかも依頼内容が『市民権を与えた途端、身一つで逃げた(としか客観的には見えない)キメラを探して欲しい』では、まともに取り合ってもらえるはずもなかった。さりとてキメラの探偵に頼んでみたところで、同じ理由から、こちらは同胞を庇うべく適当な報告をするばかり。
 かくしてシルバーがドクター・フェイの元へたどり着くまでに、一年近くもかかってしまったのだ。
 むしろこの場合、よくぞ見つけられたと、その執念と技術に驚嘆するべきだろう。リュウの外見が際立って特徴的だったのが、もっけの幸いであった。
 そういった説明に耳を傾けていたフェイは、聞き終えると深々と息を吐いた。
「まったく……シルバーの苦労が忍ばれるな」
「申し開きようもありません」
 記憶を失くしたのは別にリュウの責任ではないし、あの場合にリュウが取れる行動の選択肢は、そう多くもなかった。仮にそのどれを選んでいても、その後の展開に大差はなかっただろう。しかしシルバーが、どれだけ彼の無事を願っていたのか。懸命に手を尽くして探し、そして誰の理解も得られぬまま苦悩していたのかを考えると、気の毒すぎて他に言いようがない。
「そもそもだ。こうしてお前が記憶を取り戻してみて、俺は心底シルバーに同情したね」
「そうなんですか?」
「そうなんですかじゃねえ。お前、いくらなんでも性格変わりすぎだろう!?」
「はあ……」
「だから、はあじゃねえっての! シルバーからは青と金のバイアイの銀狼としか聞いてなくて、遺伝子情報も提示されたのと一致したから、本人に間違いないって断定したがな。そうじゃなきゃ別人としか思えねえぞ!?」
 力説するフェイの様子に、カウンターの内側でアウレッタが苦笑いしている。
 記憶を取り戻した現在を見て、初めて理解できる。この二人がどれほど互いを大切にしていたのかを。
 しかしシルバーとの出会いから以降、そのすべてを忘れてしまったリュウは、彼女と再会してもまったく思い出す様子がなく、他の人間ヒューマンに対してと同様、一切関わりたくないという姿勢を貫いていた。
 ……これほど想い合っていた相手から、あれほどすげない態度を取られ続けたとしたら……仮に己と白髪の看護師の場合を当てはめて想像し、フェイは両手両足を付いて項垂れそうになった。
 仮定として思い描くだけで、既に心が折れそうだ。
 本当に、自分は彼女の心情を、まったく配慮していなかったのだと、今になって思う。
 ちびりと含んだ酒は、やけに苦く舌を刺した。

「…………病室でパニック起こしたシルバーを、お前が怒鳴りつけた時にさ。正直、内心でびびってたよ。命知らずなって思った。人間相手にキメラが……って」

 意識が朦朧とし、医者に対する恐怖から錯乱して暴れる彼女を、リュウは病室に入ってくるなり一喝した。名を ―― それも略称で呼び捨て、何をやっているのかと一方的に叱りつけた。
 かつて、特例措置として否応なく人間と生活を共にした経験を持つフェイは、骨身に沁みて思い知っている。たとえキメラに人権を認めているこのレンブルグであろうとも、そしてどれほど正当な理由が存在していたとしても、『それ』がどれほど許されがたい行為であるのかを。

 だというのに、

「……お前ときたら、それからもぽんぽん叱るわ無断で触れるわ……昨日なんて、注文と違う料理出してただろ」
「あれは、病み上がりでまだ胃が弱っているのに、いきなり刺激の強いものを頼むから……」
 昨日のうちに退院手続きを終えたシルバーは、店の方が忙しいリュウに代わり、ちょうど昼食を摂りに出るフェイの付き添いを受けてペントハウスへと帰宅した。その途中、診療所から貸し出された車椅子に乗って【Katze】に立ち寄り、フェイと向かい合わせでそれぞれに料理を注文したのだが。
 辛口のカレーライスを頼んだシルバーに出されたのは、何故かコンソメで味付けされたきのこ入りのリゾットであった。さらに食後のブラックコーヒーは、ミルクを三割増量したカフェオレに変更されている。
 確かに、薄味の病院食が続いていたところに、どこかのテーブルから漂うカレーの匂いを嗅いだとすれば、それは猛烈に食べたくなるだろう。しかしいきなりその選択はいかがなものかと、オーダー時にフェイも思わなくはなかったのだが。
 とは言え……
「それを一存で勝手にやれるから、お前らはすげえってんだよ」
 フェイはしみじみと嘆息した。
 独断で違う料理を出した程度で、彼女は怒らないと、リュウは確信している。
 そしてシルバーもまた、リュウが自分を気遣っているからこそ、そんな行動をとるのだと理解している。
 互いにそれだけの信頼を置けるほどの絆を、この二人は築きあげて来ていた。

「 ―― 実を言うとな」

 フェイはからりと手の中で氷を鳴らす。
「記憶を失くしたお前と、もう一度やり直したいって言い出したシルバーに、なに寝言ほざいてやがんだコイツとか思ったんだ。ペットを飼いたいなら、他の都市まちに行け。レンブルグここに来てまで飼い主面で束縛すんなって」
 突き放した言いように、リュウがきつい眼差しを向けた。
 明確な非難のこめられたそれを、フェイは小さく肩をすくめてかわす。
「んな目で睨むなって。最初だけだ。何度か連絡をもらう内に、シルバーが本気でお前のことを大切に考えてるんだって、ちゃんと理解できたんだから。……いや、理解したつもりで、いたんだけどよ」
 ことりと、飲みかけのグラスをカウンターに置く。
 そうして空いた両手の指を組み、口元を覆うようにして俯いた。
「まさか精神こころのバランスを崩すほど、シルバーが追い詰められてたなんて、俺は全然気付いていなかった」
 絞り出すようなその口調は、シルバーが負傷した晩に、病室で人間用の医薬品を用意していなかったことを悔いていた、あの時のそれによく似ていた。
 どこか、後ろめたさを孕む、その響き。
 常であれば、けして余人には見せたりなどしない。たとえどれほど思っていても、患者となりうるべき相手に対しては、絶対に隠し通さねばならない、懺悔めいた告白 ――
「俺は、医者失格だ」
 うつむいた顔では眼鏡のレンズに光が反射していて。彼がどんな表情でこんな言葉を吐き出しているのか、はっきりとは見て取れない。
「シルバーが人間ヒューマンだったなんてのは、言い訳にならねえ。俺は医師免許を取るために、人間と同じ教育を受けた。今の医療技術を考えれば、まだ研究が進んでないキメラよりも、人間の病状にこそずっと詳しいはずなんだ。それなのに、俺はシルバーのことを、ちゃんと見てなかった。シルバーがお前を最優先してるのに胡座あぐらをかいて、表向きは協力してやってるつもりで、根っこのとこでは、お前に悪影響を与えない手立てばっかり考えてた」
 技術はあるのに人間を診させてもらえないからと、ふてくされた挙げ句に中央病院を飛び出した。だが気がついてみれば己は、いつしか自分自身の意志で、人間を診ることを止めてしまっていたのだ、と。
 いくら目の前に座っていても、診断する気で観察しなければ、その相手は単なる背景モブだ。キメラを診てくれる唯一の医者だと周囲に持ち上げられて、良い気になって。すぐそこに確かに存在していた、傷つき苦しんでいる患者予備群を、まったく視界に入れていなかった。
 自分はいったいいつから、そんな傲慢な男になっていたのだろう。
「ドクター……」
 低く呼びかけるリュウの声に、責めるような響きは混じっていなかった。
 フェイは吐き出すだけ吐き出して、何らかの整理をつけたのか。ひゅっと小さく息を吸い込む。
「 ―― これからは、しっかりしねえとな」
 そう言って上げられた眼差しには、再び力が戻っていた。
「シルバーはここで、この街で暮らしていくんだ。人間用の医薬品や、設備を用意しとくだけじゃねえ。ちゃんと、体調の変化にも気付けるように、これからはきちんと注意しないと……」
 決意するように、カウンターの上で硬く拳を握りしめる。
 その傍らへと、リュウは静かにグラスを置いた。
「なら、ひとつ頼みがあります」
 その言葉にフェイが振り返る。丸いレンズ越しの赤褐色の瞳を、邪魔になる前髪をすべて取り払った青と金の瞳が、まっすぐにとらえた。
「……前にも言った通り、あの人はときどき高い熱を出します。原因は、あの足。熱が出る前には、左足の引きずりかたがひどくなります。そして高熱にうなされていても、膝から下だけはまるで氷のように冷たい」
 説明された症状に、フェイの顔が引きしまった。己の知識を総動員しているのか、視線を手元に落としてしばらく考えこむ。ややあって、かぶりが振られた。
「……そんな症例、聞いたこともないぞ」
「珍しいのは、確かでしょう。詳しくはあの人の許可がないと話せませんが……それでも、できれば気にかけていてもらえませんか。これまではずっと一緒にいたから良かったけれど、今は店の仕事があります。前のように付きっきりという訳にはいかないし、それにあの人はことさら不調を隠そうとするので……」
 以前は同じ屋根の下で、ほぼ四六時中、同じ時間を過ごしていた。様子がおかしければすぐに気が付けたし、気付けば即座に対処ができた。しかし現在は店の手伝いとビルの管理という、新たな仕事がある。どちらも今さら放り出すなどできないし、できればそうしたくもない。必然的にハウスキーパーとしての役割はおろそかになるが、シルバーはそれで良いと言ってくれた。自分が払える給料も、以前ほどではなくなっている。掃除や洗濯はほどほどでいいし、食事はこれまで通り【Katze】を利用した方が、材料を買いに行く手間や光熱費が少なくてすむ。この街でできた知り合いとの付き合いもあるだろうし、もっと自分の時間を持って良いのだと。
 それは気遣いをありがたく思ういっぽうで、彼女と過ごす時間が減ってしまう寂しさを感じずにはいられない言葉でもあった。
 けれどシルバーが自ら進んで部屋を出て店まで足を運び、ルディやドクターやその他の面々とそれなりに楽しげに会話している姿を思い返すと、そんな生活も悪くないと思えてくる。
 だから、気がかりとなるのは、この先彼女が調子を崩した際に、すぐにそうと気付けないのではという懸念ばかりで ――
「判った。皆まで言うな」
 フェイは真剣な顔でうなずくと、グラスの中身を底まで飲み干した。
「俺も頻繁に顔を会わせるって訳には行かねえが、できるだけ注意を払っとく。似た症例がないかとか、論文も当たってみよう」
「よろしくお願いします」
 深く頭を下げたリュウに、ひらひらと手を振ってみせる。
「よせやい、俺は医者だぜ?」
 そう言って笑うその雰囲気は、既にいつものような、煮ても焼いても食えない飄々としたそれに戻っていた。
「お前もシルバーも、もうこの街の一員だ。俺が責任持って、面倒見てやるからな」
 覚悟しとけ、と口元が歪められる。
 まるで挑むかのごときその眼差しに、リュウはどこかはにかむような仕草で、わずかに視線を伏せた。


「 ―― さて、そろそろ本当にお開きにしたらどうだい。ふたりとも、明日も仕事なんだよ?」


 話が途切れたのを見計らって、洗い物を終えたアウレッタが口を挟んできた。
 参加者達の都合に合わせて、今回の宴は週末に設定された。しかしこの店も診療所も、定休日は世間一般の休みから微妙にずらしてある。つまり明日もまた、いつもと変わらぬ時間に起きて、一日仕事に明け暮れなければならないのだ。
「そうだな。遅くまで悪かった」
 まずはフェイが席を立った。
「あとは私がやっておくので、女将さんはもう上がって下さい」
 二人分のグラスを流しへと運びながら、リュウがアウレッタを促す。
「ああ、じゃあ頼むよ。 ―― おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 口々にそう挨拶を交わして。
 フェイは道向かいの診療所の一角にある住まいへ、アウレッタは二階の1LDKへと、それぞれ帰宅の途につく。
 すっかり使い慣れたカウンターキッチンへと入ったリュウは、手早く氷をシンクに捨て、二つのグラスを洗い流した。布巾できっちりと、雫ひとつ残さず水気を拭い取る。

 そうして食器棚の所定の位置へと、静かに並べて置いたのだった ――


 〈 鵺の集う街で 第一話 終 〉        
(2015/04/12 12:46)
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