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 ぬえの集う街で  ―― Town Living of NU-E
 第十章 混乱
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 その後。
 やはり傷口から雑菌が入ったらしく、シルバーは高い熱を出した。あの人形を思わせる生気を失った無機質な寝顔を思えば、赤く上気し荒い呼吸に喘いでいるその姿も、まだ生きていることを疑わずにすむだけましな方かもしれない。しかし全身を汗で重く濡らし、腫れ上がった右腕を抱えて苦しんでいるさまは、やはり見る者にとってひどく辛いものがあった。
 熱に浮かされた意識はひどく曖昧で、時おり意味不明のうわ言を呟いている。
 彼女の高熱がある程度収まり、ようやく周囲からの問いかけに反応できるようになったのは、本格的な治療を受けてから四日も過ぎた頃であった ――


 その日は週半ばの祝日だったが、【Katze】の定休日は世間的な休日からずらして設定されている。事件のほとぼりもそろそろ冷めただろうと、店は週明けから営業を再開していた。
 いつもの休みの日と同じく昼過ぎに降りてきたルディ少年だったが、カウンター正面のいつものテーブルに、シルバーの姿はない。彼はブロッコリーやパプリカといった、色鮮やかな野菜をふんだんに使ったキッシュへフォークを突き刺し、不服げに頬をふくらませた。
「……せっかく野菜いっぱいなの、頼んだのに」
 生野菜は青臭くて苦手だが、火を通してあれば少しはましになる。それにベーコンの塩気や卵のまろやかさが加わって、これなら子供の舌でもなんとか食べられた。シルバーに言われて少しずつでも野菜を摂ろうと努力しているルディにとって、今日の選択はけっこうな勇気を振り絞った冒険だったのだが。
 切り取った一切れをもぐもぐと食べつつ、叔母あねや他の客達から聞かされた事件について、考える。
「…………」
 この街生まれのこの街育ち。
 人間に所有された経験がなく、また所有されているキメラを実際に見たことすらないルディにとって、『首輪付き』というのは、どこか遠くて実感の伴わない単語だ。
 両親や叔母、それにいつも良くしてくれる近所の大人や常連達が、それで苦労したという話は何度も聞かされている。ルディ自身、キメラだからという理由で、学校などでは理不尽な扱いをしばしば受けてきた。
 それでもやはり、よく判らない。
 だって、シルバーは良い人だ。見知らぬ子供でしかない自分が落とした消しゴムを拾ってくれて、宿題も教えてくれた。それから休日にはいっしょにご飯を食べるようになって、こちらのおしゃべりにだっていつもきちんと付き合ってくれる。他の大人達のように、途中で面倒になっていいかげんな生返事になったりなど絶対にしない。仕事をしながらでもちゃんとこちらの話を聞いているし、どうしても忙しくて集中したい時は、そうだとはっきり口に出して断ってきた。
 キメラだからとか、子供だからとか。そんなつまらない言い訳など、シルバーは一度だって口にしなかった。
 人間には、怖いヒトがたくさんいる。ひどいことをしてくるヤツだっていっぱいいて、正直を言えばあんまり好きではない。
 でも、シルバーは違うのだ。シルバーは、意味の判らない理由なんかで、自分達をいじめたりなんか絶対にしない。そうルディは確信している。
 だから、彼女がリュウを庇ったというのなら、それは『正しい』ことなのだ。
 首輪なんて、そんな物は関係ない。だいいちリュウが首輪をしていたからって、それが何だというのか。リュウはもうずっと長い間この店にいて、毎日美味しい料理を作っていた。なのにその首に輪っかがはまっていたからって、なんで急に態度を変えて、ナイフを振りまわしたりなんかするのだろう。それこそ意味が判らない。
「…………」
 判らないことは、まわりの大人に訊けばいい。これまでいつもそうしてきたし、これからだってそうするつもりだ。聞くは一時の恥と言うし、それが悪い行為だとは思わない。
 だけどこの問題に関しては、いつもみたいに、お店の客達に質問してはいけない気がするのだ。
 キメラだとか人間だとか ―― 首輪だとか。そんなことについてこの街の住人に尋ねてみても、ちゃんとした答えはもらえない予感がする。良くてせいぜい、子供が聞くような話じゃないと、それだけで終わってしまうのではないか。
 ならばやはり、訊ける相手はシルバーしか心当たりがなかった。
 彼女であれば、どんな問いに対しても答えをくれると思う。あくまで個人的な考えだが、と、そんなふうに前置きした上で。
 ああ、だけど。
 そのシルバーはいま、ドクターの所に入院しているのだ。
 酔っ払った男が振りまわしたナイフで、右手に大ケガをしたのだという。血がたくさん出て、バイキンが入って、高い熱を出したらしい。前に階段から落ちて膝を五針縫った時は、ものすごく痛かった。泣いて泣いて、男だろう我慢しろといろんな人に言われて、よけいに涙が止まらなくなった。風邪で熱を出した時も、喉は腫れるし身体中がギシギシするしで、一晩中大変だった。なのにシルバーは、もっとたくさん何針も縫って、何日もずっと熱が引かないらしい。
 大丈夫だろうか。シルバーは大人だけど女の人で、それに体力だって腕力だって、叔母やレンのようなほっそりとしたキメラ女性よりも、さらにもっとずっとか弱い ―― 人間、なのに。
「…………」
 ぎゅっと顔をしかめたまま一言もしゃべらず黙って食べているルディへと、客達は気にかけるように、ちらちらと時おり目をやっている。

「…………シルバー、ちゃんと元気になるかなあ」

 やがて、ルディは小さな声でそう呟いた。
 頭の中でぐるぐると考えていたことが、無意識のうちに口をついてしまったのだ。
 一度言葉に出してしまうと、堰を切ったように不安がこぼれ落ちてゆく。
「熱があるとすごく苦しいのに、もう四日も下がらないって、大丈夫なのかな。ちゃんと起きられないと、ごはんだって食べられないし、ごはん食べないと元気も出ないのに。 ―― シルバーと、いっしょにごはん、食べたいのに……」
 ぎゅっとフォークを握りしめたまま、動かなくなる。
 泣くのをこらえているようなルディの様子に、見守る客達は掛ける言葉を見つけられないらしかった。誰かなんか言ってやれよと身振りで押し付け合う彼らをよそに、カウンターの中でカチャリと音が鳴る。
 洗い終えた皿を食器棚に片付けたリュウは、まくり上げていた袖を戻しながらキッチンカウンターから出てきた。
 ルディが座っているテーブルは、カウンターに一番近い、玄関ホールに面した側にある。薄暗い玄関ホールとの間にある大ぶりのガラス窓に背中を向けて、元気のない横顔を見せていた。そんなルディへと、リュウはゆっくり歩み寄ってゆく。
「ルディ」
 静かな声音で話しかけた。
 ふ、と顔を上げた少年へ、リュウは穏やかな眼差しを向ける。
「今からドクターのところへ顔を出すが、いっしょに行くか」
 予想外のそんな誘いに、ルディはパチパチと目をしばたたかせた。だがすぐに意味が判ったのだろう。その顔がパッと明るく輝く。
「行く!!」
 椅子を蹴って、勢い良く立ち上がった。
 しかしその一方で、レジ前で待機していたアウレッタが眉をひそめる。
「ちょっと……良いのかい?」
 リュウは何も遊びに行くのではなく、ドクターのカウンセリングを受けるため、わざわざ足を運んでいるのだ。これまでは睡眠薬を出してもらいがてら、週に一度の割合で通院していたのだが、この四日間は記憶の整合性を細かく検証するべく、毎日診察を受けに行っていた。店が再開してからも、手が空いた時間帯を見計らって、三十分ほどだけ抜けている。その途中、シルバーの病室にも立ち寄っているようだったが、それはあくまで ―― 本人の中における優先順位がどちらにあるのかはまた別として ―― ついでにすぎない。なにより意識もはっきりしていない状態の彼女の元を子供のルディが訪れたところで、ショックを受けたりあるいは治療の邪魔になるだけではないのか。
 そう懸念するアウレッタへと、リュウは首を振ってみせる。
「さっき、診療時間を確認しに連絡を入れたら、あの人の熱は今朝あたりから平常に戻ってきていると言われました。意識もしっかりしているので、短い間なら話ができるだろうと」
 つい昨夜までは、側に誰がいるのかも理解していないような有り様だった。リュウは毎日、店が閉まってからでも付き添おうとしたのだが、お前のほうが先に身体を壊すとドクターに追い払われてしまっていた。おかげでまだ、目を覚ました彼女と顔を合わせていない。
「そうかい。……それは良かった」
 峠を越したと聞いて、アウレッタは本心から胸を撫で下ろしていた。耳をそばだてていた常連客達の間にも、どこか安心したような空気が漂う。
 シルバーの負傷が、リュウを庇って負ったものであること。そして直接、あるいは間接的に二人の間にあった事情やドクターの話を耳にしたことによって、頑なだった彼らの心にも、じょじょにシルバーに対する共感めいた認識が生まれ始めていたのだ。
「早く! 早く!!」
 足踏みして急かしてくるルディに、リュウは前掛けを外して丁寧に畳む。あの晩、血で汚れて廃棄したために合わせて新調した、揃いのコックスカーフはそのままだ。手を伸ばし、用意しておいたレモネードの保温ポットを、カウンターの陰から取り上げる。
「では、行ってきます」
「ああ。別に急がなくて良いから、ゆっくりしておいで」
 食べ終えられた昼食の器をおおむね片付け、あとは常連達がお気に入りの席を占領しつつ、まったりと時間を潰す頃合いだ。新しい客はほとんど来ないし、よほどのことがない限りはアウレッタ一人で充分対応できる。
 待ちきれずに駆け出したルディを追って、リュウも店の扉から出て行った。さらに玄関ホールの自動ドアをくぐって、建物の外へと出る。そうして左右も確認せず走って道路をつっきろうとするルディを呼び止め、何やら言いさとしていた。そんな二人の光景は、道に面した大きな窓の、ガラス越しによく見える。

「……変われば変わるもんだなあ」

 テーブルに頬杖をついていた常連の一人が、ぼそりと低く呟いた。その声が耳に届いた他の客達もまた、うんうんと言葉少なに同調する。
 その徴候は、シルバーが大怪我をして運ばれたあの晩の、その翌日あたりから既に見えていただろうか。そして誰もがはっきりと違和感に気付いた頃にはもう、リュウのまとう空気は、完全に変わってしまっていた。
 けして、悪い方向にではない。むしろその逆のベクトルを向いている。
 これまでの彼は、己とその周囲の間に、常に見えない壁を張り巡らせていた。たとえ同じキメラが相手であっても、話す言葉は最低限で、長い前髪に隠されたその表情すらもがめったに変わらなかった。無口で無愛想。人間は大嫌いだが、さりとて獣人種に対しても心を開こうとはしない、見事なまでの『ヒト』嫌い。
 受けた恩義には相応に報いようとするし、理由もなしに他人を貶めたり暴力をふるう性格でもない。その根底にはきちんと責任感があり、誠実な部分を備えているのはそれなりに察せられた。
 それでも。
 いつまでたっても打ち解ける素振りすら見せず、ただひたすら黙々と働くだけの彼が、いったいどんなことをその内面で考えているのか。理解しようにも軽口や無駄話のひとつにすら乗ってこない相手を前にして、いささか持て余し気味に感じる者も、少なからずいたのだ。
 それが、あの変わりようである。
 先ほどはルディを相手に気遣うような提案をし、アウレッタへの返答には、穏やかな微笑みが添えられていた。そもそも、口数からして大違いである。リュウがこの店へとやってきて、もうそれなりの時間が経過している。それでも誰一人として、彼があんなに長い文章センテンスを口にするところなど、聞いたことがなかったのだ。
 そんな変化をもたらしたきっかけが、シルバーとの間にあったなんらかの過去を、わずかなりとでも思い出したことに起因するというのならば。

「いったいシルバーさんとリュウは、どういう関係だったんだろうねえ……?」

 しみじみと発せられたアウレッタの疑問は、そのとき場にいた客の全員が、共通していだくそれだったのである ――


§   §   §


 開いたままだった入り口から、ルディは勢い良く病室の中へと駆け込んでいった。
「シルバー!!」
 開口一番、大声で名を叫ぶ。
 それを振り返ったレンが、口唇に人差し指を当てて制した。
「他の部屋の患者さん達の、迷惑になりますからね」
 優しい口調で、しかしきっぱりとたしなめる。
 この診療所がある建物もまた、しょせんは下町の古ビルだ。けして普請が良いとはいえない。二階から四階のフロアはすべてドクターによって占有されているものの、壁が薄いため部屋同士の音はけっこう漏れ聞こえた。
 それはそれで、患者に異変が生じた際に気付きやすいというメリットも、まあなくはないのだが。とは言え実際に入院している当人達にしてみれば、物音が筒抜けというのは迷惑以外の何物でもないだろう。
 慌てて両手で口をふさいだルディに、レンは表情をほころばせた。素直な子供の反応というものは、なんにせよ、見ていて心がなごませられる。

「……シルバー?」

 今度はささやくような声で、おそるおそる呼んだ。
 枕を背中に当て、寄りかかる形で上体を起こしていたシルバーもまた、ルディの方を向いていた。
 ずいぶん面やつれしたその姿に、ルディはへにょりと眉尻を下げる。前を紐で止める若草色の病院着は、ちゃんと女性用のはずだ。なのに、かなり大きめのサイズに見える。それだけ彼女が細いからなのだろう。ただでさえスレンダーだった身体から、さらに肉が落ちているのがはっきりと見て取れた。
 長い黒髪は、首の一方でまとめて、ゆるい三つ編みにされている。後れ毛が何本か首や頬に貼り付いているあたりが、普段の隙のない格好と異なっていて。まだ本調子ではないのを見せつけられているようだった。
 それでもその瞳には、意志の輝きが内在している。
 ルディの姿を映して、目元がわずかにみはられていた。
「……どうして、お前が……」
 訝しげにつぶやく途中で、はたと何かに考えが及んだらしい。途端に形の良い眉がかすかに寄せられる。
「体調が悪いのか?」
 無傷な方の左手を伸ばしてきたので、ルディは招かれたのだと解釈して距離を詰めた。ゆったりとした袖から細い手首をのぞかせて、額へと手のひらが押し当てられる。熱を測ろうとする仕草だ。
 とは言えキメラと人間では、基本的な体温自体が異なっている。種族にもよるがたいていはキメラの方が二、三度は高めな上に、ルディはまだまだ子供だ。おそらく平熱には相当な差があるはずなのに、それにも関わらず今は触れている手のひらの方が、よほど熱く感じられる。
 やはりまだ、完全に回復した訳ではないのか。
 ぎゅっと顎に力を入れて、ルディはこみ上げてくる感情をこらえる。そうしてことさら何も気付いていないというていの笑顔を形作った。
「違うって。お見舞いに来たのっ」
 再び大きく声を上げたルディに、シルバーは数度まばたきした。そのまま動きが静止する。
 相変わらずほとんど無表情のままだったが、ルディは既に微妙な違いから、だいたいの意味合いを読み取れるようになっていた。特に今回は判りやすい。きょとんとしている。
「……見舞い?」
 意外なことを聞いたと言いたげに、その単語を不思議そうに繰り返す。
「そう!」
「…………なぜ」
「なんでって、シルバーがケガして、それでちょっと元気になったって聞いたから」
「私が怪我をして、どうしてお前が見舞いに来るんだ」
「どうしてって……」
 まったく噛み合わない会話に、ルディは口ごもった。シルバーが戸惑っているという事実は感覚で察知できるのだが、それがいったいなにに根差した困惑なのか、明確な理由にまではまだ辿りつけないのだ。
 助けを求めて、ベッド脇に立つレンを見上げる。
 しかし彼女もまた、困った顔をしていた。患者の状態を記録するノートサイズの端末を胸に抱いて、どちらに対してどう説明するべきか、決めかねているらしい。
 一番近くにいる大人が頼りにならないと判断したルディは、背後にいるはずの、もう一人の存在を思い出した。そちらの方へと、ぐるりと身体ごと向き直る。
 再会の一幕を邪魔せぬよう、リュウは病室に入ったところでひとまず足を止めていた。戸口脇で控えていた彼は、途方に暮れたその視線に苦笑いしつつ、ベッドへと近づいてくる。
「あなたが怪我をして、心配したと言ってるんですよ」
 穏やかで、柔らかな、低く落ち着いた声。
 ベッド上に向けられる色違いの眼差しには、溢れんばかりの気遣いが満ちている。
 しかし……
 その声を耳にした瞬間、シルバーはびくりと全身を硬直させた。凍りついた顔から、読み取りにくくはあってもそれまで確かに存在していた、感情の色がごっそり抜け落ちる。
 突然の変化に驚くルディとレンの前で、彼女は少しずつ視線を上げていった。大きく見開かれた黒い両目が、歩み寄ってくるリュウの姿を捉える。
「おはようございます、サーラ。お加減はいかがですか」
 心配と安堵を等分に交えた笑みを浮かべ、リュウはシルバーの方へと手を差し伸べた。
 それを見たシルバーは、狭いベッドの上で自由にならない身体を動かす。
 それは、明らかに後ずさろうとする仕草だった。
 まるでその指先から、少しでも逃れんとするかのように。
「サー……?」
「黙れ!!」
 いぶかしむリュウの呼びかけを、尖った叫びが叩き落とした。
 リュウを見るシルバーの面には、強い狼狽と、そして恐怖の表情が混在していた。シーツに手をついて支えた上半身が、カタカタと小刻みに震えている。
「シルバーさん? いったいどうしたんですか!?」
 レンがその肩に腕をまわして抱き寄せた。細い指で背中を撫でさすり、少しでも落ち着かせようと試みる。だがその言葉も、彼女の耳には届いていないようだった。
 目に痛いほど白い包帯がぎっちりと巻かれた、まだ痛むはずの腕を持ち上げ、両手で自らの頭を抱え込む。

「起きろ! 起きろッ! 起きろ……ッッ!!」

 声を振り絞って幾度も繰り返しながら、長い髪の毛を激しくかきむしる。
 常軌を逸したその振る舞いに気圧されたのか、ルディが数歩身を引いた。そんな彼の存在も、いまの彼女の目にはまったく映っていない。
「目を覚ませ! 夢だッ、リューはもう、私を呼ばないッ!!」
「シルバーさん! 暴れないで下さい。傷が開いてしまう!」
 レンが懸命に声をかけるが、シルバーは指をかぎのように曲げて、渾身の力で頭皮に爪を立て続ける。
「これは夢だ! 起きろ!!」
 悲痛な響きを孕んだ絶叫が、病室内の空気を震わせる。
 騒ぎを聞きつけたドクター・フェイが、廊下から白衣の裾を翻して駆け込んできた。ざっと目を走らせて状況を確認するなり、鋭く指示を飛ばす。
「レン、鎮静剤だ! いつもの半分で良い!」
 キメラと同じ分量を人間に投与すると、ショック死させてしまいかねない。返事もせず薬品保管庫へ走った彼女に代わり、フェイが暴れるシルバーを押さえつけようとした。
 と ――
 二人の間へと、リュウが強引に割り込んでくる。邪魔をするなと咎めかける医師を無視して、リュウは静かに語りかけた。

「……無理に起きなくても、良いんですよ」

 引き寄せた膝に顔をうずめ、身体を丸めているシルバーに、そっと手を差し伸べる。下を向いている彼女は、その動作が目に入らなかったため、今度は逃げない。ひたすら髪を握りしめている指へと、大きな手のひらが重なった。

「幸せで優しい夢なら、楽しめば良いんです。どうせいつか醒めるのなら、自然に目覚めるまでは、浸っていても良いでしょう?」

 やんわり指を握ると、込められていた力が次第に抜けてゆく。

「……サーラ」

 耳元へ吹き込むように、深みのある発音で語りかける。
 そうして、ようやく脱力したその両手を、丁寧に頭から引き離した。長い黒髪が何本も抜けて絡みついているのをそのままに、己の手のひらで包み込む。
「 ―― 眠って下さい。温かい夢なら、ずっと見ていれば良いんですから」
 息がかかるほど近くから、視線を合わせて瞳の奥をのぞき込んだ。
 ぽっかりと空いた穴を思わせるうつろな目は、ただ呆然と開かれているだけだった。先ほどまでのような意志の輝きなど、まるで見受けられない。
「……だけど」
 ぽつりと、言葉がこぼれる。
「起きた時に、お前がいない」
 乾いた単調な声で発せられたのは、そんな弱々しい訴えだった。
 果たして彼女は、これまで何度、裏切られてきたのだろう。夢の中で失ったはずの大切なものを取り戻し、失くしたのは夢だったのだと安堵して。けれど目覚めた次の瞬間、絶望の淵に突き落とされる。そんな夜を、いったいどれだけ繰り返してきたのか。

『夢で、良かっ……た』

 あの夜、枕元に付き添うリュウへと向けられたのは、おそらく夢の中で何回も口にしてきた言葉だったのだろう。
 うなされて、現実のように幸せな悪夢を見る。けれどそのことを、けして誰にも悟らせず。朝が来て、食事を摂りに【Katze】を訪れる時にはもう、何事も起きなどしなかったのだと平静な顔を繕ってみせる。自分を忘れてしまったリュウに、一片の不審も不安もいだかせぬために。
 そして今朝この病室で意識を取り戻した時も、リュウの夢 ―― 彼女の認識上、記憶を失ったままの彼が、付き添いをするなどまず想定の外だ ―― を見たなど、シルバーはおくびにも出さなかった。彼女にとってそんな夢は、もはや日常の一部であり、誰かに訴えたところで意味などないのだとでも考えていたのか。
 けれど、
 いきなり病室に現れたリュウから、それまでとは一変した態度を向けられて。彼女はいっきに混乱の内へと叩き落とされた。
 現実だと信じ、レンやルディと普通に会話していた今のこの時間は、まだいつもの悪夢の中であったのかと。ついに自分は、ここまで夢とそうでない間の区別がつかなくなっていたのかと。
 ぼんやりとリュウを見返すシルバーの目は、もはや現実を見てはいなかった。己の目に映っているものが、本物なのかそうでないのか、もう自分では判断できなくなっているのだ。
 リュウは一瞬、言葉に窮して息を詰まらせた。しかしぐっとこらえて、さまざまな想いごとすべてをいったん脇へ置く。
 くしゃくしゃに乱れた頭を両手で挟み込んで、ゆっくりと胸の内へ抱き寄せた。
「ちゃんと、側にいます。これからは、ずっと」
 誓うかのようなその声色は、わずかに掠れ、震えていた。それでも今ここではっきりと確約しなければならないのだと、懸命に動揺を押さえて宣言する。
 支える手のひらを失った細い両手が、ぱたりと力なくシーツの上に落とされた。
 引き寄せる腕に、逆らうことなく身を任せる。その口元に浮かべられているのは、どこまでも透明な微笑みだ。

「……嘘、つき……」

 閉ざされゆく目蓋の間から、涙が一筋、つうっと頬を伝い落ちた ――


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