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 ぬえの集う街で  ―― Town Living of NU-E
 第五章 子供と大人
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


「シルバーって、いつもこの時間にここ来てるの?」
「ああ。お前は、こんなに遅くまで、帰らなくていいのか」
「うん。うち、この上でさ。そんで姉ちゃんが仕事から帰るの、待ってるんだよ。一人で部屋にいるよりも、ここでみんなとご飯食べてる方が、姉ちゃんも安心だって」
「そうか。働き者の姉だな」
「いつもはもうちょっと早く帰ってくるんだけど、今日は残業で遅くなるって言ってた」
 普段は朝も夜も一言もしゃべらず、すでに定位置となったカウンター正面の席でひとり過ごすシルバーだったが、今夜はまったく様相が異なっていた。たまたま行き合わせた少年 ―― ルディに引き止められて、店内のほぼ中央にあるテーブルに同席しているのだ。
「ここに住んでいるということは……二〇三号室の、アンヌ=テナーか?」
「そうだよ。シルバー、アンヌ姉ちゃんのこと知ってるの?」
「いや、住民名簿のデータを見ただけだ。そう言えば入居時の写真フォトで、子供を抱いていたな。あれがお前か。ずいぶん大きくなったんだな」
「ほんと!? ほんとに大きくなってる?」
「ああ」
 幼い子供ゆえの、怖いもの知らずとでも言うべきか。
 人間ヒューマンを相手に物怖じせず次々と話題を振るルディと、それなりに答えを返すシルバーとの間には、温度差こそあれそこそこ会話が成立していた。
「母さんはちっちゃかったけど、父さんはすごく背が高かったんだって。だからオレも将来は、もっとずっと大きくなって、姉ちゃんを守るんだ!」
「目標を持つのは、良いことだ」
 ルディが店内に響き渡る声でシルバーの名を呼び捨てるたび、周囲の客達はびくびくと身をすくませる。しかし呼ばれる本人はまったく気にするでもなく、淡々とカレードリアを口に運んでいた。
 ……もしかしたらあれは、食べ終えたルディの皿を見て、自分もカレーを食べたくなったのだろうか、と。
 客達の何人かはそんなことをちらりと考えたが、直接確認する勇気のある者は、誰もいなかったのである。


 そんな一件があってからというもの、シルバーの来店する回数が、またわずかに増える次第となった。
 これはルディのわがままが通った形である。
 この少年は、生まれる前に事故で父親を、そして生まれると同時に母親を産褥で亡くしていた。今は母の妹である叔母アンヌ=テナーを姉と呼び、二人で暮らしている。
 小馬ポニーのキメラであるアンヌは若く、ルディを引き取った頃にはまだ十代の少女でしかなかった。温厚な性格と、辛抱強く働き者であることが特徴のポニー種だが、それでも女の細腕一本で子供を育てていくことがどれほど大変か、想像に難くない。
 この都市レンブルグでは、定められた税金さえきちんと支払っていれば、キメラの子供にも出生届を出すと同時に市民権が与えられる。しかし獣人種の間での出生率は、けして高くはなかった。たとえどれほど愛しあい肌を重ねたとしても、そもそもの種族が同系列の近縁種でなければ、妊娠自体ができないのだ。
 ルディの父親は工場で製造された第一世代のサラブレッドで、母親は第一世代同士が結婚して自然出産した、二世代目のシェトランドポニーだった。そんな二人の間にできたルディは雑種ミックスということになるが、どうやら母方の血が濃く出たらしい。純粋なシェトランドポニーのアンヌと並んでも、本当の親子か姉弟のようによく似ている。
 生まれる子供の数が絶対的に少ないキメラ達にとって、子供という存在はそれだけで、たとえ他人や他種族のそれであってさえ気持ちを安らがせてくれるものだ。もちろんのこと例外はいずこにもあるが、たいていのキメラの大人は、子育てに関して理解を示し協力的である。
 アンヌは昼間スーパーでレジを打ち、夕方からは清掃員として働いている。帰宅はいつも19時を回っていた。そんな彼女の苦労を知るアパートの住人や店の常連達は、ルディが夜に一人で【Katze】をうろうろするのも、快く受け入れていた。
 ちなみにルディが通っているのは、キメラ居住区の外にある、人間と同じ学校である。
 前述の通りキメラの子供は少ないため、あえて建物やクラスを分けるほどの数がそもそもいないのだ。都市の住人が無料で受けられる義務教育は十五歳までで、ほとんどの獣人種は高い授業料を払って高等学校以上に進むことはしない。それでも基本的な教育を保証されているだけ、レンブルグは恵まれていると言えた。ただ、学校での扱いは、普通に悪い。
 差別や体罰など当たり前。同じ生徒どころか教師でさえ、公然と人間と獣人種の扱いを変えている。
 そんな環境でも明るく育ち、屈託ない笑顔を見せるルディを、周囲の大人たちは温かい目で見守っていた。同じ学校に通うキメラの友人達も何名かはいるのだが、住んでいる場所が離れており、放課後になるとそれぞれの家へ別れて行ってしまう。
 そういった事情でルディは、毎日下校してから育て親が帰ってくるまでの時間を、店にやってくる大人達としゃべったりテーブルで宿題を片付けたり、あるいは店の隅にある映像受信機で子供向け番組を見たり、忙しい叔母の代わりに作ってもらう、夕飯を食べたりなどして過ごしているのである。
 毎晩19時過ぎにアンヌの帰宅に合わせて店を後にしていたルディは、それまで新しい家主で人間ヒューマンの常連客が増えたという話を耳にしていても、実物に出会ったことは一度もなかった。ただ叔母や常連客達の噂話から、近寄りがたい相手だという印象は抱いていたらしい。
 しかしそれも、初対面で宿題の間違いを教えてもらったことで、完全に払拭されたようだった。むしろ、いっぺんに懐いてしまったと言った方が良い。
 彼女と自身の来店時間が完全に食い違っていると知ったルディは、盛大に機嫌を損ねた。
 自分もシルバーがやってくる20時以降まで店にいたいと言い張ったが、さすがにやむを得ない事情がある場合を除けば、その時間帯は子供にとって遅すぎる。叔母やアウレッタを始めとして常連全員からそう却下されたルディは、それでもあきらめなかった。今度は学校が休みの日の開店直後にやってきて、朝食を摂りに現れたシルバーを、直接捕まえたのだ。

 そうして、ごねた。

 その大胆な主張に、居合わせた全員が真っ青になったのもお構いなしで、シルバーに時間を合わせてくれるよう強請ねだったのである。
 しかしルディのわがままにも、彼女は動じなかった。
 その訴えに耳を傾けて、しばし黙考する。
 もし待ち合わせをするとしたら、シルバーの方が夜の来店を早めるしかなかった。だが彼女にとって、夕食が20時というのは、それでもまだ早い方なのだという。もともと夜型の生活をしていたシルバーは、できればもっと遅くに食べたいらしい。それをオーダーストップの時間に合わせて早めに設定しているのだから、これ以上ずらすのは難しいという。
 そこでいろいろと話し合い歩み寄った結果、ルディの学校が休日になる週末の二日間は、昼過ぎにも彼女が店まで足を運ぶという約束でまとまったのだった。
 そもそもシルバー自身は、最初から日に三度【Katze】を利用していたのだ。それを店側の都合によって減らしたのだから、週に二日とはいえ来店回数を戻すのは、好都合でこそあれ不服はなかったらしい。
 そうなると問題になるのは店の ―― 常連客達側の感情であったのだが。
 ……この頃になるとさすがの彼らも、シルバーと店内で時間を共有するのに、少しずつだが慣れてきていた。
 それはドクターの叱責を受けたことや、彼女とルディがそれなりに楽しげに会話するさまを、目の当たりにしたせいもあっただろう。
 あるいは。
 どれほど言葉を尽くしてもけっして意思を変えず、下手をすればシルバーのペントハウスにまで突撃して行きかねない子供ルディの説得に、疲れ果てたのもまた、譲歩の理由に一役買っていたかもしれない。
 ともあれ、そういった成り行きで。
 週末の昼時には、もはや定席となったカウンター近くのテーブルで、向い合って座る二人の姿が恒例の光景となるのであった。


§   §   §


 両者のやりとりの内訳はというと、もっぱらルディが口を開き、シルバーは言葉少なにうなずくか否定するか。あるいは質問に短く答えるといった具合である。しかもシルバーの方は、以前のようにキーボード付きの機械端末を持ち込んで、何やら仕事を片付けながら相手をしている場合も多かった。
 それでも向けられる言葉を無視するようなことは一切なく、作業中でも必ず何らかのいらえは返している。
 時には、客達の度肝を抜く出来事もあった。
 例えばそれは、シルバーが片手で食べられるからとよく注文するサンドイッチを選び、ルディは大好物のオムライスを頼んだ時のことである。
 とろりとした半熟の卵とケチャップの取り合わせを堪能していた少年は、キーを操作しながらオニオンツナサンドを食べているシルバーを見て、不思議そうな表情を浮かべた。
「……シルバーは大人なのに、そんなにちょっとだけでお腹空かないの?」
 画面から視線を上げた彼女は、口の中にあるものをしっかりと噛み、すべて飲み込んでから返事をする。
「運動量が少ないからな」
 きっぱりと断言されて、誰もがそうだろうと納得した。
 彼女がしている運動といえば、せいぜいペントハウスとこの店を、日に二度か三度往復しているだけである。果たして自室内でどれほど動き回っているかは定かでないが、どちらにせよ消費しているカロリーなど、たいした量ではないだろう。
「だから多く食べるより、バランスを考える方が重要だ」
 付け加えられた内容に、ルディはこくこくと首を上下させる。
「それ、姉ちゃんがよく言ってる。好き嫌いしないで、もっといろんな種類のものをバランスよく食べないと、おっきくなれないぞって」
「……そうだな。特に成長期には、様々な食材を満遍なく摂取すると良い」
 カロリーの高いものばかり無闇に食べるよりも、蛋白質や炭水化物、各種ビタミンやミネラルに食物繊維など、豊富な栄養素を含んだ食事を適切な頻度で適切な量、口にするのが望ましいのだと。
「そっかあ」
 なにもあれは、好き嫌いの多さやせっかくの食事を残すもったいなさについて、たしなめられていたばかりではないのか、と。少年は保護者である叔母あねから寄せられている愛情を、改めて思い知ったようだ。
 と、そこで思考がどのように展開して、どちらにむかって方向転換したのか。ルディはオムライスをすくった手元を、まじまじと見つめた。
 それから……そのスプーンを、向かいに座るシルバーの方へと突き出す。
「はい!」
「…………?」
 目的とするところを図りかねたのか。数度瞬きしてスプーンを見るシルバーへ、ルディは元気よく告げる。
「たくさんの種類を食べなきゃなんでしょ。はい、これも食べて!」
 すがすがしいほど無邪気なその要求に、店内がいっきに静まり返った。
 それぞれに食べたり飲んだりしゃべったりしていた客達が、全員凍りついたように硬直して、ふたりのいるテーブルの方をこわごわと振り返っている。
 誰かが止めなければいけないと皆が思っているのだが、一人として行動に出ることができない。
 張り詰めた緊張が、限界に達しようとした時だった。

「 ―――― 」

 上体をわずかに倒したシルバーが、持ち上げられたままのスプーンに手を添えた。そうして薄い口唇を開き、卵とチキンライスの混合物を招き入れる。
 数度顎を動かして咀嚼し、喉が上下した。
「おいしい?」
「 ―― ああ」
「だよね! リュウが作るようになってから、なんかふわっとしてて、そんでもってあんまり脂っぽくないんだ」
 ルディは己の手柄のように自慢する。
「……卵は、混ぜすぎない方が良いらしい。それから牛乳の代わりに、豆乳を使っている」
 そんなふうに分析しながら、シルバーは紙ナプキンを使って口元を押さえた。
 カウンターの奥。やはり息を詰めて成り行きをうかがっていたリュウが、前髪の下でその目をわずかに見開く。
 確かに、オムライスやスクランブルエッグといった卵料理には、豆乳を使うようにしていた。牛乳や生クリームよりも口当たりが柔らかく仕上がるし、乳製品特有のしつこさも少なくなる。栄養価は高いままカロリーやコストを抑えられる利点もあって、リュウが厨房に入るようになってからはそのレシピを採用したのだ。
 しかし味が変わったという指摘を受けたことはあるが、隠し味まで言い当てられたのは初めてだった。
「もう一口いる?」
 ルディの問いに首を振って、シルバーが自分の皿を指す。
「食べるか?」
 またも息を呑む一同をよそに、ルディは大きくうなずいた。
「うん!」
 そう言って、さてどれにしようかと皿に並ぶサンドイッチを順に見つめてゆく。
「……普段、野菜は摂っているのか」
「う……オレ野菜嫌い。なんかパリパリして、青臭いし」
「ならば、これだな」
 シルバーが選んだのは、バターを塗ったパンにハムとレタスを挟んだものだった。ルディの耳が嫌そうに垂れるが、彼女は無言で目の前に差し出し、じっと待つ。
「う〜〜」
 半ば涙目になりつつ、ルディが口を開けた。そうして一口かじると、噛み切れなかったレタスがずるりと抜け出してくる。
 それでもぎゅっと目を閉じて、無理矢理すべて飲み込んだ。
「…………ん」
 満足そうにうなずいて、シルバーはそのまま手元に残った部分を自身の口へと運んだ。
 かじりかけの残り物を、躊躇もせず食べてしまう。
 口直しにと、ジュースのコップを抱え込んでいるルディの頭を、伸ばされた手がぽんと軽く叩いた。


 ……二人が過ごす週末の時間は、程度の差こそあれ大体がそういった感じで。
 何度か繰り返される頃には、週末の午後に彼女が店にいるのにも、ほとんどの客達が違和感を覚えなくなっていきつつあったのである。


§   §   §


 平日に、デリバリーを最上階まで届けるのは、リュウの役目になっていた。
 ランチタイムの客がひと通りはけ、片付けも一段落ついた14時になると、朝食時に注文されていたメニューを盆に載せ、飲み物を入れた保温ポットを抱えて店を後にする。
 正直なところを言えば、リュウはできるだけあの人間と関わりを持ちたくなかった。出前も本当ならアウレッタに頼みたいところである。
 しかし彼は雇われの身で、しかもアウレッタは年配の女性だ。いくらエレベーターがあるとはいえ、七階まで毎日足を運ぶのはやはり、若い男であるリュウが担当するべきなのだろう。
 実際、一番初めの時など、用意した料理を前にためらっているリュウへ、居合わせたドクター・フェイがしごく面倒そうに発破をかけた。何も取って食われる訳でなし、さっさと行け、と。
 リュウにしてみれば、人間の住居へ足を運ぶのも、猛獣の檻に突っ込んでいくのも、心情的に大差はない。こちらの言うことが時にまったく通じず、機嫌を損ねればすぐ実力行使に訴えてくるあたり、両者はとてもよく似ていると思う。
 デリバリーを始めてから、もうずいぶん時が過ぎていた。その仕事は日常の業務の一環として、完全に組み込まれている。それでもやはり、盆を手に七階へ向かおうとすると、緊張で心身がこわばるのを自覚できた。
 その日もまた、いつものように最上階でエレベーターを降りる。長く伸びた廊下に、ひとつしか存在していない扉の前で足を止め、覚悟を決めるように一度大きく息を吸った。
 そうしてインターホンへと指を伸ばす。これを押せば、室内からの操作で扉のロックが解除されるのだ。開けて入ったところがすぐ、広く取られたダイニングルーム。そこにあるテーブルへと盆を置いて、前日の食器を回収し、出る。要求される仕事はそれだけだ。いつも変わらない、ごく簡単なこと。
 意を決してボタンを押し、内部からの応答を待つ。

「 ―――― 」

 今日はやけに、反応が遅かった。
 しばらく経って、もう一度呼び出そうか、それともいったん戻って店から問い合わせの通話を入れるべきかと迷い始めた頃、ようやくインターホンが起動する。

『……待たせたな。すぐに開ける』

 機械越しに響くその声は、店でルディと話している時よりも、さらに感情がうかがえず乾いて感じられた。
 かすかな電子音がして、鍵が開いたのが判る。ドアノブに手をかけた時、インターホンからさらなる言葉が発せられた。
『手間をかけるが、今日は部屋まで持ってきてくれないか。まっすぐ奥に入った、左側だ』
 初めての指図に、思わず動きが止まる。
 これまでは玄関を開けたところにある、ダイニングのテーブルにセットしていくよう言われていた。シルバー自身は出てくる日もあるし、顔を見せない日もある。広いフロアで離れた場所にいた場合、杖を使う彼女が玄関までたどり着くよりも、さっさと用事を済ませてしまいたいリュウの方が、先に部屋を出てしまうのだろう。代金は夕食時にまとめて払われるので、今までそれで何の問題もなかったのだが。
『聞こえているか? 入って奥の、左の部屋だ』
 答えがないのを訝しんだのだろう。同じ指示が繰り返される。
「……判りました。失礼します」
 ぐっと顎に力を込めて、改めて扉を押し開けた。
 落ち着いた色の絨毯に覆われた、広い部屋が出迎える。他の階であればそれだけで一戸分を占めるだろう空間が、衝立で区切られ、手前が食事用のダイニングに、奥がソファセットの置かれたリビングになっている。ダイニングの左にはキッチンへの入口。右側の壁にはずらりと備え付けの収納が並んでいる。
 シルバーが引っ越してくるに先立ち、長らく空室になっていたこのフロアを掃除したり設備の点検整備を行ったのは、他でもないリュウだった。そのため全体の構造は把握している。ダイニングとリビングの間から左に向かって、外廊下と平行に内廊下が伸びており、その両脇にバスルームやトイレ、寝室といった各部屋への扉が並んでいる。廊下は突き当りでさらに左に折れていて、少し広い空間になっていた。そこの掃出窓からは、屋上へと出られるようになっている。やはり他の階の一戸分近い面積がある屋上には、隅の方に建物全体をカバーする発電機や給水設備があった。日当たりが良く、天気の良い日は洗濯物を干したり、日光浴などもできるようだ。
 先ほど指定された奥の左側の部屋とは、リビングに直接隣接する一室だろう。そこは内廊下ではなくリビングの側に出入口があり、両引き戸を全開にすると内部がほぼ丸見えになる。
 実際にシルバーが入居して以降、リュウは衝立より向こう側に、一度として行かなかった。緊張を押し隠し、盆を両手で支えて、ゆっくり慎重に歩を進める。
 衝立の脇を過ぎリビングに入ると、差し込む光が眩しく目を射た。ここは建物全体の角に位置するため、正面と右側の壁に大きく窓が取られている。ことに表通りに面した南向きのベランダからは、道を挟んだ向かいにある、診療所の入っているビルがよく見えた。
 中央にソファセットが一式揃い、そこに座ると見やすい壁際に、大きな画面の映像受信装置が置かれている。
 リビングに面した引き戸は、すべて開けられていた。音を立てないよう静かに室内をのぞき込むと、以前はがらんとしていた様相が一変している。
 正面の壁に接して机が三つ、ずらりと並んでいた。そしてその上に、薄型の巨大なディスプレイがひとつずつ設置されている。いくらか内向きの角度をつけるように置かれたその中央で椅子に座れば、視界はほぼその画面で埋まるだろう。机の空いたスペースには、他にキーボードや各種のポインティングデバイスといった入力用の装置、あるいは様々な大きさ、種類の小型端末がところ狭しと広げられている。
 左右の壁もまた、金属製の棚ワイヤーラックで覆われていた。その内部には印刷装置や各種の読取り機器スキャナーとおぼしきもの、低い唸りを立てて稼働しているワークステーション端末や、他には分厚いファイルの背表紙などが詰まっている。そしてそれらのあらゆる場所に、大小様々な手書きのメモが無秩序に貼り付けられていた。
 右側の壁にあった窓など、完全に塞がれてしまっている。天井の明かりとモニターがもたらす人工の光だけが、室内を照らし出していた。
 気配を察したのか。肘掛けつきの椅子がくるりと回転し、画面に向かっていたシルバーがこちらを振り返る。左耳にワイヤレスの小さなヘッドセット。インターホンからの声は、そこから発せられていたのだろう。椅子の脇の机には、いつもの杖が立てかけられている。朝来店した折りに着ていたジャケットは脱いで、代わりにニットのカーディガンを羽織っていた。フットレストに揃えられた足も、普段のかっちりとした革靴ではなく、柔らかそうな布製の室内履きに包まれている。
「…………」
 リュウは料理を置く場所を探して、失礼にならない程度に室内に視線を巡らせていた。
 少なくとも机の上は、ものでいっぱいだ。かなり広いはずの床には、中身を取り出しかけた状態のダンボール箱が、いくつも中途半端に放置されている。その隙間を縫うようにして、センサー内蔵型の小型自動掃除機が、健気に動きまわっていた。
 はっきり言って、どこにも皿を載せられる余地は見当たらない。
 立ち尽くしたリュウを、ヘッドセットを外して胸ポケットに引っ掛けたシルバーが招く。
 左隣の机に手を突っ込み、天板てんいたの下から引き出しのような形状の板を引っ張りだした。
 そこに置けと言われているのだと判断し、リュウは室内へと踏み込む。ダンボールを避け、自動掃除機をまたぎ、余計なものに触れぬよう細心の注意を払った。
 引き出し板はあまり重いものを載せられそうになかったが、それでも食の細いシルバーの昼食ぐらいなら、なんとか耐えられそうだった。今日の注文はお握りライスボールが二つだけなので、なおさらだ。
 保温ポットの方は、右側の机の隅でぎりぎり居場所を確保していた。ほぼ空になっている朝のそれと交換に、新しく熱いブラックコーヒーを満たしたものを置く。
 黙って立ち働くリュウが一段落をつけたところで、シルバーが口を開いた。
「 ―― 悪いが、今日は夕食もここまで頼む」
 メニューは同じく、ライスボールを二つ。ポットには、飲み物の代わりに何かスープを、と。
「はい」
 リュウは短く受けた。簡単な注文は、わざわざ復唱する程でもない。
「…………」
 シルバーは椅子に座ったまま見上げてくる。何か、物言いたげな間があったような気がした。しかしリュウはもう用事は終わったと一礼し、ポットと盆を手に背中を向ける。
 ダイニングテーブルから使用済みの昨日の食器を回収し、玄関を開けて廊下に戻ると、無意識に深く息を吐いていた。
 今日はいつもよりもさらにいっそう、緊張する一時であった。
 廊下を歩きエレベーターへ向かう。すると誰かが使ったらしく、他の階に移動してしまっていた。下へのボタンを押して、ケージが上がってくるのを待つ。
 ライスボールは、作業中の手を汚さずにすむよう、ラップで包んでおいてほしいとの要望がついていた。今日は食事休憩すら満足に取れぬほど、仕事が忙しいのだろうか。言動の端々から、彼女がプログラミングに携わっているらしいのは、すでにおおむね皆が予測していた。しかしこのアパートにあれほどの機材を持ち込んでいたとは、さすがに思ってもみなかった。
 そう言えばこの建物には、全室に高速回線が通っている。あまり活用している住人はいないのだが、シルバーにとっては、それもここに住むうえでの重要な条件に数えられたのかもしれない。
 さまざまな電子機器に囲まれて、椅子に座っていた姿を思い出す。
「…………」
 ふ、と。
 その光景の中で、なにかが意識の琴線に触れた。しばらく黙考して、何気ない姿勢に違和感を覚えたのだと気付く。
 彼女は普段から姿勢が良く、店でも席につく時はきちんと足を揃えて座っている。しかし今日は背もたれによりかかり、足もわずかだが投げ出すようにしていた。自分の部屋で、気を抜いていたというのもあるだろう。だが本人も意識していないような手つきで、膝のあたりを幾度か撫でていた。
 ―― そういえばドクター・フェイが、体調によっては痛むようだと言っていた気がする。
 もしかしたら、今日に限っては仕事部屋まで食事を運ばせたのも、また夕食に一階まで降りて来ないのも、単に仕事に追われているからばかりではないのか。
 だからと言って別にその事実が、リュウにとって何かしらの影響を及ぼす訳でもないのだが。
 チン、という音がした。
 下から上がってきたエレベーターの、扉が開く。中には誰も乗っていない。
 リュウは空っぽのケージに乗り込んで、1Fというボタンを押したのだった。


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