桜の下の……  月光写真シリーズ 第四話
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2002/3/6 10:33)
神崎 真


「桜の下には、鬼がいるんですってね」
 そう呟いて振り返った彼女の姿は、それこそ桜の精霊をも思わせる、美しさだったのだ。


*  *  *


 闇の中の桜には、不思議な吸引力がある。
 ほの白く夜空に浮かび上がる花弁を見上げながら、わたしはふとそんなことを思った。
 淡い、薄紅色の花びらは、夜の闇の中でぼんやりとした白さにしか見えはしない。だが、まるで自ら発光しているのではないかと思わせられる、そのおぼろなたたずまい。わずかな風にすらさやさやと小片を降りこぼす儚さは、ひどく見る者の心を引きつけ、その目を奪う ――
 恋人だった女は、春になるとしきりにこの桜を見に来たがった。
 まだほんの咲きめの頃から、まるで雪のように花びらを振りまく散り際まで、彼女は毎夜のようにこの樹の元へと足を運んでいた。
 長い石段を登った先にある、廃寺の裏手。昼間でもほとんど訪れる者のいないそんな場所に、うら若い女性がひとりでゆくなど、と。何度いさめても、彼女は小さく笑うだけだった。
 けれど……
 わたしは花を見ていた目を落とし、小さくひとつため息をついた。
 そうして今の時刻を確認し、ぐるりとあたりを見わたす。
「誰か、いるのか」
 問いかける声は、意志に反してひどく頼りなげに響いた。
 時は、夜半。
 満月の光が樹々の間から射しこめ、地面をまだらに染めあげている。
 わたしの影もまた、その足下に黒々と人型の闇をわだかまらせていた。
 一歩、足を踏み出す。
 靴底が地面を擦る音が、意外なほど大きく響いて。わたしは慌てて動きを止めた。それからもう一度、慎重に体重を移動する。
「おい……イタズラなのか」
 周囲を見まわしながら、一歩一歩、桜の方へと近づいてゆく。
「こんな夜中に人を呼びだしておいて……」
 愚痴るように言葉を落とす。
 いつしかわたしは、節くれ立った樹皮に触れられる位置にまで、歩み寄っていた。
 と ――
「悪戯のつもりでは、ありませんよ」
 低い声が耳に届いた。
 夜気を震わせるその響きに、わたしはまるで桜がしゃべったかのような錯覚を覚え、思わず声を上げて身を退いていた。
 だが、すぐに声の主が、わたしとは太い幹を挟んだ反対側に立っていることに気付く。
 暗いこともあって、その姿はほとんど見て取れなかった。かろうじて靴や肩の先あたりがのぞいているだけだ。
 一瞬うろたえた様を見せてしまったわたしは、羞恥心も手伝って声を荒げた。
「あ、あんたなのか! 手紙をよこしたのは」
「ええ、そうです」
 若い、男の声が、落ち着いた口調で返してくる。
「いったい何のつもりだ、こんな、ふざけた写真なんか……ッ」
 ポケットを探り、くしゃくしゃになった封筒を取り出した。
 それを突きつけるようにして、桜越しに相手を睨みつける。
 だが、そんなわたしの激昂に取り合うこともなく、桜の向こうにいる影は、淡々と言葉を続けた。
「その写真なら、俺が撮ったものです。心当たりは、ありませんか」
「心当たり、だと」
「そこに写っているのは、深月みつき沙耶さや……あなたの婚約者でしょう? まさか、たった一年で彼女の顔を見忘れたとは、思えませんが」
「なにを、馬鹿な。こ、こんなものは」
「目の錯覚、ですか。そんなはずはないでしょう? あなたは、知っているはずだ」
 彼女の、行方を ――
 桜の向こうから届けられるその声に、わたしはただ魅入られたように立ち尽くしていた。


*  *  *


 深月沙耶は、不思議な雰囲気を持った女性だった。
 私が初めて彼女と出会ったのは、闇夜に枝を広げる、満開の桜の下だった。
「あなたは、桜の精霊かしら?」
 唐突にかけられた言葉に、私はしばし反応することすらできなかった。
 屈託なく向けられる微笑みが、夜目にもひどくまぶしくて。
 幾度かの夜を、桜の下で共に過ごした。
 交わした言葉は、ほとんどがたわいもないことばかり。
 花や月、星や夜風。ただそんなものの美しさを、語りあっていた。
 けれど、あの夜闇の中、もっとも美しかったのは、月光に照らされた彼女の横顔だったのだと。
 そんなふうに言ったら、君は、笑うだろうか ――


*  *  *


「一年前の、満月の夜。彼女は突然行方が知れなくなった」
 静かな言葉が、夜の空気を震わせる。
「いつものように、桜を見に行くと家を出て。そのまま二度と帰ることはなかった」
 淡々と告げてくる声。
 そう。
 一年前のあの夜から、彼女はその姿を消してしまった。
 いつものように家を出て、けれどいつものように戻ってくることはなかった。
 後日警察の調べで、いくらかの私物が持ち出されていることが判った。タクシー会社から、その時間、背格好の似た女性を駅まで乗せたという証言が寄せられて、覚悟の失踪なのだと、そう結論された。
 けれど……
「彼女が自ら姿を消す理由など、ありはしない。それはあなたも良くご存じのはずだ」
 そのとおりだ。
 沙耶が失踪しなければならない理由など、一体どこにあるというのか。
 婚約者であるわたしを置いて、彼女を愛する両親や弟妹をもあざむき、どうしてひとり赴かねばならぬ場所などあるというのか。
 ―― そう主張するわたしを、余人は鼻で笑った。
 若く美しい年頃の娘が、家を出る理由など知れているではないか、と。
 婚約者? 将来の約束? そんなものなど、なんの拘束力があるというのか。いや、それらを拘束として働かせることのできなかった、お前こそが誰よりも愚かしかったのではないか、と ――
 冗談ではなかった。それは侮辱もはなはだしかった。
 何も知らぬ癖に、したり顔で知ったふうな口をきくやからに、吐き気さえ覚えた。
 わたしは誰よりも彼女を愛していたし、彼女もまたわたしを愛してくれていた。それは疑いようのない事実で、余人のいらぬ勘ぐりなど、入る隙もない事柄だった。
 いつしか封筒を握りしめていた拳が、こもった力に小さく震える。
『桜を見に行くとか言って、実際は男と会ってるんじゃないのか』
『今どき、夜中にふらふら出かける女を信じるなんて、お人好しも良いところだな』
 嘲るように言葉を投げてきた、下衆どもの声が耳の奥へとよみがえってきた。
 くだらないやっかみだった。
 幼い頃から皆のあこがれたった彼女を射止めたわたしに対する、幼稚な嫌がらせに過ぎないと判っていた。酒の席でかわるがわるからかってくる奴らの、下卑た口元の笑みだけが、奇妙に記憶にやきついている。
『おおかた今頃は、遠い街でよろしくやって ―― 』
 噛みしめた奥歯が、ぎりりと音を立てた。
 記憶の底からわき上がる声を閉め出し、改めて顔を上げる。
「いったい何が言いたいんだ、あんたは」
 問いかける声は、抑えきれぬ感情を秘めて低く震えた。
 わたしの怒りに気付いているのかどうか。
 男はふと手を伸ばした。幹の向こうに姿を隠したまま、白いシャツを着た腕だけが、まっすぐに闇の中へとさしのべられる。
 その指先で揺れる、一枚の紙片。
 月明かりの下でも、それが写真だということが判った。
 わたしの手の中で握りつぶされている、封筒の中におさめられたそれと、同じ写真。
 今日の夕刻。郵便受けに入っていた手紙には、切手もなく住所すら記されてはいなかった。ただわたしの名のみが書かれたそれを開封し、同封された写真を目にして。わたしは信じられない光景に目を疑った。
「ここに写っているのは、彼女だ。そうでしょう?」
 ひらりと。
 指の先から写真が落とされる。
 風の加減か、それはわたしの足元へとすべってきた。
 ―― 見たくはない。
 そう思う気持ちとは裏腹に、わたしはその写真を凝視していた。


 写っているのは、彼女の姿。
 そして、まさにいまこの場に花びらを吹き散らしている、桜の大樹。

「沙耶と、この桜。写したのは ―― 一年前」
「嘘だ!」

 そんなはずはない。
 わたしは反射的に否定していた。

 そこに写っているのは、彼女の姿。
 そして桜の大樹。

 闇夜に広がる満開の花。
 その白さがおぼろに周囲を照らしだし。

 醜く節くれ立ったその幹に、背中を預ける沙耶の姿。
 半ば透き通ったかのようなその身体が、桜を、夜の空気をすかし見せて。

 虚ろに開かれた瞳もまた闇をたたえ、まっすぐにこちらを見つめている。
 微笑むように端を持ち上げたその唇から、一筋流れる、紅いしずく ――

「桜の花が薄紅色をしているのは、その根方に死体を抱いているからだと、そう聞いたことはありませんか?」

「黙れぇ ―― ッ!!」

 絶叫して、わたしは地を蹴った。
 桜の向こうへと。
 その向こうに隠れた男へと、両手を伸ばしてつかみかかる。

 花吹雪が、わたしの視界を覆った。

 うずまく風が花びらを舞い上げ、わたしへと襲いかかってくる。
 そして ――

 とっさにかざした手のひらの下。目に映ったのは、闇夜に浮かぶ純白の影。
 髪も肌も。
 すべてが白い、異形の男。

 風に乱された白髪の間から、鋭い瞳がわたしを見る。
 そこだけが、鮮やかなまでに、紅い。
 あの夜彼女が流したそれと同じ、匂い立つような、鮮血の ――

「彼女を殺したのは、あなただ」

 たたずむ男へ、薄紅の花弁がまとわりつく。


『 ―― 卯月さん、どこにいるの』
『……その男と、ここで会っていたのか』
『あら、和則さん。あなたも桜を見に来たの?』
『その男と、逢い引きしてたのか! ここで!』
『何を言って……和則さん……!?』


 誰にも、見られてなどいなかった。
 あの夜、その場に現れた人間は、誰ひとりとしていなかった。
 そうだ。
 人間には何も見られてなどいない。
 なのに ――

 ふと耳の奥で、沙耶の涼やかな笑い声が聞こえたような気がした。
 ―― ねえ、和則さん。知っていて?
 振り返る彼女の、無邪気な笑顔。
 いつかそんなふうに口にされた、彼女の言葉を思い出す。
 ―― 桜の下には、鬼がいるんですって。

 死体の血を吸い、あでやかに咲きほこる桜の花。
 その下に立ち、わたしを見すえる、血色の瞳の白い男。

 ああ、そうか。
 唐突に納得した。
 誰も見てなどいなかった。
 あの夜、現れた者など誰もいはしなかった。
 けれど、この桜が見ていたのだ。
 わたしが彼女の首を絞めたのを。
 その死体を、運び去っていったのを。
 他でもない、この桜こそが眺めていたのだ。

「は、はは……」

 虚ろな笑いが夜気を震わせる。
 わたしはまるで他人事のように立ち尽くし。
 己の口から漏れる乾いたそれを、ただただ呆然と耳にしていた ――


*  *  *


 心地よい薄暗さに満たされた店内で、私はため息をついて椅子の背もたれへと上体を預けた。
 趣味の良い品を揃えたこのアンティークショップは、私の数少ない友人が経営するそれだった。
 私 ―― 高遠たかとう卯月うづきという ―― は、生まれつきやっかいな体質を持っている。なので気を抜いてくつろぐためには、いささか用意が必要だった。だが私より幾分年若い青年は、突然現れた私に迷惑そうな顔もせず、手際よくもてなしの場を整えてくれた。
 私は先天的な色素の欠乏症、いわゆる白子アルビノというやつで、頭髪は老人のように白く、瞳も網膜の血管が透けて赤い色をしていた。簡単に言えば、白ウサギやハツカネズミと同じようなものである。
 もともと色素……特に髪や瞳の色を決めるメラニン色素というのは、陽光に含まれる有害な紫外線を防御する働きを持っている。これがほとんど存在しないわけだから、私の肌は陽射しにかなり弱かった。また、目に入る光の量を調節する虹彩もほとんど素通し状態なので、明るい場所ではサングラスが手放せない。
 そんな事情を良く知る彼は、奥まった位置のテーブルに私を座らせると、採光の良いショッピングウィンドウや天窓の全てに、さっさとカーテンを引いてしまった。そうして、店内に幾つかある骨董品の洋燈ランプに明かりを灯す。厚い色硝子の覆いがついたそれらは、柔らかな光でぼんやりと店内の様子を浮かび上がらせた。
 ―― こういう雰囲気も、けっこう客寄せになるんですよね。
 いつもそう言って微笑んでくれる彼の優しさが、とても、とても心地良い。


 何も訊かず、ただ黙って紅茶を淹れてくれた青年に、私はぽつぽつと話をしていった。
「ここに写っている、このネクタイが決め手だったんだ。はっきりとは見えないかもしれないが……それでも、模様に特徴のあるのが判るだろう?」
 差し出した写真をしげしげと眺めて、彼は小さくうなずいた。
「それで、その方は警察に?」
「ああ。だがひどく興奮しているようで……しばらくまともな聴取は難しいと言うことだった」
 どこか調子の狂った笑いを、いつまでも続けていた男の姿を思い浮かべる。
 あの男が ―― なにを思って婚約者である女を手に掛けたのかは判らなかった。
 私が持っていたのは、あいまいな物証である写真が、一枚きり。ただそれだけでしかなかったのだから。
 手を伸ばし、青年から再び写真を受け取る。
「それにしても、不思議なものですね」
 そう言いながら、彼は私の手元をのぞき込んだ。
「私も最初は、本当の心霊写真かと思いました」
「……死者が映っている、と言う意味では似たようなものかもしれないけどな」
 そう答えて、私は写真へと目を落とした。
 満開の花びらを、闇夜にほの白く浮かび上がらせている桜の大樹。その根元に、身を寄りかからせるように座っている女性の姿。
 暗いこともあって、詳しい造作など見て取ることはできない。事実、私も最初はそんなものが写りこんでいることになど、まるで気がついていなかった。それには、その姿が半ば透け、背後の風景をぼんやりと透かし見せていることもある。
 確かにこれを見れば、十人中五人ぐらいは心霊写真と呼び、残りの五人は目の錯覚だと冷笑するだろう。
 だが……これはそのどちらでもないのだ。
「フラッシュもたかず、シャッターも切らずだからな。気付かなかったのも無理はない」
 思わず息をつく。
 私は、夜の風景を撮ることを生業なりわいとしていた。
 学校の教科書などで、夜空の写真を見た経験は誰もが持っているだろう。空の一角を中心として、星々が光の同心円を描いているあれだ。ああいった写真は、長い時間シャッターを開けておくことで、少ない光をじわじわとフィルムに焼き付けていったものである。時が経つにつれ、星はその場所を移動させ、結果的に筋上の軌跡を印画紙に描き出す。
 私の作品も、ほぼ同じ原理で撮影していた。ただ私の場合は、その対象となるのが夜空ではなく、月明かりの下の花や流水、雪景色などで。
 夜目にも淡く浮かび上がるそれらの風景は、長時間露光させることで、文字通り煙るような美しさをかもし出すのだ。


 ―― 一年前。
 夜桜の写真を撮ろうと良い場所を探していた私は、ひときわ見事な花の下で、彼女 ―― 深月沙耶に出会った。
 夜風に揺れる、満開の桜花の下。
 振り向いた彼女の微笑みが、忘れられない。
 何日か月齢の良い日が続いて。私は連日そこを訪れ、彼女もまた、毎晩桜を眺めに来た。
 日本人には、桜についてとても深い思い入れが存在している。
 彼女と私が話していたのは、そんなことばかりだった。
 桜の下には鬼がいるだとか、桜の下には死体が埋まっているだとか、桜の花の色は、血の色を吸っているから薄紅なのだなどと。
 桜に関する伝承には、いつもそこはかとない畏怖畏敬の念が漂っている、と ――
『桜の精霊は、若い男性の姿をとって現れるんですって』
 だから最初は、あなたも『そう』なのかと思ったわ。
 そんなふうに言って笑った彼女は、あるいは半ばそれを信じていたのかもしれない。
 そうでなければ、ああも無防備に男と夜を過ごしなど、できなかったのではないか。
 彼女の目に映る私の姿は、あくまで『人間』ではなく、夜桜が見せる幻のようなものではなかったのか ――


 彼女を手に掛けたあの男は、しばらくその場を離れたらしい。
 おそらく、死体を運ぶために車を取りに行くかなにかしたのだろう。
 人工の灯りひとつない、廃寺の森の中。ひっそりと立てられた三脚とカメラの存在など、そう思って探さなければ、目に止まるはずもなく。
 まして仮にカメラがそちらを向いていることに気がついたとしても、それを操る人間が近くにいなければ、よもや自分達の姿がとらえられているとは考えもすまい。
 月明かりのもと、露出時間を長くすることで撮影する私の写真。
 少ない光をフィルムに焼き付けるそれは、シャッターを開いたままで長い時間放置することを必要とする。もしもその間に撮影対象物が移動すれば、安定した光を得ることができず、その姿形ははっきりとフィルムに残らない。
 あの夜 ――
 撮影を開始して間もなく、私は忘れ物をしてきたことに気がついた。
 一度シャッターを上げたカメラを動かすわけにもいかず、また時間が来るまではやることもないと判断した私は、三脚をそのままにいったん宿へと戻ったのだ。
 とりたてて急ぐ必要もなく、ゆっくりと歩いた一時間余り。
 その間に、惨劇は起きた。
 彼女の姿は薄くしか映っていないが、それでもそれは、彼女が一定時間身動きすることなく、レンズの前にじっと静止していたことを示す。そしてわずかなぶれをも見受けられないその像は ―― けして生きた人間になし得る仕草ではなく、また首筋に食い込んだネクタイが、その理由をまざまざと知らしめてくれた。
 作品とするにはいささか露光が激しすぎ、ざっと見ただけでしまい込んでいたのが仇となった。
 今回一年ぶりにかの地へと赴くことになり、以前撮った写真を参考にしようと整理していて、ようやくそれは目に止まったのだった。
「もしも……」
 無意識のうちに、唇が動いていた。
「あの時、俺が忘れ物などしなければ……あの場を、離れなかったなら……」
 彼女の死は、避けられたのだろうか。
 第三者の目がそこにあれば、あの男もあるいはためらったかもしれない。仮に暴力が避けられないものであったとしても、せめて間に割り込むぐらいは ――
「それは、考えすぎというものですよ。たとえ卯月さんがいらして、その場はおさまったとしても……その方が考えを改められなければ、いずれは同じことが起きていたでしょうし」
「そうだろうか……」
 あの男が何を考えていたのか判らない以上、ここで考えを巡らせても無駄なことだった。どのみち、既に彼女がこの世にいない以上、いまさら言を弄したところで何の意味もありはしないのだし。
 それは、判っている。判っては、いるのだ。
 だが ―― それでも、やりきれないものが胸の奥へと滞る。
「卯月さん、もしかしてその女性のことを……」
 彼は、言いかけたが、途中で言葉を呑み込んだ。
 そうして、お茶のお代わりはいかがですかと、まるで違うことを問いかけてくる。
 私がうなずくと、彼は席を立ち、茶器を持って部屋の奥へと向かった。
 ひとり残された私は、テーブルの端に置かれていた、洒落たデザインの灰皿を引き寄せた。私も彼も煙草はやらないので、中には吸い殻ひとつ落ちてはいない。
 並べるように置かれていたマッチを擦る。そうして ―― 持ち上げた写真の端へと近づけた。
 印画紙には、あっさりと火が移る。何度か動かして炎を広げ、灰皿の上へ落とした。


 ―― 桜の下には、鬼がいるんですってね。


 彼女の言葉が、ふと耳の奥によみがえる。
 それは、違う。
 私は心の中で答えを返した。
 桜の下にいるのは、いつも人間なのだ。
 ただその人間が、見る者の心によって、精霊にも鬼にも変わるだけで。
 ならば……
 きっと、あの夜あの男の目に映った、私の姿は ――


「……貴女のためにならば、それも悪くは、なかったさ」


 小さく呟いた言葉が、奥にいる青年の耳に届いたかどうかは、判らない。
 灰皿の中には、ひとつまみの灰だけが、残されていた。


(2002/3/16 17:25)


森本様より、20000HITでリクエスト。ちなみにお題は、

1.高遠卯月さんが主役のお話。
2.せつなくて美しい系。できたら男女のラブストーリー。
3.ひとりM描写は必須!

でした(笑)


※本文中の一部の表現についてですが、アルビノ体質に関する描写はすべてフィクションです。こういった体質の方には、複合して様々な弊害をお持ちの方がおられるようですが、そう言った方々をおとしめる意図などはないことを、特に追記させていただきます。


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