ホタル  月光写真シリーズ 第二話
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2000/06/19 AM10:31)
神崎 真


 その相手に声を掛けたことに、特に他意はなかった。
 このあたりは美しい蛍の飛翔が見られることで有名な土地で。
 私はただ、目についた地元の人間に、蛍を見る良い場所はないかと訊いてみただけだった。
「蛍、ですか……?」
 戸惑ったように問い返す彼女に、私はことさら大きくうなずいて見せた。そうしてポケットから名刺を取り出す。装飾性のない、ただ活字のみが並ぶ紙面には、高遠卯月たかとううづきという名前と連絡先、そして風景写真家とだけ印刷されている。
「あまり他人の来ない、穴場のような場所があると助かるんですが」
 そんなふうに問う。
 撮影に時間をかける私は、人にそれを邪魔されるのを好まなかった。
 私は、夜景を専門に撮るカメラマンだ。
 それも、もっぱら自然の風物が主な題材である。月や星のわずかな明かりを頼りに、シャッターを長時間開けておくことで、夜闇の中ひっそりとした佇まいを見せる、木々や草花などを撮影する。
 ―― おぼろな光に照らしだされるそれらは、まるで時を止めたかのように、夜気の中、静かに淡く浮かび上がる。一服の絵画にも似たその情景をフィルムに留め、昼の世界に再現してみせること。それが私の望みであり、目指す目標であった。
 もっとも、このつたない技術では、とてもあの美しさの百分の一も表現できてはいなかったが……
 彼女は名刺と私とを幾度か見比べていた。
 己の風体が人好きのするものでないと、自覚はしている。なので相手が納得してくれるのを無言で待った。サングラスごしに、じっと目を見つめ返す。
 腕に抱いたおくるみをいちど揺すり上げたあとで、ようやくその口が開かれた。
「それなら ―― 」


 教えてもらった場所は、至極具合の良いところだった。
 蛍の生育場所として大切なことは、水の綺麗な川があることももちろんだが、その岸辺に彼らがさなぎとして潜むことのできる柔らかな土があり、かつ成虫が求愛の場とする木立の存在することが不可欠だ。そしてなによりも、周囲に蛍をおびやかす人工の明かりが存在しないこと。
 この条件を全て満たす場所は、残念ながら現代日本ではじょじょに失われつつあった。
 そこは彼女に出会った場所から、歩いて十五分ほどだった。だが、昼間にも関わらず人の気配などほとんどなく、しかもすぐそこまで舗装道路が通じている。これなら暗くなってからでも、安全にたどり着けそうだ。
「すみませんでした。わざわざ」
「ううん。役に立てて良かったわ」
 親切にも彼女は、自らの足でそこまで案内してくれた。
 赤子を抱いた彼女に合わせゆっくりと足を運ぶうちに、最初は言葉少なだった里美 ―― というそうだ ―― も、じょじょにうち解けてきていた。
「写真ができたら、私にも見せてもらえる?」
「いいですよ。天気次第では、明日にでも」
「ほんとに?」
 私の言葉にきらきらと両目を輝かせる。
 子供のように喜んでくれるさまは、見ていてこちらも気持ちが良い。よし、いい写真を撮ってやろうという、気持ちの励みになる。
 子供のようにと表現したが、じっさい彼女はかなり若かった。
 腕の中の赤ん坊は彼女の実子だそうで、だからそれなりの年齢ではあるのだろう。それでも私よりはだいぶ年下らしかった。二十歳を越えているのかどうか。肩を出したサマードレスも、人妻というよりは、まだ少女と呼ぶのに相応しいよそおいだ。
 それでいて、腕の中に向ける微笑みは、どこまでも優しく暖かい。母親という存在が子供に与える、無条件の愛情がこぼれて目に見えるようだ。子供の方も、母親の胸で安心しているのだろう。ぴくりともせず眠っている。
「じゃあ明日、ここで待ってていい?」
 少し首を傾げるようにして見上げてきた。
「明日、ここでですね。だったら夕方頃に現像しておきますよ」
 確認すると、にっこり微笑んでうなずいた。
「ここの蛍はね、本当に綺麗なのよ。きっと高遠さんも気に入るから」
「もしかしてとっておきの、秘密の場所ですか?」
「そう。教えたのは、あなたでまだ3人目」
 悪戯っぽそうに指を立ててみせる。
「ひとり目は、幼なじみ。教えたっていうより、ふたりでここを見つけたの。それから二番目は……」
 言葉を切ってくすくすと笑う。
「この子の父親」
「なるほど。秘密のデート場所ってことですね」
「ふふっ」
 くすぐったげに頬を染める。
 蛍の飛び交う中での逢い引きとは、実にロマンチックな話だ。しかもその相手がこんなに可愛らしい女性だったとあっては、まったくもってうらやましい旦那である。
 そんなことを考えていると、向こうの方から走ってくる人間がいた。
「里美!」
「あら、正ちゃん」
 彼女は手を振ってほがらかに呼びかけた。
「大変そうね。どうかしたの?」
 ぜいぜいと息を切らせながら駆け寄ってきたのは、里美と同じ年頃の若者だった。袖をまくり上げたTシャツに、Gパンというラフな格好。髪型なども、まるで構いつけているようには見えない。いかにも地元の素朴な青年というふうである。
 彼は里美の問いには答えず、強引な仕草で我々の間に割り込んだ。そうして彼女をかばうようにして立つ。伸び気味の前髪の間から、ぎらつく目が私を睨み付けてきた。
「……旦那さんですか?」
「ううん、幼なじみの正一くん」
 肩越しに言葉を交わす。若者の表情がいっそう険しいものになった。
「はじめまして。高遠といいます」
 言いながら名刺を差し出した。
「彼女には、ちょっと道を教え ―― 」
 言葉の途中で彼はぷいとそっぽをむいてしまった。
「行こう、里美」
「え? ちょっと、正ちゃん」
 戸惑う彼女の手を引き、無理矢理歩き出そうとする。
 乱暴なその仕草についていけず、里美はつまずいたようにバランスを崩した。子供を抱いたまま、大きく上体を泳がせる。
「危ない!」
 とっさに腕を伸ばして抱き止めていた。
 ―― 細い身体だった。
 私はけして大柄でもなければ、力がある訳でもない。むしろ男としてはひ弱な部類に入る方だ。それでも彼女はすっぽりと私の腕の中に収まった。一児の母とはとても思えぬほど細く、華奢で……軽い。
「里美に触るなッ」
 正一がかみつくように怒鳴った。私の腕をもぎ離そうと、手を伸ばしてくる。今度は私も黙っていなかった。
 そっと里美を立たせた後で、その手をはたき落とす。
「ふざけるな」
 声を荒げることはせず、静かに、しかし力を込めて相手を見すえる。
 見知らぬ相手に警戒されることは慣れていた。だが、いくらなんでもこの男の態度は行き過ぎだった。ただ毛嫌いし避けようとするだけならまだしも、他人にもそれを強要したあげく、問答無用で連れ去ろうとするなど、傲慢にもほどがある。
 ……もしかしたら、相手を私に限らないような、なんらかの事情でもあるのかも知れない。だが、それでも彼の振る舞いは見過ごせるものではなかった。もし年端もいかぬ赤ん坊を落としでもしたら、それだけで命に関わるのだ。
「先に乱暴をしたのはお前の方だろうが。原因を作っておいて触るなも何もあるものか」
 私の方が彼よりもわずかに背が高かった。蔑むように上から見おろしてやると、正一は満面に朱を昇らせた。
「……ッ」
 悔しげに歯噛みしてにらみ返してくる。どうやら己に非があるのは自覚しているようだった。だが私に対する敵愾心もまた変わらず存在し、二つの感情の板挟みとなって、とっさに言葉が出てこないらしい。
 間に立った里美は、おろおろと私達を見比べていた。
「ご、ごめんなさいね、高遠さん。正ちゃんたら、なんだか機嫌が悪いみたいで……」
 幼なじみを取りなすように言ってくる。
「いえ。あなたが気にすることではないですから」
「でも」
「……悪かったな」
 ぼそりと。
 小さな声ではあったが、その謝罪は確かに耳に届いた。下を向いているので、表情はよく見えなかったが。
「さあ」
 そのまま目を合わせぬよう後ろを向いて、そっとした動きで里美を促した。背中に手を回し、足元にもちゃんと気を配っている。
 困った顔で振り向く里美に、今度は私も黙ってうなずいた。これ以上彼を刺激するのは得策ではないし、とりあえず訊きたかったことも聞けた。子供連れの女性をあまり連れまわす訳にもいかない。
 彼らの背中を見送ってから、ぐるりとあたりの様子を見わたした。
 暗くなる前に、足場の具合やカメラを置く場所を確認しておかなければならない。
 草叢の中へと分け入っていきながら、私の頭は、もう今夜の撮影のことしか考えてはいなかった。


*  *  *


「おいッ、あんた!」
 乱暴な声がかけられたのは、夏の長い日もだいぶ傾き始めた頃だった。
 長さを伸ばしつつある木立の影の中に座り込み、吹き出してくる汗をハンカチで拭っていると、穏やかならぬ呼びかけと共に若者がすっ飛んできた。
 その声だけで相手が誰だか判った。外していたサングラスをかけ直し、両目を開ける。
「お前にあんた呼ばわりされる筋合いは ―― 」
「里美を見なかったか!?」
 相変わらず人の話を聞かない青年だった。が、その言葉の内容と、おもてに浮かべた偽りのない危惧の表情に、私は言い返しかけたものを呑み込んで立ち上がった
「姿が見えないのか?」
「そうだよ! ちょっと目を離した隙にいなくなっちまったんだ」
「……ここには来ていない。夕方に、と約束していたんだが」
「約束だって?」
 正一の声にちらりと不穏なものが混じった。
「勘違いするなよ。写真を見せると言っただけだ。夕べはあいにく雨で撮影できなかったが、すっぽかす訳にもいかないから待ってたんだ」
「……あんたカメラマンなんだってな。何のつもりであいつに声かけたんだ」
 思わずため息をついた。
「俺はただ道を教えてもらっただけだ。何を警戒してるのか知らないが、通りすがりの ―― しかも既婚者相手に、どうするつもりもある訳ないだろうが」
 そう言ってやると、ようやく正一は沈黙した。が、なにやら様子がおかしい。
「探すのなら手伝ってもいいが……彼女も子供じゃないんだ。少しくらい見えなくても、そう心配することはないんじゃないか」
「 ―― 子供なんだよ、あいつは」
 絞り出すように正一が言った。低い、何かをこらえるような響きを持つ声音だった。
「何も判ってない、子供でしかないんだ。放ってなんか……おけるもんかッ」
 吐き捨てる。
 こらえきれない感情に、拳を握った両肩が小刻みに震えていた。
「……どういう意味だ」


 それから我々は、手分けして林の中を歩きまわった。
 里美の名を連呼しながら、それらしい姿はないかと周囲に視線を巡らせる。木立に隠れて正一の姿は見えなかったが、必死に呼びかける声はここにまで届いてきていた。
『あんたみたいに、余所から来た男だったよ』
 そう語った正一の表情は、隠しようもない憎しみと悔恨に満ち満ちていた。
『甘い言葉で里美をいいように弄んだあげく、夏が終わったらふいといなくなっちまった。男にとっちゃ、しょせん一夏のお遊びでしかなかったんだ』
『それじゃぁ、あの子供は……』
『 ―― 里美は今でも信じてるんだ。いつかあの男が迎えに来てくれて、子供と三人で幸せに暮らせる日が来るって。そんなこと、あるはずがないのに……』
「ッ」
 乱暴に払った枝が、跳ね返って皮膚を引っ掻いた。とっさに目をやると、手の甲にミミズ腫れが出来て、うっすら血がにじんでいる。
 白すぎる肌に血の赤が、ぞっとするほど映えていた。
 私の身体は、先天的に色素が欠乏している。肌は白く、髪もまた白い。赤い瞳は光に弱く、日差しの当たるところではサングラスが手放せない。
 奇異の目で見られることには慣れていた。ひとりでいる孤独にも慣れている。
 けれど ―― 子供を作ることが出来ないのは、今でも割り切れないものを感じていた。けしてその能力がないのではなく、ただこの遺伝子を次代へと残すことを、医者に止められているのだ。
 だが、私は子供が欲しいと思う。特定の相手を意識せずとも、ただヒトとしての本能が、自分の生きた証を、この生の理由を求めてしまうのだ。
 だから ――
 私には、彼女の笑顔が理解できる気がした。たとえその男が戻ってこなかったとしても、子供が残されていれば……幸せだった一時の証であり、これからの生の目的ともなる子供さえいれば、彼女にはそれで良かったのだろう。ただそれだけで……屈託なく微笑むことができたのだろう。
 木立の向こうから悲鳴が聞こえてきた。
 若い女性の叫び声。そして水音。
 私は走り出していた。行く手を阻む藪をかき分け、木の根をまたぎ、声の聞こえた方へと向かっていく。
 最後の茂みを越えると、流れる小川のほとりに出た。
「里美!」
「いやぁっ、坊や! 坊やァッ」
 数歩水の中に踏み込んだあたりで、里美と正一がもみ合っていた。川の中に入ろうとする里美を、正一が懸命に止めようとしている。
「離して! アアッ、坊やが……」
 狂ったように暴れる里美は、正一ひとりではとても押さえかねていた。必死になって手を伸ばすその先には、水面下に沈んだおくるみが、揺らめく影をかすかに見せている。
「そっちは深みになってるんだ! 危ないって」
 正一の声など彼女の耳には入っていなかった。それはみずからの身など省みることなく、ただひたすら子供を救うことだけを考えている、母親の姿だ。
「何してるんだ。あんたも手伝ってくれ!」
 私に気付いた正一が、首をひねって訴えた。そうする間にも、彼は散々に引っかかれ、かきむしられ、それでもどうにか里美を引き止めて続けている。
 私は彼から目をそらした。幸いあたりはもう薄暗くなり始めている。サングラスを外し、水の流れを確認した。
「いま助けるから」
 里美に向かってそう言うと、川の中へと踏み込んでいった。
 水はかなり冷たかった。
 正一の言う通り、川はすぐそこからえぐられたように深くなっており、背が立たないと言うほどではなかったが、興奮した女性が足を取られるのには充分な淀みをなしていた。
 川底の岩に引っかかっていたおくるみを、手探りで拾い上げる。
「ほら、無事だ」
 両手で掲げてみせると、ようやく里美はおとなしくなった。
「ああ……」
 力が抜けたように崩れそうになるのを、正一が岸まで引っ張り上げる。
 転ばないよう注意しながら、ゆっくりと岸に戻った。全身からぽたぽた滴がしたたり落ちる。座り込んでしまった里美にそっとおくるみを差し出した。
「もう落とさないようにな」
「坊や……良かった……坊や……」
 私の言葉など耳に入らないように、彼女はびっしょり濡れたそれに頬ずりした。両目には涙が浮かんでいる。
「あんた、どうして……」
 濡れ鼠になった私を、正一が驚いた表情で見た。
 私はただ黙って首を振るしかできなかった。この気持ちは彼には理解できないだろう。健康な心と身体を持ち、そして『健康』であることを『正しい』と考える彼には。
 私はひざまずいて里美と視線の高さを合わせた。その肩に優しく手を置き、注意をこちらに向けさせる。
「もう戻った方が良い。そのままじゃ風邪をひいてしまう」
 水際で暴れたせいで、彼女の服もずいぶんと濡れてしまっていた。だから私は彼女のために言ったのだが、里美はそうは取らなかった。
「そうね。早く着替えさせなくっちゃ」
 涙を拭いて、私の方を見る。
「ありがとう、高遠さん」
「いや」
 首を振って手を差し出すと、片手でつかまった。力を入れて立ち上がらせる。
「い、いい加減にしろよ! あんたまで一緒になって、そんなこと……ッ」
 たまりかねたような正一の叫びは、二人とも無視した。
「高遠さんも濡れちゃったわね。タオルと着替えをお貸しするわ」
「いや。大丈夫だから」
 首を振って辞退する。
 これ以上彼女と関わることは、いささか私には辛かった。
「それじゃ、俺はこれで」
 手を挙げると、里美はにこりと微笑んだ。おくるみを抱き直し、その『中身』をこちらへと向ける。
「ええ、それじゃあね。バイ、バイ」
 節をつけるように言って、軽く上下させた。
 起こされたことで目蓋を上げたミルク飲み人形が、鈍く光るガラス玉の目に私を映した。

 ―― 産まれることが出来なかった、彼女の息子。
 捨てられた悲しみ故か、流産のショックにか。彼女にはそれが認められなかった。

「里美ィ……」
 くしゃくしゃと顔を歪め、正一がその肩を抱く。
 だが彼女は、それにもまったく気付いていないようだった。穏やかな微笑みを浮かべ、ただじっと腕の中の愛しい『我が子』を眺めている。
 私は二人から目をそらして歩き始めた。
 ポケットを探り、サングラスを取り出して、かける ――


*  *  *


 その晩は、よく晴れた絶好の天気となった。
 雲ひとつない晴れ渡った夜空に、昼間の蒸し暑さが嘘のような、澄んだ清涼な空気が満ちている。紺碧とも紫藍とも形容し難い天蓋は、どこまでも高く、深く、頭上に覆い被さっている。ぽつぽつと瞬くいくつもの星影に、思わず両目を細めて天を仰いだ。
 林の中へと踏み込むと、あたりにはしっとりと湿った土の匂いが漂っていた。草叢の葉々に夜露が雫を連ね、その葉先を重たげに垂れさせている。藪をかき分ける袖も、ズボンの裾も、たちまちに露を吸って冷たく湿った。足元に気をつけて進んでゆくと、やがて昼間の小川に出る。
 そうして、思わずその場に立ち尽くした。
 群れ集い、飛び交う無数の蛍達。
 これまで見たこともない、大きな群だった。
 尾をひき流れる、それは地上の星。
 その光は青白く、淡く、周囲をおぼろに照らし出す。冷たく、熱のない、しかし確かな生命を持った、闇夜を彩る生きた宝石 ――
 魂をも奪われそうなほどの美しさに、私はしばし陶然と魅入られていた。
 ―― ホタルの語源は、星垂るとも火垂るとも謂うという。
 まさにその言葉に相応しい情景だった。
 光の乱舞は、私の周囲にも近づき、まとわりついてくる。
 そっと、手をもち上げてみた。上向けたその手のひらに、一匹が羽を休める。
「…………」
 彼をおびやかさぬよう、息を止めて顔を寄せた。ゆっくりと点滅する光が、私の顔を優しく照らす。眩く目を射るそれではなく、ひっそりと穏やかに明滅する光。それは夜の闇と反発することなく、むしろ静かに優しく共存している。
 顔を上げ、再び周囲を見わたした。
 淡い光に照らされて、浮かび上がる河原の風景。
 日中とはうってかわり、しっとり湿気を含んだ風が肌に心地よい。ちろちろと耳に届くせせらぎが、なおのこと涼気を誘っている。
 手のひらから蛍が飛び立った。つい、と近寄ってきた別の一匹と戯れるようにして、仲間達の元へと戻ってゆく。
 今宵は彼らにとって婚礼の夜なのだ。愛しい相手を見つけだし、契りを結ぶ。たった数日間の恋を実らせるために、彼らはああして輝き、呼びかけている。
 生涯これ一人の、我が伴侶よ来たれ、と。


 ―― 恋をしたことはあった。
 共にありたいと願い、そしてそう願われたいと思った相手は、私にもいた。
 けれど、この世に存在する全ての恋が実るはずもなく。
 私はいまもひとり、ここでこうしている。
 里美の笑顔を思い出した。屈託のない、幸せそうな微笑み。
 彼女の恋は、叶ったと言えるのかもしれない。たとえ現実には、一夏で破れて消えたそれでしかなかったとしても、彼女自身はいま、満足して幸せにいるのだ。
 短い時間であれ、彼女にとってそれは、紛れもなく一生一度の恋だったのだろう。この、蛍達のように。
 ―― ほんの少し、少しだけ。
 羨ましいと思ってしまった。
 少しだけ、だけれど……


 正一の想いが、いつか里美に届くことはあるのかどうか。
 傷ついた彼女を見守り、何とか癒そうと努力するまっすぐな青年。
 この蛍達が無事相手を見つけられるのと、どちらの確率が高いだろう。そして、どちらの方が里美にとってより幸せなのだろう。


 カメラを構えることはしなかった。
 ただ一夜の恋に命を燃やす、はかなく美しい恋人達。
 記録になど残すのは、無粋というものだ。
 私はただずっと、そこで光の饗宴を眺め続けていた。


 ひとつでも多くの恋が、幸せに実ることを祈って……


(2000/07/03 AM11:18)


※H14.3.16追記
本文中の一部の表現についてですが、アルビノ体質に関する描写はすべてフィクションです。こういった体質の方には、複合して様々な弊害をお持ちの方がおられるようですが、そう言った方々をおとしめる意図などはないことを、特に追記させていただきます。


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