炎華  月光写真シリーズ 第三話 番外
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2000/08/24 18:53)
神崎 真


 篝火が燃えていた。
 揺らめき踊る炎に照らされて、闇が紅く染まっている。
 薪のはぜる音。火の粉が夜空に舞い上がる。
 月も、星もない暗い空を、鮮やかに彩る光の粒子。
 どれだけ贅を尽くし、装飾を施された舞台も、炎だけが絢爛に飾るこの空間には、遠く遙かに及ばない。
 四隅に配された篝火の中央で、衣装をひるがえして舞う女性がいた。
 あれは、巫女装束というのだろうか。鮮やかな緋色の袴と、白い小袖を身にまとっている。腰を覆う長い黒髪は、一度後頭部に流され、幾つもの簪やこうがいで飾られていた。動きに合わせ揺れる髪の間から、時おり覗く首筋が、はっとするほど目に白い。
 手首にはめた幾つもの輪が、触れ合い、涼やかな音をたてる。ゆったりと首を傾げれば、簪についた房飾りもが、煌めきながら軽やかに鳴った。闇に溶け込む黒髪は、炎の色を照り映え、舞うその動きに合わせ、時に暗く浮かび上がる。
 ぴんと伸びた手が鋭く大気を切り裂いたかと思うと、膨らんだその袖が緩やかに風を抱き止める。足袋をはいた足が動き、彼女の姿は滑るようにその位置を変える。いっときもとどまることなく、けれどけしてせわしなさを感じさせず。
 ただひたすらに、舞う ――
 私は、無言でそれを見つめ続けていた。
 身じろぎもせず、呼吸すらひそめ。願うのはひとつの石となること。
 声など発して、彼女の邪魔をしたくはない。
 ただ彼女を見つめる ―― そのためだけに存在する、路傍の石くれとなりたい。
 どれほどの間、そうして眺めていただろうか。
 気が付くと、目の前に彼女の姿があった。
 いつの間に舞い終えていたのか。いつの間にそこまで来ていたのか。
 疑問の念は、形となる前に霧散してしまう。
 想いの全ては、ただ目前のものを観賞することだけに向かった。
 その、美しい顔容かんばせを。
 透き通るかのような、なめらかに白い頬。唇が鮮やかに紅を含んで染まっている。金の透かし細工の冠の下、すっきりと広い額に、華のような、炎のような模様が描かれていた。その顔料もやはり、紅い。名工の手で引かれたのであろう、細い眉の下で、しっとりと光る二つの宝玉。
 篝火の色を映したその中に、私の姿がある。
 ―― どこかで。
 その眼差しを受けて、私は懐かしいものを感じていた。
 私はどこかで、彼女と会ったことがある。
 この目を、唇を、髪を、肌を。確かに以前、目にしたことがある。
 けれど同時に、こんなにも美しい相手を見忘れることなどないとも、確信ができる。
 そう。彼女はこれまで出会ってきたどんな女性よりも美しかった。
 この相手を見つめ続けるためだけに、全てを投げ出す男がどれほどいるだろうか。
 その瞳に一瞬でも映ることを、誰もが切望するだろう。
 間近から凝視する不躾さすら、意識にはのぼらなかった。
 白い手が伸ばされても、私はまじろぎひとつせず待ち受けた。
 ほっそりとした指が、髪の中に差し入れられる。私の髪の、その感触を楽しむように。優しく間をかき分け、指の股をくぐらせる。
 もういっぽうの手は、額に触れ、頬へと滑っていった。鼻から唇の線をたどり、包み込むように顎を撫でる。
 想像に反して、ひどく冷たい指先だった。まるで作り物のように、体温のない固い感触。だがそれは、篝火の熱に火照った肌に、とても気持ちがよかった。触れられる心地よさにうっとりと目を細める。そんな私の様子に、彼女はその朱唇をほころばせた。まるで蕾が花びらを開くように、蠱惑的な色と香をたたえた、あでやかな微笑みを浮かべる。
 そうして彼女は、笑んだまま、そっと私の顔を引き寄せた。
 重なった唇もまた、ひんやりと冷たかった。
 けれどそれは、蜜を含んで、ひっそりと甘く ―― どんな相手との口づけよりも、私を陶然と酔わせたのだった。


*  *  *


 陶器の触れあう固い音が耳に届いて、私ははっと目を見開いた。
 反射的に身体を起こし、周囲を見まわす。
「 ―― 卯月さん?」
 驚いたようにかけられる、耳になじんだ声。
 そちらに目をやれば、黒髪の友人が茶器を手に私を見下ろしている。
「お休みになっていらしたのですか?」
 穏やかな声が、気遣うようにたずねてくる。
「え……」
 とっさに自分のいる場所が判らなかった。
 私が腰かけているのは、ゆったりとした背もたれの寝椅子だった。繊細な刺繍を施された絹のクッションに、磨き込まれて黒光りのする木製の手摺り。茶器の置かれた目の前のテーブルは、螺鈿細工の漆塗りだ。どちらも文字通りの、いわゆる年代物である。
 室内は、心地よい暗さで満たされていた。
 高い天井にはシャンデリアを模した照明器具も設けられていたが、いまその灯はともされていない。かわりに、室内のそこここにランプが置かれている。色硝子の覆いがついたやはり年代物のそれらは、不純物の多い不均等な厚さの硝子を通して、柔らかな光を周囲に放っている。物を見るのに不自由はしない、けれど私の目にも優しい、穏やかな光源。
 ここは、私の友人が経営するアンティークショップだった。
 そこに客が訪れる時、彼は高価な商売道具を惜しみもせず使用し、席を勧め、茶を供する。道具とは使ってこそのものだといわんばかりに。
 そして、私がたずねてくると、いつもこうしてもてなしてくれた。私がありのままにいられるように、そしてその気遣いを負担に思わず過ごせるように。
 ……そうだ、思い出した。
 いつものように、お茶を入れてくると彼が奥へ消えた後で、私はのんびりと店内を飾る品々を眺めていたのだ。ここに置かれている品物は、どれもとても興味深い。棚に並べられた数々の自鳴琴オルゴールや、ソファの片隅に腰かける西洋の抱き人形など、その由来に想いを馳せれば何時間でも飽きることないし、壁の一角を占める飾り棚の細工は、それだけで一見の価値があった。
 洋の東西、時代の新旧を問わぬ様々な物品。
 黄昏のような薄暗がりの中で佇んでいると、いま自分がいつの時代、世界のどこにいるのか判らなくなってしまいそうだった。昼と夜の、その両方の空を飾る星の名を持つこの店は、まさに時間を超越しているかのような印象を与えてくれる。
 そんな錯覚を楽しみながら、ゆっくりと足を運び、そして ――
「あの、着物は……」
 私が指差したのは、何の変哲もない白い着物だった。
 両袖を広げ、衣紋掛けにかけられている。縫い取りも染めもされていない、この店に飾られている物達の中では、いっそ地味とさえいえるほどの品だ。
 あれの前で立ち止まった所までは覚えていた。
 アンティークショップに置かれているにしては、ずいぶんと素っ気ない品だと思ったのだ。はたしてこんなものでも売り物になるのだろうかと考えて、触れてみようと手を伸ばし ――
「ああ、これですか」
 彼はそちらを振り返って着物を視界に入れた。
「さる神社の巫女姫の衣装ですよ。年に一度、奉納舞の時にまとったものです」
「奉納舞……」
 思わず呟く。
「ええ。その神社ももう、無くなってしまったのですが」
 そう言って、彼は悼むようにため息をついた。
 頬に、伏せた睫毛の影が落ちる。その、白い横顔。
 面影が重なった。
 そう、彼だ。
 あの、篝火のもとで舞っていた姫巫女。
 その面差しは、紛れもなく彼のそれだった。長い黒髪も透き通るような白い肌も、確かに同じものだ。
 けれど……
「 ―― どうかなさいましたか?」
 凝視する私の視線に、彼は顔を上げた。軽く首を傾げて訊いてくる。後ろでまとめられた長い髪が、さらりと流れて落ちかかった。
 表情が違った。
 仕草が違う。眼差しが……違う。
 髪も目も、睫毛の一筋一筋すらまるで変わらないのに。
 彼には、あの匂い立つような色香が存在しなかった。見る者を惹きつけて離さない、あのあでやかなまでの華が、ない
 たとえるならば、彼はしなやかな若木。
 瑞々しく、清らかで。目を引く鮮やかさはないけれど、側にいてほっとくつろぐことのできる、心を安らげる存在。
 だが、あの女性は違った。
 彼女は大輪の花だった。それもとびきり鮮やかな……そう、真紅の曼珠沙華が相応しい。燃えさかる炎にも似た、鮮やかに目を奪う、一抹の毒すら含んだ彼岸の花だ。
 そっと、指先で唇に触れてみた。
 彼女がそうしたように、輪郭をなぞり、指を滑らせる。
「 ―― とても、美しいものを見たよ」
 呟いた。
 いきなりの言葉に、しかし彼はいぶかしげな様子ひとつ見せなかった。
 笑うようなこともせず、ただ、無言で先を促してくれる。
 詮索しない、その穏やかな沈黙が心地よかった。
「それはそれは美しい、舞だったんだ」
「そうでしたか」
 うなずいて、そして手にしたままだった茶器を傾けた。
「どうぞ」
 差し出されたカップには、香り立つ紅茶が満たされていた。
 澄んだ赤い液体が、ゆったりと揺れている。
 持ち上げ口に含むと、ほのかに甘かった。
 静かにテーブルを離れた彼が、着物の前で立ち止まる。手を伸ばし、袂に触れた。幻と同じ白い手が、絹のおもてをそっと撫でる。
 私は彼女の面影を追いながら、うっとりとそれを眺めていた。
「かの神は、姫神だったそうです。とても見事な、白い蛇の化身だったとか……」
「ああ、なるほど」
 うなずいた。
 古来、白い獣は霊力が高いといわれ、神格化されることがある。彼女もまた、そんな存在のひとつであったのならば、私のこの見た目に、興味を覚えても不思議はなかった。
「役得だったな」
 思わず正直な感想が漏れた。
「は?」
 聞き取れなかったのか、彼が問い返してくる。私は笑いながら首を振った。
「何でもない」
 あまり大きな声で言えた話ではない。
 まして彼女は、目の前の青年と同じ姿をしていたのだ。仮にも成人した男子である彼、と。
 けれど、
 目を閉ざせば、あの艶姿あですがたが自然と眼裏まなうらに浮かび上がってきた。網膜に焼きついたその姿は、やはりどこまでも美しい。
 さしのべた手に重なる、白い手の幻。
 ゆったりと傾けた首から流れ落ちる黒髪に、篝火の明かりをはね返して光る、幾つもの装飾。見上げてくる瞳は血の色を浮かべて鮮やかに赤く、その中に私の姿を映し出している。
 イメージの中で、ほのかに笑みを含んだ艶やかな唇が、小さく動いた。
 "――――"
 音にはならないささやきに、しかし私も同じ言葉を胸の内で返す。
 鈴を転がすような笑い声が脳裏に響いた。
 漂う色香に似合わない、心底からの喜びをたたえた、無邪気な笑い。


 それは果たして夢か、幻か。
 彼の営むこの店でならば、そんなものに出逢うこともあるのだろう。
 たまにはそれも悪くはなかった。
「お茶のお代わりはいかがですか?」
「ああ。いただこう」
 空になったカップを彼へと差し出す。
 そう、悪くはなかった。
 こんなに美しい、それであれば ――


(2000/08/25 17:05)


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