篝火が燃えていた。
揺らめき踊る炎に照らされて、闇が紅く染まっている。
薪のはぜる音。火の粉が夜空に舞い上がる。
月も、星もない暗い空を、鮮やかに彩る光の粒子。
どれだけ贅を尽くし、装飾を施された舞台も、炎だけが絢爛に飾るこの空間には、遠く遙かに及ばない。
四隅に配された篝火の中央で、衣装をひるがえして舞う女性がいた。
あれは、巫女装束というのだろうか。鮮やかな緋色の袴と、白い小袖を身にまとっている。腰を覆う長い黒髪は、一度後頭部に流され、幾つもの簪や
笄で飾られていた。動きに合わせ揺れる髪の間から、時おり覗く首筋が、はっとするほど目に白い。
手首にはめた幾つもの輪が、触れ合い、涼やかな音をたてる。ゆったりと首を傾げれば、簪についた房飾りもが、煌めきながら軽やかに鳴った。闇に溶け込む黒髪は、炎の色を照り映え、舞うその動きに合わせ、時に暗く浮かび上がる。
ぴんと伸びた手が鋭く大気を切り裂いたかと思うと、膨らんだその袖が緩やかに風を抱き止める。足袋をはいた足が動き、彼女の姿は滑るようにその位置を変える。いっときもとどまることなく、けれどけしてせわしなさを感じさせず。
ただひたすらに、舞う ――
私は、無言でそれを見つめ続けていた。
身じろぎもせず、呼吸すらひそめ。願うのはひとつの石となること。
声など発して、彼女の邪魔をしたくはない。
ただ彼女を見つめる ―― そのためだけに存在する、路傍の石くれとなりたい。
どれほどの間、そうして眺めていただろうか。
気が付くと、目の前に彼女の姿があった。
いつの間に舞い終えていたのか。いつの間にそこまで来ていたのか。
疑問の念は、形となる前に霧散してしまう。
想いの全ては、ただ目前のものを観賞することだけに向かった。
その、美しい
顔容を。
透き通るかのような、なめらかに白い頬。唇が鮮やかに紅を含んで染まっている。金の透かし細工の冠の下、すっきりと広い額に、華のような、炎のような模様が描かれていた。その顔料もやはり、紅い。名工の手で引かれたのであろう、細い眉の下で、しっとりと光る二つの宝玉。
篝火の色を映したその中に、私の姿がある。
―― どこかで。
その眼差しを受けて、私は懐かしいものを感じていた。
私はどこかで、彼女と会ったことがある。
この目を、唇を、髪を、肌を。確かに以前、目にしたことがある。
けれど同時に、こんなにも美しい相手を見忘れることなどないとも、確信ができる。
そう。彼女はこれまで出会ってきたどんな女性よりも美しかった。
この相手を見つめ続けるためだけに、全てを投げ出す男がどれほどいるだろうか。
その瞳に一瞬でも映ることを、誰もが切望するだろう。
間近から凝視する不躾さすら、意識にはのぼらなかった。
白い手が伸ばされても、私はまじろぎひとつせず待ち受けた。
ほっそりとした指が、髪の中に差し入れられる。私の髪の、その感触を楽しむように。優しく間をかき分け、指の股をくぐらせる。
もういっぽうの手は、額に触れ、頬へと滑っていった。鼻から唇の線をたどり、包み込むように顎を撫でる。
想像に反して、ひどく冷たい指先だった。まるで作り物のように、体温のない固い感触。だがそれは、篝火の熱に火照った肌に、とても気持ちがよかった。触れられる心地よさにうっとりと目を細める。そんな私の様子に、彼女はその朱唇をほころばせた。まるで蕾が花びらを開くように、蠱惑的な色と香をたたえた、あでやかな微笑みを浮かべる。
そうして彼女は、笑んだまま、そっと私の顔を引き寄せた。
重なった唇もまた、ひんやりと冷たかった。
けれどそれは、蜜を含んで、ひっそりと甘く ―― どんな相手との口づけよりも、私を陶然と酔わせたのだった。
* * *
陶器の触れあう固い音が耳に届いて、私ははっと目を見開いた。
反射的に身体を起こし、周囲を見まわす。
「 ―― 卯月さん?」
驚いたようにかけられる、耳になじんだ声。
そちらに目をやれば、黒髪の友人が茶器を手に私を見下ろしている。
「お休みになっていらしたのですか?」
穏やかな声が、気遣うようにたずねてくる。
「え……」
とっさに自分のいる場所が判らなかった。
私が腰かけているのは、ゆったりとした背もたれの寝椅子だった。繊細な刺繍を施された絹のクッションに、磨き込まれて黒光りのする木製の手摺り。茶器の置かれた目の前のテーブルは、螺鈿細工の漆塗りだ。どちらも文字通りの、いわゆる年代物である。
室内は、心地よい暗さで満たされていた。
高い天井にはシャンデリアを模した照明器具も設けられていたが、いまその灯はともされていない。かわりに、室内のそこここにランプが置かれている。色硝子の覆いがついたやはり年代物のそれらは、不純物の多い不均等な厚さの硝子を通して、柔らかな光を周囲に放っている。物を見るのに不自由はしない、けれど私の目にも優しい、穏やかな光源。
ここは、私の友人が経営するアンティークショップだった。
そこに客が訪れる時、彼は高価な商売道具を惜しみもせず使用し、席を勧め、茶を供する。道具とは使ってこそのものだといわんばかりに。
そして、私がたずねてくると、いつもこうしてもてなしてくれた。私がありのままにいられるように、そしてその気遣いを負担に思わず過ごせるように。
……そうだ、思い出した。
いつものように、お茶を入れてくると彼が奥へ消えた後で、私はのんびりと店内を飾る品々を眺めていたのだ。ここに置かれている品物は、どれもとても興味深い。棚に並べられた数々の
自鳴琴や、ソファの片隅に腰かける西洋の抱き人形など、その由来に想いを馳せれば何時間でも飽きることないし、壁の一角を占める飾り棚の細工は、それだけで一見の価値があった。
洋の東西、時代の新旧を問わぬ様々な物品。
黄昏のような薄暗がりの中で佇んでいると、いま自分がいつの時代、世界のどこにいるのか判らなくなってしまいそうだった。昼と夜の、その両方の空を飾る星の名を持つこの店は、まさに時間を超越しているかのような印象を与えてくれる。
そんな錯覚を楽しみながら、ゆっくりと足を運び、そして ――
「あの、着物は……」
私が指差したのは、何の変哲もない白い着物だった。
両袖を広げ、衣紋掛けにかけられている。縫い取りも染めもされていない、この店に飾られている物達の中では、いっそ地味とさえいえるほどの品だ。
あれの前で立ち止まった所までは覚えていた。
アンティークショップに置かれているにしては、ずいぶんと素っ気ない品だと思ったのだ。はたしてこんなものでも売り物になるのだろうかと考えて、触れてみようと手を伸ばし ――
「ああ、これですか」
彼はそちらを振り返って着物を視界に入れた。
「さる神社の巫女姫の衣装ですよ。年に一度、奉納舞の時にまとったものです」
「奉納舞……」
思わず呟く。
「ええ。その神社ももう、無くなってしまったのですが」
そう言って、彼は悼むようにため息をついた。
頬に、伏せた睫毛の影が落ちる。その、白い横顔。
面影が重なった。
そう、彼だ。
あの、篝火のもとで舞っていた姫巫女。
その面差しは、紛れもなく彼のそれだった。長い黒髪も透き通るような白い肌も、確かに同じものだ。
けれど……
「 ―― どうかなさいましたか?」
凝視する私の視線に、彼は顔を上げた。軽く首を傾げて訊いてくる。後ろでまとめられた長い髪が、さらりと流れて落ちかかった。
表情が違った。
仕草が違う。眼差しが……違う。
髪も目も、睫毛の一筋一筋すらまるで変わらないのに。
彼には、あの匂い立つような色香が存在しなかった。見る者を惹きつけて離さない、あのあでやかなまでの華が、ない
たとえるならば、彼はしなやかな若木。
瑞々しく、清らかで。目を引く鮮やかさはないけれど、側にいてほっとくつろぐことのできる、心を安らげる存在。
だが、あの女性は違った。
彼女は大輪の花だった。それもとびきり鮮やかな……そう、真紅の曼珠沙華が相応しい。燃えさかる炎にも似た、鮮やかに目を奪う、一抹の毒すら含んだ彼岸の花だ。
そっと、指先で唇に触れてみた。
彼女がそうしたように、輪郭をなぞり、指を滑らせる。
「 ―― とても、美しいものを見たよ」
呟いた。
いきなりの言葉に、しかし彼はいぶかしげな様子ひとつ見せなかった。
笑うようなこともせず、ただ、無言で先を促してくれる。
詮索しない、その穏やかな沈黙が心地よかった。
「それはそれは美しい、舞だったんだ」
「そうでしたか」
うなずいて、そして手にしたままだった茶器を傾けた。
「どうぞ」
差し出されたカップには、香り立つ紅茶が満たされていた。
澄んだ赤い液体が、ゆったりと揺れている。
持ち上げ口に含むと、ほのかに甘かった。
静かにテーブルを離れた彼が、着物の前で立ち止まる。手を伸ばし、袂に触れた。幻と同じ白い手が、絹のおもてをそっと撫でる。
私は彼女の面影を追いながら、うっとりとそれを眺めていた。
「かの神は、姫神だったそうです。とても見事な、白い蛇の化身だったとか……」
「ああ、なるほど」
うなずいた。
古来、白い獣は霊力が高いといわれ、神格化されることがある。彼女もまた、そんな存在のひとつであったのならば、私のこの見た目に、興味を覚えても不思議はなかった。
「役得だったな」
思わず正直な感想が漏れた。
「は?」
聞き取れなかったのか、彼が問い返してくる。私は笑いながら首を振った。
「何でもない」
あまり大きな声で言えた話ではない。
まして彼女は、目の前の青年と同じ姿をしていたのだ。仮にも成人した男子である彼、と。
けれど、
目を閉ざせば、あの
艶姿が自然と
眼裏に浮かび上がってきた。網膜に焼きついたその姿は、やはりどこまでも美しい。
さしのべた手に重なる、白い手の幻。
ゆったりと傾けた首から流れ落ちる黒髪に、篝火の明かりをはね返して光る、幾つもの装飾。見上げてくる瞳は血の色を浮かべて鮮やかに赤く、その中に私の姿を映し出している。
イメージの中で、ほのかに笑みを含んだ艶やかな唇が、小さく動いた。
"――――"
音にはならないささやきに、しかし私も同じ言葉を胸の内で返す。
鈴を転がすような笑い声が脳裏に響いた。
漂う色香に似合わない、心底からの喜びをたたえた、無邪気な笑い。
それは果たして夢か、幻か。
彼の営むこの店でならば、そんなものに出逢うこともあるのだろう。
たまにはそれも悪くはなかった。
「お茶のお代わりはいかがですか?」
「ああ。いただこう」
空になったカップを彼へと差し出す。
そう、悪くはなかった。
こんなに美しい、それであれば ――
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