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 信仰論   きつね3
 第三章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 脈打つように、頭の中で痛みがこだましていた。
 血液の流れにあわせて、ズキンズキンと脳味噌が膨張し、閉じ込められた頭蓋骨の中で出口を求めて暴れているかのようだ。
「うぁ……」
 そうと自覚するより先に、口から呻き声がこぼれ落ちていた。
 自分が発した声に促されるように、朦朧としていた意識がじょじょに覚醒し始める。
 そうして頭だけでなく、身体の節々も痛みを訴えてくることに気が付いた。どうやら直人の身体は、コンクリートがむき出しになった固い床へと、無造作に転がされているようだ。
 胸の前で両方の手首が縛られていて、それも痛みの一因になっている。起き上がろうともがいてみても、下半身までロープでぐるぐる巻きにされており、立つどころか上体を起こすことさえままならなかった。
 高い天井には天窓が切られていて、既に明るい陽光が差し込んできている。正確な時間がいつなのかは判らないが、すっかり夜が明けているらしい。
 なんとか首を動かして、あたりの様子を確認する。
 打ちっぱなしの部屋は殺風景で、家具などはほとんど存在しなかった。広さは十畳ほどだろうか。ひとつだけ出入口があって、扉の横にパイプ椅子が置かれている。そこに昨夜、直人を捕まえた男の一人が腰を下ろしていた。じっと凝視しているその様子は、あからさまに見張り役といった風情である。
(……もしかしてまた、さらわれたのか……?)
 思わず心の内で嘆息がこぼれた。
 ついこの夏休みにも、同じような目にあったばかりだというのに、いったい何の因果で再びこんな目にあってしまうのか。
 そんな直人の内心を知る由もなく、彼が動き始めたことを確認すると、男は無言で立ち上がった。そうして部屋を出てゆく。その様子からして、扉に鍵はかかっていないようだった。だがこれを幸いと逃げ出そうにも、全身縛られたこの状態ではどうすることもできない。
 間もなく、複数の足音が近づいて来た。
 さっきの男を先頭にして、麻里を含めた十名あまりの男女が次々と部屋へ入ってくる。ほとんどが二十歳前後の、年若い世代だ。そしてその集団の中央にいる、裾の長いスカートを着て、肩からショールを羽織った女性。年頃は四十代半ばといったところか。短く切った髪にパーマを当て、口紅の赤が目立つ濃い化粧をしている。

「目が覚めたかしら」

 声は、低く掠れたハスキーな響きをしていた。
 けして綺麗とは言いがたいのに、どこか耳に残る、不思議な魅力を感じさせる。
「……誰だよ、あんた」
 相手は年長者だったが、この状況で丁寧な口調を使う気にはならなかった。
 床に転がったまま睨み上げてくる直人へと、その女は両膝をついて、優しく微笑みかけてくる。
 鮮やかに染められた形の良い口唇くちびるが、美しい曲線を描いた。

「私はセレナ。セレナ伊藤というの。占い師よ」

 女は整った顔立ちをしてはいたが、西洋の血が入っているようには見えなかった。
 おそらく本名ではなく、ビジネス用の名前なのだろう。それは別にどうでも良い。呪術の世界に身を置く存在が、本当の名前を秘密にするのは珍しくない。ものの名前はその存在そのもの、本質に深く関わりを持つため、他の呪術者に悪用されることもありうる。故に偽名や通り名を使うのは、一種の自衛手段でもあるのだ、と。不本意ながらも関わりを持った『業界』の幾人かから、そんなふうに教えられた経験があった。
 だからここで本名を名乗らないことについて、これといって含むところはない。
 それだけでこの相手を、胡散臭いと決めつけるつもりはなかった。
 しかし、問題はそこではないだろう。
「……占い師?」
「そう。大精霊ミカエルの守護を受けているわ」
 女 ―― セレナは、胸の前でショールの合わせ目を押さえ、もう一方の手を直人の方へと伸ばした。爪を赤く染めた指先で、そっと頬の線をたどる。
 直人は姿勢を変えないまま、両目をすがめた。
「………………それで?」
 平坦な口調を崩さない直人に、セレナはますます笑みを深める。
 まるで聞き分けのない子供を、辛抱強くあやしているかのように。
「胡散臭い、信じられないって顔をしてるわね」
 細い指が、幾度も優しげに行き来する。きちんと手入れされた爪の先が、直人の肌を傷つけることはない。
 それでも直人は、生理的な嫌悪をその手に感じた。叶うものなら、力ずくで払いのけてしまいたい。
 けれど今の状況では、たとえ手を縛られていなかったとしても、そんな態度をとることはできないだろう。

「でもそれは本当のこと。私は偉大な存在に選ばれたの。そうして、この世の迷える人々を救いなさいと、特別な力を授けられたわ。たとえあなたが信じなくても、真実は何も変わらない」

 意思に反して誘拐され、拘束され。どことも知れぬ場所で、何をするかも判らない複数の人間に囲まれたこの状況。うかつな真似をした日には、本気で生命を危険にさらす恐れがある。そのことを直人は、不本意ながら思い知っていた。
 もはや言葉を飾る余地もなく、彼らは狂信者だ。いやもっと言えば、紛うことなき犯罪者だ。
 そんな人間を相手にして、無謀な真似などできる訳がない。
 しかし、ひとつ疑問に思った。
「なんで俺を、さらったんだ?」
 セレナの演説を聞き流して、そう問いを投げかける。
 狂信者の考えなど理解したくもないが、それでも狙われたのが涼子か恵美のどちらかだったなら、まだ判る気もするのだ。彼女達は、こいつらの一味であるところの麻里に、同類として認定されていた。元々から顔見知りでもあるのだし、オカルト関係に興味を持っている以上、仲間として引き入れようとするのなら、まずあの二人の方が有望だと思うのではないか。
 少なくとも一度顔を合わせただけの、しかも喧嘩別れ ―― と評して良いのか、あれは ―― した直人を選ぶよりは、ずっと可能性が高いだろうに。
 それともあれか、これは最初から報復なのか。
 仲間に対して暴言 ―― あくまで彼ら側からの主観だが ―― を吐いた直人に対し、暴力に訴えて思い知らせようというのか。
 ますます危機感を募らせる直人に、慈愛の眼差しが向けられる。
 セレナも、周囲を取り囲んで見下ろしてくる男女も、みな優しげな微笑を浮かべていた。
 状況にそぐわないそれが、いっそう相手を混乱させると知っているのか。

「あなたは愚かにも、真実に目を向けようとしていない。でも私達はそれを許すわ」

 不思議な抑揚を持つハスキーボイスが、耳元に吹き込まれる。
 ぞくりと鳥肌が立った。

「彼女に、酷いことを言ったんですってね。でもそれは、あなたが無知だから。無知は愚かなこと。でも罪ではない。真理を知って、悔い改めればいいのですもの。だから私達はあなたを許してあげる」

 柔らかく、まるで歌うように紡がれる言葉。
 両方の手のひらで直人の頬をはさみ、まっすぐに覗きこんでくる。
 その双眸は、まるでぽっかりと闇に開いた穴のようで。

「さあ、お勉強をしましょうね。ああその前に、あなたに憑いているおかしなモノも祓ってあげるわ。大丈夫、何も心配しなくて良いのよ。私達はあなたを助けてあげたいだけなの」

 滔々と語られる流れるような声に、直人は口を挟むことができない。
 相手に反論の隙を与えない、絶妙な間合いで言葉を紡いでいるのだ。あるいはその技術こそが、占い師としての彼女を慕う人々を、惹きつけている鍵なのだろうか。
 さらに付け加えるならば、あまりに意味不明で理解の及ばないことを言われているせいで、いったいどこからどう反論すれば良いのか思いつかないという理由もある。

 立ち上がったセレナの目配せを受け、麻里を含め見守っていた男女が、それぞれに動き始める。
 ある者はチョークで床に何やら模様を描き、ある者は直人の周囲をぐるりと囲むようにして、床に小皿を置いてゆく。麻里は手に持った紙袋から、刻んで乾燥させた葉のようなものを取り出し、並んだ皿の上へ三角形の山になるよう盛っていた。
「ちょ……一体なにを……!?」
 懸命に首を動かして、周囲の状況を確認しようとする。だが全身を拘束されているので、芋虫がのたうっているような動きしかできなかった。
 焦る直人へと、作業を終えた麻里が語りかけてくる。
「不安にならなくても大丈夫。先生が悪いモノを祓って下さるのよ。良かったわね。もう何の心配もいらないわ」
 その声と表情が、本心から直人を思いやっているように感じられて。
 直人は身体が小刻みに震えるのを止められなかった。
 まったくもって理解できないし、したくもないが、この連中は紛れもなく本気なのだ。
 本気で、心の底から自分達がやっていることは正しいのだと、そう信じている。
 直人を誘拐したのも、縛り上げて何やら怪しげな儀式をしようとしているのも、すべて直人の『ため』を思って、『好意』で行っていることなのだ。
 けして、自分達を理解しない相手に対し、仕返しをしようとしているのではない。
 無知で哀れな子羊を、無償の愛で救おうとする、『善意』からの行動。

 そんな、直人には理解できないその思考回路が、心底から恐ろしくてたまらない。

 カチカチと、奥歯が小刻みにぶつかる音がする。
 しかしそれが聞えているのは、直人だけだ。いや、仮に彼が恐怖していることに気が付いても、ここにいる人間はみな、優しい微笑みを向けるだけなのだろう。まるで病院で注射を怖がる子供を、猫なで声でなだめすかすように。
 やがて準備が整ったのか。
 細い棒状に固められたこうにライターで火をけると、それで皿に盛った葉へと、順繰りに火を移してゆく。
 乾いた植物の欠片は、すぐに燃え始めて、白い煙の筋を立ち上らせた。
 扉を閉めて隔離された室内に、見る見るうちに煙が広がってゆく。どこか甘く、それでいて鼻につく特徴的な香り。全身にまとわりつくようなそれを吸い込むうちに、だんだんと目眩を感じ始める。

「大精霊ミカエルに祈るのよ。彼が救われるように。真理を悟り、私達の友となるように。みなで力を合わせて祈るの。さあ ―― 」

 セレナの掠れた低い声に導かれて、部屋にいる者達はそれぞれに手を組み、頭を垂れて祈りを捧げ始める。
 ミカエルの名と、よく聞き取れない祈りの言葉が交互に紡がれて、直人の意識はかき乱された。

「あなたは誤った認識をしているのです。今こそ正しい相手を信じ、大精霊ミカエルに帰依するのです」

「大精霊ミカエルに ―― 」
「大精霊ミカエルに ―― 」

 繰り返される言葉とむせ返るような匂いに、うまくものが考えられなくなってゆく。

「大精霊ミカエルに ―― 」
「大精霊ミカエルに ―― 」

 直人は呻きながら身をよじらせた。
 視界が激しく回転し、否応なしに吸い込まされる煙で、頭が重くなっていく。
 ちかちかと目蓋の裏で光が瞬いた。混濁する思考の中、様々な光景が脳裏をよぎり、家族や友人達の顔がフラッシュバックのように点滅する。
 中でももっとも目につくのは、白と黒の、長身の影 ――

 ……太郎丸、次郎丸……ッ!!

 心の中で叫んだ瞬間、何かが割れるような音が、遠くに聞こえた。


◆  ◇  ◆


 気が付くと、悲鳴と驚愕の叫びがあたりにこだましていた。
 淀んだ室内に冷たい風が吹き込んで、忌々しい煙を薄めてくれている。
 何度か頭を左右に振ると、むかついて何かがこみ上げてきそうになった。どうにかこらえて周囲の様子をうかがう。最初に目に入ったのは、目の前で自分を守るように立ちはだかり、低い唸りを上げている二匹の犬 ――
 いや、見慣れたその後ろ姿は、黒白こくびゃく二匹の神狐のそれだ。
 まわりの床には、蹴散らされた小皿と共に、未だくすぶる葉と、きらきら光るガラスの欠片が散乱している。
 どうやら天井にある明かり取りの天窓を破って、二匹が飛び込んできたらしい。
 ……鋭い破片がしっかり直人を避けて落ちているという事実が、深く考えるとなにやら恐ろしくもある。
「……たろ……ま……、じろ……」
 掠れた声で名を呼ぶと、二匹がちらりと視線を寄越す。
 だが二匹とも、周囲を威嚇する姿勢は崩していない。
「どし、て……」
 あの御守りは捨てられてしまったのに。
 いったい何故、ここに閉じ込められているのが判ったのか。
 その問いかけに、襟巻きのようなきつね色の毛が首の周囲を飾っている玄狐げんこが、牙の間から唸り混じりに返答する。
「そこの女子おなごが最近出入りしておるという、占い師とやらの仕事場を調べたのよ」
「遅くなってすみませんでした。朝にならなければ、『彼女達』を捕まえられなかったので」
 太郎丸が後を続ける。
 言葉が少なくてはっきりとは判らないが、おそらく恵美と涼子に、なんらかの協力を願ったのだろう。あえてここで名前を出さないのは、相手方に聞かれないよう配慮したためか。
 頭頂から尾の付け根まで、たてがみのようにきつね色の筋が入った白狐の発した言葉に、室内にいた人間は激しい動揺を見せる。

「しゃ、しゃべったぁ!!」
「犬が、犬が話したぁぁああッ!?」

 裏返った叫び声が口々に発せられた。
 セレナ伊藤もまた、呆然としたように目を見開いて、前触れもなく窓を割って飛び込んできた二匹を見つめている。
「犬ではないわ、狐ぞ!」
 次郎丸がえた。
 その咆哮に、ざっと全員が壁近くまで後ずさる。

「う、嘘よ! なんなのよこれ!!」

 取り残されたセレナが、上ずったヒステリックな声をあげた。
 魅力的だったそのハスキーボイスは、もはや見る影もない。
 ―― と、太郎丸がツンと尖った鼻を持ち上げて見せた。威厳に満ちた冷ややかな声が、ズラリと並んだ牙の奥から響く。
「我らは稲荷の神狐。この者を守護せし存在モノ。我らが庇護者に手を掛けた、その覚悟はついているのでしょうね」
 しかしセレナは答えることなく、ただふらふらとかぶりを振るばかりだ。

「なによこれ、なによこれ、なによこれ。こんなのいるわけないじゃない。いぬがしゃべるわけないじゃない。なによこれ、なによこれ、なによこれ……」

 まるでうわ言を思わせるとりとめのない言葉が、べにの剥げた口唇からこぼれ落ちる。
 どこか正気を失っているかのようなその様子に、太郎丸が鼻筋へ細かい皺を寄せた。
「……あなたがどう思おうと、我らは言葉を話すし、ここに存在しています。信じようと信じまいと、それはあなたの勝手。ですが ―― 」
「直人に仇を為した報いは、受けてもらうぞ」
 二匹がぐっと、姿勢を低くする。
 跳びかかるための、その予備動作だ。たとえ特別な妖力ちからなど使わずとも、獣の牙と爪さえあれば、人間の女ひとり手に掛けるぐらい、なんの造作もない。

 が……

「待っ……た」

 直人がそう、後ろから二匹を引き留めた。

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