<<Back  List  Next>>
 きつね  第二話
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 翌日の夕刻。
 国立S大学構内、図書館の一角に、熱心に調べものをしている一団があった。
 いや、よく見れば、真実熱心なのは女二人だけで、残る二人の男達はせいぜいおつき合い程度に、もしくは嫌々ながら仕方なく、という風情で本をめくっているのが判る。
 彼らが占拠する閲覧机にひっぱり出されてきているのは、ほとんどが古そうな装丁の、ハードカバーの本達だった。例えを上げるならば、
『日本の憑きもの』
『中国地方の民間信仰』
『狐持ち迷信の民俗と謎』
『陰陽五行と稲荷信仰』
 中にはどこから持ち込んできたものか、妙に派手な色使いのペーパーバックも混じっている。
『呪術 ―― 禁断の秘法のすべて ―― 』
『これ一冊で丸ごと分かる ―― 陰陽道 日本史の闇を貫く秘儀!!』
『特集! 操る者に富と悲劇をもたらした憑き物をさぐる』
 などなど、いかにもあやしく、うさん臭いものばかりだ。そんな本を相手に、彼らは土曜日の朝も早くから、休日返上で図書館に詰めているのである。


*  *  *


 細かい字でびっしりと埋められたレポート用紙の上にシャーペンを放り出して、野波恵美はぐっと大きく伸びをした。ぱっちりとしたよく動く猫のような目を細め、実に気持ちよさそうに声を上げる。
「あー、つっかれたぁ」
 ふぅっと一気に力を抜いて、椅子に背中を預ける。その隣では、藤ノ木涼子が散らばった本やレポート用紙を、手際よく片付け始めていた。肩まで伸ばしたサラサラの髪を両耳のあたりでピンで留め、昨夜ははずしていたフレームレスのメガネをかけている。そのためか知的な雰囲気が強調されており、一見するとどこか近寄りがたい印象を与えてくる。
「飲み物買ってきたぜ」
 いつの間にか本の前から姿を消していた大野口靖司が、両手にジュースの缶を抱えて帰ってきた。上背も横幅もたっぷりとある、いかにも体育会系の彼は、やはりじっと座って本を読むなどという作業は、得意とするところではなかった。ジュースを買いに行ったのも、気を回したからではなく、少しでもさぼりたかったからというのが真相だ。
「烏龍茶くれ、烏龍茶」
 精根尽き果てたという感じで机につっぷしていた河原直人は、手だけを伸ばして催促した。靖司が缶を握らせてやると、のろのろと身体を起こして飲み始める。どうやら彼は寝不足らしい。メガネの下で、充血した目がまたたいている。
 恵美と涼子もそれぞれに飲み物を受け取り、4人はしばらくのんびりと休息をとった。活字を追って疲労した目を押さえたり、凝った肩をほぐしたりと、思い思いに身体を休める。激しく動いたりするのとは別に、長時間じっとしているのも、それはそれでまた疲れるものなのだ。
「こうしてみると、案外お稲荷さんって多いのね」
 そろえてクリップで止めたレポート用紙をめくりながら、涼子がそうつぶやいた。
 それは、このあたりの稲荷神社の分布と由来について、恵美が調べた結果をまとめたものだった。当初の予想より数多いそれに、彼女もずいぶんと手こずらされたらしい。確かに稲荷社など普段そうあちこちで見かけるような代物ではないが、考えてみれば、ちょっと大きな神社やお寺の境内にはたいてい置かれているし、地方によっては民家の敷地内に祀られていることも珍しくない。そんなこまごまとした所の縁起など、大学の図書館で少々調べた程度で判るはずもなく……
 それでも、レポート用紙の枚数からいって、それなりの成果は上げたらしい。
 一方、涼子の方もまた、そこそこ満足のゆく調べをつけられたようだった。涼子のノートを読んでいる恵美は、にこにこと上機嫌な笑みをみせている。彼女が調べていたのは『ゲドウ』についてだ。さらに言うならば、男二人が調べていたのは『狐』についてである。
 そう、彼ら4人はつまるところ、昨夜遭遇した男 ―― 次郎丸の言っていたことについて、調べていたのだ。即ち、
『その昔、稲荷神社に封印されたゲドウの狐』
 と、いう言葉だ。
 昨夜 ――
 次郎丸と名乗った男が立ち去った後、彼らはしばし呆然とその場に立ち尽くしていた。謎の獣と謎の男。後に残された訳の判らないその言葉。正直言って、酔った頭ではいまひとつ状況が把握できていなかったのである。どれほどの間そうやっていただろうか。
 一番最初に言葉を発したのは、恵美だった。
『か…………カッコいい!』
 胸の前で両手を組み合わせ、目を輝かせて歓声をあげる。
『恵美もそう思う!?』
 思わずズッこけた男どもを尻目に、涼子もうわずった声で同意した。
『思う思うー。助けてもらった時、近くで見たんだけどさぁ、すっごいハンサムさんだったんだよーっ』
『やっぱりぃ。いいな、いいなっ』
『えへへ』
 二人して語尾にハートマークを飛ばしまくっている。
『も、もしもし?』
 おそるおそる問いかける男達の前で、しかし彼女らはこれでもかという程に盛り上がった。曰く、背が高かった。長髪が似合っていた。声も渋かったし、語り口もまた落ち着いていて素敵だった。黒ずくめの服装がまたハマッていて……などなど、あの怪しげでうさん臭い男のどこをどうしたら、そんなふうに思えるのかというような褒め言葉が、次々と並べ立てられる。
 そして最後に彼女達は向かいあうと、両手を合わせ、声まで合わせ、実に嬉しそうに言ってのけた。
『あの人って、絶対に化け物退治の退魔師プロよねーっ♪』
 野波恵美と藤ノ木涼子。外見のタイプも性格もまるで異なるこの二人は、オカルトやファンタジー、超常現象といったたぐいのことが大好き、という点で完全に同類項だった。それも洋の東西、時代の新旧、現実と認められたものから小説等の完全フィクションまで、何でもこいのミーハー型である。
 化け物。
 稲荷の神社。
 封印。
 そんな言葉を残されては、その妄想が膨らんでいくこと限りない。
 ゲドウの狐という言葉には覚えがある。確かにそんな化け物がいた、と涼子が言い出したものだから、もう手のつけようがなかった。怪我をしたくなかったら早く帰れといった忠告もどこ吹く風。酒の勢いも手伝って、彼女達は男を追いかけて深夜の町をうろつきまわり、それが徒労に終わった翌日には、こうしてその言葉を手がかりに、調べものに精を出すこととあいなったのである。
 ……はっきり言って、つき合わされる男共の方はたまったものではなかった。
 元々興味がある上に、妙な予備知識も持っている彼女達ならばともかく、ごく一般的な学生が、いきなり民俗学的な狐についてまとめてくれなどと言われて、ハイ任せて下さいなどとうなずけるはずないではないか。狐のお化けといえば、せいぜい葉っぱを頭に載せてドロンと化ける、くらいの認識しかないようなやからが、やれ稲荷信仰がどーの、狐憑きがこーの、その昔鳥羽上皇を悩ませた九尾の狐が那須野原で殺生石と化しーの、などと読んでみたところで、何が何だか訳判らんとしか言いようがあるまい。
 実際、靖司が広げていたノートになど、ほんの二三行程の文字がこそこそっと書かれているのみだった。
 靖司の手元を見やった涼子は、軽く肩をすくめただけで、特になにも口にはしなかった。もとより彼らにはたいして期待などしていない。
「ふぅん。『ゲドウ』っていうのは、狐憑きのことなんだ」
 ひと通り読み終えた恵美が、そうコメントしてノートを涼子に返した。それを受け取った涼子は、内容を確認するようにパラパラとめくる。
「そう。中国から四国地方にかけて ―― その中でも特にこのあたり一帯は、全国でも有数の狐憑き多発地帯だったのよね」
 狐憑き。読んで字のごとく、狐がとり憑いたとされる人間、もしくはその現象を指して言う言葉である。
 もっとも狐がとり憑くとは言っても、そこはそれ、そこらの野山に住んでいるようなキタキツネだのホンドギツネだのが人間にのりうつるという訳ではない。一般的に狐と呼ばれてこそいるが、伝えられている話によると、その多くは狐とは似ても似つかぬ、現実には存在していないような不思議な小動物達であるらしい。地方によっては狸や犬、蛇や虫などといった生き物の変化したものだとも言われていた。その名も様々で、イヌガミ、ニンコ、ドベイ、デンスケ、トウビョウ、イズナ、オサキ、クダなどと呼ばれ、それぞれ外見や現れる症状も少しずつ異なっている。
 こういったものにとり憑かれた人間は、だいたいにおいて癲癇てんかんのような症状を起こし、狂気して獣のような仕草や鳴き真似をしたり、取りとめのないことを口走ったりした。やがて発作の果てには、死に至ることすらあったという。
 近年ではさほど耳にすることもなく、そんなものは迷信だと言われがちだが、その実、ほんの一昔前までは、けっこう頻繁に発生していたものでもあった。特に中国地方には数多く、昭和二十六年から三十一年にかけての六年間、鳥取大学医学部付属病院を訪れた狐憑き患者の総数は二十三人と記録されている。つまり年平均して四人の狐憑きが発生していたことになるのだ。しかも大学のクリニックで扱われるのは、よっぽど症状の深刻な患者に限られている。それを考えれば、そんなものはいわば氷山の一角に過ぎない。
「えーっと、『頭ノ形ハ真向ニ見レバ幾三角ニシテ蟷螂ノ如シ。其身斜ニ見レバ金色ナリ。其身ノ毛ハ尤集ニシテ細微ナリ。尾ハ箒ノ如ク長毛悉ク金色ニシテ尤長キモノハ一寸余アリ』ね」
 恵美が涼子の手元をのぞき込んで、ノートを読みあげる。涼子は積んであった本の山から一冊抜き出し、開いて見せた。そこには筆で描かれた簡単な絵が載っている。
挿し絵1  上下に細長い、まるでゴボウのような絵だった。上の部分が左に曲がり、下の方はある部分から急に細くなっている。細くなった先には細かい毛が生えており、真ん中のあたりにもポツポツと点のような毛がまばらにあった。上下それぞれ四分の一ぐらいから、二本ずつ小さく枝わかれして出ており、その先からも毛のようなものが描かれている。図の周囲にはやはり筆書きで、いくつもの注釈が為されていた。右上の部分に『怪異物真図』と記されている。欄外には『ゲドウの図(日原町史下巻所収)』とあった。
 なんでも、ある神職に在る者が狐憑きに対して祈祷を行い、祓い落とした結果捕らえられた怪物をスケッチしたものらしい。さっき恵美が読みあげた文章が、右下に書かれている。
 よく見れば、上の曲がった部分は頭で、細い方はしっぽ。枝わかれしているのは四本の足で、先に生えているのは指だった。注釈によると、体長は一尺一寸。口先から前足の根本までは二寸五分。前足と後ろ足の間が五寸半。しっぽが三寸程。足の長さは八分から九分、指の数は前後ろ共に六本で、爪は鉤のように曲がっており、また歯は針のようだったという。
「へったくそな絵。これなら俺でも、もうちっとましに描けるぜ。全然狐に見えないじゃないか」
 靖司が酷評する。が、涼子はあっさりとそれを一蹴した。
「馬鹿ね。いくらなんでも体長30センチの狐はないでしょう? 憑きものにおける狐は、必ずしも狐の格好をしているとは限らないのよ。地方や種類、場合によって細かいところは異なるけれど、ネズミやリスのような姿をしていることが多いわね。これの場合はイタチかしら」
 絵の作者を馬鹿にしたつもりが、逆に呆れたような口調で返され、靖司はむっとして黙り込んだ。そんなことを言われても、こちらは憑きものなんて代物についてなど、まったく何も知らないに等しいのだ。狐と言われれば、素直に狐を思い浮かべるに決まっているではないか。それは確かに、大きさまでは気が回らなかったけれども、今時一尺が何センチかなんて、知っている方が珍しいだろうに……
 内心で文句をたれるが、言葉には出さない。言ったところで彼女達にとってはどうでもいいことであろうし、そもそも靖司は涼子に文句など言えるはずがなかった。なにしろ彼が柄でもない調べものなんかにつき合っているのは、他でもない、涼子の存在があればこそなのだから。
 そう、
 彼、大野口靖司(20歳)は藤ノ木涼子(同)に惚れていた。しかも相手はまったく気が付いていない、完全な片思いである。
 しかし、夕べといい今といい、涼子達が一方的に熱を上げているだけの事柄に関し、彼女への好意だけで根気よくつき合っている彼に、涼子の言いようは少々きついのではなかろうか。
 直人がちらりと気の毒そうな視線を向けた。もっとも、この冷たいところがまたたまらない、などと思っているあたり、さほど同情する必要はないかもしれなかった。
「……じゃあ質問」
 名誉挽回とばかりに、靖司が再び口を開く。
「狐憑きって、コックリさんとはどう違うんだ? よく言うじゃんか。コックリさんで呼んだ狐が帰ってくれなくなって、やってた子がとり憑かれたとかって」
「ああ、よくあるよね。そう言うの」
 恵美がうんうんとうなずいて同意する。確かにそう言った話はよく耳にした。ちょっとしたホラー、オカルト系の雑誌には、たいていひとつは載っているものだ。
「コックリさんは降霊術の一種だわ。漢字で書くと狐狗狸さん。つまり動物霊を呼び出すものと言われてるわね。そのほとんどが狐だって言うから、目のつけどころは悪くないわ」
「だろだろ?」
 とたんに靖司の機嫌が良くなった。得意そうに胸を張って笑う。
「一般的に言うと、コックリさんに失敗して狐にとり憑かれるってパターンが多いよね。狐憑きの原因が、コックリさん。あとお稲荷さんにいたずらして祟られるとかさ」
「そうね。それに先祖の恨みというのもよく聞くわ。なにしろ狐に恨みを買うと、七代祟るって言うもの」
「そう言えば狐憑きの家系ってあったっけ。代々ずっと狐にとり憑かれてるってやつ」
 二人はさらに怪しげな会話を展開させてゆく。確かこのへんに……などとつぶやきながら、涼子が積んである本をあさった。
「憑きもの筋というやつね。これに載ってるわよ」
「どこどこ」
 探し出した本をみんなでのぞき込む。
「これによると、狐憑きとは違って、憑きもの筋というのはそう悪いことばかりでもなかったようよ。憑きもの筋は別名『持ち』とも呼ばれたそうだけど、彼らは代々その家で狐を所持していて、それを自由に他人にとり憑かせていたというわ。つまり気にいらない相手を呪うのに使っていたということね。他にも、よその家からお金や食べ物を盗んでこさせたりすることで、自分の家を豊かにさせていたとか。実際、狐持ちと断定された家は、急に儲けて裕福になった家がほとんどだったそうよ」
 滝沢馬琴の『曲亭雑記』には、オサキ狐について『ともすれば人の家につく事ありという。一たびとりつきたる家は、貧しかりしも豊かになりぬ(中略)そがすでに憑きたる家の、年々豊かになるままに、狐の種類も次第にふえて、むらがりつどう事限りなし。もしその家の娘なるもの、他村へよめする事あれば、オサキ狐も相分かれて、婿の家につくという』と記されている。
 狐憑きは狐にとり憑かれることによる、いわば被害者に当たるのだが、狐持ちとなると、今度は狐を利用して他者に害を、己に利をもたらす加害者と立場が逆転するのである。
「ゲドウというのは、山陰地方の憑きものを総称した言葉といえるわね。ニンコやイヌガミと同じものだとも書かれているわ。どちらにしても、『持ち』に使役されている種類。『野良』の妖怪じゃない」
「……ってことは、さ」
 恵美がいきなりその声を低めた。ずいと身を乗り出して、真剣な表情で涼子を見つめる。
「例の野犬だと思われてる『ゲドウ』、もしかして誰かに操られて人を襲ってるってことなんじゃない?」
 その意見に、涼子の目が眼鏡の奥でキラリと光った。
「……ありうるわね」
 つぶやく。そして互いに目を合わせると、低い声で笑い始めた。笑いは徐々に高く大きくなり、やがて二人は手を打ち合わせて、にーっこりと笑みを交わした。
「いいじゃん、いいじゃん! それでこそ面白味があるってものよっ」
 恵美がはしゃいだ声を上げれば、
「うふふ。退魔師と狐使いの妖術合戦か。ス・テ・キ♪」
 涼子もあやしげな目つきで宙を見つめている。
 ホラー、オカルト、心霊現象が大好きで、しかも週刊誌やテレビ特集に出てくるような、怪しげでミーハー色の強いものであればあるほど、言うことなし。ついでに言うなら、美形が好きなのは女の子なら当然の事。そんな彼女達にとって、自分達の目の届くところで起こってくれた今回の騒ぎほど、その好奇心と煩悩を満たしてくれる出来事はなかった。
  ―― ところで、お忘れかもしれないが、ここは図書館である。しかも大学付属の図書館ともなれば、当然利用する者はレポートだの、課題だの、試験だのを抱えた学生がほとんどな訳で……しかし盛り上がっている彼女らに、周囲の目を気にする神経などあるはずもなかった。
 靖司と直人は方々から突き刺さってくる非難の視線を避けるように、顔を伏せて手早く机の上を片付け始めたのだった。


*  *  *


 場を移した先は、大学近くの喫茶店だった。
 ほとんど学生達のたまり場と化しているそこは、ちょっとやそっと騒いだところで、既に店員もあきらめているという、打合せには格好の場所である。常連の彼らが相手ならばなおの事だ。
 時刻はそろそろ夕食の時間に近い。みな適当に頼んだものをつまみながら、話の続きを始めた。
「まずはこれを見てほしいんだけど」
 涼子が取り出したのは新聞のバックナンバーをコピーしたものだった。数は全部で3枚。うち2枚の中心にある目的とおぼしき記事は、それぞれごく小さいものでしかなかった。地方版の新聞の、さらに隅のほうに掲載されたそれだ。
 どちらも、暗い道を一人で歩いていたところ、突然大きな犬が現れて飛びかかってきたのだというものだった。もっとも飛びかかられたとはいっても、文字通り飛びつかれただけで、咬まれたりといった直接的な危害は加えられていない。被害に遭ったうちの子供の方は、手提げかばんを持っていかれただけだし、もう一人のおばあさんは、転んだ弾みで腰を打ったという程度の事だった。このところ平和な日々が続いたおかげで記事のネタがなかったからこそ、かろうじて新聞に載ったという出来事だ。
  ―― この二つは。
 もう一枚は、例外だった。B5版の紙いっぱいにコピーされたそれは、ゴシック体の白抜き文字に網までかけた見出しをもって、その衝撃性を喧伝していた。
『野犬に襲われ男性重傷』
 呑み会帰りの会社員が、とっくに寝静まった住宅街で家路についていた時だったという。
 最初、酔いに半ば理性を失っていた男は、昨夜の彼らと同じように、それの漂わせる危険な雰囲気に気が付きもしなかったそうだ。無造作に追い払おうとする、酔っ払いのあげるはた迷惑な罵声を、近所の者が聞いていた。そしてそれに引き続く、尋常ではない叫び声をも。
 酔っていた上に、襲われた当人である男の話は、あまりあてにはならなかった。が、騒ぎを不審に思い起き出してきた人間がいた。その証言によると、そいつは体長1m程の犬だったという。もちろん暗かったので姿をはっきり見た訳ではなかったが、大体のシルエットとそこが町中だった事から、野良犬だろうと見なされた。襲われた男は、左腕を手首から食いちぎられる重傷。獣はすぐに逃げ出してしまい、警察や保健所の捜索にもかかわらず、いっこうにその姿を見せようとはしていない。付近の住民には、夜間の外出、特にひとり歩きを控えるように呼びかけているという。
 コピーに目を通す一同に対し、涼子はピザを口に運びながら、
「それまで事件が起こってはいたものの、たいした被害がなかったから、保健所の方も本腰入れてなかったのよね。それがいきなりこんな大ごとになってしまって、お役所の面目丸つぶれ。慌てて人員を投入して捜索を始めたけれど、姿形どころか、毛筋一本見つかってないっていうのが、現在の状況よ」
 と、無情な表現でまとめてしまう。
「でも、あれよね。相手が普通の犬じゃなかったんなら、それもしょうがないことじゃない。なにしろ対するは『ゲドウ』の狐。陰謀うず巻く日本の闇の世界に生きてきた、恐るべき妖狐なんだもん! ふつーの人間の十や二十や、五十や百、かかってきたところでフフンってなものなのさっ」
「あのな……」
 だからどうしてそういう怪しげなことを、胸を張って発言できるのか。
 直人が額を押さえてため息をつく。その、話題になっている獣が『ゲドウ』という代物だということの根拠は、ただ昨夜出会った男が一言口にした言葉だけに過ぎないではないか。しかも男が言った『ゲドウ』が、彼女達の調べたそれと一致するという確証もない。
 ごく一般的、常識的な見地に立って言えば、新聞にある人間を襲った獣は、あくまで野良犬。まぁ、このあたりはわりあい田舎だから、場合によっては野生の狐だの狸だのという場合もあるかもしれない。で、あの男は単なる ―― という言い方も何だかおかしいが ―― 怪しい変質者か、通りすがりの一本キレた男。そんなあたりが妥当なところだろう。だいたい次郎丸だなどと、偽名とすら呼べぬような名乗りをする男のことなど、信用できたりするものか。この際、夕べ感じた、ただの犬にしては何か変だという感覚も、すべては酔っ払いの気のせいだということで。
 ……それに、もしも万が一だ。彼の言うことが真実で、あの獣は危険な化け物。次郎丸はそれを退治しに来たプロの術者だったとしてもだ、その……場合は……
「や ―― 」
「だけどぉ、あたし達の場合、ちゃんと相手の正体も分かってるんだから、待ちぶせも先回りもオッケーだよねっ」
 直人が口を開こうとしたのをさえぎって、恵美がにこやかに断言した。応じて涼子も、任せなさいとばかりに胸を叩く。
「ほら、この記事に載ってる事件の起きた場所、全部同じ町内でしょ? だからそのあたりの稲荷神社でそれらしいのがないか、恵美がとってたコピーをきちんと読んでみたの。そしたらね、ほら」
 がさがさと、今度は本のページをコピーしたものを取り出す。
「詳しい記述はなかったんだけどね。他者にとり憑き害を為した憑きものの狐を、旅の行者が退治して、さらに祟りを怖れて社を作り祀ったって話があったの」
 これまた極めてありがちな昔話である。
 悪さをなす妖怪もしくは土地の神が、徳のある坊主や賢い若者に成敗され、かくして虐げられていた村人達は幸せに暮らし、あとには社なり塚なり石碑なりと、何らかの教訓。郷土の昔話には、必ず一個か二個はある代物だ。
 本の方には、涼子の言う通り詳しいことは書かれておらず、当の社の位置も呼び名も、一切判らぬままだ。普通ならこれを手がかりとはとうてい呼べなかろう。
 普通、なら。
「さっすが涼子! バッチリじゃん」
 恵美がパチパチと拍手した。得意げに胸を反らす涼子に横から勢い良く抱きつく。
 直人は疲れた表情でひとつ息を吐くと、コピーを手に取った。5、6行ほどの短い文に目を走らせてみる。
 確かに、とある狐持ち筋に使役されていた狐が退治され、稲荷神として祀られたというようなことが書いてあった。狐持ち達は行者にさとされ改心し、その社を守る神主の家系になったとも。黒白二匹の狐を祀るその社は、地元の人間から畏怖の念を持って崇められながらも、怖れられていた。
「 ―― で、結局どうするつもりなんだ?」
 女達のノリについていけず、ずっと黙っていた靖司が質問した。彼女達は見事に同調した動きでくるりと振り返る。
「もちろん」
 声をそろえて返答する。
『その社を探すのよ』
 決まってるでしょ♪
 にーっこり。
 顔の造りはまるで違うくせに、実によく似た笑顔がふたつ並んだ。恵美の手には、町内一帯の稲荷神社をマーキングした住宅地図がある。どうやらしらみつぶしに足を運ぶおつもりらしい。
「冗談だろ……」
 あきらめきった口調で、それでも直人はつぶやいた。靖司もげんなりとした顔で×印のついた地図を見る。
「まじで歩きまわるのか? もっと楽な方法ないんかよ」
 夕べは呑み会プラス男の追っかけ。今日は一日調べもの。それで明日はフィールドワークか? 頼むから、もう勘弁してくれ。
 ぼやく靖司に、恵美が何やらしばし考え込んだ。唇に人差し指をあて、んーっととうなる。
「なくもない、かなぁ」
「あら、何か思いついたの?」
「うん」
 こくんとうなずく。その無邪気な仕草が、妙なところで不安を誘った。
「あのさ、さっき靖司くんが、ゲドウとコックリさんはどう違うのかって聞いてたよね」
「え、あぁ……」
 正確には狐憑きとコックリさんの違いを聞いていたのだが、まぁたいした違いはない。
 靖司が肯定すると、今度は涼子の方を向いて言う。
「コックリさんが呼び出すのは、そこらへん、近くにいる動物霊だったり、お稲荷さんや蛇の神サマなんかだよね。で、コックリさんにうまく帰ってもらえなくなって、とり憑かれちゃったのが狐憑き。それから、ゲドウにとり憑かれた人も狐憑きになるのよね?」
 ひとつひとつ指を折りながら確認する。
「ええ。そんなとこかしら」
 涼子もうなずく。
「だったらさ……」
 恵美はいったん思わせぶりに言葉を切ると、いたずらっぽくウインクした。
「コックリさんでゲドウを呼び出せるんじゃないかな?」
 思いがけない指摘に、一同はしばし絶句した。
 確かに。
 ゲドウが狐憑きの原因であり、またコックリさんの結果が狐憑きだというのならば、そういった考えの成り立つ余地もあるかもしれない。
「……おもしろいわね」
 一番早く立ち直ったのは、やはり涼子だった。
「その考え良いじゃない。試してみる価値はありそうだわ」
「でしょ?」
 恵美が得意そうに鼻を高くする。
 コックリさんに必要な物と言えば、十円玉と紙切れ一枚、それから二人以上の人数。今の彼らなら全て持ち合わせているではないか。さすがにいきなり喫茶店で始める訳にはいかないが、四人のうち誰かの自宅へ行けばすむことだ。幸い彼らの住処は、どこも大学からそう離れてはいない。
 善は急げとばかりに、広げていた物を片付け始めた二人の動きに、絶句したままで固まっていた直人が、ようやく我に返った。
「ちょッ……待っ……!」
 泡を食った声をあげて立ち上がる。手をついたテーブルが、体重を受けて大きく揺れた。
「やだ! もう、危ないじゃない」
 恵美が膝に落ちかけたコップを押さえ、抗議した。しかし直人はそんなことなど気にしちゃいなかった。
「冗談じゃない! そんなの絶対、反対だッ」
 口角泡をとばす勢いで言い放つ。
「……ど、どうしてよ」
「どうしても何もないだろう!? コックリさんなんて、素人が簡単にやっていいものじゃないじゃないか。もし失敗して呪われたり、こっちが狐憑きになったりしたら、一体どうするつもりなんだよッ」
 形相が変わっている直人に、さしもの二人も気圧されていた。
「大丈夫だって。……アタシら高校の時によくやってたけど、全然平気だったし。失敗なんてしないしない」
 ひらひらと手を振りながら保証する恵美の口調も、いささか力がなかった。
「今まで大丈夫だったからって、これからも大丈夫とは限らないだろ。とにかく、俺は絶対に嫌だからな!」
 きっぱりと言い切って二人を見すえる。
「何よ。そんなにコックリさんが怖いの?」
「怖い」
 挑発するような涼子の言葉にも、はっきりきっぱり答える。その目は完全にすわっていた。
「 ―― わ、わかったわよ」
 何を言っても無駄だと悟ったのか、涼子はあきらめて譲歩した。すねたように、口をとがらせて直人を見返す。
「河原君にまでやれとは言わないわよ。私達だけでやるわ。それでいいんで……」
「だあぁぁッ」
 直人はわめくと、両手で頭をかきむしった。
「違うっ、違うだろぉ? どうして判んないんだよ。人を何人も襲って、大ケガまでさせてるようなやつを呼び出したりなんかして、危ないとは思わないんか。俺達は坊主でも神主でも退魔師でもない、単なる大学生なんだぞ? 面白半分にそんなことして、万一取り返しのつかないことになったらどうするんだよ。大変じゃないかっ」
 コックリさんなど、ほとんどが思いこみだ。自己暗示の結果だ。動くと良い、こういうことを言ってくれると良い。行う人間のそんな想いが、無意識に十円玉を動かしているにすぎない。思いこみが強いから、ちょっとしたきっかけで帰ってくれないと錯覚したり、強迫観念からノイローゼになったりする。やれ身体が勝手に動く、金縛りにあった、頭の中に誰かが語りかけてくる、霊が自分を殺そうとする! そんなふうに自分で自分を追いつめていって、結局自滅する。たいがいそんなものだ。しかし ――
 火のないところに煙は立たないという。ならば99.9%が思い込みだったとしても、残りの0.1%は? そもそも、コックリさんが全く思い込みの産物だったとしたならば、一番最初にそれを行った人物は、またその方法を確立し定着させた人物は、どうしてそんなものを考えつくことができたのか。
 コックリさんで、それも自分達が行なって、本当に霊や神を呼ぶことができるのか、それは判らない。呼んだところで、存在するかもはっきりしないゲドウが現れてくれるのか、も。
 それでもだ、
「君子危うきに近寄らずって言うだろ? やめようよ。もうこんな事に首つっこむのもさ。ほっときゃいいじゃんか。うろついてんのが犬だろうとゲドウだろうと、そのうち誰かが何とかしてくれるよ。俺達が関わったって、どうにもなるもんか」
 面倒ごとなんかごめんこうむる。自分達には何の関係もないことだ。黙って頭を低くして、騒ぎが通り過ぎるのを待っていれば、それで良いではないか。
 力説する直人に、しばらく黙って聞いていた恵美が、ぼそりとつぶやいた。
「……そーいうことなかれ主義って、よくないと思うけどなぁ」
「うっ」
 痛いところをつかれて、直人は一瞬ひるんだ。そこを逃さず涼子も反撃に入る。
「そうよね。少なくとも私達は、警察や保健所の持っていない、というか認めようとしないであろう情報を持っているわ。あれが単なる犬なんかじゃなく、並の生き物を相手にするつもりでは、とうてい捕まえられないような存在であるということを。そして多少はふさわしい対処法も知ってるわ。この先も被害がでるかもしれない今の状況で、それでも見て見ぬふりをするのは、我が身大事の卑怯者じゃなくて?」
 一見筋の通っている主張に、とっさに反論することができない。
「だ、だけど……それは夕べのあいつが、何とかするだろう? 俺達が出て行ったって、足手まといになるだけだよ」
「そりゃぁ、直人くんや靖司くんならそうかもね」
 うんうんと腕組みした恵美が首を振る。が、彼女はおもむろに腕組みをほどいて握りこぶしを作ると、高らかに宣言してのけた。
「しかぁしっ、このアタシと涼子であれば話は別よッ。これまで培ってきた知識を役立てる時が、よーやく来たんだから! 古くは古事記、今昔物語から、新しきは昨日発売されたムーの今月号まで、読みあさって仕入れた情報と知識に敵はない。安心しきってまっかせなさい!」
「あぁぁ……」
 だから、どーしてそう怪しげなことに、そこまで自信を持っていられるのだ、この二人は。
 直人が絶望の声を上げて、頭を抱え込む。
 しょせん彼ごときが、この二人にかなうはずなどなかったのだ。自分達がやりたいと思ったことは、どんな妨害があっても必ずやりとげる。ことに好きなことに関しては、どんな努力も詭弁もいとわない。その無敵のエネルギーの前には、誰も太刀打ちなどできはしなかった。
 ぽんぽんと肩を叩かれて顔を上げると、靖司があきらめの表情でこちらを見ていた。無言のままで、二三度首を横に振る。
 直人は深く息を吐くと、慰めてくれる友人の肩に、ありがたくすがりついたのだった。


<<Back  List  Next>>



本を閉じる

Copyright (C) 2000-2001 Makoto.Kanzaki, All rights reserved.