++お礼SS きつね(竜神祀)


※中編「竜神祀」の後日談SSです。
長編「きつね」及び、これまでのお礼SSの「きつね」分を読んでからお読みいただけると、いっそうお楽しみいただけるかと。







   1

 夏の長い日も、そろそろ暮れようかという頃合い。
 古びて苔生した石段を登る、ひとりの青年がいた。
 手に提げているのは、スーパーのものとおぼしき白いビニール袋と、そしてもうひとつ、濃紫の風呂敷に包まれた一升瓶。
 降り注ぐかのような蝉時雨の中、一度足を止めて汗を拭い、そうして行く手にある、色あせた丹塗りの鳥居をふり仰ぐ。


 境内の中は、寂しいほどに閑散としていた。
 既に朽ちかけているといっても過言ではなかった社が、その主達の手によって燃え落ちてから、ちょうど一年が経とうとしている。
 地元からの寄付を募ったり、祝部はふりべの絶えたその社の管理をどのようにするのか話し合われたりなど、諸々の雑務をも終え、ようやく再建の話が現実のものとなるのには、それだけの時間を必要としたのである。
 燃え落ちた社はとうの昔に撤去されている。
 雑木林の間にぽっかりと空いたその空間にあるのは、崩れかけた石の狐と隙間から雑草の生え始めた石畳、そしてわずかに残る、土台の石組みばかり。
 そうして元々社のあった土台の場所には、申し訳程度の注連縄が張られ、雨除けにしかならないだろう簡素な屋根と、小さな仮の祭壇がしつらえられていた。
 青年はその前でそっとひざまずくと、袋の中からいなり寿司とおはぎのパックを二つずつ取りだした。地面に敷いた袋の上にそれを置き、その脇に一升瓶を並べる。

 ぱん ぱん

 乾いた音を立てて手のひらを打つ。
 二拝二拍手一拝。
 それは神を呼び出すための儀式だとも言われる。
 己が願いを叶えて欲しいと、神を呼び、あるいはまた周囲の邪気を祓うための行為だとも言う。
 もっとも青年にとってのそれは、あくまで礼儀に過ぎなかった。
 神霊と呼ばれるモノに対する際の、人間ひととして行うべき作法のひとつ。

 なぜならば ――

「直人」

 柏手の残響も消えぬうちに、二つの声が揃って彼の名を呼んだ。
 ほんの一瞬前までは、青年の他に誰一人としていなかったはずの境内に、二人の男が姿を現している。
 一人は膝近くまで届くもつれた長い黒髪に、褐色の肌、この暑い中に黒革のロングコートを羽織った黒ずくめの男。
 いま一人は、やはり腰近くまである金髪を首の後ろでひとつに束ね、白皙の肌、白いコートを身にまとった白ずくめの装い。
 左右に分かれて立った二人の、ともに日本人離れした金に近い琥珀色の瞳が、喜色をたたえて見下ろしてきている。

 この稲荷神社の神様達は、わざわざ呼びなどしなくとも、すぐとその場に現れてくれるのだったから ――


◆  ◇  ◆


 いったいどこから取り出したのか。
 ぐい飲みほどの金椀かなまりを手渡された直人は、己が持ってきた供物を肴に三人で向かい合って座っていた。
 一升瓶の中身は既に半分がとこに減っているが、さすがにそのほとんどを消費したのは、目の前にいる二人の人間外だ。
「今回はまた、ずいぶん良い酒だの」
 そう言って機嫌良さげに目を細めるのは、より多く杯を傾けている玄狐げんこの方。
「お気持ちは有り難いですが ―― 高かったんじゃありませんか?」
 気遣わしげにのぞき込んでくるのは、酔いの色など欠片も見せない白狐しろぎつね
 まだ学生の身、しかも親元を離れての一人暮らしをしている直人には、自由になる金などそうそう持ち合わせがない。いつも持ってくるのはワンカップかせいぜい二合壜。懐が寂しい場合は、それすらも買えず、缶の汁粉などといった場合もあるのだから、太郎丸の心配も的はずれとは言えない。
 ……言えないのだが、供物を受けとるその相手に、そこまで気遣われてしまうというのも情けないといえば情けない。
「いや、これは母さ……親が出してくれたから」
「母御が?」
 直人の答えに、二人がそろって首を傾げる。
「うん、ほら今回の帰省で足止めにあった時にさ、すごく世話になった相手にお礼がしたいって言ったら、じゃあこれ使いなさいって」
 夏休みに実家まで戻っていた直人だったが、その途上、土砂崩れのせいで列車が止まった結果、巻き込まれた事件は未だ記憶に新しかった。
 産まれ育った家で数日ゆっくり過ごした間にも、直人は幾度もうなされては夜中に飛び起きたものだ。
 一歩を間違えれば ―― 否、むしろいま無事こうして生きていられることの方が、はるかに僥倖と呼べた、あの一件。
 もちろんのこと、両親を含めた誰にも、そんな事件の詳しい話などしてはいなかったけれど。それでも直人の憔悴ぶりや、子供が困っていたところに差し伸べられたという手の有り難みは、親として感じるところがあったのだろう。
 お礼をしたいが、旅費や壊してしまった携帯を新調したせいで懐が心許ないとこぼした直人に、両親が包んでくれた金額は、正直かなりのものであった。
 あるいはそれは、神社の再建費用として、わずかなりとも寄付に回した方がよかったのかもしれない。
 けれど彼には、こうして当人達に面と向かって礼を言う方法があるのだから。
 ならば、少しでも多くの心を込めて、感謝を伝えたい。
「 ―― 本当に、何度お礼を言っても言い足りない。助けてくれて、ありがとう」
 あの時も、それからその後も。
 杯を地面に置いて、深く深く頭を下げる。


 ……実を言うと、礼を言わなければならないのは、あの海辺であった事件のことばかりではないのだ。
 実家に帰省していた数日の間に、直人は他のことでも彼らを呼びだしてしまっているのである。
 あれほど、『簡単に神を呼んではいけない』と己を戒めたのにも関わらず。
 友人の友人とでも言うべき風使いの青年と、たまたま近所で行き合った際、直人は彼を襲うあやかし達との争いに、巻き込まれてしまったのである。
 逃げることもできず、さりとて己の身ひとつ守ることもできず。足手まといになるしかない一青年にとって、できたことはただ、力持つ存在へと救いを求めることでしかなかったのだ。


 身体を小さくして拳を握りしめる直人に、ややあって向けられたのは、深々としたため息であった。
「……何度も言ったと思いますが」
 どこか怒気を含んだようなその声音に、直人の肩がびくりと震える。
 その様を見て、太郎丸はもう一度小さく息を吐く。
「礼を言わねばならぬのも、何かあったら呼べと言っているのも、我々の方です」
「その通りだ」
 いつの間にか酒を干していた次郎丸が、ことりと音を立てて金椀を置く。
「忘れられた神として、消えゆくしかなかったはずの我らを、救ってくれたのは他でもない、おぬしだ。我らは一生かかっても返せぬだけの借りを、おぬしに持っている」
「……それはッ!」
 幾度もくり返されたそれは、彼らの ―― 『神』としての論理だ。
 だがその言葉を諾々と受け入れることなど、直人にはできるはずもなかった。
 元はと言えば、なんの関わりもないところへ勝手に首を突っ込み、事態を引っかき回したのは直人達の方だ。その収束に力を貸せたことで、かろうじてどうにか帳尻を合わせることができた、と。そう考えているほどなのに。
 それなのに彼らは、口を揃えて言うのだ。
 自分達を好きに使えと。
 そうして、人ならぬ身には命よりも大切だという、『真名』までをも与えてくれた。
 借りなんて、こちらの方にこそ返しきれぬほどあるはずだというのに。
 自分の都合で簡単に、彼らを呼びだしたりなど、して良いはずがないというのに。


 唇を噛みしめる直人を、黒白こくびゃく二匹の稲荷の神狐は静かな眼差しで見つめてくる ――



   2

 目の前でうつむく青年に、はたしてどう言葉をかければ、この想いを理解してもらえるのか。
 それは人間ひとよりもはるかに長い時間を経てきた己らでも、簡単に思いつけることではなかった。
 感謝を告げ、真名を教え、何かあったら呼べばいいと、くどいほどに何度も念を押した。
 感謝の想いは伝わっているはずだ。聡いこの青年は、真名の価値についてもきちんと心得ていて、みだりに他者へと知らせるような真似も、決してしようとはしない。
 必要なときは呼べというその言葉だって、忘れている訳ではないのだ。
 あの海辺でも、そして妖物に囲まれていたあの時も、彼はきちんと己らを呼んでくれた。
 それでも ―― それは彼にとって、本当に最後の手段だったのだろう。
 半面を血に染めて岩場に縛りつけられていたあの姿を目にして、どれだけ己らが驚いたことか、彼は知らないだろう。
 妖物に襲いかかられていたのを、わずかな差でかろうじて救うことができた、あの時の安堵を、彼はきっと気付いていない。
 もっと早くに呼んでいれば、きっと傷などつけさせなかった。
 もっとずっと、余裕をもって、辛い思いなどひとつもさせることなく助けることができていた。
 それなのに、彼はけして安易に己らを呼ぼうとはしないのだ。
 足掻いて、耐えて、自分では本当にどうしようもなくなってから、ようやくその名を口にのせてくれる。
 それがどれだけもどかしいことなのか、この青年はどうしても判ってくれようとしない。
「だって……」
 いまも彼は、かき口説く次郎丸に対し、かたくなに首を振っている。
「自分で助かろうとする努力を怠って、簡単に神頼みするなんて、そんなの怠け者のすることじゃないか。……だいたい普通、人は呼んだってそうそう助けになんか来てもらえないんだから、俺だけそうするなんて、ずるいじゃないか」
「怠け者とかずるいとか、そう言う問題ではなかろう。第一、おぬしには我らに助けられるだけの、れっきとした資格がある」
「資格、なんて。俺はただ、そのとき自分ができるだけのことをしてきただけだし、それは特別なすごいことなんかじゃないよ。……俺は、自分の力で返せる分しか、力を借りたくはないんだ」
 そう言い切る青年は、本当に自分がどれだけのものをくれているのか、まったく判っていないのだ。
 人々に忘れ去られた、消えゆくばかりの存在を、いまひとたび神たらしめてくれた。その恩義の大きさを。
 確かにその謙虚さが、彼の美点であることに違いはないのだけれど。
 けれど、それでも。
 不満は募るのだ。
「……呼んでもらえなければ、我らのことを忘れてしまったのではないかと、不安になるではないか」
 次郎丸の言葉に偽りはない。
 確かに、直人の祈りは距離を越えて日々二人の元へと届いている。
 折々に、守り鈴の傍らへと供物を置き、二人の事へと思いを寄せてくれている。そのことは確かに感じられていた。
 けれど、それでもだ。
 人間ひとである彼が、過ごすその時間に変わってゆきはすまいかと。
 そんな不安はどうしても、胸の内から消えてくれない。
 人や普通の生き物と、それ以外の存在。その持つ命の長さが、許されるその時間の長さの違いが、時に大きな歪みを生じさせる。
 太郎丸と次郎丸が、過ぎる時間ときの中で信仰を失い、神力ちからを無くしていったように。
 直人もまた、年を経るにしたがって、彼らに対する記憶を薄れさせていってしまうのではないか、と。
 それなのに、彼は無情にも告げるのだ。
「俺以外にだって、信者はいるじゃないか」
 と ――
「これからは社だって再建されるし、この仮の祭壇にだって、お供えはされてる。二人のことを信じる人は、また増えていくはずだよ。俺ばっかり特別扱いしてちゃ、神様として……」
「あなたは特別です」
 聞き続けることができず、太郎丸は途中で言葉を遮っていた。
「我々にとって、あなたに代わる人間はいません。たとえこの先どれほど信者が増えたとしても、それはけして変わることありません」
 断言する太郎丸に、直人は複雑な目を向けた。
 それはいつものような、遠慮だとか、困惑だとか、そういったものを含んだ眼差しではなかった。
「……俺は、いつかいなくなるだろ」
 静かに続けられた言葉に、二人は思わず息を呑んでいた。
 それは、できるだけ気が付かないように、目をそらし続けていた事実だ。
「俺はただの人間だから、たとえどんなに長生きしても、あと五十年とか六十年とか……事故や病気とかあったりしたら、それさえあやしいのに。そんなの、あんたらにとってはすぐのことだろう?」
 この社を守っていた時間だけでも数百年。それ以前の、神位を持たぬただの妖狐として過ごしてきた時をも含めれば、はたしてどれほどの年数を過ごしてきただろう。
 たとえ神狐としてはさほど歳経た存在ではなくとも、人の一生を短いものと感じるには充分なだけの時間を、確かに過ごしてきている。
「だから、俺なんかにそんなに思い入れしててどうするんだよ。俺はただ、ちょっと助けてもらったことがあるだけの、一信者でいいんだよ。……そう、あるべきなんだよ」
「……たとえお前がいなくなっても、末代まで……」
「それは絶対、駄目」
 珍しくきっぱりとした拒絶が返された。
 顔を上げ、二人を見る目はどこまでもまっすぐで。
 彼がそのことについて抱く、決意の強さを表明している。
「俺の子供を ―― って、まだそんなのいないけど。もし生まれたとして ―― その子供自体を気に入って、それで守ってくれるって言うんなら良いよ。すごく嬉しいし、光栄だと思う。だけど、俺の血を引くからって理由では、絶対に守っちゃ駄目だ。そんなの、後悔することになるに決まってる」
 人間と、人ならぬ存在との、持つ時間の違い。それで狂ってしまった物事を、自分達はたくさん見てきたはずだと彼は言う。
 そもそも ―― 彼らが出会うきっかけとなったその事件だとて、過ぎる時の中、人が神との契約を忘れ、封じるべきゲドウ狐と、そのりたる神狐の存在を混同していったのが原因であった。
 そしてあの海辺で起きた悲劇もまた、時の流れ故に多くのものが歪められた、その結果のそれではなかったか。
「俺は、俺の子孫にまで、契約とかそんなものを負わせたくはないんだ。だから、自分の身ひとつで返せるだけの、そんな願いしか叶えてもらうわけにはいかない」
 神と人との契約は、時に多くの代償を必要とする。それ故のちのちまで続く悲劇を生み出すことも、確かにあるのだから。
 そんな例を幾つも見てきた自分だけは、そんなことをさせたくないのだ、と。


 その言葉の重みは、本来ならばあやかしや神などには、一生関わることなかっただろう一青年が、見つめてきたものの、その重さに等しいのだろう。


 ならばきっと、これをひるがえすことはできないのだ。
 たとえ神であったとしても。
 いや、人間ひととの契約をもって、はじめて存在できる『神』であるが故にこそ。
 何故なら、人の想いはこわいものだから。

「ならば、せめて……」

 悪あがきのように、太郎丸は呟いた。
 代価を払いきれない願いは嫌だというのなら。ならばせめて代価として、もっと呼んで欲しい、と。
 そばにいさせて欲しい。願いを叶えるためではなくて。なにもせず、ただそばに。
「え……なにもせず、って」
「この間も言ったでしょう? なにもなくても、呼んで下さい、と。ただ、私達がここに ―― 確かにこの世に存在しているのだと、あなたに確認し続けてほしいんです」
 存在を忘れられた『神』は、力を失い、ただ消えてゆくだけ。
 だから、太郎丸と次郎丸という神が、この世にあり続けるために、その存在を認め続けていてほしいのだと。
「うっとおしいと言うのなら、狐の方の姿で現れますから」
 ね、と念を押してみる。

「……なんか騙されてる気がするんだけど」

「そんなことはありませんよ」
「うむ、そんなことはない」

 次郎丸と二人、声を揃えてにっこり笑う。

  ―― たった百年のその身なら、わずかでも長く、共にいさせて欲しいのだと。
 心の底からそう願う。
 その気持ちがどれほど大きく、切実なものなのか。
 彼はきっと一生知ることはないのだろう。


 ……そして。
 いっそのこと、彼が死んでしまうその時には ―― なんて。
 そんなふうに考えてしまうことも、あるなどと言う事実は。
 きっと一生、知られてはいけない秘密なのかもしれなかった ――



―― 実は黒狐よりよっぽどぶっ飛んでいる白狐視点。
ちなみに金椀かなまりとは金属製のお椀。太郎丸が作りました。土生金どしょうごんってやつですから。



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