胸の奥底に、なにかの塊が存在している。
不思議に思って押さえてみても、手のひらに感じるものはなにもないのだけれど。
けれど、丸く、あたたかなそのなにかは、確かにそこにあるのだ。
丸く、あたたかく、柔らかなそれ。
「 ――
由良」
穏やかに澄んだ声が、静かに呼びかけてくる。
「胸をどうかなさったんですか」
目の前に膝をつき、細く白い指を、固い皮膚へと伸ばしてくる。
間近からのぞき込んでくるのは、夜の闇よりなお深い、漆黒の瞳。
さらりと肩からすべり落ちてくる、長い長い黒髪。
微塵の怖れ気もなく、まっすぐに合わされるその視線に、胸の奥にあるものが、わずかに揺れたようにも思える。
「由良?」
穏やかな声が形作る、己の名。
そんなふうに名を呼ばれたことなど、一度もなかったはずなのに。
彼がその名を口にするとき、いつも何かを思い出しそうになる。
―― ソウダ。
はじめて彼を目にしたときも、そうだったように思う。
人気のない夜闇の中。
無防備にひとりでいた所を見つけ、喰らおうと襲いかかったあのとき。
さしたる抵抗も受けぬまま、引き裂いた肉はあたたかかった。
流れる血潮はどこまでも甘く、かぐわしかった。
そのまま一息に喰らい尽くそうとした、その時に。
『……おなか、が……空い……て?』
恐怖に満ちた、意味を為さぬ悲鳴でも、命乞いの言葉でもなく。
苦痛にとぎれがちではあったけれど。
静かに、穏やかに、為された問いかけは、確かに由良自身へと向けられたそれで。
己が、どれほどの時を生きてきたのかなど、覚えてはいなかった。
そもそも
妖などというものは、なにかを記憶しておくということなど、ほとんどしないものだ。
過去も未来も思いわずらうことはなく、ただ現在の為だけに、生きる。そういう存在だ。
それでも、そんなふうに人間から話しかけられるのが、滅多にないことなのだとは、理解できた。
これまでに己の姿を目にした人間は、たいていが恐怖におびえ、うるさくわめき立てるか、さもなくば刀や呪術で攻撃してきたものだ。
それなのに。
改めて見下ろした、腕の中。
白い肌に血がしぶき、ほつれた髪が幾筋もはりついて。
震える指先がおずおずと、自身の血にまみれた、鋭い牙へと伸ばされる。
『……おい、しい、ですか?』
問いかけにうなずいたのは、確かに美味だったからだ。
『ウ、マ、イ』
掠れた声で、人語を綴ってみる。
『 ―――― 』
あれが、笑顔というものだったのだと、どうして己は知っていたのだろう。
恐怖や、敵意しか向けられてこなかったはずの己は、どうしてあのとき向けられた表情を、快いものだと感じたのだろう。
……ただ、なにかがあったのだ。
胸の奥底に生まれた、丸く、あたたかく、柔らかななにかが。
もっとこれを見たいと、この声を聞きたいと、そんなふうに思わせるなにかが。
―― 由良。
低く澄んだ、穏やかな声が名を呼ぶ、その響き。
――
由良というのはな、玉が触れあって鳴る音のことだ。そう、お前のその三つ目のように、綺麗に磨かれた丸い玉だよ。
鋭い牙を、固い皮膚を、優しく撫でる、白い指の感触。
なにも、覚えてなどいないのだけれど。
それでも胸の奥底にある、なにかが、目の前にいる人間に、不思議とかき立てられたから。
「ハ、ルア……キ……」
うまく動かない喉で、どうにかその名を形作ると、晴明は首をかしげて問い返してくる。
「なんですか? 由良」
間近にある白いその顔に、一瞬、別の面影が重なったように感じられた。
けれどそれは、あくまで一瞬のことで。
そこにいるのは、数年前のあの日から、穏やかな笑顔で己が名を呼び続けてくれている、青年の姿にほかならず。
そしてそれ以外であって欲しいとも、けして思いなどする訳ではなかった ――
―― 記憶の底にいるのが誰なのかは、あえて語らない方向で。
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