++お礼SS 月の刃 海に風


 ざぶりという音と同時に、全身を海水が包みこんだ。
 白く光る水泡みなわが目の前を埋め尽くし、次々に後方へと流れてゆく。そうしてその向こうから現れるのは、深い深い紺碧。
 どこまでも、見わたす限りに続く、透明な青い広がり。
 頭を下に沈んでゆきながら、ザギは大きく息を吸っていた。脇腹に平行に走るエラの中を、新鮮な海水が通り抜けてゆく。その感触がとても心地よくて、思わず顔がほころぶ。
 沈む速度がゆるやかになったところで、ようやく彼は姿勢を立て直した。足を下に向けて勢いを殺し、海面のある方向を見上げる。
 明るい陽差しを透かしてきらきらと光る水面に、一箇所だけ光を遮るものが浮かんでいた。底の丸い楕円形のそれは、ザギの身体よりもはるかに大きく、海の中に斜めに濃い色の影を落としている。
 ザギは軽く水を蹴ると、そちらの方へと向かった。伸ばした手で水をかき、影の後部を目指す。


 水面から顔を出すと、船縁からいくつもの顔が並んで見下ろしてきていた。
「どうだったーっ?」
 乗り出すようにして問いかけてくるトルードに、ザギは高く右手を掲げてみせる。
「やっぱり海草が絡まってました!」
 舵からひき剥がしたばかりのそれを、数度振ってから投げ捨てる。
 少し前から急に舵のききが悪くなったという訴えがあり、一行はジルヴァの指示でいったん船の速度を落としていた。舵は船にとってもっとも重要な部分のひとつだ。調子がおかしいのであれば即座に確認し、本格的に故障する前に手を打つ必要がある。
 もっとも今回は幸い、波間に漂っていたものをたまたま巻き込んだだけのようだった。
「そっか、そりゃ良かった」
 ほっとしたように笑うトルードの横で、船員が縄ばしごを用意する。投げ下ろされたそれに掴まって、ザギは水から上がった。途端に重く感じられるようになった身体を、両手と両足を使って船縁まで運ぶ。
「お疲れ」
 甲板に降り立つと、ガイが乾いた布を手渡してくれた。礼を言って受け取り、濡れた頭からかぶる。
「他に絡まりそうなものは見かけた?」
 船縁に座ったジルヴァがそう問いかけてきた。
「いえ、見た感じそんなのは全然なかったです。今回はほんとに運が悪かったっていうか」
 こうして船上から見わたしても、あたりは島ひとつ見えない大海原のただ中だった。当然それ相応に水深もある。海中には明るい陽差しが深くまで差し込んでこそいたが、それでも底はその存在すらうかがえない、はるかな闇の彼方だった。あの海草が果たしてどこから流れてきたのかは判らないが、相当な距離を運ばれてきただろうことは確かだ。
「それなら良いけど。ともあれご苦労様、ザギ」
「そら、早く着ねえと、身体乾いちまうぜ」
 船員の一人が脱いであった上衣シャツを放ってくる。
「ありがと」
 受け止めたザギは、そのまま日陰になる位置へと移動した。雫が落ちない程度に髪を拭ったあと、まだ濡れている身体で服に袖を通す。
「と、た……」
 湿っている肌に布が貼りついて、なかなかうまく着ることができない。しばらくじたばたともがいていると、手近な人間が苦笑して手を貸してくれた。
「しょうがねえなあ、ほら」
「つーかさ、お前そんなに乾くの駄目なの?」
 船員の中でも、まだあまり長いつきあいではない男が不思議そうに訊いてくる。
「うん。鱗がね、乾きすぎるとぴりぴりするんだ」
 顔とか手とかは平気なんだけど、と手のひらを開いてみせる。
 亜人種の一種、有鱗人であるザギは、身体の半ば近くに緑色の鱗が生えていた。普段は衣服に隠れているためさほど奇異にも見えないが、こうして服を脱ぐと背中から太もも、二の腕のあたりにかけて、人間の肌にはあり得ない色と質感に覆われているのが判る。しかも脇腹の部分には、まるで刃物で切りつけられたかのような、三対の切れ込みが存在していた。ときおりわずかに口を開けるそこからは、鮮血を思わせる赤い色が顔をのぞかせる。
 地上では肺で呼吸し、普通の人間とほぼ変わらない生活を送ることのできる有鱗人だったが、それでもそんな鱗やエラの部分はやはり、乾燥に弱かった。故にザギは、暑いさなかでも丈夫な布でできた、長袖の衣服を纏っているのである。
 もっとも鱗を隠すのには、それ以外にも理由があったのだが。
「…………」
 視線を感じたザギがふと顔を上げると、何人かの水夫が注視してきていた。が、ザギがそちらを向いたことに気づくと、無言で顔をそらしそれぞれの仕事へと戻っていく。
「どした、ザギ」
 再び帆を揚げるべくあたりに指示を出していたトルードが、通りすがりに問いかけてくる。
「あ、いえ別に。なんでもないです」
 そう答えてザギは、自身も仕事に戻ろうと、止めていた手を再び動かし始めた。


◆  ◇  ◆


 その晩。
 交代で摂る夕食の席で、トルードはその熊のような髭面を不機嫌そうにしかめていた。もともとは人当たりの良い男だけに、そんな顔をしていると何事があったのかとみな気になって仕方がないらしい。ちらちらと周囲から様子をうかがわれているが、当人はまったく気づいていない。塩で味付けした芋と魚のスープを、無意味にぐるぐるとかき混ぜている。
 同じスープとパンを手にしたザギが、その向かいに立った。
「ここ良いですか」
「ん、ああ」
 顔を上げたトルードの目に、入れ替わるように席を立つ男達の姿が映る。
 彼らはザギが座ろうとした椅子と、背中合わせになる位置にいた。まだ中身が残っている皿を手に立ち上がった数名が、離れた卓へと移動してから再び座る。途端にトルードの眉間に皺が寄った。
「……あいつら」
 うなりに似たその呟きに、ザギはなにかあったのかと肩越しにふり返った。そうして、ああ、と納得したような声を漏らす。
 そのまま何事もなかったかのように席についたザギに、トルードはむっとした顔のまま問いかけた。
「あいつら、昼間からお前のこと避けてるだろ」
「そうですね」
 スープを口に運びながら、ザギはあっさりとうなずいた。
「そうですねじゃねえだろ!」
 荒げられた声に、騒がしかった室内が静まりかえった。怒鳴りつけられたザギは、匙をくわえたまま目を丸くしている。耳元のヒレが大きく広がって、その驚きをあらわしていた。
「……なにを騒いでるの」
 居心地の悪い静寂を破ったのは、男のものにしてはひどく澄んだ、涼やかな声だった。
 いつものようにガイに抱えられたジルヴァが、卓の間を縫うようにして近づいてくる。二人の姿にやっと我に返ったザギが、匙を置き開いていた耳ヒレを閉じた。ただでさえ高い位置にあるガイ達の顔を、椅子の上から窮屈そうに見上げる。
「別に、たいしたことじゃないんですけど」
「たいしたことあるだろうがっ」
 ザギの言葉尻にトルードの声がかぶさる。拳を握ったトルードは、まるでグルグルと威嚇せんばかりの形相だ。
「水夫の中に、ザギのことを避けている連中がいるようで」
 口を挟んだのは、隣の卓で食事していたコウだった。
「この間の港で乗り込んだ、臨時雇いの一部ですが」
 トルードに任せていてはまともな話にならないと判断したのか、必要なことを端的にまとめて告げる。その鋼色の瞳は、まっすぐに先ほど席を移動した一団を見すえていた。温度の感じられない視線に、男達は懸命に気づかぬ振りを装い、食べかけの皿へかがみ込んでいる。
 コウの目線を追って、ジルヴァとガイは該当する者達を視界に入れた。
「 ―― 理由は?」
「えっと、その、コレ? みたいな」
 そう言って、ザギが己の耳元を指さした。
 普通の人間であれば耳のある場所に生えているのは、魚のヒレを思わせる半透明の器官だった。見た目こそ変わっているものの、実際のところは通常の耳とほぼ同じ働きを持っているものだ。普段は髪の影で閉じているそれは、先ほどの驚きをまだ引きずっているのか、わずかに開いたり閉じたりを繰り返している。そんな状態は、どことなく玻璃細工の蝶を彷彿とさせた。
「あー、なるほどね」
 ガイがうんうんとうなずいた。そうして彼は、もうそのことについて興味を失ったようで、空いている椅子へと丁寧にジルヴァを下ろす。
「なるほどじゃねえっつってんだ!」
 再びトルードが声を上げる。
「なんだってこいつが避けられなきゃならねえんだよ、ええッ」
 卓を叩き、ぐるりとあたりをにらみまわす。
「ちっとばっか見た目が違うからって、それがどうだってんだ? 何がいけねえってんだ!?」
 座った目でねめつけられて、先刻の水夫達はもちろん、関係ない周囲の者達もびくりと首をすくめた。日常、甲板勤務の水夫達を統率しているトルードは、彼らにとっていわば直属の上司だ。そのおおらかな人柄で慕われてこそいるが、それでも怒らせて得な相手ではない。
 さらに横の卓からは、コウが厳しい目で一同を見すえている。トルードのように感情をあらわにこそしていないものの、やはり気分を害していることは、全身から立ちのぼるその空気で容易に察せられる
 この二人を敵にまわした日には、次の港に着くまで、心休まる日はないだろう。そして港に着いたなら、一刻でも早く船を下りなければなるまい。さもなくば……
 恐ろしい予感に身を震わせる水夫達をよそに、ザギとガイはというと、二人しておのおのの皿をのぞき込んでいた。あ、頭入ってる。俺ここ苦手。じゃあ下さいよ。代わりに腹身んとこあげますから。骨多くて食べにくくない? 味がしみてておいしいんですよ、などとのんきなやりとりが交わされている。
「……おまえら」
 握りしめた拳をふるわせつつ、トルードが低くうなった。
「え、なに?」
「なんですか」
 きょとんとしたように上げられた二つの頭に、ジルヴァがこめかみを押さえてため息をつく。
「理不尽な目に遭ってるんだから、少しは怒れって話なんだけど」
 怒鳴りつけようとしたトルードを片手で制し、そんなふうに告げる。
「「理不尽?」」
 亜人種ふたりは、異口同音に言って首を傾げた。
「って、なにが?」
 ガイの方が不思議そうに続ける。
「だから! 亜人種だからってだけで、変な目で見られて平気なのかよ、お前らはッ」
 今度は止められるより早く怒鳴ったトルードに、しかしふたりの反応はほとんど変わりがない。
「えー……別に、たいしたことじゃないし」
「これぐらい、よくあることですもんねえ」
「なー?」
 目と目を見かわし、なにやら同意に至っている。
「特に実害があるわけでなし。なにも問題ないですよ」
「……実害って、たとえば?」
 ジルヴァの問いに、ザギとガイは代わる代わる指を折る。
「わざと食事こぼされるとか」
「持ってるもの、隠されたりとか」
「住み込みなのに、自分だけ寝るとこなかったり?」
「あと壊したもの、こっちのせいにされるのも常套手段ですよね」
「そうそう、給料もなんだか人より少なかったりして」
 心なしか楽しげとすら感じられる声音で数え上げる。
 次々と並べ立てられる内容を聞くうちに、トルードの顔に血の気がのぼりはじめる。
「……ッ」
 なにやら文句を言いたいようなのだが、憤怒のあまり言葉にならないらしい。拳を握りしめ、真っ赤な顔で立ちあがろうとしたトルードを、いつの間にやってきたのか、ユーグとタフが二人がかりで羽交い締めにした。
 そのまま引きずるように退場させられるトルードを、ジルヴァがため息と共に見送る。
 そうして彼は、きょとんとしたようにまばたきしている二人を振り返った。
「……あのね、二人とも」
「はい?」
「それ、笑いながら言うことじゃないから」
 声の聞こえる範囲にいた面々が、ジルヴァの言葉にいっせいにうなずく。
「自分と違う少数種族だからとか、そんな理由で嫌がらせするなんて最低の下衆がやることだし、ましてや雇用条件に差をつけるなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。そんなものを甘んじて受けている必要なんて、どこにもないんだからね」
 ジルヴァの口調は激しいものでこそなかったが、はっきりと良く通るその声は、室内にいる全ての者の耳に届いた。
 実際、この船では亜人種二人を雇用するにあたって、これといった特別な格差はつけていない。あえて言うならば、それぞれ水中や空中での行動が役立つ点を評価し、技能給を計上しているぐらいか。
「別に、オレ達も好きで受けてた訳じゃないんですけどね」
「うん。それに……ねえ?」
「ねえ?」
 ザギとガイは顔を見合わせ、そうしてへらっと笑い合った。


◆  ◇  ◆


 食料の補給に立ち寄った無人島は、白い砂浜と遠浅の海が広がる、美しい入り江を持っていた。休息を兼ねて一日の滞在を決めた船長の決定に、手の空いている者達は久しぶりの陸地だと、競い合うように上陸してゆく。
 ザギもまた、己の担当する仕事を片付けたあとは、ゆっくり羽を伸ばすべく船を下りていた。ただ他の面々と異なるのは、陸に上がったのではなく、その逆。海に潜ったという点である。
 海など毎日飽きるほど見ていただろうにとあきれ顔で言うものもいたが、航海中の大海原と、陸地近くのそれとは、まったく異なった様相を呈しているものだ。ザギにとっては陸地と同じぐらいに久しぶりの光景である。
 波に洗われ細かく砕けた珊瑚が降り積もる海底に、水面越しに差し込む陽差しが柔らかな光を届かせている。波の動きに合わせ、ちらちらと揺れる光と影。ところどころに盛り上がる岩場には、海草やイソギンチャクがたなびき、その合間を彩りも大きさも様々な魚達が泳いでゆく。
 それらの魚に混じって、ザギもゆったりと海中を漂っていた。
 透明度の高い浅瀬の海は、淡く色をつけた水色の硝子のようで。それでいて冷たさはなく、心地よいほのかな温かさで全身を包み込む。船の上では味わえない、ゆったりとした浮遊感。仰向けになって軽く目を閉ざせば、遠く岸辺に打ち寄せる波の音が、あたりの水をほのかに震わせている。

 ―― この素晴らしい光景を、みなと分かち合うことのできないのが、残念といえば残念なのだけれど。

 水中に潜ることはできても、せわしなく息をつぐ必要のある仲間達は、こんなふうにのんびりと、海底でくつろぐことができないから。
 ふと目蓋に落ちる影を感じ、閉じていた目を開く。
 揺れる海面の向こうを、大きな何かが通り過ぎてゆくのが見えた。おそらく船長を抱えたガイだろうと、そう見当をつける。
 目を開けたついでに、ザギはくるりと身体を返した。軽く二三度水をかき、もっと海底の方へと潜っていく。


 その日の夕食は、なかなか豪勢なものになった。
 島で見つけた新鮮な果物に、水夫達が捕まえた海鳥の焼肉。なにより食卓をにぎわせたのは、大量の蟹と貝類だった。
 普段魚ばかりで飽き飽きしている一同も、沿岸で獲れる保存のきかない魚介には、あまりなじみがない。たまに港町に上陸した場合にも、高級食材として高い値がついているそれらとはどのみち縁が遠かった。
 浜辺におこした焚火を囲み、具沢山のスープや直火焼きに舌鼓をうつ一同は、酒も入っておおいに盛り上がる。
 軽くあぶった牡蠣が口を開けたところへ、島で見つけた柑橘類を搾り、こぼれそうな汁ごとすかさず啜りこむ。
「かーっ、うめェ!」
 トルードがしみじみとした声を上げた。いかにも嬉しげに、近くにいたザギの背を叩く。
「ほら呑んだ呑んだ、功労者!」
 周囲から、ザギが持つ杯に次々と酒が注がれる。
 海底を散策ついでに目についたそれらを拾ってきたザギは、すっかり今宵の功労者として祭り上げられていた。ザギにとってはさほどの苦労でもないのだが、やはり水中で息のできない面々にとっては、ひとつ見つけるのにもかなりな労力を必要とするわけで。これだけの人数に行きわたる量を確保するとなると、そう簡単にはいかない。
「はい、俺からもー」
 砂を踏んで近づいてきたガイが、あぐらをかいて座り込んだ。手渡されたのは、酒ではなく皮をむいて切り分けた果物の皿。
「あ、どもです」
 いい加減、顔がほてり始めているザギは、ありがたく受け取って口に運んだ。流水で冷やされた果肉が実に美味しい。
 しゃくしゃくと音をたてて咀嚼するザギに、ガイはひじをついた姿勢で笑いかける。
「楽しいよねえ」
 ザギは口の中身を飲み込んでから、こくりとうなずいた。
「楽しいですよねえ」
 そうして二人、あたりに視線を投げかける。

 ―― なんのこだわりも違和感もなく、こうして皆の輪に入っていることができる。

 そんなこの船に乗っていて、どうして理不尽な目にあっているだなどと思えるだろう。
 世の中に、どうしても性の合わない相手がいるのはあたりまえのこと。それは生まれだとか人種だとか、そんなことなど関係ない。他人と暮らしていく上で自然に生じてくる、ちょっとしたいさかいにすぎず。
 なのにごく当然で些細な衝突をすら、気にかけてもらえるのはありがたいというか、むしろ申し訳ないぐらいだというか。

「あ……」

 めぐらせた視界にふと見覚えのある相手が入り、無意識に声が漏れた。
 昨夜ザギを見て席を移した数名が、少し離れた場所にある焚火を囲んでいる。その手元にはやはり、ザギが獲ってきたもろもろが、酒杯と共に存在していた。
 目のあった一名が、しばし気まずげに動きを止める。
 が、やがてぎこちなくではあったが、ぺこりと小さく頭を下げ、食べかけていた蟹のハサミをかざしてみせた。

「 ―― 」

 途端に嬉しくなって、ザギは笑いながら拳を突き出しかえす。
 視線を追ってそちらを見たガイもまた、ああと口元をほころばせた。そうして酒杯をちょっと持ち上げる。


 ザギの頭を、くしゃりと撫でる手があった。
 あれ? とふり返ってみると、遠ざかっていくコウの背中が目に入る。
 頭に手をやったままそれを見送ったザギは、これ以上ないほどの笑顔を浮かべ、再びガイの方へと向き直った。

「幸せですよね」
「うん、幸せだよねえ」

 もう一度繰り返された微妙に異なるやりとりは、亜人種二人にとって心底からの、偽りのないそれだった。


―― 天然さんが二匹。



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