「
土生金の
理において ―― 」
静かな声が、人気のない境内に響いた。
激した様子など欠片もない、低く穏やかな……けれどどこか、思わず息を呑んで姿勢を正してしまうような、厳かな気配をまとった
言の
葉。
ゆるく拳を握った右手を胸の前で捧げるようにして、白ずくめの青年がたたずんでいる。膝近くまで達する長い黄金の髪と、染みひとつないロングコートの裾が、まるで風にあおられたかのように大きく揺らめいていて。
「
金気よ、我が手に集え」
命ずる言葉とともに、その全身から淡い白光が立ちのぼる。おぼろに揺れるそれらは、じょじょに青年の拳へと集まり ―― 指の間から強い光を放つ。
が、それも一瞬のことで、何事もなかったかのように光を失った拳を、青年はゆっくりと開いた。あらわになった手のひらには、小さな金色の鈴がふたつ。
ちり、と。
澄んだ音を立てるそれを、青年は傍らに立つもう一人の方へと差し出す。
こちらは漆黒のコートをまとった青年が、心得たように鈴を受けとった。そうして彼は、もう片手の指へと、みずからの髪を数度巻きつける。無造作に引くと、ぶつりと切れた。相方ほどではないが、それでも腰を越えるほどもある黒髪が、一房長く青年の指先に垂れ下がる。
驚いたように目を見はる直人の前で、彼は髪の束を数度輪にしてねじった。 ―― そう思ったときにはもう、その手の中にあるのは、黒い組紐でできた根付けになっている。光の加減で時おり金色を帯びる組紐の中に、小指の先ほどの鈴が器用に編み込まれていて。
「それ」
差し出されたのを、反射的に受けとった。
「お守りです」
「肌身離さず持っておれよ」
にっこり笑ってそう告げてくるのは、
黒白二匹の稲荷の
神狐。
今はまだ再建中の、この社に住まう御祭神達だ。
「あ……ありがとう」
どもりながらも礼を言えば、獣の瞳を持つ金の双眸が糸のように細められる。
「何かあったら我らを呼ぶが良い。その守り鈴さえあれば、それを
標に何処へでも力を及ぼせようほどに」
あさってから数日ほど、直人はゼミのつきあいで旅行にゆくこととなっていた。故にしばらくの間、ここに来ることができなくなるから、と。そうことわりに来た直人を前に、彼らがおもむろに作り出したのがその守り鈴なのである。
要するにこれが、彼らなりの心配であり餞別なのだろう。たかが数日の旅行で大げさなことだとは思うのだが。
「呼ぶって、太郎丸、次郎丸 ―― って?」
彼らの助けを求めることなどまずあるまいと確信しつつ、それでも心配されるのが嬉しくないわけではけしてないので、一応そんなふうに問い返してみる。
「ええ。それでも良いんですが……」
わずかに思案した太郎丸が、ふと思いついたように言葉を切った。そうして腰をかがめ、直人の耳元へと唇を寄せる。ぎょっとして身を退こうとするよりわずかに早く、囁くような声でひとつの言葉が発せられた。
「 ―――― 」
短い音節のそれは、どうやら何かの名前らしい。
なるほどとうなずいた次郎丸が、同じようにして反対側の耳に顔を近づける。
「 ―――― 」
やはり同じく、名前とおぼしきひとつの言葉。
唐突に、たった一度呟かれたはずのそれは、しかし何故か聞き落とすこともなく、不思議なほどはっきりと認識することができた。どのように書き表されるのか、その字面さえもが確信でき、胸の内へすとんと落ちるように収まる。
「え……今のっ、て……」
なんとも言いようがないその感覚に、直人は思わず目をしばたたいていた。鈴を持ったままの手で、己の胸元を強く押さえる。
とくり、とくりと、ゆっくりと拍動しているのは果たして心臓の音なのか。
ひどく温かいものが感じられるのは何故だろう。
困惑する直人の両肩に一方ずつ手を乗せて、二人がくすくすと笑いをこぼす。
「我らの名だ」
「なまえ……?」
「そう。神狐として契約するよりずっと前から持っていた、本当の名です」
太郎丸が告げる。
彼らの名前 ―― 太郎丸、次郎丸というそれは、二人がゲドウを封じるために行者と契約する際つけられた、神狐としての名前。いわば役職としての呼び名である。けして彼らが持って生まれたものではない。
無論のこと、元来が野生の狐であった彼らが、その二親から名付けを受けたわけではない。ただの狐であった頃の彼らは、名はおろか確たる自我をも持たぬ、ただ本能のままに生きる
獣に過ぎなかった。それが年を経、力を得、いつしか自我を備えて一個の
妖と化した。そうしてはじめて彼らは自己を確立し、自身を自身として
見出したのである。
力と自我を備えた、『個』としての存在に目覚めたその時に、己が魂と肉体すべてを言い表すそれとして得た、彼ら自身を示す名。
すなわちそれは……
思い至った直人は、思わずごくりと息を呑んでいた。
心なしかその顔色が、青ざめたものへと変じている。
「もしかそれって、『真名』とかいう、やつ?」
おそるおそる問うた直人に、ふたりは破顔した。
「然り!」
「よく御存知で」
良くできました、とでも言わんばかりの二人に、直人は思わず頭を抱え込んでいた。内心でではなく、実際に、本気で、心の底から。
直人の認識が間違いでなければ、真名という代物はそう簡単に他者へと教えて良いものではないはずだ。真の名とはそのまま、その存在の真実を体現するものだという。たとえば昔話などでも良く出てくるではないか。真実の名を知られたことで退治されてしまう妖怪だとか、良いように操られてしまう悪魔だとか。
そも古代日本では真の名を他者に知られると、呪うも殺すも自由自在になると信じられ、生まれたときに名付けたそれは厳重に秘し、知っているのは本人の他は両親といれば名付け親、あとは生涯の伴侶だけにとどめられるとか、そんな風習さえあったはずだ。
要するに真名とは、知ればその相手を支配することさえ可能になるものだと。ことに神だの
妖だのといった存在にとっては、特に影響力が強く、秘するうちにも秘さなければならない、そういうものであるはずなのだ。
それを。
そんなにあっさりと。
「あああああ……」
だからなんで気軽にそういうことをするかなこの二人は、と。
唸り声をあげて頭をかきむしる直人だったが、一度聞いてしまったものをなかったことにはできない。いっそ忘れてしまおうと思っても、それは何故かくっきりはっきり記憶に焼きついて、その存在を激しく主張してくる。
「直人?」
「どうかしましたか」
きょとんとしたように問いかけてくる二人は、本当に判っていないのか、それともとぼけているのか。後者だとは思うが、あるいは前者であるという可能性も今ひとつ否定できず。
「ああもう、仕方ない……!」
かくなるうえは、できるだけ呼ばないよう。そして間違っても口に出して余人の耳に入れることのないよう、直人が自身で気をつけるしかない。
彼はどこぞの誰かのように、人間より
妖とのつきあいの方に重きを置いたり、人ならぬ力を駆使して映画のようなアクションを繰り広げたり、そんな生活とは一切無縁でいたいのだ。ごく平凡な一学生として過ごしたあとは、普通に就職し、普通に結婚して、幸せな家庭を築き平和に年を取っていきたいと、そう思っているのである。たとえどれほど小市民的だと言われようとも、それが直人の正直な願いだった。
故に、神さまに守ってもらえることはとてつもなくありがたいし感謝もするが、それ以上を求めるつもりは一切なかった。間違っても得られた真名を使って、太郎丸次郎丸を自在に使役しようだとか、そんなことは考えられない。
―― できるだけ呼ばない、できるだけ呼ばない。呼ぶときはなるたけ小さな声か、心の中で。絶対、何があっても他人には知られないように……
などとぶつぶつ呟いている直人は、未だ重大な事実に気がついていなかった。
太郎丸、次郎丸という神狐としての名ではなく真名をもって守護の契約を受けた自分と、彼らの関係が既に一生もののそれになってしまっているということに。
そもそも太郎丸、次郎丸の名のもとに彼らが契約している内容は、彼らの社が建つ一帯の住人、すなわち社に参拝する氏子達を守護し、願いを叶えることである。ということはつまり、いずれ直人が大学を卒業して土地を離れてしまえば、それで切れてしまう関係でしかなかった。
しかし ―― 土地神としてではなく一介の妖狐として契約したことで、彼らは神と氏子ではなくただの狐と直人という関係となった。それは距離や時間によって制約を受けるものではない。故に直人が土地を離れようと、社に参拝することができなくなろうと、彼が守り鈴を身につけ、そして二人のことを忘れずにいる限り、守護は続くこととなる。
そして律儀なこの青年が、これまで受けた恩と、ここまで真っ直ぐに向けられる情とをすげなく忘れてしまえるなど、そうあるはずもなく ――
それらのことどもに、未だ気づくことなく。
いまはただ深々とため息をついた直人は、それでももろもろの礼とするべく、今日も供え物の袋を取り出して二人へと差し出すのであった。
―― 小ネタで出てくる守り鈴のエピソード。そんなわけで彼らの関係は一生モノです(笑)
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