++お礼SS 月の刃 海に風


 ―― ハラ減ったなぁ。


 目の前を行き過ぎる人波をながめつつ、青年は内心でそうぼやいていた。
 それがすでに何度目のことになるものかは、面倒で数えてすらいない。
 道端でしゃがみ込んでいる大男に、通りがかる人々の何割かは、うさんくさいものを見る目を投げかけていった。だが残る大多数は、まるでなにも存在していないかのように、一顧だにしようとしない。


 ―― 冷てえよなあ。人が途方に暮れてへたり込んでたらさ、せめてこう、どうしたんだーとか、声かけるぐらいしてくれたって良いだろうによ。


 そんなことを考えてみるが、彼がこの場所に腰を落ち着けてはや半日、誰ひとりとして関心を示してくれる者はいなかった。実際、食いつめたあぶれ者など、港町では珍しくもなく。下手に関わればどんな厄介ごとに巻き込まれるか知れたものでない以上、そういった存在に声をかける物好きなどそうそういるはずもなかった。まして相手が美しい女や、年端もいかない少年少女であるというならともかく、むさ苦しい髭を生やした大男とあっては、乏しい親切心もいっそう尽きようというものだろう。


 ―― あーあ、これからどうすっかなぁ。


 事態は洒落にならないほどせっぱ詰まっているはずなのに、ここ数日ろくに栄養を補給されていない脳味噌は、いたって悠長な思考しか生み出そうとしない。
 まるで熊を思わせるむさ苦しい風体の彼だったが、数日前までは、それでもそれなりにこざっぱりとした、むしろ身なりの良いといえる男だった。彼は島から島へと渡っては、その先々で商品を売り歩く、行商人だったのである。排斥されがちな余所者が地元で受け入れられるためには、ある程度見た目を整える必要があったし、彼の扱う品はそこそこ良質な物が揃っていたから、金銭的にもまあ窮することはなかった。そう、ほんのこの間までは、よもや近い未来に路頭に迷う羽目になるなどとは、夢にも思わずいたというのに。


 ―― 店に入ったときには、もう目ェつけられてたんだよな、たぶん……


 いつものように新しい島を訪れた彼は、まず大体の様子を知るために酒場を訪れた。酒が入れば人の口は緩むもの。その町の情報を仕入れるのには、地元の人間が多く出入りする酒場に行くのが一番手っ取り早い方法だった。そこまではいつも通りの行動だったのだが。
 人一倍大きな身体の彼は、はじめて訪れる場所でも、無益な因縁をつけられることは少なかった。おまけに体格に似合わぬ人なつこい雰囲気を持っていたから、たいていの場所で、労せず場に溶け込んでしまえる。そのことで油断があったのかもしれない。
 で、まあ要するに。
 たまたま同席した人間とふとしたことから意気投合し、気がついた時には酒盛りが始まっていた。実に楽しく呑み、笑い、遅くまでどんちゃん騒ぎを繰り広げ ―― その結果、翌朝目が覚めると身ひとつで路地裏に転がっていたと、そういう次第であった。商売物の荷はおろか、懐中にあった財布もわずかばかり身につけていた装飾品も、ひとつ残らずきれいに消えていた。まさしく文字通り、着の身着のままという状態。
 もちろん、警備隊の詰め所に訴え出てはみた。しかし町に着いたばかりの彼の訴えは、ほとんど相手になどしてもらえなかった。そもそも同席していた相手の風体もうろ覚えなら、現場となった店すらはっきりとしない。一文無しで、自分が滞在する宿さえ確保できていないとあっては、訴えられた方も始末に困るだろう。
 かくして彼は、泊まるところも食べるものもないまま、途方に暮れる羽目となったのである。


「……おい、お前」


 唐突にかけられた声にも、彼はしばらく反応ができなかった。
 ああ、ついに幻聴まで聞こえてきたかも、やばいなあ、などと思いつつ呆けていると、頭上から深々としたため息が降ってくる。
「聞こえていないのか、それとも聞く気がないのか、どっちだ」
「ん、んぁ?」
 抑揚の少ない低い響きの声に、ようやくそれが現実のものと認識して、顔を上げる。
 地べたに座り込んだ彼の正面に立ち見下ろしてきていたのは、ひとりの壮年の男だった。逆光になっているためはっきりとした風体は見て取れない。ただかなり背が高く、また鍛えられた身体つきをしているのは判った。片手に弓をぶら下げ、腰に矢の入ったえびらを下げている。当たり前の町人には見えなかった。
「なんか、用ッスか」
 この界隈を縄張りとする地廻りが、邪魔だから場所を空けろとでも言ってきたのだろうか。
 問いかける彼を、男はじろじろと眺めまわした。そうしてから再び口を開く。
「お前、仕事はあるのか」
「……はあ?」
 なんの脈絡もない質問に、思わず間の抜けた声を出す。
 そんなものがあったなら、大の男がこんなところに座りこんでなどいないだろう。
 言葉に出さないそんな返答を読みとったのか。男はひとつうなずいた。
「うちの商船ふねで水夫を捜している。出港は明日の朝一番。二ヶ月かけて南方諸島をまわる。最終目的地はメルディア。食事は支給、前払いで銀五、航海が終わったところでもう十渡す。どうだ」
「へ、や、その」
「やる気がないなら構わん。だが行くところがないんじゃないのか」
「あ、いやそうじゃないけど」
 信じられないことだが、どうやらこの男は仕事を紹介しようとしてくれている、らしい。
 はっきり言って非常にありがたいし、二ヶ月食事の心配がないうえ、最終的に銀貨十五枚も払ってもらえるとなると、相当に実入りの良い部類になる。どうせ旅から旅への行商暮らし、どこへ連れて行かれたところで大差もない。
 だが……
「その、オレ、水夫なんざやったことねえんだけど」
 言うべきかどうかと迷いつつ、それでも正直に告げる。これまで船には幾度も乗ってきたが、それはあくまで客としてであって、水夫がやるべき仕事など、経験もなければ内容の想像もつかない。いざ出港してから役立たずとなった場合、文字通り身の置き所がなくなってしまう。
 だが、それを聞いた男は小さく鼻を鳴らしただけだった。
「経験がないなら、覚えればすむだけの話だ」
 そう言い捨てると、くるりと背を向け歩き出してしまう。ついて来いとも、もういいとも告げるでなく。
「ちょ、ちょっと待てって……ッ」
 青年は慌てて立ちあがると男の後を追った。空きっ腹なうえに、長い間座り込んでいたせいで、足がもつれ思うように動かない。それでも遠ざかろうとする背を見失わないよう、懸命に走りより、その肩へと手を伸ばした。
「やらないとは言ってねえよ。短気だな、あんた……その、えーと」
 口ごもると、わずかに下になる位置から、鋼色の瞳が見上げてきた。よく陽に焼けた琥珀色の肌に、薄く削げた頬。伸び気味の黒髪が、首の後ろで無造作にくくられている。


「コウラギ=シズカだ」


 感情の色のうかがえない声が、低く名を告げる。
「コ……ギ……?」
「コウでいい」
 耳慣れない発音に戸惑うと、素っ気なくそう続けた。そうして唇を閉ざし、見返してくる。促されているのに気がついて、青年はああ、と頬を緩めた。
 そんなふうに笑うのは、実に身ぐるみ剥がされて以来のことだったと、気がついたのはしばらくしてからで。


「オレの名前は ―― 」


◆  ◇  ◆


「……はっきり言って馬鹿だったな。普通はついてこないだろう」
「そ、そこまで言う?」
「当たり前だ。一面識もない男にいきなり声をかけられて、怪しいと思わないのがまずおかしい。そもそも職を探したいなら、口入れ屋に渡りをつけるものだ。それを物乞いのように座り込むとは……あのままなら飢え死にするか、あるいはそのうち騙されて、人買いにでも売り飛ばされていただろうな」
「あー、まあ、それは同感だけど」
「実はけっこう、坊ちゃん育ちらしいからなあ、ヤツは」
「そうなんですか?」
「なんでも行商人になったのも、そもそも実家が商売やってて、そんで世間勉強にってことで送り出されたらしい」
「それで身ぐるみ剥がされて?」
「道端に座り込んでたのを、コウさんに声かけられた訳ですか」
「……お前さん、なんでヤツを雇おうと思ったんだ?」


 髭面の副船長の問いかけに、コウはあっさりと答えた。


「口入れ屋に払う金が惜しかったので」


 手配できた水夫の数がたまたま一人足りなかったところへ、ちょうど面倒な交渉をせずにすみそうなカモが一匹、目の前に落ちていたから、と。


「……まあ、思ったより使える男だったのは認めますが」


 その言葉に促されるように、場にいた全員が甲板の一角へと目を向けた。
 そこではトルードが、臨時雇いの水夫達を指揮しつつ荷の積み込みを行っていた。軽口などたたき合いながら作業する彼らは、肉体労働中なのにも関わらず何故か楽しそうだ。
 最初の航海が終わる頃には完全に仕事を覚え、そのまま再契約して二度目の航海。三度目が始まる前に、臨時雇いから上級船員に昇格して正式採用された男は、いまでは完全にこの船の一員となっている。


 偶然と気まぐれがもたらした出会いを、有意義なものにしたその努力を認めるにやぶさかではない。
 やぶさかでは、ないのだが ――


「……とりあえず、呑みに出るときは誰かしらついて行かせるようにしとくか」
「そうだな」
「……そうですね」
「それが良いかも」


 そんな会話を交わす仲間達の危惧も、あながち薄情とばかりは言えないものだった。



―― そんなわけで、トルードはコウに頭が上がらないのでした。



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