++お礼SS 月の刃 海に風


 この船に拾われて、最初に言い渡された仕事は芋の皮むきだった。
 大海原のただ中で出される食事は、けして豪勢なものではなかったけれど、船長以下臨時雇いの水夫まで、総勢三十名近い人数が食べる量は馬鹿にならない代物で。
 食事が終われば皿洗い。縄のついた桶で汲み上げた海水をたらいに空けてもらい、ひたすら洗い続ける。貴重な真水は浪費できないから、最後の仕上げに少しだけ。
 甘ったれんな。座りっぱなしでもできる仕事ぐらいいくらでもあらぁ。
 そううそぶいて、本当にこれでもかと言うほどいろいろ押しつけてくる船長に、はじめは反発したりもしたけれど。


◆  ◇  ◆


「ん、ちょっと待った」
 床の上で足を伸ばして座り、ガイに背中を押させていたジルヴァは、上体を起こすといったんひと息入れた。それから今度は足を開き、左足のつま先に触れるように身体を倒す。
「押して」
「はいよ」
 軽く拍子を取るようにして、ガイが再び背中を押す。
 男にしてはほっそりとしたジルヴァの身体は、ほとんど力を必要とせぬまま、胸がももから膝にかけて触れそうなほど曲がった。左足で数回、右足で数回、それがすんだら正面でさらに数度。
「ほんと、柔らかいなあ」
 俺なんて爪先に指が届くかどうかなのに、などと呟くガイに、ジルヴァはなんでもないことのように答える。
「そりゃ毎日やってれば柔らかくもなるさ」
 はい次はそっち押さえてと、再びそろえた両足を示す。
 そうして今度は楽々と腹筋を始める船長に、ガイはしみじみとため息を落とした。
「別にそんなに鍛えなくても、なにかあったら手伝ってあげるよ?」
 今までは大変だったかもしれないけれど、これからは自分がいるのだから、と。
「なに言ってんのさ。世の中いつなにがあるんだか判らないんだし、いざって時に自分で動けるだけの体力はつけとかないと」
 人間、動かなければあっという間に体力が落ちる。筋肉もそうだ。立たない、歩かない。それだけで驚くほどに身体は衰える。ことに下半身の筋肉が弱れば、それは排泄や消化機能にまで影響を及ぼしかねない。そんなことになった日には、いかに手を貸してくれる人間が身近にいようとも、どうにもしようがないではないか。
「はー、なるほどねえ」
 確かに、いくらガイでも代わりにかわやはすませられない。
「まあ、全部先代の受け売りなんだけどさ」
「先代っていうと、お父さん?」
「血は繋がってないけどね」
 一瞬だけ上体を止め、うなずいてみせる。
「乗ってた船が難破して漂流してたのを、たまたま拾ってもらったんだ。最初は適当な孤児院がある島まで、乗せてってくれるって話だったんだけど、なんかそのうち馴染んじゃって」
 なかなか良い島が見つからないうちに情が移り、独身だった先代の船長がそのまま養子として引き取ってくれたというわけだ。
「まあ、とにかく豪快な人だったよ。普通、助けられたばかり、おまけに歩けもしない子供を相手に、働かざる者食うべからずなんて言う?」
「……俺なら言わないなあ」
 むしろガイの場合、ここぞとばかりに世話を焼き倒しそうだ。……それはそれで、別の意味で問題があるのだが。
「どうしてもできないことだけ手伝ってやらぁ、って。おかげで見た目さえこだわらなければ、たいていのことはできるようになったんだけど」
「そうなの?」
「ああ。たださすがに、船長なんかになっちゃうとね。臨時雇い達の前で、四つん這いになったりとか、そうそうするわけにはいかないし」
 昔からなじみのあるユーグやタフ、あるいは信頼のおける幹部達などの前でならともかく、航海のつど契約する水夫達や入れ替わりの激しい一般船員達には、雇い主としてそれなりの威厳を保っておく必要があるものだから。
「うし、終わり」
 腹筋を終えたジルヴァは、その言葉を証明するように身体をひねり、寝台に両手をついて自力で這い上がってみせた。ぽすりと敷布に腰を下ろし、ガイを見下ろす。
「じゃあちょっと足首押さえて。軽く」
「こう?」
「そうそう」
 指示通り少しだけ力を入れて手を沿わせると、それに抵抗するように膝から下を持ち上げ、戻す。右、左、右、左と順に黙々とくり返す。
「……あのさ、一個訊いていい?」
「なに」
 運動を続けながら問い返すジルヴァに、ガイも視線を手元に落としたままで答えた。
「この足、事故とかでなったんじゃないよね」
 なんでもないような口調で言われた言葉に、足の動きが一瞬乱れた。
 こうして訓練の手助けや身のまわりの世話をするようになったガイは、普段服に隠れて見えないジルヴァの足首も目にする機会があった。そして、踵のわずかばかり上、両足とも同じ位置に刻まれた綺麗すぎる傷跡は、それが人の手によって故意に刻まれたものであることをはっきり示していて。
「……だったら、なにか?」
 問題でもあるのか、と問い返すジルヴァの声は、その内容とは裏腹にどこか挑戦的な色を持って響いた。見下すように投げられた目には、抜き身の刃にも似た鋭い光がある。
 が ――
「ん、俺は別にどうも。ただ人に訊かれた時どう答えればいいのかなって。知られたくないなら黙っとくけど」
 どうしよっか、と見上げてくるガイの表情には、なんら含むものはないように見えた。
 ジルヴァはしばらく真剣な目でガイの顔をのぞき込んでいた。ガイは軽く首を傾げるようにしてその視線を受け止める。
 ややあって、ジルヴァはわずかに眉をひそめた。
「……意味、判ってる?」
 他者の手で足の腱を切られるというそのことが、いったいどんな状況を示しているのか。
 懐疑的なジルヴァの口調に、ガイはあっさりと続けた。
「俺、前に花街いたこともあるし。男衆として」
「…………」
「違った?」
 聞き返す声は、相変わらず平坦なものだ。
 ジルヴァは思わず深々と息を吐いた。
「違わないけど……さ」
「で、人には言わない方がいい?」
「当然」
「ん、判った。黙っとく」
 こくりとうなずいて、いつの間にか止まっていた足をうながすように叩く。
「…………」
 再び膝から下の運動を始めたジルヴァは、しばし無言で足を動かしていたが、ややあって苦笑いを浮かべた。すぐそこにあるガイのつむじを見下ろす。
「そういえば、有翼人種だったっけ」
「うん。それがどうかした?」
「動じなくて助かるって話」
「ふうん?」
 曖昧な答えはよく判っていない証拠だ。
 異種族の中で育ったとはいえ、純血の有翼人であるこの青年は、異性や貞操に関する観念が世間一般とは大きくずれているところがあった。とくに不特定多数と関係することについては、それが誉められたことではないと頭では理解しているものの、感覚がついてきていないらしい。
「これだけははっきり言っとくけど」
「うん」
「うちの売り物に、身体は入ってないからね」
 男が相手であれ、女が相手であれ。
 売れる物なら何でも売るが主義のジルヴァだが、『それ』はけして、売れる範疇に入っているものではない。時おり勘違いする馬鹿もいたりするが、そういう相手には『丁重に』お引き取り願っている。
「うん」
「……いちおう、ユーグとタフは知ってるし、多分コウも知ってるけど、トルードは知らないから。それにはっきり言って二度とごめんだし、思い出したくもない。だからその話題は今後一切出すな」
「ん、判った」
 きっぱりと告げてやると、こっくりとうなずきが返る。
 本当に判っているのかと今ひとつ疑問の残る反応だ。そこらへんの感覚のずれが、この骨惜しみせず人柄も良い青年が、周囲とうまくやっていけず居場所を転々とする羽目になった原因なのだろうが。
 動じない、という点では先代も似たようなものだったけれど、あの人にはそれが納得できるだけの豪快さや、確固たる信念が感じられたから。


 ―― いいか、坊主。よく聞けよ。


 乱暴に髪をかき回す大きな手のひらは、いっそ素っ気ないほどに固く乾いていて。触れられることに嫌悪感しか覚えなかったあの頃でも、不思議なほどあっさりと受け入れることができた。


 ―― 俺たちぁ、自分の仕事で忙しい。てめえの世話なんぞにかかずらってる訳にゃいかねえんだ。だからてめえでできることは、てめえでやんな。できねえことは、できるようになりやがれ。


 言葉の内容はひどく厳しいのに、なぜだか泣きそうになったのを覚えている。それは悲しいからでも、悔しいからでもなくて。


 ―― どうしても不可能なことだけ、手伝ってやらぁ。そんで良いな?


 白い歯をむき出した、お世辞にも優しげとは言えない笑顔が眩しく感じられたのは、けしてそこが、真昼の甲板だったからではなかった。


 もしも、あの時拾ってくれた相手があの船長でなかったならば。
 身を売る以外の生き方を、当たり前のように教えてくれたあの人がいなかったならば。


 それは、仮定するのもおぞましい、けれど本来ならばよほど可能性の高かった、分岐点 ――


「……ちょっと、気をひきしめないとまずいかな」
「ん? なにが」
「気をつけとかないと、際限なく甘やかされそうだな、って」
 なにを知っても、なにをやっても、判ったの一言でうなずいて受け入れてしまいそうな、この青年に。
「俺は気にしないよ?」
「こっちが気にするの」
 できることは自分でやる、できないことはまず努力する。
 それが先代船長から教わった、船乗りとしての最初の心得だったのだから。


「ま、なんとかと鋏は使いようって言うし、うまく使ってみせるのも船長としての腕の見せ所か」
「なんとかって?」
「この場合はお前のこと」
「……ふうん?」


 小首を傾げるガイの頭を、ジルヴァは笑いながらぽんぽんと叩いた。



―― 雇用関係を築いて間もない頃の会話。



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