ある日自宅に帰ると、一緒に暮らしていた
女がいなくなっていた。
驚いて夕食の材料と土産のドレスを放りだし、家の中を見てまわる。三つしか部屋のない共同住宅だったから、扉をふたつ開けるだけで事は足りたけれど。
そして最後に卓に乗った書き置きを見つけた。
とても綺麗な女文字で書かれた、別れの言葉。自分のことを思うなら、どうか探さないでくれと。
何度も何度も読み返して、それから部屋を飛び出した。
なにがあったか判らないが、それでも探さないでいるなどできるはずがなかった。見つけて、まずはどうしてなのか理由を聞こう。自分に、なにかできることがあればいいのだけれど。
しかし階段を駆け下りて、通りに走り出そうとしたところで、同じ階の住人に出会った。胸に乳飲み子を抱えた主婦は、握りしめたままの書き置きを見て、ため息をつく。
「探すんじゃないよ」
一言そう告げられた。
彼女が出ていった理由を知っているらしい。
慌てて問いつめるが、しかし相手はただかぶりを振るばかりだった。
「あんたね、綺麗に飾り立てて、なんでもかんでもしてやって、自分は満足かもしれないけど、相手のこと考えたことあるのかい?」
言われている意味が判らなかった。
相手のことを考えているからこそ、欲しいと思うものはなんでも用意してあげたかったし、自分ができることならなんでもやろうと思っていた。自慢ではないが、家事のたぐいは得意だったし、職場でも骨惜しみしないからとそこそこ受けが良かった。それなりの稼ぎは確保できていたから、彼女に苦労などかけることなく、暮らすことができていたはずだ。それなのに。
だが目の前の隣人は、かぶりを振ってにらむような目でこちらを見上げてくる。
「あの子は、籠の鳥じゃあないんだよ」
―― その言葉だけが、なぜだかひどく心に突き刺さった。
◆ ◇ ◆
一ヶ月ぶりに
陸の土を踏んで、船の仲間はみな浮かれていた。
この島では補給がほとんどで、大きな取引は予定されていない。必要な手配がすんだ後は、交代で全員が上陸を許されていた。
「オラオラオラ、呑みに行くぞーっ!」
「あ、ちょっと、まだ仕事が残って……」
「いーからいーから、さっさと来い」
上機嫌なトルードに首を抱え込まれ、船から引きずり下ろされる。人より頭二つ飛び出したガイにこんな真似ができるのは、大柄で腕力もあるこの男だけだ。
「船長もたまには一人になりたいだろうよ」
「うん。そう言われたから、じゃあ洗濯でもしようかと思って」
水に不自由のないうちに、敷布や
帳といった大物を片づけておきたかったのだが。
「だーかーらー、島に着いたときぐらい休めっての」
「そうですよぅ」
トルードとは反対の側からザギが腕を引っ張る。
いや別に疲れてるわけでも、嫌々仕事してるわけでもないんだけどと呟くが、二人とも聞く耳を持たない。まあそれほどせっぱ詰まっているわけでもないので、そのままついてゆくことにした。彼らと一緒に呑むことも、それはそれで楽しいのだし。
どこの島でも港近くのつくりは似たようなもので、少し歩けば船乗り向けの酒場や宿屋が集まった一角にたどり着く。周囲には他にも島の特産品や、あるいは他の船で持ち込まれた
珍かな品々を扱った店が、いくつも建ち並んでいる。
新しい船が着いたことはもう伝わっているのだろう。通りを歩けばあちこちから呼び込みの声がかかった。トルードはそれらを楽しげにいなしながら、酒場を物色してゆく。
「うし、ここにするか」
料理のいい匂いを漂わせた一軒を選び出し、扉を押した。
「席、空いてるかい」
「何名さまですか?」
「三人だけど」
「空いてます、どうぞ!」
生き生きとはずむ声が、店の外までこぼれ出してくる。
片づけたばかりの卓を示した女将は、汚れた皿を手にいそいそと厨房へ向かっていった。どうやらかなり繁盛している店らしい。見わたせばほとんどの席が客で埋まっていた。
「当たりっぽいですね」
ザギが嬉しそうに足を踏み入れる。
が ――
「……ゴメン、俺やっぱいいや」
ザギの頭越しに店内をのぞき込んでいたガイは、そう言ってつと身を退いた。
「え、ガイさん?」
振り返って目をぱちくりとさせるザギに、小さく手を振ってその場を離れる。足の運びをわずかに早め、できるだけ店から遠ざかるように。とはいえその図体が、人に紛れるには不向きだと自分でも判っていた。仕方ないので、適当にそのあたりの露店をのぞき込むようにする。背を丸めれば、少しは目立たなくなるはずだ。
話しかけてくる店番に、適当な相づちをうつ。
そのうちようやく落ち着いてきた。
「あの、さ」
並ぶ装飾品について説明している男に、こちらから声をかけてみる。口元に髭をたくわえた壮年の店番は、商品の売り込みを中断して見上げてきた。
「あそこのお店、けっこうはやってるみたいだね」
まだ通りの向こうに見える、酒場の看板を指差してみせる。
「ああ、あそこならオレもよく行くよ。女将の作る料理が絶品なんだ」
「……へえ、そうなんだ。さっきちらっと見えたんだけど、黒髪の、けっこうな美人さんだったかな」
「そうそう。なんでも昔はもっと大きな島で、歌姫かなんかやってたんだと。ちーとばっか
薹が立っちまってるが、そこがまた色っぽくていいんだよなあ」
腕組みなどして評する男は、これでなかなかの話好きらしい。
「料理、できるんだ。『歌姫』……だったのに」
「そりゃあんた、仮にも女なんだから、できねえって寸法はねえだろうよ。……ってもまあここだけの話、最初はひどいもんだったんだけどな。そこはあれだ、亭主のためにがんばったってわけさ」
聞く前からべらべらといきさつをしゃべってくれる。
身体を壊して持ち崩した歌姫が、流れ流れたあげくに出会った酒場の主と恋に落ち、所帯を構えて堅気の女になったとくら。愛だよ泣かせるだろ!? と芝居がかった口調で同意を求めてくる。ガイは逆らわずにうなずいてみせた。
「でもおじさん、やけに詳しいね」
「このあたりに住んでる連中なら、これっくらいはみんな知ってるさ。狭い島だし、あのブリックが……って、こいつがその酒場の親父なんだがよ、図体がでかいばっかりでろくにしゃべりもしねえ野暮ったい野郎のくせに、どうやってあんな美人をモノにしたのかっつーてそりゃあ話になってな」
ああ見えて実は女の前では人が変わるんだとか、いやいや本当は性悪女に騙されてるだけで、そのうちひでえ目に遭うんじゃねえかとか、何人か集まれば必ずそんな話題になっていたのだという。
「けどいざ蓋あけてみりゃあ、慣れねえ手つきで皿ぁ運ぶわ、指傷だらけにして芋の皮むくわで、見てて妬ま ―― もとい、いじらしくなるぐらい甲斐甲斐しくってなあ」
「……そっか。幸せそうなんだ」
「おうよ。そりゃあもう、たまにブリックの野郎、後ろから蹴倒してやりたくなるぐらいにな!」
男の言いように、両隣の露店からも失笑が起こる。どうやら界隈で噂になっていたのは本当らしい。
「そっ、か」
ぽつりと呟いて、目の前の装飾品をなにげなく手にとった。落とした視線は銀細工を通り過ぎ、もっと遠くで焦点を結ぶ。脳裏に浮かぶのは、ついさっきちらりとだけ見えた姿だ。
昼なお薄暗い酒場の中でも、すぐに肌の荒れが目についた。以前自分が知っていた頃には油を塗ったように艶々としていた見事な髪も、ほつれ毛だらけで適当にひっつめられていて。質素な衣装に身を包み、汚れ物を運ぶその姿には、かつて店一番の名妓と呼ばれた遊女の面影などどこにもなく。漂っているのはただ生活に追われる所帯じみた雰囲気ばかりで。
けれど ――
遊郭で大勢の客を相手に微笑んでいたとき、あるいは連れ出して欲しいと縋られて、逃げた先で共に暮らした数ヶ月間 ―― そのどちらでも、あんなほがらかな声を聞いたことは一度としてなかった。
どうして自分では駄目だったのか。あの頃にはまるで判らなかった。幼い頃から遊里で育てられた彼女に、家事の心得などあるはずもなく、逆に母ひとり子ひとりで育った自分はたいていのことができた。苦労知らずの彼女を働かせることなど想像さえできず、ただそれまで通り不自由させないことにばかり心を砕いていて。
他でもないそのことこそが、彼女の自由を奪っているのだと、気付くことができなかった。
書き置きひとつを残して消えた彼女とのあとも、何人もの女性とつきあったけれど、そのたびに似たようなことを繰り返した。ある時は負担だと言われ、ある時はうっとおしいと言われ、そしてある時は病的だ、気持ちが悪いと、そんなふうにすら言われて。
……そんな感覚のずれは、いつしか日常の仕事に関しても影響を及ぼしていった。余計なことをするなと、度を超した働きはかえって他の人間の意欲を削ぐばかりだからと叱責され、追い出されるように幾度も職場を変わった。
しばらくして、それでもどうにか、自分がなにかやり過ぎているのだと判るようにはなった。
けれど、なにが悪いのか、どうすればいいのかはどうしても判らなかった。誰に何度、どれだけ説明されてもまるで理解ができなくて、自分は本当にどこかがおかしいのだろうかと、そう思ったこともあった。
まさかそれが、種族的な違いからくるものだなどと、同族を知らない自分には想像もできなくて ――
「それ、買うのかい?」
声をかけられて、はたと物思いから覚めた。
「あ、いや、えっと」
手にしていた髪飾りは銀に濃い青の石をはめ込んだもので、彼女の黒髪によく似合いそうな感じだった。だが今さらそんなものを贈るわけにもいかないし、それどころか顔を合わせるのもおそらく問題があるだろう。
かぶりを振って細工を台へと戻したが、そのすぐ横に、目を引く腕環があるのに気がつく。
表面に彫刻が施された幅広のそれは、手首に密着する形のものだった。だが女物にしてはいささか径が大きく、男性用にしては細工が繊細すぎる。
「ちょうどいい、かな」
手に持って大きさを計ってみる。
「これ、いくら?」
問いかけると、店番の男はにんまり笑って指を十本立てた。
「高っ」
けして少なくはないガイの給与が、一ヶ月分消えてなくなる金額だった。とても道端の露店で聞くような値段ではない。
「そいつはちょっとした掘り出し物だからねえ。まからないよ」
「え〜、そんなこと言わないでさぁ」
不満の声を上げてみせるが、店番はにやにや笑いを崩さなかった。
確かにこんな店にあるにしては、細工も上等だし金属の質もそこそこのものだ。割とそういった物を見慣れているガイの目からしても、吹っかけられているというほどではない。
しかし……
「う〜〜〜〜ん」
うなり声を上げて悩む。
怒るかもしれない。
誰がかというと、ジルヴァが。
何故これを買って帰りたいのかというと、他でもないジルヴァに似合いそうだと思うからで、実際営業の際はなにかと着飾ってみせる彼にしてみれば、このたぐいのものはあって困るものではない。かといって必要経費以上の出費は押さえるべきであり、今ここでこれを購入しようとすれば、それは誰かが身銭を切るしかない。いやもちろんガイは自分の取り分から出すことに否やを覚えたりはまったくなく、むしろそうして良いなら今この場でためらいなく買って帰るのだが。
しかし、怒られるかもしれない。あの見た目は女性と見まごうがごとき美貌を持つ、中身は見事なまでに男前な船長に。
―― 自分の金は自分のために使えって言ってるだろうが!
既に何度も聞いた叱責が、耳の奥で繰り返されている気がした。
―― 有翼人種なんだから世話ぁ焼きたがるのは判るし、こっちも非常に助かってるけど、それでも自分でできることは自分でやるの! 手ェ借りるのはここまで、わかった!?
ぴしりと線を引いてみせる力強さと、その線の手前までであれば、しっかり手を出させてくれる寛容さ。
長い航海経験を持ち、知識も豊富なあの船長は、亜人種についても詳しかった。
その彼によると、有翼人種はほとんどが人里離れた高山に住み、めったに他の種族と交わらないのだという。普段町中で目にされるのは、たいていなんらかの理由で集落を出たはぐれ者なのだそうで、実際ガイ自身も、今の船に乗るようになるまで母親以外の同族に会ったことがなかった。故に知らなかったのだが、有翼人種は一妻多夫制で、しかも女性の数が男性の十分の一しかいないらしい。そして複数の夫を持った女性はひたすら男性にかしずかれ、着飾り、歌い、そして子供を産むだけ。男性はそんな女性を支えるため、子育てを含む家事全般やその他生活に必要な一切を受け持つ。そんな文化形態を為しているのだそうだ。
言われてみれば、思い当たらないでもない。
ガイの母親は場末の酒場で歌姫をしていたのだが、昔から何人もの男と同時に関係を持っていた。幼い子供をほったらかしでとっかえひっかえ男をくわえ込む彼女に、周囲の評判は芳しくなかったが、母親自身はまるで罪悪感を持っていないようだった。当然家事などすることもなく、ひたすら男達を食い物にし、その輝くばかりの美貌と澄んだ見事な声を保つことにばかり執心した結果 ―― ある晩のこと、当時つきあっていた男の一人に刺され、死んだ。
あんな母親を持って可哀想にと、周囲はみな幼かったガイに同情したものだったが、彼自身は美しい母親を自慢に思いこそすれ、いとわしく思うことなど一度もなかった。
あれが
有翼人種にとって標準的な女性であるというのなら、自分の病的な面倒見の良さにも、納得がいくというものだ。
そしてまた、自分は根本的な部分で異質なのだと得心がいった。それが種族的な本能に根ざしたものである以上、それはけして『異常』ではなく、あくまで『異質』なのだと。
もちろん、それが判ったからといって、現在の問題になんら解決がつく訳ではないのだけれど。それでも自分は正常なのだと信じることができれば、肩の力は抜ける。客観的に物事を見ることもできる。そうすれば努力するべき方向も多少なりと見えてくるものだ。
特に現在は、ほど良く面倒を見させてくれて、なおかつやりすぎても逃げも追い出しもせず、ただ怒鳴りつけて判らせてくれる相手がいるから。
「それで買うのかい、買わないのかい」
唸り続けていると、男が焦れたように問うてきた。
「う〜ん……よし、買った!」
「よっしゃッ」
同時に握り拳を出す。一瞬おいて笑いがはじけた。
「そんで兄ちゃん、贈る相手はコレかい? 喜んでくれるといいな」
商品を包みながら、店番が小指を立ててみせる。
「あー、ちょっと違うんだけど……でもありがと」
「おう、がんばれよ!」
気の良い男に金を払い、手を振って港の方へと足を向ける。
喜んでくれるかどうか、それは判らないけれど。
もしかしたら自分はまた、やりすぎて失敗しているのかもしれないけれど。
それでも、いま向かう先にいるのは、さっき顔を合わせることもできなかったあの
女のように、黙っていきなり消えてしまうような相手ではないのだから。
「……怒鳴られるのも殴られるのも嬉しいって言ったら、ますます変態っぽいかなあ」
ひとりごちる。
自分はいま、けっこう幸せだから、だからどうか貴女も幸せにいて欲しい、と。
こちらが勝手にそう願っているぐらいは、逃げたあの
女だって許してくれないだろうか。
「あれ? ガイさん呑みに行ったんじゃなかったんスか」
船縁から問いかけてくる水夫のひとりに、手だけ掲げて返答に代えた。
そうしてガイは、足を止めぬまま背中の翼を広げる。ばさりと軽く羽ばたけば、甲板はもうすぐそこだ。
「ただいまー」
板張りの上に舞い降りた彼に、船のそこここから迎えの声がかかった。
―― 元は立派なストーカー(汗) もちろんこの後はしっかり怒られます。
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