<<Back  List  Next>>
 九 意識の片隅での出来事
 特殊次元・特殊生物対策処理委員会特殊処理実働課
 創作小説を書く人に十のテーマより】
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2005/04/21 09:15)
神崎 真


 風の流れに意識を乗せて、あたり一帯へと大きく広げる。
 それは彼女にとって、あえて努力するまでもなく、ごく自然に行えることだった。彼女にとってはあたりを閉ざす夜のとばりも、起伏のある入り組んだ地形も、生い茂る樹々の枝葉も下草も、まったく知覚の妨げとはならないものなのだ。
 見えない場所を手探りするのと同じように ―― 否、もっと確かに細やかに、吹く風が彼方の様子をはっきりと伝えてきてくれる。
 目など必要ではなかった。
 月さえ雲に隠されたこんな夜、街灯すらもろくに設置されていない城跡公園では、もとより目に映るものなど、ほとんどありもしなかったけれど。故にこそ役には立たない瞳を閉ざし、彼女はその心を自由に中空へと遊ばせる。
 と ――
 意識の片隅に、ふとひっかかるような感触を覚えた。
 いぶかしく思い、そちらの方へと注意をむける。
 それは、これまで経験したことのない感触だった。
 自由に吹きわたり、時おり木々をそよがせる夜風が、その部分だけを避けていくような。
 不自然なよどみ ―― いや、空白、虚ろと呼ぶべきか。
 彼女は我知らず眉をひそめていた。
 気に入らない。
 そこに何かがあるのならば良かった。壁があれば風ははじき返されるし、誰かがいるのなら、それがどんな人物なのかを感じ取ることができる。けれどいまその空白部分からは、遮蔽物も生き物の気配も伝わってはこなかった。それなのに、いったいどうしてなのか。理由さえもはっきりとしないのがいっそう気にさわる。
 ゆっくりと両目を開けた。
 そうするとどこまでも広がっていた感覚が、引き寄せられるように身体の周辺へと戻ってくる。
 そこは、すでにわずかな石組みしか残されていない城跡の、高く突き出た石垣の上だった。
 都会の中に残された数少ない緑がさわさわと揺れ、一帯を優しい空気で包み込んでくれている。
 自然豊かな山間の村で育った彼女にとって、ここは疲れた気持ちを安らげてくれる、貴重な場所だった。こうして深夜、人の気配もなにもないここを訪れてはじめて、彼女は肩の力を抜き、息をつくことができるのだ。
 いつもは化粧で塗りつぶしている素顔も、裾の長い衣服でおおっているすんなりした手足も、ここでならなにひとつ隠す必要はないというのに。
 そんな憩いの場とでもいうべきそこに、理解しがたいものが存在している。そのことがひどく腹立たしかった。
 つ、と身体の向きをかえ、違和感を感じたほうへと爪先を向ける。
 足を踏み出すと、その動きに合わせ、周囲に風がまとわりついてきた。剥き出しの手足に触れる空気の流れを楽しみながら、彼女は軽い足取りで雑木林の間を抜けてゆく。その姿には闇に対する恐怖も、未知なるものへのおそれもまるでなく。
 もしもその様を目にするものがいたならば、彼女を生身の人間だとは思わなかったかもしれない。
 月さえ姿を隠した夜陰の中、明かりのひとつも持つことなく、木々の合間をすり抜けるように歩む女。白い肌がほのかに闇へと浮かびあがり、腰まで達する長い黒髪は、夜風にそよいでゆったりと揺れて。
 まるで昼下がりの野原を行くかのような、その姿。
 近くの茂みが、前触れもなく揺れ動いた。驚いたように息を呑む気配と共に、枝の折れる乾いた音が響く。
 向かう先へと意識を集中させていた彼女は、足を止め、音がした方向をふり返った。
「 ―― 誰か、いるの?」
 言葉は問いかけの形を取っていたが、質問を放ったときには既に、彼女は相手の姿を認識していた。
 覆い被さるように広がる枝の下、定年も間近いと見える初老の男が立ち尽くしていた。短く刈り込まれた髪には白髪が混じり、くたびれた安っぽい背広の間からのぞいている、ふくらみ気味の腹。前にアイロンをかけたのがいつなのかもはっきりしないようなワイシャツといい、よれ気味のネクタイといい、男やもめのサラリーマンといった表現がしっくりくる風体だ。
 丸っこい顔の中で、ドングリのような目が大きく見開かれている。
 こういうタイプの男は彼女の身近にもいた。
 この春に就職した職場で、嫌われ者になっている係長がちょうどこんな感じだった。長い間つとめていながら、ろくに出世もしないままもうすぐ定年。やたらと女性社員に絡んできては、気が利いていると思いこんでいる馬鹿話を振りまき、冷ややかな目で見られているのを気付きもしていない。そんな上司にそっくりだ。

 ―― ちょっと化粧が濃くないかい? せっかくの美人なんだから、もうちょっとおしゃれも勉強したらいいのにねえ?

 ねちねちと言っては、美人だと褒めたんだから喜んでくれなきゃなどとほざく無神経なあの男。苛立ちの対象にしかならぬ、そんな上司の印象が重なって、彼女の声はかなりとがったものになっていた。
 そもそもこんな時間、こんな場所で見知らぬ異性に遭遇した場合、そんな対応をするのも当然だといえるだろう。
 身構えるような姿勢で男を睨む彼女の頭上で、その時なんの偶然か雲が途切れる。
 宵から厚い雲で隠されていた月が、その面を雲間から現した。ほのかな月明かりが梢から透け、彼女の全身を暗い木々の合間に浮かび上がらせる。
 男はますます目を見開き、そうしてほぅ、と感嘆したような吐息を漏らした。

「……こいつはまた、綺麗な御祥みしるしですな」

 いったいどちらの神の、巫女さんで?
 向けられたのは、彼女にとってひどく驚きと、そして同時に喜びをも感じさせる問いかけで ――


◆  ◇  ◆


 志保に【特処】に入ったきっかけをたずねていた拓也は、そこでちょっと首を傾げた。
「しるしッスか?」
「そう」
 問いかけにうなずき、志保はバイザーグラスに軽く触れる。
 目元から頬の半ばにかけてを覆うそれによって、彼女の顔立ちは常に隠された状態となっていた。輪郭すら透かすことのない濃い色のバイザーは、夜になどとても物が見えるとは思えない代物だ。だが彼女はどれほどあたりが暗かろうと、あるいは室内だろうと頓着することはなく、また実際不自由も感じていないらしい。
「見てみる?」
 言いながら志保は、人前でほとんど外すことないそれを、ゆっくりと引き抜いた。
 通った鼻梁と艶やかな唇から想像されるのにふさわしい、整った切れ長の目があらわになる。長い睫毛の二重まぶたが数度瞬き、きらきらと輝く黒瞳に拓也を映した。唇が柔らかくほころび、ほのかな微笑みを浮かべてみせる。
 はっきり言って、これまで拓也がお目にかかった中でも、一二を争う美貌であった。
 意外にも化粧気はほとんどなく、鮮やかに彩られた唇のほか、拓也の目ではこれといって手を加えられているように見えない。
 ただ ―― きめ細かな、透き通るように白いその肌に、目を引くアクセントが存在していた。両の下まぶたから目尻、頬骨のあたりにかけて、鮮やかな真紅の模様が描かれているのだ。曲線を基調にした幾何学模様めいたそれは、雪白の肌の上で鮮烈に映えている。
「これって……もしかしてタトゥーですか?」
「タトゥーっていうか、刺青ね」
 落とすことのできる化粧ではなく、皮下に直接色素を彫り込んだものだ。
「こっちにもあるわよ」
 つと手を伸ばした志保が、ブラウスの手首をひっぱり上げてみせた。わずかにのぞいた前腕部にも、同じような赤い模様が踊っている。どうやら同様の刺青が全身に施されているらしい。
「なんでまたこんな……」
 ぽかんとしたように見る拓也に、志保は微笑んだ。
「私の住んでた村ではね、昔から土地神さまにお仕えする巫女に、印の刺青をしてたのよ。まあ、普通ここまではやらないんだけど、私の場合は特に力が強かったから」
「神様ぁ?」
「あら、片桐くんは神さまを信じてないの」
「信じてないって……だって、そんな……」
 今の世の中、『あなたは神を信じますか?』と問われ、即座に『はい』と断言できる人間など、そうそういるものではないだろう。一般人に比べれば不思議に慣れ親しんでいる拓也にしても、その点はなにも変わらなかった。言葉もなく刺青を凝視している拓也に、志保はくすくすと笑う。
「神さまっていっても、その土地その土地に存在してる、鎮守さまとか産土うぶすなとか、そんなふうに呼ばれているものよ」
 キリスト教だの仏教だのといった宗教で謳われる、偉大な絶対者とはまた異なった、地方の村々や屋敷などで祀られる、その地域独自の土地神達だ。
 絶対神などと比べるならば、ごく卑小でしかないそれらの神々は、けれどむしろ、そこに住まう人々の生活と深く密接に関わっていて。
 祝い事、弔い事はいうに及ばず、祭祀に、禁忌に ―― 日常を形成するあらゆる事柄において、その影響は現在でも確かに残されている。
 志保の故郷では、ことにそれが顕著であった。
「若槻の家が祀ってきたのは、風を司る大鴉。だから私が操るのも風の流れ」
 言いながらうわむけた手のひらの上で、小さなつむじ風が渦を巻いた。
 大気の流れで【歪み】の存在を読み、つむじ風を操り、ときにカマイタチをもって【妖物】を切り裂く。それが志保の持つ能力。風神の巫女としてその身に宿した、彼女の ―― 神霊の力。
「風は穢れを祓い、また雲を運ぶことで天候をも左右するわ。日照りの時には雨を呼び、長雨が続くときは逆に雲を払う。暑さが続けばそよ風を、寒さが厳しければ山颪やまおろしを……そうして私達は村を守ってきたのだけれど」
 と、そこで志保は言葉を切り、ため息を落とした。
「……志保さん?」
 問いかけてくる拓也に、無言でかぶりを振ってみせる。
「ねえ、片桐くん」
 袖先からのぞく刺青を拓也の前へとかざす。
「どう、なかなか綺麗でしょう?」
「え、ええ。すごく」
 反射的に答えてから、拓也は顔を赤くした。女性を相手に美しいだなどと口にするのは、なかなか抵抗のある年頃なのだ。
 そんな拓也の様子に、志保は声を上げて笑う。


 ノックの音が車内に響いた。
 仮設本部の片隅に停められたボックスワゴンの中で、彼らは話をしていた。外ではカーキ色の制服を着た実働二課と、白衣姿の研究者達が、本部を設営するべく立ち働いている。
 準備が整うまでの時間を潰していた志保と拓也は、控えめに車体を叩く音にふり返った。
「どうやら出番みたいね」
 バイザーをかけ直した志保が、シートから立ち上がる。拓也も腰を上げてドアへと手を伸ばした。
 車内から降り立つと、喧噪が二人を包みこむ。
「【妖物】が発見されました! この先の、林の中……に……」
 報告に来た小隊長の言葉が、戸惑ったように尻すぼみになった。その視線は志保の服装へと向けられている。
 彼らの前に立ちはだかっているのは、鬱蒼と茂った雑木林だった。峠の途中にある道幅が広くなった場所に設置された本部だったが、【妖物】とそれを生み出す【歪み】は、ガードレールを越えた先、崖とまでは言わないものの、かなり急な勾配を下った先に存在するようだった。そんな場所であるのにも関わらず、志保が着ているものはといえばいつもの通り、パンツタイプでこそあるものの、かっちりとしたラインを見せるビジネススーツだ。とてもではないが林の中を歩く格好ではない。ウエストを絞った形の上着など、確かに彼女のプロポーションの良さを引き立ててこそいたが、おそらく肩より上には腕が上げられないだろう。おまけに足元はパンプスである。
 学生服に運動靴という拓也の方が、まだしも動きやすかろうと思われた。
 困惑している小隊長をよそに、志保はバイザーグラスを雑木林の方へと向けた。湾曲したそのガラス面が、あたりの風景を映しこんで光る。
 しばしそうしてたたずんでいた志保は、やがて形の良い唇の端を、ほんのわずかに持ち上げた。
「……ああ、いるわね。ずいぶんと脚の多い……ちょっとゲジゲジに似てるかしら」
「は ―― み、見えるのです、か?」
「あら、あなた達には見えないの」
 問い返されて、小隊長は言葉に詰まる。
 幾重にも重なり合った枝葉の合間は、目を凝らして透かし見たところで、せいぜい10mがとこ先の様子がかろうじて判るかどうかと、そういう程度だ。小隊長の目には仲間の影すら捕らえることはできない。
 設置したばかりのモニターを確認している周囲の技術者達も、いぶかしげな目で彼らを見つめてきていた。
「無茶言わないで下さいよ」
 見える訳ないでしょうがと、拓也だけが素直にぼやく。
「目でしか物が見られないのも大変ね」
 なにかと不便なんじゃない? 問いかける志保に、答えを返せる者は誰もいない。
 彼女も特に返答を求めていたわけではなく、再び顔を林の方へと向けると、己の感覚を吹きそよぐ風へ、寄り添わせるように乗せた。
 途端に彼女の意識は大きくあたりへと広がる。
 視界の広さは三百六十度。いや、上方をも含むドーム状のそれは、全方位と表現するべきか。距離は数百m、いや条件によっては数キロをもカバーする、常識はずれの ―― しかし彼女にとってはごく身になじんだ当たり前の感覚。
 どこまでも広がる意識の網は、傍らに立つ少年も、所在なげにしている小隊長も、そんな彼らの周囲で立ち働くスタッフたちをも包み込んで、なおも広がり続ける。全てを死角なく見わたすそんな感覚を一度でも知ってしまえば、せいぜい左右百八十度、距離にして数十m程度しか把握できない肉眼のもたらす視界など、狭い穴から片目でのぞき込んでいるような窮屈さだ。
「 ―――― 」
 鼻歌すら交えながら、彼女は心ゆくままに自らの精神を解き放つ。
 そんな意識の網の中には、気取られないよう隠れて向けられる、異質なものを見る目も確かに捕らえられていたのだけれど。
 そこここでひそやかに交わされる、好意的でないささやきをも、手に取るように感じ取れていたのだけれど。
 それでも彼女にとって、この能力は手放すことなど、とうてい考えられないそれで。


 はるか彼方の状況を探りながら ―― ふと意識の片隅で、今はもうない故郷のことを想った。
 ダムの底に沈んだかの村に、風が吹くことはもはや二度とない。
 あの村を出てから、気がつけば十年以上が過ぎていた。
 家の長たる祖母が死に、重なるようにして通達されたダム建設計画に、追い出されるようにして居を移すこととなった。だが一歩村を出たその先では、神の存在など鼻で失笑され、子供の肌に刻まれた刺青は虐待の証だと取り沙汰された。母は向けられる非難の言葉に泣き、名家の跡取りとして育った父は、他者の下で働くことさえも知らず ―― ままならぬ日々に募る苛立ちを互いにぶつけ合うばかり。
 旧時代的な村を嫌い、若い内に都会へと出ていた叔父が、見かねて幼い志保を引き取ってくれた。だが……若槻の家が祀ってきたあの神そのものに対し、否定的な意見を持つ叔父とその家族に、志保はついにうち解けることができなかった。
 いまは水に飲み込まれたあの村を、愛した神はどこへ消えたのだろう。まだ幼かったあの日に、見失ったその声を聞くことは二度となく。
 それでも自分に残された、巫女としての印と能力ちから
 信仰が失われつつある現代のこの国で、生きていくには妨げとさえなるそれらを、それでも手放さずにすんだことを、彼女は心底から嬉しく、そして誇りに思っていた。
 たとえそのことによって周囲に溶け込むことができずとも、悔やむことなどなにひとつとしてない。


 つ、と腕を持ち上げ、立てた指で彼方の【妖物】を指差した。
 頭部を振り、取り囲む二課の隊員達を威嚇する【妖物】のまわりで、風がゆっくりと渦を巻き始める。目には映ることないその流れを、志保は手に取るように把握し、操った。
 ふわりと、紅い唇がほころぶ。
 志保の周囲にいた者達が目にしたのは、ただそれだけ。
 特別に力むことも、大仰な仕草もそこには存在せず。
 しかし ――
 モニターを眺めていた技術者のひとりがひきつった声を上げた。彼はとっさに立ち上がろうとし、足をもつれさせて果たせず倒れる。
 なにごとかとそちらを振り返った拓也達の耳に、雑木林のむこうからも悲鳴と怒号混じりのざわめきが届いた。
「な、なにが……」
 困惑したように林と倒れた技術者とを見比べた小隊長だったが、すぐに現状の把握を優先させたのだろう、技術者が眺めていたモニターへと駆け寄る。画面に手をかけてのぞき込んだ彼は、そこで息を呑んだ。その後ろでは、まだアスファルトに座り込んだままの技術者が、見開いた目で志保の背中を凝視している。
 小さな画面の中では、志保が言ったとおりの形をした巨大な【妖物】が、のたうちまわって暴れていた。その数、ふたつ。けして二匹ではなく、ふたつだ。そして小隊長が凝視する前で、一瞬にして四つとなる。
「な……」
 目に見えぬ巨大な刃が、その体を切断しているのだ。
 切断面から黄色い粘液が飛び散り、周囲をかこむ隊員達の頭上へとふりかかっている。為すすべもなく呆然と見つめている彼らの前で、さらにもう一度。もはや断片としか呼べなくなった【妖物】の身体が、草の上に落ちてびちびちと跳ねる。
 志保が動いた。
 差し上げていた腕を下ろし、静かな動作で振り返る。
 途端にあたりには動揺が走った。愕然とした表情で志保を見つめていた全員が、弾かれたようにその視線を逸らす。まるで彼女と目を合わせるのを恐れるかのように。
 目を伏せて、おのおのの作業に没頭している素振りをする一同を、志保は笑みを浮かべたまま一瞥した。そうして彼女はすぐそばに立つ拓也の方へと顔を向ける。
「片桐くん」
「あ、はいっ」
 どこか居心地悪げにあたりの様子をうかがっていた拓也は、弾かれたように志保を振り返った。そんな彼へと志保は朗らかに笑ってみせる。
「ああ、気にしなくて良いわよ。怖がってるだけだから」
 あっさりと一言で断じる。
 ひそめる気配もないその声は、空々しいほどあたりに響き渡っていた。だが屈強な隊員達やプライドの高そうな技術者は一瞬ぴくりと反応しただけで、やはり誰一人としてこちらを向いたり、反論の声をあげようとはしてこない。
 そうして志保は何事も起きていないかのように、拓也へと指示を出した。
「今回の【歪み】だけど、だいたいあっちの方、三百mほど下ったあたりの上空にあるわ」
 林の中を指差して、おおよその位置を説明する。
「近くまで行けば片桐くんにも見えるでしょ」
 そばの木に登って手を伸ばせば届くはずだから、あとはよろしく、と。そう言って塞ぐための装置を手渡す。
「はあ、まあ良いですけど」
 拓也の表情はといえば、後始末を押しつけられた気がしないでもないが、【妖物】は倒してもらったのだし、それぐらいならまあ良いかとか、そんなことを考えているのが丸わかりのそれだ。
 既に幾度も現場を共にした彼にとって、この程度のことはもはや慣れの範疇に入っているらしい。
 ―― そもそも最初から、大仰に騒ぎこそし、おおっぴらに怖いだのなんで自分がこんな目にだのと口にしていた割には、異能力者達のひしめく職場に変わらず足を運んでくるのだ、この少年は。
 それは彼自身も他ならぬ、異能の持ち主だということが大きいのだろうけれど。
 けれど彼女の異能を知っていてなお、こんなふうに当たり前の会話ができる相手というのはなかなかに得難く、そして特殊次元・特殊生物対策処理委員会特殊処理実働課第一課には、そんな貴重な人間が多数取りそろっているのだった。
 故に彼女は、今のこの仕事を天職だと感じている。
 少なくとも、彼女が自身の出自と能力を誇らしく思うのと、同じ程度の強さには。


「……スカウトしてくれた水垣さんには、感謝しなくっちゃね」


 茂みをかき分け林の中を行く拓也を眺めつつ、志保はそうひとりごちる。
 彼女にとって、現在背後や林のむこう、【妖物】の死体の周囲で交わされている会話など、意識に止める価値すらないもので。


 鼻歌交じりに風と戯れる志保は、いまや息抜きなどまったく必要としていない、充実した、幸せな毎日を送っているのだった。

(2005/09/23 22:37)
<<Back  List  Next>>



本を閉じる

Copyright (C) 2006 Makoto.Kanzaki, All rights reserved.