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 八 かくれんぼ 2
 特殊次元・特殊生物対策処理委員会特殊処理実働課
 創作小説を書く人に十のテーマより】
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 磁力発生装置のスイッチを切ると、かすかな振動が感じられなくなった。腰ほどの高さに浮いていた【歪み】を消し終え、マオは掌に納まる大きさの機械をポケットへ戻しつつ、背後で待っていた相棒を振りかえる。
「終わったぜ」
 その言葉に、油断なく剣の柄に手を置きあたりへ気を配っていたフォンが、小さくうなずいた。くるりときびすを返し、床に置いていた照明を取り上げる。
 歩き始めたその背中にマオが続いた。
「ま、思ってたより実入りはあったかな。どうだ?」
「…………」
「そっか。お前の腹の足しになったんならいいや」
 面倒な仕事ではあったけれど。
 そんなことを言いつつ、首の後ろで両手を組みぽてぽてと歩を進める。一仕事終えてすっかり気を抜いているのが、ありありとうかがえる仕草だった。
 もっともこの青年は、仕事の最中でもずっとこんな調子であるのだが。
「けどよ、どうせならやっぱ一発でどんと精気のある、でかぶつ相手の方が良いよなぁ。なんたって効率が ―― 」
 言いかけたところで、ふとその口を閉ざす。
 いぶかしげに眉を寄せ、足を止める。数歩先でフォンが立ち止まり、振りかえった。
「…………」
「しッ」
 無言のままの相棒に対し指を立て、そうしてマオは耳を澄ますような仕草をした。
 周囲の闇へと向けられる瞳が、照明の光を受けて鮮やかにきらめく。
 角度によって時に青緑を帯びるその輝きは、人間の目というよりも、むしろ夜行性の獣のそれに似ていた。
 まさしく【マオ】。
 闇を見通し、常人の耳目には捉えられぬものを見聞きする ―― それが特殊処理実働課の構成員として、彼に期待された能力だった。
「……どうやら【歪み】が消されるのを感じて、慌てて戻ってきた奴がいるみたいだぜ」
 先刻まではマオの感知範囲外にいた【妖物】が、何体かこちらへ向かってきつつある。
 どうする?
 問いかけるマオの表情は、しかし逃げることなど考えてもいないだろうそれだった。
 異界から現れる【妖物】は、元いた世界との繋がりを断たれると、そのまま弱り死んでゆくのが常である。つい先ほどマオの手で【歪み】が矯正された以上、そこから現れたものなど、放っておいても特に問題ではなかった。せいぜい保って数日。その間あたり一帯を立入禁止にしておけば、それで充分こと足りるというのに。
「ちょうどいいや。ちょっと物足りなかったとこだし、全部見つけて狩り出しちまえ」
 肉食獣の目を持つ青年は、にんまり笑って相棒をけしかける。
「まずは、そこだ」
 そう言って指差したのは、フォンの真横の壁を走る、赤錆びた鉄パイプだった。
 すかさず閃いた大剣が、大人の腕ほどもあるそれを切断する。
 と、その断面からぬらりとした粘液質のものがこぼれ出した。重たげな動きで流れ落ちたその真ん中へ、逆手に持ち直した刃先が突き立てられる。巨大なヒルかアメーバを思わせる黄緑色の生き物は、数度びくびくと蠢いたのち、溶けるように地面に広がった。
「次は上」
 天井に張り付いていた虫型の【妖物】が貫かれる。
 フォンが刃を抜くよりも早く、乾いて砕けた外殻があたりを舞った。
「足元」
 さらに下層へ続くとおぼしき、排水溝にはめ込まれた格子越し、のぞく触手の中心へと突き出されるやいば
 マオの指示のもと次々と【妖物】をほふりながら、フォンの動きはまるで鈍る気配を見せなかった。先刻から重い大剣をふるい続ける腕も、足さばきも、疲労を感じさせるどころか、いっそう軽やかになってゆくようだ。
 いや、気のせいではなく確実に、その動きは早くなっていた。
 普段感情の色などまったく見せないフォンの両目が、じょじょに輝き始めている。刃が【妖物】を捉えるたび、彼の瞳は異様な熱を帯びていっていた。常に固く引き結ばれている口元がうっすらと緩み ―― ほのかな笑みを形作る。
 まるでこの殺戮を、愉しむかのように。
 そう、それは明らかに一方的な殺戮だった。
 懸命に身を隠し逃れようとする【妖物】を、マオの耳目が容赦なく見つけだし、居場所を告げる。そしてフォンはそのすべてを一刀の元に斬り捨てていくのだ。
 彼の刃にかかった【妖物】は、すべて精気を吸い上げられ、干涸らび崩れ落ちる。そしてそれに反比例するかのように、フォンの動きは生き生きとしてゆく。
 重い刃を軽々と操り、瞳を暗く輝かせながら、すべてを無慈悲に斬り殺す。
 もしもこの場に立ち会う者がいたならば、息を呑んで後ずさっただろう。それほどに剣をふるう彼は異様な気配を漂わせていた。鬼気迫る ―― というのとはまた違う。もっと暗く、忌まわしい ―― そう、まがまがしいとでも呼ぶべき、そんな笑みさえも浮かべて。
 しかし彼の相棒たるマオは、当たり前のようにそれを眺めていた。
「どんなに上手に隠れても、ってな。ほら後ろ、壁に擬態してるぞ」
 鼻歌交じりで、次なる獲物の位置を指し示す。
 突き立てられた刃の先で、薄汚れたコンクリートの表面がはがれ落ち、一瞬蛾のような本来の姿をあらわにしたのち崩れ去った。
「それから……とッ!」
 突然マオがはじかれたように動き、飛びかかってきた【妖物】を片手ではじき飛ばした。そろえて伸ばした人差し指と中指の間に、呪符が挟み込まれている。一瞬の接触で反応し煙を上げるそれを、手首から先を振って投げ捨てた。
「あっぶね」
 息をついて数歩後ずさりし、壁が背を守るような位置へと移動する。
 と ――

 がつっ

「うおッ!?」
 鈍い音ともに、マオの耳元すれすれを鋭い刃が横切った。
 コンクリートの欠片をはねとばして、フォンの大剣が壁に突き刺さる。
 いかに鋭い刃とはいえ、相手は固いコンクリートだ。にもかかわらず、数キロはあるだろう刀身を易々と支えるほど、その切っ先は深く壁に食い込んでいた。びぃんと細かく振動する先で貫かれている、先刻のものと同じ壁に擬態した【妖物】。
 さすがのマオもこれには肝を冷やしたらしい。
「さ、さんきゅ」
 剣を投げた姿勢のままでいるフォンへと、ひきつった礼を言った。しかし次の瞬間、その表情が真剣なものに切りかわる。
「上!」
 警戒を促す叫びに相棒は即座に反応した。
 ふり仰いだフォンの頭上。低い天井から覆い被さるように【妖物】が落下してきた。伸ばした右手がその本体を捕らえたが、幾本もの触手がすべり落ち、フォンの全身へとからみつく。
「……ッ」
 引き締められた触手がぎちりときしんだ音を響かせた。
 それは八本足のヒトデとでもいうべきか。直径が1mほどもある身体から短い足をのばし、さらにその先端から長い触手を二本ずつ生やしていた。それぞれが鞭のようにしなり、己を捕らえた相手の腕を、身体を、そして首を締め上げる。
「フォンッ」
 マオが叫んで壁から身を離した。武器を手放し丸腰になっているフォンを助けようと、残り少ない呪符をつかみ出す。
 が、駆け寄ろうと踏み出した足が、ぬめるものを踏んでずるりと滑った。
 とっさに目を落とした足元には、ついさっきたたき落とした【妖物】が、瀕死でもがいている ――
 崩れた体勢を立て直そうと振りまわした腕が、最初に触れたものを無意識に握りしめた。
 しまったと思ったのは、掴んだものが壁に刺さった大剣の柄だと気付いた時だった。
 滑り止めの革を幾重にも巻いた、太く頑丈な柄。幾百とも知れぬ【妖物】の血を吸ってきたはずのそれは、しかし意外なほど柔らかくなめらかな手触りでマオの手に吸いついてきた。己の掌と剣とが一体になったかのような、そんな錯覚すらおぼえて。自然と柄を握る指に力がこもる。
 ―― 否。
 そうではない。
 吸いついているのは、けして柄の方ではなかった。
 己こそが、剣の方へと引き寄せられてゆく。その精神も、肉体も、心も身体も。自身を構成するすべてのものが、剣の中へと吸い込まれ、奪い去られる。そんな感覚がマオを襲っていた。
「や……ば……ッ」
 うめきつつ、マオは全身の力を総動員して、剣の柄から掌を引き剥がした。皮膚そのものを無理矢理むしり取られるような、そんな抵抗に逆らって、かろうじてそれを成し遂げる。
 しかしそれが彼のできる限界だった。
 壁から抜けた剣が地面へとむなしく転がる。その後を追うように、マオもまた崩れ落ちていた。膝から力が抜け、目の前が急速に暗くなってゆく。
 近づいてくる汚れたコンクリートを眺めながら、マオの意識は遠ざかっていった。


 重いものが倒れる音に、フォンは【妖物】を見上げていた目をそちらの方へ向けた。
 暗い悦楽をたたえていたその瞳が、横たわる身体を映してわずかに見開かれる。
「…………」
 力無く投げ出された腕と、その傍らに転がる己の武器。幅広の刃がほのかな光を放ち、細かく振動しながら低い唸りを上げている。
 血の気の失せた相棒の面差し。力無く閉ざされた瞼から、落ちる影が、濃い。
 全身に巻き付く触手が、ひときわ低くきしんだ。
 ぎちぎちと音を立てて、太い肉紐がじょじょに引き伸ばされてゆく。
 首を絞める触手を掴んでいたフォンの指が、ひときわ深く曲がった。わずかな余裕を得た喉の奥から、引き絞るような咆哮が生み出される。
「 ―― ッ」
 次の瞬間、すべての触手がまとめて引きちぎられた。
 金属の軋るような悲鳴が響き渡り、隧道の中で幾重にも反響する。のたうつ本体を両手で鷲掴みにし、フォンはそのまま己の頭上へと無造作に掲げた。
 鉤のように曲げられた指が、蠢く肉の中にもぐり込む。
 ぐいと込められた力に、八角形の身体は真ん中から裂け始めた。筋が伸び肉がちぎれるめりめりという音が生じる。狂ったようにのたうつ切断された触手が、吹き出す己の体液で、壁に床に極彩色の絵画を描き出した。
 引き裂かれた【妖物】の身体から、血と肉片がしたたり落ちてくる。異臭を放つそれを避けようともせず、フォンはまともに顔面で受け止めた。
 その唇は今や完全なる愉悦の色をたたえている。奇妙に長い舌がのぞき、顔を汚す体液を舐め取っていった。手指に力がこもり、次の瞬間、【妖物】の身体が勢いよく引きちぎられる。引き裂かれた肉の間から、大量の体液がぶちまけられた。
 全身にそれを浴びたフォンは、もはや原型も定かではない肉塊を投げ捨てる。
 そうして彼は、ゆっくりとあたりを見渡した。
 その身体から、異様な気配が立ち上っている。鬼気 ―― 否、妖気とでも呼ぶべきだろうか。薄暗く濁った地下道の空気を、さらによどませるかのような、暗く禍々しい、気配。
 それに恐れをなしたのか、それまで身を隠し息を潜めていた残りの【妖物】達がその姿を現し始めた。擬態を放棄し、我先にと逃げだそうとするそれらを眺めて、フォンはわずかに身を沈める。
 次の瞬間、彼の身体は爆発したかのように動いた。
 転がる剣には目もくれぬまま、地を這う【妖物】に肉薄し、その身体を片手で引き剥がす。石の隙間をつかんでいた節足が、あっけなく引きちぎられ取り残された。振りまわしたそれを天井の【妖物】に叩きつけ、二匹まとめて押し潰す。
 またも降り注ぐ体液と肉片を浴びて、フォンはくつくつと喉を鳴らした。
 それはめったに発せられることのない、彼の肉声だった。
 鳥の鉤爪のように曲がった指で、壁を走る【妖物】をわし掴む。最初に相手したモノの生き残りとおぼしきそれは、彼の腕の中でキィキィと鳴きながらもがいた。片手にそれを掴んだまま、もう片手では蛇に似た【妖物】を捕らえ、さらに上げた右足が排水口に逃げ込みかけた、サッカーボールほどもある甲虫を踏みつける。
 ぐい、と体重を掛けると、固い甲殻は卵の割れるような音を立てて潰れた。
 骨の折れるぼきぼきという響きが立て続けに鳴り、両手の中で暴れていた【妖物】達が動かなくなる。
 ―― やがて。
 引き寄せた両手の中には、時おり痙攣する肉の塊があるばかりであった。それを見下ろすフォンの、異臭を放つ体液でへばりついた前髪の下。
 両の瞳がぎらついた光を放っている。
 暗くそして熱を感じさせるその瞳は、明らかに欲望の ―― 飢餓の炎をたたえていた。
 手を近づけるのではなく、顔を手に近づける仕草は、野生の獣を思わせるそれ。
 寸前で一度確かめるように顔を止め、臭いを嗅ぐ。
 そうしてまずは舌を伸ばした。
 湿った音が、闇の中へと響く。
 犬が水を飲むのに似たそれと、あきらかになにかを引き裂き咀嚼する物音。
 そこで起きた光景を、目にする者が誰一人存在しなかったのは、おそらく幸いと称して良いはずだった ――


◆  ◇  ◆


 己の中に何か温かいものが流れ込んでくるのを感じて、マオは小さく身じろぎした。
 自分が意識を失う寸前の状況を思い起こし、重い目蓋を懸命にこじ開ける。
 最初に目に映ったのは自分の胸元に押し当てられた手。服をはだけて直接心臓の上に当てがわれた掌から、温かな“気”が脈打つように伝わってきている。
「…………」
 視線を上げれば、間近からのぞき込んでくる相棒の姿。
 細いとはいえ男一人を軽々と片手で抱き起こし、己の“気”を分け与えてくれている。
「……あーと、すまん」
 マオが口を開くと、その眉がわずかに動いた。翻訳するなら『気がついたか、良かった』というところだろうか。
 そうして彼は介抱する手をそのままに、そばに転がる大剣へと視線を投げる。
「だからすまんって。ついとっさに、手が伸びちまって」
 マオの言い訳に小さくため息が落とされる。
 この男がこれほど感情を表に出すのは珍しいことだった。己の暗い欲望を律するため、普段から言葉はおろか喜怒哀楽すべてをぎりぎりまで制限している彼は、人の内面 ―― 押し隠された願望や心の声まで見聞きしてしまうマオでもなければ、とてもその内心をうかがい知ることなどできない存在だったのだが。
 相棒を助けるためとはいえ、一時その欲望のまま【妖物】を引き裂き喰らった彼は、いまだ完全には興奮が抜けきっていないらしい。
 マオに触れる手こそきれいに清められていたが、シャツや髪の毛などはいまだ【妖物】の体液を含み、吐き気を催すような異臭を放っている。
 鼻を突く臭いにわずかに顔をしかめたマオは、しかし逃れようとするでもなく、その腕に身を預け続けた。
 退魔剣士フォン。
 斬った相手の精気をかてとする退魔の剣を武器とするこの青年は、その実、自身もまた生き物の精気を喰らわねば生きてゆけぬ存在であった。
 別に相手は【妖物】などではなくとも、生き物であればそれでいいのだが。それこそ犬でも猫でも、牛でも豚でも……もちろん人間でも。生きているものの血を、肉を喰らえば、そこに含まれる精気 ―― 生気を彼は吸収する事ができる。
 だが、そうして生き餌を捕らえ引き裂き喰らうことは、文字通り魔物の所行に他ならない。たとえそうすることでしか生きられぬのであれ、飢えのままに他者を喰らえば、彼は人間社会から排斥されることとなる。それは異形の存在を知り、寛容さを持つ呪術者達の世界にあっても同じことであった。
 人間ひとを餌として見なす生き物を、人間はけして受け容れなどしない。
 ―― たとえ彼が実際には、人間を喰らおうとしなかったにせよ、だ。
 だからこそ彼は、退魔の剣を必要としたのである。
 人間は人間を餌にできる『生き物』の存在は許せなくとも、人間を殺すことができる『剣』ならば許容できるものだ。何故ならすべての武器は人間を殺しうる可能性を持っており、それでもなお武器は武器として作り出され、使用されて続けているのだから。
 フォンが目の前で【妖物】を喰い殺せば、人は彼を化け物と呼び恐れおののくだろう。しかし退魔剣士の名のもとに斬り殺し、剣を通じてその精気を吸い取るのならば、彼は救い手として歓迎される。
 そこにあるのはもはや、理屈などではなく、純粋な感性の問題であった。
 無論のこと、彼が剣を媒介として殺した相手の精気を吸収している事実など、余人が一見しただけではとうてい想像すらできないことではあるのだが。
 しかし ――
 いかに同じように精気を得ているとはいえ、それでもやはり、それは『喰らう』というのとはまた別種の行為であった。確かに効率だけは良いのかもしれなかったが、飢餓を満たすという点では問題が生じるのだ。考えてもみるがいい。いかに栄養上は満たされているからといって、投薬 ―― 錠剤や点滴だけで、人間は満足できるだろうか。腹を満たすことができるだろうか。
 答えは否だ。
 そうなれば喉を焼く渇きと腹をえぐる飢えとに、誰もが煩悶することだろう。
 それはフォンもまた同じだった。
 常に飢えと渇きに悩まされながら、人間ひとの側で生きるために、彼はそれを抑えつけている。いつも、常に。
 間近くを離れず、誰よりもその点を理解しているマオは、たったいま己を救うために【妖物】を喰い殺した相棒に、謝罪こそすれ、恐れいとう気持ちなど抱くはずもなかった。
 原因となったのは足元の【妖物】を見落としていた自身であり、そして迂闊に剣に触れた、やはり自分に他ならぬのだから。
 ―― そう、マオが倒れた理由は、不用意に退魔の剣を掴んだことにあった。
 めいも作られた時代も定かではないその剣は、斬った相手の精気を吸い取るのと同時に、持ち主の精気をも喰らおうとする、文字通り【魔剣】である。
 剣の力に対抗し、逆に精気を奪い取るぐらいの精神力を持つ人間でなければ、己を守る武器であるはずの剣に、すべてを吸い尽くされて死亡する。それはそんな危険な代物だった。
 ふさわしい使い手が見つからぬまま持ち主を転々としたあげく、しまいには術者によって封印されていた剣だったが、しかしそれを手にすることがなかったならば、フォンはとうに化け物として狩られる立場にあっただろう。
「…………」
「もう、充分だ」
 手を重ねるマオに促され、フォンはためらいがちに掌を離した。
 本当に大丈夫かと確認するようにのぞき込む瞳に、にっと笑いかけてみせる。
 恐怖もためらいもないそんな笑顔を、フォンがどれほど貴重に感じているのか。人間よりも化け物にこそ近い存在でありながら、それでも人間の側に立ちたいと願っている、そんな相棒の内心を、マオは誰よりも知っていたから。
 動かない表情や語られない言葉の向こう側に隠れている、彼の内面は。確かに人間とは相容れぬ部分も確かに存在していたけれど。
 けれど、それでも。
 【猫】の名を持つ目と耳には、確かに見つけられる温かさがそこにはある。
「さって、いい加減帰らねえと」
 遅くなっても残業手当はつかねえしなあ。
 よっと勢いをつけて立ち上がったマオに、フォンはすかさず背中へと手を伸ばした。よろめいたなら受け止めようと待機する腕に、マオはひらひらと手を振ってみせる。
「大丈夫だって」
 ついさっきまで真っ青な顔で昏倒していたくせに、そんなことをほざいて片目を閉じる。
「…………」
 フォンはしばし中腰でマオを見上げていたが、やがて小さくため息をつくと床の剣へと手を伸ばした。抜き身のままだったそれを、慣れた手つきで鞘へ収める。そうして立ち上がった彼は、マオの背後、一歩後ろの位置に立った。
「それにしてもずいぶん汚れちまったな。俺もお前も」
「…………」
「クリーニング代、経費で落ちねえかなあ」
「…………」
「え、無理? 買った方が早いって? けどこのシャツ気に入ってたんだよな。お前のだってさあ ―― 」
 いつものように交わされる会話。何事もなかったかのように進む足取り。
 実際彼らにとっては、この程度のことなど本当にいつものことでしかなく、今までに幾度だって繰り返してきた、そんな日常の出来事にすぎず。
 他の誰がそれは異様だと言ったとしても、これが自分達の日常なのだと。
 胸を張ってそう主張する彼らに対し、笑って『そうだね』と答えるだろう、なかなか得がたい上司の元へと、彼らは帰るべく歩き始めるのだった。

(2003/12/22 16:53)
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