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 六 世界が終わる前日
 特殊次元・特殊生物対策処理委員会特殊処理実働課
 創作小説を書く人に十のテーマより】
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2003/08/16 13:42)
神崎 真


『いいかい? 【歪み】を見つけたら、次はこの装置を使うんだ』
 真藤の言葉を思い出しながら、拓也はポケットに入れた小さな機械を、確かめるように撫でていた。
 それは、一見すると電動ひげ剃りのように見える物だった。
 拓也の手にちょうど収まる大きさの、直方体の機械。片方の端にびっしりと細かい穴が開いているため、いっそうひげ剃りめいている。他に似ているものをあげるなら、無線用のマイクだろうか。機能的にはまだ、そちらの方が近いかもしれない。
 ただしマイクは外部から音を取り入れるためのものだが、この装置は逆方向に働くらしい。
『側面のボタンを押すとスイッチが入る。そしたらこれを【歪み】の中につっこんで、横にあるダイヤルを動かす』
 真藤は実際に身振りを加えてみせつつ、そう説明した。
『この装置は特殊な磁力を発生して、歪んだ空間を元に戻す機能があるんだ。【歪み】によって効果のある強さが異なってくるから、それはこのダイヤルで調整すればいい。【歪み】が消えれば電子音が鳴るから ―― って、それは拓也くんなら、目で見て判るよね』
 まぁ、実際の作業は大人達に任せて、きみは場所さえ指示してくれればいいから、と。
 あくまで予備用として手渡されたそれを、拓也は幾度も手で探った。
 本当にこれで、あの黒いもやが消えるのだろうか。
 あれなら、子供の頃から何度も見つけてきた。けれどそれが外部からの力で影響を受けるところなどは、ついぞ目にしたことがなかった。風が吹こうが、内部を物が通過しようが、あれはいつも揺らぎすらせず存在し続けていた。だんだん濃く大きくなることもあり、逆に小さく薄くなってしまうこともあったが、どの場合も気がつくといつの間にか消えてしまっていた。
 よもやそれが消えていたのではなく、【特処】の手によって『消されて』いたのだとは、まったく想像もしていなかったけれど
 果たして幾つ目の部屋になるのか。
 階段を上がった正面の扉を、先に立つ隊員がノックもせず押し開けた。
 内部はごく普通のオフィスのようだった。これまでチェックしてきた部屋の中で、もっとも広い。どうやらフロアのほぼ全体を、この一室がぶち抜きで占めているらしい。
壁に沿って踏み込んだ隊員は、数度壁際を手探りし、電灯のスイッチを入れた。白色灯が数度瞬いて、がらんとした室内を照らし出す。
 この建物内で小型の【妖物】が確認されたのは、昨日早朝のこと。【特処】は即座に手をまわし、水道から伝染性の病原体が発見されたとして、近辺一帯の建物から人払いを行っていた。むろん苦情はあがったが、致死性の高い菌だからと主だった人間を強制的に検査入院させ、時間稼ぎしている。故に現在この建物内に存在するのは、【特処】の関係者のみであった。
 入口から一瞥したところでは、この部屋にも【歪み】は見あたらない。
 だが【歪み】がすぐ目につく場所にあるとは限らなかった。ついたての向こう、机の下、あるいは棚の扉の中でさえ、ないとは言い切れないのだ。通り抜けてきた【妖物】の大きさからして、そこそこのサイズがあることは判っているのが幸いか。
 とりあえず、そろそろと室内へ入り、あたりの気配を探る。
 【妖物】はいそうにないことを確認すると、彼らはおのおの分かれて探索することにした。この広さでは、その方が効率が良いだろうと判断したのだ。拓也はその目で、警棒を腰に戻した隊員達は検出用のアンテナで、あたりを探ってゆく。
 ―― いい加減、目が痛い。
 周りには悟られぬよう、拓也は注意して息を吐いた。
 集中して隅々にまで目を配り続け、拓也もだいぶ疲労してきていた。はじめの頃は初仕事の緊張感など持っていたものだが、なにも起こらないまま何時間も同じことをし続けていれば、自然集中も途切れてくるというものだ。
 誰もこちらを見ていないのを確認して、目頭を指で揉む。
 いまは三階の一部屋目だから……やっと半分かよ。
 この仕事は時給制ではなかったから、早く終わらせた方がそれだけ得である。とにかく、もうすぐ請求がくる水道代と電話料金分、しっかり稼がなければっ。
 ため息を呑み込み、気を取り直して顔を上げる。
 と ――
「え……マジ……?」
 拓也は思わず呆然と、その場に足を止めていた。
 【歪み】を発見したのだ。
 発見したので、あるのだが……
 すぐに声を上げてみなに知らせなければと判ってはいるのだが、その声がとっさに出てこない。
 そこは、事務所の一角に区切られた応接コーナーの中だった。簡単なパーテーションで囲まれた、ざっと六畳ばかりの空間だ。
 その、床が。
 いやよく見れば、床よりもわずかに上。膝ぐらいの位置か。
 その高さが一面に ――
 黒い。
 衝立に囲まれた床全体を覆うようにして、【歪み】が口を開けていた。
 そこそこのサイズどころの話ではなかった。
 これほど大きく、また濃いもやを見るのは拓也も初めてである。すぐ下にあるはずの床など、まったく見えない。ソファとソファに挟まれて置かれているだろう、小卓もまた然り。ただかろうじてソファの背もたれと肘掛けだけが、孤島のように黒い闇溜まりの中から突き出している。
 そう。まさしく『闇』としか表現しようがない、その、黒さ。
 見つめているだけで、ぞくりと全身に悪寒が走る。自分の意識そのものが吸い込まれていきそうな、底知れない不安のようなものを感じる。
 とにかく、誰か他の者に知らせなければ、と。拓也は必死に手を動かした。
 『それ』から視線をはずすことができず、ただ後ろ手でぶんぶんと差し招く。
「どうした。見つけたのか」
 慌ただしい仕草に、隊員のひとりが気が付いてくれた。福田と呼ばれていたその青年は、ロッカーの間を調べていた作業を中断して、拓也の方へと歩み寄ってくる。
「どこだ」
「こ、ここ」
「ここって」
 このあたりか? と彼がアンテナをつきだしたのは、指の延長上ではあったが、いささか高すぎる位置だった。リング状になった先端は、黒い部分をかすめたのみだ。
「ちが……」
 答える声がかすれ、拓也は一度唾を飲んだ。
 大きく息を吸って、自身を落ち着かせる。
「床の、全体が」
「は?」
 きょとんとした顔で手を止めた福田を、拓也は笑えなかった。拓也自身、自分の目で見ていても信じがたいのだ。
「だから、床全部が。膝ぐらいの高さで」
 腕を動かし、ぐるりと応接全体を指し示す。
「……まさか」
 半信半疑といったていで、福田はアンテナを低くした。先がもやの中へと沈む。
 ピッと電子音がして、手元に光がともった。彼は振り返って他の仲間達へと呼びかける。
「おい! あったぞ」
 それに反応して、室内に散っていた三人が動きを止めた。
「お、見つかったか」
 やれやれ、などとぼやきつつ、みなこちらへと身体を向ける。
 【歪み】さえ見つけてしまえば、後はそれを記録、矯正して任務は終わりだ。ひとりが無線機を取り上げ、目標発見の報告を入れる。もうひとりが磁力発生装置を取り出し近づいてきた。
「どこだ」
「ああ、このあたり、の ―― 」
 福田の言葉が曖昧に途切れた。
 彼はアンテナを動かして【歪み】の大きさを測ろうとしていたのだが、どこまで動かしても手元のランプが消えないことに気が付き、顔色を変えた。拓也を振り返れば、やはり青い顔をした彼は、こくりとうなずく。
「おい、冗談だろ」
「どうした」
「い、いや、大きさがな。ちょっとな」
 うろたえた声を出す仲間に、他の者達が首を傾げる。
 と、それまで空間をかき回すようにしていた福田が、ぴたりと動きを止めた。その表情が、みるみる強張ってゆく。
「福田?」
 呼びかける一同へと、彼は紙のような顔色でふり返った。
「う、動かない」
 アンテナを引き抜こうと力を込めるのだが、それはまるで宙に固定されたかのように動こうとしなかった。
 まさか……
 ある程度経験を積んだ隊員達は、その時みな同じことを考えた。ひとり状況の判らない拓也だけが、息を呑んで彼らと【歪み】とを交互に眺めやる。
 ぐい、と。強い力でアンテナが引かれた。
 隊員はとっさに持ち手を離す。支えを失ったアンテナは、普通なら床に落ちて転がるはずだった。しかしそれは不自然な角度を保ったまま、しばし宙に浮かび続けた。
 あり得ない現象に拓也は目を見開く。呆然とする彼の周囲で、隊員達が動いた。
 姿勢を低くした彼らに前後を挟まれて、拓也はようやく我に返る。前衛の二人が警棒を構え、後ろの二人が銃を引き抜いた。銃に装填されているのは、後に証拠を残さぬ麻酔弾だ。
「【歪み】から【妖物】が現れます! 応援をよこして下さいッ」
 後衛のひとりが無線機に怒鳴った。一瞬の雑音ののち、平坦な声が返答してくる。
『落ち着け。距離を取り、種類を確認せよ』
 前衛にいる福田が、離れた位置から大声で叫んだ。
「【歪み】の規模がでかい! かなり大型のものかもしれないぞ」
 ザッという音がして、音声が切り替わる。
『 ―― 大きいとはどれくらいか。正確に報告せよ』
 一瞬、福田は拓也を振り返る。
「応接室の床いっぱいだっ。縦横とも3m以上! 小型どころの騒ぎじゃない」
『確かか、もう一度確認を……なっ』
 唐突に無線の向こうの声が途切れた。わずかにおいて、別の声が割り込んでくる。
『拓也くん、そこにいるかい』
「え、あ、はいっ」
 聞き覚えのある声に、慌てて声をあげる。
『すぐにその場から離れるんだ。廊下に ―― いや、建物の外に出なさい。後は彼らに任せて、早く』
「け、けど」
 拓也はまだ事態についていけていない。うろたえる彼の肩に、後衛のひとり ―― 確か久保田と呼ばれていた ―― が手を置いた。
「きみは指示に従え。さぁ」
 置いた手に力を込め、拓也を下がらせようとする。
 非戦闘員を守るためということもあるのだろうが、有り体に言うと、邪魔なのだろう。拓也の仕事はあくまで【歪み】を見つけ出すことで、それはもう終わったのだ。ならばさっさと場所を空けてくれと、そういうところか。
「くるぞ!」
 前衛にいるもうひとり、隊長格の男が注意を促す。
 全員がいっせいに【歪み】の方を注視した。拓也は強引に腕を引かれ、後ろへ押しのけられる。
「久保田、清水、発砲準備」
 応じて後衛の二人が麻酔銃を構える。福田が警棒の手元でスイッチを押した。かすかに弾けるような音がして、棒の周囲に青い火花が生じる。
 そして ――
 拓也は彼らの背中越しに『それ』と対面することとなった。


 まず最初に見えたのは、宙に躍る長い触手だった。
「……イカ?」
 思わずそう呟いてしまったのは、ぬらりとした表面に並ぶ吸盤を目にしたからか、あるいは少し前に給湯室 ―― いわば台所の様子を確認していたためか。
 漆黒の闇溜まりから生え出し、うねりながら長さを伸ばしてゆくそれは、馬鹿馬鹿しいほどの非現実さを漂わせていた。二本のうちいっぽうが、つい先刻まで福田が握っていたアンテナを、指揮棒のように振っている。いっそ戯画めいてすらいるその光景に、拓也は逃げるという当たり前の行動に移ることもできず、ただぽかんと触手が揺れる様を眺めていた。
 あたりの空間を探るようにしていたそれが、衝立と壁へぺたりと吸いつく。拓也の腕と変わらぬ触手まわりであったのが、途端に太さを増した。その強靱な筋肉が膨大な力を秘めて収縮する。
「出現と同時に撃て。油断するな」
 高まる緊張の中、ぐっと触手に力がこもり ―― 闇をかき分けるようにその『本体』が姿を現した。
ぇ!」
 命令と同時に麻酔弾が撃ち込まれた。対【妖物】用に調合された特殊な薬液を注入するべく、幾つもの弾が鋭い先端をその体表へと食い込ませる。
 が ――
「なッ、なんなんだよ、こいつは!?」
 拓也の叫びには、どこか笑いのような響きが混じっていた。人間衝撃を受けすぎると呆けるか笑うしかないというが、それは本当だったらしい。
 最初に現れた触手から、拓也は軟体動物のような相手を想像していた。大きさこそ異様だが、ぬめる皮膚と柔らかな身体を持つ、そんなどこかで見たことのあるような姿をしているのだろう、と。だがその予想は甘かった。この相手は、拓也の住む世界とはまったく異なる次元で発生・進化してきた生き物だった。こちらの世界の常識など、通用するはずもない。
 体表は、毛皮に覆われていた。少なくともその一部には、緑と赤紫の混在した蠕動ぜんどうする短毛が密生していた。身体の上半分がそんな色彩で、下半分は青黒い蛇腹状の甲殻で占められている。二本の触手はその甲殻の隙間から生え出していた。長い二本の他に、半分ほどの長さのものが不揃いに数本揺れている。
 全体的なフォルムとしては、そう、クラゲに似ているかもしれない。
 ただしこれの頭頂部には、クラゲには存在しないものがくっついていた。巨大な円形の口である。カメラの絞りのようにゆっくりと開閉するその内部では、ぐるりと並ぶ五本の牙が濡れた光を放っていた。
「口の中を狙え!」
 最初に発射した麻酔弾は、全て蠢く蠕毛ぜんもうに遮られてしまっていた。素早く再装填された銃が、鋭い牙の中心を狙う。
 濡れた布を叩きつける音がした。同時に苦痛の声が複数上がる。
 長く伸びた一方の触手が、二つの銃を同時に打ち据えたのだ。太い肉紐に強襲されて、屈強な男達もたまらず武器を取り落とす。
「このぉッ!」
 福田が警棒を振り上げた。自身のすぐ目の前に伸びた触手へと、思い切り叩きつける。電撃が【妖物】の皮膚を灼き、激しい火花と肉の焦げる臭いがまき散らされた。触手が激しくうねり、その動きで福田と久保田がはじき飛ばされる。
 真後ろにつき飛ばされた久保田は、無人の机を巻き込んで倒れた。中身の少なかったらしいスチール机は、派手な音を立ててひっくり返る。騒々しい響きに拓也はびくりと身を震わせた。
「あ……」
 己の足元、すぐそばに倒れる身体を呆然と見下ろす。
 久保田はまだ意識を手放していなかった。うめき声を漏らしながら、立ち上がろうと床に肘をつく。
 手を貸さなければ。そう思った。思ったのだが ―― 身体が動かない。
 まるで意識と肉体とが分離してしまったかのようだった。意識の方は隊員を助け起こしたいと思い、また触手を揺らめかせる【妖物】を恐怖と共に眺めているのだが、身体の方はいっかな動こうとしない。手足には力が入らず、身体の内と外との間に厚い膜が生じたかのようで。
 すべてが鈍く、遠い ――
「何をしてるッ? さっさと逃げろ!」
 隊長が振り向いて叫んだ。だがその言葉さえも、今の拓也には遠い。
 ゆらりとクラゲもどきの本体が浮き上がる。揺れる触手の間から、桁違いに太い一本が垂れ下がり、闇溜まりの奥へと続いていた。竹のように節のあるそれは、あるいはさらに想像を絶する真の『本体』へと続いているのかもしれない。

 ―― コンナ、生キ物ガ。

 拓也の脳裏に、他人事のような声がよぎる。

 ―― 存在スルハズガナイ。コンナ生キ物ガ、コノ世界ニ。

 それは彼が十六年をかけて培ってきた、『常識』のもたらす言葉だった。
 たとえ余人の目には映らぬものを見たことがあったにせよ、あくまでそれはただの『黒いもや』にしか過ぎず。そしていかに事前に説明を受けていようとも、結局のところ拓也は本当の意味で事態を理解 ―― 実感していたわけではなかったのだ。
 しかしそれも無理はないだろう。こんなモノの存在を、誰が、いったいどうして易々と受け入れられるだろう。
 呆然と立ちすくむ拓也の中で、これまで信じていた世界が崩れてゆく。自分の目で、耳で見聞きし、そうだと信じていた世界の形が、変わる。変えさせられる。


 だが ――
 彼はまだ、すべてを知ったわけではなかった。
 拓也の生活が ―― 世界が本当に変わるのには、まだもうひとつの事実が明らかになる必要があったのである。

(2003/09/01 09:42)
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