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 三 幼児体験
 特殊次元・特殊生物対策処理委員会特殊処理実働課
 創作小説を書く人に十のテーマより】
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2003/07/29 11:29)
神崎 真


 その、くろいけむりににているモノは、なんだかとってもイヤなかんじがした。
 ようちえんのせんせいにそう言ったら、なにも見えないわとそう言われて、もっとイヤなきもちになった。
 ゆうちゃんも、花ぐみのともくんも、みんななんにも見えないって言うんだ。たっくんがヘンなこと言うって、わらうんだ。
 ヘンなのは、ぼくなの? ぼくだけがくろいの見えるの?
 あれはきもちがわるいのに、見えないふりしなきゃだめなの?
 ねえ、おばあちゃん ――


◆  ◇  ◆


 自分が見ている景色の中には、他の人間には見えないものが混じっているのだ、と。拓也がそれをはっきり認識したのは、果たしていつ頃のことだっただろうか。
 一番古い記憶は確か、幼稚園から泣きながら帰ってきた時のことだった。
 つたない言葉で懸命に訴える拓也に、祖母は困ったような、複雑な表情をしてみせたものだった。言葉の足りないめちゃくちゃな説明でも、祖母はちゃんと拓也の言いたいことを理解してくれた。幼心おさなごころにもそれが嬉しくて、自分は間違ってはいないのだと、とても安心できたのだけれど。
 それは祖母もまた、同じものを目にすることができていて、だからこそ同じ悔しさをずっと味わってきていたからなのだと、拓也は十を数える頃になってようやく、おぼろながら理解するようになっていた。
「たーくーやっ。じゃあ昼メシ食って、橋んとこでな!」
「おぅ! グローブ忘れるなよっ」
 手を振って、小学校のクラスメートと曲がり角を別れる。
 夏休み前の半日授業。学校からは早くに宿題に手をつけておけなどと言われていたが、そんな忠告をまともに聞く子供などいるはずがなかった。みないったん家へ帰って昼食をかき込んだ後は、連日仲の良い者同士で集まって、やれ野球だサッカーだと遊びまわっている。
 拓也ももちろん例外ではなく、今日も今日とて河原の広場で草野球の約束をしていた。
 時間に遅れまいと急ぎ最後の角を曲がった拓也は、しかし自宅の門を目にしたところで、びくりと立ち止まる。
「あ ―― 」
 その口から思わず声が漏れた。


 そこにあったのは、黒い汚れにも似た、煙状の何か。


 それは拓也と祖母にしか見ることのできない、不思議な黒いもやつきだった。
 いま目の前にあるそれは、住宅地のど真ん中、細い道を塞ぐような形で宙に浮かんでいる。
 吹く風にも揺らぐことはなく、ただひっそりとそこに在る、その大きさはちょうど拓也の半分ほどか。身を寄せ避けて通ろうにも、ひどく邪魔な位置である。
 拓也は思わず唇を尖らせていた。
 幼い頃から幾度か目にしたことのある『それ』が、拓也はとても嫌いだった。
 友達に訴えて嘘つき呼ばわりされたことも、その理由のひとつだ。他の誰にも見えないらしいそれのせいで、人から何度馬鹿にされてきただろう。親のいない子はこれだからと、口さがない大人に虚言癖呼ばわりされたことすらあった。だがそれ以前に、このもやそのものが、拓也には気持ち悪くてならなかったのだ。
 それを眺めていると、拓也はいつもずしりと重い圧迫感を感じ、頭が痛くなった。全身鳥肌ができて、いても立ってもいられなくなる。もやが濃くなればなるほど、その感覚は増した。少し向こうが見えにくい程度のものであれば、まだ我慢もできたが、中にはほとんど闇を満たした穴のようにしか見えない場合もある。そんなときは正直、近づくのも御免だった。困るのは、それならそれで近寄る前に察知できればいいものを、実際には自分の目で見るまでその存在に気がつけないというところだ。
 いま目の前にあるのは、それほど濃いものではない。せいぜい大型トラックが吐き出す排気ガス程度か。耐えられないというほどではないが、気持ちが悪いのは排気ガス以上だ。
「うー」
 まわり道をするべきか、突っ切るべきか。
 迷う拓也を、買い物帰りとおぼしき主婦がいぶかしげに眺めていった。彼女の方はもやの存在になど気づくことなく、真正面からつっこんでゆく。
 何事もなく向こうへ通り抜けた主婦を見て、拓也も覚悟を決めた。この道を通らないとなると、ぐるっと大まわりする羽目になる。約束の時間に間に合うようにするならば、昼を食べる時間がなくなってしまう。
 拓也は大きく息を吸うと、ぎゅっと目を閉じた。ランドセルのベルトを両手で押さえ、一気にダッシュする。目を閉じてしまえば、気持ちの悪さは消える。だが閉じたままでは逆に、自分がもやの中から抜けられたかどうか判らなかった。うかつに目を開けて、まだ黒いただ中にいたらと思うと、なかなかタイミングがつかめない。
 息さえも止めていた拓也は、いきなり顔面から柔らかいものにぶつかった。
「うわッ!?」
 驚いたような悲鳴は、拓也のものではない。
 拓也はびっくりして目を開けた。すぐ前に何かがあったが、近すぎてなんだかよく判らない。ぐらりと身体が傾き、拓也は疑問に思う間もなく、衝突した相手を押し倒すような形でひっくり返った。
「いったぁ……」
 相手が拓也を抱え込んで尻餅をついたため、拓也はほとんど身体を打たずにすんだ。が、むき出しになった膝をすりむくのは免れない。
「あたたた」
 いっぽう相手の方は、拓也にしがみつくようにして、痛みをこらえていた。子供とはいえ自身と二人分の体重がぶつけた尻にかかったのだ。それはさぞや痛いだろう。
 はっと我に返り、拓也はあわてて相手から離れた。
「ご、ごめんなさい」
 悪いのは目を閉じて走っていた拓也の方。子供がまっすぐつっこんできたのだから、相手もそれは驚いただろう。
 俯いて唸り声を上げているのは、まだ若い男だった。小学生の拓也には大人の年齢がよく判らないのだが、おそらく相当若い方だろう。もしかしたらまだ学生なのかもしれない。ぼさぼさの髪がかぶさっていて、顔はよく見えなかった。怒っているのだろうか、いや怒っているに違いない。びくつく拓也の前で、彼は片手を伸ばし、あたりの地面をまさぐり始めた。
「メガネ、が」
 呟きを聞いて、大急ぎで周囲を見まわす。少し離れたところに黒太縁の眼鏡が転がっていた。どうやら壊れてはいないようだ。拾って差し出すと、青年はようやく顔を上げた。片手で目のあたりを押さえている。その指と前髪の隙間からのぞく目が、かがみ込む拓也の姿を捉えた。
 ―― あれ?
 拓也はちょっと首を傾げた。
 一瞬、青年の瞳が金色に光ったような気がしたのだ。だが彼はすぐに目を伏せ、受け取った眼鏡をかけ直す。そうして再び拓也を見上げた。
「こら、ちゃんと前を向いてないと危ないだろう?」
 たしなめてくるその顔は、怒気ではなく穏やかな微笑みを浮かべていた。
 厚いレンズの向こうでは、瞳が柔らかい光をたたえている。濃い灰色の目はいささか色素が薄いようだったが、見えたように思った金色など、どこにも存在していなかった。見間違いだなと、拓也はあっさり納得する。
「ごめんなさい」
 こんな時には素直に謝るに限った。下手に黒いもやのことなど言い立てても、かえって相手を怒らせるだけだと、拓也は身にしみて学習していた。
 頭を下げた拓也に、青年は苦笑して手を伸ばした。拳骨かと思わず身を堅くしたが、予想に反し、手のひらを頭に乗せられただけだった。
「今度からちゃんと気をつけるんだよ。目を閉じるなら、その前に向かう方向を確認すること」
 ね?
 念を押してくる青年に、拓也はこくこくとうなずいた。確かにそれは当たり前の注意だ。
 立ち上がりズボンの汚れをはたきながら、青年は拓也を促した。
「早く行かないと、約束があるんじゃないのかい」
 その言葉に、拓也ははっと状況を思い出した。そうだった。そもそもそのために回り道を断念して、もやに突っ込んだのである。
「ごめんなさい! それじゃぁ」
 もう一度青年に頭を下げて、拓也は慌ただしく走り出した。あのもやさえ越えてしまえば、家はもうすぐそこである。すでに頭の中は、約束に間に合うかという心配で一杯になっていた。
 故に拓也は、なぜ青年が自分と友達の約束を知っていたのかという、そんな疑問をついぞ抱くことはなかったのである。


◆  ◇  ◆


 ―― 一方、
 柔らかい笑みを浮かべたまま拓也を見送っていた青年は、黒いランドセルが門柱の向こうへと消えたところで、小さく息を吐いた。
 その途端、そのおもてから表情が抜け落ちる。
 穏やかな微笑みは消滅し、感情の色のうかがえない、能面のような顔が現れた。無機質な光をたたえた瞳で、青年は背後を振り返る。
 そちらには何もない。
 いや、青年が見つめる中空には、先刻拓也を気味悪がらせた黒いもやが存在していた。しかしそれは余人の目には映らないはずのものである。実際、青年の視線は微妙にもやの位置からはずれていた。しかし ―― 彼は確かにその存在を把握しているようだった。
「なるほど、さすがは『らい』さんの孫だな」
 乾いた声で呟く。
 そうして彼はポケットから紙片を取り出した。畳んであるのを開けば、このあたり一帯の住宅地図だ。
「住宅地のただ中にレベルC−IIの【歪み】を発見。大きさ・濃度ともいまだ低レベルなれど、人通りの多い地域のため、早い内の対処が望ましいと思われる、と」
 さらさらと赤ボールペンで書き込み、元通りにしまいこむ。
 もう一度ふり返り、彼は拓也が消えた玄関をみやった。
「あの子が使えるようになるとしても、ざっと十年は先か。……長いな」
 残念そうな言葉とは裏腹に、その口調は抑揚のない平坦なものだ。


 さしもの彼もそして拓也も、わずか五年後には同じ職場で共に働くことになるなど、この段階で予測できようはずもなかった。


「とりあえず、素質があると判った以上は、もう少しお近づきになっておいた方がいいか」
 そうひとりごちて、青年 ―― いまだ年若き真藤陽一は、拓也が再び出てくるのをそのままその場で待っていることにしたのだった。

(2003/08/09 15:00)
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