この一月、もはや聞き慣れた種類の罵声が耳を打った。
肩をつかむ腕は容赦のない力で肉に指を食いこませ、粗末なぼろの下で青い痣を皮膚に刻む。
懸命に抵抗し、伸ばす手のその先、向けられる背中はあまりにも遠く。
一瞬だけこちらを見たその視線は、これまで想像すらしたことがなかったほどに、冷たく無感情なそれで。
「 ―― ッ」
餓えと渇きに掠れた喉は、思うように言葉を紡いでくれなかった。
泥と埃と垢にまみれた小さな身体は、呆気ないほど簡単に持ちあげられ、ようやく戻ってきたはずの屋敷から引きずり出される。
物乞いなら物乞いらしく、裏にまわって頭を下げろと。
固い石畳へと投げ出された、その痛みさえもが、どこか遠い世界での出来事のようでしかなかった。
呆然と目を上げれば、顔見知りの門番が蔑むような目で見下ろしてくる。いつも穏やかに笑い、丁重な物腰で道をあけてくれていた、その男が。
何故、と。
理解できぬまま、それでも呼びかけようとして。男の名を知らぬことに気がついた。
こちらが名など呼ばずとも、いつでも即座に反応が返ってきていたから。どれほど遠くからでもこちらの姿を認め、笑みを浮かべて腰を折り、何か必要なことはあるかと問いかけてきてくれていたから。
だから、使用人に自分の方から声をかける必要など、これまで一度たりとてありはしなかったから。
それなのに。
まだ呆然としながらも、それでもどうにか立ち上がった。どうすればいいのか、まだ判らぬままに、なおも数歩、よろめきながら門へと ―― 屋敷の内へ近づこうと足を踏みだす。
次の瞬間、激しい衝撃が腹部を襲った。痛みとも、熱ともつかぬものが腹の底からこみ上げてくる。
固い靴先で、鳩尾を蹴りあげられたのだ、と。
―― そう、理解できたのは、石畳にぶちまけた己の反吐の中へと、つっこむように倒れ伏してからのことだった。
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