妖獣が出没したという知らせをうけた王太子が、騎士団を率いて駆けつけた時、そこでは既にすべてが終わっていた。
王都の中でもはずれに位置する、船着き場で起きた出来事だった。
妖獣が人間の住まう領域へと侵入してくることを防ぐため、王都のまわりには高い石壁が築かれている。故に、森や草原を住処とする妖獣達から、民達は護られていた。が、しかし唯一湖から現れるそれに対する防備は不完全で。
水面に映る夜空の見事さから、星の海 ――
ティア・ラザと称されるこの湖は、豊富な漁獲資源の産地として、農耕に必要な用水の源として、そして物資流通の主たる経路として、この国に無くてはならない存在であった。だからこそ、防壁によって王都との間を閉ざすことも、水門で流れをせき止めることもできる相談ではなく。
―― そう。
破邪騎士を擁する、セイヴァン王家のお膝元。この国でも最も安全と言われる王都の中でも、けして妖獣の被害から完全に守られている訳ではないのである。
それでも、妖獣発生の報があれば、騎士達は即座に現地へと向かった。そこは同じ王都の中である。到着は他のどの地域よりも早く、派遣される人数も多い。
その日も、彼らの到着は充分に素早いものだった。
だが ――
「どういうことだ」
船から降ろされたばかりの積荷が、幾つもあたりに散乱している。丈夫な木箱や樽が割れ、中身がはみ出しているものもあった。破壊された荷車の残骸、濡れた石畳の上に酒や香辛料がぶちまかれ、鼻をつく異臭を発している。
しかし吐き気を誘発する、最大の悪臭の源。それは、湖に半身を浸した、巨大な妖獣の死骸だった。
「こいつは
水蛇です。こんな大物、いったい誰が……」
死骸を検分していた騎士のひとりが、唖然としたように呟く。
鱗に覆われたその胴体は、大人の男が二人がかりでようやく腕を回せるかと言うほどの太さがあった。蛇と名が付いているが、密生する鱗は爬虫類のそれではなく、一枚一枚が独立した魚類のものに酷似している。そしてそれらは剃刀のような鋭さを備え、迂闊に触れれば肌を切り裂かれるだろう代物だった。首のまわりと背中に生えた
鰭には、黒ずんだ筋が走っている。毒腺だ。これに刺されれば人間などひとたまりもない。
しかし、そいつは完全に死んでいた。人間をも軽くひと呑みにしそうな巨大な頭部の後ろから、太い
銛が長くつきだしている。赤紫色の体液が、石畳を毒々しい色に染め上げていた。
これほどの妖獣が相手では、騎士団員達であっても相当な苦戦が予想された。それを、いったい誰が、これほどの短時間で仕留めたというのか。
疑問に思ったエドウィネルだったが、彼はすぐに首を振り、己の職務に立ち戻った。
「このまま死体を放置していては水が汚染される。すぐに引き上げてしかるべき処分を。それからあたりを調査して、被害状況を調べてくれ。特に毒にやられた人間はいないか確認して、必要なら解毒剤を手配しろ」
「はっ」
未だ成人をも迎えてはおらぬ年若い王太子の指示に、しかし騎士団員達は一糸の乱れもなく従った。成長期を終えきってはいない、少年の線を残した金髪の若者へと抱く忠誠の念を、彼らは一切隠そうとしていない。
経験を重ねた年かさの騎士達をも心酔させる。それだけの器量を、まだ若いエドウィネルは備えていた。
「この荷の持ち主はどこだ。被害分を補償する。申し出よ」
遠巻きに彼らを眺めている、町民達へと呼びかける。
けして張り上げているのではないのだが、それでも良く通る響きの良い声に、不安げにあたりを囲んでいた町民達が安堵のざわめきを洩らした。
水蛇を倒したのはひとりの若者だったと聞かされて、エドウィネルは思わず耳を疑っていた。
「ひとりでだと?」
「へ、へえ。いちおう船賊相手の用心棒として雇ってた野郎で。ひょろっとした身体つきの、クソ生意気な奴ですわ」
駄目になった物資を王宮から補償してもらえると聞いて安心した荷主は、被害状況を報告する手順を教わった後で、エドウィネルの質問に答えていた。いったいどうやってあの妖獣を退治したのか、と。その返答がこれである。
「けっこう腕っ節があるとは噂になってましたけど、よもやあれほどとは、ねえ」
どこにでもいる、ろくでなしのチンピラとしか思えなかったのだが。
しみじみと首を振る荷主に、エドウィネルはさらに問いを重ねる。
「その者は今どこにいる」
「は」
「どこに行けば会えるかと訊いているのだ」
「あ、ええと……どこにって……」
荷主は焦ったようにきょろきょろとあたりを見まわした。だが目に入る位置に当の人物は見あたらなかったらしい。
「おい、誰かナナシがどこ行ったか知らねえか!」
声を上げる。
と、散らばった物を片付けていた水夫のひとりが顔を上げた。
「あいつなら、声かけてくる奴がうっとおしいって、船ん中に入っちまってますけど」
親指を立て、波止場に横付けされた帆船を肩越しに指す。どうやらその船からの荷下ろし中に妖獣が現れたらしい。
「会いたいのだが、船に入らせてもらえるだろうか」
「え、いやそんな。呼んで参りますから」
「かまわん。人手をさく必要はない」
外套をひるがえし、甲板へと続く急な渡し板へと足を向ける。
打ち寄せる波のほとんどない内陸湖とはいえ、それでも係留された船はかすかに揺れていた。特に現在は、荷運びの人間が重い木箱や布袋などを抱えて甲板を行き来している。不安定な足場を気にしながら、エドウィネルは近くを通り過ぎる水夫に声を掛けた。
「妖獣を倒したという者はどこにいる」
忙しいところを呼び止められ、むっとした顔で振り向いた男は、エドウィネルを認めた途端に態度を豹変させた。慌てて表情を取り繕い、言葉を探す。
「え、ええとですね、ナナシなら確か、船倉で休んでましたけど」
おい、そうだよな?
船底へ降りる梯子から出てきた男へ、そう確認する。だ、そうで、と振り返った水夫に、エドウィネルは先刻も気になったことを訊いた。
「ナナシというのが、その男の名前なのか」
ずいぶんと変わった響きだ。異国の出身なのだろうか。
そう思ったエドウィネルに、男は複雑な表情を浮かべてかぶりを振った。
「いえ、単なる呼び名ッスから。おい、ナナシぃッ、ちょっと出てこい!」
甲板に開いた出入口から、船倉へと男がわめく。が、返答はなかった。ちッと舌を打ってもう一度呼ぼうとする男を、エドウィネルが止める。
「妖獣と戦ったばかりで疲れているのだろう。私が降りる」
「え、ちょ……ッ」
男が止める間もなく、エドウィネルは梯子に手を掛け、暗い船倉へと降り始めた。
様々な荷物を押し込める船倉は、間違っても身分の高い人間が足を踏み入れるような場所ではない。防水のためにほとんど密閉されたそこは、換気もろくになされてはおらず、よどんだ空気の中に運んだ物資や腐った水の臭いが入り混じり、慣れぬ者なら吐き気すらもよおすような空間だった。灯りもまた、小さな角灯が幾つか下がっているだけ。足を踏み出すたびに揺れるそんな場所に、よもや王太子ともあろう者を通すわけに行かないではないか。
だが呼び止めることもまた、おそれ多いと迷っている内に、エドウィネルの姿は見えなくなってしまう。
身軽に梯子を下りきったエドウィネルは、少し脇にずれて道を空けると、しばらくじっと立ち尽くしていた。湖面に陽光がきらめく明るい甲板から降りてきた船底は、あまりにも薄暗く、目が慣れるまでまったく物の位置が把握できなかった。
やがて、どうにかあたりの様子が見て取れるようなる。
さほど広いとは言えない船底には、これ以上は無理だと言うほどの荷が詰め込まれていた。低い天井までの空間に、木箱や樽、布袋といった物が限界まで積み上げられ、その間にかろうじて人間が通れる程度の通路が確保されている。
「ナナシという者はいるか」
声を上げると、荷を運んでいる男達が、胡乱げな目を向けてきた。が、エドウィネルのいかにも身分ありげな風体を見て、ある方向を指差してみせる。うなずいて礼に代え、エドウィネルはそちらへと向かった。そして、船倉の片隅でその若者を、見つける。
―― 若い。
まずそのことに驚いた。
エドウィネルより二つ三つは年下のようだった。まだせいぜい、十六か七か。若者と言うよりも、少年と言った方がふさわしいかもしれない。用心棒などという荒っぽい稼業をなりわいとするには、ずいぶん意外な年頃だ。
ちらちらと揺れる角灯の光の中、詳しい造作は見てとれない。ただ、手足ばかりが長い痩せた体躯と、首の後ろで無造作に縛った暗色の髪とが、最初の印象だった。
そして、近づく気配に気付いて上げた瞳の、強い光。
まるで野に住む獣に見すえられたかのような感覚をおぼえ、エドウィネルは足を止めていた。
しばし二対の視線が宙で交わる。
「…………」
やがて ――
先に口を開いたのは、エドウィネルの方だった。
「ナナシとは、君のことか」
若者は、それには答えなかった。
急に目の前の人物に対する興味を失ったかのように、ふぃと視線を手元に戻す。
彼は空の木箱に腰を下ろし、無造作に片足を上げていた。船倉の壁にだらしなく上体を預け、抜いた短剣を磨いている。袖無しの上着からのぞく肩のあたりが、腕の動きにあわせて骨の形を露わに見せた。
「私の名はエドウィネル=ゲダリウス。セフィアール騎士団を指揮する者だ」
そう名乗ると、ようやく彼は再び目を上げた。だが、まだ口は開かない。
「あの妖獣を倒したのが君だと訊いて、会いに来た。まずは礼を言う。おかげで我々の到着が遅れたにもかかわらず、被害が少なくてすんだ」
小さくだったが頭を下げる王太子を、若者はまじまじと見上げる。
「些少ではあるが、報償を与えたいと思う。王宮まで同道してはもらえぬだろうか」
「…………」
「ナナシ?」
いつまでも答えようとしない若者に、エドウィネルもさすがに不審なものを覚える。
一歩、足を踏み出した。
と ――
「ナナシじゃ、ねえよ」
掠れた声が、そう告げていた。
低く、潰れたような声だ。聞き取りにくい悪声のはずなのに、どこか魅力的な響きを持って聞く者の耳に届く、そんな、声音。
エドウィネルを見返す若者の口元が、皮肉げな笑みを形作った。
「『名無し』さ」
そう言って、持っていた短剣の刃を唇に当てた。
ちらりと流された目が、角灯の光を映し、青い炎のようにきらめく。
「名無、し?」
エドウィネルは、魅せられたようにどこか呆然と繰り返した。
若者は、笑みを浮かべたままでうなずく。
その、エドウィネルを捉える瞳の輝き。身の内に、どこか不思議な感覚がわき上がってくる。
懐かしいような。ひどく身近な人間に出会ったかのような、そんな感覚。
腕環をはめた、右の手首が。
熱い ――
「……どこか、で」
気がついた時には、そう、口にしていた。
「どこかで、会ったことがあるだろうか」
と。
それが、すべての始まりになることも、知らず
――
* * *
私室から退出してゆく侍従の姿を見送ってから、老人は大きくため息をついて全身の力を抜いていた。
部屋の一隅に置かれた寝椅子にぐったりと身体を預け、視線を虚空へと投げかける。
そこは、居心地よさげに整えられた居室だった。広い空間に、簡素ではあるが質の良い調度が、ゆったりと余裕をもって配されている。
開いた窓から取り入れられた、明るい陽差しと新鮮な空気が室内を満たす。
高齢ゆえに、肉体のそこここに不調をきたしているであろう老人が、時を過ごすのに、これ以上整えられた場はないであろう。
彼は、しばらくじっと動かなかった。細い身体を柔らかな寝椅子に預け、静かに呼吸を繰り返している。
やがて、その口が開かれた。
「いい加減に、出てきたらどうだ」
己の他には
何人も存在していないはずの部屋で、誰に言うともなく、言葉を放つ。
答える者は、いない。
が……
「 ―――― 」
窓辺に吊された紗幕が、ふうわりと揺れる。吹き込む風に、柔らかな布が大きくひるがえった。
そうして。
紗幕が元通りになった時には、一人の若者が壁際に姿を現していた。
いったいいつから、どうやってそこに身をひそめていたというのか。老人はけして室内に人を招き入れてなどいなかったし、王宮の奥深くに存在するこの部屋に、余人に見とがめられることなく入り込むことなど、とうてい可能な技ではないと言うのに。
しかし、現実に若者は開いた窓の枠に軽く手を掛け、老人を見つめていた。
まだ少年と呼んでも良いだろうその人物は、つい数日前、王太子であるエドウィネルが王宮へと連れてきた、名無しの若者であった。
セフィアール達の到着よりも早く、銛一本で妖獣を倒す技量を持っていた人間。
妖獣を退治し民を護った褒美を与えようとした、王太子の判断は間違っていない。たとえ氏素性も知れぬ、身分低い人間であろうとも、為したその働きに相応しい報酬は与えられてしかるべきである。
そのことは、頭の固い重臣達もみな承知していた。
だが、恩賞を授けるべく若者と謁見した国王が、その直後に下した判断は
―― 彼らを驚愕させ、また王太子をも絶句させるそれであった。
そして、とうの本人である若者にさえも、とっさには理解できぬもので
――
こうしてその若者がこの場を訪れたということは、間違いなくそのことについて語りたいが故にであろう。
佇むその肩越しに見えるのは、遠くはるか、さざ波きらめく
星の海の湖面。
大きく張り出した岬の上に立つ王宮の、さらに最奥部にあるこの部屋は、湖に面した崖の上に位置している。見晴らしは最高だったが、手すりつきの
露台の下は、目もくらむ絶壁と押し寄せる波が打ちつける岩場だった。
少なくとも、この窓の見える場所に見張りはいない。だが、こんな場所から人が侵入できるとはとても思えなかった。よほどの命知らずでさえ、試してみようとも考えまい。だからこそそこは無防備になっているのだ。天然の、何よりも確実な護りの存在しているがこそ。
だが、老人は若者の不可解な出現にも驚いた様子を見せず、椅子に座ったまま、ゆったりと彼を見つめ返した。
ティア・ラザの
水面にも似た、その深い蒼色の瞳を、穏やかに細める。
「すまんが、紗幕を引いてくれぬか」
彼の目にさざ波の照り返しは眩しいらしい。
骨張った手を掲げ、指の間から透かすようにして願う。
若者は、しばらく無言で老人のことを眺めていた。が、やがてひとつため息をつくと、手を伸ばし、薄い布を無造作に引っ張った。
衣擦れの音が響き、紗幕が窓を覆う。湖からの風に、それは大きく膨らみ幾度も揺れたが、それでも室内へと射し込む光は柔らかいものに減じた。
布から手を離した若者が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
それを老人は微笑んで待ち受けた。真正面で立ち止まり、見下ろしてくる双眸。老人のそれとも良く似た濃い蒼は、しかしずっと強い光を宿した真夏の海の色だ。
陽に灼けただけではない、生来の浅黒い肌がなめした皮革のよう。緩やかな癖を持った焦茶色の髪を、革紐で乱雑に束ねている。頬が薄く、手足は長く、全体的にひどく痩せていたが、それでも彼が弱々しげに見えることはけしてなかった。むしろ俊敏さや精悍さを感じさせるそれらの特徴は、みな南方の海辺に面した土地、コーナ公爵領のあたりで見られるものだ。
どれほどの間、静かに見つめ合っていただろうか。
やがて、若者の方がふいと視線をはずす。
「 ―― ずいぶん、もめてるみてえだな」
ぼそりと、呟くように言った。その声の調子は、低く掠れたぶっきらぼうなそれで。
とてもではないが国の最高権力者に対するようなものではなかった。余人が耳にしたならば、それだけで不敬罪に問われ投獄されてしまうだろう。
だが、老人はとがめようともせず、笑みをいっそう深くする。
「そのようだの」
答える声も、どこまでも穏和だ。まるで、やんちゃな孫を見守る祖父をも思わせる。
「どこの馬の骨とも知れねえ、平民出のチンピラを破邪騎士に任命しようってんだ。案外、あんた正気を疑われてんじゃねえのか?」
そう。
老人 ――
すなわちセイヴァン国王は、この若者をセフィアール騎士団に迎えると宣言したのである。
その決定には誰ひとりの意見も、また否定をも挟ませようとはせず。当人の意思すら無視したそれに、老人以外のすべての人間が困惑を隠せずにいた。
「前例のないことだと、言い張るのだよ、彼らは。……全くないと言うわけでは、ないのだがな」
「へえ?」
若者が意外そうに眉を上げる。
破邪騎士団セフィアールと言えば、国家セイヴァンの存在意義とも言える、重要な存在だ。そこに氏素性のはっきりしない
―― ぶっちゃけた話、血筋と伝統と、それから金と権力を備えた、貴族以外の人間
―― が迎え入れられたことなど、果たしてあったというのか。
「後先が、違うのだ。もともと破邪騎士達は、地位も血筋も権力も、持ってなどおらなんだ。騎士団員として必要とされたのは、ただセフィアの能力を受け入れられる素養と、そして妖獣から民を護ろうというその意思だけだったのだ。そして、彼らは為した働きの故に高い地位へとのぼり、相応しいだけの特権を得た」
けして、貴族であるが故に破邪騎士へと任命されたわけではない。破邪騎士として働いたが故にこそ、彼らは貴族と認められたのだ。
「いったい、何百年前の話だよ、そりゃ」
遠い目をする老人に、若者は失笑する。
セイヴァン建国の歴史は、かれこれ300年ほど昔にさかのぼる。
当時の出来事については、吟遊詩人の語る英雄譚や昔語りの絵草紙、観劇や歴史書などでいくらでも語られていたが、それらの伝える情報が、果たしてどれほどの信憑性を備えていることか。それすらも定かではないほどに、はるか遠い時代の物語である。
星から落ちて来たという、忌まわしくも恐ろしき妖獣にすべてが滅ぼされんとしたその時、いずこかより現れて民を救った、英雄エルギリウス=アル・ディア=ウィリアム=フォン・セイヴァン。謎に包まれたその前半生は記録に残っておらず、知る者はまるで存在しなかった。出生すら定かでない馬の骨と言えば、確かに彼もまたその範疇に入っているだろう。
――
もっとも。そんなことを口にでもした日には、祖王を敬愛するすべての国民から、よってたかって袋叩きにされかねなかったが。
「何百年前であろうとも、それが事実よ。実際、騎士団員が貴族でなければならんだなどと、どこにも記されてはおらぬのだからな」
それはあくまで慣例。いつの間にか、不文律という名でなし崩しに始まってしまっていた、融通のきかぬ悪習でしかない。
老人はきっぱりと断言する。
そこに彼を破邪騎士とする上での不安もためらいも、なにひとつ存在しない。
まっすぐに見つめてくる瞳を、むしろ若者の方がいぶかしく感じたらしい。
「なんで、俺をそこまで買うんだよ。俺がまともな騎士になるとでも思うのか?」
口の端を上げ、にやりと嗤う。その表情は、そんなつもりなどさらさらないと如実に宣言しているようなもので。
だが、どこかわざとらしさのあるその仕草を、老人は見透かしたようだった。
「ああ」
短く、しかしはっきりとした肯定が返る。
「…………ッ」
若者の頬にカッと血の気が昇った。
羞恥、ではない。それよりももっと複雑な……とても一口では説明できぬ、熱く、激しい感情のあらわれだ。
しかし、彼が何かを言おうとするよりも早く、老人は次の言葉を口にした。
「それに、お前はもう破邪騎士の一員ではないか」
「てめえ……」
「判るさ。私を、誰だと思っている」
ゆったりと腹の上で指を組み、若者を見上げる。
その、身に備わった威厳。
けして激することなどなく、どこまでも静かに相手を見つめ返す、深蒼の双眸。
六十という高齢にしても、ひどく老いさらばえた姿だ。げっそりと肉の落ちた、骨と皮ばかりと見える肉体。やせ衰え、たるんだ皮膚は染みだらけになっている。椅子から立ち上がろうとしないのも、既にそれだけの体力が残っていないからだろう。
セフィアール騎士団員達に破邪の力を与え、その傷を癒してゆくなかで、代々の国王は常人よりも早く衰えてゆく。そして、二十歳で即位したこの老人は、既にどの王達よりも長い時間をその地位で過ごしていた。後継者をみな早くに亡くしてしまったことも一因ではあったが、この国の譲位は国王崩御をもって行われる以上、たとえ子供達が健在であったとしても、彼の治世は続けられていたはずである。誰もが異を唱えぬだけの、名君の時代として。
そう、彼はどれほど衰えていようとも、いまだ国王たるにふさわしい能力と、知性を備え続けている。現在この世に存在している、誰よりも。
「俺、は ―― 」
地位も名誉もクソ食らえ。血筋なんざ腹の足しにもなりゃしねえ、と誰を相手にしてもそう吐き捨ててはばからなかった若者が、老人の眼差しの前では、言葉を失い立ち尽くす。
「お前は既に、セフィアールとしての能力をその身に備えている」
問いかけではなく、確認ですらなく。事実をただ口にした老人に、彼はくっと唇を噛んだ。
「誰から受け継いだのだ」
その、破邪の能力を。
本来であれば、その力を与えられるのはセイヴァン国王その人だけである。
騎士になるべく選ばれた人間は、王宮の奥深くで身を清め、そして眠りにつく。一月の間、ゆっくりと時間を掛けてその肉体へと、新たな力を浸透させてゆくために。
くわしい方法を知るのはただ、当代の国王と騎士団長のみだ。それ以外の者は、たとえ次代国王である王太子も、そして施術を受ける騎士本人でさえも、教えられることはない。脈々と伝えられる、王家の秘術
――
門外不出であるはずのそれが、しかしこの若者には施されているのだと、老人は言い切る。
そして、若者もまた……否定をしなかった。
視線を床へと落としたその顔に、浮かぶ表情は影となってよく判らない。
「名前なんざ、知らねえよ」
小さく、呟いた。
「四年か、五年か……それぐらい前だ。ガキをかばって妖獣にぶっ殺された、馬鹿野郎がいたんだよ」
「四、五年前か」
老人が記憶を探るようにする。該当しそうな人物を、思い出そうとしているのだろう。
「金目の物でももらってくつもりで、死体に近づいたのさ。そしたら、な」
若者もまた、遠い目をする。
持ち上げた手のひらを見るその瞳は、もっとどこか別の場所、別の時間を映しているようだ。
「……なるほど」
老人はため息をついた。
背もたれに深く身体を預け、肩を落とす。その様子は、ひどく憂いを感じさせた。過去の出来事を哀しむ
―― 否、厭うかのように。
「『セフィア』が、消えるのを怖れたのだろうな。だからそば近くに来た、お前の身体に宿ったのだ」
「そんなつもりは、なかったんだけどよ」
まるでセフィアールの力それ自体が、意志を持つかのように語る老人に、若者もまたそれが自明のことなのか、ごく自然に受け答える。
「お前の身体は」
老人は一度言葉を切り、目の前に立つ若者をまじまじと見上げた。
それはどこか、苦しげな表情で。
「『セフィア』と、ひどく、相性がいい。……むしろ良すぎるほどに、な」
「ああ」
「だからこそ、お前は騎士団に入らなければならんのだ。お前の力は誰よりも強いだろう。お前は誰よりも多くの民達を護ることができる。だが……だからこそ、その力ゆえに、お前は……」
と、言葉の半ばで、若者は顔をしかめた。そうして唐突に老人へと背をむける。
それは続きを聞きたくないと言う、明確な意思表示で。再び老人のそばを離れ、窓の方へと向かって歩き始める。
「待 ―― 」
「いったい何を気にしてるんだか知らねえけどよ」
ふと足を止めた若者は、背中越しに声を投げた。首をねじ曲げ、肩越しに老人を振り返る。
薄い唇の一方が上がり、不敵な笑みを形作った。
「俺は、この年になるまで生き延びてきた。その為には盗みもやったし、人だって殺した。手前の命を繋ぐためなら、なんだってしてきたさ。死にたく、なかったからな」
庇護してくれる大人を持たぬ流れ者の子供が、のたれ死ぬことなく成長するには、まっとうな生き方でなどやってはこられなかった。手などとうの昔に汚れきっている。幾度となく地べたを這いずり、泥にまみれるかのような想いを重ね、文字通り腐肉や木の根を囓ってしのいだことさえある。
それでも彼がここまで生き延びたのは、死にたくないという強い意志があったからだった。
こんなところで死んでたまるか、と。
生きて何をやるのかなどと、そんなことは考えなかった。ただただ純粋に、死にたくないと思っていた。
死にたくない。
生きたい。
けして誰に対しても……そして何に対しても、自身を傷つけようとするすべてのものに対して、屈したりしてなるものか、と。全身の力であらがい続けてきた。
だから ――
「俺は何にも殺されたりしない。これまでも、そしてこれからもだ」
断言する。
その姿からたちのぼる、誰よりも強い生気。
それは自らの意志で『生きる』ことを選び続ける者の、どこまでも強い命の輝きだ。
「別に、欲しくて手に入れた力じゃねえが、あるもんは仕方がねえ。それにこいつには命を救われたこともあるからな。その分は、返してやるさ」
だから、破邪騎士にぐらいはなってやろう。命の借りを、命で返すために。
だが、死んでやる気などさらさらない、と。
そうだ。良く覚えておくがいい。自分はあくまで借りを返すために、騎士になって『やる』のだ。したり顔で取り立ててやったなど、ほざかれるのは迷惑極まる。
傲慢な表情で言い放ち、そうして彼は再び歩き出す。扉にではなく、開け放たれた窓へと向かって。
その後ろ姿を呼び止めようとして、老人は呼びかける言葉に迷った。
「 ―― 待て」
何とかそう口にした頃には、彼は既に露台へと足を踏み入れている。
反応してこちらを振り返った立ち姿は、薄い紗幕に遮られ、はっきりとは見てとれなかった。
「なんだよ」
紗幕のはためく音に混じり、素っ気のない声が届く。
「名前、を」
「ぁあ?」
「騎士団に入るのであれば、名簿に登録しなければならん。いつまでも名無しでは、こちらが困る」
「…………」
「第一、呼ぶのに不自由だろうが。お前を、なんと呼べばいい」
「……『俺』を、か?」
「そうだ。『お前を』だ」
「 ―――― 」
紗幕の向こうで、若者はどんな表情をしているのか。
やがて、届いた声はやはり無愛想なそれで。
「考えとくさ」
一瞬強い風が吹き、紗幕が大きな音を立ててひるがえる。
隙間から差し込んだ陽光に、老人は反射的に目を細めた。
数秒後、再び目を開いた時には、すでに露台のどこにも人の姿はなく
――
* * *
新規団員任命書に署名しようとペンを手にしたエドウィネルは、しかしそこに記されている入団者名を確認して、思わず目をしばたたいていた。
「『ロッド=ラグレー』だって?」
懐疑的な口調で読み上げ、書類を持ってきたセフィアール騎士団副団長を見返す。
執務机の向こうに立った初老の騎士は、困惑した表情でうなずいていた。
「このさい本名でなくとも良いから、何か決めろと申したら、そのような名を言い出しまして……」
そう報告する口調は、どこか腹立たしげな苦々しさを含んだものだ。
その名といい姓といい、いまどきどこの田舎者でもまずつけぬだろう、偽名というのもおこがましい取り合わせであった。まったく不真面目にもほどがあるというものである。
国王命令により、平民の身分でありながら特例入団する事になった
件の若者は、正式な叙勲を目前にして、既に幾つもの問題を引き起こしていた。そのひとつが、戸籍の不備であり名前の未定だ。
住所が定まっていないというのはまだ判る。そういったどこの市や街にも登録されていない、流浪の人間というのは
―― 認めがたいことではあったが ――
存在しているものだ。
だが、名前が『無い』とは何ごとか。
名を問えば『無い』と答え、では呼び名はと訊けば『名無し』と答える。ふざけているとしか言いようがなかった。
それでも、生みの親も知らぬような、貧しい出の浮浪児上がりではそう言うこともあろうかと譲歩してやれば、これまたたわけた名前を選びおって。
「やはり、もっと別のものに変えさせましょう」
副団長はそう言って再び書類に手を伸ばした。が、その手の先から、つと書類が遠ざけられる。
「いや、彼がこれだと言うのであれば、これこそが彼の名なのだろう」
「ですが ―― 」
なおも言おうとする副団長を、軽く手を上げて制した。
その目はずっと、任命書へと落とされたままだ。ペンを持った指を唇にあて、ゆっくりとその名を繰り返す。
「ロッド=ラグレー……ロッド、か……」
若葉色の瞳が、何かを思いついたように見開かれた。
「 ―― そう、か」
呟く口元が、やがて小さく微笑みを作る。
「殿下?」
いぶかしげに問いかける副団長の前で、エドウィネルはインクにペンを浸けた。そうして流麗な飾り文字でさらさらと署名していく。
それから、椅子をひいて立ち上がった。
「ど、どちらへ」
「陛下にお会いしてくる」
「は?」
突然の行動に間の抜けた声を上げた副団長へ、署名を終えたばかりの書類を見せた。副団長、騎士団長、王太子の署名が施されたそれは、残すところ国王の決裁を待つばかりである。
「そのようなことは、私が……ッ」
王太子に使い走りの真似などさせられる訳がない。慌てて代わろうとする副団長を身軽にかわし、エドウィネルは軽い足取りで扉へと向かった。
「お訊きしたいこともあるから、ついでだ」
すまないが、そこの片付けを頼む。
そう言って、出したままの筆記具や決裁済みの書類の山を指差す。
* * *
――
その出会いが、果たして偶然だったのか、それとも必然であったのか。
それは、誰にも判らないことであろう。
けれども彼らは出会い、そして同じ場所で時を過ごすことを選んだ。
たとえ全てではないにしろ、それでも互いに知るべきことを、それなりに悟っていながらも
――
そして、
時は、とどまることなく流れ過ぎてゆく……