畳敷きの部屋に、和馬はひとり立ち尽くしていた。
あたりを見わたしてみても、狭い室内には彼の他に誰ひとりとしていない。目に映るのはただ、四方を囲む閉ざされた襖の
面ばかりである。
―― 秋月本家の、奥座敷だ。
と、意識の一部がささやいた。
多くの親族や門下の者を抱える秋月家は、古くからの名門でもあり、それなりに立派な家屋敷を構えている。中には分家として新たな一門を起こしたり、和馬のようにひとりで暮らしていたりする者もいたが、己の術を磨くため、本家で起居を共にし鍛錬に励む人間も多数に及ぶ。
それだけの人数を擁しながら、それでも手狭には感じられないほどの建物だ。兎小屋と蔑称されるような小さな戸建ての住人あたりからすれば、無駄な贅沢だとしか思われないだろう、広座敷なども複数存在していた。
いま和馬がいる六畳ほどしかないこの部屋も、四方の襖を取り払えば、親族全員が一堂に会することも可能な、広大な空間の一部となるはずだった。
ごく自然に歩を進め、襖の合わせ目へと指をかける。特に抵抗することもなく襖はなめらかに敷居を滑った。
踏み込んだ先には、やはり同じような六畳間。
青畳の匂う、閉じた建具で区切られた四角形が現れる。
三歩で横切り、さらに襖を開けた。また六畳。
同じことを数度繰り返したが、そのたび同じ光景が和馬を出迎えた。
いかに広い屋敷とはいえ、当然そこには限りがある。まっすぐ突っ切るように進んでゆけば、すぐに廊下なり庭に面した広縁なり、異なる場所に出られるはずだった。それなのに、まるで同じ所をいつまでも堂々巡りしているかのように、変わらない光景が続く。
ふと思いついて背後をふり返ると、開け放してきたはずの襖は、元通りぴったりと閉ざされていた。そうして身体の向きを変えてしまうと、自分がどちらの方向から来たのか、それさえも判らなくなってしまう。
―― そもそもだ。
脳裏を疑問がよぎった。
なぜ自分はこの座敷にいるのだろう。
カメラマンという副業を持ち、別に部屋を借りて暮らしている和馬は、なにか用事がない限り本家を訪れることはなかった。たいていは仕事を命じられるときと、その報告、あとは折々の行事の際に顔を出す程度だ。
今回の任務の報告は、確かにまだ済ませていなかった。
だがそれならそれで、こんな奥座敷に通される必要はない。もっと居心地の良い小さな部屋で、茶などふるまわれつつ、風使い達の取りまとめを行っている人物や、場合によっては当主その人を相手に話をすればすむはずである。
だいたい和馬には、この屋敷を訪れた覚えそれ自体がなかった。
仕事を終了させた記憶はある。そして帰還する途中だったことも覚えている。
だが ――
なぜ、いつの間にこんな場所に立っているのか。
それがはっきりとしない。
いやそれ以前におかしいのは、今の今までそのあたりを不思議に思わなかった、そのこと自体ではないだろうか。
今も和馬は不審をいだきつつも、それが深刻なものだとは感じていない。ただ、妙だと思っているだけだ。
どうしてここには、他に誰もいないのだろうか、と。
はっきりしているのは、このまま立ち尽くしていても状況は変わらないということだった。だから彼は再び目の前の襖へと腕を伸ばす。
繰り返し目の前に現れる座敷を、繰り返しただ通り抜けてゆく。
行けども行けども変わらない閉ざされた空間は、ひどく息苦しく感じられた。
四方の襖が、畳が床が、圧迫感を持ってのしかかってくるような気さえする。
いつしか進む足が速くなっていた。
引き開ける襖が勢い良く音を立てて柱にぶつかる。
すたん
果たして幾度目に現れた座敷だったか。
なんの前触れもなく、開いた襖のむこうに人影があった。
思わず息を呑み、襖に手をかけたまま立ち止まる。
そこにいたのは女だった。
こちらに背を向けてうつむいているため、どんな顔をしているのかは判らない。
浅縹の小紋染に乱れた長い髪が散り、肩から流れ落ちるようにその横顔を覆っている。
こんな人間が、本家にいただろうか。
ようやく逢うことのできた人物に、しかし和馬は声をかけることもできず立ち尽くした。女もまた、和馬が現れたことになどまるで気づいていないようだ。
彼女はただうずくまり、畳に手をついてなにかを呟いている。
いったいなにを言っているのか。気になった和馬は、意を決して一歩を踏み出した。
きしりと、かすかに鳴る畳を踏みしめ、女に近づいてゆく。
「おい、あんた……」
呼びかける声は、喉に絡むような感触がして、ひどくぎこちないものになった。
伸ばした手がその背に触れる寸前、なぜか止まってしまう。
簾のように覆い被さる黒髪の間から、呻きに似た声が漏れ聞こえてきた。
―― お前など、いなければ。
と。
聞き覚えのあるその言葉に、和馬は目を見開いた。
低く、地の底から湧き出てくるかのような怨嗟の声は、確かに以前耳にしたことのあるそれだった
―― お前なんか、生まれてこなければ良かったのに。
繰り返される、呪詛にも似た呟き。
けして大きくはない、むしろ耳をすまさなければ聞き取ることさえも難しいそれは、しかしどこか背筋を凍らせるような、不気味な力強さをはらみ、執拗に幾度も重ねて吐き出される。
―― お前、なんか。
気がつくと、喉の奥がひりついたように乾いていた。唾を飲もうとした途中で、粘膜が不自然に貼りつく。
これは、何だ。
疑問の念が急速にわき起こってくる。
こんな『もの』が、この屋敷にいるはずがない。
こみ上げてくる強烈な違和感に、思わず一歩足を引いていた。そうして腰を落とし、無意識に身構える。和馬のことなど見もしていない、たった一人の女を相手に、本能が激しい警鐘を鳴らす。
油断なく見すえる和馬の前で、女がゆらりと立ち上がった。
その顔は、相変わらずむこうを向いたままだ。
長い黒髪が背を覆い、腰まで達して揺れている。
「お前なんか」
次の言葉は、妙にはっきりと耳に届いた。
静かに持ち上がった右手に、きらりと光を反射する、銀のナイフ。
見覚えのあるそれに目を奪われた一瞬、和馬の反応が遅れた。
「やめろッ!」
伸ばした手をかいくぐり、細い刃が白い手首へと吸い込まれてゆく。
たちまち吹き出す、鮮血の赤 ――
和馬は大きく踏み込んで、無理矢理ナイフをはたき落としていた。そうして切り裂かれた手首を鷲掴みにする。とにかく止血しなければと、容赦ない力で傷口を握りしめ、もう片方の手でハンカチを探った。
ぱたぱたと音を立てて畳に血が落ちる。掴んだ手のひらの下から、生暖かいものが脈打つようにあふれ出していた。そのぬめるような感触に、背筋がぞっとそそけ立つ。
「いったい、なんだって……ッ」
もがく身体を押さえこもうと下げた目が、ちょうどこちらを向いた女の顔をとらえた。
しかし ――
見えたものを脳が認識するより早く、すっとその顔が近づけられる。
頬にかかる、冷たい吐息の感触。焦点が合わぬほどの間近から、耳元に吹き込まれる、囁き。
「死んでしまえ、お前なんか」
◆ ◇ ◆
右手に鋭い痛みを感じた瞬間、和馬は勢いよくとび起きていた。
布団をはね飛ばすようにして起きあがったその動きに、寝台が悲鳴のような音を立てて軋む。
「……ッ」
荒い呼吸と心臓の鼓動が、うるさく耳についた。
無意識の内に手のひらを引き寄せ、確認するように視線を落とす。薄暗がりの中、浮かび上がる指先はかすかに震えていたけれど、そこにはあのぬるぬるとした感触を持つ、赤い色などどこにも存在してはいなかった。
室内の様子はなじみの薄いものだったが、それでもそこが、日月堂の客用寝室だということは判る。
そうだ、自分は風使いとして命じられた仕事を終えたあと、秋月家へ向かう途中でこの店に立ち寄ったのだった。だからまだ、本家には戻ってなどいなかったし、奥座敷へ通された記憶も持っていなかったのだ。
そう現在の状況を確認する。
夢の中での出来事は、目覚めると同時に急速に薄れ始めていた。
みるみる現実味を失ってゆく夢の記憶を、しかし和馬はどうにか繋ぎ止めようと努力する。
ひどい悪夢だった。
正気であったならば、もっと早くにおかしいと気づいていたであろうことも、なぜか夢の中では当たり前のように感じてしまうという。まさしくその通りだった。
繰り返し尽きることなく現れる同じ光景を、不思議に思いながらもまるで警戒していなかったのが、我ながら信じられない。どう考えても現実ではあり得ない状況だったというのに……
見つめていた手のひらをぱたりと落とし、深々と息を吐く。全身にかいた汗が冷え始めていた。思わずぶるりと身を震わせる。
と ――
突然、すぐそばで何かの動く気配がした。
いまだ夢の影響から脱しきれていなかった和馬は、息を呑み反射的に身構える。
臨戦態勢をとり神経をとぎすましたところに、暗がりの中から生き物の鳴き声が浴びせられた。
ギィイッ
金属をこすり合わせたかのような、不快さを感じさせる軋り声。
尋常な生物が発するとは思えないその叫びに、バサバサとなにか薄いものを振りまわす音が混じる
窓から差し込むうっすらとした光に、異様な形の影が浮かび上がった。痩せこけ背筋の曲がった子供を思わせるシルエットに、重なる
蝙蝠に似た一対の翼 ――
まさしく悪夢の中から抜け出してきたかのようなその姿に、しかし和馬はすぐに警戒を解く。
「なんだ、お前か」
おどかさないでくれと肩を落とす。
和馬が跳び起きた弾みに転がり落ちたのだろう。ソレはじたばたと不器用な動きで、ベッドによじ登ってこようとしていた。和馬は無造作に手を伸ばし、小さな身体を持ち上げてやる。
「どうした、
篝。退屈なのか」
言いながら、わしわしと小さな禿頭を撫でまわす。かなり乱暴な手つきではあったが、ごく慣れた仕草だった。その生き物もまた、目を細めるようにしてそれを甘受している。
たとえるなら小猿サイズの餓鬼に蝙蝠の羽根を生やしたかのような外観のこの仔鬼は、その実、恐ろしげな見た目とは裏腹に、悪戯好きのやんちゃ坊主以外の何者でもなかった。常日頃は腕飾りの勾玉にその身を隠しているのだが、人目を気にせずにすむとなると、姿を現してはいろいろやらかしてくれる。
和馬など、以前車に盛大な落書きをかまされた経験まであった。
ちなみにその時は、和馬が我に返るよりも早く
蛍火 ―― やはり晴明の周囲に出没する異形の一体で、巨大な化け三毛猫 ―― が電光石火の早業で取り押さえ、強烈な猫パンチを食らわせた挙げ句きちんと掃除し終わるまで真後ろで見張り続けていたりしたのだが、それはさておき。
そんな仔鬼は何故だか和馬を気に入っているらしく、彼が日月堂を訪れると、必ず一度はちょっかいを出しにくるのだった。
今回もおおかたそれだろうと踏んだのだが、どうやら違っていたらしい。
分厚い手のひらに撫でられ、心地よさそうにしていた篝が、はたと我に返ったように飛び上がる。そして鉤爪のある小さな両手で、がしりと和馬の手を掴んだ。
ギィッ ギッ
なにかを訴えるように、引っ張りながらしきりに鳴く。
細い鉤爪が食い込んできて、和馬は思わず顔をしかめた。思わず振り解いてよく見ると、小指側の手のひらから甲からにかけて、くっきり歯形が浮かび上がっている。
そういえば、和馬が目を覚ました直接の理由は、右手がひどい痛みを訴えたからだった。
どうやら篝に噛みつかれたのがその原因だったらしい。
「なんだってんだ、いったい……」
悪戯こそ手に負えない篝だったが、それでも誰かを直接傷つけるような真似はこれまでしてこなかった。だからこそ和馬も、苦笑しながらその存在を認めていた訳なのだが。
困惑しつつ見下ろすと、篝は上目遣いになって見返してきた。そうして振り払われた手をおずおずと伸ばし、袖を引く。
どこか叱られた子供めいた仕草に、和馬は思わず再度その頭に手を置いていた。ぽんぽんと軽く二三度撫で、気にするなと態度で示す。
篝は翼を広げ、寝台から飛び降りた。
弾むように数度跳びはね、扉の方へ向かうと、そこで和馬を振り返る。
促すように鳴く、声。
「……来いってのか?」
これにはうなずきが返った。
和馬はふと真剣な面もちになると、素早くはだしの足を絨毯に下ろした。
どうやら篝は、わざわざ和馬を起こしに来たようだった。たとえこの店でなにかが起きたとしても、たいていのことなら客である和馬に知らせることなどなく、晴明やその周囲に付き従う異形達の手で解決されてしまうはずだ。ことに晴明は、他人の手を煩わせることを、ことさら避けようとする所がある。にもかかわらず、眠っていた和馬を呼びに来るとなると ――
どうやらいまだしっかりとは目覚めていなかったらしい自身に、和馬は活を入れるべく大きく息を吸った。
吹き抜けになった店舗部分とは異なり、建物の奥側にある生活空間は、二階建て構造になっている。その二階。吹き抜けに面した手すり付きの廊下から入ったすぐ左手が、和馬が使っていた客用寝室、そして右側に書庫と並んであるのが、晴明の私室の扉だった。
わずかに開いた隙間から、明かりが廊下に漏れ出ている。
「……晴明? 起きてるのか」
部屋を出る前に確認した時計は、既に深夜の三時を示していた。
いつも遅くまで勉強や読書で起きている晴明だったが、さすがにこの時間帯は普通眠っている頃合いである。いったいなにがあったのかと疑問に思いつつ、声を掛ける。
しかし扉の向こうから答えは返らなかった。
薄くとはいえ開いているのだから、聞こえなかったとは考えにくい。
和馬はますます警戒を強め、ノブへと手を伸ばした。中途半端に揺れるドアを、音を立てぬよう静かに押し開ける。
眩しい光が闇に慣れた瞳を刺し、それから内部の状況が目に飛び込んできた。
最初に見えたものに、思わず叫び声を上げる。
「晴明ッ!?」
その一瞬、内部の様子を確認することも忘れ、室内へと踏み込んでいた。
広がり床を覆う、長い黒髪。
風呂上がりだったのだろう、
単衣の寝間着をバスローブのようにまとった晴明が、生乾きの髪を乱したまま床に倒れていた。
その周囲を、異形達がぐるりと取り囲むようにして見下ろしている。
「おい! 晴明っ」
床に膝をつき、横たわったその肩へと手を触れる。
あまりの細さに思わず息を呑んだ和馬は、壊さぬよう加減した力で数度揺すぶった。
ぐらぐらと抵抗なく揺れる身体。
どうやら完全に意識を失っているらしい。
「いったい ―― 」
原因を探そうと視線を巡らせたその先に、光るものをとらえてどきりとする。
力無く投げ出された右の手に、握られたのは銀のナイフ。重なるように落ちたむき出しの左手首に ―― 刻まれた一筋の、赤い、傷。
一瞬、視界が揺らぐのを感じた。
優美さすら感じさせる繊細なデザインのそれは、夢の中の女がふるったものではなかったか。
白く細い手首に潜り込んだ、銀色の刃。
どくどくとあふれ出す、生暖かい鮮血。
腰まで達する長い黒髪を、激しく乱して見上げてきた、その顔は ――
あるいはその顔は、見知らぬ女のものではなく、見慣れたこの、青年の面差しではなかったか。
―― 死んでしまえ、お前なんか。
耳の奥に蘇る、呪詛めいた囁き声。
和馬は大きく
頭を振って、それらのイメージを振り払った。そうして手を伸ばし、そっと倒れた身体を抱き起こす。ぐらりと力無くのけぞる首を二の腕で支え、口元に耳を寄せた。
呼吸があることに、まずは安堵する。
次に手首をとって検分した。ほとんど常に腕飾りで覆われているそこの、内側の柔らかい部分に、くっきりとした赤い筋が刻まれていた。みみず腫れのように盛り上がったそれは、明らかに刃物かなにか鋭いもので切り裂かれた跡だ。
だがそれは、既に治癒した結果の痕跡に過ぎない。
白い肌に痛々しいほど鮮明に浮かび上がってこそいたが、しかし出血などはまったく生じていなかった。
どうやら最悪の事態は免れたようだ。
曰わくつきのナイフに取り込まれ、操られるまま手首を切ったのではないかと、そう危惧していた和馬は、深々と安堵の息をついた。
冷静に考えてみれば、もしそんな事態に陥っていた場合、あたりは血の海と化しているはずだった。和馬の鋭敏な感覚なら、扉を開けるより早く血臭に気づいたことだろう。
それもこれもさっき見た夢が頭にあったせいだった。
思わず舌打ちして、晴明が手にしたままのナイフを見やる。
あんな夢を見たのは、間違いなくそれが原因だった。
夢の中で女が握っていたのは確かにそのナイフだったし、呪うように呟き続けていたのは、夕方店でそれを手にした際、聞こえてきた言葉に他ならなかった。
通常であれば、不吉な品だと聞かされたことが印象に残り、無意識のうちにあんな夢を組み上げてしまったのだと、そう解釈されるのだろう。その可能性もけしてゼロではない。人間とは案外単純なもので、事前に得ていた情報が眠りという半覚醒状態の中、かなり判りやすい形で再構築されたりする。
しかしそれではナイフを拾ったとき、どこからともなく聞こえてきたあの声の説明がつかなかった。和馬は自身の感覚を信じているし、この世には現在常識と呼ばれる科学技術だけでは説明のつかない不可思議な現象が実在していることも、その身をもって知っている。
だから、確信を持って断言するのだ。
あんな夢を見た理由も、いまこうして晴明が意識を失っているのも、理由はそのナイフにあるのだと。
「……いったい、なにがあった」
視線を転じ、周囲で見守っている異形達の方を眺めやる。
彼らはみな一様に恐ろしげな見た目をしていたが、そんな姿なりにそれぞれ気がかりな風情で晴明を取り囲んでいた。和馬を呼びに来た篝も加わり、青年の閉ざされた目蓋を見下ろしている。
順繰りに見やる和馬に、代表して口を開いたのは三つ目を持つ大型の四足獣 ――
由良だった。
「ワカラ、ナイ……ソレ、持ツマ……デ、普通ダッ、タ……」
錆びた響きを持つ、聞き取りにくいしわがれ声。
それでも、人間の言葉と呼べるものを綴ることができるのは、この中で彼一体だけなのだった。あとの者達はほとんどが由良を間に置いて通訳してもらうか、脳裏に直接思念を送り込むことで意志疎通をはかっているのである。
「そんなことは見りゃ判るんだ」
苛立たしく吐き捨てて、和馬は晴明のもう片手を持ち上げた。
意識がないのにも関わらず、しっかり握ったままのペーパーナイフ。
精緻な彫刻も曇りひとつない細い刃も、夕方見たときとなにも変わってはいない。だが柄の部分にはめ込まれた紅い石が、心なしその輝きを深めているように感じられるのは、果たして思いこみからくる気のせいなのだろうか。
片手で気を失った身体を支えたまま、もう片手でナイフを取り上げようとする。だが細い指はしっかりと柄を握りしめていて、下手に引き剥がそうとすれば、逆に傷つけてしまいそうだった。
こんな物をいつまでも持たせておくのは気がかりだったが、かといって怪我をさせては元も子もない。それにこのナイフによって意識が奪われているのであれば、下手に引き離すと、かえってまずいことになる可能性も考えられる。
「 ―― くそッ」
化け物を相手の切ったはったあたりならばともかく、こういった精神的なものが問題となってくるケースを、和馬は至極苦手としていた。それこそこんな場合には、晴明に相談して知恵を借りることも多い。
その晴明当人が昏倒しているのだから、どうしようもなかった。
とにかく、このまま床に放り出しておくのは論外だ。
ナイフを持ったままの手を注意深く腹の上で重ねさせ、膝の後ろに腕を差し込む。
抱き上げた身体は、拍子抜けするほど軽かった。
「おい、誰か布団」
異形達を振り返ると、篝がベッドに飛び上がった。三毛猫の蛍火と協力して、掛け布団をひきはがす。
あらわになったシーツにそっと身体を下ろして、苦しくないよう姿勢を整えてやった。
凪が横から触手を伸ばし、下敷きになりかけた髪を首の一方にまとめる。
まだまだ寒い今の時期、固い床に朝まで倒れてなどいては、確実に体調を崩してしまう。
妖達は、そういった点においてうといところがあった。
首元まで布団を掛けてやり、和馬は難しい表情でその寝顔を見下ろした。
静かに目を閉ざした顔には、なんの表情も浮かんでいない。
苦痛をうかがわせる色はもちろん、喜びや楽しみといった明るい気持ちからくるはずのものも、そこには存在していなかった。
まったくの無表情。
そうしていると、まるでよく出来た人形が横たわっているかのようだった。
穏やかに、あるいは無邪気なほど朗らかに笑顔を浮かべる彼は、同性の和馬でさえ時おり目を引きつけられることがある、魅力的な存在だ。もちろんそこにあるのは、恋愛感情だとかそういった意味合いを持つものではなくて。ただ純粋に見ていて心温まると、もっとそんな表情をさせてやりたいと思わせる、単純な意味での好意だ。
しかし ―― こうしてなんの表情もたたえていない状態を眺めてみると、彼の造作そのものが、とりたてて美しいというわけではないのだと、よく判る。確かにバランスはそれなりにとれているかもしれないが、ただそれだけだ。
特筆するほどはなやかなわけでも、特徴的な魅力を備えているのでもない。まさしく人形の顔。それも生き生きとした感情をうかがわせる、愛玩用のそれではない。どこまでも作り物じみた、没個性の象徴ともいうべきマネキン人形を思わせる。
しばらく黙って寝顔を見下ろしていた和馬だったが、やがて布団の端へと静かに腰を下ろした。その体重を受けてベッドが音を立てて沈む。
「今までにも、こういうことはあったのか」
同じく枕元近くの床に座り込んだ、由良へとそう問いかける。
まるで忠実な大型犬のように眠る晴明を見つめていた鬼獣は、その言葉に反応して和馬を見上げた。
鋭い牙の並ぶ大顎が、縦に一度上下する。
「トキド、キ……」
「ってこた、一度じゃねェのかよ」
なんとなく予想できた答えに、和馬は膝についた腕で頭を抱え込んだ。
不吉な曰わくのつきまとう ―― しかもまがい物などではなく、掛け値なしに本当の危険な因縁を持った品々を、彼は日常的にとり扱っている。本来そうであるべきだった、己を守るすべを身につけた優秀な陰陽師としてではなく、少しばかりの知識と変わった『友人』を持っただけの、
常人でしかないその身で。
いつもいつも、異形達の助けが間に合うとは限らなかったろう。
あるいは彼らの力が及ばない場合とて、あったかもしれない。
だがたとえ危険な品に魂を奪われ昏倒したとしても、この店にはそんな彼を見つけ、介抱し、助けようと尽力してくれる『人間』など、誰ひとり存在していないのだ。
「……で、お前らはいつもこのままにしてるわけか」
非難の響きがこもる問いに、由良は困惑したように首を傾けてみせる。
「……無事、戻ル。イツモ……ソウ……」
彼はこんな目にあっても、いつもきちんと無事に戻ってきていた。
いったいそれが何によるものなのか、異形達にさえ秩序立てた説明はできなかったけれど。それでも常に間近くに存在し、共に時を過ごしている彼らは、誰よりも理解している。
安倍晴明という存在に前にして、彼を傷つけようなどとと考える
妖は、そうそう存在しはしないということを。
他でもない彼ら自身こそが、かの青年の持つ不思議な魅力に惹きつけられているが故に。
それはある意味、妖の存在だけが持つことのできる、どこまでも純粋な信頼のあらわれだったかもしれない。たとえ無理に力など貸さずとも、晴明であればなんとかしてしまうのだから、大丈夫なのだと。人間ではない彼らだからこそ、迷いなく信じることができるのかもしれない。
だが ――
「そういう問題じゃないだろうが」
和馬は苦々しく吐き捨てた。思わず叩きつけた拳がむなしくベッドのスプリングをきしませる。
今までに幾度、こんなことがあったのだろう。
朝までこうして、為すすべもなく放置されていた夜が、いったいどれほど繰り返されてきたのか。
もしも今晩、和馬が泊めてもらわずにいたならば、今宵もまたこれまでにあったそれらの晩と同じように過ぎゆき、そして目覚めた晴明は何事もなかったかのように店を開け、笑顔で客を迎えたのだろうか?
「……ッ」
もっとも苛立たしいのは、たとえ和馬が居合わせていたとしても、まるで打つ手がないのに変わりはないという、その事実だった。
夢の中まで迎えに行くなどといった真似は、どう考えても和馬には不可能だったし、かといって他に有効そうな手だても思いつけない。あるいは知り合いでそういったことを専門にしている術者に連絡を取ってみるのが一番確実なのかもしれなかったが、それにしたところで、まずは夜明けを待った方がいいはずで。
この手の怪異は夜の間だけ効力を発揮するパターンが多いし、由良達の話からも、何事もなく目覚めてくれる可能性が高かった。
どう行動するにしても、まずは朝を迎えてから。それまでできることといえば、ただ異変が生じた場合にすぐ対応できるよう、そばで見守っているぐらいしかない。
無力感が和馬を苛立たせていた。
せっかく自分がこの場に居合わせたというのに、してやれることはなにひとつないのか、と。
なまじまったくの素人ではなく、風使いとしてそれなりに活躍しているという自負と実績を持っているだけに、いっそうのこと焦れったさがつのっていた。
「 ―――― 」
座ったままいらいらと膝を揺らしていた和馬は、ふと、指先になにかが触れたのを感じて視線を落とす。
布団の上でしゃがみ込んだ篝が、おずおずと近づいて見上げてきていた。和馬がそちらを向いたことに気がつき、ギィ? と小さく鳴き声をあげる。
「あ、ああ、なんだ」
問いかけるとさらに近寄ってきて、腕へとしがみつくような姿勢になった。
「だからなに言ってんだか判んねェっての」
小さな身体を持ち上げて、開いた膝の間へと落とし込む。肩のあたりを鷲掴みにするようにして押さえ、ぐりぐりと頭を撫でてやった。
と、太ももにも重みがかかる。見れば巨大な一つ目芋虫、凪が頭を載せてきていた。
「どうした、お前まで」
和馬の握り拳ほどもある巨大な目玉が、瞬きもせずに見上げてくる。
ほとんど眼球しか詰まってないんじゃなかろうかといつも疑ってしまうその頭部も、ぽんぽんと軽く二三度叩くように撫でた。灰白色の皮膚でできた目蓋がゆっくりと下り、じわーっと半眼になる。いつもは器用に動いている口元の触手が、力無く数度揺れた。
「……ああ」
その様子に、和馬もようやく判った。
つまり。
彼らもやはり、不安を感じてはいるのだ、と。
晴明のことを信じてはいるのだけれど、それでもやはり、彼らなりにもどかしいものもあるのだろう。異形の存在であるが故に、人間の身をどんなふうに気遣えば良いのか判断できないぶん、ある意味和馬よりも手をつかねているのかもしれない。
―― そうだ。
だからこそ、篝はわざわざ和馬を起こしに来たのではないか。
抱き起こし柔らかなベッドに寝かせてやるという、そんな発想すらできない彼らは、その代わりとして和馬を呼んだのだろう。彼であれば、なにかできることがあるのではないか、と。
「……たまんねえよなあ」
同意を求めるように言ってみると、ふらりと触手が揺れた。篝が小さく肩をすぼめ、蛍火は一度喉を鳴らす。
そのほかの面々はただ一心に眠る晴明を眺めていた。
「お前ら、さ。晴明のあれ……理由知ってるか」
自分の左手首を示しながら訊くと、異形達は意味が判らないのか、きょとんとした様子を見せたり、あるいは否定の素振りをした。ただ由良だけはちらりと和馬を見上げたのち、なにも言わずに晴明へと視線を戻す。
「そっか」
彼らが知らないというのは予想外だったが、あるいは
妖の存在達にとっては、過去などあまり意味がないのかもしれなかった。
いま現在、晴明がこの店にいて、彼らに対して微笑みかけてくれるのであれば、過去にいったいなにがあったのかなど、どうでもいいことなのかもしれない。
手首の内側に刻まれたあの傷跡を最初に見たとき、和馬はなにか事故によるものだと思い、特に気に止めることなく流してしまっていた。自殺を試みて手首を切る場合、通常はためらい傷と呼ばれる、致命傷には及ばない幾つもの切り跡が重なってつくものである。それがないのだから、なにかのはずみで怪我をして、外聞が悪いから隠しているのだろうと、その程度に思ったのだ。
しかし……
それが真実、自死を目的として失敗した跡なのだと、後に和馬は本人の口から聞かされていた。
私は、必要のない人間でしたから、と。
笑みさえ浮かべながら告げるその様子に、当時の和馬はなにも言うことができなかった。
名門安倍家の嫡男として生を受け、過ごした日々は、果たしてどれほどのプレッシャーを彼に与えていたのだろう。廃嫡を言いわたされるまでの間、責任感の強いこの青 ―― いや少年は、周囲からの期待にこたえようと懸命に努力し続けていたに違いない。
それでもその努力は実ることなく、彼は自ら死ぬことを選ぼうとした。
夢の中で見た、ナイフを振り上げる女を思い出す。
ためらった形跡のないその傷は、やはりあんなふうに、迷いのない手つきでつけられたものだったのだろうか。
「ちゃんと……戻ってこいよ」
篝や凪を撫でていた腕を伸ばし、そっと眠る晴明の額へと置く。
太い指で乱れた前髪を払いのけてやり、そうして和馬は数度その頭を優しく撫でたのだった。