―― わずか、一瞬の出来事だった。
低く鈍い音が、場にいた全員の背筋を凍らせる。
朽ちかけていた太い縄が切れると同時に、ぐらりと大きく傾いた吊り橋。
今まさにそこを渡ろうとしていた青年の、その漆黒の双眸が、大きく開かれるのが見てとれて ――
◆ ◇ ◆
その日、山中の祠を訪れたのは、思いのほか大人数であった。
例によって仕事で深い山に分け入る羽目となった和馬が、その山中で変わった洞窟を見つけたのである。地元では『
入ラズノ山』と称される禁域の森に存在するそこには、壁面にびっしりと文字のようなものが刻まれ、奥には石碑が安置されていた。
幸いにも、和馬の仕事であった行方不明者の捜索は、その場所で解決がついた。三日前に山に入った姿を目撃されていた子供は、その石碑の前で意識を失い倒れていたのだ。しかし子供を発見できたのは、運の良い偶然でしかなかった。なぜならその山の中で、和馬はいっさいの力が使えなかったのである。いや、より正確に言うならば、そこにはまったく風霊が『存在しなかった』のである ――
いないのは風霊ばかりではなかった。
深閑とした森の中、生き物と呼べるものの気配はまるでなく、ただかすかな葉擦れの音が聞こえるばかり。吹く風に精霊の息吹は感じられず、したたるような緑が畏怖をすらはらんでそこに在る。
まさしくここは、生きる者の足踏みを拒む『禁域』なのだ、と。
理屈ではなく感覚で、そう実感させられた。
地元の人々もそれは思い知っているようで、不用意に入り込みはしないとのことだった。だからこそ子供が迷い込んだと判っていてなお、自分達の手で捜索することができずにいたらしい。
故に『専門家』としての活躍を求められた風使いの和馬だったが、あいにくそういった意味での役にはまったく立つことができなかった。かろうじてかつて ―― 昔話と呼べるほど古い過去に ―― 迷い込んで生還した者の残した記録によって洞窟の存在を知り、たまたま最初に確認したそこが『当たり』だったに過ぎない。
あるいはその祠こそが、この土地を禁域たらしめている原因なのか。
行方不明者がそこで発見された事実が、ひとつの証拠とも言えるだろう。
……実際、子供は気を失っていたから良かったが、そこには既に風化しきった数十〜数百年も前のものとおぼしき古い骨が、いくつも散乱していた。明らかに人間のものと判別できる、複数のそれがだ。
かつて同じように迷い込み、そして探されることのないまま放置された人々の亡骸なのだろう。あるいは ―― 探しに来た人間のそれさえ、混じっているのかもしれない。
今さら持ち帰っても騒ぎを起こすだけだろうそれらを、和馬は冥福を祈りつつ、集めて近くの木の根元に埋葬しておいた。そうして改めて祠を眺め ―― 助けを呼ぶことにしたのだ。
壁面や石碑に刻まれた文字は、あいにく和馬には判読できなかった。しかし『これ』がことの原因であるのならば、同じ事件が繰り返されないよう、手を打つ必要があるだろう。ならば解読が必須だが、こんな代物を読みとける人間などそうそういるはずもなく。とりあえず和馬が思いつく中で、手軽に呼び出せそうな相手は一人しかいなかったのである。
そういった事情で、いったん子供を背負って山を下り ―― 当然と言うべきか否か、山中では携帯の電波が届くどころか、本体の作動すらしなかった ―― 助っ人へと連絡を取った時には、もちろん一人だけを呼び出すつもりであったのだが。
なぜか実際に現れたのは、四人もの大人数だった。
すなわち日月堂の店主たる安倍晴明、
心霊治療師の遠野沙也香とその付き人の譲、蜘蛛伯爵こと幸田伴道の面々だ。
晴明は良い。連絡を取った当人だからだ。だが残る三人は何故ついてきたのか。非難の目を向ける和馬に、沙也香は胸を張って答えた。
「だって、面白そうだったんだもん」
たまたま晴明が電話を受けた際に、日月堂へと遊びに来ていたらしい。
純粋な好奇心でついてくることを決めたのだ、と悪びれない彼女に、逆らえる人間などいるはずがなかった。もっとも晴明は、「足がないでしょ? 車出してあげるわ」と言われれば、純粋に感謝して頭を下げるだけだったろう。
そして伴道はというと、まさに出かけようとしている所へいつものごとくお茶をしにやってきて、せっかくだからと便乗してきたという。
……この暇人どもめが。
和馬がそう思ったのかどうかは、彼のためを考えて伏せる。しかしけして歓迎できる心境でなかったのは確かだ。
ともあれ、総勢五名となった一同は、再び禁域へと足を運ぶことになった。
しかしそこでひとつの問題が生じる。
晴明の
腕釧に宿る異形達が、同行できなかったのだ。山へと近づくにつれじょじょに落ち着きを失っていった彼らは、ついに林道の手前でこらえきれなくなり、勾玉から次々と飛び出してしまったのである。
「……やはり、ここには何かが在るようですね」
申し訳なさげに肩を落としている由良や凪らを慰めつつ、晴明はそう口にした。人間である一行には多少空気が違うといった印象しか感じられないが、人ならぬ異形達にとっては何かしら相容れないものが存在するようだ、と。
そうして彼らは、異形達を山の入口へと残し、禁域へと踏み込んでいった。
和馬の案内で細い踏み分け道 ―― 人や生き物が入らない山中に、こんなものが残っていること自体が既に異常だ ―― をたどり、谷にかかる吊り橋を越え、問題の祠へと向かう。
やはり小鳥の声ひとつ聞こえてくることなく、ひっそりと静まりかえった道行きであった。沙也香や伴道もなにか感じるところがあったのか、普段のかしましさを幾分か抑え、言葉少なく足を運んだ。
そうしてたどり着いた祠の様子に、一同は感嘆の息を吐く。
黒い岩で形成された壁面を覆い尽くす、執念深さすら感じさせる文字また文字。奥に鎮座する石碑は、やはり黒い石材を切り出したもので、こちらにはなにも刻まれていない。大きさも膝丈ほどの小さいそれだが、不思議と
威圧感のようなものを発しているように感じられる。
漢字とも崩した平仮名とも、はたまた日本語とも外国語とも判別できない文字を眺める晴明を、みなは期待に満ちた目で見守った。この中でそれらを読み解けそうな人間は、彼しかいなかったからだ。
しかし……
「記されている内容は、あくまで結果でしかありませんね」
理由は、石碑を建てた人間にも判っていなかったようです、と。
一通り目を走らせた晴明は、そんなふうに告げた。
摩耗の兆しすら見えぬ鮮明な刻み目を人差し指でなぞりつつ、重要な部分を抜粋して説明する。
「文字と文章の様式から見て、室町末期あたりのものだと思いますが……その頃すでに、この地は神隠しの多い場所だと認知されていたようです。突然姿を消した人々が、みなこの洞窟で見つかると。また木々が生い茂り水も豊富にあるのに、なぜか生き物がいつかない。ゆえに土地の人々はこの場所を、人の入ってはならぬ神域として畏れ、石碑を建てた。来る途中にあった吊り橋も、当時のもののようですね。……それが未だ朽ちずに残っているとは、やはりなんらかの『力』がここには存在するのでしょう」
だが、それがいったい何に起因するのかは、ここにも書かれていない。おそらく、今となっては誰にも判らないであろう。
「……とりあえず、行方不明者が出たら、まっすぐこの祠へ探しに来れば間違いはないでしょう。そうして一刻も早く、この土地を出ること。人が人の分をわきまえてできることは、それぐらいじゃないでしょうか」
危険はすべからく排除する。不可思議な謎など許さず、すべてを暴き立てようとする。そんな行為は、けして正しい行いなどではないはずだ。
謎は謎のままに。人が踏み込むべきでないことは、そっとそのまま見ぬふりを続ける。それもまたひとつの、
人間とこの世ならぬ存在との付き合い方なのだと。
日々を異形たちと共に暮らす青年は、そう結論して和馬を見上げた。
「 ―― まあ、しゃぁないな」
解こうにも手がかりがない謎を、これ以上つつきまわしたところでどうしようもない。
土地の人々は今でも山には入らぬよう自重しているのだし、もし事が起こったなら探すのはこの祠だと、そう目安がつけられただけで御の字だろう。
行方不明者の捜索として与えられた仕事の報告とするには、充分な成果だ。
頭を掻きつつ礼を言う和馬に、晴明はほっとしたように
微笑った。
あるいは石碑を破壊するとでも言われかねないと思っていたのか。実際、その道を選ぶ術者も多いだろう。異能を持つとはいえ人間である術者にとって、最優先すべきは人の身の安全である。人間に害をもたらす可能性があるものは、見過ごすわけにいかない。そう判断するのがむしろ妥当だ。
しかし和馬もそこは、これまで多くの経験を積んできたベテランだ。……中には不本意なそれも多かったが。ともあれ一元的な視点の危うさを、身に染みて思い知っている。
下手に石碑に手を出して、危険を排除するどころか、かえって封じられていたモノを解放してしまったり、鎮まっている人知を越えた『何か』を怒らせでもしては、それこそ本末転倒だと。そう判断するだけの想像力を彼は持っていた。
「んー、期待した割には、つまんない結果だったわね」
そうぼやく沙也香も、しいてそれ以上ことを荒立てろとは言わない。その点、彼女もわきまえた人物だった。
「せっかくこんなとこまで来たんだし、帰りはどっか温泉でも寄ってく?」
あ、もちろん晴明は和馬の奢りでね。
そんなことを話しつつ、一行は帰途へついた。念のため、並んで石碑に手を合わせることだけはしておく。
それでも帰り道では、来る時ほどの緊張感は失せていた。互いに軽口を叩き、時に朗らかな笑い声など上げながら歩を進める。
―― あるいはそれが、『何か』の気にでも障ったのだろうか。
禁域と呼ばれるその土地で、畏れを忘れ、注意を怠ったのがまずかったのかもしれない。
ここはあくまで、得体の知れぬ『何か』に支配された、『入ラズノ山』であったのに。
来るときには一歩一歩注意を払い、おそるおそる渡った谷間にかかる吊り橋も、帰りにはかなり気軽に板を踏んでいた。古いとはいえ、数百年もの長きにわたりそこにあり続けた橋だ。行きは大丈夫だったのだから、帰りも問題はないだろうという油断があった。
それでも危険を考え一人ずつ渡り、あとは晴明のみが残される。
両脇の綱を両手で握り、ギシギシと軋む音をたてながらゆっくり歩を運んでいく。そうして、目もくらむような深い谷間の、ちょうど真上に達した時だった。
それは、わずか一瞬の出来事。
低く鈍い音が、既にこちらの岸で見守っていた全員の、背筋を冷たく凍らせた。
人の腕ほどもあった太い縄が、ぶちぶちと繊維をはみ出させながら千切れとぶ。それに伴い吊り橋が激しく揺れ、斜めに傾いた。
沙也香が甲高い悲鳴を上げる。
「 ―― 晴明どのッ!!」
青ざめた伴道がその名を叫んだ。
一方の綱が切れ横倒しになった吊り橋の上で、晴明はかろうじて片手で残る綱を掴み、身体を支えていた。不安定に揺れる踏み板はもはや足場の役を果たさず、ほぼ宙づりの状態だ。
譲がとっさに助けに走ろうとしたが、これ以上の荷重を残った部分にかけることは、自殺行為に等しかった。
「なにしてる! 由良! けい……ッ!?」
常に晴明を守っている異形達に呼びかけようとして、和馬は思わず絶句した。そうだ、彼らはいないのだ。禁域であるこの地に入ることができず、すべて山の入口に置いてきてしまっていたのだ。
そうして、和馬の風もまた。
風霊がいないこの土地で、風は彼の意を汲んではくれない。その流れを読みとることも、願いを乗せ操ることも、ここではできないのだ。
事態を悟り真っ青になる一同の前で、晴明が手元を見ていた顔を動かした。
ゆらゆらと頼りなく揺れる橋の真ん中から、為す術もなくうろたえている一同を見やる。
その、表情は。
確かめるようにみなの様子を眺め、それから足の下にあるはるかな高みへと視線を落とし。
そうして ――
乱れた髪の合間。
白い面差しの中で、薄い唇の端が、ゆっくりと上がった。
しっかりと、縄を握る手はそのままだった。
己の体重を支えるだけの、指の力はそのままに。
けれどじわじわと細くなりつつある残りの綱へと向けられた黒瞳に浮かんでいたのは、けして切れるなという懇願の色ではなく。
むしろそこに宿っていたのは……
誰もが悲鳴をあげた次の瞬間。
無情な音をたてて、力を使い果たすように、綱が切れた。
さながら
大蛇のごとく波打ちながら、吊り橋は晴明の身体ごと、谷間の深淵へと吸い込まれてゆく ――
◆ ◇ ◆
地面に横たえられた細い身体が、ぴくりとかすかに動いた。
やがて、血の気を失った頬に影を落とす、漆黒の睫毛がゆっくりと持ちあげられる。
しばらくの間、いぶかしむような表情を浮かべていた晴明は、やがて数度目をしばたたくと、のぞき込んでくる一同を見つめ返した。
それから無意識のうちにだろう、身体を起こそうとして左肩を押さえる。
「 ―― ッ」
苦痛を噛み殺す呻きに、沙也香がほぅとため息を落とす。
「……肩と肘が脱臼してたわ。一応はめたけど、筋を痛めてるからしばらくは動かさないようにね」
そう言って、譲に合図する。それを受けて譲は常備している三角巾を取り出し、腕を吊ることができるよう準備を始めた。
「いったい、どうして……」
自分は谷底に落ちたはずなのに、と困惑したように呟く晴明に、伴道が得意げに右手を差し出す。拳を握って甲を上にしたその手首には、毛むくじゃらの巨大な黒蜘蛛が乗っていた。
「松代のお手柄だ!」
満面の笑顔で宣言する。
誰もが手をこまねいていたあの瞬間、蜘蛛伯爵と呼ばれるこの男だけが行動に出ていたのだ。正確には、彼に付き従う蜘蛛の一匹だけが。
伴道の袖の中から残された方の綱へと素早く取りついた大蜘蛛 ―― 松代は、誰の目にも留まらぬ速度で綱の上を駆け、晴明のもとへとたどり着いた。そうして彼の腕から上半身へかけて、その糸を幾重にも巻きつけていたのである。
糸の逆端は、吊り橋の基礎である丸太へと繋がっていた。人の目にはほとんど捕らえられぬ透明な細い糸だったが、その強靱さは彼らを知る誰もが認める折り紙つきだ。かくして晴明の身体は、文字通り一本の蜘蛛の糸によって繋ぎ止められたのだった。
落下中に晴明が意識を失っていたこともあり、負傷こそ免れられなかったものの、あくまでそれも軽傷の範囲内。まさにお手柄の一言に尽きた。
晴明を囲む一同の表情は明るい。
綱が切れたあの瞬間の、凍りついたような雰囲気とは対照的に、口々に伯爵とその蜘蛛を褒めそやしている。
「っていうか、その蜘蛛、いちおう普通の生き物の範疇だったんだな……」
よくもまあ、禁域に臆することなく、ここまでついてきていたものだ、と。
和馬が小声でつっこみを入れている。どこから見ても蜘蛛の常識から外れている伯爵の『娘』達だったが、それでも晴明のところの雑鬼達ほど異常ではなかったということか。
もっとも生き物の寄りつかぬ禁域にも臆さず同行してきたあたりは、尋常の野性動物よりも度胸があるようだったが。
そうこう言葉を交わしている間にも、沙也香はてきぱきと横になったままの晴明に質問を投げかけ、他に痛む箇所はないかなどと訊いては、治療にいそしんでいる。
しかし晴明の反応は、どこか鈍いものだった。
沙也香の問いにはきちんと答えているのだが、持ちあげた手のひらへと視線を落とし、ゆっくりと開閉しているその様子は、とても九死に一生を得た喜びを感じているようには見受けられない。
まだ実感がわいていないと言うよりも、むしろそれは……
「 ―― 晴明?」
和馬の呼びかけに応じて上げられた、その瞳に浮かんだ色は。
思わず和馬は舌打ちを洩らしていた。
吊り橋の縄が切れ、今にも落下しそうになったあの瞬間。
晴明が見せた、その笑みが思い出される。
そうだ、あれは確かに微笑みだった。
正しくいま、自分は死のうとしている。そのことをはっきりと悟った上で、無意識のうちにたたえた、それは ―― 明らかに歓喜の表情であった。
そしていま、和馬を見上げる彼が浮かべているのは。
……落胆。
それ以外の何物でもなかった。
これまでの付き合いで、和馬にはそれが理解できる。
この青年が、その腕釧の下に何を隠しているのか、彼は知っていたから。その心の奥底で己の死を望んでいたと、その口からはっきり聞かされたことがあるから。
しかし ――
和馬は低い声で晴明に問いかけた。
「お前は……死ぬ訳にはいかないんじゃなかったのか」
唐突なその言葉に、他の面々が驚いたような顔を向けてくる。
だが和馬はまっすぐに晴明を見すえていた。
厳しい光をたたえたその瞳を、晴明もまたそらすことなく受け止める。
「……はい」
かつて自身で口にしたその言葉を、はっきりと肯定する。
「弟と約束したって言ってたよな」
「ええ」
死んではいけない。少なくとも、自ら死ぬことを目的として、その道を選ぶことは許さない。
それが晴明とその弟、清明との間で交わされた、命を懸けた約定だった。
もしもそれを破ったならば、失われるのは弟の命。安倍家を背負って立つ、第四十九代当主のその命だ。他者を、そして安倍家を大切に思う晴明にとっては、絶対に破ることのできない約束である。
「だったら!」
和馬が声を荒げる。
自らの死を目前にして、あんな嬉しそうな顔をするだなどと。
まして命が助かったからと、失望するだなんて。そんなことが許されるのか、と。
しかし晴明の声音は、凪いだように静かなものだった。
「……自分で死んだら許さないって、そう言われたんです」
「あ?」
「死に急ぐような真似をしたら、あとを追ってやるって」
乾いた、感情の色のない、淡々と事実を告げる言葉。
自分で死ぬことは許されない。
もしも自殺したならば、弟は即座にそれと悟って後を追ってくるだろう。
だから、自分で死ぬことはできない。
けれど、不可抗力ならば?
たとえば誰かに殺されれば、手を下した相手は殺人者として罪に問われる。
また事故にあったとしても、そこに加害者が存在すれば、やはりその人物にはそれなりの迷惑がかかってしまう。
けれど、本当にどうしようもない、不慮の事故だったならばどうだろう?
自分も周囲の人々も、助かろう助けようと手を尽くし、尽くしてそれでもなお、避けようがなかった。そんな不可避の事故だったならば?
それならば、許されるのではないだろうか。
弟も、諦めてくれるのではないだろうか。
ずっと、そんなふうに考えていた。
だからあの瞬間、とっさに思ってしまったのだ。
ああ、これならば、と ――
思わず怒鳴りつけかけた和馬を制したのは、黙ってやりとりを聞いていた沙也香だった。
心霊治療師として、患者を癒すことを職業とする彼女は、静かな口調で晴明へと問いかける。
「あなた、死にたいの?」
「はい」
「なんで」
「私の存在は、本家の迷惑となるんです。……禍根の種となるのも、叔父上がたに疎まれているのも……もう、嫌なんです」
誰にも迷惑をかけることなく、この世から消えてなくなりたい。
目蓋を伏せ、今にも消え入りそうな声で呟く晴明に、沙也香はばっさりと。
「無理ね」
断言した。
「もしも今あなたが死んだら、誰が死体を始末すると思ってるの? 葬儀の手配や、日月堂の今後は?」
次々とたたみかける。
「この先だって、いくつも取引の予定が詰まってるんでしょ。ドタキャンなんて、迷惑以外の何物でもないわよ?」
それぐらいあなたにも判ってるんでしょ、と確認する。
その通りなのだろう。晴明は持ちあげた手の甲で目元を覆うと、小さく頷いた。
「それにね」
沙也香は一度言葉を切ると、晴明の手をとり、露わになった両目をのぞき込んだ。ぱっちりとした明るい栗色の瞳が、しっかりと漆黒の双眸を捉える。
「あなたが死んだら、私は悲しいわ」
「え ―― ?」
思いもしなかったことを言われたという風情で、晴明は沙也香を見返した。
驚愕の色を見せるその姿に、慌てたように、伴道が名乗りを上げる。
「私もだぞ!」
「私もですよ」
続けて譲もうなずき、最後に和馬がため息混じりに締めた。
「俺もだ。……ついでに言うなら、あいつらも忘れるなよ」
そう言って、禁域の外に置いてきた異形達の存在を思い出させる。
晴明はゆるゆるとかぶりを振った。
「……彼らは
妖です。人間よりも長く生きるのが当たり前ですし、過去にはとらわれない。私など、いなくなっても……」
「悲しまないとか言ったら、あいつら怒るぞ」
本当に、この青年はどうしてこうも自分のことが判っていないのだろう。どれほど彼らから慕われているのか、あれほど態度にも出ていて、説明もしてやっているのに、まだ理解できていないらしい。
「だいたいだ ―― 」
日月堂に次の陰陽師が来たら、確実に彼らは追われるだろう。それどころか、下手をすれば殺される。店内に飾ってある曰くつきの品の数々も、再び封じられ倉庫にしまい込まれるはずだ。
曰くつきの品を管理する店の主として就任する陰陽師にとって、それは当然の責務であり行動だ。
だから、
「あいつらを受け入れて、日月堂の店主になった時点で、お前には『責任』ができたんだよ」
店を守り、彼らの居場所を守るという責任が。
「いい? そもそも、誰かが誰かと関わっていれば、そこには必ず
縁が生じるわ。死んでも誰も悲しまないなんて、そんな人間はまずいない。一人部屋に閉じ籠もって、外部とまったく接触しないとか、よっぽど悪行の限りを尽くして、まわり全部から憎まれてるとかならともかく ―― 」
そんなこと、あなたには絶対に無理でしょう?
沙也香の言葉に、晴明は苦しげに呻いた。
「でも、私は……叔父上に……」
「まあね、あなたにもいろいろあったんだろうし、全くこだわるなとは言わないわ」
ため息をひとつ。訴えの一部は肯定して、しかしと沙也香は続ける。
「ただ、これだけは覚えておいて」
以前はどうだったか知らないけれど。
けれどいまのあなたは、良い意味でも悪い意味でも、けして『ひとり』ではないのだと。
一言一言を噛みしめるようにして、そんなふうに言い聞かせる。
「って言うか、正直妬けるわね」
あなたにそこまでこだわりを抱かせる、その『叔父上』とやらに……
最後の小さな呟きは、場にいる全ての人間に共通するものだった。
そして、晴明は。
はたしてその言葉に心を動かされたのか、どうなのか。
再び両目を右手で覆った彼は、細く、小さく、震える息を長く吐いたのだった。
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