篇中主なる人物
○和 津
[#「和 津」は底本では「私 津」]……休職軍人 Watson.
○本田宗六……探偵家 Sherlock Holmes.
○棚橋常二……地主 John Tuener.
○仝 花子……常二の一人娘 Alice Tuener.
○卷山金八……小作人 Charles McCarthy.
○仝 善二……金八の一人息子 James McCarthy.
○虎 澤……刑事探偵官 Lestrade.
This our life――
Finds tongues in trees, books in the running brooks,
Sermons in stones and good in every thing.
―Shakespeare.
石も木も細谷川の水までも
まことの道のしるべとぞなる
シエクスピア
(一)ある朝妻と飯を
喰つて居ると下女が電報を持つて來た、電報は本田宗六からで文句は左の通りであつた、
「二三日の
暇なきや、保須谷慘事につき只今西國より電報あり、御
伴出來ば
幸甚、彼所は氣候風景
倶に佳絶、十一時十五分蜂澤出發」
(二)妻は
食卓越に
俺を見て
「如何で御座います、御
出ては」
「如何したものかね、隨分今は患者が澤山で‥‥」
「そりあ
貴夫、朝吉が代診しますものそれに近來御氣分の
爲か御顏が
蒼白ですよ、少しは轉地も御
身體のために、それに本田さんの事件には何時も御熱心ぢや御座いませんか」
「そうさ
俺も
先達の本田の件では
得も仕たから今更冷淡に成つては
濟まんな、然し往くとすれば
既三十分しか無い、直に荷作を仕なくばなるまい」
俺は
アフガニスタンで野營生活もした
經驗があるから旅立と來ては素早いものだ、需用品は
少數で簡單で足りるから三十分も
費らないに早や
鞄を携へて蜂澤停車場へと馬車を走らせた
停車場へ着いて見ると本田宗六が
昇降場で
彼方此方歩き
廻つて居る、本田は元來
丈高で
痩形だが、今日は長い、旅行外套を着流し鳥打帽を
緊固と冠ぶつて居るので格別
娉として見える、
(四)「いや、和津
估來て呉れた、君が居て呉れりあ大部救かる、御
庇蔭で安心だ、どうも地方へいくとな世話を見て
貰つても兎角
碌でもないし
偏頗が在つたりして面白くないからな、まあ、僕が切符を買つて來るから
座席を二人分取つて置いて呉れ」
客室に乘り込むと吾等兩人の
他に乘合人がないので余程
悠然だつた、只本田が持つて來た澤山の新聞が散らかつて場を塞げて居るだけだ、本田は此新聞の中から何か搜し出して讀んでは書き取つたり考へたりして居ると間もなく
文見驛も
經過る、すると
直に彼は新聞を
皆丸めて
束にして
網棚の上へスパツと
放り上げた。
(五)本田先づ口を
啓いて
「君、今度の事件を知つて居るか」
「いや、
寸毫も知らぬ、もう
近日では新聞なんか一つも見んからね」
「倫敦新聞には委細は載つて居らんよ、僕は詳しく知りたいからね近頃の新聞を殘らず目を通したんだが今度の事件も、
矢張簡單で面倒らしいよ」
「簡單で面倒とは
奇説だねえ」
「然し全くの所だ不思議な事があればそれが
何時手蔓になるのだ、だから簡單ほど面倒といふのだ、
左も
右も
[#「左も右も」は底本では「左と右も」]今度の事件といふのは隨分重大なんで
親爺が殺されて
息子が
故殺者といふ嫌疑だのさ」
「では人
レ殺犯だねえ」
「まづ
左樣いふ憶測ぢあ、然し僕は承知しない、未だ自分で徃つて
驗べないんだからな、ともかく僕の知つとる
丈の事情を話さう
極簡單に
(七)保須谷は平戸郡に在つて露須街から程遠からぬ偏僻な地で其界隈
極つての大地主は棚橋常二といふので此人は
前年オーストラリアで金を儲けて先年英吉利に歸つたのだ、平澤に所有の畠
一を卷山金八といふ
同樣豪州歸りの人に小作させて置いたのさ、この棚橋と卷山とは
オーストラリア時代からの
知己であつたんだからその程近く所帶を持つたのも其
理で棚橋は地主、卷山は小作といふ差別こそあれ、兩人の間柄は極めて平等主義で平生互に上下なく交際して居つたんだ
(八)卷山に
只一人の息子がある本年取つて十八、棚橋には一人の娘がある、これも
同然十八、卷山、棚橋共に妻を
失して今は
寡夫住い、兩人共、近所の家とは交際を避けて隱遁生活を仕て居たらしい、然し卷山は勝負事が好きと見え往々そこらあたりに競馬でもあれば出て行つて見るといふ風で
家庭は下男下女それに娘と自分で四人暮し、棚橋の方は家族は大勢、少なくも六人暮し位であつた、兩人の家族に關して僕の知つてる事は先づ
是丈、それから事件の眞相は
恁だ
(九)六月三日(月曜日)の事だつた、卷山は午後三時頃平澤の家を出て保須池まで下つて往つた、此池は保須谷を流れ
下る川が擴がつて出來た小さい湖水である、其朝卷山は下男を
連れて露須町へ赴いたが三時に重大な約束が在るから急がしいと云つて別れて保須池へ下つたのだがそれッきり生きて
還らなかつた、
(一〇)平澤の
家から保須池までの
路程は凡そ三町半此間を通る時二人の者が卷山を見たといふ、一人は
老媼で名前は出て居ない、
他一人は黒田宇作といふ棚橋家に
傭はれて居る男で、兩人ともに卷山が獨りで歩いて居たと云つて居る、宇作はそれに言ひ
加て「卷山を見てから二三分
經てから卷山の息子が小銃を脇に抱へて同じ方へ行くのを見たが今考へて見ると其時同時に卷山も見えて息子が
後を
跟けて行く
[#「跟けて行く」は底本では「跟て行く」]らしかつた、夫れッ切り其事は
毫も思はなかつたが、その日の夕方にあの人殺を聞いた」と云つて居る、
(一一)宇作は夫れ切り卷山親子を見なかつたが其後
再一人の娘が見たんだ、差詰この保須池といふのは茂つた森で取り卷かれて居て
水端には草や
蘆で
縁を取つた樣になつて居る、森山さだ子といふ門番の娘、本年十四歳といふのがその池の端の森で花を採つて居たのだ、此娘兒の云ふには卷山親子は森
外れの
水端で
烈く
爭論て
親父さんの方は
酷い言葉使ひで息子さんの方は手を振り上げて今にも
擲るといふ
爲體を見て、
(一二)
驚愕して
逃げ歸つて母に告げた「あの卷山の御
父さんと息子さんで保須池の端で喧嘩して居ましたよ、今にも
格鬪ふかも知れませんよ」と云つて居ると息子が
驅て來て「救けて呉れ森に親爺が死んで居る」と
激動て云ふ見れば鐵砲も帽子も持つて居ない、右の手と
袖の所とは
鮮血で
汚れて居る、
(一三)息子の後を
跟いて往つて見ると
親爺の死體が水端の草の上に大の字
形に伸びて居る、頭には何か
鈍い刄物で撃たれた樣な
凹い
傷痕が所々にある如何にも息子の鐵砲の銃床で撃たれた樣でその鐵砲は屍骸の二三歩
傍に横はつて居る、
恁ういふ事情であるから息子は直に拘引されて今週火曜日訊問の結果「故殺」といふ申渡しを受け翌水曜日彼は露須町の裁判所へ引渡され次回の公判には
愈吟味さるゝのだ、先づ大概此位の事が檢事と警察には知れて居るのさ」
(一四)
俺は云ふた、
「君そりや
有罪に
定つて居るさ、
甚麼證據が擧つたつてそれ程
明白な
罪收があるものか」
本田は深く考へ込んだ風で
「證據なんてえ物は隨分如何がわしいものだぜ、一つの證據を
掴まへて見て明白に有罪に
違ないと思はれても
鳥渡觀察面を變へて
察れば
全然無罪といふ樣な事があるからな、
左も
右、今度の事件は
余程面倒だ
如何も息子が有罪らしい、
然亦あの近所に無罪を主張する者もあるんだあの棚橋の孃なんぞも、その
方で
何所までも無罪にして遣つて見せるッて
力んで虎澤――それあの驗血探偵事件で覺えて居るだろ――あの虎澤に
頼んだんだ、
(一五)然し虎澤も是には隨分
手古摺と見えて僕に
依頼のさ、だから君、
恁いふ風に大急ぎの汽車旅行といふ騷ぎになつたんだ、
朝飯も
緩然喰ねえで
恁うして一時間五十哩の飛脚に乘つて西國巡禮と
洒落[#ルビの「しやれ」は底本では「しやけ」]るんだから隨分
急々しいね、これも虎澤に頼まれたからさ」
「事實が明り
極つて居るで君も今度の件ぢあ余り目
覺しい
手柄は出來まいて」
本田「いや
明り
極つた事實に
極詐され易いのだ、して虎澤には未だ知れない、明白な事實があるかも知れんよ、それに運よく
的中れば
占めたものだ、君も僕の
伎倆を知つて居て呉れるから
誇張とは思ふまいが僕は
此種事件にかけては遙かに虎澤の
上手だぜ、隨分
突飛な
手段で虎澤の説を
正いとも
誤とも
宣告て見せるが是は彼には出來る藝ぢあない、てんで
解らないんだ、差當り
一つやつて見やうか、よし、君の身の上の探偵を仕やう、君の
寢室には向つて右側に窓があるね、こりや、知れた事だ、虎澤にはこんな事でも知れまいて」
(一六)「
如何して――?
「だつて君、僕は君を
詳く知つて居るさ、君の
扮裝は
平素清楚で軍隊的だよ、君は毎朝
髭を
剃るね、
今時期は朝日で
剃るんだろ、うん、そうだろ、
左の方へ
往く程
剃り樣が
杜撰だぜ、
左頤から
頸へ
亘ては
極しだらが無いぜそれは無論右から受ける光線が左へ及ばぬ證據だ、君の樣な几帳面な人が正面から光線を受けてそんな剃方ぢあ
迚も滿足が出來ない筈だ、まあ是は僕の觀察力の
些した一例さ、これが差詰僕の
十八番で今度の事件にも此筆法で遣つて往けば
幾程か役に立つだろうよ、それから審問の時に
明つた一二の
些とした事實があるこれも參考にすべきだ」
(一七)「そりあ何だい?」
本田「息子が拘引されたのは其場ではなくて平澤へ歸つてからだ巡査が息子に向つて「其方は監獄へ行くんだぞ」と告げると平氣で「左樣でしやう、
當然です」と濟まして居たといふので豫審判事は確かに彼が犯罪者であると思つたのだ」
「夫れは罪を自白したといふものだ」
本田「
否、
左樣ぢあない、夫れから續いて無罪の申立を仕たから」
「變だね、それ程までに、有罪の證據が擧つて居る揚句に「左樣でしやう」なんて云ふ言草ぢあ
愈以て疑しいね」
(一八)本田「いや、それこそ本當に
闇夜に提灯といふもので、それから段々明かつて來るのだ、
例彼が殺したでないにしろ
滿更馬鹿ぢああるまいし、いくら何だつて
四圍の事情で疑はれる位な事は知つて居る
筈、いざ拘引といふ
段に
喫驚して見せたり
怒つて見せたりしちあそれこそ疑はざるを得んのだ、
其麼事をしちあ全體境遇から考へて見ても無理ぢあないか、然し深い
畫策でもありあ
好興で
爲るかも知れん、「左樣でしよう」と
濟まして居たのを
察れば彼は潔白の身であるに違ない、左もなけりあ
餘程圖太根性の奴に違いない、
(一九)それから「當然です」と云つた事だ、是あ、何も當然ぢあないか、彼は父の屍體を
眼前に控へて突立つて居たんだし、子たるものゝ本分を忘れて親爺と
爭論た揚句手を振り上げて
毆る風まで仕たんだもの、その手を揚げたといふのは門番の娘が云ふたので聞捨てならぬ
件だ「當然です」といふ中には親不孝をして惡かつたと云ふ後悔の意味も含まれて居るから馬鹿でも
犯人でも何でもない、正氣の者だと思はれるのだ」
是迄聞いて
俺は首を振つて返問した、
「君、今迄もつと僅かな證據で首を切られたものが
幾らもあるぜ」
「
左樣さ、そりあ、無實の刑といふものが澤山だからね」
「息子は此件に就いて何といつて居る?」
(二〇)「うー、どうも、云ひ樣が面白くないのさ、
夫故、無罪論者も大部閉口しとるんだ、只一つ二つ
一寸氣の聞いた
言を云つて居るんだ、
先是を見給へ君獨りで讀んで見給へ」
といふて、本田は
束の中から平戸地方發行の一新聞を取り出し
疊み
直して
爰に息子の
申立の文句があると云うて一節を指示して呉れた、
俺は客車の
角に腰を落着かせて注意して讀むと
恁だ
○「依つて直に被害者唯一の遺子卷山善二氏は
召され左の通り申立てたり
「拙者は
鰤巣に趣き三日間不在なりき、去る三日(即ち月曜日)の朝歸宅せり、愚父は拙者歸宅の當時
同然不在なりき、馬丁熊田八重吉と露須方面に向へりと家婢より聞き及べり
(二一)歸宅後少時にして拙者は馬車の
響を耳にしたり由つて窓外を見しに愚父は馬車より下り卒然庭園外に出て往けり如何なる方向に向へりや拙者は知らず、拙者は小銃を手にし保須池方面に向へり、そは池の先方に位する家兎飼育場に至らん爲なり、途中家兎飼育場番人黒田宇作に遭へり此事實は宇作が申立て中にもあり然れども拙者が愚父に
跟從て行けりとの申立は誤てり當時拙者は愚父が前方に在るや否や毫も知らざりき、池を離る凡そ六十間の所に到りし時拙者は「
クイー」といふ※
[#「口+斗」、U+544C、15-4]聲を耳にせり「
クイー」とは愚父と拙者との間に常に用ゐられたる信號なり、
(二二)拙者は急ぎ歩を捗めし時愚父は池畔に
佇み拙者を見て驚ける風なりしが憤然として何用ありやと拙者に
訊へり是より兩人の對話となり、爭論となり、殆ど格鬪に及べり、本來愚父は短氣の性なればなり、父の怒氣制し難きを知りて拙者は其場を去りて平澤方向に還らんとし凡そ一町程進みし時後方に悲鳴の
揚るを耳にし驚きて走り歸りし時愚父は重傷を負ひて地上に臥し將に絶命せんとするを見驚きて携へし小銃を捨て、双手を以て父を抱きしが父は直時絶命せり
(二三)拙者は數分時屍體の傍に跪坐せし後
最近の門番の家に至り補助を乞へり、拙者は歸りし時、父の傍に何人をも見受けざりき故にその負傷は何故なりしか知らず父は本來無愛嬌の人なれば人望を博せし事もなかりしが亦害を加ふる程の敵をも有せざりき、と記憶す、
以上拙者は本件に關し知る所を云ひ盡したり
檢事「其方の父は死際に其方に向つて何か云つたか?」
被告「
少しもぐ/\云ふた樣で御座りましたけれども私には何の事やら分りませんでした、只
ラツト(鼠)の事か何か云はれた樣に存じます」
檢「其方は夫れを何と解釋したか?」
(二四)被「一向何の意味だか分りませんでした、氣でも
狂つて居るのだろと思ひました」
檢「其方が父と爭論したのは何事に關してであるか」
被「それには御答は申し上げ兼ます」
檢「是非とも答へて貰ひたい」
被「本當に御答が出來ません、此事は殺害とは何の關係も御座いません」
檢「關係あるか無いかは當裁判の決する處である、其方若し飽くまで拒んで答へざるに於ては勿論其方の振りに歸するが良いか」
(二五)被「ハイ、何と仰在つても御答は出來ません」
檢「
クイー」といふ※
[#「口+斗」、U+544C、17-8]聲は其方及び其方の父との間の信號であると聞及んだが果して左樣か」
被「ハイ、左樣で御座ります」
檢「然らば其方の父が其方を見ざる内に若かも其方が
鰤須より歸りしを知らざる内に夫れを叫びしは何故であるか」
被(大に當惑の
體で)
「何故か存じません」
豫審判事口を入れ「其方※
[#「口+斗」、U+544C、18-3]聲を聞いて歸つた時父の死に瀕して居るのを見た時疑はしい者でも見なかつたか」
被「別に是れといふ物を見ませんでした」
檢「そんなら
如何樣な者を見たか」
被「其場に驅け付けました時は
胸騷しう御座いまして愚父の事より外は何も考へる餘裕は御座いませんでしたが」
(二六)私が驅けて行きます時に左の方に何か地上に横はつて居た樣な氣が致します、物は何でありましたか能く見ませんでしたが何でも
鼠色の上衣か辨慶縞の
袍衣の樣な氣が致します、私が立ちまして近所を見ました時はそれは
既在りませんでした」
「其方が
補けを求むる爲めに出發せる前それが無くなつたと云ふのか」
「はい左樣で御座ります」
「其れは何物であるか知るか」
「
否存じません只何か在つた樣な氣が致しました」
「屍體から如何程
離たつて居つたか」
「六間位でした」
「森の
端から
如何位離たつて居たか」
「矢張六間位の樣でした」
「若しその物が取り去られたとすれば其方から六間以内の所で取り去られたのだな?」
「左樣存じます、然し私は
後を向けて居たので御座います」
檢事「卷山善二に對する審問はこれで終り」
(二七)讀み了つて俺は其一欄をじろりッと見下し本田に向ひ
「あの檢事は審問の
終結間際に善二に對して
些酷く
訊詰たね、善二の父が善二を見ぬ
先に信號を叫んだ事と善二が會話の詳細を答へなかつた事と死
際の言葉が分らないと云ふた事とは如何にも齟齬の點だが此點を注意したのは
道理の譯だね、これは檢事も云ふた通り善二には隨分不利な點だね」
本田は靜かに打笑つて
臺蒲團の上に
横臥りながら
「君も檢事も善二に利益な點が見付からないで骨が折れる樣だね御苦勞樣だ、よくも
揃つて善二を
考へが深いの淺いのッて
[#「淺いのッて」は底本では「殘いのッて」]彼れ是れ云ふ樣だが
良加減にして呉れ給へ喧嘩の原因は是れ/\だなんて
嘘八百を
烈べ立て得ないッて淺墓だと評したり
死際に鼠(ラツト)を擔ぎ出したり
布物が消えて
了つたといふのを、よくも良心に
耻ぢないでそんな突飛な
嘘が
吐けたものだなんて
左樣湯煮たり冷やしたりするんだから變ぢあないか、僕は
目星の
着所が全く違ふよ、先づ卷山の云ふ事を
信實と見て、假設を
規めてそれからそれへと考へ及ぼして見るのさ、まあ今日はそれだけにして置いて
後は現場へ往つて見てからの事に仕やうや、西原で
飯をやつて二十分ばかりして
着くんだからおいほら
ペトラーク山人の詩集があるぜ是れでも讀まうよ」
(二八)風景佳絶の石垣谷を越え洋々銀を流したらん樣な相梨川を渡り露須町に着いたのは午後の四時頃停車場の
昇降台には
瘠形で
鼠面の(眼小さく兩眼の距離狹い)
狡い樣な男が
歡迎に出て居た、
淡褐色の外套に革製の脚絆を
着いて居るのは山野を
驅廻る用意と見受けられる、これは探偵本部の虎澤であると早速分かつたので倶に馬車を傭うて平戸館といふ旅館に赴いた、此所には
既吾等一行のために部屋が分取つてあつた、
茶を飮んで居ると虎澤が本田に向つて
「僕は馬車を命じて置いた、君は隨分精力家だから一刻も早く現場へ往つて見たいんだろと思つて」
本田「そりや有難い、然し低氣壓の具合は
如何だろ」
(二九)虎澤は驚いた
面相で
「低氣壓に何の用があるか、僕には君の云ふ事が分らん」
「あの晴雨計は如何だい、うん二十九度だね、風も無し、雲も無し、先づ今夜は往かぬが
益だろ、それはそうと僕あ
煙草を一箱持つて來たから、
喫むが良い、此
長椅子は別して具合が良い田舍の
旅人宿にやこんなのは
珍らしい聞いた虎澤は惜氣なく笑つた後
「君は新聞で大低
見當が着いたろ、何しろ今度の件は明白なものだね、考へれば考へる程明白だね、時に君、
某婦人が君に
會たいといふが如何だ勿論會つて呉れるだろな、其婦人といふのは隨分強情なのさ、君の
世評も聞いたので是非會つて意見を伺ひたいと氣張つて居るのさ、君のやる位な事は
乃公も出來るから
止せ/\と何偏云つても聞かないんだが、ほら來たぜ門に馬車の音がする」
(三〇)と云ふを合圖にどッと室内に
驅込だのが素敵の別嬪、
恁麼別嬪は
臍の
緒切つてから初めて見た
[#「初めて見た」は底本では「始めて見た」]、兩眼は
菫菜色で
星の光がある、
開いた口が
牡丹で兩
は
芍藥の
紅、胸が
動悸やら
苦悶やらで
平素の
嬌態も造り兼ねた樣子
「おゝ本田宗六樣」と婦人は吾等三人を
瞥と見て※
[#「口+斗」、U+544C、23-11]女性の
敏捷覺知が利いて
凝と本田を
睨み
据ゑ
「
好くまあ、
入來して下さいました、で今日御禮
旁々參つたので御座います、善二さんからは無論御話しが無かつたでしやうね
妾みんな存じて居ります
詳く御承知の上に盡力願ひます、
何卒御疑なく願ひます、
妾善二さんとは小供の時分からの知り
合であの方の
欠點とてはもう
微塵もありません本當に虫も殺さぬ
温情しい方なんですよ、それにあの嫌疑とは本當に無法ぢあありませんか、誰だつて善二さんの人柄を知つて居りますれば、そんな嫌疑は無法だと思ふんですわ」
(三一)本田「本當です、僕等も是非善二さんを青天白日の身に
爲て
遣りたいんですよ、今後充分に盡力致しますから御安心なさい」
「あの申立を御覽遊ばさいましたか貴方の御意見は如何ですか申立の中に何か言ひ
失ないでも御座いましたか貴方も善二さんを無實だと御思ひでしやうね」
「
如何も無實らしいですな」
「ほら御覽遊ばせ」と棚橋孃は
良反身になつて
輕蔑的に虎澤を睨んで「あれあの通り
頼母敷仰在つて下さるんぢあありませんか」
虎澤は肩をしやくつて
「なあに、本田君は余り早
合點したんですよ」
「だつて、本當ですよ、
妾ちやんと知つて居るんですよ、善二さんは仕ませんよ、あの親父さんとの喧嘩ですなあ、あれに就いては善二さんも檢事樣に何とも申しませんでしたがその筈です、あの
會話の中には妾の事も係はつて居たんですもの」
(三二)本田「如何いふ具合ですか」
「もう恁うなりましては隱すにあ當りませんから申し上げますが實は善二さんと御親父さんとは
妾に關する事で不同意で在らしッたんです御親父さんの方は善二さんと妾を是非結婚させたいといふ思召で御座いましたし、善二さんと妾とは大層御心安くて兄妹といふ
交誼で居りましたけれども何せいあの通りの御
年若で世間の事を御存じ遊ばさらない方で御座いますから
元より結婚なんていふ事は望まなかつたんです、夫れで折々喧嘩なさいました、で此間の爭論も
同然それで御座いませうよ」
本田「
貴孃の御親父樣は如何ですか?賛成の
方ですか」
「
否、
同然不賛成なんです、賛成者は殺された卷山さんだけです」
と云ふと同時に棚橋孃は
卒然鮮な顏を赤める、本田は炯眼を放つて
抉ぐるが如く彼女を睨んで
「色々伺ひまして誠に有難う御座います、明日參つたら御親父樣に會はれませうか」
「どうも六ヶ
敷でしやうよ、御醫者さんが許しますまいよ」
「御醫者さんとは?」
(三三)「まだ御存じないですか
愚父は先年來兎角病勝でしたが夫れに今度の事件で全く弱つて
了いまして只今
臥つて居ります、柳原先生は迚も救からない神經が遣られたと申されます、
ヴイクトリア時代から
馴染にして居ました卷山さんがあゝいふ始末になつたもんですからさぞ……」
「はあ、
ヴイクトリアで之れは大切な
條だ」
「はい
金鑛で」
「なあるほど、あの金鑛で御親父樣は
彼所で金を御
溜なすつたそうですね」
「はい、左樣で御座います」
「何とも有難う御座いましたそれで私も
大部救かります」
(三四)棚橋孃「明日何か新しい
報が伺はれませうか、無論
彼所へ
被行れば善二さんに御遭ひでしやうね、
左樣なされば
妾は
確乎と無實に
相違ないと思つて居ますつて
仰在つて頂戴何分
何卒」
本「はい、承知いたしました」
棚「妾は
直歸らなけりあなりません、父が
斯樣に
危篤ですからそれに妾が居りませぬと淋しがつて居りますから、では左樣なら、何卒よろしく御願ひ致します」といふて彼女は
前度の樣に
周章と
驅拔て出て行く馬車が轟々と
街を下り行く、
少時の後虎澤は
更まつた樣子で本田に向ひ
「おい君は
可厭な男ぢあないか、
駄目だと云つて置けば
良いに、大丈夫ですなんて、僕は
女々しい方ぢあないから大低の事には同情も起さぬが今度だけは可哀相だよ、
後で
必失望させるんだからな可哀相ぢあないか」
「善二を無罪にする道が付いたと思ふんだよ、なにもそんなに、時に君監獄訪問卷を持つとるか」
「うん、だが君と僕と二人分だけ」
「では、
再思ひ
直して
直に出懸る事に仕やうかな、それにしても平戸まで汽車で徃つて今夜善二に面會する時間があるだろか」
虎「あるとも大ありだ」
(三五)本「そんなら徃く事に仕やう、おい和津、
君あ、待遠だろな、けれども二時間ばかりだから
些辛棒して呉れ給へな」
と云はれて
俺は本田、虎澤の兩人を停車場で見送つてそれから露須の
狹い町を端から端まで
逍遙歩いて宿へ歸つた、先づ
長椅子に
横臥つて小説でも讀んで樂まうと黄色い背皮の小説を取つて讀んで見た、
處が其小説の
脚色は如何にも淺薄なもので
迚も目下偵察中の神妙不可思議の事件とは較べやうにならぬので
遂小説よりも
眞物の方に氣を取られ本を室の向側へ放り
抛げ今日の事ばかりを考へて見た、果して、善二の申立てが事實とすれば善二が父に別れた時と再び※
[#「口+斗」、U+544C、30-5]聲を聞いて
森端の現場へ飛び付けた時との
些とした
間隙に
甚麼、
兇惡、突飛な大災があつたのだろ、
必と何か恐ろしい
凄い事があつたに違いない
(三六)一體何事だろ?
傷痕を醫學上から判じたら何か明らないかしら、
俺は直に
呼鈴を鳴らして其地方の週刊新聞を取り寄せて見るに訊問の記事が
全體載つて居る、外科醫の報告によれば左の顱頂骨の
背面へかけて三番目の骨と後頭骨の左半は何か
鈍い
武器で
撃たれた樣に碎けて居るとの事俺は手を自分の頭へ當てて考へて見るに恁ういふ傷は慥か
背面から受けたに違いない、して見ると卷山父子は互に相對して爭論をして居たんだから善二が殺したでなくなるから幾分善二に利益の點だ然し親爺が
後向の時にやられたのかも知れないから此憶測も
余り
信頼にはならぬ、だが、是れは一應本田に注意して置くもよかろ
(三七)それから
死際に
ラツトの事を
私語由だが、何の事だろ
眞逆譫言でも無かろう、普通不意撃を喰つて死ぬ者は譫言など云はぬものだ、して見ると彼が撃たれた次第を説明しやうとしたのかも知れぬ、夫れにしても何の事だろ、是に就いては何か些細があらうと首を
捻つて考へた、それから善二が見たといふ鼠色の
布の事だ、若し果して
其樣な物があつたとすれば加害者が
逃走る時、外套か何か落して
圖太くも
再取りに歸つたのだろ、其間善二は五六間位の所に
背向に
跪座いて居たのだろ、
何せこれは神妙不可解の
連鎖だ虎澤の所存も道理に聞えるがまた本田宗六の鋭眼にも平素から敬服して居るので今、新事實が擧がる
毎に本田は善二を無罪に違いないと愈々確信して來る調子だから
萬更斷念も出來ない
状だ
(三八)本田宗六の歸つて來たのは夜
遲くてあつた虎澤は町の下宿に居るので本田獨りで歸つたのだ、腰を
下すと口を開いて
「晴雨計はまだ大部昇つて居るね、雨は降らんな、地面をすつかり見なけりあならんから降られては
困る、それに今度の事件は
餘程精微から注意して
巧やらぬと
良けない、今日は長い
旅で
疲れた、
恁な時に
働のは
可厭だつたけれど………善二に面
會[#ルビの「つ」はママ]て來た」
「何か珍しい事でも聞いたかね」
「
否、
何も」
「
些も駄目だつたか」
「うん駄目だつた、僕は初め善二は加害者を知つて居るだろと思つたし、善二か棚橋孃か
何方かが加害者に邪魔されて云はないんだろと思つたが
全然豫期が外れて善二も吾々と同然迷つて居る、彼は餘り氣の利いた
敏い
性ぢあないが
却の美男子で
了簡も確りして居る樣だ」
(三九)「だつて野暮ぢあないか」と
俺は口を入れ「彼があんな棚橋孃の樣な美人と結婚するのが
可厭だなんて、若し事實とすれば
餘程趣味に乏しい男だね」
「いや、
其件には隨分
悲慘な
歴史が
籠つて居るよ善二は目下棚橋孃に
惚れて居て
宛然正氣の沙汰ぢやないのだ、然しつい二年程前の事さあ、あの棚橋孃は
某寄宿女學校に五年も在たのだから善二は未だ
熟彼女を知らなかつたので、根が
若者の迷い易い時期、馬鹿な事を仕たのだ、ふと
酒揚女の手に引懸つて
遂結婚して籍まで入れて了つたのさ、所が此事は誰も知らないで今では棚橋孃と結婚したいのは山々だが迚も出來ないに定まつて居る出來ない事を頑固な親爺が無理に
爲と
責るんだから堪らない筈ぢあないか
(四〇)
先達親爺を
撲らうとかゝつたのも
畢竟是れで是非とも棚橋に結婚を申し込めと責め立てられたので
堪なくなつたからさ、其上、善二は差當り獨立生活は出來ぬ身で今親爺に捨てられては
困まる
境だ、親爺は
殘忍人だから酒揚女と縁付いたなんてふ事を聞けばそれこそ大變善二は本當に捨てられて仕舞んだ、
曩に鰤須で三日暮したのは此
淫婦と一緒に居たので親爺はそれとは知らなかつたんだ、君、
爰だせ爰が肝腎だせ、
彼女がね、善二が牢へ這つて今にも首をやられると新聞で見たので離縁すると覺悟を
規めて手紙で
既づーと前から西港に
夫があると云うて寄越したのさ、だから兩人の間は今は全く無關係なのさ、此手紙こそ地獄に
佛やつと善二も安心したろ、今までは隨分難儀したがねえ」
(四一)「然し善二でなければ誰が有罪だろ?」
「誰がッてまあ、考へて見給へ、二ッの肝腎な點があるぜ一ッは親爺が池の
端で誰かと約束があつた事、その
誰かは善二の筈はない、善二は留守中で何時歸るか知れなかつたんだもの、第二には善二の歸つたのを知らぬ内に
クイーと※
[#「口+斗」、U+544C、35-7]んだね、此二點が最も肝要なのさ、さあ、ともかく、
些い話は
明日に讓つて今夜は是れで小説の
談話を仕やうや」
翌朝は本田豫言の通り雨どころではない、誠によく晴れ亘つて天に一點の雲がない、九時に虎澤が馬車で來て聲を掛けたから俺等は揃つて平澤原、保須池の方面に向つて出發した
(四二)虎澤「今朝重大な
報を聞いたぜあの大館の棚橋親爺が危篤で醫師も匙を投げた
由だせ」
本田「
年も年だろ?」
「
左樣既六十前後だ、外國で苦勞したので
身體も大部
害んで近來兎角病氣勝だつたが此度の事件で一層重くなつたのさあ、彼はあの卷山とは
舊からの知合で平澤の畠地を只で小作に呉れて置いた
由だからまあ卷山からみれば大恩人といふ格だ」
本「左樣か、そりあ大切な事だな」
虎「そうさ、それから、まだ外に色々な親切を仕て遣つたのだ棚橋の卷山に對する好意といふものは此界隈切つての大評判だ」
(四三)本「左樣か、夫れぢあ
些奇ぢあないか、卷山は無財産でそんなに棚橋に厄介になつて居り乍ら自分の息子を棚橋孃に結婚させ樣とした事は、棚橋の財産はやがて娘のものだろ、それで申し込みさえすれば結婚は大丈夫出來る樣な
語調では
些變ぢあないかそれで棚橋親爺は反對だから益々變だ是れは
悉棚橋孃の話だ、君此變手古な事實から何か推量は出來ぬか」
虎澤は
俺[#ルビの「おれ」は底本では「おれに」]に目くばせしながら(爰にも我党が御座るといふ
眼相で)
「推量も憶測もやつて見たが事實を掴まへるのが骨だ、兎角空論や、忘想を遣りたがつて
往かん」
(四四)「
御有理」と本田は
勿體ぶつて「事實を掴まへるのが君には隨分骨だね」
「然し僕は君等の見出し得ない事實を掴へたぜ」と虎澤は本氣になつて云ふ、
本「何を?」
虎「卷山親爺が息子善二に殺されたんだ是れは天日の如く明かだ此反對説は
悉皆天月の
光位なものさ」
「天月の
光でも濃霧よりは明るいよ」と本田は笑ひながら。「それはともかく此左手に在るのは卷山の屋敷だろな」
「
然、左樣だ」
館は
宏快とした二階造り、屋根は
石葺で灰色の
壁には
黄色の
苔が
斑點を成して
風流いが
窓の
簾は
下り烟突に煙が揚がらぬので何となく
寂寥く
過日の愁傷が
未だ未練を殘して家までが
欝いで居る樣、
(四五)戸口で聲を懸けると家婢が出て來た、本田の請に應じて長靴二足を見せた、一足は卷山親爺が殺された時
着いて居たもの、他の一足は息子善二のもの是れは其時
着いて居たのでは無かつた本田は
件の
靴を取つて七八個所叮嚀に寸法を執つた後、
裏庭へ案内して呉れと請じ其所を
出で
蜿蜒た道を
辿り保須池に出た、
本田宗六は斯樣な
探偵事に熱中して居る時は
宛然生れ變つた樣になるので
迚もこれが宇城町の靜思家で理論家たる本田とは思へぬ程顏は赤く晃いて
險しく
二條の眉毛は黒く
猛く其奧から兩眼は鋼鐵の如く光つて居る顏は
俯向き肩は
弓形に曲り
唇は一文字に結び、長い肉付の
好い
頸には
太い青筋が立つて居る、
(四六)鼻孔を膨げて行く樣はさも獲物を追ふ獸の樣だ渾身の注意を眼前の一點に
攅めて
傍目も
觸らず進み行く
何程話を
仕掛ても馬耳東風で受け
應がない、
偶然應へた所で
憤れッたい樣に
グーと素速く
唸るが關の山、疾風の如く速かに唖者の如く無言で草原の小路を
辿つて往き森を
潜つて保須池に
出た其邊は皆、
沮洳で、道の
面、小草の上には、多くの
足跡が見える草の上の
足痕はやはり草で圍まれて居る、本田は急ぐかと思ふと
突如停つたり、又急に振り返つて草原へ這入つたりして行く、虎澤も
俺も
後を
跟て行くが、
何せ虎澤は
黒人の探偵官本田の奴碌な事は出來まい位な顏で行く、然し
俺は彼の一擧一動は必ず確乎たる一目的に向つて進む階段であると信じて居るから本田を
見戍りながら進んだのである、
(四七)保須池は葦で
[#「葦で」は底本では「葦て」]圍まれた小さい沼で直徑三十間ばかりしかない、平澤の
田圃と棚橋家の庭園との境をなして居る池の先方に
森林があつて緑の
縁を成して居て其の上に赤煉瓦の塔が二つ三つ
聳えて居る、是は即ち棚橋家の住宅で金持相應に立派である、平澤の方面には
蔚然と
繁つた森と
水端の
葦との間
巾二十間程の間水草が生えて帶を
引いた樣に見える、虎澤に案内されて屍骸の在つた場所を見るに池は濕めつて居たので被害者の臥れた
痕跡が明丁に見える、本田の思ひ詰めた顏
然見て居る
眼光は
宛も踏み付けられた小草から被害者の痕跡以外に多くの事實が發見される樣であつた
彼は
嗅ぎ付けて居る犬の樣にぐるりッと走り廻はつて來て虎澤に向つて
(四八)「君何の爲に池へ這つたの?」
虎「武器か何か有るかと思つて熊手で搜したんだ、君はまあ
如何して
左樣な事を?」
「
默れ/\急がしい、君のその内側を向いて居る左足の
痕が方々にあるぢあないか(
盲目)の
でも其位の事は見付えるよ、で葦の中には見えないんだ、一體
衆が
恁麼にがや/\
水牛の
群程遣つて來なかつたらもつと足痕も明かで
容易く
探搾が付いたんだがね、ほら此所へは番人どもが來たに違いない此通り屍體の周圍一間ばかりは足痕だらけだ、おや此所には別に三通りの同じ足痕があると彼は
透鏡を取り出して防水布を敷き其上に横ざまに臥して
詳く見る、終始獨り
言いふ樣に「これが善二の足で二度歩るいて居るし一度
疾走て居る
爪先が深くて
踵が見えない位だこれは成程彼の申立の通りで親父が臥れて居るのを見た時は走つたに違いない、
(四九)それから此所に親爺の足痕がある
彼方此方歩いた樣子だ、では是は何だ。これは銃床の跡だ善二が親爺の説法を聽いて居た時に銃を立てて居たのだろ、是は何? はゝ成程、爪先、爪先
[#「爪先、爪先」は底本では「瓜先、瓜先」]、ッとみんな四角になつて居るぜ妙な靴だな、來て
往つて
再來た、勿論是は外套を取りに來た奴だな、はて、
何所から來たんだろ」本田は
馳足になつて往つたり
戻つたり、足痕を見失つたり見出したり
遂森の端の
圖拔けて大きい
椈の樹の
下まで來た、彼は足痕を追うて此の樹の
先側まで往き
再俯向に
臥つて「
占めた」といふ樣に叫ぶ
長時そのまゝ
其所に居て木の葉や
枯枝などをひッくり返して見たり
塵芥の樣なものを袋の中に詰めて手の屆く
限り
透鏡で地面のみならず木の
皮まで檢査する
(五〇)
苔の中にぎざ/\した石があつたがこれ迄も
整然檢べて袋に
納めまた一つの足痕に
隨て森を通り拔け大道に出たら足痕は見えなくなつた「いやなんとも面白かつたよ」と本田は
平素の顏に直つて「此右手にある
薄黒い建物が
宿だつたに違いない、一寸這入つて娘(森山さだ子)と話して見やう
筆記る事でもあれば
記て置かう、それが濟んだら歸つて
晝飯と仕やう、君等は遠慮なく馬車まで往つて居給へ、僕は
直後から」
それから十分程
經つと馬車で露須町へ着いた、本田はまだ森の中で
拾つた石を
携て居る、
(五一)「やい、虎澤、是に
譯があるんだよ」と本田は石を差し出して
「これで弑したんだよ」
「
何所に
證跡があるの?」
「
證跡なんぞは無いさ」
「それぢや
如何してそんな事が明かる?」
「此下に草が
生いて居たのさ、だからこりあ二三日しか載つて居ないので何所からか持つて來たんだろよ、
瘡跡
[#「跡」は底本では「踉」]としッくり合ふのだ、此外に武器は見當らないよ」
「では加害者は?」
「それは
大體恁いふ者だ
丈高[#ルビの「せいたか」は底本では「めいたか」]で
左利で右足で
跛行を引く
先の
太[#ルビの「ふと」は底本では「とふ」]い
獵靴で
鼠色の外套を着てインディアン
葉卷を
煤し
煙管を用ゐ、懷中に
鈍い
小刀を入れて居たのだ、其
他も色々形蹟はあるが先づ差當り此位で充分だろ」
(五二)虎澤笑つて
「
如何も僕は懷疑派だ理屈はそれでも通るが悲しい哉相手は嚴正なる裁判官閣下だからな」
「そんならいゝさ」と本田は
落着拂つて「君は君、僕は僕で
遣つて見やうや、僕は今日午後は忙しい多分夜行で倫敦へ歸らなけりあなるまいて」
「此事件はそれで
放棄か」
「
否放棄ぢあない、
成就のだ」
「然し
疑は?」
「晴れたぢあないか」
「そんなら罪人は?」
「今、
叙た人さ」
「然し
誰?」
「
恁麼人數の少ない所ぢあ見付かるまいよ」
(五三)虎澤は
憤たい樣に
肩をしやくつて
「いくら何だつて
跛足で
左利の人は居ないかなんて方々騷き
廻はる譯にあ往くまい、なあそれこそ探偵町の良い笑い草だ、僕は實際主義だからそんな
狎戯は出來んて」
「良いさ」本田は
穩やかに「出來なけりあ出來ない迄だ、只僕は君に出來る迄に仕て遣つたんだから、兎に角
此家は君の
宿だから是で失禮するよ、出發前に
再何とか手紙を上げるよ」
これで虎澤に別れて
宿へ歸ると
食卓の上には
晝飯が出て居る本田は深い
熟考に沈んだ樣子で
靜として進退維れ
谷れりといふ
面相、「おい」と本田は飯が濟むと
俺を呼んだ「まあ、これへ
恁け給へ、
些と話したい事がある、君
如何したら
良からうかね君の意見を聽きたいものだ、まあ一腹やり給へ
緩くり
説明すから」
(五四)「
何卒左樣して呉れ」
「で
恁いふ譯さ、此事件に關して善二の申立ての中に二つの
凡ならぬ點があるね、それで僕は善二に
方を持つし君は反對だ、そりやあ外でもない、一つは親爺が善二を見ぬ内に
クイーと叫んだといふんだね、
尚一つは死
際に
ラツト(鼠)の事を云ふた事さ
死際に
種々囈いた
由だが其外には何も善二の耳には這入らなかつた
由だね、さあ此二點が差當り僕等の出發點で是から善二の申立てを本當として研究して見やう」
「そんなら「クイー」たあ何の事だい」
「そりあ善二に向つて叫んだのぢあない事は明白だ、善二は
鰤須へ徃つて留守中だと知れての話、これが善二に
聞へたのは偶然といふものだ一體「
クイー」といふのは約束ある人を呼ぶ意味がある、勿論是は豪州
訛で豪州人の間に用ゐらるる詞だ卷山親爺が保須池の
端で會ふ約束を仕たのは慥かに豪州に居た人だ」
(五五)「そんなら
ラツト(鼠)とは?」
本田は懷中から卷いた一枚の紙を取り出し
テーブルの上に展けて「見給へ之れが豪州
ヴイクトリアの殖民地の圖だ、實は
昨晩鰤須へ電報を
打つて取り寄せたんだ」と云ふて地圖の一部に手を置きながら
「君これを何と讀むか」
「アラツト」と俺は讀む
「それで今度は?」と本田は手を引き取つて
問ふ
「バララツト」
「左樣だろ親爺は夫れを※
[#「口+斗」、U+544C、48-12]んだのだそれを息子は終りの二音節だけ※
[#判読不能、49-1]き取つたのだ、親爺は「何の某、
バララツト」とと加害者の名を※
[#「口+斗」、U+544C、49-1]んだのだ
「そりや、奇體だね」と俺は※
[#「口+斗」、U+544C、49-3]ぶ、
「そりあ、君明白な事實だ夫れで
余程明かつて來たねそれから善二の申立に據れば鼠色の外套は
眞物だね、して見ると今迄何の事やら雲を
掴む樣だつたが今度は
確と鼠色の外套を
着て豪州人が
バララツトから來たと
掴へ所が出來て來たね、」
(五六)「成程左樣だね」
「其
邊の地理を
詳く知つて居たに
違ひない、池端へ出るには是非
田圃か屋敷か
何所か通らなけりやならない、それがあの
樣だから地理を知らずには歩けやしないんだから‥‥」
「
全然左樣だ」
「だから今日は御苦勞願つて往つて見たのさ、地面を
精く調べて見て加害者の人物に就いて
[#「就いて」は底本では「就てい」]先刻虎澤の
頓馬奴に話した樣な
些つとした事柄を知つたのさ」
「然し如何して知つたの?」
「そりや、君も知つての通り僕は綿密家だからねえ
些とした事から見當つたのさ」
「身長は
踏張の長さで
大概見當がついたろうね、靴も
痕跡で知つたろうね」
「左樣さ、全く妙な格向な靴だつたよ」
「然し
跛は
何所で知つた?」
「右足の方が左足より
痕が淺かつたよ、つまり重みが少ないからさ なぜ? なぜつて
跛を引いたのさ‥‥
不具さ」
「
左利の方は」
「君も驚いたぢあないか、あの外科醫が檢屍の時打撃は
後方からだが
左方だつたぢやないか、
左利でなくてそんな事が出來るものか、卷山
親子が
面談て居た時はあの
椈の樹の
後方に立つて居て煙草まで
喫たんだ、僕は煙草の
灰殼を見出した、あれは
インデアン、シガーであると斷言したのは元來僕は煙草に
關ては
素人ぢやない
[#「素人ぢやない」は底本では「素人ぢない」]僕は是でも煙草の事は
幾程か研究したもので
烟管や、
葉卷や
紙卷の灰殼を百四十種も掴まへて小册子を著はした位だあの灰殼を
發見[#ルビの「みつけ」は底本では「みつつ」]てから
近傍を見たら
苔の上に
吸半の
葉卷が
放棄つて在るぢやないか、あれは無論
ロッテルダム製の
インデイアン、シガーさ」
(五八)「ぢや
煙管は?」
「で葉卷の
本は
噛ちあなかつたよ、だから
煙管を用ひたといふのだ
先端は
噛切てなくつて
鹵※[#「くさかんむり/奔」、U+83BE、51-12]斬り
去つてあつた、して見ると
鈍い
小刀で切つたに違いない、」
「本田」と俺は
叫ぶ「君は
犯人の身に
網を張つたねそれ迄見られては
遁れッ
便ない善二もお
蔽蔭で救かる無實の
繩を切つてやつた樣なものだね、是迄の説明で僕には
明瞭と
覺つた、その
犯人は‥‥」
「棚橋常二樣」と宿の給仕が戸を
啓けて來客を通し
乍ら
叫ぶ
見れば妙な顏の人が這入つて來る、その顏つたら一度見れば忘れられない位だ
遲慢で
跛を引いて
肩は
弓曲で居るので
老耄た樣だがよく見れば
嚴酷い
皺の
深刻骨の聳えた面相と、圖太い手足とで、身神倶に獰猛らしくい
[#「獰猛らしくい」はママ]
(五九)
縺れ
鬚鼠色の
髮、
俯向の
凸出た
眼相は
威嚴いが顏は
蒼白、唇と鼻の先の所は
一層蒼く
稍紫がかつて居るので其人は何か
烈しい慢性病に罹つて居るのだなと一瞥して直に覺れた「
何卒御
凭なさい」と本田は
穩和に「私からの手紙が屆きましたか」
「はい、
貴宿の番頭が持つて參りました、御手紙中に世評を憚るから
[#「憚るから」は底本では「憚るかるから」]會い
度いと仰在つたですね、」
「はい私から
尊堂へ伺ひましては世間の
浮評もあるだろうと思ひましてつい、」
「何故會いたいと仰在つたんですか」と老人は
萎れ
眼に
[#「萎れ眼に」は底本では「委れ眼に」]絶望の色を浮べて宛ら此質問は
既答へられたといふ風に本田を見て、
(六〇)「はい」と本田も氣を利かして質問よりは顏色に答へる樣に「全く左樣です、私は卷山の事を
悉皆存じて居ります」
老人は顏を兩手で蓋うて
「南無阿彌陀佛‥‥とにかく善二をば救けて遣りたいですな、若し裁判が
不首尾の節は私は
屹と白状して救けてやります」
「
然承れば安心です」と本田は
嚴肅に云ふ
「可愛娘さへ無ければ
既申したんですが、只今申しては
彼女が泣きます
[#「泣きます」は底本では「泣さます」]、今申して拘引されゝば
彼女は
甚麼泣くか知れません」
「拘引なんて事にあなりません」
「
何故ですか」
「私は警官でも何でも無いんです、一體私が
此所へ參つたのは孃さんの爲と覺悟の上、萬事其
見計で
遣とるんです
何せ卷山の息子は無罪が本當ですね」
(六一)「私はもう
死ぬんです、年來尿崩病で醫者も一ヶ月は持たぬだろうと申します、けれどもどうせ死ぬ位なら
自宅で死にたいんです、牢屋なんかでは御免蒙りたいですな」
本田は立ち上り
筆を執つて
机に座り紙を前に置いて
「さあ
信實の所を御話し下さい、書き留めて置きたいですからで
後で署名して戴きませう、和津が
爰に
證人になつて居りますから、すれば私は
最後といふ時には是れを出して善二を救けてやります、然し止むを得ない
境にならなけりやあ出しません、そりや確かですから」
「そりあ、
如何でも
良いんです、私なぞは公判時まで生き永へて居るやら明かりませんから、同じ事です、
左も
右も花(娘)には心配させたくないですな、さあ
全體申し上げませう隨分長い
星霜に亘つた御話ですがまあ御話は早速に
(六二)貴方は卷山の親爺を御存じ無かつたんですな、隨分
兇惡で
鬼の樣な奴でしたよ、あんな奴の手に引懸らぬ者こそ
余程幸福私は二十年此方
掴つて居たんですとの本當に
[#「との本當に」はママ]壽命が縮まつた位です
彼の手に引懸つたのは六十年代(千八百六十年代)の初めつ方
金鑛往して居つた頃です、私はまだ血氣盛りの
若者で物の前後も
辨へず何にでも手を出したい方で惡い友達と
交際ひ酒を飮み財産を失ひましたから、遂ひ
野藪に
浮身を
窶したんです、早い話が
路賊になつたんです、同類六人で亂暴な放
埒な生活をして居りました、
立場を所々に移し歩るき
金鑛に通ふ荷馬車を
停めて物を奪ひ取る事なぞを常業に仕て居りました、それで私の
通名は
バララツトの
黒助、徒黨は
バララツト隊といふて今でも
彼所では
名代物です、
(六三)或日の事、金が
バララツトから
メルボルンへ運ばれるので私共は
待伏して居りまして攻撃しました所が先方は護送の
兵士六騎で
此方も六人といふ互格の勢でしたが此方では先づ初めの一聲射撃で敵の四人を馬から撃落しましたが金を奪ひ取るまでには味方が三人討死しました、其時私は
短銃を禦者の頭に
睨ひました、その禦者こそ即ちあの卷山で實に其時撃拂つて
了へば
良かつたんですな惜しい事しました、
其時憎らしい小さい眼で
見覺があるぞといふ風に私を睨らんだんですが
遂偶魔が
射して救けて遣つたんです、私共はその金を奪つてから急に金持になり英國へ渡つて參りましても未だ何んの嫌疑も蒙らずに居たんです、其後間もなく同類と別れ閑靜な土地に落着いて高尚な新生涯に入らうと思ひ鳥渡賣りに
出て居た此屋敷を買ひました、手にある
金は
罪の
金ですからそれ以後は
往時の罪亡しに善事のためにその金を使ふ事に
決めまして
(六四)妻を迎へました妻は
夭折しましたが花といふ可愛い娘を殘しました、花子の
嬰兒の時分からあの可愛らしい小さな手を見れば無情に
効果がありまして私を善道に導く樣な
思がしました、つまり私は生れ變つたんです、出來る限り力め
勵んで
過去の
罪惡を盛り返さうとしたので萬事萬端結構に參りましたが卷山の慾目にかゝつてからは何分思はしく參りませんでした
私はある日買物に倫敦へ參りますと利善戸町で
偶卷山に
遭ひました、
上衣もなく
靴も
着かぬといふ見苦しい
裝で、私の
腕に手をかけ
「おい、黒公御心安く願ふよ、
俺あ、
息子一人だけだで、貴公の
家に一緒に置いて呉れめいか貴公のがにあ「#貴公のがにあ」はママ]、
二人位は喰せて置けるだろ、はゝ、良いだろうな
可厭だら‥‥ほら、これ、
危ねえぜ
此所は何所だと思つてる?やい
法規嚴い英吉利だぜ、巡査は
何所にも居るからな――」
(六五)(と私が承知しなけりあ
往時の罪業を
暴露いて
遣るといふ意氣込を示しまして)奴等親子で西國まで私に
隨つて來たんですから、我慢にも別れる譯には參りませんで、仕方なしに私は屋敷へ入れて只今迄無代で小作をさせて置いたんです、さあそれからといふものはもう一時の心の休むことが御座いませんで始終憂が身に
染[#ルビの「し」は底本では「しみ」]みて居りました何所へ往つてもあの狡猾な欲深な顏が目に付く樣で是が花(娘)が大きくなるに伴れて益々
甚くなりましたといふのは私は花に
昔の罪業を知られるのが
恐い、巡査に知られるよりは恐いといふ事を彼も
直時に
洞察たのですな
[#「洞察たのですな」は底本では「胴察たのですな」]、で
憖ゐな事して素破拔かれては堪らないと思ひまして彼の口を
噤むために田地、金錢、往家と、何でもかれも欲しいと云へば手當り次第に
與れて居ました、處が
遂與る事の出來ないものを欲しいと申すんですものそれは花子を
嫁に欲しいといふのですわ、
彼の息子は御存じの通り大きくなり、
私の娘も
同然縁期で私は病勝とは知れた事それに
乘込で息子に私の財産を繼がせたいといふ
企畫然しそれだけは頑として聽き
容れませんでした
[#「聽き容れませんでした」は底本では「聽き容れまんでした」]、あんな不吉な
族と縁を結ぶんですからね、私は息子の方は
可厭では無いんですが、只
彼の
血統が氣に入りませんで
斷然拒んで居ました、處が卷山は私を
酷い目に會はせる樣な
劍幕でしたから、會はせるなら會はせて見ろと相手に仕ませんで
先達も兩家から丁度中程にある、
池端で
面談する事に約束して置きました、
(六六)私が池端へ下りますと卷山は息子と話の最中でしたから夫れが終るまで
[#「終るまで」は底本では「終るまだ」]木蔭で煙草を
喫んで待つて居ました、
談話を聞いて居りますと
甞ての心配が
嵩じて來てそれは
座ても立つても堪らぬ程、烈しくなつて來たんです第一花と結婚しろしッろて
迫めて居るんですもの、花は
可厭だか
如何だか一向眼中に置かない
樣家然淫賣婦とでも結婚させる調子
恁うなりや堪らない、其儘で置けば可愛い花は勿論私までも
彼奴の毒に
罹かつて
了うんだと思ひまして
遂堪忍嚢が裂け
縁の緒を切拂つたんです、私は
既死ぬばかり片足は棺桶の中、ほんとに、
死者狂ひです、まだ
肉體も少しは達者ですけれども壽命は無いと覺悟のまい、然し
貴重は
名と
娘、奴の
穢い口を
※[#「こざとへん+曷」、61-2]めさへすれば名も名、娘も娘で救かると思ひまして‥‥
遂‥‥本田樣、私が
遣つたんです、私、こんな目に會へば二度でも三度でも遣ります、是迄の罪こそは深いですが私は其
償として神樣に一身を捧げて居りました
左も
右も可愛い娘が私と同じ
網に引懸るのを
默つて見て居られませうか、私は奴を殺した時毒蛇でも殺したといふ心地で後悔も
何も仕ませんでした、奴が※
[#「口+斗」、U+544C、61-7]んだので息子が
驅けて來ました時
[#「來ました時」は底本では「來ましとき時」]私ははや森の中へ隱れて仕舞ひましたが逃げる時外套を落しましたからそれを
捨に行きました、是れが
僞りのない御話です、」
(六七)棚橋老人は本田が今書き終はつた覺書に署名した時、本田がいふた「なるほど、然し裁判は私の役ではありませんよ、何しろ私共はそんなに人殺しまでも
仕度なる樣な
境に會いたくないですな」
「本當に左樣で御座ります。
左右貴殿、私を
如何なすて下さいますか」
「
如何もする氣ぢあないんです、御
身體が其通りですから然し冥途の神樣の御
裁判には相應に
遣られますぞこれは覺悟なさい、私は此自白なすつた事を秘して置きますがいざ善二が死刑に宣告されるといふ曉には止むを得ないですから持ち出しますぞ、左もなければ決して
他には
明けません、貴方が存命でも死んでもちやんと守つて居ますぞ」
「では失禮致します」と老人は
嚴かに「あゝ、これで、安心して死ねます
斯樣私を救けて下すつたからには貴方も矢張冥途の旅に立たッしやる時はさぞ安々とね‥‥」と云ひ終ると大きな
身體を
顫はし乍ら
蹌踉いて出て行く、
(六八)本田は
姑く沈默の後「南無八幡、運といふ奴は
酷いものだあんな可哀相な者をあんなにして仕舞つて
恁麼事を聞く毎に
ボックスタの言が思ひ起される「神の惠なかりせば、本田宗六は當然死ぬのである、」
卷山善二は裁判で無罪放免となつた、それは本田が多くの反證を申し出た結果被告保護會に廻されながである
[#「廻されながである」はママ]、棚橋老人は後七ヶ月ばかり永らへて死んだので
軈て善二、花子の兩人は過去の
慘事を知らぬが
佛で琴瑟の
縁を結び得るといふ御芽出度い事
(終り)
底本:「近世英語研究叢書 第一編 死刑か無罪か」東西社
明治四十二年三月三日 発行
作者:コナンドイル原著、手塚雄譯註
入力:神崎真
※底本の画像データは、国会図書館の近代デジタルライブラリーよりお借りしました。
■近代デジタルライブラリー - 死刑か無罪か
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903024
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