名馬の犯罪 三津木春影 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)二目《ふため》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)或日|晝餐《ひるめし》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)[#「近來の怪事件」に丸傍点] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)見る/\顏色は土の樣に變つた *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- 1…松戸競馬場へ博士の出張…………近來の怪事件[#「近來の怪事件」に丸傍点]………… 2…怪しき曲者の出沒…………影も形もなくなつた[#「影も形もなくなつた」に丸傍点]………… 3…二目《ふため》と見られぬ慘鼻の死樣《しにざま》…………握つた[#「握つた」に丸傍点]小刀《ナイフ》は鮮血淋漓[#「は鮮血淋漓」に丸傍点]………… 4…自動車上の呉田博士…………どうも證據が薄弱ぢや[#「どうも證據が薄弱ぢや」に丸傍点]………… 5…珍しい外科醫の小刀《ナイフ》…………怪しき呉服屋の受取證[#「怪しき呉服屋の受取證」に丸傍点]………… 6…泥濘《どろ》塗《まみ》れの蝋マツチの發見…………見落した警部の赤面[#「見落した警部の赤面」に丸傍点]………… 7…見る/\顏色は土の樣に變つた…………博士は何を囁いたのか[#「博士は何を囁いたのか」に丸傍点]………… 8…跛《ちんば》の豚が大事實を語つて居る…………博士の奇言は誰にも分らぬ[#「博士の奇言は誰にも分らぬ」に丸傍点]………… 9…犯人は貴君《あなた》の後《うしろ》に居《を》る…………えツ[#「えツ」に丸傍点]、え[#「え」に丸傍点]、直ぐ後に[#「直ぐ後に」に丸傍点]! と驚いた[#「と驚いた」に丸傍点]………… 10…米飯《ライス》カレーへ阿片を入れたは誰?……犬の吠えなんだは第一の不思議[#「犬の吠えなんだは第一の不思議」に丸傍点] 11…馬蹄に蹶《け》られしは是れ天罰…………名馬銀月の神通力[#「名馬銀月の神通力」に丸傍点]?…………    1…松戸競馬場へ博士の出張…………近來の怪事件[#「近來の怪事件」に丸傍点]………… 「中澤君《なかざはくん》、今日はまた一つ事件に出掛けなければならないが喃《のう》。」 と、或日|晝餐《ひるめし》の食卓に向ひながら、呉田博士はかう言つた。 「どんな事件にですか? 何處《どこ》へですか。」 「下總《しもふさ》の松戸《まつど》へさ。……松戸の競馬場のある所へさ。」  中澤醫學士はさう聞いても格別驚かなつた。寧ろ博士が何故早く、近頃世評に喧《やかま》しいこの有名な事件に關係しないだらうかと訝《あやし》んでゐた位であつたが、矢張り内々《ない/\》は研究して居られたのか。さう言へば思ひ當るのは此一日二日の博士の啻《たゞ》ならぬ樣子、何か思案に暮れた眼付をして室内を歩き廻るかと思へば、急に立ち止まつて額を撥《はじ》いたり、首を傾げたりする。物を言ひ掛けても碌に返事もせず、新聞といふ新聞を殘らず忙《せは》しげに獵《あさ》り讀むかと思へば、焦々《いら/\》しげに隅の方へ擲《はふ》り投げたりする。併しその沈默の間に博士の睡《ねむ》たげの慧眼は能《よ》く彼《か》の怪事件の眞相を透視し。世人《せじん》が五里霧中に迷つてゐる疑點中《ぎてんちゆう》の疑點を解釋《ときほど》かんと努めてゐたのだらう。疑點中の疑點とは、松戸競馬會社中、否《いな》、關東|一圓《いちゑん》に其名を轟かした一疋《いちぴき》の稀代の駿馬が突然紛失した事と、一人《いちにん》の調馬師《てうばし》が無慙《むざん》の殺害《せつがい》に遭ふた事とである。で、不意に博士がその犯罪の現場《げんぢやう》へ急行すると言ひ出したのは、中澤醫學士が實は待構《まちかま》へて希望して居た所であるのだ。 「先生、私《わたくし》もお伴が出來ませうか。」 「無論行つて貰はねばならぬ。何しろ餘り類のない事件ぢやから、君にとつても充分研究の價値《ねうち》はあらうと思ふ。では朝飯《あさはん》の濟み次第|毎時《いつも》の道具と双眼鏡なぞを用意しておいて貰ひたい。」  かういふ譯で、それから二時間後には博士學士は上野を發した成田鐵道の二等室の中にあつた。汽車は日暮里から東に折れて秋晴の野を千住の方へ駛《はし》つて行《ゆ》く。  博士は例によつて其日の新聞を四五枚讀み盡《つく》すと、卷煙草を點けて中澤醫學士に向ひ口を開いた。 「君はこの調馬師の奧花《おくはな》隆次《りゆうじ》といふ者が殺された事と、銀月《ぎんげつ》といふ名馬の紛失した事とはもう知つて居《を》るぢやらう喃《のう》。」 「新聞で極く概略《あらまし》のことだけ讀みました。」 「いや新聞の記事はどうも誇張があつたり、誤報があつたりして餘り當てにならぬ。其等《それら》の中から正確な事實だけを引拔いて骨組を組立てるのが困難なのぢや。そして其骨組から一個の間違はない結論を引出すのが我々の努めである。私《わし》は火曜日の晩殆ど同時に二通の電報を受取つた。一本は名馬銀月の持ち主の畑野《はたの》男爵から、他《た》の一本は今度の事件を擔當《たんたう》して居《を》る鹿島《かじま》警部からで、私が出張するのはこの二人から呼ばれたからなんぢや。」 「火曜日の晩にですか! 今日は木曜日ですよ。何故昨日御出掛けにならなかつたのでせう。」 「それは私が一つ考へ違ひをやらかしたからでの、私《わし》は銀月のやうな名馬が假令《たとへ》竊《ぬす》まれたにせよ、苟《いやしく》も東京の近縣《きんけん》で直きに見付からぬ筈はないと思ふて居つたのぢや。だから昨日はいまに、見付かつたといふ報知が來るか、そして銀月を誘拐《かどわか》した奴が即ち調馬師殺しの犯人であつたといふ確報《かくはう》に接するかと一日待ち暮らしたが何の知せもない。今朝になつても、唯だ一人|比志野《ひしの》文助《ぶんすけ》[#「比志野文助」はママ]といふ若い男が嫌疑者として擧《あ》げられたといふほか何の解決も付いて居らぬので、そこで兎も角行つて見やうと決心したのぢや。と言ふて昨日一日|無益《むだ》に暮したわけではない。」 「何か方針が御立ちになりましたのですか。」 「兎も角も事件の骨組だけは掴み得た。一つ君にお話して見やう。いや、他人《ひと》に話をすると却て自分の頭腦《あたま》に筋道が明確に映つて來るものぢや。それに我々の出發點を明かしておかんでは、君に手傳ふて貰ふ上にも不便ぢやからなア。」    2…怪しき曲者の出沒…………影も形もなくなつた[#「影も形もなくなつた」に丸傍点]…………  中澤助手は腰掛に背中を凭《もた》せて聽耳《きゝみゝ》を欹《た》てると、博士は膝頭に肘をついて俯向《うつむ》き加減になり、要點へ來るたびに右手の痩せた長い人差指の頭《さき》で左の掌の中央《まんなか》を突きながら、諄々《じゆん/\》として左《さ》の如き驚くべき怪事件の筋道を話し出した。 「まづ銀月といふ馬は南部産で、今年五歳ぢやが、骨格といひ、肉附《にくづき》といひ、毛並といひ、悉《こと/″\》くの駿馬での、知つての通り松戸の競馬場へ出ては毎時《いつも》一等の月桂冠を占むる大評判《おほひやうばん》の馬なんぢや。だから持主の畑野男爵に取つては名譽の愛馬で、また澤山の賭金が得られる所から金の實《な》る木も同然ぢや。競馬狂ともいふべき男爵は、銀月と他に三頭、都合|四頭《しとう》の馬のために、松戸の別莊からまた距《へだ》つた千駄堀《せんだぼり》といふ處にわざわざ完全な廐を構《しつら》へての、今度殺された調馬師の奧花隆次に監督させ、其下に三人の若い馬飼《うまかひ》をおいて萬端の世話をさせて居つた。馬飼等は何れも善良な者共で、夜は一人づゝ交代に廐の番をし、他《ほか》の二人は隣の小舍《こや》で寢たが、奧花だけは多年勤勉に正直に事《つか》へた廉《かど》で[#「事へた廉で」は底本では「事へた簾で」]、男爵もこれには給料も多く拂ひ、特別に廐から一二丁|距《はな》れた處へ小さな家《うち》を建てゝ、そこへ住まはせたさうぢや。彼は女房持ちであつたが子供がなく、下女と僅《たつ》た三人暮し、まことに淋しい。一體|此邊《このへん》は野や森だけで、その間を乞食共が徘徊して居《を》る有樣、たゞ西の方十丁ばかりの處に少し村家《むらや》がある。それから野を距《へだ》てた丘の裾の泉原《いづはら》といふ處に厚川《あつかは》といふて矢張り東京の豪商で、松戸の競馬會社の重役をして居《を》る人が廐を建てゝ居《を》る。この泉原の廐には小谷《こたに》[#ルビの「こたに」はママ]才吉《さいきち》とかいふ調馬師が住んで居《を》るさうぢや。……まづ事件の起つた夜の大體の形勢はさういふ有樣であつたのぢや。  さて彌々《いよ/\》火曜日、即ち一昨日《おとつひ》の晩のことであるが、其日の夕方は奧花初め、馬飼共は毎時《いつも》の通り馬を練《な》らしたり、水を飼ふたりして、廐の掃除などが漸く濟んだのが夜《よ》の九時。で、廐には錠《ぢやう》をかけて、馬馴《うまかひ》の中《うち》二人は奧花の家《いへ》へ飯喰ひに行《ゆ》き、當番の濱一《はまいち》といふ若者が一人で殘つて居た。そこへ九時少し過ぐる頃|夕飯《ゆふはん》を運んで行つたのが奧花の處の下女のお勝といふ者であつたさうぢや。夕飯といふても其晩は遲くて面倒だつたものぢやから、ライスカレーを拵へて持つて行つたさうぢや。尤《もつと》も當番の者が飮むのは禁じてあるから酒は持つて行《ゆ》かなんだが下女はこの闇の夜《よ》の恐さに提灯は下げて居《を》つたと見える。そこで此お勝が廐から十間ばかり手前の所まで行《ゆ》くと、不意に闇の中から一人の男が、モシ/\女中さんと呼ぶのぢや。吃驚《びつくり》して立ち止まるとの、やがて提灯の黄《きいろ》い光に照らし出されたのは、年配三十格好の人物、鼠色の洋服に西洋|脚絆《きやはん》を着け、瘤のある太い洋杖《すてつき》を突いた紳士風の男ぢやが、顏色がひどく蒼白《あをざ》めて、不思議に焦々《いら/\》した神經ツぽい態度《やうす》をして居《を》る。そして訊ねるやう 「一體こゝは何處なのかね。あゝ、既《すんで》のことに野宿の憂目《うきめ》を見るところだつた。お前さんの提灯はほんとに地獄で佛《ほとけ》だ。」 「こゝは千駄堀ともうしましてね、畑野男爵樣の御廐のあるところで厶《ござ》いますよ。」 と答へると、其男は滿足さうに 「あゝ、然《さ》うか、成程ね! 僥倖《しあはせ》、々々《しあはせ》! あの廐には毎晩馬飼が一人づゝ當番して居るんでせう。お前さんが持つて居るのはお夕飯だと見える。そこでと、お前さんは新しい衣物《きもの》が欲しくはないかえ。」と突然《だしぬけ》にそんな事を言つて、チヨツキの懷中《かくし》から何やら紙に疊んだものを取出しながら、「見て御出《おい》で、今夜の當番の先生なぞもこれを受納《うけと》りさへすりや、明日から隨分贅澤が出來るといふものさ」と言ふ。  餘りどうもその態度《やうす》が眞劔《しんけん》なので、お勝は急に恐しくなつて、遽《にはか》にゾツと不氣味になつたから、逸足《いちあし》出して其男の傍《そば》を通り拔け、廐の宿直部屋の窓の前まで驅けつけたのぢや。食物《たべもの》はいつでもその窓から差入れる癖になつてゐたが、見ると濱一といふ若者は待ち兼ねて、窓を明けて闇を眺めてゐる所であつた。で、今そこでこれ/\だと話しかけてゐると、怪《あやし》の男がもう窓の前へ來て立つてゐる。そして部屋の中を覗きながら 「今晩は。」などと挨拶して「君に少しお話したいことが有る。」 といふのぢや。其時に男の握つた掌《て》の端から白い紙包みの隅《すみ》が確かに微見《ほのみ》えて居たと女中は言ふて居《を》るさうぢや。 「何の御用ですか。」 と濱一が訊くと、 「いや、少し君に儲けさせる話さ。噂に聞けば今度の競馬には、この廐から銀月と東雲《しののめ》との二疋《にひき》が出るさうだね。君、少しばかりだが我輩の心附けを受取つてくれ給へ。………それでね。我輩はその二疋について少し聞きたいことが有つて來たんだ。」  それを聞くと馬飼は赫《くわつ》として 「やア、手前は矢張《やつぱ》り競馬場の客引だな。そんな甘口に乘る此方等《こちとら》ぢやねえぞ。愚圖々々《ぐづぐづ》してると犬を嗾《け》し掛けるぞ!」 と直ぐ宿直部屋を飛出して、廐の端の方の猛犬を繋いである處へ驅けて行つた。競馬場の客引といふのは君も知つて居らうが、こんな風に豫《あらかじ》め馬の樣子を探つておいて巧みに客に賭けをさせて自分が莫大の口錢《こうせん》を貰ふ奴等なのぢや。  さア斯うなると女中のお勝は益々氣味が惡くなつて、ライスカレーの皿を投げるやうに置いて主家《しゆうか》の方へ戻りかけたわい。其戻りがけに振返つて見ると、件《くだん》の男は窓の中へ體《からだ》を乘入れて居《を》つたさうぢや。所で、それから物の二分とは經たぬ中《うち》に、濱一が猛犬を引連れて躍り出て見ると、奇怪にも最早その男が居らぬ。廐の周圍を隈なく探索しても影も形も失せて居つたのぢや………。」 「一寸、先生、一寸お待ち下さい………。」  默つて聽いて居た中澤醫學士は不意にかう口を挾《さしはさ》んだ。    3…二目《ふため》と見られぬ慘鼻の死樣《しにざま》……握つた[#「握つた」に丸傍点]小刀《ナイフ》は鮮血淋漓[#「は鮮血淋漓」に丸傍点]……  博士を止めた醫學士は暫時《しばし》打案じてから 「その濱一とかいふ馬飼がですなア、犬を引張つて外へ飛出した時に、廐の扉《と》を明け放しにして出たでせうか、それとも錠をかつて出たでせうか。」 「それ、それ!」と博士は幾度《いくた》びか首肯《うなづ》いて、 「その疑問は非常に大切な事である。實は私《わし》も第一にそこへ氣付いたから、昨日|態々《わざ/″\》松戸警察署へ電話をかけて訊いてみたのぢやが、馬飼は矢張り扉《と》をば錠をかけて出たさうぢや。一方窓の方はと言へば、これはまた口が挾《せま》うて到底《とて》も人間一疋そこから入込《はいりこ》むことは難しい。  さて其うちに飯食ひに行《ゆ》きをつた仲間が戻つて來たので、濱一は早速その一人を飛び歸らせて、調馬師の奧花隆次へ事の次第を報告させた。すると奧花にも怪しい男の目的が解らなかつた樣ぢやが、併し頻《しきり》に氣を焦立《いらだ》てゝの、不安心な態度《やうす》をして居つたが、眞夜中の一時頃であつた、不圖《ふと》女房が眼を醒まして見ると、亭主が毎時《いつも》馬錬《うまなら》しの時に着る粗末な洋服に着換へて居る。今頃何處へ御出掛けかと訊くと、どうも先刻《さつき》の話が心配でならぬから廐へ見廻りに行つて來ると言ふ。氣が付くと雨の音もザア/\としてゐるので女房|躍氣《やつき》となつて止めたが聽入《きゝい》れず、大型の雨合羽を着て出て行つて了《しま》ふた。  女房の起出《おきいで》たのが朝の七時、見ると亭主はまだ歸つて居らぬ。で、急いで衣物《きもの》を着換へて女中と一所に廐へ行つて見ると、扉《と》は明いたまゝなり宿直部屋の中には濱一が全く昏醉《こんすゐ》して倒れて居《を》る。亭主は何處へ行つたやら更に解らず、銀月の廐は空虚《からつぽ》になつて居《を》る。これは怪しいといふので、隣の小舍《こや》へ行つて他の二人の馬飼を搖起《ゆりおこ》して聞いても、二人ともグツスリ熟睡して昨夜《ゆふべ》の事は皆目知らぬといふ。濱一は確かに劇藥か何かを飮ませられて昏睡したので、容易に目醒めさうもないので其儘寢かせて置き後の四人が調馬師と馬とを搜索に出掛けたのぢや。多分は奧花が何か理由《わけ》があつて、銀月を黎明《あけがた》から引張り出して錬《な》らしてゞも居《を》るだらうと思ふたのぢやが、近所の丘へ登つて四方《あたり》を觀望しても夫《それ》らしい影もない、耳《のみ》ならず搜索するに從つて意外な變事を發見したのである。  それは何《なん》ぢやといふと、廐から五六丁|先《さ》きの藪に奧花の外套が引掛つて風に搖《ゆら》めいて居《を》る。その先きの濕つた野の窪地の底に、人間が轉がつて居《を》るのを能《よ》く/\視れば奧花が死んで居《を》るではないか、其|死樣《しにやう》は何か太い重たい物でゝも擲《なぐ》られたらしく、頭が割れて顏から胸へかけ物凄く血潮が溢れて居《を》る。股《もゝ》へも負傷して居《を》る。股のは非常に鋭利な武器でやられたと見え。長くザクリと切れて居《を》る。實に慘死と言はうか、何と言はうか、慘鼻を極めて、二目とは見られぬほどのむごたらしい[#「むごたらしい」に傍点]死に樣《ざま》である。併し奧花も一生懸命敵に抵抗したらしい、と言ふのは右手に一挺の小形の小刀《ナイフ》を握つて死んで居《を》る。其|小刀《ナイフ》の刄から柄《え》から悉く血潮に染《そ》みて居《を》るのぢや。一方|左手《ひだりのて》には赤と黒との染分《そめわ》けの絹の襟卷を一つ掴んで居《を》る。女中の證言に依ると、それは前夜廐を覗《うかが》ふた曲者が卷いて居たものださうぢや。  これは暫時《しばらく》經つて漸く眼醒めた濱一も明言した。それに前夜の曲者が窓の前に立つて居《を》る時、ライスカレーの皿を手許へ引寄せたのを、濱一が犬小舍《いぬごや》の方へ走りながら瞥《ちら》と見たさうである。それを忘れて了ふて、後で喰べるとそのまゝ昏睡したとのことぢや。  所が馬はと言ふと、その同じ窪地の泥濘《どろ》に澤山の蹄《ひづめ》の跡がついて居《を》る。確かに奧花が格鬪する際はそこに居《を》つたものと思はるゝが、併し行衞《ゆくゑ》がどうしても解らぬ。莫大の懸賞で搜しても見た。近所の乞食共をば悉く調べても見たが、何の手懸りも得られぬ。濱一の喰ふたライスカレーを分析してみると、粉末の阿片《あへん》が澤山混入してあつたことが解つた。其夜《そのよ》は奧花家の者も、他《た》の二名の馬飼も皆同じライスカレーを喰ふたのだが、他《ほか》の者には何の變事も起らなんだのである。  と言ふのが先づ誇張のない事件の筋道なんぢや。序《ついで》に警察の執《と》つた方針を話しておかねばならぬが、例の鹿島《かしま》警部、これが非常な敏腕家での、たゞも少し想像力を與《あた》へたらば天下の名探偵になり得るのぢやが………兎も角も彼は早速前夜の曲者を嫌疑者として擧げたのぢや。これは譯はなかつた。嫌疑者は名を比志島《ひしじま》文助《ぶんすけ》といふて松戸では知られた人物、生れも良く、教育もある男ぢやが、競馬の賭けで身代を殆ど倒盡《たうじん》して、今では東京の競馬雜誌の記者なぞをして居《を》るちうことで、警部がその手帳を調べたらば、銀月の爲めに損耗《そんまう》を招いた賭金だけでも二三萬に上《のぼ》つて居たさうぢや。  比志島の陳述によれば、彼が千駄堀へ來た目的は、今度の松戸の競馬に出づべき畑野男爵の馬とそれから今も話した近所の泉原《いづはら》にある厚川《あつかは》といふ豪商の廐に居《を》る馬との状況を視察に來たのである。他《た》に何の惡意もない、自分は競馬雜誌の記者であるから新聞記者なぞに先《さき》んぜられぬ中《うち》に、評判の名馬に關する記事を取つて雜誌を飾らうとした意志に外ならぬと、斯ういふて辯護して居《を》るのぢや。それで絹の襟卷[#「襟卷」は底本では「襟色」]を差しつけて現場《げんぢやう》の模樣を話すと、蒼白《まつさを》になつての、どうして此が死人の手に握られて居たか、合點が行《ゆ》かぬといふ、併し服を見れば大層濡れて居《を》る。即ち前夜雨の中を歩いた證據ぢや。また手に持つた洋杖《ステツキ》を見れば、此奴《こいつ》嚴丈《がんぢやう》な太杖《ふとづゑ》で、鉛で重さをつけてある位、被害者奧花にあのやうな傷を負はすには充分と認められるのぢや。  唯《たゞ》不審なのは嫌疑者の身體《からだ》に爪跡ほどの傷もついて居らぬ。然るに被害者の握つた血染《ちぞめ》の小刀《ないふ》よりすれば、當然加害者が傷を蒙《かうむ》つて居らねばならぬ筈ではないか。どうぢや中澤君、この樣な矛盾について君はどう考へる。」  |※[#「執/れんが」、U+24360、117-6]心《ねつしん》に傾聽してゐた中澤醫學士は斯う訊かれて漸く口を開き、 「それは或《あるひ》はかうではないでせうか、奧花は洋杖《ステツキ》で頭を割られてから夢中になつて格鬪の最中《さいちゆう》、我れと我が小刀《ないふ》で誤つて自分の股へその樣な切傷を付けたのではないでせうか。」 「さア、或は其樣《そのやう》な事かも知らぬが…………さうすると、嫌疑者の無罪を證明する最も有利な點が消えて了ふわけであるナ。」 「それは警察の意見は一體どうなんでせう。」 「警察の意見は私《わし》の見る所ではかうぢやらうと思ふ。この比志島なる者が濱一へ魔醉劑《ますゐざい》を呉れて置いて、豫《かね》て何かの手段で手に入れて置いた合鍵で廐の扉《と》を明け、銀月を竊《ぬす》み出して野《の》の方へ逃げてゆく途中、意外にも奧花にハタと遭遇《でつくわ》したのぢや。即ちそこに格鬪が始まつた。比志島は其|洋杖《ステツキ》で奧花の小刀《ナイフ》を防ぎながら相手の頭を滅多打ちに打ちのめして、彌々《いよ/\》死んだのを見ると、何處か人知れぬ隱家《かくれが》へ馬を引込んだか、さもなくば馬は格鬪中に突然跳ね出して、今もつて近在の森の中にでも彷徨《さまよ》ふて居《を》るかその何れかぢやらう。點かういふのが警察の意見ぢやさうだ。が、現場《げんぢやう》へ行《ゆ》くまでは私も兎角の評《ひやう》を挾《さしはさ》むわけに行《ゆ》かぬ。」    4…自動車上の呉田博士…………どうも證據が薄弱ぢや[#「どうも證據が薄弱ぢや」に丸傍点]…………  汽車は軈《やが》て松戸へ着いた。停車場《ていしやぢやう》へ二人の紳士が博士等を迎ひに來て居た。[#「迎ひに來て居た。」は底本では「迎ひに來て居た。」」]  恐しく背が高くて髭が濃く、鋭い透徹《すきとほ》すやうな眼をしたのは鹿島警部、洒落《しや》れた背廣《せびろ》に鳥撃帽《とりうちぼう》、金縁の眼鏡を掛けた肥《ふと》つた方は名馬銀月の持主畑野男爵であつた。  男爵はそれと見るより丁寧に會釋《ゑしやく》して 「あゝ、呉田先生ですか、今回はわざ/\御出張を願つて御厄介をお掛け申します。既に今回の事件については、御承知のここに御居《おゐ》での鹿島警部が遺憾なく働いて下すつたが、併し奧花の加害者を見付け、馬を取戻すにはなほ微《び》の微、細《さい》の細に渉る研究を致す必要があらうと思ふて、そこで御多忙中御盡力を願ふたやうな次第でして…。」 「何か新しい事實が擧がりましたかナ。」 と博士は早速本問題に突き進む。 「いやどうも餘り成蹟が擧がらんで弱りました。」と鹿島警部は博士に挨拶して「色々お話申上げねばなりませんが、男爵の自動車が外に待つて居ますから御乘り下さいますれば道すがら委《くは》しいお話を願ひませうと思ひまして。」  間もなく此四人は一臺の自動車に乘つて、松戸町の郊外にある男爵の別莊へと向つた。途中警部は喋り續けて事件の報告をする。博士は時々短い質問を出すばかり。中澤醫學士は、傍《はた》から|※[#「執/れんが」、U+24360、120-8]心《ねつしん》にそれを聽く。男爵は帽子を眼深《まぶか》に被つて後《うしろ》へ凭《もた》れて居る。警部は頻《しきり》に自分の意見を述べたが、それは博士が汽車中で豫想したと殆ど相違がなかつた。 「この比志島文助なる者の周圍にはもうギシ/\網を張りました。私《わたくし》の考へでは彼奴《きやつ》が確かに犯人らしいですが、併しその證據はと申すと誠に薄弱なものでしてなア、何か新事實が發見されましたらば直ぐにも轉覆《ひつくりかへ》りさうなものですテ。」 「奧花の小刀《ナイフ》についての御意見はどうであらう。」 「いや、あれは其後《そのご》かう言ふことに結着《けつちやく》しました。……被害者自身が斃《たふ》れる際にでも[#「際にでも」は底本では「際にても」]股を傷つけたのだらうといふ事に定《き》まりました。」 「成程、それはこの中澤醫學士も同意見で、今も汽車中で話して參つたのぢやが、彌々《いよ/\》さうなると、比志島なる者に對する嫌疑がます/\深くなる譯ですナ。」 「さうで有ります。彼は小刀《ナイフ》その他の兇器で蒙つた傷跡といふものが有りません。ですから洋杖《ステツキ》で突然《いきなり》殺《や》ツつけたに相違|厶《ござ》いますまい。彼が今迄銀月のために莫大の賭金を損したといふ事實から見ましても、また將來競馬をやるといふ上から見ましても、彼が銀月の紛失を希望するのは當然で厶《ござ》います。なほ彼は濱一なる馬飼の若者に魔醉劑を與へた證跡《しようせき》が厶《ござ》います。前夜の暴風雨《あらし》の中を歩いたのは確實でありまするし、其他《そのた》重い洋杖《ステツキ》を携《たづさ》へ居たこと、その襟卷が被害者の手に握られてあつたことなぞ、此等の點から申しましても最早《もはや》檢事局へ廻す價値は充分|厶《ござ》いませうと思ひます。」  呉田博士は頭《かしら》を振つて 「いや/\、腕利きの辯護士であつたらば、其樣な證據は微塵に打碎《うちくだ》きませう。まづ第一に、何故彼は馬を廐の外《ほか》に連れ出したものぢやらう。馬を害する目的であつたならば、何故廐の中で出來なんだらう、合鍵は果して彼が所持して居ましたか。粉末の阿片は何處の何といふ藥屋から買ひ求めました。それにぢや此地方に不慣れの彼が、何處に馬をば匿《かくま》ふたらう。況《いは》んや萬人《ばんにん》に知れ渡つた彼《あ》の如き名馬ではないですか。また何やら紙片《かみきれ》を當番の馬飼に與へて貰ひたい樣な口振であつたさうぢやが、それは果して如何なるもので有りましたらうか。」 「比志島は十圓|紙幣《さつ》であつたと申立てゝ居ります。現に彼の懷中《かくし》には一枚入つて居ました。それから尚ほ一つの御不審は大したことで厶《ござ》いません。即ち比志島は此地方が暗くはなく、時々參つた事實《こと》が有るので厶《ござ》います。阿片は多分東京から買《か》ふて參つたもので厶《ござ》いませう。合鍵は既に目的を達した以上不明の個所へ投擲《なげすて》たに違ひ厶《ござ》いません。馬は何れ此邊の何處かに隱してあるものと認定致します。」 「襟卷については何う言ふて居りますか。」 「自分の物で、同夜《どうや》紛失致した物であると申して居ります。が、こゝに一つ彼が廐から銀月を引出したものと思はれる新事實が擧がりました。」 「ほオ、何《なん》でせう。」 と、博士は耳を欹《そばだ》てる。 「犯罪の當夜ですな、即ち月曜日の夜《よ》、一群《ひとむれ》の乞食が兇行のあつた場所から七八丁離れた處に野宿をした形跡を發見致したのです。翌日乞食共は立去りましたが、今果して比志島と乞食共と何等かの默契《もくけい》が有つたとしましたらば、彼が銀月を彼等の方へ引張つてゆく途中で奧花と遭遇《でつくわ》したので、その格鬪中乞食共が馬を何處《いづく》へか引去つたといふことは有り得べき事ではないで厶《ござ》いませうですか。」 「そりや確に有り得べき事でせう。」 「ですから此邊一二里の間と申すものは、隅から隅まで乞食共を搜索させ、なほ各所に厶《ござ》いまする、廐をも探偵致させました。」 「近所にも廐があるとか聞いて居ましたナ。」 「厶《ござ》います。耳《のみ》ならず、それが非常に大切な要素だらうと思ひます。松戸で銀月に續く名馬は厚川氏の所有する「野嵐《のあらし》」と申します。野嵐の關係者が銀月が傷《きずつ》くか紛失《なく》なるかすれば、好いと念じて居るのは自然で厶《ござ》いませう。そこで此野嵐の飼はれて居る泉原の廐を監督致して居《を》りますのは、小谷《をたに》才吉《さいきち》と申す調馬師で、奧花とは謂はゞ商賣敵《しやうばいがたき》ですが、併し探偵させたところに依りますと、小谷は今度の事件とは何の關係もない樣で厶《ござ》います。」 「比志島とその泉原の廐との關係はどうですか。」 「何も厶《ござ》いません。」    5…珍しい外科醫の小刀《ナイフ》…………怪しき呉服屋の受取證[#「怪しき呉服屋の受取證」に丸傍点]…………  呉田博士はそれきり默つて車の後《うしろ》に倚《よ》り掛つたので、警部との問答は一先《ひとま》づ絶えた間もなく自動車は町を離れ、並木路を馳せ、緩《ゆるや》かな丘の裾を繞《めぐ》つて終《つひ》に畑野男爵の別莊の前に止まつた。  他《た》の三人は玄關の前でヒラリと飛降りたが、博士ばかりは相變らず膝を抱いて、眼を遠方の地平線に据ゑ、一心に何か默想に耽《ふけ》つて居る。で、中澤醫學士が下から上着の裾を引張ると、初めて吃驚して車から降りた。  其樣子を見て變な顏付をして居る男爵の方へ博士は向つて 「失禮、々々……ツイ空想に耽つて居つたのぢやから、ハヽヽヽヽ。」  併し博士の眼中には異樣な閃きが宿り、その態度には興奮を抑壓するやうな風が見えた。中澤醫學士は能《よ》く見慣れて居るが、これは博士が事件の解決の端緒《いとぐち》を探り當てた時に毎時《いつも》やる表情である。 「直ぐに現場《げんぢやう》へ御出《おい》でなさいませうナ。」 と鹿島警部が訊いた。 「その前にこゝで尚少《もすこ》し研究して見たい事があります。被害者の死體は多分別莊へ運んでありませう。」 「ハイ、二階へ運んで厶《ござ》います。」 「畑野さん、奧花なる物は何年も貴君《あなた》に仕へましたか。」 「さうです、非常に忠實に事《つか》へて呉れました。」 「兇行當時の被害者の所持品は御調べであつたでせうナ。」 と、再び鹿島警部に訊く。 「御覽になりますならば、階下《した》の表の間《ま》に置いて厶《ござ》いますから、御案内申しませう。」 「何卒《どうぞ》。」  一同表の八疊の間へ入つて行《ゆ》く。鹿島警部は棚の上から一つの小箱を取出し、其中から雜多の品物を机の上に列《なら》べた。蝋マツチ、角燈、パイプ、卷煙草、懷中時計、二圓入りの財布、二三通の手紙……皆彼の懷中《かくし》に入つて居たものであるが、最後に取出された一つの物は忽ち博士等の眼を惹いた。それは象牙の柄《え》のついた、刄の非常に鋭利な、撓《たわ》み易いほど薄く出來た一挺の小刀《ナイフ》であつた。  博士は取上げて仔細に裏表を調べながら 「隨分變つた小刀《ナイフ》ですなア。血痕の附着して居《を》るところで見ると、これが被害者の手にあつたものですな。中澤君、君はかういふものを知つて居《を》る筈ぢや。」 「これは先生も御存知でせう、我々が外科の方で使ふメス………あれとも少し違ひますが、まアあれの大形なものでせうなア。」 「私《わし》もさうは思ふた。兎に角、極く細《こまか》な仕事に用ゐるために斯う薄刄《うすば》にこしらへたものぢや。此樣な物で、自分に危害を加えへやうとする敵を防がうとするのは奇體な話ではないですか。」 「これは死骸《したい》の傍《そば》に見付けたのですが、この小刀《ナイフ》の端《さき》にはコルク製の鞘がはめてありました。」と、警部はその鞘を取出して「奧花の女房の申すところでは、小刀《ナイフ》は五六日も先きから被害者の座敷にあつたので、先夜《せんや》出掛ける時には確に持つて出たらしいと申すのであります。まことに脆いものですが。被害者は兇行を受ける際恐らくこれ以外に武器を持つて居なかつたらうと思はれます。」 「多分|然《さ》うでせう。其等《それら》の書類は何《なん》ですか。」 「この三枚は乾草《ほしくさ》を買ふた受取證ですナ。この一通は男爵から用件の命令の御手紙です。またこれは新倉《にひくら》連三《れんざう》といふ者へ宛てた東京の或る呉服屋の受取證で、奧花の妻《さい》の申す所では、此新倉なる者は夫《をつと》は自分の友人だと申して居たさうで、何かの都合でそんな受取證を預かつたものだらうと申して居ました。」  博士は受取證を一渡《ひとわた》り讀んで見て 「新倉といふ者の細君は贅澤な婦人と見える。丸帶一本八十圓は奢《おご》つて居《を》るではないか。が、それはそれとして、もう格別ここでは御訊ねする事もなさゝうですから[#「なさゝうですから」は底本では「なさゝさうですから」]、犯罪の現場《げんぢやう》へ御案内を願ひませう。」  一同再び玄關口へ立ち現れた。すると其處に三十二三かとも思はれる一人の婦人が待つて居た。丸髫《まるまげ》の髮が潰《くづ》れて、眼は泣き脹《は》らした後のやうに赤く濁つて居て、酷く憔悴した其顏には烈《はげ》しい悲哀《かなしみ》の色が歴々《あり/\》と現れて居る。 「これが被害者の妻《つま》です。」 と、警部は博士に囁いた。  婦人は遠慮勝ちに腰を屈めながら、警部の傍《そば》に近寄つて 「あの………下手人はもう御見付かりになりましたで厶《ござ》いませうか。もう御縛りになりましたで厶《ござ》いませうか。」 と、|※[#「執/れんが」、U+24360、131-10]心《ねつしん》に潤《うる》み聲で尋ねるのであつた。 「いや/\未《ま》だですわ。併し此處《こゝ》にお在《い》での呉田博士がわざ/″\此事件のために東京から御出張下すつたからねえ、犯人が確定するのも最早《もう》間もない事ですテ。」 「やア貴女《あなた》が奧花さんの御内儀でしたか。貴女ならば、以前に畑野男爵邸の園遊會の時に確かに御目に掛つた事がありますぞ。」 と、博士はさも慣々《なれ/\》しく挨拶した。 「ヘエ………否《いえ》、私《わたくし》はツイ御見外《おみそ》れ申しまして………否《いえ》、御人違ひで厶《ござ》いませう。」 と婦人は怪訝な顏をする。 「人違ひではありません、確に貴女ぢやつた。ソレ貴女は千羽鶴を織出した厚板の丸帶を締めて、秋草の裾模樣の縮緬の衣服《きもの》を着て居なすつたらうが………。」 「まア何《ど》う致しませう! 私共のやうな身分の者がその樣な贅澤な仕度を致さうたつて出來は致しません!」 「成程、々々、いや失禮………それで解つた。」 と、博士は頭を下げて警部の後に續いた。何が解つたのやら他の者には合點が行《ゆ》かない。    6…泥濘《どろ》塗《まみ》れの蝋マツチの發見…………見落した警部の赤面[#「見落した警部の赤面」に丸傍点]…………  男爵の別莊から廐のある千駄堀までは餘り遠くはなかつた。野路《のみち》を徒歩で五六丁も行《ゆ》くと、被害者奧花の死體が發見された窪地へ到着した。その縁には彼の外套が引掛かつて居たといふ溲疏《うつぎ》の藪がある。 「あの晩は風が吹きましたか。」 と、博士が警部に聞き出した。 「風は少しも吹きませんでしたが、ひどい雨降《あめふり》でした。」 「すると外套は風に吹かれてあの藪へ引掛つたのではなく、態々《わざ/″\》あれへ引掛けたものですナ。」 「ハイ、多分左樣で厶《ござ》いませう。」 「貴君《あなた》もさうお考へか、成程、面白い。地面は隨分踏み荒されてあります喃《のう》。兇行の翌日以來、貴君方《あなたがた》澤山の方々がこゝを踏まれたのぢやらうか。」 「いえ、足跡を踏まないやうにと、この蓆《むしろ》を傍《そば》へ敷きまして、その上へ登つて調べました。」 「それは好い思附《おもひつ》きでありました。」 「この袋の中に奧花の穿いた長靴と、比志島の穿いた編上靴と、銀月の馬蹄鐵《ばていてつ》とが入れてございます。」 「いや、それは益々御用意周到ぢや!」  博士は袋を受取つて窪地の底へ降り行《ゆ》き、蓆《むしろ》をズツト中央《まんなか》の方へ押し動かした。そして其上に匍《は》ひつくばひ、兩手の甲に頤《あご》を乘せて、眼前《めのまへ》の泥濘《どろ》を蹂躙《ふみにじ》つた足跡に近々《ちか/″\》と瞳を寄せて調べ出した。 「オヤ/\、これは何《なん》ぢやい!」  突然に斯う叫んで何《なに》やら小さな物を撮《つま》み上げた。何《なん》ぞと見ればそれは一本の蝋マツチであつた。蝋マツチは半分焦げて泥濘《どろ》塗《まみ》れになつて居たので、一寸見には普通の小さな棒としか思はれなかつたのだ。  鹿島警部は少し極《きま》りの惡るさうな顏をして 「どうしてそんな物が眼に入らなかつたのでせうなア。」 「斯う泥濘《どろ》に埋《うも》れて居ては見落としなさるのも無理はない。私《わし》は搜すつもりであつたから見付かつたのぢや。」 といふ博士の眼は何故か異樣に輝いた。 「エヽ! 先生はこゝに蝋マツチがある筈とお思ひなんでしたか。」 「或《あるひ》はさうかと思ひました。」  次に博士は袋から奧花の長靴と、比志島の編上靴と、銀月の馬蹄鐵とを取出して、それ/\泥濘《どろ》に付いて居る足跡へ當てゝ見たが、それが濟むと又もや窪地の淵に登つて、ギシ/″\生へて居る羊齒《しだ》の間や、藪の中を屈《こゞ》んで歩き出した。 「もう其邊には足跡は厶《ござ》いますまいよ、こゝから二三丁の間は私共《わたくしども》が精々綿密に調べましたつもりですから。」 と、警部は注意した。 「はア、然《さ》うでせうとも!」と、博士は身を起して「いや、貴君方の搜された後をまた搜さうなぞといふ失禮な念は毛頭ありませぬのぢや。たゞ日暮前に少し此邊の地勢も見ておいたら、また明日の研究に都合が好からうかと思ひましての………それに、この馬蹄鐵は明日まで御借りしたいものぢや。」  墓出が悠々と落着き拂つて、方式に從ふて探偵してゆくのを、畑野男爵は悶《もど》かしさうに見て居たが、懷中時計を出して見ると、もう遲い。 「鹿島さん、御一所に一つ別莊まで御歸りを願ひ度いものですが………まだ色々御相談を願はねばならぬ事も[#「願はねばならぬ事も」は底本では「願ばねならぬ事も」]有りまするし、第一、銀月が紛失して見れば、世間に對しても競馬の登録簿からあの名だけを除かねばならぬかと思ひますがなア。」 「そんな必要は斷じてありません。私が盟《ちか》つて言ひます、私は除かせません。」 と博士は横から|※[#「執/れんが」、U+24360、138-4]心《ねつしん》に斯う口を入れた。  男爵は丁寧に頭を下げて 「貴君がさう仰有《おつしや》つて下されば非常に心強いと申すものです。私共《わたくしども》は奧花の宅でお待受け致しますから、御調べが終りましたらばそこへ御出《おい》で下さいまし。御一所に宅へ御供致し度《た》う厶《ござ》いますから。」  警部と男爵とは立去つた。博士と中澤醫學士とは野を靜かに歩み出した。太陽は廐のある一帶の丘陵《をか》の彼方、甲斐境《かひさかひ》の地平線の上に沈み掛けて居る。その斜陽を浴びた秋の末つ方《かた》の野は、黄金色から次第々々に濃厚な紅褐色《こうかつしよく》に彩色《さいしき》されて行《ゆ》く。併し此の美麗な自然の景色も、清爽《せいそう》な境地も、深い默想に沈んだ博士の眼には何の感興《かんきよう》をも起さぬらしい。    7…見る/\顏色は土の樣に變つた…………博士は何を囁いたのか[#「博士は何を囁いたのか」に丸傍点]…………  默々として歩いた博士は、軈《やが》て中澤醫學士を顧《かへり》みて 「先づ今のところは、奧花を殺した下手人を探偵するのは第二の問題としてぢやね、我々は矢張り馬の行衞を搜索するのが第一ぢやと思ふ。そこで、銀月が、奧花と比志島との格鬪の間に……或《あるひ》は其後かも知らぬが……何處ぞへ去つたと假定する。すると果して何處へ行つたものであらう。元來馬といふものは群居《ぐんきよ》を好む動物であるで、彼の意の儘に任せ居つたならば、男爵の廐へ走り歸るか、若《もし》くは小谷才吉なる者が監督している泉原の廐へ行つたものと思はるゝ。若し野を彷徨《さまよ》ふて居たとしたならば人の眼に觸れぬことは萬《ばん》無からうではないか。また乞食共が連れ去つたといふ説も理由《いはれ》のないことぢや。あゝいふ種類の人間共は、警官に惱まされるのを甚《ひど》く恐れて居るから、面倒な事をば成るべく避けやうとする。假《よ》し彼等が銀月を手に入れ居《を》つたとした所で、あの樣な名馬を何處へ賣るのか。折角|危《あぶな》い目をしても骨折損の疲勞《くたびれ》儲けではないかこれは明々白々の道理である。」 「すると、銀月は何處に居りませう。」 「今言ふた通り、男爵の廐か、さもなくば泉原の廐か何れかに居るのぢや。既に男爵の方に居《ゐ》ぬ事は確かぢやから、泉原の方に居るものと見ねばならぬ。さういふ事を一つ假定に置いて、さて其假定が那邊《なへん》まで我々を導くかといふのに、此邊の野は鹿島警部も言ふた如く、非常に土が固《かた》うて且つ乾いて居《を》る。が、地勢を見ると段々この野は泉原の方に傾斜して居《を》る。そして此處からソラ君にも見えるぢやらう、彼處《あすこ》から低い谷合《たにあひ》が長く泉原の方へ續いて居るぢやらう。あの窪みが犯罪の夜《よ》には雨降りで濡れて居《を》つた。で、若し我々の假定が誤らぬとすればぢや、銀月はあの谷を通つたものと思はねばならぬのぢやから、一つ足跡を調べて見やうではないか。」  斯く話し合ふ間にも二人は足速《あしばや》に歩いて居たが、間もなく目指した淺い谷へ着いた博士の意見に從つて、中澤助手はその右側を調べ、博士は左側を辿る事としたが、僅か十間も進んだと思ふ頃、博士は不意に叫聲《さけびごゑ》を擧げて醫學士を麾《さしまね》いた。馬の足跡が判然と眼前《めのまへ》の柔かな土に印《いん》せられてある。博士が先程の銀月の馬蹄鐵を取出して、その足跡へ當てゝ見ると寸分の隙なくピタリと合ふ。 「どうぢや、想像と言ふものゝ價値が解るぢやらう。惜《をし》い事に鹿島警部はこれが缺《か》けて居つた。我々は有り得べき事を想像し、假定の上に立つて働いたが、とう/\その正當なる事が解つた。さアもう少し進まう。」  二人は濕々《しめ/″\》とした谷を過ぎ、次に乾いた固い草土を越ゆること四五丁、またもや地面が坂となり、またもや同じ足跡に遭遇《でつくわ》した。それから七八丁は足跡が絶えたが、三度《みた》び、泉原の極くの手前で發見した一番先きにそれに氣の付いたのは博士で、博士がさも得意氣に指す地面を見れば、馬の足跡の傍《そば》に人間の足跡が付いて居るのだ。 「此處までは馬は獨りで來たのですナ。」 「さう、獨りで來たのぢや、ほオ! これは何うぢやい。」  人間と馬との足跡はこゝから急に方向《むき》が變つて、男爵の廐のある千駄堀の方へ向いて居る。二人はそれに跟《つ》いて進んで行つた。博士は一生懸命に足跡のみに目を注いで行つたが、暫時《しばらく》行つた頃、中澤醫學士が不圖《ふと》傍《わき》を見ると、その人間と馬との平行した足跡が再び方向《むき》を變へて、又もや以前の方に戻つて居るのを發見した。で、さう注意すると博士は初めて顏を擧げて 「全く君の言ふ通りぢや。お影で遠くまで徒勞足《むだあし》をせずに助かつた。では此足跡の方向《むき》に戻つて見やう。」  二丁も東へ行《ゆ》くと忽ち泉原の廐の前に出た。小さな門の前に立つて内《なか》の樣子を覗《うかゞ》つて居ると、一人の馬丁《ばてい》が走り出て博士等の姿を迂散臭《うさんくさ》さうに眺めながら 「何の御用ですか、此邊に徘徊《うろつ》いて居て下すつては困りますぜ。」 「いや、一寸御訊ねするがの………。」と博士は懷中《ぽつけつと》へ手を突込んで銀貨の音をわざとヂヤラ/\させながら近寄つて「こゝには調馬師の小谷才吉さんが居《を》られる筈ぢや。私は少し御目に掛りたい事があつて明朝五時に御訪ねしやうと思ふのぢやが、その時刻では餘り早からうか。」 「あゝ、さうで厶《ござ》いますか、なに、親方は一番早起で私等《わたしら》が毎朝迷惑する位なんで、ヘヱ、御目に掛られますとも………。」と馬丁は銀貨の音に急に愛想好くなつたが、俄《には》かに狼狽《まご/″\》して「親方が出て來るやうですから直接《ぢか》に御聞きなさいまし。否《いえ》、どうぞお金は後で………へヱ、お金を貰ふ所なんぞ見られると此方が首になりますからねえ、後で/\………。」  博士が出し掛けた二十錢銀貨をまた懷中《かくし》へ引込めた其時、一人の男が門内から現はれ出た。眉の太い、唇の厚い冷酷さうな赤銅色をした五十近い男で、手に鞭を一本持つて居る。 「コラ、房公《ふさこう》、何してるんだ。ベチヤ/\喋つて居ずに早々《さつさ》と仕事に掛《かゝ》れ!」と怒鳴つて置いて其男は博士等を睨《ね》め廻し「貴君《あなた》がたは……何の御用で來なすつたえ。」 「あゝ、貴君が親分《おやかた》さんか。私《わし》は一寸、御話したい事があつて參つたのぢや。」 「私は見知らぬ人と無駄話なんぞしてる隙《ひま》はごわせん。早く去《ど》かつしやい。でねえと犬を嗾《け》しかけやすぜ!」  博士は少し體《からだ》を乘出して、調馬師の耳になにやら囁いた。すると小谷は駭然《びつくり》として急に耳の根までも紅くしながら 「と、途方途轍もねえことを言ふ! お前さんはそんな有りもしねえ訖宣《ごたく》を列《なら》べて強請《ゆすり》にでも來なするたんだね………。」 「ハヽア、強請なら強請で好し! それでは此秘密を世間へ撒布《ぶちま》けやうか………それが可厭《いや》ならお前さんの部屋へ行つて相談しやうか………。」 「さうだね、何ならさうして頂きやせうか。」 「中澤君、暫く其處に待つて居てくれ。」と博士は微笑みながら「さア小谷君、どうなりと君の意に任せやう。」  博士と小谷とが再び出て來たのは、それから廿分ばかり後《のち》であつた。此一寸の間《ま》に小谷の樣子の變り方つたら無い。赤銅色の顏は灰白色となり、額からは大粒な汗がポタリポタリと滴り落ち、手に持つた鞭は風に吹かれる葦の葉のやうに顫《ふる》へて居た。今の今迄人もなげに振舞つた傲岸不遜な態度がガラリと消えて、飼犬のやうに博士の腰に緊着《くつつ》いて來るのであつた。 「先生の御命令《おいひつけ》通り致しやす、ハイ、屹度致しやす。」 と、恐る/\言つた。 「間違ふてはなりませんぞ。」 と、博士が屹《きつ》と相手の顏を眺めると、小谷は其|威權《ゐげん》に搏《う》たれて一堪《ひとたま》りもなく縮み上り 「ヘエ、/\、御念にや及びません、屹度|彼處《あすこ》へ遣つて置きます。が、あの方を先きへ變へますか、それとも………。」 と、何の事やら解らぬ事を聞く。博士は暫時《しばらく》考へて居たが、軈《やが》て吹出して 「いや、それは未《ま》だぢや、それについては何れ手紙で知らせやう、今そんな手品をしては………。」 「宜しう厶《ござ》います、/\、萬事呑込みやした!」 「其日はお前のものゝやうにして見せねばなりませんぞ。」 「萬事呑込みやした。」 「ハヽヽ呑込みの好い男ぢや。では詳しくは明日また知らさう。」 と、博士はクルリと踰《きびす》を廻《めぐら》した。    8…跛《ちんば》の豚が大事實を語つて居る…………博士の奇言は誰にも分らぬ[#「博士の奇言は誰にも分らぬ」に丸傍点]…………  博士と助手とは黄昏《たそが》れかゝつた野路《のみち》を、以前の千駄堀に向つて話しながら歸つて行つた。 「ハヽヽ、外擴《そとひろ》がりの内容《うちすぼ》まりとは彼奴《あいつ》の事ぢや。見掛ばかり暴慢《ぼうまん》のくせに、あの樣子な卑怯な男はまだ見た事がない。」 「すると、矢張り銀月を隱したのは彼奴《きやつ》の仕業ですか。」 「初めは威張りくさつて彼此《かれこれ》と辯駁《べんばく》し居つたがの、私《わし》があの兇行の翌朝の彼奴《きやつ》の行動を詳しう説明して聞かせたところ、彼奴《きやつ》まるで私に目前視《まのあたりみ》てゞも居られたやうに意外に思ふたらしいのぢや地面に一種特別の四角なやうな足の跡のあつたのは君も氣付いて居つた喃《のう》。あれがぢや、彼奴《きやつ》の靴にピタリと合ふたではないか。思ふにあの朝の彼奴《きやつ》の行動は斯うなんぢや。……毎時《いつも》の朝起の癖で、先生暗い中《うち》に起出《おきいで》たと思ひ給へ。すると一疋《いつぴき》の見慣れぬ馬が野を徘徊《さまよ》ふて居《を》るのが眼に入つた。で、近寄つて見ると吃驚した。と言ふのは額の白い所から、鬣《たてがみ》の栗色の具合、毛並、體格、どう見ても銀月である。松戸の競馬場で第一番と讃へられらるゝ名馬である。そこで、初めは畑野男爵の廐へ連れ返さうと思ふて馬を引張つて出掛けたのぢやが、考へて見ると敵の馬ぢや三四日後に行はれる競馬會の濟むまで引留めて置けば、自分等の持馬に大した利益が來る。さういふ惡念が不圖《ふと》萌《きざ》したから、忽ちまた中途から引返して自分の廐に慝《かく》まふたのぢや。これは君と二人で見た足跡で證明が出來る。……どうだ大地を打つ槌は外《はづ》るゝとも此推定に間違ひはあるまいがナと急所を刺すと、彼奴《きやつ》一も二もなく恐入《おそれい》つての、どうぞ内濟《ないさい》に/\とばかり哀願するのぢや。」 「すれば馬を彼奴《きやつ》の手許に殘して行《ゆ》くのは危險ではありませんか。彼馬《あれ》を損《そこな》へば即ち彼奴《きやつ》の利益となるのですからなア。」 「なに最早《もう》その懸念には及ばぬ。却《かへつ》て馬を無事に返す樣にと思ふて喘々焉《ずゐ/″\えん》として保護して居《を》る事ぢやらう。」 「畑野男爵といふ人は大變慈悲深い人とも思はれませんね。」 「事件と男爵とは何の關係もない。私は只私の採るべき方法を採つて進むのみぢや。それが御役人でない幸福《しあはせ》といふものさ。君は氣付かなんだかも知らぬが、男爵が私に對する態度が少し傲慢であつた。で、私も少し彼方《むかふ》を戯弄《からか》つてやらうと思ふのぢや。馬の事については男爵にはまだ何の話もせぬやうにして貰ひたい。」 「先生の御許可《おゆるし》のない中《うち》は喋りません。」 「なに、馬の問題なぞは、奧花の殺害《せつがい》事件と比べては些細な事ぢやがねえ。」 「今度は其方《そのはう》へお取り掛りですか。」 「いや、夜行で東京へ歸りませう。」  中澤醫學士は意外な言葉に驚いた。松戸へ出張して來たのは、僅々《きん/\》數時間以前だのに、此成功の希望の光|赫灼《かくしやく》たる事件を放擲《ほうてき》して歸京するとは何とも怪訝《くわいが》の至りである。併し奧花の家《いへ》へ行《ゆ》き着く迄は、博士は其理由に關しては最早《もう》一言《いちごん》も漏らさなかつた。奧花の家には男爵と鹿島警部とが待受けて居た。 「私等《わしら》は今夜の夜行で東京へ歸ります。いや、お蔭で此邊の美しい景色を見たり、良い空氣を吸ふたりして愉快でした。」 と、博士は何氣なく言つた。  警部は眼を圓《まる》くした。男爵はさも輕蔑したやうに唇を引歪《ひんま》げて 「すると、奧花の下手人を御見付けになる見込みが有らつしやらないですか。」 「犯人を捕縛するのは仲々容易な仕事ではありませんのぢや。併し貴君の馬は來週の火曜日の競馬會には十中八九までは、現はれる望みが立ちましたで、競馬の用意をなすつたら宜しからう。鹿島さん、奧花の寫眞を御持ちかの。」  警部は一枚の寫眞を懷中《かくし》から取出して渡した。 「流石は御職掌柄《ごしよくしやうがら》、私の必要と思ふほどの物は皆チヤンと用意して居られるのは辱《かたじけ》ない。序《つい》でにもう暫時《しばらく》待つて下され、一寸|此家《このや》の女中に聞き質《たゞ》しておき度《た》い事が有りますから。」  博士が勝手の方に立つて行《ゆ》くと、直姿《そのすがた》を見送つた男爵が無遠慮に 「どうも折角東京から來て頂いたが、大《おほい》に失望ぢや。先刻《さつき》と今と、事件の解決に向つて一歩も進んでは居らん。」 「併し少くも貴君の愛馬が競馬會に間に合ふといふ保證は博士がされたでは厶《ござ》いませんか。」 と中澤醫學士が言つた。 「そりや然《さ》う言はれたが………馬を彌々《いよ/\》發見してからに保證なさるが好いテ。」 中澤醫學士がなほ何をか辯解しやうとする折しも、博士が勝手から戻つて來た。 「御待遠《おまちどほ》でした。これで殘らず用事が濟みました。」  で、一同外へ立出《たちい》でた。もう日が暮れて青黒い空には星が一面に撒布《ちらば》つて居た。そこへ丁度一人の若い馬飼が通り掛つた。すると博士は不意に何をか思ひ付いたと見え行《ゆ》き過ぎた馬飼の後を追ふて引留めて 「コレ/\、少し物を訊ねるがの、晝間見たらば此處の牧場の隅で豚を飼ふて居るらしかつたが、飼番《かひばん》は誰れであらう。」 「私が豚掛《ぶたがゝ》りです。」 「おゝ、それは僥倖《さいはひ》ぢや。近頃豚に何か變つた事はないかの。」 「さうですね、格別變つた事もありませんが………あゝ、さう/\、四五日前から、不思議な事には四五疋の奴が跛《ちんば》になりました。」 「おゝ、然うか、然うか、いやもう宜しい、有難う………中澤君、追々《おひ/\》成功するぞ」 と、博士は非常に何か御機嫌の體《てい》で 「鹿島さん、豚の間に奇體《きたい》な傳染病が流行《はや》るさうぢやから御注意なさい!」  男爵は相變らず見絞《みくび》つた眼付をして居るが、鹿島警部は|※[#「執/れんが」、U+24360、155-7]心《ねつしん》な調子で 「豚の傳染病が本事件に必要事項で厶《ござ》いませうか。」 「非常に緊要《きんえう》です。大《おほい》なる事實を語つて居《をり》ます。」 「他に何ぞ御注意を願ふやうな事は厶《ござ》いますまいか。」 「兇行の夜《よ》の犬の樣子が不思議ですナ。」 「犬には格別變事がありませんでしたが………。」 「それが不思議ぢやと申すのです。」  警部は默つて考へながら、暗い野路《のみち》を歩いた。    9…犯人は貴君《あなた》の後《うしろ》に居《を》る…………えツ[#「えツ」に丸傍点]、え[#「え」に丸傍点]、直ぐ後に[#「直ぐ後に」に丸傍点]! と驚いた[#「と驚いた」に丸傍点]…………  それから四日後、松戸の秋期競馬會が始まつた日に、呉田博士と中澤醫學士とはまた上野から汽車で松戸の町に赴いた。豫《かね》ての打合せに從つて、畑野男爵は前の通り停車場《ていしやぢやう》に出迎へ、自動車で博士等を競馬場へ送つた。 「銀月については其後依然として何の手懸《てがかり》もありませんかなア………。」 と、男爵は車を驅けさせながら不平さうに言つた。 「多分|目前《まのあたり》御覽になつたらばお解りぢやらうと思ふ。」  男爵は腹立たしさうに顏を紅くして 「さういふ御挨拶は心外ですナ。私《わたし》も競馬が道樂で廿年來これに關係して居《を》るが、その樣な御挨拶を受けた事がありません。銀月といふ馬は額が白くて、前脚《まへあし》が雜色だぐらゐは此邊の子供でも存じて居ますからなア。」  博士は素知らぬ顏して賭金の話しなどをして行《ゆ》くうちに、自動車は競馬場へ着いた宏莊《くわうさう》な建物の内外には血眼になつた群衆が一パイ充滿して、罵り騷いだり、笑ひ興じたりして居る。其間を分けて札賣場《ふだうりば》へ行《ゆ》くと、掲示板には賭金の條例《でうれい》、競爭|哩《マイル》數其他の要項が掲示してあつて、其次に第一回競爭の馬の名と選手の色別《いろわけ》とが左《さ》の樣に書いてある。  一、仁高《にたか》玄作《げんさく》氏所有「隼《はやぶさ》」 (帽子|紅《あか》、短衣《チヨツキ》肉桂色《にくけいいろ》)  二、眞泉《まいづみ》禮太《れいた》氏所有「電光《でんくわう》」(帽子|淡紅色《たんこうしよく》、短衣《チヨツキ》青と黒)。  三、厚川《あつかは》金成《かねなり》氏所有「野嵐《のあらし》」(帽子|黄《き》、袖|黄《きい》)。  四、畑野《はたの》男爵所有 「銀月《ぎんげつ》」(帽子|黒《くろ》、短衣《チヨツキ》紅《あか》)。  五、柴田《しばた》宏助《くわうすけ》氏所有「荒浪《あらなみ》」(帽子|紫《むらさき》、袖|黒《くろ》)。 「私は貴君の御言葉を信じて、他の持馬の名は全部抹殺して出場させませんでした。」 と男爵は博士の顏を不安さうに竊《ぬす》み見ながら言つた。  競馬のグラウンドを見て居た中澤醫學士は 「皆《みん》なで六疋《ろくひき》居りますよ。」 「成程六疋ぢや! すると私の馬も出て居《を》るのかナ!」と男爵は急に眼を光らせて 「けれども私には見えない。私の色のゝはまだ見えませんね。」 「今五疋だけ過ぎましたから、今度が大方さうかも知れません。」 と言ふ時しも、出立點の方から一疋の肥滿した栗毛の駒《こま》が、背《せな》に例の有名な黒赤の帽子、短衣《チヨツキ》の打扮《いでたち》の選手を乘せて走り出た。  男爵は頭を振つて 「ありや私の馬ぢやない。あの馬の毛は白くないぢやありませんか。呉田さん、貴君の御見付けになつた銀月は一體何ういふのでしたらう。」 「まアお待ちなさい、近寄つたら能《よ》く御覽じろ。」と、博士は落着き拂つて双眼鏡で暫時《しばらく》眺めて居たが「これは素的《すてき》ぢや! あの駈け振りの良さはどうぢや! おゝ/\、もう廻目《まはりめ》へやつて來居《きを》つた!」  六疋の駿馬は非常に密接して、殆ど一枚の毛布で覆ひ盡せるばかりに肩を列《なら》べて走つて來たが、半ば頃から厚川某《あつかはぼう》の所有にかゝる泉原の廐の黄帽《くわうぼう》の野嵐が他《た》を拔いて先頭に立つやうになつた。銀月を除いては此が優勢の評ある馬だからそれも無理はあるまい、と、群衆が見物して居る中《うち》に、こは什麼《いかに》、畑野男爵の持馬と定《き》められた黒帽《こくぼう》の逸足《いつそく》が、博士等の面前に來ると、突如として長鬣《ながたてがみ》一振《ひとふり》、猛然速力を速めて、野嵐を拔くこと正に六挺身《ろくていしん》となつた。 「ハテ變だナ、銀月でなくては彼《あ》の樣に野嵐を追ひ拔くものはない筈ぢやが………。」 と男爵は額に手を加へて呆れ惑ふのみであつた。 「さう、貴君の銀月でなくて他に拔く馬は無い筈ぢや。が、まア傍《そば》へ寄つて熟《とつ》くりと覽《み》やうではありませぬか、そしたら萬事お解りぢやらう。」 と、博士は男爵を促して、馬の持主と其友人ばかりが入場を許されてある特別の出立點の場席に入り込んだ。そして今しも大喝采の裡《うち》に決勝點に先着した栗毛の馬を指しながら。 「畑野男爵、彼《あ》の馬の顏と前脚とを燒酎で洗ふて御覽《ごらう》じろ。そしたら彼馬《あれ》が眞物《ほんもの》の銀月ちうことがお解りの筈ぢや。」 「そりやまた何《ど》うしてゞすか!」 と、半信半疑で馬の傍《そば》に近寄つた男爵の眼には、次第に愛馬の姿が髣髴《はうふつ》として映つて來た。色こそ違へ、鬣《たてがみ》、肉附、背恰好、此馬《これ》がそも銀月か、銀月がそも此馬《これ》か……。  で、男爵は振返つて 「實に貴君の靈妙なる手腕には驚きました。確かにこれは銀月です。而《し》かも今迄に嘗て無いほど肥滿して健康さうに見えるのは不思議ですなア。斯くとも知らず先日から色々無禮な事を申上げたのは、何とも汗顏の至《いたり》に堪へません。馬を御取戻し下すつたといふ事は非常な御骨折《おほねをり》です。この上奧花を殺した犯人をさへ御見付け下さればもう申分はありません。」 「それも見付けました。」 と、博士は靜かに言つた。  男爵のみならず、中澤醫學士迄が駭然《がくぜん》として眼を見張つて 「何と仰有《おつしや》る、犯人を御見付けになつた! ど、何處に居ますか、何處《なにもの》ですか!」 「犯人は此處《こゝ》に居ます。」 「えツ、此處に! 何處に!」 「此處に、現在|私《わし》の傍《そば》に。」  男爵は短氣《きばや》の質《たち》とて赫《くわつ》と急《せ》き込み 「呉田さん、御戯談も程によりけりです。貴君の御盡力に對しては何處までも感謝を捧げますが、其樣な紳士の態面《たいめん》に關はるやうな侮辱の御言葉は御免を蒙り度《た》いものです。」 「ハヽヽ、何も貴君が犯罪に關係が有りなさるとは言ひはしませんぞ。眞《しん》の犯人といふのはソレ、直ぐ貴君の後《うしろ》に立つて居《を》るではないですか!」 「えツ、直ぐ後に!………」 と、クルリと振向いた鼻先きに立つて居るのは男爵の愛馬銀月である。其|光澤々々《つや/\》した頸首《えりくび》に手を置いた男爵と、中澤醫學士とは他《た》に人の影さへ見えないのに異句《いく》同音《どうおん》に 「馬ですか!」 と|※[#「口+斗」、U+544C、164-3]《さけ》んだ。 「さう、銀月こそが眞《まこと》の犯人であつたのですワ。併し銀月は罪を犯して罪が無いのぢや何故かと言へば、生命《いのち》の危害に對する正當防禦を行ふたからなので、男爵の多年信任せられて居た奧花こそ却《かへつ》て喰《くは》せ者であつたのです。や、併し鈴《ベル》が鳴り出した。二番目の競爭が始まるぢやらうで、悠《ゆつ》くり見物してから御物語りを致さうではないですか。」    10…米飯《ライス》カレーへ阿片を入れたは誰?……犬の吠えなんだは第一の不思議[#「犬の吠えなんだは第一の不思議」に丸傍点]  其日の夕刻競馬が終へてから、松戸|經由《けいゆ》、上野行きの列車の一等室の片隅には、本邸に歸る畑野男爵と、呉田博士と中澤醫學士の三人とが一團となつて居た。そして男爵と醫學士との二人は、博士が物語る月曜日以來の犯罪の經路、博士が取つた靈妙な探偵方針について、宛然《さながら》醉はされたやうになつて聽き恍《ほ》れるのであつた。  博士は話し續ける。  實を言ふと私《わし》も、新聞記事から綜合《そうがふ》して色々の理論を築き上げたが、それは皆間違ふて居ました。新聞記事といふ物にも教へられる所はあるが、惜《をし》い哉《かな》、餘りに詳細迅速の報導《はうだう》を尊《たつと》んで、却《かへつ》て事實の眞相を朦朧たらしむる。併し初めて松戸へ出掛けた時には、彼《か》の比志島《ひしじま》なる者を矢張り眞《しん》の犯人と心に認定して出掛けました。彼に對する證據が不完全であることは認めて居つたが、どうも彼らしい所もあつた。が、汽車を降りて畑野さんの自動車で別莊迄走る間に、不圖《ふと》私は一大事實に氣が付いた。と言ふのは彼《あ》の晩馬飼の濱一《はまいち》がライスカレーを喰つたといふ事である。覺えてお居でぢやらうが、あの時皆さんが別莊の玄關前で降りてからも、私だけは茫然《ぼんやり》と自動車に殘つて居て、中澤君に注意された位であつたが、實は斯樣な明白な、緊要《きんえう》な一大|證跡《しようこ》を何故氣付かなかつたかと自分ながら呆れて居たのでした。」 「はア、ライスカレーが其樣《そのやう》に緊要ですかナ。私にはさう仰有られてもどうもまだ解りません。」 と男爵が首を傾けた。 「あれが、私の推理の第一連鎖でありましたのぢや。一體粉末にした阿片といふものは決して匂ひの無いものぢやない。かう少し不快な香氣《かうき》でナ、微《かすか》にプンと鼻へ來るものである。若し普通の食物《しよくもつ》へ混ぜてあつたらば必ず解る、そして一口で吐出して了《しま》ふものですワ。所がカレー粉は適當のものぢや、あれへ混ぜたらば匂ひは消されて了ふさてさういふ前提を置いてあの晩の事情を考へるに、彼《か》の比志島といふ何の關係もない男が、あの晩特に奧花の家庭をしてライスカレーを調理せしめたといふ法は斷じてない。さればと言ふて、阿片の匂ひを消すに都合の好いライスカレーが出來た晩に、丁度に阿片を持つて、廐へやつて來たと考へるのは餘りに暗合《あんがふ》が巧過ぎる。さういふ筈も先づ斷じてないと言つて宜《よろし》い。だから比志島は事件の中《うち》から除く事が出來ます。されば第二に目指すのは奧花夫婦でなければならぬ。無論あの晩夕食に、ライスカレーを慥《こしら》へさせたのは夫婦に定《き》まつて居る。そして阿片を加へたのは、特に廐の當番であつた濱一の所に持つて行《ゆ》く皿が別になつてからである。何故ならば、私が女中に訊ねた[#「女中に訊ねた」は底本では「女中に訪ねた」]所によれば、他《ほか》の者も同じやうにライスカレーを喰べたが、何れも何の異變もなかつたので解る。」 「では、女中の氣付かぬやうに阿片を混ぜたのは、夫婦の中《うち》で誰であらうといふ問題になりますね。」 と、中澤醫學士が言つた。 「さう/\、併し其問題を決定する前に、犬が鳴かなかつたといふ事實に眼を付けねばならぬ。兎に角一つの眞相を發見すると必ず他《た》を類推する事が出來るからねえ。比志島の事件をもつて、私は其の廐に番犬が飼ふてある事を初めて知りました。それからぢや、何奴《なにやつ》か夜中《やちゆう》廐へ入つて來て、馬を引出して行つたのに、吠えて他《ほか》の二人の馬飼を起すといふ事もせなんだとは怪《をか》しいではないですか。即ち其夜《そのよ》の曲者は犬が日頃慣れ親《したし》んで居る者であつた事が明瞭ぢや。」 「犬が一番慣れ親《したし》んで居るのは[#「慣れ親んで居るのは」は底本では「慣れ親しで居るのは」]奧花以外には有りません。」 と、男爵が體を乘出して言つた。 「ですから、夜中《よなか》に廐の扉《と》を合鍵で明けて銀月を盜み出したのは即ち奧花です。」 「ですが何ういふ目的でやつたのでせう。」    11…馬蹄に蹶《け》られしは是れ天罰…………名馬銀月の神通力[#「名馬銀月の神通力」に丸傍点]?…………  問はれて博士は熟《じつ》と男爵の顏を瞻《み》つめながら 「さあ何の目的でしたらうか。私《わし》の考へでは無論不正な目的であつた。で無《な》うて、自分の使ふてをく馬飼に麻醉劑を與へる必要が何でありませう[#「何でありませう」は底本では「行でありませう」]。一寸|御聞《おきゝ》に入れるが以前川崎の競馬場でさういふ事件があつた。……それは第一等の馬を監理する調馬師が態《わざ》と代理人を使ふて第二等の馬に澤山の賭金をして置き、密《ひそか》に自分の預かつて居《を》る第一等の馬を傷つけて競爭に負けさせ、莫大の儲けをしたといふ話がありますのぢや。所で彼奧花の目的は何であつたか。それは彼の懷中《かくし》の所持品を見て初めて斷定することが出來ました。  お忘れもなさるまいが、彼が現在手に握つて殺されて居たのは一挺の奇體な小刀《ナイフ》でした。護身用の武器としては誰かあの樣な柔《やわらか》いものを撰びませう。中澤君も言ふた如く、あれは非常な微細な仕事に用ゐる外科醫などの小刀《ナイフ》です。然るに、あの晩にも小刀《ナイフ》は微細な仕事の爲めに使用されました。畑野さん、貴君は多年競馬に御關係ぢやから御存知でせうが、馬の腿《もゝ》の所にある腱《けん》へ極く僅《わづか》な傷をつけることは容易な事ですぞ。而かも巧みに皮下手術的にやれば、何の傷跡も殘らぬやうにやれます。さうされた馬は心持ち跛《ちんば》を曳《ひ》くが[#「跛を曳くが」は底本では「跛を曳くか」]、傷跡がないゆゑ筋違ひでもしたか、それともリユーマチスにでもかゝつたかと思はれるまでで、決して腱を切られたとは感付かれない。」 「フム、實に猾《づる》い奴ぢや! 惡黨ぢや!」 「それで奧花が馬を連出して野へ行つた譯が御解りでせう。廐の中で行ふた日には馬が暴れるから、どの樣な寢坊な者でも眼を醒ますに違ひない。依《よつ》て是非とも野の中でやる必要があつたのですて。」 「あゝ、私は盲目《めくら》でした! 彼奴《きやつ》が角燈を用意しマツチを|※[#「てへん+摩」、171-7]《す》つたのも其爲めです。」 「勿論《むろん》さうです。併し彼の所持品を調べて居《を》る中《うち》に、私は單に彼の犯罪の方法を知つた耳《のみ》ならず、その動機迄をも感付きましたのぢや。と云ふのは彼は新倉《にひくら》連三《れんざう》なる者へ當てた東京の呉服屋の受取證を持つて居ました。どうでせう男爵。御互に他人の受取證を持つて居るといふ事は、日常の生活で常に有りうべき事でせうか。極めて稀な場合ではないですか。だから私は、ハヽア奧花といふ男は二樣《にやう》の生活を送つて居《を》る、この新倉連三とは即ち彼の僞名であるまいかと悟りました。この上|書付《かきつけ》の表を見ると女物ばかり買つてある。即ち事件の裏面《りめん》には一人の女が潜《ひそ》んで居《を》る。而も極めて贅澤な女であることが解つた。一本八十圓の丸帶を締めるのは先づ贅澤な女と申して宜しいぢやらう。私は玄關口で奧花の妻君《さいくん》に出會《であ》つた時に、試みに其書付の中にある衣裝を列《なら》べて問ふて見たところ、細君は其樣な立派な衣類を着けた事がないと言ふた。其處で私は此の細君は奧花と共同して惡事を働いて居ないといふことと、他《た》に其の高價なる衣類を與へて居《を》る女があると云ふことを明白に知り得た。で、私は呉服屋の番地と店名を書留め、尚ほ奧花の寫眞を鹿島警部から借りて、この新倉連三なる者の正體を探らうと思ふたのです。  それからは萬事がすら/\と解決されました。奧花はつまり他所《よそ》から燈光《あかり》の見えないやうな野の窪地へ馬を引張つて行つた。で、襟卷は彼が夕刻、見廻りさした時偶然其の途中で拾ふたもので、比志島が落とした物であるが、奧花は丁度馬の脚を縛るに都合好いとでも思ふて持つて行つたのであらう。で、彌々《いよ/\》窪地の底へ降りると、外套を脱いで藪へ掛け、小刀《ナイフ》を持ちながら、マツチを擦つて角燈を點けやうとした。すると炳然《ばツ》と闇を照らした其光に驚いたものか、または一種の動物の本能性によつて、自分が何か危害を加へらるゝものと直覺《ちよくかく》したのか、兎に角馬は猛然と躍り上つて、其拍子に鋼鐵の馬蹄で、屈《こゞ》んでゐた奧花の前額《ぜんがく》を力任せに蹴上《けあ》げたのです。額はバツクと割れる、血潮がダク/\と眼に侵入する、既に昏迷して蹌踉《よろ/\》と倒れる際に、ソラ、手に持つた小刀《ナイフ》が我と我が股《もゝ》をグザと突いたのです。つまり、奧花の慘死は、惡者《あくしや》に對する天罰ともいふべきです。」 「實に驚きましたなア! 驚きましたなア! 宛然《まるで》目撃して居られた樣ですなア。」と男爵は續けざまに感嘆した。 「いや最後にそれ以上に的中した事がありますぞ。私の考へでは、奧花の如き惡賢い男が、馬の腱を切るといふやうな細《こまか》い難しい仕事を突然にやるものではない、屹度何か豫備の試驗を行ふて見たに違ひない、とかう思ひましたのぢや。が、果して何で實驗を行ふたのでせう。と、圖《はか》らずも廐の傍《そば》で見掛けたのは例の豚ですわ。それで念のため一人の馬飼に訊いて見ますとな、驚いたことには四五日前から二三疋の豚が跛《ちんば》を曳く………。」 「實に御慧眼には恐入りました!」 「そこで東京へ歸つてから、早速その呉服屋を私は訪ねました。そして奧花の寫眞を出して見せると、此方は新倉樣と仰有つて大の顧客樣《おとくいさま》で、始終奧樣と御一所に御出《おい》でゞすが、奧樣といふ方は流行好きの非常に贅澤な方で厶《ござ》いますといふ番頭の話ぢやありませんか。つまり彼《かれ》奧花をして身分不相應の[#「身分不相應の」は底本では「自分不相應の」]金を浪費せしめ、其結果金を欲しいばかりに犯罪を敢《あへ》てせしむるやうにさせたのは此婦人の力であるのです。而して犯罪の當夜、下女を驚かし、馬飼の當番を怒らしたのは恐らく、奧花が變裝してこのやうな計畫《たくみ》をしたのではあるまいかと思ふ。夫れは銀月の腱を傷《いた》めて後《のち》、事がうまく成効した曉《あかつき》、銀月の傷《きずつ》けられた事などを巧みに言ひくるめるに必要である彼の惡計畫《わるたくみ》であつたやうに思はれるのですが今は其處まで追及する要はありません[#「要はありません」は底本では「要はありまん」]。」 「あゝ、それで何もかも明瞭になりました。御骨折りに對しては何と御禮を申上げて好いか解りません。」と男爵は慇懃《いんぎん》に頭《かしら》を下げた。「が………併し、序《つひ》でに御訊ねしますが、あの銀月ですなア、あれは一體|今日《こんにち》迄どこに居つたのでせう。」 「巧ですか。馬はそれから跳出して、御近所の或廐の中に慝《かく》まはれて居たのです。併しそれについては貴君は寛大な御處置を取らねばなりませんぞ。………いや、其方《そのはう》の詳しいお話は中澤君に代つてして貰ひませう。」  中澤醫學士は博士の話を切取つて、銀月搜索の模樣を物語つた。男爵は唯《たゞ》もう博士の活眼《くわつがん》達識《たつしき》に驚く許《ばか》りであつた。そして話が漸く終る頃、汽車は上野驛に靜々《しづ/\》と入つて行《ゆ》くのであつた。  底本:「探偵奇譚呉田博士第三篇」中興館書店      大正元年十一月十八日 発行  作者:三津木春影  入力:神崎真 ※底本の画像データは、国会図書館の近代デジタルライブラリーよりお借りしました。 ■近代デジタルライブラリー - 呉田博士 : 探偵奇譚. 3編  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/914195 ※誤字脱字が残っている可能性があります。また一部外字などを置き換えている部分があります。 ※各章タイトルの数字は、底本では四角付きアラビア数字です。 ※底本は総ルビですが、一部省略しています。 ※誤字等お気づきの点があれば、お知らせいただければ幸いです。