斑《まだら》の蛇 高等探偵協會 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)緒方《をがた》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)探偵王|緒方《をがた》緒太郎 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍線の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)[#地から4字上げ] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)明々晃々《めい/\くわう/\》大日輪の如き *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- 一、怪しい婦人が早朝に尋ねて來た……例の緒方《をがた》理學士と和田《わだ》醫師の會見 二、怪しい婦人の怪物語……繼父《けいふ》は南洋から猛獸を取寄せました 三、怪婦人の姉の不思議の變死……あゝ恐しい怪しい斑點《まだら》の黄色い紐! 四、眞夜中の怪しき口笛……愈々《いよ/\》怪事件だ!實際不可解だ! 五、高見澤夫人の遺言状……双兒の結婚費は各二千五百圓 六、奇怪なる風穴と呼鈴の紐……緒方理學士、怪室《くわいしつ》の實地踏査 七、金庫の中には異常の物がある!……此の牛乳は誰れが飮むのか? 八、通風穴《かざあな》を洩れた一條の火光……眞闇黒《まつくらやみ》の怪室に緒方學士の侵入 九、見よ/\悲痛極まる苦悶の叫喚……ヤア斑《まだら》の紐だ!早く/\ピストルを 一〇、鋭敏なる探偵經路の説明……怪屋《くわいをく》の怪事件は終りを告げた    一、怪しい婦人が早朝に尋ねて來た [#地から4字上げ]……例の緒方《をがた》理學士と和田《わだ》醫師の會見  探偵王|緒方《をがた》緒太郎《をたらう》が、私《わたくし》を伴つて從事した樣々な事件は、今一寸|手控《てびかへ》を繰つて見た丈けでも、無慮《むりよ》七十餘件に達してゐる。其中《そのなか》には悲慘|極《きはま》る出來事もあれば、又|頗《すこぶ》る滑稽で、思ひ出すだに噴飯を禁じ得ぬ事件もある。併し孰《いづ》れを見ても一種毛色の變つた珍妙な事實で、一として平々凡々な物語は無い。それを又|明々晃々《めい/\くわう/\》大日輪の如き推斷力と神速|風《かぜ》の如き探偵法を以て、一々快刀亂麻を絶つ如く解決して來た緒方理學士の手腕に至つては、只管《ひたすら》眼《まなこ》を|※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》つて驚嘆するより外は無い。この事に就ては、先に本書と同じ大正探偵叢書[#「大正探偵叢書」に丸傍点]|中《ちう》に於て其一端として紹介した變怪《へんくわい》極《きはま》る「乃木大將肖像の秘密」事件、酸鼻《さんぴ》眼《め》を蔽《おほ》はしむる「不思議の膏藥」事件、更に危うく外交の一大危機を釀《かも》さんとした「外交の危機」事件、其等《それら》を熟讀された讀者の、既に已《すで》に御同感の事であらうと思ふ。  併し今|將《まさ》に私《わたくし》が此編に於て讀者に物語らんとするのは、氏が今迄に關係《たづさは》つた怪事件中の怪事件である。深夜ひとり眼覺《めさ》めて此事實を囘想する時、私《わたくし》は今なほ悚然《しやうぜん》水を浴《あび》せられたらんが如き惡寒《さむけ》を感じ、幾度《いくたび》か危《あやふ》く叫ばんとする――それほど怪奇な戰慄《せんりつ》に滿ちた事件である。今これを「斑《まだら》の蛇」と題して諸君に語らうと思ふ。  四月早々のこと、ある朝|私《わたくし》が偶《ふ》と眼を醒《さま》すと、枕元に何時《いつ》來たのか緒方理學士が、チヤンと着物を着換へて立つている。置時計を見ると、まだ漸《やつ》と五時を十五分過ぎたばかり、一體|何時《いつ》も寐坊《ねばう》の先生が何だつて今朝に限つて、此樣《こんな》に夙起《はやおき》したんだらうと、眠い眼を摩《こす》り見上げると、氏は少々氣の毒と云つた風に私の顏を見て、 「イヤどうも此樣《このやう》に早く君を敲《たゝ》き起して濟まぬ次第だが、今朝は鼬《いたち》ごつこに誰も皆おなじ運命に遭遇《でつくは》したのだ、初めに階下《した》の主婦《かみ》さんが敲き起される、次に主婦さんが僕を敲き起す、ソコで僕が君を敲き起す樣な事になつたのだよ。」 私「して、何事だい、火事か?」 緒「イィヤ、探偵事件の依頼人だ、今、年若の女が一人、尋常ならぬ樣子で駈込んで來て、僕に面會を求めて居るのだ、いま階下《した》の應接室に待たしてあるが、何しろ年の若い女が朝の今頃に市中を歩き廻つて寐《ね》てゐる僕を敲き起すと云ふのは、餘程《よほど》容易ならぬ緊急な事件に相違無いと思ふ。所で左樣《さう》だとすれば君も最初から關係《くわんけい》する方が御希望だらうと思つたから、態《わざ》と急いで君を起しに來たのだ。 私「イヤそれは有難い、そんな面白さうな事件を聞き洩して溜《たま》るものか。」  眠い處を突然に起されて、ムシヤクシヤした心も、面白さうな事件と聞いては跡もなく一掃されてしまつた、私は又緒方理學士の明快な推理判斷が如何に此事件の上に下されるかを想つて、油然《ゆうぜん》たる興味と共に直樣《すぐさま》床《とこ》の上に刎《は》ね起きた、そして二三分間の中《うち》に衣服を整へて、緒方氏に蹤《つ》いて階下《した》の應接室に下りて行つた。  室《しつ》の隅の椅子に、黒い喪服のやうなものを身に纒《まと》つて、おなじ色の厚布《ベール》で覆面した夫人が腰掛けてゐたが、私等を見ると、急いで立上つた。  緒方氏は極めて快活に、 「お早うございます、僕が緒方緒太郎です、これは僕の親友の醫師の和田君です、此人の前では決して遠慮は要りません、僕と同樣何事も腹藏無く[#「腹藏無く」は底本では「腹臟無く」]お話下さいますやう。ヤ、主婦さんが火の準備《ようい》をして呉れたのは有難い、サア何卒《どうぞ》ズツト火の傍《そば》に御寄り下さい只今|珈琲《コーヒ》を温かくして差上げます、何だか御寒さうに震へて被居《あらしや》る御樣子ですから……」  怪しの婦人客は云はれる儘に、椅子を近付けながら、殆ど聞き取れるか取れぬかの低い聲音《こゑ》で、 婦「震へて居りますのは、寒いからでは御座いませぬ。」 緒「エ、では何の爲だと被仰《おつしや》います?」 婦「私《わたし》は餘りの恐ろしさに震へて居《ゐ》るのでございます、何と申上げてよろしいやら、身の毛が悚《よだ》つのでございます。」  と答へながら、靜かに覆面を取除けた婦人の顏を見ると實《げ》にや顏色は土の如く蒼白《あをざ》め、眼球《めだま》は尋常《たゞ》ならぬさまに、キヨトキヨト絶間《たへま》無く動いて、見るからに痛ましく慴《おび》えてゐる、齡の頃はまだ三十前後と見えながら、髮は年にも似合はず、胡麻鹽になりかけて、顏から肩のあたりにひどく憔悴《やつれ》が見える、そして一體の樣子が弱々しく、いかにも年老《としと》つた女の樣である。  緒方氏は例の機敏な探偵眼を敏捷《すばし》こく働かせて、早《はや》何事《なにごと》をも洞察した如く、 「私《わたくし》の處へお出《いで》になつた上は、貴女はもう決して御心配には及びませぬ、私共が誓つて萬事を正しくなる樣に取計《とりはから》つて差し上げます。」と、慰め口調で云ひながら、語を變へて、 「貴女は今朝|※[#「さんずい+氣」、第4水準2-79-6]車《きしや》で御出《おい》でになりましたね。」    二、怪しい婦人の怪物語 [#地から4字上げ]……繼父《けいふ》は南洋から猛獸を取寄せました 「貴女は今朝|※[#「さんずい+氣」、第4水準2-79-6]車《きしや》でお出《い》でになりましたね。」 と、突然に云はれて、婦人はひどく吃驚した體《てい》で、思はず緒方氏の顏を瞶《みつ》め、 「では貴下《あなた》は妾《わたし》を御存知で被居《いらつしや》いますか。」 と微《かす》かな震へ聲で問ひ返した。 緒「イヤ左樣《さう》ぢや有りません、今貴女の左の手袋に挾んである|※[#「さんずい+氣」、第4水準2-79-6]車《きしや》の往復切符の片端をチラと拜見して分りましたのです。」  緒方氏は平氣で答へて、更に、 「で、貴女は餘程早くお宅をお出《で》になりましたね、そして御宅から停車場まで、隨分ひどい泥濘路《ぬかるみゝち》を蓋無しのガタ馬車でお出でになつたと想はれますが。」  婦人は茲《こゝ》に到つて飛立つばかりに驚き呆れ、暫くは魔法使でも見るやうに緒方氏の顏を、物をも云はずにジロ/\凝視《みつ》めてゐる。  緒方氏は莞爾《につこり》して、 「何もさうお驚《おどろ》きになる事は有りません、ただ御見掛けするところ、貴女のコオトの左の袖に七箇所以上も生々しい泥の痕が附いてゐます、ソンナ風に揆《はね》を揚げるのは田舍の街道通ひのあの蓋の無いガタ馬車より他には有りません、ツマリ貴女がその左側にばかり乘つて居《を》られたと云ふことが、それで判明《わか》るのです。」  手に取るやうな説明に、婦人も初めて首肯《うなづ》いて、 「まつたく貴下の被仰《おつしや》る通りに相違御座いません、妾が宅を出ましたのは四時前で、東神奈川の停車場へ着きましたのは四時廿分過ぎでございました、彼處《あすこ》で直《すぐ》一番の列車に乘つて中央停車場に參りましたのです、そんな事はともあれ、緒方先生、どうか此|憐《あは》れな妾《わたし》をお助け下さいまし、此儘に居りますならば、妾《わたくし》は氣が違つてしまひます、それに誰一人|妾《わたくし》の相談相手になつて呉れる者もございませぬ、もつとも幾何《いくら》か頼みになる人は一人居りますが、その人の力位では到底おの恐ろしい事件を禦《ふせ》ぐ足しにはなりませぬ、途方に暮れて居ります所へ、恰度先年春山の奧さん――あの方も大變危急な場合を貴下に救つて頂いたと承《うけたま》つて居りますが――から貴下のお話を伺つたのを想ひ出し、神樣の手に縋るつもりで急いで此處《こゝ》まで參りました、お住居《すまゐ》も昨日やつと春山樣から伺つて參つたのでございます、アヽお願でございます、何卒《なにとぞ》妾をお助け下さいまし、妾の生命《いのち》が助かりませぬまでも何卒《どうか》妾が今|陷《おちい》つて居ります暗黒《くらやみ》の底に幾分かの光明《ひかり》を見せて下さいまし、お願ひでございます。只今の處では何程の御謝禮《おんしやれい》も差上げる事さへ出來までぬが、今一二個月の中《うち》には妾が結婚いたす事になりますのでさうすれば何分《なにぶん》の財産だけは如何樣《いかやう》にも取扱はれますので、其節《そのせつ》は少くとも志だけの御禮は必ず致します。」  緒方氏は卓子《テーブル》の抽斗《ひきだし》から小さいノートを取出して、暫し繰り返して居たが、 「アヽ春山夫人の事件は、「猫目石の指環」の事だつた、併しこれは和田くん、君が未《ま》だ僕を知らぬ以前の事なのだ、夫《それ》から貴女!」 と婦人の方を向いて、 「只今の報酬云々の點に就ては、決して御心配には及びません、一體僕のする仕事が即ち僕にとつて報酬となる譯ですから、併し貴女の御都合の宜しい時に、僕が探偵に要した實費丈を御支辨《ごしべん》下さると云ふことならば、それは決して御辭退は致しませぬ。では貴女のその怖ろしい事件の顛末を一|伍一什《ぶしじふ》伺ふことにしましやう。何卒《どうぞ》探偵上何かの足しに成りさうな事は少しも洩れ無くこの兩人《ふたり》に御聞かせ下さい。」 婦「では申上げますが、この事件について妾が何よりも甚《ひど》く怖れて居りますことは、如何《いか》にも、其事實が不確かでぼんやりして居《を》ることでございます、妾のかまで恐れまする事の起因《おこり》が實に可笑《おか》しいほど些細な事であることでございます、そのため妾が唯一人《たゞひとり》頼りにして居《を》る方でさへも、此話を申上げると、「それは貴女《おまへ》の神經だ」と云つて殆ど取合つて呉れないので御座います、併し臆病な女の神經だと一口に云はれてしまふこの事が、今にどんなにか恐ろしい、身の毛が悚《よだ》つ[#「身の毛が悚つ」は底本では「身の毛が慄つ」]事件となつて來るか、妾にはそれがマザ/\眼に見えるやうに想はれます。緒方樣、貴下は人の心の奧底まで一眼で見徹《みとほ》しなさるお方と承りましたが、今この妾の身の廻りを圍《かこ》んで居りまする危險を、どうして遁《のが》れましたら宜しいで御座いましやうか、後生でございます、御教え下さいまし。」 緒「承知しました、どんな秘密でも必ず發《あば》いて御安心をおさせ申します。」  緒方氏は腕を拱《こまね》き、この不可思議なる婦人の、世にも恐ろしき物語を聽くべく靜かに眼を瞑《と》ぢた。 婦「妾は須藤《すどう》蓮子《れんこ》と申しまして、只今は繼父《ちゝ》と同居いたして居ります。繼父の名は高見澤《たかみさは》信武《のぶたけ》と申しまして、由緒正しい舊家で、代々神奈川縣の都築郡《つゞきごほり》に住んで居たのださうでございます。」 緒「あゝ高見澤家の御名《おな》は僕も伺つて居ります。」  緒方氏は瞑目した儘で云ふ。婦人は言葉を續けて、 「高見澤家も昔は武藏相模切つての豪家ださうで御座いまして、土地もなか/\莫大なものだつたと申します。所が此四五代と云ふもの相續人に放蕩者ばかり生れまして、次第に身代を消耗《すりへら》して殊に先代などは相場に迄手を出して見事失敗してしまい、財産は悉皆《すつかり》人手に渡す、現今《いま》では僅かばかりの地所《ぢしよ》と百年以上になる古家屋が殘つて居《ゐ》るばかり、それさへ此頃では抵當になつてゐると云ふ樣な憐れな始末で御座います。先代は恐ろしい烈《はげ》しい氣質の人で、他人《ひと》の助《たすけ》もからず、貧乏に一生を送つたと云ふ事で御座いましたが、其|獨息子《ひとりむすこ》の當主は――つまり妾の繼父に當ります――何《どう》しても高見澤家を盛り返さねばならぬと云ふので、親類の補助《たすけ》で醫者になり、南洋へ出稼ぎに參りました。彼地《あちら》では技術の巧いのと、固前《もちまへ》のしつかり[#「しつかり」に傍点]した氣質とで、隨分一|時《じ》は繁盛もし、手廣くやつて居たさうで御座いますが、或時しげ/\[#「しげ/\」に傍点]と盜難に會ひ、その嫌疑を家《うち》の下男にかけた結果、一時の怒りに任せて到頭その男を毆り殺してしまひ[#「毆り殺してしまひ」は底本では「歐り殺してしまひ」]ヤツトのことで死刑丈けは遁《のが》れましたものの、餘程久しい間|彼地《あちら》で入獄して居りまして先頃|特赦《とくしや》されて日本へ歸つて參りました。それだものですから、今では甚《ひど》く氣むづかしい、絶望し切つたやうな人間になつて居ります。  妾たちの實父は臺灣《だいわん》の守備隊の陸軍大佐で御座いましたが、妾達双兒が生れると間もなく逝《な》くなりました。母は妾達二人が二歳《ふたつ》になつた時に連子《つれこ》をして高見澤家へ再縁いたしましたが、母は大變な財産家で收入は少くとも一ヶ年一萬圓はありました。それを私達《わたくしたち》の結婚費用にするやうに貯蓄し、殘りは私達の食料として繼父《まゝおや》に手渡し、一同内地へ歸ると間もなく山北で|※[#「さんずい+氣」、第4水準2-79-6]車《きしや》が衝突しました時に慘死を遂げました。それで繼父《ちゝ》は東京に開業して居ましたのを廢して私達二人を連れて都築郡《つゞくごほり》の古屋敷へ引つ込むと、母の遺産のお蔭で一家は何の浪風《なみかぜ》もなく、何不足なく幸福に暮らされた筈なんです。  所が、其後間もなく繼父《まゝおや》は全然《まつたく》別人のやうに殘酷になりまして「高見澤さんが歸郷《かへつ》て來た」と心から歡迎してくれる人々とは更に交際せず、終日|家《うち》にばかり閉ぢ籠つてばかり居ましてたま/\家外《そと》へ出るかと思へば近隣《きんじよ》の人と劇《はげ》しく口論するばかり、全く狂人《きちがひ》としきや思へませぬ。精神病は多く遺傳するとか聞きますが繼父《ちゝおや》は|※[#「執/れんが」、U+24360、19-5]帯《ねつたい》地方に長く居た故《せい》で斯《こん》なになつたのかと思はれます。村人とは絶間《たえま》なしの喧嘩口論、警察の御厄介になつた事も度々で御座います。それに非常な大力《だいりき》で、一度怒つたと來たら、手のつけ樣がありませぬ。つい五六日|前《ぜん》にも村の鍛冶屋を小川《こがは》に擲《な》げ込みましたが、原因と云ふのは何でもないことなんで御座います。斯《こん》な風で村の人からは鬼の樣に思はれ、朋友《ともだち》などあらう筈もなく、破落漢《ならづもの》や乞食のやうな者に庭園《には》を貸したり、時には自分も其仲間入りをしたりするです[#「したりするです」はママ]。」 「加之《おまけ》に繼父《ちゝ》は猛獸が非常に好きで、二三年前ワザ/\南洋から豹だの大猿だのを取寄せまして、殊にそれを庭園《ていゑん》に放し飼にするものですから、危險《あぶな》くつて、村の人達は父同樣|此獸《このけだもの》をも恐がつて居ります。」 「こんなで御座いますもの緒方さん、|※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、20-7]《あね》も私《わたくし》も――双兒で私は妹分にしてありました――何の愉快《たのしみ》も知らず日を送りました。雇人《やとひにん》なぞは、ついぞ居付いたことも御座いません、家《うち》の事は皆|※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、20-9]《あね》と私とで致しました。|※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、20-10]《あね》が死んだ時は三十歳|前《ぜん》でしたけれど髮の毛はもう白髮《しらか》が見えて居りました。」 「オヤ一寸《ちよつと》待つて下さい、ぢや姉さんは御逝《おなく》なりなすつたんですね。」と、眼を瞶《つぶ》つてゐた緒方は訊く。 蓮「左樣《さやう》で御座います。|※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、21-4]《あね》は二年以前に逝《な》くなりました。これがまた誠に不思議で御座いまして、特に聞いて戴きたいので御座います。私達二人はついぞ交際と云ふことも知らず、唯一人《たゞひとり》實母《はゝ》の妹に當ります叔母が隣村《りんそん》に居りますので、時々遊びに行《ゆ》く位なものでした。|※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、21-8]《あね》は二年|前《ぜん》降誕祭《クリスマス》の晩に叔母の家《うち》で或る豫備の海軍少佐と見知り遂々《とう/\》婚約が成立《なりた》つやうになりました。繼父《まゝおや》も別段反對もなく、婚禮も一二週間の内になつた時に大變な事件《こと》になつて終《しま》ひました。私《わたくし》の唯今の怖さもそれが原因《もと》なので御座います。」  椅子に凭《よ》りかゝつて默然と耳傾けて居た緒方は、此時|急《き》[#ルビの「き」はママ]き立てるやうに、 緒「何卒《どうぞ》事實《ありのまゝ》を出來るだけ委《くは》しく仰《をつしや》つて下さい。」    三、怪婦人の姉の不思議の變死 [#地から4字上げ]……あゝ恐しい怪しい斑點《まだら》の黄色い紐! 蓮「アヽ斯《か》ふ話《はなし》してゐます内にも其時のことが明瞭《はつきり》と眼に浮んで身内がゾク/\と致します。唯今も申しました通り家《いへ》は誠に廣く現今《いま》は片屋根ほか使つて居りませぬ。家内の樣子は委《くわ》しく申上げる必要はありませぬが、唯|寢室《ねま》の事だけを申上げますと、家の中央の廣間から一番目が父、其の次が|※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、23-2]《あね》、其次が私《わたし》の室《へや》で御座います。室《しつ》の間は板壁で些《ちつ》とも通ひ道はなく、室《しつ》は何《いづ》れも一方は硝子窓《がらすまど》で、其下は芝で其處《そこ》から庭を見渡し、一方は建物の裏面《うら》に出來た廊下に入口があります。これでお分りになりますか知ら……。」 緒「え、大抵分ります、何卒《どうぞ》御先を……。」 蓮「|※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、23-7]《あね》の死にます晩は繼父《けいふ》は早くから寢間に入りました[#「寢間に入りました」は底本では「寢間に入りまた」]。併し床《とこ》へは入らなかつた樣子で印度莨《いんどたばこ》の烈《はげ》しい臭《にほひ》で姉は堪りかねて私の室《へや》へ來まして、自分の結婚の事なぞ機嫌よく話して居りましたが、十一時になると自分の室へ歸つて行かうとして、入口の所で立止まり。」 姉「蓮ちやん、汝《おまへ》この頃|眞夜半《まよなか》に口笛を吹いてゐるのが聞こえないかい。」と云ふのです。「いゝえ。」と私が申しますと「私は又、汝《おまへ》が夢中で吹くのかと思つたよ。」と申します。私が「そんな筈はない」と申しますと、姉はこの二晩三晩|夜半《よなか》の三時頃になると何處《どこ》からとなく口笛の音がして、隣の室とも思へれば庭の方からとも聞かれる、私にも聞こえるか聞いて見やうと思つて居たと申します。私は「口笛なんぞ聞いたこともありませんが、多分庭の乞食共が吹くのでせう」と答へますと、姉は餘程それが氣に掛つたものと見えまして、「だつて庭からなら汝にだつて聞こえるぢやないか。併しそんな事は何だつて可《い》いわ」と私を見て莞然《につこり》と笑ひながら室を出て行《ゆ》きましたが、間もなく自分の寢室《ねま》に錠《ぢやう》を降《おろ》す音がしました。 緒[#「緒」は底本では「蓮」]「エツ、錠ですつて、何時も貴女方は錠を降して御寢《おやす》みですか。 蓮[#「蓮」は底本では「緒」]「え何時も。」 緒「何故です。」 蓮「先刻も申上げました通り、繼父《まゝおや》が豹だの大猿だのを放養《はなしが》ひにしますので、寸時《ちよつと》も油斷が出來ません。」 緒「成程、成程。何卒《どうぞ》御先を。」 蓮「蟲が知らすとでも申しますか、其晩に限つて如何《どう》しても寢付かれませぬ。何だか斯《か》ふ淋しくて、殊に其晩は大變な暴風雨《しけ》で御座いまして、風は吼えるやうに吹きますし、雨は硝子窓に小砂礫《こすなつぶて》を打《ぶつ》つけるやうに降ります。此|騷々《さう/″\》しい中に突然物凄い婦人の悲鳴が起りました。而《しか》も其聲《このこえ》[#ルビの「このこえ」はママ]は確かに隣の姉の聲です。私は思はず床《とこ》から刎ね上つて有り合せの肩掛《シヨール》を引掛けたなり廊下に飛び出した途端、姉が先刻云つた樣に口笛の音が明瞭《はつきり》と聞こえました。ハツと思ふ間もなく今度は鏘々《ぢやら/″\》と云ふ音がしますと同時に姉の寢室《ねま》の戸は錠が廻つて自然と開きました。私は廊下のランプの薄明りで姉の室《へや》を覗き込むと思はず總身《そうしん》がゾツとしました。姉は死人の樣に青白くなつた顏色《がんしよく》に、何か助ける物を抓《つか》みさうに兩手を振り廻し、泥醉《よつぱら》ひのやうによろけ[#「よろけ」に傍点]て、私が吾知《われし》らず走り寄つて抱擁《だきかゝ》へやうとした時、姉は腰がもう立たなくなつたのか、グツタリと座つて苦しさうに身悶えして「アヽ苦しい[#「アヽ苦しい」に丸傍点]、蓮ちやん[#「蓮ちやん」に丸傍点]、紐だつた[#「紐だつた」に丸傍点]。斑《まだら》の紐!」と斯ふ云つて四肢は一時に痙攣を起しましたので、隣の父の室を指さしながら、私の兩手を確《しつ》かりと掴んで、 姉「アヽ苦しい。アヽ恐ろしい。蓮ちやん[#「蓮ちやん」に丸傍点]、紐だつたよ[#「紐だつたよ」に丸傍点]。恐ろしい紐[#「恐ろしい紐」に丸傍点]、黄色い紐だつたの[#「黄色い紐だつたの」に丸傍点]。斑らな黄色い紐だつたのよ[#「斑らな黄色い紐だつたのよ」に丸傍点]。」  斯ふ息も絶え絶えに口走りますと、痙攣を起しました身體は、次第に剛直《こはば》つて來まして、私が。 蓮「姉さん。姉さん。」と呼ぶ聲も耳に入らぬのか、兩眼《りやうがん》を恐ろしく釣上げまして、自由の叶はぬ手を無理に動かして、隣室の壁の上を指すと其儘|絶入《たえい》つたやうになりました。父も私の呼聲に周章《あはて》て出て來まして、寢衣《ねまき》のまゝ姉の側に駈け寄りブランデーを口に灑《そゝ》ぎ入れましたが、姉は眼さへ開きません。後で駈け付けた醫者が何の役に立ちませう。姉は遂々そのまゝ彼《あ》の世の人になつて終ひました。」  蓮子の物語は、一寸途切れたので、緒方氏は 緒「その口笛と金屬の鏘々《ぢやら/″\》と云ふ音を御聞きになつたのは、確かでせうね。決して間違ひはありますまいね。」 蓮「それは確かに聞いたに違ひありませぬ。あの暴風雨《あらし》の音の中でも明瞭《はつきり》と聞こえたのですもの、決して間違へる筈はありません。」 緒「ハヽア成程。さうして姉樣《ねえさん》は、着物は着てゐらつしやいましたか。」 蓮「否《いゝえ》、寢衣《ねまき》のまゝです。さうして右手にはマツチの燃えさしを左手にはマツチの箱を持つて居りました。」 「さうして見ると變事の起つた時に直ぐ燈《あかし》を點けて周圍《あたり》を見たものと思はれますね。これが大切な點《ところ》の樣に思はれますが、警察では如何云《どうい》ふ意見でした。」 蓮「繼父《ちゝ》は直ぐ警察から目を付けられて嚴重に取調べを受けましたが、何の證據もない事ですし、其まゝになつて居ります。何しろ室《へや》の入口は内側《なか》からキチンと錠を降してありますし、硝子窓も扉が閉ぢて鐵棒が嵌めてありますのが、其儘になつて居ますし、壁も床《とこ》も異常がありませぬもの、誰を疑ひ樣も御座いませぬわ。その上、何處《どこ》に一つ創《きづ》らしい所もありませず、暴行を加へられた風もありませんのです。斯うなつて見ますと、姉は全く一人で死んだと考へる外はありませぬ。」 緒「ウーン……全く奇怪《ふしぎ》ですね、ぢや毒殺の疑ひはありませんでしたか。」    四、眞夜中の怪しき口笛 [#地から4字上げ]……愈々《いよ/\》怪事件だ!實際不可解だ! 蓮[#「蓮」は底本では「緒」]「それも警察醫の御調べではそんな形跡は少しもないと云ふことです。」  緒方緒太郎氏は此の蓮子の返答を聞いて深く考へ込んだ。 緒「フヽン。如何《どう》しても毒殺らしい原因といふものが發見《みつ》からないのですね。他殺らしい疑問もないとすると。それに姉樣《ねえさま》の身體《からだ》には何處《どこ》に一つ創跡《きづあと》らしいものも見えない。フヽン。」 蓮「え、それは身體中を搜し廻りましても、コレと云つて暴行を加へられたり、又|擦《かす》り創《きづ》らしい跡一つさへも見えないので御座いますよ。」  蓮子孃は、今も猶ほ其の當時の事を思ひ出すと奇怪《ふしぎ》に堪《た》えぬかのやうに、また恐怖《おそろし》さに堪えぬかのやうに、顏色《がんしよく》蒼醒《あをざ》め、身體《しんたい》を微かに打ち戰《わなゝ》かして、緒方探偵王の顏を凝《ぢ》つと瞶《みつ》めてゐる。  緒方緒太郎氏も、凝つと蓮子孃の顏を見返しながら 緒「繼父《おとう》さんは、それに就て何か御考へがあるやうでしたか。」 蓮「否《いゝえ》、別に。唯、警察醫の云ふことを默つて聞いてゐる許《ばか》りでした。」 緒「警察醫は別として、貴女の御考へは如何《どう》です。」 蓮「私は其時全く怖《をび》えて甚《ひど》く神經を刺撃した爲めに、死んだものと思ひました。併しその原因は全く分りませぬ。」 緒「その乞食だの破落漢《ごろつき》なぞは、夜でも庭を徘徊《うろつ》いて居るのですか。」 蓮「えゝ、大抵は何時でも居ります。」 緒「ハハア、それぢや姉さんが死ぬ刹那《まぎは》に仰言《をつしやつ》たといふ斑の紐[#「斑の紐」に丸傍点]と云ふのは何の意味だか貴女に思ひ當りませぬか。」 蓮「左樣《さやう》ですね。私は姉が苦痛の爲め無意識に口走つたのかとも思ひました、又乞食共が鉢卷にする豆絞りの手拭《てぬぐひ》の事かとも思ひました。」 緒「如何《どう》も容易ならぬ事件《こと》のやうです。」と緒方緒太郎は絶體に蓮子の語《ことば》には同意出來ぬものゝやうに、頭を打振り、 緒「サア、それでは御話の續きを拜聽《うかゞ》ひませう。」  緒方緒太郎の言葉に連れて、蓮子は更に恐る可き事件の成行を次の樣に話し出した。 「それから二年も過ぎましたが、其間私は一層淋しい月日を送つて參りました。すると此頃ある親友から結婚の相談を受けまして、夫となる人は秋田《あきだ》武太郎《たけたらう》と申しまして平塚の秋田傳之助の次男で御座います、繼父《ちゝ》は今度も異存がありませぬので今春中に式を擧げるやうになりました。所が姉の結婚前と同じく又もや大事件が突發《もちあが》りました。夫れは修繕する所があるとかで二三日前から大工が入りましたので、私も仕方なしに|※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、34-9]《あね》が變死しました氣味の惡い室《へや》へ入つて寢なければならぬ事になつたのです。その氣味惡さつたらありませぬ。私は姉の死んだことなぞ考へて眼も合はさずに居ります、丁度あの時と同じやうな時刻なんです。|※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、35-2]《あね》が死ぬ前に聞いたと云ふ口笛と同じ音が聞えるぢやありませぬか。私は直ぐ刎起《はねおき》て、ランプを點けて室中《へやぢう》を見廻しましたが鼠一匹居やしません。もう床《とこ》へなんぞ入つて居《を》られませんから夜《よ》の明けるのを待兼ねて春山樣《はるやまさん》から聞いて居りました貴下に御願ひするより外はあるまいと、逃げるやうにして參りましたので御座います。」 緒「宜《よ》うこそ左樣《さう》なさいました。夫から最う他に御話はありませんか。」 蓮「もう、お終いで御座います。」  緒方緒太郎は暫く沈默《だま》つて兩手に頤《あご》を埋《うづ》めたまゝストウブの火を瞶《みつ》めてゐた。 緒[#「緒」は底本では「蓮」]「愈々《いよ/\》大事件だ。相當な手段を取るには種々《いろ/\》の事實を確かめなけりやならぬが、併し今は一刻も延ばす場合ぢやありません。宜しい、これから私共は御宅へ伺ひませう。そうしたら繼父《おとう》さんに知れぬ樣に家《うち》の中の模樣を拜見出來までうかね。」 蓮「えゝ、それには丁度都合が宜いのです。繼父《ちゝ》は今日《こんにち》は是非來なければならぬ用事があるとかで、東京へ來る筈ですから、今日《こんいち》一日は邪魔になる者はありません。老人《としより》の番人が居りますけれども少し馬鹿な方ですから……。」 緒「結構《うまい》、結構《うまい》。和田君、君も厭ぢやないだらうね。」 和[#「和」は底本では「緒」]「如何《どう》して厭などころか。」と私は答へた。 緒「それぢや私達二人で參ります。他に貴女は御用が御ありでせうか。」 蓮「否《いゝえ》。それでは直ぐ歸つて御待ち申して居りますから。」 緒「えゝ如何《どう》か。それに少し準備して置く要事もありますから、正午《ひる》過ぎに參ります。」  須藤蓮子は早くも再び黒いベールに面《おもて》を包み、緒方氏の語《ことば》を後に殘そて、イソ/\と出て行つた。緒方氏は其姿を見送り 緒「和田君。君は此事件を如何《どう》觀察するかね。」 和「僕の考《かんがへ》では天下最も不可解にして、且つ最も恐る可き兇行だね。」 緒「ウン、左樣《さう》だ。實際不可解だ。そして大兇行だ。」 和「併し、彼女の云ふ所に間違ひなく、床《とこ》も壁も窓も入口も、總て丈夫に出來て居るとすれば、|※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、38-5]《あね》の死は單獨《ひとり》で死んだと思ふより他はないね。」 緒「それぢや、君は眞夜半《まよなか》の口笛と、|※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、38-7]《あね》の死際の不思議な語とを何と解釋するのだ。」 和「僕には全然《まるきり》見當がつかぬね。」 緒「この口笛と高見澤の愛する乞食の群とを結びつけると、高見澤には此の繼子《まゝこ》姉妹《けうだい》の結婚を妨げるのが利益だと思はれるね。蓮子孃《れんこさん》が聞いたと云ふ金屬《かね》の音は、窓の鐵の閂《くわんぬき》を嵌めなほした音ぢやあるまいかね。何れにしても此點《こゝ》が肝心だと思はれる。」 和「併し乞食は如何《どう》してそんな事をしたんだらう。」 緒「そこ迄は未だ分らない。」 和「併しそんな事が出來るだらうか。疑はしいね。」 緒「僕も左樣《さう》は思ふんだが、これから都築郡へ出懸けて、家《うち》を一つ檢査してやらう。」  此時緒方氏は突然入口を振向いて、 緒「ヤア誰だ、怪《け》しからん。」と大聲に怒鳴つたので、其方《そつち》を向くと手荒く突き開けられた戸の外には、小山の樣な巨漢《おほをとこ》がヌツと突立つて居た。    五、高見澤夫人の遺言状 [#地から4字上げ]……双兒の結婚費は各二千五百圓  扨《さ》て其|巨漢《きよかん》の服裝はと見れば、黒の山高帽に長いフロツクコート、膝をも隱し長靴に、手には狩用の鞭を打振り打振り、大きな顏は日に焦《や》け、不愛皺は顏一面に波の如く刻まれて、深く落ち窪んだ氣味惡い眼で、私達二人をジロ/″\と見廻す相貌《かほつき》は物凄く、肉の落ちた高い鼻は猛禽鳥《まうきんてう》のやうな險《けは》しさである。  私達二人が密談中の扉《と》を突《つつ》き開けて、扉の外に突立つたまゝ凝《じ》つと室内を睨んだ此老人の顏の物凄さと云つたら一と通りではない、何か心中に深く憤《おこ》つて居るやうな事件でもあると見えて、猛禽鳥のやうな險しい花を蠢動《うごめか》し、下唇を噛み締めて、齒をむき出し、一文字形の眉を顰《しか》めて、何か云はうとするのを、憤怒の爲に舌の先が剛直《こはばる》のを堪《こら》え、堪えてゐるやうに見える。  やがて、一足進み出《いづ》ると、 男「何方《どつち》が緒方といふ人かな。」と其男は喚く。 緒「私《わたくし》が緒方緒太郎です。そして貴下《あなた》?。」 男「乃公《わし》は都築郡の高見澤信武だ。」  緒方氏は急に丁寧な言葉や態度で、 緒「ハハア、左樣《さやう》ですか。サア何卒《どうぞ》お掛け下さい。」 高「否《いや》そんな事は如何でも可《い》い。乃公《わし》の娘が來た筈だ。私《わし》は跡をつけて來たんだ。君に何を、何《な》んと話したか、サア聞かせて呉れ。」 緒「今年は時節はづれに寒いです。」斯ふ云つて緒方氏は聞えぬ風をした。 高「オイ、娘はどんな話をしたのだと云ふのに。」 緒「併し躑躅《つゝじ》はもう咲き初《そ》めたと云ふのに。」  高見澤信武は溜り兼ねて、手にした鞭を打振り、憤然として一足進んだ。 高「宜《よろ》し、貴樣は乃公を誤魔化す積りだな。惡黨奴《あくたうめ》、干渉好《ですぎもの》きの緒方!。」  緒方氏はこれを聞いてニコ/\笑つた。 緒「アハハヽヽヽ貴下のお話は仲々面白いですな。お歸りの時には戸を能《よ》く閉《しめ》て行つて下さい。隙間の風は寒いもんですからね。」 高「出て行けと云はんでも用さへ濟めばサツサト出て行《ゆ》く。貴樣は私《わし》の仕事に干渉《でしやばる》な。娘は確かに此家《こゝ》へ來たに違ひないんだが、若し間違つたことをしたら承知しないぞ。よく氣を附けろ。」と云ひながら、急に走り寄つて鐵の火掻棒《ポーカー》を取上げ、針金の樣に折り曲げて、 高「これを見ろ。貴樣なんぞ乃公《おれ》に抵抗が出來るもんか。」と嘲笑《あざ》けりながら悠々と立去つた。  緒方氏は笑ひながら、「可哀相な人物だな。僕は身體があんなに大きくないが、併し先生が今少し長く居るなら、僕の握力《ちから》は彼奴《あいつ》の握力より弱くないと云ふことを見せてやるのだつたらうに」。と打笑ひ、曲げられた火掻棒《ひかきぼう》を取上げ、苦もなく眞直《ますぐ》に伸ばした。 緒「サア和田君、僕等も朝食《あさめし》を濟まさう。それから遺産處分登記所へ行つて見やう。何か新研究に値《あたひ》す可き此事件の關係を發見するかも知れないからね。」  緒方氏は斯ふ云つてカラ/\と打笑ひ、火掻棒《ポーカー》をストウブの以前《もと》の位置に置き、 緒「ねえ和田君。彼奴《あいつ》が僕等を探偵と間違えるのは實に失敬極まる次第だ。併し君此事件は仲々興味のある面白い事件だぜ。可哀想に蓮子さんは彼《あ》の先生に跡を追《つ》けられて居るんだ。併し蓮子さんの無用心に對し難儀をかけさせないやうにしなけりやならん。それは僕等の責任だからね。」  そして私達二人は種々《いろ/\》と此事件に就て語り合ひながら朝食《あさめし》を終へると、緒方氏は直樣《すぐさま》戸外へ出かけて行つた。  緒方緒太郎氏が朝食後《あさめしご》出て行つて歸つて來たのは午後一時であつた。氏は手に青紙を一枚持つて居たが、其上には文句と數字とが書いてあつた。 緒「僕は高見澤婦人の遺言状を見たが、夫人の死亡《なく》なつた當時は年に一萬圓許りの收入《みいり》だつたが、今では農産物の相場の下落の爲に七千五百圓以下となつてゐる。それに娘の結婚費には二千五百圓|宛《づゝ》請求する權利が娘達にはある。そこで二人の娘達が結婚するとなれば、老爺《をやぢ》さん喰扶持《くひぶち》に離れなきやならぬとも限らぬ。」 「例へ一人にしても隨分堪えるからね。サア僕の調査は無益ぢやない、老爺さんに僕等が關係することを知られた以上は、愚圖々々《ぐづ/″\》しちや居《ゐ》られぬ。直ぐ出掛けるとしやう。和田君、ピストルを一挺御用意を頼むよ。何しろ火掻棒《ポーカー》を曲げる先生なんだからな、ピストルの御見舞が先生に相當して居るよ。」  私達二人は今發車といふ時に、中央停車場に駈け附けて早速|國府津《こくふづ》行《ゆ》きの列車に飛び乘つた。間もなく教へられた停車場に降りて馬車を雇ひ、都築郡へと馭者に命じて急ぎに急いだ。緒方氏は先刻から帽子を前下《まへさが》りに冠《かぶ》り頤《あご》を埋《うづ》めて默想してゐたが、軈《やが》て何者をか發見したやうに私の肩を叩き、「あれを見給へ」と前面を指した。見ると老木《おいぎ》の茂つた丘の上に、高い屋根や古風な破風《はふう》が見える馭者はそれと見るより、 た「あゝ彼《あ》れは高見澤家《たかみさはさん》の邸宅《やしき》です。」 緒「ハハア、彼れが左樣《さう》か。成程普請をして居るな。彼家《あすこ》へやつてくれ。」 た[#「た」は底本では「緒」]「彼家なら、向ふに廻るのが眞實《ほんとう》ですけれど、此阪《このさか》を登つて上の野原を徒歩《おあるき》なさる方が近道です。ホウラ、今女が歩いて居る、彼所《あすこ》が裏門です。」  緒方氏は手を翳して、 緒「あの女は確に蓮子だ。それでは汝《おまへ》の教へた通り裏門から行かう。」と云ふと、馭者は心得て阪の下に私達を降ろし代金を受取るや否や、忙し相《そう》に元來た路を歸つて行《ゆ》[#ルビの「ゆ」はママ]つた。緒方氏は阪を登ると蓮子に近寄り 緒「ヤー、これは蓮子さん。今朝程は失禮致しました。丁度御約束の通り參りました。」  蓮子は嬉しさうに 蓮「マア宜《よ》うこそ。都合は大變|宜敷《よろし》ふ御座います。繼父《ちゝ》は東京へ出掛けまして夜でねけりや歸りません。」 緒「アヽ左樣《さやう》ですか。實は今朝程高見澤さんの御來訪を受けました」。と無雜作に語りながら、眼を凝つと對手《あひて》に注ぐと、果して蓮子は唇の色まで變へて打驚いた。    六、奇怪なる風穴と呼鈴の紐 [#地から4字上げ]……緒方理學士、怪室《くわいしつ》の實地踏査 蓮「まあ如何《どう》しませう。それでは又|繼父《ちゝ》が妾《わたし》の跡をつけて……。」 緒「えゝ左樣《さう》らしいのです。」 蓮「實に繼父《ちゝ》は機敏《すばし》こいのです。どうしても私は父の目を免《のが》れる事は出來ませぬ。今夜歸つたら、如何《どん》な事をしますか……。」 緒「御安心なさい。今夜は貴女は自分の室《しつ》に入つて内側《うち》から錠を降ろしてお置きなさい。その上にも暴行をなさるやうなら、私達が貴女の伯母樣の御宅へお連れ申します。サア夫れよりも一刻も早く御宅の模樣を拜見しませう。」  そこで緒方氏と私と蓮子孃の三人は、高見澤家の邸宅へと近寄つてみると、建物は苔蒸した灰色の石造《いしづくり》で、中央に高い部分があり、そこから左右に翼《はね》の樣に家根《やね》が出て、一寸|蟹《かに》の樣な形の家《うち》である。左の家根は壞れたまゝ、硝子窓も大抵は壞れて、板で以て防いである。中央の高家根は稍《や》や修繕を加へたらしく、右の屋根下全部が家族の住居《すまゐ》で、窓も比較的流行風な窓で扉《シヤター》も完全に閉り高い煙筒《えんとつ》からは淡い煙が立昇つてゐる。屋根の端《はづ》れも棧架《あしば》があるが別段に大工が仕事をしてゐるらしい風もない。緒方氏は彼方此方《あちこち》と彷徨《うろつ》いて後窓《うしろまど》に近寄り綿密に檢査しながら、蓮子に質問する。 緒「之が一昨夜まで貴女が御寢《おやす》みになつた室《しつ》で、此中央が姉樣《ねえさん》、此方《こつち》の端が繼父《おとう》さんですな。左樣《さう》ですね。」 蓮「え、左樣《さう》です。さうして昨夜は私が此中央の室に寢ました。」 緒「普請は中止と見えますね。それから此貴女の室は別に修繕する必要もなさそうに見えますね。」 蓮[#「蓮」は底本では「緒」]「左樣《さう》です。何《なん》にもなかつた筈なのです。唯|妾《わたし》を次の室《ま》に移す口實と思ふ外は御座いませぬ。」 緒「如何《いか》にもさうらしいです。此|寢室《ねま》の入口は廊下の方に開《あ》いてゐますね。その廊下には裏庭面《うらには》から窓が開《ひら》いてるでせうね。」 蓮「ありますが、狹いので迚《とて》も人なんぞ潜《くゞ》れそうにも御座いませぬ。」 緒「成程、イヤ假《かり》に人が通れても貴女方が戸に錠を下ろされるとすれば安全な譯です。一寸御面倒ですが、室内《うち》から此|窓扉《シヤター》を閉めて下さいませんか。」  蓮子孃は急ぎ室内《しつない》へと入り窓扉《シヤター》を閉ぢ閂《かんぬき》を嵌めた。緒方氏は外から硝子窓を開け、次の窓扉《シヤター》を力を極《こ》めて押したが、更に開きさうにもない。今度は小刀《ナイフ》で閂をはづさうと試みたけれど、是れ又失敗に終つた。氏は蟲眼鏡で合せ目を仔細に檢《しら》べて見たが、椽《ふち》の鐵は何の異常もない。流石の緒方氏も頭を抓《つ》むで考へ込んだ。そして嘆聲《たんせい》を洩らした。 「之ぢや僕の見込はすつかり外れちやつた、こんな窓扉《シヤター》に閂さへ嵌めてあれば何者が來たつて入る事は不可能だ。若し内部《うち》から手係りになるやうな物を發見《みつけ》なかつたら全く手を束《つか》ねる外はない。」  私達は建物の狹い横の入口から廊下に入つた。此廊下に彼《か》の三個《みつつ》の室《へや》へ入る入口がある。緒方氏は直樣《すぐさま》第二番目の蓮子が昨夜寢たと云ふ室に入つて行つた。割合に狹い、天井の低い室で何の飾《かざり》もなく、此方《こつち》の隅に褐色に塗つた匣付《ひきだしつき》の箱や衣桁《いかう》や、小枝細工の寢椅子を置き、三番目の繼父《ちゝ》の室の壁に近く白布《はくふ》の覆ひのしてある低い寢臺が置いてある。周圍の壁は栗色で、蟲の喰つた樫《かし》であるが、古くて色褪《いろさ》めてゐる。此建物を建てゝ以來|未《ま》だ一度も取換えないことが分かる。  緒方氏は椅子を一脚片隅に寄せて腰かけ、ギロ/\と室内を隅から隅まで見廻した。上下《うへした》の天井や床《とこ》にも注意の眼を配つてゐる。  遂に眼を寢臺の枕の上に垂れ下がつてゐる呼鈴の綱につけて 緒「あの呼鈴の綱は、何處《どこ》に通じてゐますか。」 と訊ねた。 蓮「それは家番の所へ通じて居ります。」 緒「他のものより新しいやうに見えますが。」 蓮「左樣《さう》です。あれを附けましたのは僅か二年|前《ぜん》の事です。」 緒「姉さんが御望みだつたのだらうと思ひますが如何《いかゞ》でせうね。」 蓮「否《いゝえ》。姉がそれを使ひます音を聞きました事は御座いません。妾達は何時も入用の物は、自分達が勝手に取つて來ることに致して居りましたから。」 緒「ハハア成程。それぢや斯《こ》んな立派な呼鈴の綱を附ける必要がないと思はれます。一寸|此室《このへや》に就ても充分滿足の出來るやうな點まで調べますから、しばらく失禮いたします。」と蟲眼鏡を取出して、俯向きになり、板と板との間の隙間を細かく調べながら、床《とこ》の間《ま》の上を匍《は》ひ廻り、又壁の上をも同樣に細かく調べた上で、それから寢臺に上《のぼ》つて暫く見詰めたが、又もや壁の上下《うへした》を眺め渡し、最後に力任せに呼鈴の紐を引いて、 緒「オヤ/\、此紐は引いても鈴《リン》は鳴らないぞ。役に立たない紐ぢやないか。」 蓮「鳴りませんか。」 緒「ならない所ぢやない。此紐は針金にさへも附いてゐません。これは面白いぞ。丁度此|通風穴《とほりかざあな》の小さな口のある所にチヤンと結びつけてありますぜ。」 蓮「オヤ/\/\/\。これは不思議!。妾は少しも氣がつきませんでした。全く番人の室《へや》の鈴《りん》に繋がつてゐるとばかり思つて居りました。」 緒「奇怪! 奇怪! 此室《このへや》に不思議な事が二つある。先《ま》づその通風穴《とほりかざあな》を御覽なさい。通例ならば、外氣を流通させるために、庭の方へ開けるべきものを、何故《なにゆゑ》か次の室へ開けてある。これでは通風穴《かざあな》の効用がない。何のために、此の室と隣の室と空氣を流通させる要があるだらう?。」 蓮「それも近頃の事なんですよ。」 緒「ぢや通風穴《かざあな》も呼鈴の紐と同時に出來たのですね。」 蓮「え左樣《さう》です其時分に四五個所改築を致しました。」 緒「何《な》にしても餘程不思議だ。役に立たぬ紐と、外氣の流通しない通風穴《かざあな》。如何《いか》にも奇怪千萬だ。蓮子さん、御免を蒙《かうむ》りまして、サア一つ次の室を拜見させて頂きます。」  緒方緒太郎氏は、心せく樣に急ぎに急いで、自分が先きに立ちながら、默々として高見澤信武の寢室《しんしつ》へと進み寄り、其扉《そのと》の把手に手をかけて、グツと戸を引き開けた。    七、金庫の中には異常の物がある! [#地から4字上げ]……此の牛乳は誰れが飮むのか?  高見澤信武の寢室《しんしつ》は、義理ある姉娘の寢室よりも廣かつたが、其設備は矢張り質素のものであつた。眼についたものとては、主なるものは折寢臺《をりねだい》に多くの醫學藥學の書物を一杯に並べた木製の書籍棚、それに寢臺の側にある安樂椅子、壁に對する質素な木製の椅子、大きな鐵の金庫なぞであつた。緒方氏はユル/\と室《しつ》を一週し、非常な興味を起したと見えて、一つ/\丁寧に調べ廻り、遂に金庫を叩きながら 緒「此處に何が入つて居るか、御存知ですか。」 蓮「父の事務用の書類でせう。」 緒「オヤ、それぢや貴女は金庫の内部《なか》を見ましたか。」 蓮「ずつと前に唯《た》つた一度見ましたが、書類が一杯あつたやうに覺えてゐます。」 緒[#「緒」は底本では「蓮」]「この中に猫でも居ませんか。」  鐵製の小形な金庫を指して、猫でも入つて居ませんかとは、何の事やら想像もつき兼ねるやうな奇問である。平常《ふだん》、明敏《めいびん》神の如く快刀亂麻を斷つやうな清明透徹《せいめいとうてつ》な緒方緒太郎氏の頭腦《あたま》を信頼してゐる私と雖《いへど》も、緒方氏が此金庫を見て何を考へ、何を發見したのか、其判斷に苦しむやうな奇問である。  此|紛亂錯雜《ふんらんさくざつ》した異常な出來事に遇《あ》つては、流石の探偵王緒方氏も餘程困つたのだらうか、と顏を見上げると、氏はニコ/\としてゐる。  緒方緒太郎氏の奇妙な質問に蓮子も、果して眼を丸くした。 蓮「何故で御座います。奇妙な事を仰言《おつしや》いますが、イヽエ、そんなものは居りやしません。」 緒「貴女、これを御覽なさい。」と緒方氏は金庫の上にあつた牛乳の小皿を取上げた。 蓮「否《いゝえ》、猫は妾達の家《いへ》では飼つて居りませんが、豹と大猿とが居ります。」 緒「ハア、それは先程もお聞きしました。豹も大猿もあの樣に大きな獸ですから、たつた一皿の牛乳では到底《とて》も飼《やしな》はれは致しません。一つ確《たしか》めて置きたい事がありますから。」 と緒方氏は木製の椅子の前に座り、非常に綿密に床《とこ》の上を調べ出した。軈《やが》て 緒「有難ふございました。分つた、分つた。これで全部《すつかり》分つた。この金庫の内部《なか》には非常に面白いものがあるぞ。」 と、獨り言を言ひながら、緒方緒太郎氏は立上つて蟲眼鏡をポケツトに納め、寢臺の側から、其處に吊下がつてゐる小さな犬鞭を取上げた。此犬鞭は自然に曲つて紐鞭の輪となるやうに結び付けてある。 緒「和田君。君はこの鞭を如何《どう》思ふね。」 和「唯《たゞ》世間普通の鞭ぢやないか。唯、其先の結んである理由が分らない。」 緒「そんなに普通《ありふれた》の鞭ぢやないよ。あゝ實に惡いことだ。智惠のある者が罪惡と云ふことに其|腦髓《なふずゐ》を使用すると、斯んな恐ろしい事が出來るんだ。蓮子さん此室《このへや》も充分に調べましたから、御免を蒙つて今一度|庭園《には》を拜見させて戴きます。」  私《わたくし》はこれ迄、緒方氏が其取調べの場所から歸つて來た時ほど眞面目な顏色《かほ》を今日《こんにち》迄見たことは無かつた。私達三人は庭園《ていゑん》を何回となく往復して歩き廻り、私も蓮子孃も緒方氏の默想に耽るのを邪魔せぬ樣にと、何處迄も無言で附隨《つい》て廻つた。 緒「蓮子さん。貴女は此から總《すべ》て私の助言に就ては、嚴重に御守りなさることが必要ですよ。宜《よ》う御座いますか。」 蓮「え、それは必《き》つと守ります。」 緒「此事件は一刻も躊躇の出來ない程に差迫つて來てゐます。貴女の生命は從順に私の助言《ぢよごん》を守るか守らないかに依つて定まるのです。」 蓮「必《き》つと貴下《あなた》の御命令《おいゝつけ》通りに致します。」 緒「先づ第一に云ふことは、私も和田くんも貴女の御室《おへや》に寢ることです。」  緒方氏は打驚く蓮子孃や、私《わたし》を眺めながら 緒「驚かれるのは御尤《ごもつと》もですが、今其理由を申上げます。一寸其前に御尋ねしたいのは、向ふにあるアレは旅館でせうね。」 蓮[#「蓮」は底本では「緒」]「え、あれは芹屋《せりや》という宿屋で御座います。」 緒「貴女の室《へや》から、彼《あの》旅館は見えるでせうか。」 蓮「え、よく見えます。」 緒「それでは貴方は繼父《おとう》さんが歸られたら頭痛がすると云つて、あの姉樣《ねえさま》の逝《な》くなつたといふ室へ引籠つて居て下さい。それから繼父《おとう》さんが御寢《おやす》みになる爲に自分の室へ入られるのを御聽きになりましたら、ソツと窓の扉《と》を開けて窓際へ洋燈《ランプ》を出して私達に合圖をなさるのです。そして貴女は御入用《ごにふよう》の品だけ持つて、そつと以前《まへ》の貴女の御室へ移つて居て下さい。之は極めて靜かに、御繼父《おとう》さんに氣附かれぬように、しなくては不可《いけ》ません。無論修繕中でせうが、一晩位は如何《どう》でもなるでせう。其後《そのご》は私達二人で引受けます。 蓮「そして貴下方御二人は如何《どう》なさいますか。」 緒[#「緒」は底本では「蓮」]私達二人は御室の内《なか》に居て、貴女を騷がした夜半の物音を突き留めるのです。」 蓮「緒方さん。貴下はもう[#「もう」に傍点]何も彼《か》もすつかり御承知《おわかり》になつた事と思ひますが、何卒《どうぞ》仰《おつ》しやつて下さいまし。姉は如何《どう》して死んだのでせう。」 緒「申上げる前に今少し證據を明かにしたいと思ひますから。」 蓮「それぢや。姉は矢張り不意に驚いたのが原因《もと》で亡くなつたのですか。」 緒「否《いゝえ》、私は左樣《さう》は思ひません。モツト確かな實際の原因《げんいん》があつて、危害を加へたのだらうと思ひます。さア蓮子さん、それでは御免を蒙りまして……。若し今此處へ高見澤樣《たかみざはさん》が御歸りになつたら、私達の勞力は全く徒勞に歸して終ひます。何にせよ蓮子さん確《しつ》かりして、先刻申し上げた事を巧く實行《やつ》て下されば、貴女の危險は悉皆《すつかり》消失《なく》なると云ふものです。」  嗚呼《あゝ》、無用な通風穴《ベンチレエター》と呼鈴紐《ベルロープ》。而《そう》して一見何の奇もない鐵製金庫と犬鞭とは怪しき深夜の口笛や、悲痛無殘なる美人の死と何の關係があるのであらう?。而して悲痛なる最後に|※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、68-5]《あね》なる人の絶叫した斑《まだら》の紐とは、抑《そ》も何《なん》であらうか、あゝ不可思議なるは、怪屋《くわいをく》高見澤家の室内なる哉《かな》。    八、通風穴《かざあな》を洩れた一條の火光 [#地から4字上げ]……眞闇黒《まつくらやみ》の怪室に緒方學士の侵入  緒方緒太郎氏と私とは芹屋《せりや》といふ田舍臭い宿屋へ入つて、居室《ゐま》と寢室《しんしつ》とを借り受けることにした。芹屋は二階建の宿屋で、私達の室《しつ》から高見澤家の門も邸宅《やしき》も一目に見渡されるのであつた。  夕暮方になると高見澤信武は、私達の乘つて來た、あのガタ馬車に乘つて歸つて來た。馭者は門を開けるのに大分困つてゐるのを見るより高見澤信武は荒々しい大聲で喚きながら、兩手を振り上げて馭者を罵つて居るやうであつたが、間もなく馬車は歸り、高見澤氏の姿が門内に消えて、二三分も經つと座敷にはランプが燈つたと見えて、樹間《じゆかん》にパツと光の輝くのが見えた。私等二人は燈火《ともしび》もない眞つ暗な室《へや》の中で談話《はなし》を初めた[#「談話を初めた」はママ]。 緒「和田君。實は今夜君を連れ出すことには僕は躊躇するね。確かに意外な危險物があるんだから。」 和「僕が加勢するから可《い》いぢやないか。」 緒「所で一人でも二人でも同じ理由なんだが。」 和「それぢや唯、御供するだけさ。意外な危險物つて、君は確かにアノ室内で僕の氣が附くより以上の何物かを發見したんだね。」 緒「否《いや》、別段に異常のものを見たと云ふのぢやないさ。僕の見たものは、君も皆んな見たらうと思ふんだがな。」 和「僕は呼鈴の紐の外は別段に著しいものも見なかつたが、あれだけは未《いま》だ全然想像が附かぬよ。」 緒「それだけぢやあるまい。通風穴《かざあな》も見たらう。」 和「ウン、それは左樣《さう》さ。併し室《しつ》と室との間に通風穴《かざあな》があることは格別に不思議とも思はんし、假《かり》に彼《あ》の室だけとした所で、あれでは鼠の通ふ位で、あれぢや何も出來ないぢやないか。」 緒「所で、通風穴《かざあな》が彼《あ》の室にることは、僕は室を見ない前からチヤンと知つてゐたのだ。」 和「オヤ又かい。宜《よ》く擔《かつ》ぐ男だな。」 緒「左樣《さう》さ。僕は確かに信じて居たんだ。だが、まさかこんな事とは思はなかつた。蓮子孃《れんこさん》の話に姉が死ぬ晩の宵の口に、蓮子の室に來て繼父《ちゝ》の印度莨《いんどたばこ》の臭《にほい》がひどいと云つたといふぢやないか、其時から僕は室の間は聯絡《れんらく》が取れて居るんだなと知つたのだ。無論|通風穴《かざあな》位の物だらうとは誰しも考へるさ。併し其の穴が大きいければ[#「其の穴が大きいければ」はママ]其の時警官が見逃す筈がない。小さければこそ見逃されたと云ふものさ。ハハハヽヽヽ。」 和「其|通風穴《かざあな》が何故危險なんだ。」 緒「何故つて?。そりや左樣《さう》さ、妙に事實が暗合《あんがう》するぢやないか。」  緒方氏は私の顏を凝つと瞶《みつ》めて 緒「總ての事件を歸納的に考へて見給へ。實に巧く出來て居る。ソラ不必要な通風穴《かざあな》が出來た。その上から紐が吊下がつて寐臺《ねだい》の上に垂れてゐる。其寐臺に寐た女が遂に變死した。如何《どう》だ、驚かざるを得ないだらう。」 和「僕はそれに何の關係があるんだか未《いま》だ分らないよ。」 緒「君はあの寢臺に何か異常な點を發見《みつけ》なかつたかね。」 和「いや別に。」 緒「仕樣がないな。あの寢臺はチヤンと床《とこ》に打ち附けてあるんだよ決して位置を變へることの出來ぬ樣になつて居る。あれに寢る人は屹度《きつと》例の通風穴《かざあな》から吊下る呼鈴紐《ベルロープ》の垂れて居る下になる樣になるんだ。拵《こしら》えた方ぢや寢ながら紐を引張る便利の爲と云ふだらうが、肝心の紐は鈴《りん》に附いて居ないのだから滑稽ぢやないか。」  斯うなると、私も些《いさゝ》か思ひ當る所がある。 和「成程。成程。君の見込みが僕にも少しは分つて來た。恐ろしく殘忍な又精妙な犯罪だね、而《しか》も夫《それ》を僕等は妨害しやうとして、居るのだな。」 實際殘忍だ。又實際精妙だ。高見澤と云ふ人間は實に恐ろしい深酷な頭腦《あたま》を持つてゐる男だ。併し此方《こつち》は又|彼奴《あいつ》に幾倍の深刻な頭腦《あたま》で對抗《たかう》しなけりやならぬ。ヒヨツとすると高見澤自身が犧牲にならねばならんとも限らぬ。愈《いよい》よこの恐ろしい夜《よ》が開けて終ふ迄は、乘るか反るかの大冐險だ。サア和田君もつと此方《こつち》へ來給へ、悠然と煙草でも喫《の》んで愉快な談話《はなし》でもしやう。」  そこで私達二人は靜かに種々《いろ/\》な話に耽《ふけ》りながら、今か今かと蓮子孃の信號を心待ちに待つてゐた。庭樹《にはき》の間に見えてゐた信武氏の室《へや》の燈火《あかり》も九時頃になつて消えて終つて、邸内は眞暗な裡《うち》に葬られた。それから次第々々に時間も經つて丁度二時間と云ふものは何事もなく過ぎて、何處かの時計が十一時を打つと殆ど同時に、私達の眞正面《しんしやうめん》の室《しつ》からパツと微かな燈火《あかり》が光つた。 緒「そりや合圖だ。中央の室からだ、蓮子の信號に相違ない。」 と緒方氏は飛び上つた。  私達は芹屋旅館の女將《をかみ》に、「今から約束の友人を訪ねるから今夜《こんよ》は歸つて來ない」と體裁《てい》よく謝《ことは》つて旅館を飛び出した。戸外《おもて》は眞黒暗《まつくら》で、春とは云つても寒い風はゾク/\と身に沁みる樣に覺える。此間《このあひだ》に微かな燈火《あかり》を便りにして妖怪變化の巣窟かとも思はれる廢園に乘込む私達は、云ひ知れぬ物凄さを覺え、寒さの故《せい》でなく何となく淡い恐怖の爲に身の毛もよだつ樣である。  壞れた儘の石垣を踏段として庭園内《にはのなか》に乘込むことは何の雜作《ざふさ》もないことであつた。繁るが儘に、延びるが儘に打棄てゝ顧みぬ荒れ果てた樹立をぬけ芝生の園を横ぎり、高見澤信武邸の微かな燈火《あかり》を唯一の目標《めじるし》にして、ヒヤ/\歩いて行《ゆ》くと、薄氣味の惡い夜風はソク/\と顏を撫で、其氣味の惡い心持と云つたらない。遙か向ふの村家の方には兇兆《わるいしらせ》のやうな黄色い燈火《あかり》が夜風にチラ/\動いてゐる。  緒方緒太郎氏は元來、恐怖と云ふやうなことを知らぬ樣な大膽《だいたん》な人物であるが、流石に今夜だけは何となく底氣味惡るい感じに打たれると見えて、凝つと先方《さき》を瞶《みつ》めたまゝ、スタ/\と歩るいて行《ゆ》く。  今少しの所で、芝生の園も横切り樹《こ》の間《ま》を潜《くゞ》り拔け樣とした時に、傍《そば》の雜木林の中から恐ろしい不具《かたは》の小兒《こども》のやうなものが飛び出して、跛《びつこ》の足を曳き曳き庭園《には》を横に眞暗《まつくら》な闇へ消えて行つた。 和「ヤツ、あれ、あれ、あれを見給へ。」  緒方氏は、この私の聲に驚いたのか、突然私の手頸《てくび》を握つた。それから小聲で笑ひながら、私の耳許に唇《くち》を當て、 「あれは君、庭番の大猿だよ。」  私は高見澤信武氏が、此の風變りな動物愛好者であると云ふことを、先刻《さつき》から忘れ果てゝゐたが、今の緒方氏の一|言《ごん》で思ひ出した。大猿は何處ともなく驅け出して行つて終つた。  緒方氏と私は靴を取つて窓へ兩手をかけ内部《なか》へ滑り込んだ。緒方氏は靜かにその窓の戸を閉め、ランプを卓子《テーブル》の上に載せて、室内隈なく見廻したが、四邊《あたり》は晝間見た時と何らの變りもない。それと見て緒方氏は私に近づき、唇《くち》を私の耳に當てゝ囁く。 緒「咳一つでも仕樣《しやう》ものなら、すつかり駄目になるぞ。可《い》いか。それに燈火《あかり》も消して終《しま》はなけりや隣室の老爺《おやぢ》が覗くからね。」  僅《わづか》に聞える位に囁いたので、私は 和「諾《よし》。」と點頭《うなづ》いた。すると氏は又た 緒「君、決して睡《ねむ》つて終つちやいかんよ。睡《ねむ》つたら生命が危險《あぶな》いぞ。夫れからピストルは何時でも撃てるやうに用意して置いて呉れ給へ。僕は寢臺に座るから、君はその倚子に腰を掛けて居たまへ。と囁いた。  私はピストルを取出して自分の傍に置き、緒方氏は寢臺に座つて、持つて來た細長いステツキを傍に置いて、マツチと蝋燭とを手に持つたまゝ、ランプの心《しん》を引込めて、フツと吹き消して終つた。後は鼻を撮《つま》まれても見當のつかぬ眞暗闇となつた。  あゝ、何と云ふ氣味惡さと恐ろしさであらう。夜《よ》は次第々々に深々《しん/\》と更けて、四邊《あたり》は物の音も絶え、隣室に居る人の微かな嚊《いびき》の聲さへも聞えぬ眞暗闇である。加之《をまけに》草木も睡《ねむ》り水の流れも止まると云はれる眞夜半《まよなか》に、唯一人の連れの緒方氏がつい其處の寢臺の上に横《よこたは》つてゐるとは云ふものゝ、それさへも私の眼には見分ける事も出來ぬ。況《ま》して聲の立てられやう筈もなく、眼を瞠《みは》り、呼吸を窒《ちゞ》めて心中に唯、さう思つて居るばかりである。而《しか》も時々物凄いやうな聲を出して夜禽《やきん》の聲や、猫のやうな豹の鳴聲が聞えるばかりである。私は薄氣味惡るさに身内がゾク/\として、心中には不快な怖ろしいことばかりを考へて居た。  何處かの大時計が十五分毎に時刻《とき》を報知《しらせる》のが聞えて來る。其十五分の間の待ち遠しさは一通りでない。それが積り積つて十二時一時、二時と進み、やがて三時を報《うつ》たと思つた一刹那である。忽然、一條《ひとすぢ》の火光《ひかり》が通風穴《ベンチレーター》を洩れて、ハツと思ふ間《ま》に又た|※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57]忽《しつこつ》として消え去つた。すると今度は油の燃えるやうな臭氣が鼻を突いて襲つて來た。驚破《すは》こそ隣室で龕燈《がんどう》に燈火《あかり》を點けたい相違ないと思つてゐると、コソリ、コソリと何處ともなく微かな音がする。耳を濟ますと[#「耳を濟ますと」はママ]、何《ど》うも人が動き廻るらしい氣配である。それも間もなく止んで、其後《そのご》の半時間ばかりといふものは、唯《たゞ》油の燃える臭氣が洩れて來る、確かに隣の室《しつ》から出るに違ひない。夫れでも緒方氏は身動き一つもしない。四邊《あたり》は又もや以前の寂靜《ひつそり》に復歸《かへ》つて、幾ら耳を引立てゝ、何か物音をでも聞きつけやうと鋭くなつた神經を惹立《ひつた》てゝも、更に何等の物音も聞えない。サア斯うなると人間は不思議なもので、心は益々|焦《ぢ》れに焦れて來る。緒方氏は何うしたのか、何處かへ行つたのか! 否《い》や行く氣遣いはない。矢張り寢て居るに違ひない。  此瞬間であつた。奇《き》なるかな、怪《くわい》なるかな。今度は突然|藥罐《やくわん》の口から湯氣の漏れ出るやうな變な音が聞え出した。夫《それ》と殆ど同時に緒方氏は跳《はね》るやうに寢臺の上に刎ね起きてマツチを擦つた。と、思ふと、傍《そば》に置いたステツキを取るより早く狂人のやうに、呼鈴の紐をピシリと續け樣に打ち出した。    九、見よ/\悲痛極まる苦悶の叫喚 [#地から4字上げ]……ヤア斑《まだら》の紐だ!早く/\ピストルを  緒方緒太郎氏は何に驚愕したのか、寢臺の上に跳ね起きるより早く、傍《かたはら》のステツキを取上げて、呼鈴の紐をピシリピシリと打ちながら 緒「アレ、アレ。和田君。あれを見たか。」と喚きながら、狂人《きちがひ》のやうに繰り返すのであつた。  私は緒方氏がマツチを擦つた時、確かに口笛の音を聞いたが、突然の火光《ひかり》で眼がパツとしただけで、何物をも見ることは出來なかつた。唯、死人のやうに蒼醒《あをざ》めて恐怖の極《きよく》に達した緒方氏の顏を見たばかり、氏が何をあんなに手荒く打つたのか、薩張《さつぱり》分らなかつた。  緒方緒太郎氏が紐を亂打して、そのステツキを側に置き、通風穴《ベンチレーター》を見上げる迄は、僅かに一分以内の瞬間であつたが、其間に隣室から實に突然に、私が生れてからまだ一度も聞いた事のない悲痛極まる苦悶の|※[#「口+斗」、U+544C、84-8]喚《けうくわん》が、深夜の寂寞を破つて、絹を裂くが如くに起つた。其聲は一刻一刻と高くなり、哮《たけ》るが如く咆《ほ》えるが如く、憤怒の喚《さけ》びと、恐怖の悲鳴と、苦痛の唸りと相次《あひつい》で起り、正《まさ》に是れ|焦※[#「執/れんが」、U+24360、83-1]地獄《せうねつぢごく》の阿鼻叫喚とも譬へるやうな、一種何とも名状の出來ぬ物凄さであつた。私も緒方氏も滿身水を浴びたやうに打ち震へて、耳を蔽《お》ふて相互《あひたがひ》に顏を見合せたまゝ何と云ひ出す語《ことば》もない。程なく、最後の叫喚と覺しき特に高い悲痛の一|聲《こゑ》の反響が、深夜の更け靜まつた寂寥の裡《なか》に消え去つた時に、私はホツと溜息を吐《つ》いて、思はず知らず、 和「こりや何事だろう。」と喘ぐがやうに聲を出した。緒方氏も私の此聲に漸く吾に復《かへ》つたやうにランプに燈《ひ》を點けた。見ると顏は蒼ざめて、眼は異樣に光つて居る。眞に恐ろしい瞬間であつた。果して隣室には何事が起つたであらうか。私の心臟は非常の速さで動悸を打つて居る。手と足は止め度もなく、ワク/\と震へて居る。 緒「あゝ、これで漸《や》つと事件は終つた。大抵は巧く遂行《いつ》たやうだが、和田君ピストルだけは念の爲に準備《ようい》して呉れ給へ。サア隣室へ乘込むのだ。」  緒方氏は斯う云つて手にランプを提げ、廊下に出て高見澤信武氏の室《へや》を二度三度と打ち叩いたが、何の返應《こたへ》もないので、把手を廻はして戸を開け内部《なか》へ入つた。私はいざと云はゞ打《ぶ》つ放す樣にピストルを身構へて、ソツと緒方氏の背後《うしろ》に從つた。  あゝ何たる凄慘悲痛の光景であらう。卓子《テーブル》の上には龕燈《がんどう》が、半分程口の開いた金庫を照し、其|傍《かたはら》の椅子の上には高見澤信武が長い寢衣《ねまき》のまゝ打倒れて、膝には晝間私達が見た犬鞭が置いてある。彼は頭を仰向けに背伸《せのび》をして、釣り上がつた双眼《さうがん》は恨めしさうに、形相恐ろしく天井の片隅を睨めて、見るも身の毛のよだつ樣《さま》に倒れて居る。鬼氣《きゝ》人を襲ふとは必ず斯んな場合を云ふのであらうと思はれたが、併しそれよりも更に更に奇怪千萬なるは、其額が黄色い紐で嚴敷《きびし》く卷《ま》かれて居ることである。  私達が入つて行つても高見澤信武は聲をも立てず、身動きもせず、唯《ただ》凝《ぢ》つと天井の片隅を睨めて居るばかりである。  緒方緒太郎氏は 緒「ヤア斑の紐だ[#「ヤア斑の紐だ」に丸傍点]。斑の紐だ[#「斑の紐だ」に丸傍点]。和田君、早く、早く、そのピストルを。」と叫ぶ。  私が恐る恐る、更に一歩を踏み出した時、彼《か》の高見澤信武氏の鉢卷は自然と動くやうに見えたのも一瞬時、忽ち毛髮の間からは菱型の頭を擡《もた》げてニヨロ/\と鎌首を延ばしたのは、紛れもない一匹の蛇であつた。 緒「ヤア大變[#「ヤア大變」に丸傍点]、大變[#「大變」に丸傍点]。こりやあ確かに南洋産の毒蛇だ[#「こりやあ確かに南洋産の毒蛇だ」に丸傍点]。」  緒方氏は再び斯ふ叫んだ。 緒「和田君、危險だ、危險だ、近寄つちやいけん。信武は噛まれてから十分と經たないのに早往生した。餘程劇烈な毒蛇《どくじや》だ。人を呪はゞ穴二つとは能《よ》く云つたものだ。人を陷《おとしい》れる爲に掘つた穽《わな》に自分が落ちて死んだのだ、兎に角早く此物騷な動物を自分の巣に返さなくちや不可《いか》ぬ。さうして蓮子を早く何處かへ避けてせてから[#「避けてせてから」はママ]、警察へ訴へて出るのだね。」  緒方緒太郎氏は早速、彼れ信武の膝の上から犬鞭を取上げて、鞭の先端の穽《わな》に蛇の首を引つ懸け、力任せに信武の頭に固く卷附いてゐる蛇を引離し充分手を伸ばして蛇を引寄せ金庫の裡《うち》へ投込み手早くガタリと扉を閉めて終つた。  最早、高見澤信武の死状《しにざま》も明かになり其原因となる可き蛇も金庫の内部《なか》に納められて終つたから、今迄斯くも長々と物語つて來た顛末に蛇足《じやそく》を添へる必要もないのであるが、此恐る可き出來事に恐怖《おび》へた蓮子に右の仔細を傳へた時の光景。彼女を私達二人で保護して隣村《りんそん》の伯母の許へと送り届けた事や、次《つい》で餘り明敏ならぬ警察官は高見澤信武の死の原因をば、彼が愛撫してゐた南洋産の斑《まだら》の蛇を餘り粗雜《ぞんざい》に取り扱つた結果だと斷定いた等の滑稽な談《はなし》もあるが、其等《それら》は別段|委《くは》しく述べる必要もあるまい。  唯、其翌日私達が、蓮子に別れを告げ、東京へ歸る|※[#「さんずい+氣」、第4水準2-79-6]車中《きしやちう》で緒方氏が私に説明した此事件に就ての結論だけは、省くことが出來ぬから、茲《こゝ》で語る必要がある。    一〇、鋭敏なる探偵經路の説明 [#地から4字上げ]……怪屋《くわいをく》の怪事件は終りを告げた  緒方緒太郎氏は語り出《いだ》す。 緒「和田君、僕は今囘の事件で益々僕の所信を確實にした事があるね、證據の充分に擧がつて居ない探偵ほど危險なものはないと云ふ事をさ。僕は初め乞食の居ると云ふ事や、「斑の紐」と叫んだ姉の語《ことば》など、それに死ぬ時にマツチを持つてゐたといふ事とを綜合して考へた時には實際僕も、何物かが姉を威嚇《おどか》したんだらうと思ひ込んだ。併し僕が彼《あ》の家《いへ》をして、窓からは如何《どう》しても危害を加へることが出來ぬと悟つた時に、僕は今迄の見解に執着せずに早速|他《た》の原因を搜しにかゝつた。其點だけは僕の頭腦《あたま》に對して賞讃して貰つても宜《い》いと思ふね。」 緒「それから、あの室内で通風穴《つうふうあな》と其の上から取附けられた紐とに僕は直ぐに注意をした。其次には移動の出來ぬやうに一定の場所に打着けてある寢臺《ねだい》を見た時に、アヽこれは此の通風穴から忍ばして何物かを此の紐に傳はらして此方《こつち》の寢臺《しんだい》に送る計劃《けいくわく》だなと想像することが出來た。すると直樣《すぐさま》「蛇」と云ふことが胸に浮んだ。猶ほ信武氏が南洋産の動物を可愛がつてワザ/\南洋から取り寄せたと云ふ事を思ひ出して僕の想像の確實であることが決つたんだ。醫師が檢査しても知れぬと云ふのも無理はない。あんな蛇の齒の跡が容易に知れるものぢやない。他人《ひと》に分らず、而《しか》も僅《わづか》に數分間に立ち所に其効力の顯《あら》はれる毒殺法を考へ出したのは流石に專門の智識のある彼の行爲《やりかた》として感服の他はない。而《さう》してあんな巧妙な仕掛は餘程機敏な警察官でなけりや發見し得《う》るものぢやない。それに例の口笛だ。兎に角次の室《ま》に蛇を忍び込ましても其目的を達しないとなると夜《よ》の明けないうちに自分の室《へや》へ蛇を呼び戻す必要がある。つまり信武先生はあの口笛で呼び戻す事に蛇を馴らしたものに違いない。あの金庫の上の牛乳は口笛によつて蛇が歸つた時呑ましたものに違ひない。」 緒「僕は高見澤信武の室《しつ》へ入らない前から大抵は想像してゐたが愈々《いよ/\》あの室へ入つて椅子を檢査し、椅子の上に始終人の立上つた跡のあるのを見て、通風穴《ベンチレーター》に届くには如何《どう》しても左樣《さう》しなければならぬ筈だと思つた。それから金庫や牛乳の器物、先端の穽《あな》になつた紐附の犬鞭などを見た時に僕は最う何等の疑ひを挾む餘地も無いまでに「蛇だ」といふ事を推定した。あの金屬の響《ひびき》のしたといふのは、老爺《おやぢ》さん彼《あ》の危險極まる毒蛇《どくへび》を金庫に納めて慌てゝ蓋を閉める時に發した音に違ひないお思つた。」 緒「何? 何だつて、夫れなら何故僕があの闇黒《くらやみ》で紐をステツキで打つたと云ふのか、アヽ君には知れなかつたのかなア。僕はあの時蛇のシユウ、シユウと云ふ鳴聲を聞いて、扨《さ》ては愈々蛇が僕の寢て居る寢臺を襲ひに來るなと思つたからさ。老爺さん僕等が彼《あ》の室《しつ》に居るとは知らず、全く蓮子孃《れんこさん》が寢て居るとばつかり思ひ込んで、愈々今夜こそは殺して仕舞《しまを》[#ルビの「しまを」は底本では「しをま」]ふと、蛇をよこしたに違ひないのさ。」 和「成程。緒方くんそれで悉皆《すつかり》分つた。あのシユツ/\と言つたのは、僕は藥罐《やくわん》の口から湯が煮え立つ音かと思つて居た。併し蛇は如何《どう》して元の室《へや》へ歸つたらう。」 緒「そりや君。僕が紐を打つたので毒蛇《どくじや》先生驚いて、今まで馴《なら》された通り紐を渡つて自分の室《しつ》へ歸り、其所《そこ》に居合せた信武氏を日頃飼はれて居る恩人とも何とも思はず、つまり毒蛇特有の性質を發揮して無茶苦茶に噛みついたもんさ。こゝに於てか高見澤信武を殪《たほ》した責任が間接には吾輩の上にもあるかも知れないさ。併し僕は良心に訊ねて何等|耻《は》づる所も咎《とが》むる所もないさ。要するに汝に出づるものは汝に歸るさ、いや惡い事は出來ぬものだ、天の配劑も亦《また》妙なる哉《かな》さ。ハハハヽヽヽヽ。」  探偵王緒方理學士は斯う語り終はつて卷煙草《シガー》の烟《けむ》をゆるく吐きながら、窓の外に消えて行《ゆ》く沿道の景色をしげ/″\と見るのであつた。|※[#「さんずい+氣」、第4水準2-79-6]車《きしや》は最早品川を出て東京の街上《がいじやう》を通つてゐる。軈《やが》て中央停車場へ到着《つく》のも今數分間の後《のち》であらう。  私《わたくし》は昨日からかけて一晝夜の間の此の冐險的探偵怪談を思ひ出すと、過ぎ去つた今となつても、身慄《みぶる》ひの出るやうな[#「身慄ひの出るやうな」は底本では「身慓ひの出るやうな」]恐ろしさに打たれずには居《ゐ》られない。あの地獄の責苦を思ひ出させるやうな物凄い高見澤信武氏の深刻な苦悶の形相と、あの胡摩鹽のいが栗頭に堅く堅く卷き附いた斑の紐が、ニヨツキリと鎌首を擡げ、入つて行つた私達二人の顏を眺めて細い鋭い針のような舌をペロツ/\と出して居た南洋産の毒蛇《どくへび》の事を思ひ出すと、其時の光景がマザ/\と眼前《がんぜん》にチラついて身の毛もよだち冷水《ひやみづ》を浴《あび》せられたやうな思ひがするのである。而《しか》も緒方氏が例の鞭の先《さ》きの紐の輪に蛇の首を引きかけて、巧みに金庫の中に入れた早技には返す/″\も感服するの他はない。  思ふに高見澤氏は、隣室でマツチの音がすると同時に、ステツキで紐を打つた音を異樣に思ひ、立ち上がつた瞬間に毒蛇が歸つたけれども、私達の室《へや》の物音に氣を奪はれ、毒蛇《どくじや》の首に紐輪を掛けることが手遲れた爲に、あの樣な無慘な事になつたのであらう。返へす/″\も惡い事は出來ぬものである。  これで此の話は先づ終りを告げたから。引き續いて、「穴中《けつちう》の慘死體」といふ非常に面白いのを一つ御まけに諸君にお話したいから次に掲げることゝする。  底本:「探偵叢書〈第十三篇〉斑の蛇」中興館書店      大正五年一月十七日 発行  作者:高等探偵協會  入力:神崎真 ※底本の画像データは、国会図書館のデジタルコレクションよりお借りしました。 ■国立国会図書館デジタルコレクション - 斑の蛇  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/904817 ※誤字脱字が残っている可能性があります。また一部外字などを置き換えている部分があります。 ※青空文庫の入力指針に基づき、片仮名の「ケ」のように見える文字の内、文章の流れから「こ」「か」「が」と読むと思われるものを「ヶ」で入力しています。 ※底本は総ルビですが、一部省略しています。 ※誤字等お気づきの点があれば、お知らせいただければ幸いです。