一 外務省の
舊友の手紙……一大災難とは何ぞ
二 大臣よりの重大使命……美人を
傍に物語
三
怪き階上の
鈴の
音……
駭然驅上れば
吁!
四 外交問題の
危態……恐怖と絶望とで昏倒
五
倫敦行の汽車の中……周密な推理と研究
六 警視廳と外務省へ……大臣の顏が
颯と曇つた
七 兇器を
持た深夜の曲者……保村探偵苦肉の策
八 皿を
凝視てアツと
一聲……
葢を取つた其瞬間
九
果然青灰色の
紙圓筒……神の如き探偵の物語
一 外務省の
舊友の手紙……一大災難とは何ぞ?
我が民間大探偵
保村俊郎君は、まだ
寢衣姿にて
側擡に向ひ、一心不亂に
何やらん化學上の研究に熱中してゐた。一個の
大形の
彎曲した蒸溜器が、
ぶんせん火口の蒼い炎の中でグラ/\と煮立ち、蒸溜液は一
升ほどの量にまで凝縮されてゐる。
予が室内へ入つて行つても、彼は
瞥乎と瞳を動かしたばかりで又もや研究に夢中になつてゐるので、餘程重大事件に相違ないと思つたから、予は肘掛椅子に腰掛けて手の明くのを待つてゐた。眺めてゐると、
此方の
壜を上げて見たり
彼方の壜を下げて見たり、
硝子の
移液管でどの壜からも數滴づゝを拔き出して見たり、
終ひに溶液の入つた一本の試驗管を
卓子の上に持つて來た。右の手には
りとます試驗紙を一枚持つてゐる。
「
須賀原君、君は
危急いところへ參つたね。この試驗紙が青のまゝで居れば無難であるが、赤に變つた日には人間一人の命にかゝはるのだ。」
と言つて試驗管の中へ浸すと、紙片は見る/\鈍い
暗紅色に變つた。
「フン!
私の思ふた通りぢや! 君、直きに御相手をするからね一服やつてゐてくれ給へ。」
彼は
机に向き直り、數通の電報を
急がしく
認めて給仕に渡した。それが濟むと、向ふ側の椅子にドツカと腰を下ろし、膝を縮めて兩手をヒヨロ長く痩せた
向脛の上で組合せる。
「平々凡々、些細な殺人事件だ。須賀原君、君の方がよつぽど面白い種がありさうだね。それは何?」
と予の手に持つた一通の手紙に目を付ける。で、それを渡すと非常に注意を緊張させて讀み始めた。
其手紙には實に次の如き
文言が
認めてあつたのである。
我が親愛なる須賀原直人君よ――兄が三年級の時に五年級にありし「蝌蚪」の栗瀬を兄は必ずなほ記憶し給ふべしと信じ候。然るに今や突然戰慄すべき一大災禍に遭遇して、生が未來の道程は挫折せられたり。
其恐るべき事件の詳細に至りては筆紙の盡すべきに候はねば、幸いに兄が生の懇望を容れ給ひて御面會の榮を賜はらば、其際懇と御物語りいたす心得に御座候。生は昨今漸く九週間の腦膜炎より恢復いたし候間際にて、尚ほ頗る衰弱いたし居り候。兄は兄の親友保村俊郎氏に乞ひて御同伴を願はれまじく候や。警察の方にては最早策の施すべき餘地なきやう斷定いたし居り候へば、生は本事件に對する保村氏の見解を是非共拜聽致し度く念じ居り候。兄よ、願わくは一刻も早く同氏を同伴せられん事を。この恐怖すべき不安の中に住む生にとりては、一日千秋の思ひに御座候。或は何故に其際至急同氏を煩はさゞりしやとの御疑念も有之候はんかなれども、そは同氏の伎倆を疑りての躊躇にてはこれなく、全く打撃を蒙り候以來意識朦朧たりしが故なることを同氏に宜しく御傳へ下され度く候。今や生の頭腦は再び明晰と相なり候。たゞ再發を恐れて多くそれにつき思念致さゞるのみ。されども衰弱中に候へば、此手紙は餘の者に筆記いたさせ候ふて差上申候。願くは御便宜御計り下され候て保村氏を御勸め下さる事を。敬具。
王琴町字降矢にて
舊學友
栗 瀬 律 夫
讀み終つた保村君曰く、
「この栗瀬律夫君といふのは君の學友ぢやね。」
「學級は二年上だつたが、同年輩ぐらゐだつたから親友だつたよ。非常に秀才でね、學校の
賞與はいつも彼に占められたつけ。そしてとう/\奬學資金を
獲て
[#「奬學資金を獲て」は底本では「奬學資金を護て」]、ます/\景氣よく
劔橋大學へ入つたが何でも
縁故が大層好くて、例の保守黨の大政治家
堀戸春容卿は、彼の母の兄弟に當るといふことは、その頃子供であつた僕等にも解つてゐた。併しこのピカ/\光つた親類を
有つてゐるといふことは、學校では
餘まり彼のために
利益にもならなかつたね。ならないばかりぢやない、僕等は
寧ろ一種の反感を
抱いて
運動塲で彼を追ひ廻したり、クリツケツトの道具で足を
打つ
拂つたりして兎角酷い目に遇はしたものさ。だが、一旦學校を卒業して社會へ乘出したら形勢が一變した。
天稟の才能と、今言つた有力な
縁故とのおかげで、外務省の好い椅子を占めたといふことは仄かに聞いたけれども、
其後全く忘れはてゝゐたのに、突然この手紙を受けて久振りで想ひ出したやうな次第でね。」
「成程、突然に舊友に縋りついて來たといふわけぢやね。」
「全く、この手紙を讀んだら何だか僕は感動させられた。繰返し
々々君を連れて來て貰ひたいといふのだから何となくあはれでね、むづかしい迄も當つて見やうと思つたのさ。一つは君といふ人は事件に對して非常に興味を持つ人で、
※心[#「執/れんが」、U+24360、9-5]に頼み込めば
毎時でも
快く腕を貸してくれることを知つてゐるから、家内にも相談すると大賛成でね、直ぐに行つてお上げなさいと勸められたので、早速御邪魔にあがつたやうなわけなのさ。」
保村君は手紙を戻しながら、
「併しこの手紙だけでは何の事やら當りがつかぬ。」
「僕にも解らない。」
「この
手蹟は面白いね。」
「けれども、自分の手でないことは手紙に
斷つてある。」
「それは知つてゐる。是は女の手だ。」
「男には違ひないさ!」
「いや、女だよ、
而も珍しい性格の女の手だ。
先づ見給へ、研究の第一歩としてぢやね、かういふことを知つて置くのも
何かの足しにならう――それは、君の友人は、善惡
何れにせよ、
通常人と異つた性格を
有つた
或者と密接の關係を有してゐるといふことである。いや、我輩にはこの事件が面白くなり出したぞ。君の用意さへ
宜くば直ぐにも
王琴町へ出掛けやうではないか。そしてそのやうに難儀をしてゐる外交官と、この手紙を筆記した婦人とに會はうではないか。」
二 大臣よりの重大使命……美人を傍に物語
幸ひにして
うおーたーるー停車塲發の朝の汽車に間に合ふ事の出來た我々は、一時間と經たぬ
間に、
王琴町の
樅の樹と、薔薇色の花を開く
ひーすの樹との間を歩いてゐた。
降矢の栗瀬家は、
停車塲から五分とはかゝらぬ近さの廣い地面の中にポツリと
隔絶れて建てられた大きな
邸宅であつた。
名刺を出して案内を乞ふと、
直樣一つの美々しい
裝飾のある客間へと通され、待つ
間程なく一人の肥え太つた男が出て來て、
甚だ慇懃に我々を厚遇するのであつた。年配は三十と四十との間、寧ろ四十近い方で、
の
澤々した
血色と言ひ、眼の樂しさうな輝きと言ひ中年の老けた
年齡にも似合はず、まだ活溌な腕白小僧の面影を見せてゐる紳士である。
「ほんとに
好うこそいらしつて下すつた。」と彼は
心から
悦ばしさうに我々の手を握つて「栗瀬はもう今朝から
貴君方の
御出ばかりを待ち
焦れましてな、
未だ御見えにならぬか/\と
絶間なしに催促致し
居つたのですよ。誠に氣の毒な至りで、まア溺れる者は藁でも掴むと申した
状態ですテ。栗瀬の兩親が
私に代理に御接待申上げてくれいと申すことで……それと申すのが、此問題についてお話しするさへも辛いからと
切ながりますのでな。」
「いや、私共はまだ何の詳しい事も存ぜん。」と保村君が言つた。「
貴君は御見受け申すところ、御家族の方でもおありなさらんやうですな。」
と言はれて向ふは驚いた樣子、そして
瞥乎と
流眄をくれて笑ひ出した
[#「笑ひ出した」は底本では「笑び出した」]。
「ハヽヽ、私の
小金盒(懷中時計の
鏈に付ける裝飾物)の「よ、は」といふ略字を御覽になつたのですな。いや、それならば不思議もありませんが、どうしてお解りかと
一寸驚きましたよ。私は
與瀬春藏と申しまして、實は栗瀬が私の
妹の
千嘉子と結婚することになつて居りますので、まア親戚關係にならうといふものでございます。妹は栗瀬の
室に居りますが、それはもう二ヶ月の間といふものは帶も解かずに看護致しましたよ。兎に角、病人がどのやうにか待ち遠しくて居りませうから、直ぐに
彼方へ御願ひ致しませうか。」
更に我々の導かれた
室は、客間と同じ
床にあつて、一部は居間に一部は
寢間にあてられた
體裁、
隅々には
[#「隅々には」は底本では「偶々には」]種々の花なぞが綺麗に飾られてあつた。
蒼白めて
憔悴した一
人の青年が、明け放つた窓際の
寢椅子の上に
横つてゐる。窓からは庭園の
豐な
草木の匂ひや、
香ばしい夏の空氣が入つて來る。青年の
傍には
一人の婦人が腰掛けてゐたが、我々の姿を見ると立上つた。
「律夫さま、
私はあちらへ參つて居りませうね。」
青年は女の手を取つて
引留めておいて、さて
懇に、
「やア、須賀原君、しばらく、御變りもなかつたかね。その
髭の
鹽梅では途中で遭つても
御互に解るまいよ。この
方が君の親友の保村さん?」
予は
簡單に彼を紹介した
後、共に椅子へ腰を下ろした。與瀬といふ男は室外へ出て行つたが、
妹の方は病人に手を取られたまゝで
留まつた。非常に人目を惹く容貌で、少し肥え過ぎて
背の低いところが
釣合が惡いとは言ふものゝ、顏色は
阿利布色の美しく、眼は
伊太利式に大きく黒く、
毛髮は
房々と黒く豐である。その豐麗な顏色との
對比で、病人の白い顏が一層痛々しく痩せ衰へて見えたのである。
病人は
寢椅子の上に身を起して、
「御多忙中を餘り長く御手間を願ふのもいかゞですから、前口上を略して直ぐ本題へ飛込みませう。保村さん、僕は今迄は幸福な身分でした。成功の
途に向いてゐる男でした。それが、いよ/\結婚の間際といふところになつて突然に、一つの恐ろしい不幸が持上つて、生涯の
凡ての希望を
滅茶々々に壞して
了ひました。
多分もう須賀原君から御聞き及びでせうが、僕は外務省に出勤してゐまして、叔父の
堀戸春容卿の精力のお蔭で昇進も速く、一足飛びに今の位置にまで登りました。殊に叔父が今度の内閣で外務大臣となりまして以來は、僕に種々の重大な使命を與へまして、それをまた僕がいつもまア手際よく片附けたものですから、
終には僕の伎倆と
氣轉とに絶大の信用をおくやうになつたのです。
「そこで、
凡そ十週間ばかり以前でした――さうですね、詳しく申上げると、五月二十三日の事なんです――僕は叔父の
室に呼ばれました。叔父は僕の
此頃の手柄をいろ/\と
讃めてくれた
後に、實はもう一つ新たに重大な任務で頼み度いことがあると申しました。
叔父は
書擡の
抽出から、灰色の一
卷の公文書を取出してさて申しますには、
「これは我が
英國と
伊太利との間の秘密條約文の原文である。遺憾なことにはこれに關する兎角の評判がもう新聞に載つたやうであるが、極めて大切なものであるで、その上の内容を新聞社などに漏らしたくないのぢや。
佛蘭西と
露西亞との大使は、この條約文を嗅ぎ知るためには、どのやうな莫大な金をも惜しまぬぢやらう。で、一分間もこの抽出を去らせるものではないのであるが、只こゝに止むを得ぬといふのは、この條約の全文を寫し取つておく必要があるのぢや。君は事務室に
書擡を持つて
居るだらうね。」
「ハイ、持つて居ります。」
「では此書類を持つて行つて
錠をおろしておいたがよからう。そして君だけが少し後へ殘つて、一同の退出し切つたのを見計ふて
悠くりと寫して貰ひ度い。すれば
竊み見られるといふ心配もない。で、いよ/\寫し終へたならば、原文と寫しの方とを再び
書擡へ入れて嚴重に錠をしてな、
明日の朝君自身の手から
私に渡して貰ひ度いのぢや。」
さういふ譯で、僕は書類を受取つて――。」
保村君が口を出した。
「
一寸お待ち下さい。外務大臣とのそのお話の間は、
貴君お一人きりであつたらうか。」
「一人きりでした。」
「大きな
室ですか。」
「縱横とも五
間の室です。」
「その室の
中央で御話しでしたか。」
「左樣、まづ中央の
邊でした。」
「お聲は低い方で?」
「叔父の聲はいつも非常に低いのです。僕の方では殆ど口を
開きませんでした。」
「有り難う。
何卒お次ぎを。」
と保村君は眼を閉ぢた。
三
怪き階上の
鈴の
音……
駭然驅上れば
吁!
「僕は叔父から命令された通りにして、
他の
屬官連の
退けるのを待つてゐました。そのうちに僕の
室の同僚も大抵去りましたが、
只一人綾田といふ男が、少し
仕殘した仕事があると申して殘つてゐましたから、僕は彼を殘して室外に出て、夕飯を喰ひに
行きました。歸つて見ると綾田はもうゐない。そこで僕は急いで叔父の仕事に取り掛りました。と言ふのは、この千嘉子の兄――只今御覽になつたあの春藏君が、その日はやはり町へ出掛けて參つて、午後十一時の汽車で王琴町へ歸るのを知つてゐましたから、なるべくは僕もそれで一
所に歸り度いと思つたからでした。
室に戻つて條約文を讀んで見ると、成程頗る重大なものであつて叔父が極力
秘密々々と申したのも決して誇張の言葉でないことが解りました。詳細のことは兎に角、一
言にして申せば、それは三角同盟に對する大英國の位置を
定限したものなのです。そして地中海に
於て佛國艦隊が、
伊太利艦隊よりも絶對に優越權を占めた
[#「優越權を占めた」は底本では「優越機を占めた」]塲合に
處する
我國の政策を豫定したものでありました。
其中に取扱はれてる問題は皆、純粹の海軍に關する問題のみでしてね、最後に兩國君主の御署名がありました。僕は一通りズツと走り讀みに目を通してから、寫し取りに掛りました。
所がその文書と來ましたらば隨分長いもので、
佛蘭西語で書かれた二十六
個條から出來てゐますので、一生懸命にペンを走らせましたが、九時になつても漸く九個條を寫したばかり、豫定の汽車の時間までには到底間に合ひさうもありません。そのうちに、食事の
後と言ひ、終日の仕事の
疲勞と言ひ、次第に
睡くなつて
茫然して參りました。こんな時に
珈琲の一杯も飮んだらば
頭腦が
明瞭するかも知れぬ。一體役所では、
階段の下の小さな
室に
小使が終夜殘つてゐましてね、時間外の仕事をする者には、アルコホルラムプで
珈琲をたてゝ持つて來る習慣になつてゐましたから、そこで
鈴を鳴らして小使を呼びました。
意外にも、
鈴に應じて登つて參つたのは
毎時の小使ではなく、
前垂を掛けた一人の、下品な顏付をした、年配の大女でした。聞けば小使の女房で、役所で
雜役をしてゐる女なんださうです。で、それへ
珈琲をたてゝ來るやうに
命令けました。
また二個條ばかり寫しましたが、ます/\睡くてたまらないので椅子から立上つて、
脚を踏み伸ばすために室内をあちこちと歩き始めました。けれども
珈琲がまだ來ない。チヨツ、何を
愚圖々々してるんだらうなアと、僕は
扉を明けて、
小使室へ
行くために廊下を進んで
行きました。僕の働いてゐた室からは一
條の廊下がズーと通じて、
朦朧と
燈火に照らされてゐます。僕の室からの出口はこれ一つだけなのです。それを通り越すと
彎曲つた
階段があつて
[#「階段があつて」は底本では「階級があつて」]、
其降り
盡したところが
小使室に當つてゐました。このまた
彎曲つた
階段の中腹に小さな一つの中段があつて、そこへ
直角に
他のもう一つの廊下が拔けてゐます。この第二の廊下を
傳ふてゆけば、同じく小さな
階段があつて、その
降り
口は
雇人共の出入の
扉になつてゐます。もつとも
猿巣街の方から通ふ役人は、
近路だと申して大抵その
扉の方を通るやうでした。
一寸略圖を書きませうか――
斯うです。」
と律夫は千嘉子に
紙片と鉛筆とを持つて來させて、
挿繪のやうな略圖を描いて見せた。
「いや、これでお話が一層
明瞭になります。」
「えゝ、此構造の點を呑み込んでゐて下さる事が非常に必要であります。で、僕は
階段を降りて
小使室に入つて見ますと、
珈琲が來ないのも道理、小使先生グツスリと
居睡最中で
傍にはアルコホル・ラムプにかけた釜がグラ/\と煮立つて湯が
沸きこぼれてゐるといふ有樣です。先生、僕が入つて行つても尚ほ知らずに
睡りこけてゐる。そこで僕は手を伸ばして搖り起さうとしますと、丁度その時でした、頭の上で
鈴がリン/\と鳴り出した、
其音で小使はびつくりして初めて跳ね起きました。
「おや、栗瀬さんでございますか!」
とキヨロ/\と僕を眺めてゐますゆゑ。
「さうだよ、
珈琲を頼んだけれども持つて來てくれないから取りに來たんだよ。」
「いや
申譯もございません、ツイ釜をかけたなり寢こけてしまひまして……。」
とまだ僕の顏を眺めてゐます。
鈴はまだリン/\と鳴り續いてゐる其音を聞けば聞くほど小使の驚きは増して來ました。
「ハテ、不思議でございますね。
貴君がこゝにゐらツしやるのに………誰が
鈴を鳴らしてゐるのでございませう。」
「え、
鈴かえ! あの
鈴はどこのだえ。」
「貴君が今迄お仕事なすつてゐらしつたお
室の
鈴でございますよ。」
と言はれた時の僕の驚き、ハツとして思はず背中へ水をさゝれたやうな氣がしましたよ。あの大事な條約文がテーブルの上に乘つたままである。すると何者かその
室へ入つて來たのだ……と思ふと僕は
狂人のやうに
階段を飛び上りました。併し保村さん、廊下には誰もゐないんです。室内にも人影がないんです。
何處も
彼處もチヤンと元のまゝなんですが、たゞ
書擡の上を見ると、例の
大事の/\書類が乘つてゐない。寫しの方はありますが、
正本の方は影も形もありません。」
保村君は椅子から立上つて兩手を揉みだした。これは問題に油の乘つた時の
證據である。
「それから
何うなすつた。」
と呟く。
「僕には直ぐにかういふことが解りました、それは賊が今お話した第二の廊下の方から來たに違ひないといふことです。若し僕の通つた本廊下の方から忍び込んだものならば、僕と
行き逢はぬ筈はありませんからな。」
「併し賊が以前から
室内に潜んでゐたやうなことはありませんか。
或はお話では廊下の
燈火が甚だ暗かつたとのことであるが、その暗きを利用して廊下に隱れてゐたといふやうなこともありませんか。」
「それは絶對に不可能です。
室でも廊下でも鼠一
疋隱れることは出來ません。兩方とも何の
掩護もありませんもの。」
「成程、では次を伺ひませう。」
「僕が
眞蒼になつて
驅出したものですから、小使も何か椿事が起きたと思つて、二階へ續いて驅け上つて來ました。けれども二階はその通りの譯なんですから、二人はまたもや
階段を飛び
降つて、猿巣町へ向つた
側廊下の方へ進みました。
突當りの
扉は閉まつてゐましたが、錠はおろしてない。我々はこれを蹴飛ばして往來へ走り出ました。僕は今でもはつきり覺えてゐますが、其時丁度近所の寺の鐘がカン/\/\と三つ鳴り渡りました。つまり九時十五分前の鐘ですね。」
「それは
極く大切な點ぢや。」
と保村君は
襯衣のカツフの上へ控えを書いた。
「外へ出てみると夜は暗く、
温い
微雨が降つてゐました。猿巣町には一
人の人影もありません。たゞ例の通り大きな馬車が
町端れの方へ消えるばかりでした。我々は帽子も被らず
舖石の上を驅けて
行きますと、遙かの角に一
人の巡査を見付けました。
僕は息を
喘々言はせながら、
「
盜賊が入りました! 外務省から頗る重要な書類を盜み出した奴があるんですがね、誰か此道を通つた者はありませんか。」
すると巡査の曰くです、
「
私は十五分ばかり前からこゝに立つてゐるんですが、
其間にたツた一人通つたゞけですよ――それは婦人でしてね、年寄つた大きな女で、黒い
肩掛を掛けてゐた……。」
「あゝ、そりや
私の
嬶です。」と小使が
※[#「口+斗」、U+544C、35-6]びました。「他には
何奴も御見掛けになりませんでしたかね。」
「見掛けんかつたよ。」
「ぢや、
盜賊め、
他の道を逃げやがつたに違ひない。」
と言つて小使は僕の袖を引張るのです。
併し僕はどうも不滿足でした。それに小使の奴が僕を
無暗に
他の道へ引張るのも却つて疑ひを増す種となりました。
「其女は
何方へ
行きましたらう。」
と巡査に訊きますと、
「知りません、たゞそんな女が通るなと思つたばかりで、無論特別に注意する氣も起らないですからな。兎に角急いではゐましたよ。」
「
何れほど以前ですか。」
「なに、たつた今のことです。」
「五分ばかりですか。」
「なに、五分も經つてやしません。」
と言ふ問答を小使は
悶かしげに、
「栗瀬さん、そんなつまらぬ事で
隙を取つてゐらしつちや駄目ですよ、一分間でも大切な時ぢやございませんか。
私ん
處の婆さんが何でそんなことに關係があるものですか、そりや
確ですよ。ですから早く他の方を搜しませう……えゝ、貴君が行らツしやらなきや、私が行つて見ませう。」
と走り出して
了ひました。
それを
直樣僕は
追ひかけて
[#「追ひかけて」は底本では「退ひかけて」]捕まへました。
「お前の
住居はどこか。」
「
愛比町十六番地です。けれども栗瀬さん、そんな間違つた嫌疑はお
止しなさいまし。それよりや、早く
此方へ行つて何か手掛をつかまへませう。」
全く其通りですから、僕は巡査と一
所に別の往來へ驅けて
行きましたが、こゝはまた
行き
交ふ人や馬車で一パイ、
何れも雨を厭つて家路に急ぐ者ばかりですから、
何れが
何うだか、さつぱり解りません。」
四 外交問題の
危態……恐怖と絶望とで昏倒
栗瀬は尚も
語をついで、
「それから我々は役所へ歸りました。そして
階段や廊下を
隈なく搜索しましたが何の
効も有りませんでした。僕の
室續きの廊下には、一種の
柔かな
油團が敷きつめてありますから、靴跡などは直ぐ目につかねばなりませんのが、どんなに仔細に檢査しても何の靴跡もないのです。」
「その晩は雨が降りましたか。」
「七時頃から降り出しました。」
「すると、九時頃外から來た者の靴には無論
泥濘がついて居らねばならぬわけであるが、小使の女房が何の跡も殘して
行かなんだといふのは
怪しな次第ぢやないですか。」
「いや、それは
御道理の御質問です。其時は僕も同じ疑ひを
抱いて見たんですが
[#「見たんですが」は底本では「見たんですか」]、調べて見ると、役所で
雜役に使ふ女共は
小使室で皆靴をぬいで、
上穿をつけることになつてゐたのでした。」
「ハヽア、さういふわけですか。すると結局、雨降りの晩であつたにも係らず、役所には何の怪しい靴跡もなかつたといふのですね。ふム事件の連鎖が確に奇怪である。それからどうなすつた。」
「我々は
室も檢査しました。併し秘密の
扉といふやうなものは在る筈がありませんし、二つの窓は
何れも地面から五六間の高さにあつて、二つとも
内から閉められてあります。床はぎツしりと
絨氈を張りつめてありますから、
陷扉などは無論なく、天井は普通の白い塗料を使つたものなんです。ですから書類を盜んだ曲者は、
階下の
扉口から忍び入つたに違ひないといふことは、僕が首を掛けても斷言します。」
「
爐はどうですか。」
「役所には壁に据え付けの爐はございません。僕の室には一つのストーブがあるばかりでした。
鈴の紐は、丁度僕の
書擡の右手の
邊へ電線から垂れ下つてゐます。誰にせよそれを鳴らすには、
書擡の
傍まで近寄らねばなりません。併し
苟も
盜賊をしやうとするほどの者が、何でわざ/″\
鈴を鳴らす必要がありませう。實に不可思議千萬ぢやありませんか。」
「全く奇怪なお話ぢや。それから何うなすつたか。多分曲者が何か手掛を殘して行つたらうとお思ひで、室内を搜索なすつたらうな――卷煙草の吸殼とか、手袋とか、又は女ならば頭の
針とか、さういつたやうな物を。」
「いや、何一つ殘してゐませんでした。」
「匂ひはどうでしたか。」
「匂ひですか……そこ迄は氣がつきませなんだ。」
「はア、
斯のやうな事件にあつては、煙草の匂ひといふやうなものが極めて大切な手掛になるのですぞ。」
「
私は元來煙草は一切吸ひませんから、若し匂ひが殘つてゐたならば直ぐに感ずる筈だと思ひます。絶對に何の手掛もありませんでした。只一つ明白な事實は、例の小使の女房が――お
輪といふ名ださうで――それが急いで役所を出たといふ事だけであります。小使に言はせると、もう時刻が時刻でしたから女房が急いで
家へ歸るに不思議はないと
辯解します。で、僕と巡査とは、犯人は何うしてもお輪だと鑑定して、さて犯人が盜んだ書類の始末をつけぬうちに捕まつてしまうふのが最上の策と考へました。
此時はもう警報が警視廳へ達したものですから、
織部といふ刑事が早速出張して參つて、非常に
※心[#「執/れんが」、U+24360、44-7]に事件を
擔當してくれることになりました。そこで織部君と僕とは馬車を雇ふて、三十分もたゝぬうちに、愛比町の小使の
家へ着きました。出て參つたのは一
人の若い娘で、これはお輪の長女であるさうです。
阿母はまだ居らぬとの事ですから、我々は入口の
室で待つ事にしました。
十分も過ぎると、コツ/\と
表扉を叩く音が聞えましたが、こゝで我々は飛んだ失策をしてしまひましてね、その責任は僕ですが、我々が
扉を開けばよいのを、ツイ
迂かりして娘に開かせてしまつたのです。すると娘の聲が聞えます「お
母さん、先程からお二人の男の方がお
母樣を待つてゐますよ」其聲と等しく、廊下をパタ/\いふ
跫音がし出したので、刑事は
扉を押し開き、僕も續いて勝手の方へ驅け出して見ると
[#「驅け出して見ると」は底本では「懸け出して見ると」]、お輪はもうそこに立つてゐて、
惡怯れぬ眼付で我々をジロ/\と眺めたのですが、其うちに不意に僕の顏が解るとびつくりしましてね、
「おやまア、
誰方かと思つたら、お役所の栗瀬樣ではございませんか!」
と
※[#「口+斗」、U+544C、46-5]びました。
「オイ/\、一體誰と間違へて逃げ出さうとしたんだね。」
と刑事が申しますと、
「
私はまた借金取とばかり思ひ込ん
了つたんですよ。實はある商人との間に少しゴタ/\が起きてゐるものですからね。」
「いや、そんな
言譯は
止して貰はう。お前は外務省から大切な書類を盜み出して、それを何者かに賣り拂ふために急いで戻つて來たんだらう。
此方にはさう信ずる
理由がチヤンとあるんだ。さア、取調べをするから我々と一所に警視廳へ來い。」
と刑事が引張らうとする。
辨解をする、
行くまいとする……併し幾ら抵抗しても無駄でさア、とう/\馬車へ乘せられて、我々は小使の
家を出ました。其前に念のため勝手を搜索してみました。殊に今の
間に火にでも
焚べてしまひはせぬかと、爐の中は
特けても仔細に搜したのですが、それらしい紙片もなければ、燃え殘りの灰もありませんでした。で、警視廳へ着きますと、お輪は直ぐ婦人檢査部の方へ廻されました。僕はその間實に不安の心持で煩悶しながら待つてゐたのですが、書類の行衞はどうしても解りませんでした。
茲に至つて初めて、自分の現在の地位の
恐怖といふものが、其全力を擧げて心に迫るのを覺えました。それ迄は僕は活動してゐました。活動に紛れて精神が麻痺してゐました。なに、書類は苦もなく取り戻せるに違ひないとばかり信じ切つてゐたものですから、取り戻されなかつた日には
果して
如何なる椿事に立ち至るかといふ事は夢想だもしませんでした。所が絶望の淵に臨んだ其時になつて、初めて現實的に自分の位置を
顧るやうになつたのです。氣が付いてみれば、何といふ怖しいことでせう! 須賀原君は知つてゐますが、僕は學校時代から神經質な感情ツぽい性情でした。僕は叔父のことを考へました。
他の内閣の諸大臣の事を考へました。あゝ、自分は叔父へ
耻辱を
蒙つた、いや、自分に關係する
種々の人に耻辱を蒙らせた、この大事件に對して、たとへ自分一人が
犧牲になつたところで
偖てどうなるか。外交上の利害問題を
危態に
瀕せしむるやうな失策に對しては何の
宥恕を乞ふ
術もない。自分はもう破滅だ、世間に顏出しもならぬ絶望的の破滅であるもう何をどうしたのか一切夢中です。何でも一
塲の騷ぎを惹き起したには違ひないと思つてゐます。
微に覺えてゐますが、大勢の役人が僕を取り卷いていろ/\に慰めてくれる。其中の一人は僕を
停車塲まで連れて行つて汽車に乘せたやうでした。そして僕の
家までも同行してくれるつもりだつたでせうが、
幸福と其時、僕の家の近所に住む原井といふ
醫師が同じ汽車で歸るところでしたから、
醫師が其者から僕を受取つて、隨分親切に家まで連れて來てくれました。全く
醫師に遇つたのが天の
祐けでしたよ。停車塲でもつて僕は發作を起して
了ひましてね、家へ着かないうちから、もう
躁狂に陷つてゐましたんですもの。
さて其
状態でいよ/\家へ着いた時の
家人の騷ぎといふものは御推察を願ふよりほかありません。皆寢込んでゐたのが
醫師の
呼鈴で起され、思ひがけぬ僕の躁狂を見た時は、可哀相に、この千嘉子も母も胸が潰れるばかりだつたさうです。そこで原井
醫師は、停車塲で刑事から殘らず聽いた事件の顛末を物語つたさうですが、併し家の者はそれで安心が
行くわけがない、
何れこれは長い病氣になるだらうと申すので、千嘉子の兄はこの樂しい
寢室から追はれて、
此室は忽ち僕の病室と變つて了ひました。夫以來、保村さん、僕は實に九週間といふもの、腦膜炎のために人事不省となつて寢て居たんです。この千嘉子と原井
醫師との看護がなかつたならば、今頃かうして
貴君方にお話する事も出來なかつたかも知れません。全く僕のやうな狂的發作では、どのやうな危ない事をするかも知れませんから、晝は千嘉子、夜は雇ひ看護婦が交代で看護してゐてくれた有樣でした。
其故かだん/″\
頭腦も
明瞭して參りましたが、併し記憶がすつかり恢復したのは、漸くこの三日以前からなのです。時々はこのまゝいつ迄も前後不覺であり度いと
念ふやうなことも有ります。所で記憶を恢復してから
最先に僕のやつた事は、織部刑事へ手紙を出した事でした。すると刑事は早速訪ねて來てくれましたが、其報告によれば、
爾來凡有る手段を採つたけれども、
何の手掛も依然發見されない。小使夫婦も百
方訊問したけれども、何等の光明も認められない。そこで警視廳の嫌疑は役所の屬官の
綾田五
郎君の上に掛りました。綾田君は今もお話しました通り、あの晩一番遲くまで殘つて仕事をしてゐた
君なんです。嫌疑が掛つたわけは、第一、遲くまで殘つてゐた事、第二は
同君の名が
佛蘭西人の名であるといふ其二ヶ條なんですが、實際のところ、僕は同君の退出を見屆けてから安心して寫しに取り掛つたのですからね。それから
姓名のことは、同君の家は
ゆぐのー教徒(佛蘭西の
耶蘇新教徒)である事はあるが、同情と慣例に於て
英國民である事は、貴君方や僕なぞと變りはありません。ですから、綾田君は結局此事件には何の關係もない人なんです。しますると、保村さん、僕は最後の唯一の希望として貴君の御助力を乞ふよりほか有りません。若しその貴君にして尚ほ御力が及ばぬとあれば、僕の名譽と位置とはもう永久に失はれねばならぬことになるのです。」
五
倫敦行の汽車の中……周密な推理と研究
長話に
疲勞れて、病人は布團の上に
頽然と沈み込んだ。それを見ると看護の千嘉子は、何やら興奮劑を一杯勸めるのであつた。保村君は
沈默つたまゝで頭を
後へ反り返らせ、眼を閉じてゐる其
態度は知らぬ者には無頓着にも見えやうが、實はこれは同君が
一意專念になつた時の
癖であることは、
[#「癖であることは」は底本では「僻であることは、」]、
昵懇の予には能く解つてゐる。
やがて彼は口を開いた。
「いや、お話は至極明瞭で其上格別お訊ね致す事もないが、只一つ最も大切なことが殘つて
居る。
貴君はさういふ特別な任務を
托せられたといふ事を誰かにお
打明けでもなすつたか。」
「誰にも話しません。」
「例へば、こゝに御居での千嘉子さんにも。」
「話しません。叔父に
命令けられてから、寫しに取り掛るまでの間に
家へ歸つて參つたのではありませんもの。」
「貴君の御家族の誰かゞ、偶然に其時貴君に面會に
行かれた樣な事もありませんか。」
「有りません。」
「御家族の方で外務省の内部の樣子を御存知の方がありますか。」
「えゝ、/\、そりや一通りは
皆な案内したことが有ります。」
「小使の
身上については何か御存知かな。」
「彼が古い兵隊
上りだといふほかは何も存じません。」
「聯隊は
何處でしたらう。」
「それは、聞きましたよ――
古留戸の守衛隊であつたとか言ひましたつけ。」
「有難う。織部刑事からは尚ほ必ず詳細の事が聞かれるでせう。一體其筋の者は事實を集めるには妙を得てゐますよ、
尤もそれを有利に使ひこなすとは限りませんがね。薔薇といふものは可愛いものですね!」
と保村君は、寢椅子の
傍を通り越して、開け放つた窓際に歩み寄り鉢植の薔薇の
垂頂れた莖を掴んで、深紅と青との美しい
混合色を見下ろした。彼の性格の状態としては、予にとつても誠に珍しい事だ。彼が天然物に對してこんな鋭い興味を感じてゐるところなぞはツイぞ見掛けたことがない。
「凡そ演繹法といふものは、宗教に於ける時ほど必要なことはないね。それは、世の理論家によつて正確な一科學として建設されることが出來る。我々は花を見る時ほど、神樣の仁慈を深く感ずることはない。
其他の總ての事物、我々の力だとか、慾望だとか、食物だとかいふものは、我々の生存にとつては
眞先に必要なものには違ひないさ。けれどもこの薔薇の花は例外です。この香りだの色だのは人生の裝飾であるて、その必要條件ではない。この例外を與へるものはひとり仁慈である。だから我々は花から期待する事が多いといふことを私は繰り返して言はうと思ふね。」
此
論證中、栗瀬律夫と千嘉子とは
驚駭と失望との表情をして保村君の顏を眺めてゐた。保村君は指の間に薔薇を狹んだまゝで
恍乎と幻想に陷つて
了つた。五六分間もさうしてゐると、千嘉子はとうとう
堪まらなくなつたのか、
「保村先生、先生にはこの不思議を
御解きになりまする御見込みが御つきで御座いませうか。」
と幾分不快を交へた聲で問ひかけた。
「あゝ、不思議ですか!」と急に現實の世界へ引き下ろされて斯う答へた。「左樣さ、此事件が非常に隱微な錯綜したものであるといふことは拒むわけにゆきませんな。併しお約束は出來ます、
私は事件を研究して見ませう、そして特別にこれはと思ふ事が有つたらば御知らせ致しませう。」
「何か手掛りの御心當りが御有りで御座いますか。」
「只今のお話で七つの手掛りは得ました。が、一々當つて見ねば其
價値については早計に斷言申上げられません。」
「誰か嫌疑者がお有りで御座いませうか。」
「
私は私自身疑ふのですが――。」
「何をで御座いますか。」
「餘り早く見込が立ち過ぎましたからな。」
「では
倫敦へ行らしつて、その御見込みを
御試めし遊ばせな。」
「千嘉子さん、
貴女の御忠告は非常に適切ぢや。」と保村君は今迄背を
倚り掛けてゐた窓の
扉から身を起して「須賀原君、やはりさうするほかはない。栗瀬さん、貴君は的の外れた希望に
耽ることは
不可ませんぞ。この事件は隨分
絡らかつたものですからね。」
「もう一度御目に掛るまでは僕は相變らず病人です。」
と律夫が叫んだ。
「なに、
明日また同じ汽車で伺ひませう、
或は餘り吉報を御土産にすることは出來ぬか知れませんが。」
「是非々々、
來らしつて下さい。事件に對して何事かゞ運ばれてゐるといふ事を知るだけでも氣が
霽々とします。あ、それから僕は堀戸卿から手紙を受取りました。」
「ほオ! どのやうな事を申されたか。」
「叔父は
冷かです、併し苛酷ではありません、それはつまり僕が大病人になつたせいだとは思ひます。手紙には繰返して、此事件が重大である事が
述べてあります。それから斯ういふことが斷つてあります――無論僕の免職の意味でせうが――僕の健康が恢復して、この不幸を償ふ機會を持つまでは、僕の未來に向つては一歩も取れないといふことなんです。」
「成程、それは理性的の思慮ある御言葉ぢや。では須賀原君、
御暇しやう。まだ/″\
市へ行つて澤山仕事をせねばならぬ。」
與瀬春藏君が停車塲まで馬車で送つて來てくれて、やがて我々は
倫敦行きの
汽車中にあつた。保村君は深き瞑想に打沈み、
倉畔乘換驛を過ぎてから漸く口を開いた。
「
何の線にせよ、
此樣な軌道の高い列車に乘つて、此樣な家を
瞰下ろしながら倫敦へ入つて
行くのは實に愉快なものぢやねえ。」
何を
戯談を言つてるんだ。
此邊の景色と來たら隨分
穢苦しいぢやないか。併し彼は直ぐに説明して曰くだ。
「見給へ、
葺石の上に聳えてゐるあれらの一
群の
隔絶れた大きな建物を……まるで、鉛色の海の中にある煉瓦の島みたやうな建物を。」
「あれは公立小學校だよ。」
「君、あれは
燈明臺だよ! 未來の
狼烟だよ! 希望に滿ちた小さな種が
何の
莢にも一パイに滿ちてゐる。あの中からいまに賢い奴等が飛出すのだ。未來の良國民が飛出すのだ。ところで、あの栗瀬君は酒を飮むかね。」
「
否、僕は下戸だと思つてゐるがね。」
「我輩もさうは思ふ。併し
凡有る微細な事を勘定の中に入れる必要があるね。可哀相に、先生、自分から拔き差しならぬ深みへ
陷つてしまつたのだ。そして我々がそれを首尾好く引張り上げられるか
何うかゞ問題ぢや。君は千嘉子について何う思ふ。」
「なか/\
確乎した令孃だね。」
「さうさ、併し性質は善良だよ、さうでなかつたら我輩の
見損ひだけれどもね。あの兄妹は
諾撒波附近の或る製鐵商の子だ。律夫君は去年の冬旅行中にあの令孃と婚約した結果、千嘉子は彼の家族に紹介されるために、兄に
扶けられてあの家へやつて來たのだね。ところが今度の災難が突發したので、其まゝ留まつて戀人を看護することになつた。兄の春藏もツイ居心地がいゝものだから同じく
居座はつて
了つたのだ。我輩は特別にそれだけの種を探つたよ。今日は兎に角研究の日として働かなけりやならぬ。」
「僕は――。」
「あゝ、君の方にこれより面白い事件があるならば――。」
と保村君は
稍や不平さうな聲で言つた。
「いや、僕の言はうと思つたのはね、今は一年中一番
閑暇な時だから、一日二日は思ふさま僕もこの事件に奔走出來るといふことなのさ。」
「あゝ、それは好都合ぢや。」と御機嫌が直つた。「では一所に研究してみやう。
先づ手始めに織部探偵に面會するのぢやね。多分思ひ通りの詳細なことが聞かれるだらうから、そしたら
何の方面から事件に接近して行つたら
好いかも解るだらう。」
「君は手掛りが見付かつたと言つたね。」
「それは幾つもある。が、其價値は今後の取調べの結果に待たねばならぬ。犯罪中でその痕を辿るのに一番困難なのは、見込の立たない奴であるが、今度の事件は見込が立たぬ事はない。今度の事件で利益を受くる者は誰であらう……と考へて見ると、
佛國大使もある
露國大使もある、其
何れかへ密書を賣り渡す者も利益を受くる。それからまた
堀戸春容卿である。」
「堀戸卿!」
「さうさ、斯ういふ事は考へられるだらう――それは政治家が此樣な位置に身をおくことが出來る。此樣な位置といふのは、今度の如き密書が偶然に
破毀されても格別
痛痒を感ぜぬやうな位置にあることぢや。」
「併し、堀戸卿のやうな名譽を
擔ふてゐる政治家はまさか。」
「まア、さういふ事もあるといふだけぢや。けれども我々は全然それを度外視することは出來ぬよ。
今日は外務大臣にも面會して、何か新事實があるか何うか當つてみやう。兎に角我輩はもう探索を始めたよ。」
「
最早?」
「うム、
王琴停車塲から
都下の各夕刊新聞へ電報を打つておいたから、
何れにもかういふ廣告が現はれることだらう。」
と手帳の引き裂いた紙片を予に渡す。それには鉛筆で次のやうな文句が走り書きしてある――
懸 賞 廣 告
去る五月二十三日夜、十時十分前頃、外務省の猿巣町に向へる扉の前に、或はその附近に乘客を降ろせる馬車の番號を求む。御存知の人は久良瀬町二百二十一番舘に御報告を乞ふ。二十圓の謝禮を呈す。
「すると君は、賊が馬車で來たと信ずるのだね。」
「馬車で來ないとしたところで元々さ。併しぢやね、
室にも廊下にも隱れ塲所がないといふ栗瀬君の
[#「栗瀬君の」は底本では「粟瀬君の」]證言を事實とすれば、賊は外部から入つたものに相違ない。然るにぢや、あの雨降りの
夜に外部から來たにも係らず、盜難の直ぐ後で調べた床の
油團に何の
泥跡もついてゐないとしたならば、賊が馬車で來たとよりほか思はれぬではないか。さうだ、たしかに馬車といふ推察は當つて
居ると思ふ。」
「さう言はれゝばさうらしいね。」
「我輩の言ふた手掛の一つはそれさ。其手掛からまた
他の手掛が引き出せるだらう。それから次には無論
鈴の問題がある――これが事件中での一番異彩のある疑問だが、一體
何故鈴が鳴るやうなことになつたのだらう。賊が大膽不敵の餘りに鳴らしたのであらうか。それとも賊以外に何者かゞゐて、犯罪を
遮げるために鳴らしたのであらうか。でなくば偶然にか。いや、ひよツとすると――。」
と言ひ掛けて、再び熱心な瞑想の
境に沈んでしまつた。が、彼の一擧一動の意味を
知悉してゐる予には
能く解る――何等かの新しい光明が彼の心に射し込んだに違ひない。
六 警視廳と外務省へ……大臣の顏が颯と曇つた
倫敦の終端驛へ着いたのは午後三時二十分であつた。
飮食塲で忙しく
小晝を濟ましてから、
眞直に警視廳へと押し掛けた。織部探偵には保村君が既に電報を打つておいたので、彼は我々の來訪を待ち受けてゐた、小柄の狡猾さうな男で、
愛嬌氣などは微塵もない鋭い表情をしてゐる。我々に對する態度が明かに
冷かなもので、殊に用向きを聞き取つてからはそれが
甚かつた。
「保村さん、
貴君の方法は伺つて承知してゐます。」と彼は
劔呑に言つた
[#「劔呑に言つた」は底本では「險呑に言つた」]。「貴君は警察官の集める凡ての報告をいつでも御使用なさるだけの用意をしてお居でなさる。それから御自分で事件を解決して了つて、前の報告をば悉く不信用にさせるといふなさり方でせう。」
「ところが反對にです、過去に
私の取り扱ふた五十三件のうちで、私が名前を出して
居るのは
僅た四件に過ぎなくて、
他の四十九件といふものは皆警察官の御手柄としてあるくらゐです。貴君はまだ御若くて御經驗も積まれぬから、その事情を御存知ないのも御もつともぢや。ですが貴君が今度の事件に
成効を期せらるゝならば、私と一所に御働きなさるのが肝要で、私に反對なすつては御爲めになりませんぞ。」
言はれて探偵の態度が
大分柔いだ。
「
願くは一二點、心得になることを承り度いものですな。今度の事件ばかりは何の見込みもまだ立ちません。」
「
何のやうな手段を御取りでしたか。」
「小使の
丹造を探偵して見ました。
彼奴が好成績で
[#「好成績で」は底本では「好成蹟で」]除隊になつた事は確で、
他に格別怪しむべき點もありません。が、女房のお
輪といふ奴は
強者ですな。存外この事件についても知つてゐる事がありはせぬかと私は睨んでゐます。」
「お輪は探偵して見なすつたか。」
「女探偵を一人放つて見ました。お輪は酒を飮みますね。
其他にどうも餘り要領を得ませんでしてな。」
「借金取に迫られたとかいふではないですか。」
「さうです、けれども勘定は濟みました。」
「金は
何處から手に入れたでせう。」
「其御不審は御無用です。恩給金を丁度それに宛てたやうです、格別財産が有りさうな樣子も有りませんから。」
「栗瀬が
珈琲を欲しいとて
鈴を鳴らしたらばあの女が二階へ登つて行うたさうぢやが、その理由については何と申してゐますか。」
「亭主が大層
疲勞れてゐたから、骨休めをさせやうと思つて代つたのださうです。」
「成程、間もなく栗瀬が降りて見ると、亭主は
小使室で
居睡をして
居つたさうぢやから、
其申立ては
眞實かも知れぬ。してみると、お輪の性質以外に、彼等についてもう不審の點も無かりさうですな。あの晩お輪が何故急いで歸つたか御訊きでしたか。その
忙しさうな
歩調が巡査の眼にも觸れたさうぢやが。」
「
毎時より時間が遲れたので家へ急いだと申立てました。」
「貴君と栗瀬とは
少くも二十分は遲れてお輪の後を追ひ掛けたでせう。その貴君方が何でお輪よりも先きへ
行き着いたか、其點は
如何です。」
「乘合馬車と二輪馬車とでは
速力が違ふと申すのです。」
「では、家へ着くと、裏口の勝手の方へ驅けて行つた譯は?」
「借金取に拂ふべき金を勝手に
藏つておいたからださうです。」
「
何れにも辻褄の合ふた答へはなし
居るな。お輪が役所を
出際に、若しや猿巣町で何者かに逢はなんだか、
或は
其邊をブラ/\して
居る者を見掛けなんだか、それを御訊きでしたらうか。」
「巡査のほかは誰も見掛けなかつたやうですな。」
「フム、貴君の御訊問に
御手落はなさゝうぢや。そのほか
何のやうな手段を御取りなすつたらう。」
「屬官の綾田五郎をこの九週間の間密偵して見ました、が、
何の
効もなかつたのです。」
「そのほか?」
「いや、もう
何にも有りません――何の證據も手に
入りません。」
「あの
鈴が鳴つた原因については何か御考へが有りますか。」
「いや、實際を申すとあれには弱りましたよ。
何れにせよ、
彼室へ忍び込んで、わざ/″\警報を與へるといふのは大膽極まる
所業ですな。」
「さうです、變つたやりかたです。いや、色々お話下すつて有難う若し賊を御手渡しする事が出來たらば、其際はまた我輩の實驗をお話しませう。須賀原君、失禮しやう!」
「今度は
何處へ
行くね。」
警視廳の門を出ると予が訊ねた。
「現内閣外務大臣にして未來の英國總理大臣たる
堀戸春容卿を訪問するのさ。」
大臣は都合好く尚ほ役所を退出せずにゐた。保村君が
刺を通ずると
直ちに引見された。彼は彼特有の舊式の禮法を以て我々に應接した。そして暖爐の兩側に据ゑた二脚の贅澤な安樂椅子に我々を掛けさせた。主人は我々の間に立つてゐる。
華車なスラリとした體格、嚴格にして思慮有りげなる顏付、既に霜を交へた
縮毛、打見たところ
眞の貴族らしき風采の貴族である。
大臣は微笑みながら、
「保村さん、貴君の
御噂さ能く承つて
居る。無論貴君の御來訪の目的を
私が存ぜぬと白を切るわけではない。實に役所始まつて以來初めて貴君の御注意を惹くやうな事件が起りました。失禮ぢやが貴君は誰のために御働きになつて
居られますか。」
「
栗瀬律夫君のために骨折つてゐます。」
と保村君が答へた。
「あゝ、不幸な甥のためにですか――貴君はお解りですか――彼が一族一門たるが故に、
何の
途からも彼を庇ふといふことが私には致し
惡い。今回の事件は彼の前途のために甚だ不利益な結果を
齎すに違ひない、それが殘念であるのです。」
「併し書類が發見されましたらば?」
「あゝ、無論その
曉には問題が違ふて來る。」
「閣下、
私は一二點御訊ね致し度いことが有るのですが。」
「知つとる限りは
悦んで御答へしませう。」
「條約文の
筆寫について閣下が御命令を御與へになりましたのは此
御室で御座いますか。」
「左樣。」
「では他人に聽かれる心配はなかつたので御座いますな。」
「
仰有るまでもなく。」
「條約文を筆寫させる意志が御有りだと申すことを
甞て
誰方かに御洩らしでもなさいましたか。」
「決して洩らしません。」
「確に左樣で御座いますか。」
「確です。」
「はア、閣下も御洩らしにならぬ、栗瀬君も秘密を守られた、
他に
誰方も御存知の方がないとしますれば、栗瀬君の
室に賊が入つたのは全く偶然であつたので御座いますな。偶然に好機會に觸れた、それで持ち出した、と斯ういふ事になるので御座いますな。」
大臣はまた微笑んだ。
「
其邊は
私の領分以外の事に屬しますテ。」
保村君は一寸考へてから、
「もう一つ御意見を御伺ひせねばならぬ大切な件が御座います。其條約文の内容が
他に洩れたる
曉には非常な重大な結果が生じて參る、それを閣下には多分御心配で御座いましたらう。」
暗い影が大臣の特色ある顏を
颯と曇らせた。
「全く、非常な重大な結果が起きますな。」
「その結果が既に現はれましたらうか。」
「まだです。」
「
例へばですな、それが佛國
或は露國の外務省の手に入つたとしますると、自然閣下にはお解りで御座いませうな。」
「解りませう。」
と大臣は
顰め
面をした。
「併し約十週間を經たる
今日、
未だ何の
情状にも接せぬのを以て見ますれば、條約文は何等かの理由の
下に敵の手に達しなかつた、さう考へても不穩當では御座いますまいな。」
堀戸卿は肩を
聳やかした。
「だが、保村さん、賊はまさかに條約文へ枠をつけて懸けておく爲めに盜みはしますまい。」
「一段と高値のつくのを待つてゐるのではありますまいか。」
「もう少し待つて
居るうちには恐らく
虻蜂取らずになつて了ふでせう。あの條約文は數ヶ月以後には最早秘密ではなくなりますからな。」
「それは最も大切な點です。無論賊が急病に
罹つたなぞといふことも有り
得べき事ですから――。」
「例へば腦膜炎に罹るといふやうな塲合ですか。」
と大臣は
瞥乎と保村君の顏へ
流眄をくれて言つた。
「いや、さうは申上げません。」と保村君は落着いたもので「所で、閣下の御多忙の時間を大層御邪魔致しました。それでは
御暇致します。」
「賊は何者であらうとも、貴君の御搜索の成功を祈ります。」
別れて出て來ると保村君はかう言つた。
「大臣は立派な男だ。併し先生、現在の位置に
噛りつき主義を取つてゐるね。餘り金持でないのに、招待なぞが澤山有る。無論君は大臣の靴の底が二度も修繕されたのに氣が付いたらうね。さてと、須賀原君、今日はあの新聞廣告に返事のない限りはもう
爲るべき事もないから、此上君の御邪魔をするには當らなくなつた。が、
明日また今日と同じ時刻の列車で、一所に
王琴町へ行つて貰はれると非常に好都合ぢやがねえ。」
「お安いことだ。ぢや
明日また會はう。」
七 兇器を
持た深夜の曲者……保村探偵苦肉の策
此約束に從ひ、翌朝はまた保村君と
王琴町へ出掛けた。昨日の廣告に對しては
未だ
何處からも反響がない、事件の上には何等の新しき光明も投げられてゐないさうだ。
栗瀬律夫は相變らず戀人の看護の
下に寢て居つた。が、昨日よりは餘程
快いらしい。我々の姿を見ると起上つて來て、左程難儀でもなさゝに我々に挨拶した。
「何か望みがございましたか。保村さん。」
と
※心[#「執/れんが」、U+24360、90-8]に訊いた。
「昨日
御斷はりした通り、
私の報告は消極的のものですぞ。私は織部刑事とも會ひました、堀戸卿にも御目に掛つた、そして一二
個條取調べの
端緒を開いて參つたが、これは何等かの結果を
得るかも知れません。」
「では、全然御失望ではなかつたのですな。」
「失望ではないですとも。」
「まア、さう
承つて安心致しました!」と千嘉子が叫んだ。「それならば勇氣を出して
辛棒さへ致して居りましたらば、きつと明りの立つ時も參りますわ。」
「今日は
貴君の御報告よりも、
却て
此方から御話せねばならぬ事があります。」
と律夫は再び寢椅子に腰をおろして言つた。
「いや、何か變つた事があればいゝとは
念ふて居つたのです。」
「えゝ、
昨夜一椿事がありました、
而も容易ならぬ事なんです。」といふ顏の表情が
甚く
嚴肅になり、眼には恐怖と言つたやうな色が閃き出した。「保村さん、僕はかういふ事を信じ初めました――僕は知らず
識らずのうちに、
或恐るべき
徒黨の中心點になつてゐたんですな、そして僕の名譽と共に僕の
生命までも
的はれてゐるといふことなんです。」
「ほオ!」
「元來僕は
此世に敵といふものを持つてゐないと自信してゐますから、さういふことは甚だ不條理のやうに聞えるのですが、併し
昨夜の出來事から見ますれば、どうも
然う推測するよりほかはありません。」
「
承りませう。」
「先づかういふ事を御承知が願ひたいのです、それは
昨夜初めて僕が看護婦なしに
此室に寢たといふ事なのです。僕は全く一人で始末の出來るほど具合が
快くなつてゐました。併し
終夜燈火だけは
點けておきました。何でも朝の二時頃でしたかね、トロ/\としたと思ふと、不意に
微な物音のために眼が醒まされました。丁度、鼠が板でも噛むやうな音でしてね、僕はそれに違ひないと思つて、しばらくぢツと聽いてゐたんですが、其音が次第に高まつて來る、そして
突然に窓のところから物を
剪み切るやうな鋭い金屬製の音が聞えて來ました。僕はびツくりして起き直りましたよ。
的きり何の音だか解りました。
微な音は、曲者が道具を
窓框の間の隙間へとほした音なんで、それから鋭く響いたのは、
を押しのけた時の音なんです。
すると、やゝ十分間ばかりは音がピタリと止みました。これは僕が眼が醒めたかどうかを
覗ふ爲でしたらう。そのうちにギーといふ
柔かな軋みと共に、窓がソロ/\と明けられた樣子ですから、
平生とは違ひ、病後の神經が鋭敏になつてゐる僕が、もう
堪まらなくなりました。で、
寢臺から飛び降りて、窓の扉を
颯と明けました。果して一人の曲者が窓に
蹲ばツてゐる、が、
電光のやうに逃げ出したものですから、人相も何も
辨別けられませんでしたが、何でも
翕のやうなものを纒つて顏の半分を隱してゐるやうでした。只一つ見極めた事は、曲者が手に兇器を握つてゐたことで、これだけは確です。長い
小刀のやうでしてね、身を
反はして逃げ出す時にキラリと光つたのが見えましたよ。」
「それは非常な椿事ぢや。して何うなすつたか。」
「僕が健康のときでしたらば、窓を飛び越して追跡するところなんですが、病後の今ではさうもなりませんから、早速
鈴を鳴らして家の者を起しました。けれどもそれが
可成手間が取れました、と申すのは、
鈴は
臺所の方へ通じてゐるのに、
雇人共は皆二階に寢てゐるといふ譯ですから、そこで僕は大聲に喚き立てたですな。すると義兄の
春藏君が飛んで來て、それから
他の者を起しました。春藏君と下男たちが外を調べて見ると、窓下の花壇に足跡がついてゐる。が、此頃の乾き切つた氣候でしたから、至極
朦朧としてゐて、
草塲の中に消えたのを突き留めることが出來ません。併し、往來をグルリと
境してゐる木造の柵に一個所、曲者が乘り越えたと見えて柵の頭が折れてゐる所がありましたさうです。此事はまだ警察へも屆けません。眞先に貴君の御意見を伺はうと思つてゐたものですから。」
此話は保村君の心に異常の結果を
齎したらしい。彼は椅子から立上つて
靜止として
居られぬと言つた風に室内を歩き出した。
「災難といふものは一度で濟まぬものですな。」
と律夫が言つた。微笑みながら言つたのだが、昨夜の一件でやゝ怯えてゐるのは明白である。と、保村君は、
「たしかに御災難であつた。貴君は
私と一所に御宅の
周圍を
巡られますか。」
「えゝ、
巡られますとも。少しは日光に當つた方が
好いんです。春藏君も
御供するでせう。」
「私もよ。」
と千嘉子が言つた。
「いや、貴女は
御出でなさらぬ方が宜しい。」と保村君は頭を振つて「貴女はそこに
其儘靜止としてゐらしつて頂きたいのです。」
若い令孃は不滿足げに再び腰を下ろした。が、兄は一行に加はり
斯て我々四人は庭へ降りた。芝生を廻つて律夫の窓下へ行つて見ると、彼の話にあつた通り、花壇の中に
足跡がついてゐるが、殘念ながらぼんやりと薄汚れてゐるのみである。保村君は一寸其上に屈みこんだが、直ぐに身を起して、
「
私は、賊が入つたにしては
斯やうなことのあるべき道理がないと思ふ。まア
邸を
巡つて見たら、なぜ特別に貴君のこの窓が目指されたか解るでせう。一體ならばあの
客室や食堂の大きな窓の方が、餘計に賊の眼を惹きさうなものであるのに。」
「あれらの窓の方が往來から一層見え易いですな。」
と春藏が言つた。
「えゝ、さうです、無論です。あゝ、こゝにも賊が當つて見たらしい
扉がありますね。これは
何ですか。」
「御用聞きの出入口です。無論夜は
鎖めておきます。」
「栗瀬さん、以前にも
昨夜のやうなことがありましたか。」
「決して有りません、
初回です。」
「お宅の中に
伸金とか、
其他何なりとも賊の眼をつけさうなものがありますか。」
「そんな貴重な物は置いておきません。」
保村君は兩のポケツトに手を突込んだなりで、邸宅の
周圍をブラ/\
巡つて歩いた。こんな
亂次のない姿勢は彼にとつては珍しいことである。
「時に……」と春藏を呼び掛けて「賊が柵を乘り越えたところは多分解つて
御居でゞせうな。一寸拜見したいものですが。」
春藏に導かれた
木柵の一個所は、成程棒の
端が折れて、その折れたのがブラ/\と下がつてゐる。保村君はそれを引きむしツて仔細に
檢べて見た。
「これが
昨夜の仕業でせうか。何だか古く見えるぢやないですか。」
「さうですなア。」
「それに向ふ側に人間の飛び降りた跡がない。いや、どうも何の手掛りもなさゝうです。
寢室へ戻つて御相談致さうぢやありませんか。」
律夫は未來の義兄の腕に
凭れて、極くノロ/\と歩いて來る。保村君は
歩早に芝生を横切り、斯くて我々は遲れた二人よりもずツと先きに再び病室の窓際に腰掛けてゐた。
「千嘉子さん。」と保村君は頗る熱心な態度で呼びかけた。「貴女は今日一日そのまゝ
其處に
靜止としてゐらツしやらなければ
不可ませんぞ。何事があつても今日だけは其塲所を御動きになつてはなりませんぞ。さうなすつて頂くことが非常に必要になつて參つたのですからな。」
「お望みなれば御言葉通りに致します。」
と令孃は思ひ惑ひながら答へた。
「で、
御寢みになる時には
此室の
扉に
錠をお掛けになつて、鍵をば御放しなさるな。宜しいか、御約束しましたぞ。」
「けれども律夫樣は?」
「栗瀬君は我々と
倫敦へ
行かれるのです。」
「
私だけこゝに殘るので御座いますか。」
「さうなさるのは栗瀬君の爲めです。貴女が同君のために御役にたつ
機が來ました! 早く! 宜しいか!」
千嘉子が
首肯く
其折しも、遲れた二人が入つて來た。
「千嘉子、なぜそんなに
欝いだ顏をして引込んでゐるんだね。」と兄が聲掛けた。「ちつと庭へでも出ておいで、
好い天氣だよ!」
「いえね、
兄樣、私少し頭痛がしますのよ。このお
室が却つて涼しくて心地が
快うございますわ。」
「ところで保村さん、御意見は
如何でせう。」
と律夫が促した。
「いや、此樣な些細な事の取調べのために、肝心の例の問題を怠けてはなりません。どうです、貴君が我々と一所に倫敦へ行つて下さると大層好都合ですがね。」
「直ぐにですか。」
「まア御都合のつき次第、左樣、一時間ばかりのうちに。」
「僕の御供するのがそんなに御必要ならば參りませう、體は大丈夫らしいのです。」
「非常に必要です。」
「今晩はあちらに泊らねばなりますまいな。」
「今それを申さうと思うふたところです。」
「すると、
昨夜の先生がまたやつて來ても、肝心の僕が
藻拔けの殼なのでオヤ/\といふことになるんですな、萬事お任せします。其代り保村さん、貴君の
御計畫も伺ひ度いものですな。それから、春藏君が一所に
行かれると僕の世話が頼まれますが、宜しいでせうな。」
「いや、それには及ばぬでせう。御承知の通り須賀原君が
醫師ぢやから貴君に對する御注意は充分してあげられます。では
御宅で一つ
小晝を御馳走になつて、それから三人して御一所に
出掛くるとしませう。」
八 皿を
凝視てアツと
一聲……葢を取つた其瞬間
萬事が保村君の希望通りに
按配された。予には同君が此樣な
處置を取る眞意が解らぬ。
或は令孃を律夫から遠ざける策でもあらうかさて我々は、健康の恢復と活動の
喜悦に滿たされた律夫と共に食堂にて食事を共にした
後邸宅を出掛けたが、こゝにもう一つ意外な目に
遇はされた、と言ふのは、
停車塲へ着いて、客車の中へ腰を降ろした我々兩人に向つて、保村君は平氣な顏で、自分は倫敦へ
行く意志がないと言ひ出したことである。
「實はね、倫敦へ歸る前に、もう一つ二つ研究し度いと思ふ小問題が殘つて
居るのだ。栗瀬さん、貴君の
御不在になるのは
私にとつて却て
幸福ですぞ。須賀原君、倫敦へ着いたらば直ぐにお客さんを私の家へ御連れして、私の
行くまで
御止めしておいてくれ給へ。兩君は古い學友ださうぢやから、話が合ふて丁度宜しからう。栗瀬さんさういふ次第ぢやから今晩は我々の
豫備の
寢室に
御寢み下さい。朝の八時には
うおーたーるー停車塲に着く汽車がありますから、
明日の
朝飯迄にはまた御目に掛りませう。」
「ですが、倫敦での例の問題の取調べはどうなりませう。」
と律夫は心細げに訊いた。
「それは
明日出來ます。只今のところは私は
此方に
留る方が一層大切なのです。」
「では宅の者に、
明日の晩は歸り度いと思ふて
居るとお告げ下さい。」
汽車が動き出すと律夫がかう言つた。
「いや、お宅まで歸るかどうか解らない。」
と保村君は、走り出した汽車に向つて愉快げに手を振つた。
予等兩人は倫敦の保村君の事務所に着くまで、この新しい發展について噂しあふたが、
何れも滿足した理由を發見することが出來なかつた。
「僕の想像では保村さんは
昨夜の強盜について何か證據を見付けやうとして
居られるのではないだらうか。まア強盜だらうね、僕自身では、どうしてもあれが普通の
竊盜とは思はれない。」
と栗瀬が言つた。
「すると君の考へはどうなのかね。」
「君は
屹度僕の衰弱した神經の
故にするだらうが、僕の信ずる所によれば或る深い政治上の陰謀が僕の周圍に企てられて
居る。そしてどうも其
徒黨等が僕の生命を
的つてゐるらしく思はれるのだ。
或は僕の言葉は誇大に響くかも知れん。不條理に響くかも知れん。けれどもまア事實を考へて見てくれ給へ! 何の目ぼしい物もない寢室の窓から、何で
竊盜が忍び込む必要があるだらう。何で手に長い
小刀を握つて來る必要があるだらう。」
「押込の
鐵梃かなぞぢやなかつたのかね。」
「なアに、
小刀だつたよ。其
刄がキラリと
閃るのを僕は
判然と見たんだもの。」
「併しだね、君がなぜそんな怨みを受けてゐるのだらう、
怪しいぢやないか。」
「あゝ、それが疑問なんだ!」
「兎に角、保村君も同意見とすれば、行爲に現はれるから解らうぢやないか。
假りに君の意見を正當だとして、彼が
昨夜君を
脅かした奴に手を下す事が出來るとすれば、百
尺竿頭一歩を進めて、海軍條約文を
竊んだ奴をも見付けるに違ひない。一方は君から條約文を
竊む、一方は君の生命を
脅す――そんな二つの敵を君が持つなぞと考へるのは不條理だよ。」
「だが、保村君は僕の
宅迄は戻らぬかも知れんと言ふたぜ。」
「僕は長い事知つてゐるが、保村君がしツかりした理由なしに漫然と働くといふことは
甞てないね。」
兎角して漸く我々の話は
他の問題に移つたものゝ、予に取つては實に退屈の一日であつた。栗瀬は長らくの病氣の後とて
未だ衰弱してゐる上に、重なる不幸で愚痴ツぽくなり、神經質になつてゐる。予は
あふがにすたんの話、
印度の話、世間話、
何にてもあれ彼の心を紛らすやうな事を
話して訊かせたのだが
效目がない。彼の心は常に失はれた條約文の上に後戻りをする。保村君の行動やら、堀戸今日の
執りつゝある手段やら、
明朝接すべき報告やらについて
或は
訝み或は想像し、或は推測する。夕暮になるにつれ彼の
亢奮状態は全く
傷しくなつた。
「君は保村さんを全然信用してゐるのかね。」
と、そんな事も訊く。
「素晴らしい探偵をやつた實例を幾つも見たからね。」
「けれども今度のやうなむづかしい事件を解決したことはないだらう。」
「なアに、君の事件なぞよりはズツと手掛りの少い難問題を
美事にやつてのけたことは澤山あるよ。」
「併し今度のやうな國家的の利害に大關係のあるものではなかつたらう。」
「それは知らんがね、僕が確に覺えてゐるのでは、非常な重大事件で
歐洲の三つの皇室のために働いた事がある。」
「兎に角、須賀原君、君は保村さんを能く知つてゐるのだが、あのくらゐ不可思議千萬な人も見たことがないね。まるで僕等には見當がつかない人だ。君は今度も有望と思ふかね。先生自身は成功を期してゐるだらうかね。」
「保村君は何とも言はなかつたよ。」
「ぢやア形勢は惡いのだね。」
「いや反對だ。僕の經驗によると、保村君は
的を外れた時には外れたと言ふ。むツつり默りこんだ時には嗅ぎ當てた時なのだ。それが果して正確であるや否やがまだ不明な時なのだ。それはさうとしてだね、君、こんなことで
御互に神經ツぽくなつてゐるのはもう堪まらんから、後生だから寢てくれないか。寢れば氣分が
新鮮するよ。そして
明朝の吉報を待つことにしやうぢやないか。」
漸との事で説き付けて寢かせる事にした。かう亢奮してゐるのでは到底安眠は出來まいとは知れてゐれど、さうするよりほかに仕方がない。彼の神經質はとう/\予にも傳染した。予も殆ど
半夜といふものは、
轉輾反側して、此怪事件の上に思ひを馳せたり、あれか、これかと無數の
理窟を
捏ね返してみたり、その理窟が後のになるほど段々前のゝよりも出來ない相談になつたりなぞして
夜を更かした一體保村君は何だつて王琴町に踏み留まつたのだらう。何だつて千嘉子孃に
終日病室に
靜止としてゐるやうになぞと注文したのだらう何だつて栗瀬家の近所に留まりながら、用心してその家族にも告げまいとしたのだらう。さういふやうな
凡有る疑問を解決すべき説明をどうかして求めやう/\と
腦漿を絞つてゐるうちに、とう/\ぐツすりと
睡眠に
陷ちてしまつた。
翌朝起きたのは七時であつた。起きると直ぐに栗瀬の
室へ行つて見ると、共は寢が足りなかつた後の事とてぐツたりと憔悴してゐたそして彼は眞先きに保村君が歸つたかと訊いた。
「約束した異常、先生は一分間の
遲速もなくやつて來るよ。」
全く予の言葉通りだつた。八時を打つと間もなく、一臺の馬車が
扉口に驅けて來て、保村君が飛降りた。窓から眺めてゐると、彼は左の手に
繃帶を施してゐる。そして大層物凄い
蒼白めた顏色をしてゐる。玄關を入つたと思つたが、やゝしばらくしてから階段を上つて來る音。
「まるで敗北した人のやうに見えるね。」
と栗瀬も叫んだ。
予もその言葉を是認せぬわけにはゆかなくなつた。
「結局、手掛りは倫敦の方にあるんだらう。」
と言ふと栗瀬は
唸聲を出して、
「
何處にあるものやら知らないけれど、先生が歸つて來たらば吉報が聞かれるだらうと待ち
焦れてゐたのになア。併したしかに昨日までは左の手があんなに繃帶はしてなかつたよ。どうしたと言ふんだらう。」
「保村君、怪我をしたのかね。」
室へ姿を現はしたのを見ると予はかう訊ねた。
「や、これはなに、
拙なことをやつて一寸引つ掻いたのさ。」と、
御早うの挨拶代りを首でやつて見せて「栗瀬さん、貴君の今度の事件は、確に
私が今迄從事したものゝうちでも最も厄介なものゝ一つですね。」
「若しや
御手に餘つたんぢやないかと心配しました。」
「いや實に素的な經驗をやりました。」
「その繃帶で見ると何か冐險的の事件があつたね。」と予が言つた。
「その顛末を聞かしてくれ給へ。」
「
朝飯の後にしやう。なにしろ我輩は今朝のうちに三十
浬を飛んで來たんだからね。例の馬車についての廣告には
何處からも返事がなかつたらう。好し/\、さう
毎時々々都合よくはゆかないものぢやテ。」
食卓の容易は出來た。予が
鈴を鳴らさうとするところへ、丁度女中のお
陸さんが茶と
珈琲を持つて入つて來た。それから五六分も過ぎると料理を運んで來た。我々は皆食卓に就いた。保村君はがつ/\してゐるし、予は好奇心に滿ちてゐるし、栗瀬に至つては此上なしの不景氣の顏をしてゐる。
「お陸もなか/\臨機應變をやり
居るわい。」とカレー料理の
雛鷄の皿の覆ひを取りながら保村君が言つた。「
彼女の料理の範圍は少し狹いことは狹いが、
朝飯だけは兎に角うまく喰はせるね、須賀原君、君のは何だ。」
「
豚肉と
鷄卵だよ。」
「うまいね! 栗瀬さん、貴君は何をお
喰りか。カレーの
鷄か、
鷄卵か、それとも好きなものを
御撰みかな。」
「有難う、僕は
何にも喰べられません。」
「そんなことがあるもんぢやない! さア貴君の前にあるのをお
喰りなさい。」
「有難う、けれどほんとに喰べない方がいゝです。」
「はゝア、では。」と保村君は
惡戯さうな
瞬をして「
私の方へ御渡し下さるには差支へないでせう。」
栗瀬は
葢を取つて見た
[#「取つて見た」は底本では「取つた見た」]。と、一
聲の
叫聲を擧げて皿の中をぢツと
凝視めた。顏色は其皿の如く白くある。
九
果然青灰色の
紙圓筒……神の如き探偵の物語
栗瀬は
抑も何を見たのだらう。
皿の
中央に青ツぽい灰色をした一
卷の紙の
圓筒が
横はつてゐるのだ。彼はそれを取り上げた。喰ひ入るばかりに眺めてゐるかと思ふと、やがて
確乎と胸に抱き占めて、
歡呼の聲を
擧げながら、
狂人のやうに室内を躍り廻るのであつた。そのうちに感激の疲勞でグニヤ/\になつて、椅子へドカリと
頽折れた。
關はずおくと氣絶もしかねまじいので、我々は慌てゝブランデーを飮ませてやる。
「まア、/\!」と保村君は慰め顏に肩を叩いて「そんなに夢中になつては
不可い。けれど我輩これで
芝居氣のあるのはたしかだからねえ。」
栗瀬は其手を取つて接吻した。
「あゝ、
貴君の上に
祝福あれ! 貴君は僕の名譽を救つて下さいました。」
「なに、我輩の名譽までが
危いところであつた。全くアレですぞ、貴君が上官の命令に對して馬鹿間違ひをやられるのが
御厭のやうに、我輩も事件を
失敗るのは實に七
里けツぱいですわい。」
栗瀬は貴重な書類を
外套の一番奧の
懷中に
收つた。
「此上貴君の御食事の御邪魔をするのは何とも失禮ですが、併し僕は死ぬほど知り度いんです。何うしてこれを手にお入れだつたか、
何處で御見付けになつたのだか。」
保村君は先づ
珈琲を
啜つて、それから
豚肉と
鷄卵とを
平げ、さて立上つて、パイプに火を
點け、自分の椅子へ腰をおろして、
「先づ最初に我輩が取つた手段をお話しませう、それから、何故そのやうな手段を取るに至つたかの
源因をお話しませう。」と語り出した。「昨日
停車塲で諸君にお別れしてから、我輩は附近の
好景を
賞しながら愉快に散歩をして、
里布禮といふ美しい村まで行つた。そこの一軒の旅館で休息して、用意の爲めにフラスコへ水を詰めたり、
懷中へサンドウヰツチを入れたりした。そのうちに夕方になつたから、もう一度
王琴町へ引返して、丁度
日沒少し過ぎ頃、栗瀬さん、貴君のお宅の外の往來へ着いたのです。
そこでト、我輩は往來に人影の絶ゆるのを待つて
居つた――あの往來は餘り人通りは
繁くはないやうですな――そしてから、策を乘り越えて庭へ飛び降りましたよ。」
「門が開いてあつたでせうに。」
「開いてはゐました、けれど我輩元來柵の
乘越しなぞが大好きでしてね。庭へ降りるには、あの
樅の樹が三本立つてゐるところがありますね、
彼處を撰んだね。つまり枝の蔭で決してお宅の人に見付かる心配がなかつたからです。いよ/\飛び降りると、
藪から藪を
潜つて歩いて――まアこのズボンの膝が散々になつてゐるところを見て下さい――とう/\貴君の寢室の窓の前に立つてゐる
石楠の樹の下まで辿り着くと、そこへ
蹲みこんで事件の發展を待つてゐました。
貴君の
室の窓の
目隱はまだ降りてゐなかつたから、千嘉子さんが
卓子の
傍で
書見をして
居られるのが能く見えました。十時十五分になると千嘉子さんは本を閉ぢ、窓の
扉を閉めて出て
行かれた、
其室の
扉を閉める音も聽えました。其時
錠に鍵をおろして行つたのは確です。」
「鍵をですか?」
「左樣、それといふのは我輩が
豫め千嘉子さんに、御自分の寢室へ
御引込みの時は栗瀬さんの室へ外から鍵をかけて、その鍵を御自分で保管して下さるやうにお頼みしたからです。千嘉子さんは我輩の注文をば一々嚴密に守つて下すつた。全くあの方の應援がなかつたならば、その條約文が今頃貴君の手に入つて居るかどうか
危いものであつたですぞ。で、千嘉子さんは
室から出なすつた、
燈火も消えた、後はたゞ我輩が藪の中に蹲まつて
覗ふてゐるばかりです。
昨夜は誠に美しい夜であつた。けれども徹夜する身にとつては仲々退屈ぢや。無論
心持は亢奮して
居る。丁度獵師が川岸に隱れて大きな獲物を待ち受けてゐるやうな
樂みはあつたが、さりとて待つ身に取つて長いこと、……町の方からは寺院の時計が十五分毎に響いて來るが、その間の待ち遠しさといふものは、もう時計が止まつて了つたんではないかと思はれるばかりでね、でも漸く朝の二時になると、不意に近所で
閂を
密と引き拔いて、鍵を廻すギー/\といふひそやかな音が聞えて來た、と思ふと、勝手口の方の
扉が明いて月光の仲へ浮び出たのは
與瀬春藏君です。」
「えゝ春藏君!」
と栗瀬が大聲を出した。
「出て來た姿を見ると、帽子は
被つてゐない、が、肩の上へ黒い
合羽を掛けてゐる。これは萬一人目に觸れた時
直樣顏を隱す用心でせう。先生月光を避けて、壁の
陰影ばかりを撰んで
爪先で歩いて來たが、いよ/\あの窓下まで着くと、長い刄の
小刀を
窓框へ突きさして
を外した。外すと窓を明け、
小刀を
扉の隙間に入れて横木を
退け、とう/\すつかり明けてしまつて、内へ忍びこんだ。
我輩の隱れてゐるところからは、室内の樣子、彼の一々の行動が手に取るやうに能く見ゆる。先生、まづ
爐棚の上の手燭を二つとも
點しておいて、それから入口の
扉に近い
邊の
絨氈の
隅を上げに掛つたものです。捲くり上げて身を屈めたと思ふとね、一つの四角な
板片を取上げた。あの
瓦斯會社の職工が、瓦斯管の
接目の工事をするために殘してゆくあれぢやね。それが、實際目撃したところでは、勝手の方へ走つてゐる
丁字形の接目に被さつて
居つた、その隱し塲所から先生
圓く卷いた一件の書類を取り出した。取り出すとまた
板片を
嵌め
[#「板片を嵌め」は底本では「板片を穿め」]、絨氈を元通りに直し、手燭を吹き消して窓から飛び降りた、ところを我輩が首尾よく取つ捕まへたのです。
與瀬春藏といふ人は思ふたより惡い人ですな。先生、
小刀を閃かして我輩に飛び掛つた。止むを得ず二度ばかり
敲き伏せたのぢやがツイ指の關節を一刺しやられましたわい。でもとう/\組み敷いたその時の恐しい顏付といふものは、明かに殺意を示してゐる者の顏付であつたが、懇々と
利害得失を説いて聞かすると、
斷念めて書類を渡しました。書類が手に入ると共に、春藏君をば放してやつたが併し今朝になつて詳細の顛末は織部探偵まで電報で報じておいた。織部君が敏捷に立ち廻つて先生を逮捕出來ればそれも宜しいが、まづ我輩の察するところでは、折角急行して參つても犯人は逃走の後であらうと思ふ、すれば政府にとつては其方が一段と宜しいのぢや一つには堀戸卿のため、一つには栗瀬律夫君、貴君のため、此事件が法廷に現はれぬ方が好都合であらうと我輩は思ひます。」
「實にどうも意外な事です!」と栗瀬は息を
喘ませて「では過去十週間、僕が煩悶に暮した長い間、
竊まれた書類は始終僕の室にあつたと
仰有るのですか。」
「まづさうでした。」
「それで、春藏君が……あの人が犯人なんですか!」
「フム! 春藏君の性格といふものは
外貌によらず危險なものですぞ。我輩が其時本人から聞いた言葉で察すれば、先生、株式へ
無暗に手を出して
大分の
負傷を蒙つたところから、その損失を取り戻すためならば如何なる手段をも取らうと思つてゐたらしい。元來が
渾身利己心で固まつてゐる男であるから、自分に利益ある機會さへあれば
實妹の幸福を蹂躙しても
叶はぬ、その夫たるべき貴君の名譽を失墜させても何ぞ關せんといふ風である。」
栗瀬はドタリと椅子に沈み込んだ。
「あゝ、頭がグル/″\
旋轉りさうです。ほんとに
御話を聞いて目が
眩りさうです。」
保村君は例の教授的態度を
持して、
「貴君の事件で最も難所と致したのは、餘りに證據が有り過ぎるといふことでした。だから、眼前に現はれた
凡有る事實の中から
眼目と
認めた點のみを拾ひ集め、それを順序よく
接ぎ合せて、
終に驚くべき一大事實の連鎖を得たのである。我輩は最初から春藏君を疑ふて居つた、と申すのは、あの密書盜難の晩、貴君は彼と同行でお宅へ歸る手筈であつた。して見ると、外務省をよく存じてゐる彼が貴君を役所に訪ねて
誘ふて歸るといふことは有りうべき事である。それから飛んで一昨夜のお話であるが、何者かゞ貴君の寢室に忍び込まうとした。ところが
此室には春藏君のほかに物を隱しておくやうな人は他にない――何故と申すのに、貴君が
原井ドクトルに連れられて倫敦から歸られるまで
其室に居つたのは春藏君でせう。其晩貴君より一
歩先きに歸つて其室に入つて居つたが、貴君が病人となつて連れ込まれるに及んで、其室を明け渡さねばならなかつたでせう――さういふお話を聞いてから、我輩の彼に對する
疑念は
總て事實に變じた。
况んや、曲者が、看護人が初めて貴君の
傍から離れた
其夜を
的つて忍び込まうとした事實を見れば、其曲者たるや正に
家内の事情に通じた者に違ひないといふ結論に達するではないですか。」
「僕は何といふ
盲目でしたらう!」
「そこで我輩が骨折つて手に入れた事實の眞相はかうである。春藏君は五月二十三日
夜猿巣町に面した
扉の方から外務省へ入つて行つた。役所の樣子は
能う知つてゐるから、
眞直に廊下を通つて二階の貴君の室へ入つて見た、此時が丁度貴君が
珈琲の催促に
小使室へ降りてゆかれた直ぐ後である。で、室に入つて見ると誰も居らぬので
其塲で
鈴を鳴らして見た、が、直ぐに彼の眼に入つたのは
卓子の上の例の書類、
何心なくチラリと見たのであるが解つた、非常に貴重なる國家的の密書がゆくりなくも
眼前に轉がつて來たのだ、と思ふた瞬間、それをば手早く
懷中に
じ込んで行つて
了ふた。御存知の如く、
寢恍けた小使が、二階で
鈴が鳴ると貴君に告げたのは、それから數分間を經てからの事、その
間に犯人は悠々と落ち伸びる事が出來たんぢやね。
さて役所を逃げ出した彼は、
停車塲に驅けつけ、第一の汽車で
王琴町のお宅へ歸つた。室に入つて改めて
檢べて見ると、實に容易ならざる獲物であるから、先づ一番安全と思ふところへ隱して了ふた彼の意では一日二日の
中に取り出して、佛國大使なり
何なり、値段の
好かりさうなところへ賣りつけるつもりであつたでせう。ところが貴君が不意に戻つて來られた。そして意外にも早速その室から追ひ出され、
爾來少くも二人の人はその室に在るといふ有樣になつたから、折角の
寶物を取り出す機會がない。其間彼の
心事たるや實に狂ふばかりであつたらうと思はれますね。併し漸く或晩好機會が來た。で、忍び込んだけれども、あいにく貴君が
眼醒めなすつたからまた/\計畫が
齟齬して了ふた。
御記憶ぢやらうが、貴君はあの晩に限つて催眠藥を召上らなかつた。」
「覺えてゐます。」
「我輩の想像では、彼、その催眠藥を頼りにして、多分貴君が熟睡して
居られるだらうと思ふたらしいのが、まんまと失敗したのです勿論、我輩は彼が
再擧を企てるに違ひないと睨んだから、そこで貴君にわざと倫敦へ去つて頂いて、室を
空虚にして誘ひをかけた。が、昨日
晝間のうちに入られると都合が惡いゆゑ、晝間のうちは千嘉子さんに一歩もあの室を去らぬやうにして頂いて、夜を待つた。夜になつての冐險は既にお話した通り。一體我輩は條約文があの室にあるに違ひないと鑑定はつけたものゝ、さりとて板を殘らず剥がしたりなどして
大騷動を致すのは好まぬゆゑ、彼自身の手を
籍りて、隱し塲所より自然に取り出させたわけで、これ即ち濡手で
粟の掴み取りですかな、まだ何ぞ合點のゆかぬところがお有りぢやらうか。」
「なぜまた窓から忍び込まうとしたんだらう。
扉口から入らうと思へば入られるくせに。」
と予が訊ねた。
「扉口から正式に入るには、都合七つの寢室を通つて來ねばならぬ。それよりは庭から廻れば
易々たるものであるからさ。まだ何ぞお有りか。」
「貴君は彼に殺意がなかつたと御考へですか。お
話[#ルビの「はなし」は底本では「おはなし」]の模樣では
小刀は單に窓を明ける道具に使つたに過ぎないやうに思はれますが。」
と今度は栗瀬が訊ねた。
「そりやさうかも知れません。が、我輩は只一つかういふ事は斷言が出來る、それは與瀬春藏なるものゝ
佛心に信頼するのは木に
縁つて
魚を求むるやうなものであるといふ事である。」
我が
保村俊郎君は肩を
聳かしてかう言ふのであつた。
不思議の鈴 終
底本:「不思議の鈴」磯部甲陽堂
大正四年六月十日 発行
作者:三津木春影
入力:神崎真
※底本の画像データは、国会図書館の近代デジタルライブラリーよりお借りしました。
■近代デジタルライブラリー -
不思議の鈴
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/905339
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※底本は総ルビですが、一部省略しています。
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