不思議の鈴

三津木春影




 一 外務省の舊友きゆうゆうの手紙……一大災難とは何ぞ
 二 大臣よりの重大使命……美人をそばに物語
 三 あやしき階上のりん……駭然がいぜん驅上かけあがればあゝ
 四 外交問題の危態きたい……恐怖と絶望とで昏倒
 五 倫敦行ロンドンゆきの汽車の中……周密な推理と研究
 六 警視廳と外務省へ……大臣の顏がさつと曇つた
 七 兇器をもつた深夜の曲者……保村探偵苦肉の策
 八 皿を凝視みつめてアツと一聲ひとこゑ……ふたを取つた其瞬間
 九 果然くわぜん青灰色の紙圓筒かみえんとう……神の如き探偵の物語



    一 外務省の舊友きゆうゆうの手紙……一大災難とは何ぞ?

 我が民間大探偵保村ほむら俊郎しゆんらう君は、まだ寢衣ねまき姿にて側擡わきだいに向ひ、一心不亂になにやらん化學上の研究に熱中してゐた。一個の大形おほがた彎曲わんきよくした蒸溜器が、ぶんせん火口ほぐちの蒼い炎の中でグラ/\と煮立ち、蒸溜液は一しようほどの量にまで凝縮されてゐる。が室内へ入つて行つても、彼は瞥乎ちらと瞳を動かしたばかりで又もや研究に夢中になつてゐるので、餘程重大事件に相違ないと思つたから、予は肘掛椅子に腰掛けて手の明くのを待つてゐた。眺めてゐると、此方こつちびんを上げて見たり彼方あつちの壜を下げて見たり、硝子ガラス移液管いえきくわんでどの壜からも數滴づゝを拔き出して見たり、しまひに溶液の入つた一本の試驗管を卓子テイブルの上に持つて來た。右の手にはりとます試驗紙を一枚持つてゐる。
須賀原すがはら君、君は危急きはどいところへ參つたね。この試驗紙が青のまゝで居れば無難であるが、赤に變つた日には人間一人の命にかゝはるのだ。」
と言つて試驗管の中へ浸すと、紙片は見る/\鈍い暗紅色あんこうしよくに變つた。
「フン! わしの思ふた通りぢや! 君、直きに御相手をするからね一服やつてゐてくれ給へ。」
 彼はデスクに向き直り、數通の電報をいそがしくしたゝめて給仕に渡した。それが濟むと、向ふ側の椅子にドツカと腰を下ろし、膝を縮めて兩手をヒヨロ長く痩せた向脛むかふずねの上で組合せる。
「平々凡々、些細な殺人事件だ。須賀原君、君の方がよつぽど面白い種がありさうだね。それは何?」
と予の手に持つた一通の手紙に目を付ける。で、それを渡すと非常に注意を緊張させて讀み始めた。
 其手紙には實に次の如き文言ぶんげんしたゝめてあつたのである。

我が親愛なる須賀原すがはら直人なほんど君よ――けいが三年級ねんきふの時に五年級にありし「蝌蚪おたまじやくし」の栗瀬くりせを兄は必ずなほ記憶し給ふべしと信じさふらふしかるに今や突然戰慄せんりつすべき一大災禍に遭遇して、せいが未來の道程は挫折せられたり。
その恐るべき事件の詳細に至りては筆紙ひつしつくすべきにさふらはねば、幸いに兄が生の懇望こんまうれ給ひて御面會の榮を賜はらば、其際そのさいとく御物語おものがたりいたす心得に御座候ござさふらう。生は昨今やうやく九週間の腦膜炎なうまくえんより恢復くわいふくいたし候間際まぎはにて、尚ほすこぶる衰弱いたし居り候。兄は兄の親友保村俊郎氏に乞ひて御同伴を願はれまじく候や。警察の方にては最早もはや策の施すべき餘地なきやう斷定いたし居り候へば、生は本事件に對する保村氏の見解を是非共拜聽はいてう致しく念じ居り候。兄よ、願わくは一刻も早く同氏を同伴せられん事を。この恐怖すべき不安のうちに住む生にとりては、一日千秋の思ひに御座候。あるひ何故なにゆゑ其際そのさい至急同氏をわずらはさゞりしやとの御疑念も有之これあり候はんかなれども、そは同氏の伎倆をうたぐりての躊躇ちうちよにてはこれなく、全く打撃をこうむり候以來いらい意識朦朧たりしが故なることを同氏によろしく御傳おつたへ下され度く候。今や生の頭腦づなうは再び明晰とあひなり候。たゞ再發を恐れて多くそれにつき思念致さゞるのみ。されども衰弱中に候へば、此手紙は餘の者に筆記いたさせ候ふて差上申候さしあげまをしさふらふねがはくは御便宜御計おんはかり下され候て保村氏を御勸おすゝめ下さる事を。敬具。
王琴町わうきんまち字降矢あざふりやにて
舊學友きうがくいう
くり  りつ 

 讀み終つた保村君曰く、
「この栗瀬律夫君といふのは君の學友ぢやね。」
「學級は二年上だつたが、同年輩ぐらゐだつたから親友だつたよ。非常に秀才でね、學校の賞與しやうよはいつも彼に占められたつけ。そしてとう/\奬學資金を[#「奬學資金を獲て」は底本では「奬學資金を護て」]、ます/\景氣よく劔橋ケンブリツチ大學へ入つたが何でも縁故ひきが大層好くて、例の保守黨の大政治家堀戸ほりど春容しゆんよう卿は、彼の母の兄弟に當るといふことは、その頃子供であつた僕等にも解つてゐた。併しこのピカ/\光つた親類をつてゐるといふことは、學校ではあんまり彼のために利益とくにもならなかつたね。ならないばかりぢやない、僕等はむしろ一種の反感をいだいて運動塲うんどうばで彼を追ひ廻したり、クリツケツトの道具で足をぱらつたりして兎角酷い目に遇はしたものさ。だが、一旦學校を卒業して社會へ乘出したら形勢が一變した。天稟てんりんの才能と、今言つた有力な縁故ひきとのおかげで、外務省の好い椅子を占めたといふことは仄かに聞いたけれども、其後そのご全く忘れはてゝゐたのに、突然この手紙を受けて久振りで想ひ出したやうな次第でね。」
「成程、突然に舊友に縋りついて來たといふわけぢやね。」
「全く、この手紙を讀んだら何だか僕は感動させられた。繰返し々々/\君を連れて來て貰ひたいといふのだから何となくあはれでね、むづかしい迄も當つて見やうと思つたのさ。一つは君といふ人は事件に對して非常に興味を持つ人で、※心ねつしん[#「執/れんが」、U+24360、9-5]に頼み込めば毎時いつでもこゝろよく腕を貸してくれることを知つてゐるから、家内にも相談すると大賛成でね、直ぐに行つてお上げなさいと勸められたので、早速御邪魔にあがつたやうなわけなのさ。」
 保村君は手紙を戻しながら、
「併しこの手紙だけでは何の事やら當りがつかぬ。」
「僕にも解らない。」
「この手蹟しゆせきは面白いね。」
「けれども、自分の手でないことは手紙にことわつてある。」
「それは知つてゐる。是は女の手だ。」
「男には違ひないさ!」
「いや、女だよ、しかも珍しい性格の女の手だ。づ見給へ、研究の第一歩としてぢやね、かういふことを知つて置くのもなにかの足しにならう――それは、君の友人は、善惡いづれにせよ、通常人つうじやうじんと異つた性格をつた或者あるものと密接の關係を有してゐるといふことである。いや、我輩にはこの事件が面白くなり出したぞ。君の用意さへくば直ぐにも王琴町わうきんまちへ出掛けやうではないか。そしてそのやうに難儀をしてゐる外交官と、この手紙を筆記した婦人とに會はうではないか。」

    二 大臣よりの重大使命……美人を傍に物語

 幸ひにしてうおーたーるー停車塲ステイシヨン發の朝の汽車に間に合ふ事の出來た我々は、一時間と經たぬに、王琴町わうきんまちもみの樹と、薔薇色の花を開くひーすの樹との間を歩いてゐた。降矢ふりやの栗瀬家は、停車塲ステイシヨンから五分とはかゝらぬ近さの廣い地面の中にポツリと隔絶かけはなれて建てられた大きな邸宅やしきであつた。
 名刺を出して案内を乞ふと、直樣すぐさま一つの美々しい裝飾かざりのある客間へと通され、待つほどなく一人の肥え太つた男が出て來て、はなはだ慇懃に我々を厚遇するのであつた。年配は三十と四十との間、寧ろ四十近い方で、※(「夾+頁」、第3水準1-93-90)ほゝ澤々つや/\した血色けつしよくと言ひ、眼の樂しさうな輝きと言ひ中年の老けた年齡としにも似合はず、まだ活溌な腕白小僧の面影を見せてゐる紳士である。
「ほんとにうこそいらしつて下すつた。」と彼はしんからよろこばしさうに我々の手を握つて「栗瀬はもう今朝から貴君方あなたがた御出おいでばかりを待ちこがれましてな、だ御見えにならぬか/\と絶間しつきりなしに催促致しつたのですよ。誠に氣の毒な至りで、まア溺れる者は藁でも掴むと申した状態ありさまですテ。栗瀬の兩親がわたしに代理に御接待申上げてくれいと申すことで……それと申すのが、此問題についてお話しするさへも辛いからとせつながりますのでな。」
「いや、私共はまだ何の詳しい事も存ぜん。」と保村君が言つた。「貴君あなたは御見受け申すところ、御家族の方でもおありなさらんやうですな。」
と言はれて向ふは驚いた樣子、そして瞥乎ちらり流眄ながしめをくれて笑ひ出した[#「笑ひ出した」は底本では「笑び出した」]
「ハヽヽ、私の小金盒こきんばこ(懷中時計のくさりに付ける裝飾物)の「よ、は」といふ略字を御覽になつたのですな。いや、それならば不思議もありませんが、どうしてお解りかと一寸ちよつと驚きましたよ。私は與瀬よせ春藏はるざうと申しまして、實は栗瀬が私のいもと千嘉子ちかこと結婚することになつて居りますので、まア親戚關係にならうといふものでございます。妹は栗瀬のへやに居りますが、それはもう二ヶ月の間といふものは帶も解かずに看護致しましたよ。兎に角、病人がどのやうにか待ち遠しくて居りませうから、直ぐに彼方あちらへ御願ひ致しませうか。」
 更に我々の導かれたへやは、客間と同じゆかにあつて、一部は居間に一部は寢間ねまにあてられた體裁ていさい隅々すみ/″\には[#「隅々には」は底本では「偶々には」]種々さま/″\の花なぞが綺麗に飾られてあつた。蒼白あをざめて憔悴せうすゐした一にんの青年が、明け放つた窓際の寢椅子ソーフアの上によこたはつてゐる。窓からは庭園のゆたか草木さうもくの匂ひや、かんばしい夏の空氣が入つて來る。青年のそばには一人ひとりの婦人が腰掛けてゐたが、我々の姿を見ると立上つた。
「律夫さま、わたしはあちらへ參つて居りませうね。」
 青年は女の手を取つて引留ひきとめておいて、さてねんごろに、
「やア、須賀原君、しばらく、御變りもなかつたかね。そのひげ鹽梅あんばいでは途中で遭つても御互おたがひに解るまいよ。このかたが君の親友の保村さん?」
 予は簡單てみじかに彼を紹介したのち、共に椅子へ腰を下ろした。與瀬といふ男は室外へ出て行つたが、いもうとの方は病人に手を取られたまゝでまつた。非常に人目を惹く容貌で、少し肥え過ぎてせいの低いところが釣合つりあひが惡いとは言ふものゝ、顏色は阿利布オリーブ色の美しく、眼は伊太利イタリー式に大きく黒く、毛髮かみのけ房々ふさ/\と黒く豐である。その豐麗な顏色との對比コントラストで、病人の白い顏が一層痛々しく痩せ衰へて見えたのである。
 病人は寢椅子ソーフアの上に身を起して、
「御多忙中を餘り長く御手間を願ふのもいかゞですから、前口上を略して直ぐ本題へ飛込みませう。保村さん、僕は今迄は幸福な身分でした。成功のみちに向いてゐる男でした。それが、いよ/\結婚の間際といふところになつて突然に、一つの恐ろしい不幸が持上つて、生涯のすべての希望を滅茶々々めちや/\に壞してしまひました。
 多分もう須賀原君から御聞き及びでせうが、僕は外務省に出勤してゐまして、叔父の堀戸ほりど春容しゆんよう卿の精力のお蔭で昇進も速く、一足飛びに今の位置にまで登りました。殊に叔父が今度の内閣で外務大臣となりまして以來は、僕に種々の重大な使命を與へまして、それをまた僕がいつもまア手際よく片附けたものですから、しまひには僕の伎倆と氣轉きてんとに絶大の信用をおくやうになつたのです。
「そこで、およそ十週間ばかり以前でした――さうですね、詳しく申上げると、五月二十三日の事なんです――僕は叔父のへやに呼ばれました。叔父は僕の此頃このごろの手柄をいろ/\とめてくれたのちに、實はもう一つ新たに重大な任務で頼み度いことがあると申しました。
 叔父は書擡つくゑ抽出ひきだしから、灰色の一くわんの公文書を取出してさて申しますには、
「これは我が英國えいこく伊太利イタリーとの間の秘密條約文の原文である。遺憾なことにはこれに關する兎角の評判がもう新聞に載つたやうであるが、極めて大切なものであるで、その上の内容を新聞社などに漏らしたくないのぢや。佛蘭西フランス露西亞ロシアとの大使は、この條約文を嗅ぎ知るためには、どのやうな莫大な金をも惜しまぬぢやらう。で、一分間もこの抽出を去らせるものではないのであるが、只こゝに止むを得ぬといふのは、この條約の全文を寫し取つておく必要があるのぢや。君は事務室に書擡デスクを持つてるだらうね。」
「ハイ、持つて居ります。」
「では此書類を持つて行つてでうをおろしておいたがよからう。そして君だけが少し後へ殘つて、一同の退出し切つたのを見計ふてゆつくりと寫して貰ひ度い。すればぬすみ見られるといふ心配もない。で、いよ/\寫し終へたならば、原文と寫しの方とを再び書擡デスクへ入れて嚴重に錠をしてな、明日あしたの朝君自身の手からわしに渡して貰ひ度いのぢや。」
 さういふ譯で、僕は書類を受取つて――。」
 保村君が口を出した。
一寸ちよつとお待ち下さい。外務大臣とのそのお話の間は、貴君あなたお一人きりであつたらうか。」
「一人きりでした。」
「大きなへやですか。」
「縱横とも五けんの室です。」
「その室の中央まんなかで御話しでしたか。」
「左樣、まづ中央のへんでした。」
「お聲は低い方で?」
「叔父の聲はいつも非常に低いのです。僕の方では殆ど口をきませんでした。」
「有り難う。何卒どうぞお次ぎを。」
と保村君は眼を閉ぢた。

    三 あやしき階上のりん……駭然がいぜん驅上かけあがればあゝ

「僕は叔父から命令された通りにして、屬官連ぞくゝわんれん退けるのを待つてゐました。そのうちに僕のへやの同僚も大抵去りましたが、只一人ただひとり綾田あやだといふ男が、少し仕殘しのこした仕事があると申して殘つてゐましたから、僕は彼を殘して室外に出て、夕飯を喰ひにきました。歸つて見ると綾田はもうゐない。そこで僕は急いで叔父の仕事に取り掛りました。と言ふのは、この千嘉子の兄――只今御覽になつたあの春藏君が、その日はやはり町へ出掛けて參つて、午後十一時の汽車で王琴町へ歸るのを知つてゐましたから、なるべくは僕もそれで一しよに歸り度いと思つたからでした。
 へやに戻つて條約文を讀んで見ると、成程頗る重大なものであつて叔父が極力秘密々々ひみつ/\と申したのも決して誇張の言葉でないことが解りました。詳細のことは兎に角、一げんにして申せば、それは三角同盟に對する大英國の位置を定限ていげんしたものなのです。そして地中海において佛國艦隊が、伊太利イタリー艦隊よりも絶對に優越權を占めた[#「優越權を占めた」は底本では「優越機を占めた」]塲合にしよする我國わがくにの政策を豫定したものでありました。其中そのなかに取扱はれてる問題は皆、純粹の海軍に關する問題のみでしてね、最後に兩國君主の御署名がありました。僕は一通りズツと走り讀みに目を通してから、寫し取りに掛りました。
 所がその文書と來ましたらば隨分長いもので、佛蘭西フランス語で書かれた二十六個條かでうから出來てゐますので、一生懸命にペンを走らせましたが、九時になつても漸く九個條を寫したばかり、豫定の汽車の時間までには到底間に合ひさうもありません。そのうちに、食事ののちと言ひ、終日の仕事の疲勞つかれと言ひ、次第にねむくなつて茫然ぼんやりして參りました。こんな時に珈琲コーヒーの一杯も飮んだらば頭腦あたま明瞭はつきりするかも知れぬ。一體役所では、階段はしごだんの下の小さなへや小使こづかひが終夜殘つてゐましてね、時間外の仕事をする者には、アルコホルラムプで珈琲コーヒーをたてゝ持つて來る習慣になつてゐましたから、そこでベルを鳴らして小使を呼びました。
 意外にも、ベルに應じて登つて參つたのは毎時いつもの小使ではなく、前垂まへだれを掛けた一人の、下品な顏付をした、年配の大女でした。聞けば小使の女房で、役所で雜役ざつやくをしてゐる女なんださうです。で、それへ珈琲コーヒーをたてゝ來るやうに命令いひつけました。
 また二個條ばかり寫しましたが、ます/\睡くてたまらないので椅子から立上つて、あしを踏み伸ばすために室内をあちこちと歩き始めました。けれども珈琲コーヒーがまだ來ない。チヨツ、何を愚圖々々ぐづ/″\してるんだらうなアと、僕はを明けて、小使室こづかひしつくために廊下を進んできました。僕の働いてゐた室からは一すぢの廊下がズーと通じて、朦朧ぼんやり燈火あかりに照らされてゐます。僕の室からの出口はこれ一つだけなのです。それを通り越すと彎曲まがつた階段はしごだんがあつて[#「階段があつて」は底本では「階級があつて」]そのつくしたところが小使室こづかひべやに當つてゐました。このまた彎曲まがつた階段はしごだんの中腹に小さな一つの中段があつて、そこへ直角すぐかどほかのもう一つの廊下が拔けてゐます。この第二の廊下をつたふてゆけば、同じく小さな階段はしごだんがあつて、そのくち雇人共やとひにんどもの出入のになつてゐます。もつとも猿巣街さるすまちの方から通ふ役人は、近路ちかみちだと申して大抵そのの方を通るやうでした。一寸ちよつと略圖りやくづを書きませうか――うです。」
と律夫は千嘉子に紙片かみと鉛筆とを持つて來させて、挿繪さしゑのやうな略圖を描いて見せた。
「いや、これでお話が一層明瞭めいれうになります。」

見取り図

「えゝ、此構造の點を呑み込んでゐて下さる事が非常に必要であります。で、僕は階段はしごだんを降りて小使室こづかひべやに入つて見ますと、珈琲コーヒーが來ないのも道理、小使先生グツスリと居睡ゐねむり最中さいちうそばにはアルコホル・ラムプにかけた釜がグラ/\と煮立つて湯がきこぼれてゐるといふ有樣です。先生、僕が入つて行つても尚ほ知らずにねむりこけてゐる。そこで僕は手を伸ばして搖り起さうとしますと、丁度その時でした、頭の上でベルがリン/\と鳴り出した、其音そのおとで小使はびつくりして初めて跳ね起きました。
「おや、栗瀬さんでございますか!」
とキヨロ/\と僕を眺めてゐますゆゑ。
「さうだよ、珈琲コーヒーを頼んだけれども持つて來てくれないから取りに來たんだよ。」
「いや申譯まをしわけもございません、ツイ釜をかけたなり寢こけてしまひまして……。」
とまだ僕の顏を眺めてゐます。ベルはまだリン/\と鳴り續いてゐる其音を聞けば聞くほど小使の驚きは増して來ました。
「ハテ、不思議でございますね。貴君あなたがこゝにゐらツしやるのに………誰がりんを鳴らしてゐるのでございませう。」
「え、りんかえ! あのりんはどこのだえ。」
「貴君が今迄お仕事なすつてゐらしつたおへやりんでございますよ。」
と言はれた時の僕の驚き、ハツとして思はず背中へ水をさゝれたやうな氣がしましたよ。あの大事な條約文がテーブルの上に乘つたままである。すると何者かそのへやへ入つて來たのだ……と思ふと僕は狂人きちがひのやうに階段はしごだんを飛び上りました。併し保村さん、廊下には誰もゐないんです。室内にも人影がないんです。何處どこ彼處かしこもチヤンと元のまゝなんですが、たゞ書擡デスクの上を見ると、例の大事だいじの/\書類が乘つてゐない。寫しの方はありますが、正本しやうほんの方は影も形もありません。」
 保村君は椅子から立上つて兩手を揉みだした。これは問題に油の乘つた時の證據しようこである。
「それからうなすつた。」
と呟く。
「僕には直ぐにかういふことが解りました、それは賊が今お話した第二の廊下の方から來たに違ひないといふことです。若し僕の通つた本廊下の方から忍び込んだものならば、僕とき逢はぬ筈はありませんからな。」
「併し賊が以前から室内しつないに潜んでゐたやうなことはありませんか。あるひはお話では廊下の燈火あかりが甚だ暗かつたとのことであるが、その暗きを利用して廊下に隱れてゐたといふやうなこともありませんか。」
「それは絶對に不可能です。へやでも廊下でも鼠一ぴき隱れることは出來ません。兩方とも何の掩護ゑんごもありませんもの。」
「成程、では次を伺ひませう。」
「僕が眞蒼まつさをになつて驅出かけだしたものですから、小使も何か椿事が起きたと思つて、二階へ續いて驅け上つて來ました。けれども二階はその通りの譯なんですから、二人はまたもや階段はしごだんを飛びくだつて、猿巣町へ向つた側廊下わきらうかの方へ進みました。突當つきあたりのは閉まつてゐましたが、錠はおろしてない。我々はこれを蹴飛ばして往來へ走り出ました。僕は今でもはつきり覺えてゐますが、其時丁度近所の寺の鐘がカン/\/\と三つ鳴り渡りました。つまり九時十五分前の鐘ですね。」
「それはく大切な點ぢや。」
と保村君は襯衣シヤツのカツフの上へ控えを書いた。
「外へ出てみると夜は暗く、あたゝか微雨こさめが降つてゐました。猿巣町には一にんの人影もありません。たゞ例の通り大きな馬車が町端まちはづれの方へ消えるばかりでした。我々は帽子も被らず舖石しきいしの上を驅けてきますと、遙かの角に一にんの巡査を見付けました。
 僕は息を喘々ぜい/″\言はせながら、
盜賊どろばうが入りました! 外務省から頗る重要な書類を盜み出した奴があるんですがね、誰か此道を通つた者はありませんか。」
 すると巡査の曰くです、
わしは十五分ばかり前からこゝに立つてゐるんですが、其間そのあひだにたツた一人通つたゞけですよ――それは婦人でしてね、年寄つた大きな女で、黒い肩掛シヨールを掛けてゐた……。」
「あゝ、そりやわたしかゝあです。」と小使がさけ[#「口+斗」、U+544C、35-6]びました。「他には何奴どいつも御見掛けになりませんでしたかね。」
「見掛けんかつたよ。」
「ぢや、盜賊どろてきめ、ほかの道を逃げやがつたに違ひない。」
と言つて小使は僕の袖を引張るのです。
 併し僕はどうも不滿足でした。それに小使の奴が僕を無暗むやみわきの道へ引張るのも却つて疑ひを増す種となりました。
「其女は何方どつちきましたらう。」
と巡査に訊きますと、
「知りません、たゞそんな女が通るなと思つたばかりで、無論特別に注意する氣も起らないですからな。兎に角急いではゐましたよ。」
れほど以前ですか。」
「なに、たつた今のことです。」
「五分ばかりですか。」
「なに、五分も經つてやしません。」
と言ふ問答を小使はもどかしげに、
「栗瀬さん、そんなつまらぬ事でひまを取つてゐらしつちや駄目ですよ、一分間でも大切な時ぢやございませんか。わたしとこの婆さんが何でそんなことに關係があるものですか、そりやたしかですよ。ですから早く他の方を搜しませう……えゝ、貴君が行らツしやらなきや、私が行つて見ませう。」
と走り出してしまひました。
 それを直樣すぐさま僕はひかけて[#「追ひかけて」は底本では「退ひかけて」]捕まへました。
「お前の住居うちはどこか。」
愛比町あいびまち十六番地です。けれども栗瀬さん、そんな間違つた嫌疑はおしなさいまし。それよりや、早く此方こつちへ行つて何か手掛をつかまへませう。」
 全く其通りですから、僕は巡査と一しよに別の往來へ驅けてきましたが、こゝはまたふ人や馬車で一パイ、いづれも雨を厭つて家路に急ぐ者ばかりですから、れがうだか、さつぱり解りません。」

    四 外交問題の危態きたい……恐怖と絶望とで昏倒

 栗瀬は尚もをついで、
「それから我々は役所へ歸りました。そして階段はしごだんや廊下をくまなく搜索しましたが何のかひも有りませんでした。僕の室續へやつゞきの廊下には、一種のやわらかな油團ゆたんが敷きつめてありますから、靴跡などは直ぐ目につかねばなりませんのが、どんなに仔細に檢査しても何の靴跡もないのです。」
「その晩は雨が降りましたか。」
「七時頃から降り出しました。」
「すると、九時頃外から來た者の靴には無論泥濘どろがついて居らねばならぬわけであるが、小使の女房が何の跡も殘してかなんだといふのはをかしな次第ぢやないですか。」
「いや、それは御道理ごもつともの御質問です。其時は僕も同じ疑ひをいだいて見たんですが[#「見たんですが」は底本では「見たんですか」]、調べて見ると、役所で雜役ざつえきに使ふ女共は小使室こづかひしつで皆靴をぬいで、上穿スリツパをつけることになつてゐたのでした。」
「ハヽア、さういふわけですか。すると結局、雨降りの晩であつたにも係らず、役所には何の怪しい靴跡もなかつたといふのですね。ふム事件の連鎖が確に奇怪である。それからどうなすつた。」
「我々はへやも檢査しました。併し秘密のといふやうなものは在る筈がありませんし、二つの窓はいづれも地面から五六間の高さにあつて、二つともなかから閉められてあります。床はぎツしりと絨氈じうたんを張りつめてありますから、陷扉おとしどなどは無論なく、天井は普通の白い塗料を使つたものなんです。ですから書類を盜んだ曲者は、階下した扉口とぐちから忍び入つたに違ひないといふことは、僕が首を掛けても斷言します。」
はどうですか。」
「役所には壁に据え付けの爐はございません。僕の室には一つのストーブがあるばかりでした。べるの紐は、丁度僕の書擡デスクの右手のへんへ電線から垂れ下つてゐます。誰にせよそれを鳴らすには、書擡デスクそばまで近寄らねばなりません。併しいやしく盜賊どろばうをしやうとするほどの者が、何でわざ/″\りんを鳴らす必要がありませう。實に不可思議千萬ぢやありませんか。」
「全く奇怪なお話ぢや。それから何うなすつたか。多分曲者が何か手掛を殘して行つたらうとお思ひで、室内を搜索なすつたらうな――卷煙草の吸殼とか、手袋とか、又は女ならば頭のピンとか、さういつたやうな物を。」
「いや、何一つ殘してゐませんでした。」
「匂ひはどうでしたか。」
「匂ひですか……そこ迄は氣がつきませなんだ。」
「はア、のやうな事件にあつては、煙草の匂ひといふやうなものが極めて大切な手掛になるのですぞ。」
わたくしは元來煙草は一切吸ひませんから、若し匂ひが殘つてゐたならば直ぐに感ずる筈だと思ひます。絶對に何の手掛もありませんでした。只一つ明白な事實は、例の小使の女房が――おりんといふ名ださうで――それが急いで役所を出たといふ事だけであります。小使に言はせると、もう時刻が時刻でしたから女房が急いでうちへ歸るに不思議はないと辯解べんかいします。で、僕と巡査とは、犯人は何うしてもお輪だと鑑定して、さて犯人が盜んだ書類の始末をつけぬうちに捕まつてしまうふのが最上の策と考へました。
 此時はもう警報が警視廳へ達したものですから、織部おりべといふ刑事が早速出張して參つて、非常に※心ねつしん[#「執/れんが」、U+24360、44-7]に事件を擔當たんとうしてくれることになりました。そこで織部君と僕とは馬車を雇ふて、三十分もたゝぬうちに、愛比町の小使のうちへ着きました。出て參つたのは一にんの若い娘で、これはお輪の長女であるさうです。阿母おふくろはまだ居らぬとの事ですから、我々は入口のへやで待つ事にしました。
 十分も過ぎると、コツ/\と表扉おもてどを叩く音が聞えましたが、こゝで我々は飛んだ失策をしてしまひましてね、その責任は僕ですが、我々がを開けばよいのを、ツイうつかりして娘に開かせてしまつたのです。すると娘の聲が聞えます「おつかさん、先程からお二人の男の方がお母樣つかさんを待つてゐますよ」其聲と等しく、廊下をパタ/\いふ跫音あしおとがし出したので、刑事はを押し開き、僕も續いて勝手の方へ驅け出して見ると[#「驅け出して見ると」は底本では「懸け出して見ると」]、お輪はもうそこに立つてゐて、惡怯わるびれぬ眼付で我々をジロ/\と眺めたのですが、其うちに不意に僕の顏が解るとびつくりしましてね、
「おやまア、誰方どなたかと思つたら、お役所の栗瀬樣ではございませんか!」
さけ[#「口+斗」、U+544C、46-5]びました。
「オイ/\、一體誰と間違へて逃げ出さうとしたんだね。」
と刑事が申しますと、
わたくしはまた借金取とばかり思ひ込んじまつたんですよ。實はある商人との間に少しゴタ/\が起きてゐるものですからね。」
「いや、そんな言譯いひわけして貰はう。お前は外務省から大切な書類を盜み出して、それを何者かに賣り拂ふために急いで戻つて來たんだらう。此方こつちにはさう信ずる理由わけがチヤンとあるんだ。さア、取調べをするから我々と一所に警視廳へ來い。」
と刑事が引張らうとする。辨解べんかいをする、くまいとする……併し幾ら抵抗しても無駄でさア、とう/\馬車へ乘せられて、我々は小使のうちを出ました。其前に念のため勝手を搜索してみました。殊に今のに火にでもべてしまひはせぬかと、爐の中はけても仔細に搜したのですが、それらしい紙片もなければ、燃え殘りの灰もありませんでした。で、警視廳へ着きますと、お輪は直ぐ婦人檢査部の方へ廻されました。僕はその間實に不安の心持で煩悶しながら待つてゐたのですが、書類の行衞はどうしても解りませんでした。
 茲に至つて初めて、自分の現在の地位の恐怖おそろしさといふものが、其全力を擧げて心に迫るのを覺えました。それ迄は僕は活動してゐました。活動に紛れて精神が麻痺してゐました。なに、書類は苦もなく取り戻せるに違ひないとばかり信じ切つてゐたものですから、取り戻されなかつた日にははたして如何いかなる椿事に立ち至るかといふ事は夢想だもしませんでした。所が絶望の淵に臨んだ其時になつて、初めて現實的に自分の位置をかへりみるやうになつたのです。氣が付いてみれば、何といふ怖しいことでせう! 須賀原君は知つてゐますが、僕は學校時代から神經質な感情ツぽい性情でした。僕は叔父のことを考へました。の内閣の諸大臣の事を考へました。あゝ、自分は叔父へ耻辱ちじよくかうむつた、いや、自分に關係する種々さま/″\の人に耻辱を蒙らせた、この大事件に對して、たとへ自分一人が犧牲ぎせいになつたところでてどうなるか。外交上の利害問題を危態きたいひんせしむるやうな失策に對しては何の宥恕ゆるしを乞ふすべもない。自分はもう破滅だ、世間に顏出しもならぬ絶望的の破滅であるもう何をどうしたのか一切夢中です。何でも一ぢやうの騷ぎを惹き起したには違ひないと思つてゐます。かすかに覺えてゐますが、大勢の役人が僕を取り卷いていろ/\に慰めてくれる。其中の一人は僕を停車塲ていしやばまで連れて行つて汽車に乘せたやうでした。そして僕のうちまでも同行してくれるつもりだつたでせうが、幸福しあはせと其時、僕の家の近所に住む原井といふ醫師ドクトルが同じ汽車で歸るところでしたから、醫師ドクトルが其者から僕を受取つて、隨分親切に家まで連れて來てくれました。全く醫師ドクトルに遇つたのが天のたすけでしたよ。停車塲でもつて僕は發作を起してしまひましてね、家へ着かないうちから、もう躁狂さうきやうに陷つてゐましたんですもの。
 さて其状態ありさまでいよ/\家へ着いた時の家人かじんの騷ぎといふものは御推察を願ふよりほかありません。皆寢込んでゐたのが醫師ドクトル呼鈴よびりんで起され、思ひがけぬ僕の躁狂を見た時は、可哀相に、この千嘉子も母も胸が潰れるばかりだつたさうです。そこで原井醫師ドクトルは、停車塲で刑事から殘らず聽いた事件の顛末を物語つたさうですが、併し家の者はそれで安心がくわけがない、いづれこれは長い病氣になるだらうと申すので、千嘉子の兄はこの樂しい寢室しんしつから追はれて、此室このへやは忽ち僕の病室と變つて了ひました。夫以來、保村さん、僕は實に九週間といふもの、腦膜炎のために人事不省となつて寢て居たんです。この千嘉子と原井醫師ドクトルとの看護がなかつたならば、今頃かうして貴君方あなたがたにお話する事も出來なかつたかも知れません。全く僕のやうな狂的發作では、どのやうな危ない事をするかも知れませんから、晝は千嘉子、夜は雇ひ看護婦が交代で看護してゐてくれた有樣でした。其故そのせいかだん/″\頭腦あたま明瞭はつきりして參りましたが、併し記憶がすつかり恢復したのは、漸くこの三日以前からなのです。時々はこのまゝいつ迄も前後不覺であり度いとねがふやうなことも有ります。所で記憶を恢復してから最先まつさきに僕のやつた事は、織部刑事へ手紙を出した事でした。すると刑事は早速訪ねて來てくれましたが、其報告によれば、爾來じらい凡有あらゆる手段を採つたけれども、なんの手掛も依然發見されない。小使夫婦も百ぱう訊問したけれども、何等の光明も認められない。そこで警視廳の嫌疑は役所の屬官の綾田あやだらう君の上に掛りました。綾田君は今もお話しました通り、あの晩一番遲くまで殘つて仕事をしてゐたきみなんです。嫌疑が掛つたわけは、第一、遲くまで殘つてゐた事、第二は同君どうくんの名が佛蘭西人フランスじんの名であるといふ其二ヶ條なんですが、實際のところ、僕は同君の退出を見屆けてから安心して寫しに取り掛つたのですからね。それから姓名なまへのことは、同君の家はゆぐのー教徒(佛蘭西の耶蘇やそ新教徒)である事はあるが、同情と慣例に於て英國民えいこくみんである事は、貴君方や僕なぞと變りはありません。ですから、綾田君は結局此事件には何の關係もない人なんです。しますると、保村さん、僕は最後の唯一の希望として貴君の御助力を乞ふよりほか有りません。若しその貴君にして尚ほ御力が及ばぬとあれば、僕の名譽と位置とはもう永久に失はれねばならぬことになるのです。」

    五 倫敦行ロンドンゆきの汽車の中……周密な推理と研究

 長話ながばなし疲勞つかれて、病人は布團の上に頽然がつくりと沈み込んだ。それを見ると看護の千嘉子は、何やら興奮劑を一杯勸めるのであつた。保村君は沈默おしだまつたまゝで頭をうしろへ反り返らせ、眼を閉じてゐる其態度やうすは知らぬ者には無頓着にも見えやうが、實はこれは同君が一意專念いちいせんねんになつた時のくせであることは、[#「癖であることは」は底本では「僻であることは、」]昵懇じつこんの予には能く解つてゐる。
 やがて彼は口を開いた。
「いや、お話は至極明瞭で其上格別お訊ね致す事もないが、只一つ最も大切なことが殘つてる。貴君あなたはさういふ特別な任務をたくせられたといふ事を誰かにお打明うちあけでもなすつたか。」
「誰にも話しません。」
「例へば、こゝに御居での千嘉子さんにも。」
「話しません。叔父に命令いひつけられてから、寫しに取り掛るまでの間にうちへ歸つて參つたのではありませんもの。」
「貴君の御家族の誰かゞ、偶然に其時貴君に面會にかれた樣な事もありませんか。」
「有りません。」
「御家族の方で外務省の内部の樣子を御存知の方がありますか。」
「えゝ、/\、そりや一通りはみんな案内したことが有ります。」
「小使の身上みのうえについては何か御存知かな。」
「彼が古い兵隊あがりだといふほかは何も存じません。」
「聯隊は何處どこでしたらう。」
「それは、聞きましたよ――古留戸こるどの守衛隊であつたとか言ひましたつけ。」
「有難う。織部刑事からは尚ほ必ず詳細の事が聞かれるでせう。一體其筋の者は事實を集めるには妙を得てゐますよ、もつともそれを有利に使ひこなすとは限りませんがね。薔薇といふものは可愛いものですね!」
と保村君は、寢椅子のそばを通り越して、開け放つた窓際に歩み寄り鉢植の薔薇の垂頂うなだれた莖を掴んで、深紅と青との美しい混合色まじりを見下ろした。彼の性格の状態としては、予にとつても誠に珍しい事だ。彼が天然物に對してこんな鋭い興味を感じてゐるところなぞはツイぞ見掛けたことがない。
「凡そ演繹法といふものは、宗教に於ける時ほど必要なことはないね。それは、世の理論家によつて正確な一科學として建設されることが出來る。我々は花を見る時ほど、神樣の仁慈を深く感ずることはない。其他そのたの總ての事物、我々の力だとか、慾望だとか、食物だとかいふものは、我々の生存にとつては眞先まつさきに必要なものには違ひないさ。けれどもこの薔薇の花は例外です。この香りだの色だのは人生の裝飾であるて、その必要條件ではない。この例外を與へるものはひとり仁慈である。だから我々は花から期待する事が多いといふことを私は繰り返して言はうと思ふね。」
 此論證ろんしよう中、栗瀬律夫と千嘉子とは驚駭おどろきと失望との表情をして保村君の顏を眺めてゐた。保村君は指の間に薔薇を狹んだまゝで恍乎うつとりと幻想に陷つてしまつた。五六分間もさうしてゐると、千嘉子はとうとうまらなくなつたのか、
「保村先生、先生にはこの不思議を御解おときになりまする御見込みが御つきで御座いませうか。」
と幾分不快を交へた聲で問ひかけた。
「あゝ、不思議ですか!」と急に現實の世界へ引き下ろされて斯う答へた。「左樣さ、此事件が非常に隱微な錯綜したものであるといふことは拒むわけにゆきませんな。併しお約束は出來ます、わしは事件を研究して見ませう、そして特別にこれはと思ふ事が有つたらば御知らせ致しませう。」
「何か手掛りの御心當りが御有りで御座いますか。」
「只今のお話で七つの手掛りは得ました。が、一々當つて見ねば其價値かちについては早計に斷言申上げられません。」
「誰か嫌疑者がお有りで御座いませうか。」
わしは私自身疑ふのですが――。」
「何をで御座いますか。」
「餘り早く見込が立ち過ぎましたからな。」
「では倫敦ロンドンへ行らしつて、その御見込みを御試おためし遊ばせな。」
「千嘉子さん、貴女あなたの御忠告は非常に適切ぢや。」と保村君は今迄背をり掛けてゐた窓のとびらから身を起して「須賀原君、やはりさうするほかはない。栗瀬さん、貴君は的の外れた希望にふけることは不可いけませんぞ。この事件は隨分こんがらかつたものですからね。」
「もう一度御目に掛るまでは僕は相變らず病人です。」
と律夫が叫んだ。
「なに、明日みやうにちまた同じ汽車で伺ひませう、あるひは餘り吉報を御土産にすることは出來ぬか知れませんが。」
「是非々々、らしつて下さい。事件に對して何事かゞ運ばれてゐるといふ事を知るだけでも氣が霽々せい/\とします。あ、それから僕は堀戸卿から手紙を受取りました。」
「ほオ! どのやうな事を申されたか。」
「叔父はひやゝかです、併し苛酷ではありません、それはつまり僕が大病人になつたせいだとは思ひます。手紙には繰返して、此事件が重大である事がべてあります。それから斯ういふことが斷つてあります――無論僕の免職の意味でせうが――僕の健康が恢復して、この不幸を償ふ機會を持つまでは、僕の未來に向つては一歩も取れないといふことなんです。」
「成程、それは理性的の思慮ある御言葉ぢや。では須賀原君、御暇おいとましやう。まだ/″\まちへ行つて澤山仕事をせねばならぬ。」
 與瀬春藏君が停車塲まで馬車で送つて來てくれて、やがて我々は倫敦行ロンドンゆきの汽車中きしやなかにあつた。保村君は深き瞑想に打沈み、倉畔くらはん乘換驛を過ぎてから漸く口を開いた。
の線にせよ、此樣このやうな軌道の高い列車に乘つて、此樣な家を瞰下みおろしながら倫敦へ入つてくのは實に愉快なものぢやねえ。」
 何を戯談じようだんを言つてるんだ。此邊このへんの景色と來たら隨分穢苦むさくるしいぢやないか。併し彼は直ぐに説明して曰くだ。
「見給へ、葺石ふきいしの上に聳えてゐるあれらの一むれ隔絶かけはなれた大きな建物を……まるで、鉛色の海の中にある煉瓦の島みたやうな建物を。」
「あれは公立小學校だよ。」
「君、あれは燈明臺とうみやうだいだよ! 未來の狼烟のろしだよ! 希望に滿ちた小さな種がさやにも一パイに滿ちてゐる。あの中からいまに賢い奴等が飛出すのだ。未來の良國民が飛出すのだ。ところで、あの栗瀬君は酒を飮むかね。」
いや、僕は下戸だと思つてゐるがね。」
「我輩もさうは思ふ。併し凡有あらゆる微細な事を勘定の中に入れる必要があるね。可哀相に、先生、自分から拔き差しならぬ深みへはまつてしまつたのだ。そして我々がそれを首尾好く引張り上げられるかうかゞ問題ぢや。君は千嘉子について何う思ふ。」
「なか/\確乎しつかりした令孃だね。」
「さうさ、併し性質は善良だよ、さうでなかつたら我輩の見損みそくなひだけれどもね。あの兄妹は諾撒波のるさんぱ附近の或る製鐵商の子だ。律夫君は去年の冬旅行中にあの令孃と婚約した結果、千嘉子は彼の家族に紹介されるために、兄にたすけられてあの家へやつて來たのだね。ところが今度の災難が突發したので、其まゝ留まつて戀人を看護することになつた。兄の春藏もツイ居心地がいゝものだから同じく居座いすはつてしまつたのだ。我輩は特別にそれだけの種を探つたよ。今日は兎に角研究の日として働かなけりやならぬ。」
「僕は――。」
「あゝ、君の方にこれより面白い事件があるならば――。」
と保村君はや不平さうな聲で言つた。
「いや、僕の言はうと思つたのはね、今は一年中一番閑暇ひまな時だから、一日二日は思ふさま僕もこの事件に奔走出來るといふことなのさ。」
「あゝ、それは好都合ぢや。」と御機嫌が直つた。「では一所に研究してみやう。づ手始めに織部探偵に面會するのぢやね。多分思ひ通りの詳細なことが聞かれるだらうから、そしたらの方面から事件に接近して行つたらいかも解るだらう。」
「君は手掛りが見付かつたと言つたね。」
「それは幾つもある。が、其價値は今後の取調べの結果に待たねばならぬ。犯罪中でその痕を辿るのに一番困難なのは、見込の立たない奴であるが、今度の事件は見込が立たぬ事はない。今度の事件で利益を受くる者は誰であらう……と考へて見ると、佛國ふつこく大使もある露國ろこく大使もある、其いづれかへ密書を賣り渡す者も利益を受くる。それからまた堀戸ほりど春容しゆんよう卿である。」
「堀戸卿!」
「さうさ、斯ういふ事は考へられるだらう――それは政治家が此樣な位置に身をおくことが出來る。此樣な位置といふのは、今度の如き密書が偶然に破毀はきされても格別痛痒つうやうを感ぜぬやうな位置にあることぢや。」
「併し、堀戸卿のやうな名譽をになふてゐる政治家はまさか。」
「まア、さういふ事もあるといふだけぢや。けれども我々は全然それを度外視することは出來ぬよ。今日こんにちは外務大臣にも面會して、何か新事實があるか何うか當つてみやう。兎に角我輩はもう探索を始めたよ。」
最早もう?」
「うム、王琴わうきん停車塲ステーシヨンから都下とかの各夕刊新聞へ電報を打つておいたから、れにもかういふ廣告が現はれることだらう。」
と手帳の引き裂いた紙片を予に渡す。それには鉛筆で次のやうな文句が走り書きしてある――

       懸 賞 廣 告
去る五月二十三日、十時十分前頃ぜんごろ、外務省の猿巣町さるすまちに向へるの前に、あるひはその附近に乘客じようかくを降ろせる馬車の番號を求む。御存知の人は久良瀬町くらせまち二百二十一番舘に御報告を乞ふ。二十圓の謝禮を呈す。

「すると君は、賊が馬車で來たと信ずるのだね。」
「馬車で來ないとしたところで元々さ。併しぢやね、へやにも廊下にも隱れ塲所がないといふ栗瀬君の[#「栗瀬君の」は底本では「粟瀬君の」]證言を事實とすれば、賊は外部から入つたものに相違ない。然るにぢや、あの雨降りのに外部から來たにも係らず、盜難の直ぐ後で調べた床の油團ゆたんに何の泥跡どろあともついてゐないとしたならば、賊が馬車で來たとよりほか思はれぬではないか。さうだ、たしかに馬車といふ推察は當つてると思ふ。」
「さう言はれゝばさうらしいね。」
「我輩の言ふた手掛の一つはそれさ。其手掛からまたほかの手掛が引き出せるだらう。それから次には無論べるの問題がある――これが事件中での一番異彩のある疑問だが、一體何故なぜべるが鳴るやうなことになつたのだらう。賊が大膽不敵の餘りに鳴らしたのであらうか。それとも賊以外に何者かゞゐて、犯罪をさまたげるために鳴らしたのであらうか。でなくば偶然にか。いや、ひよツとすると――。」
と言ひ掛けて、再び熱心な瞑想のきやうに沈んでしまつた。が、彼の一擧一動の意味を知悉ちしつしてゐる予にはく解る――何等かの新しい光明が彼の心に射し込んだに違ひない。

    六 警視廳と外務省へ……大臣の顏が颯と曇つた

 倫敦の終端驛へ着いたのは午後三時二十分であつた。飮食塲いんしよくぢやうで忙しく小晝こびるを濟ましてから、眞直まつすぐに警視廳へと押し掛けた。織部探偵には保村君が既に電報を打つておいたので、彼は我々の來訪を待ち受けてゐた、小柄の狡猾さうな男で、愛嬌氣あいけうつけなどは微塵もない鋭い表情をしてゐる。我々に對する態度が明かにひやゝかなもので、殊に用向きを聞き取つてからはそれがひどかつた。
「保村さん、貴君あなたの方法は伺つて承知してゐます。」と彼は劔呑けんどんに言つた[#「劔呑に言つた」は底本では「險呑に言つた」]。「貴君は警察官の集める凡ての報告をいつでも御使用なさるだけの用意をしてお居でなさる。それから御自分で事件を解決して了つて、前の報告をば悉く不信用にさせるといふなさり方でせう。」
「ところが反對にです、過去にわしの取り扱ふた五十三件のうちで、私が名前を出してるのはたつた四件に過ぎなくて、の四十九件といふものは皆警察官の御手柄としてあるくらゐです。貴君はまだ御若くて御經驗も積まれぬから、その事情を御存知ないのも御もつともぢや。ですが貴君が今度の事件に成効せいかうを期せらるゝならば、私と一所に御働きなさるのが肝要で、私に反對なすつては御爲めになりませんぞ。」
 言はれて探偵の態度が大分だいぶやはらいだ。
ねがはくは一二點、心得になることを承り度いものですな。今度の事件ばかりは何の見込みもまだ立ちません。」
のやうな手段を御取りでしたか。」
「小使の丹造たんざうを探偵して見ました。彼奴きやつが好成績で[#「好成績で」は底本では「好成蹟で」]除隊になつた事は確で、ほかに格別怪しむべき點もありません。が、女房のおりんといふ奴は強者したゝかものですな。存外この事件についても知つてゐる事がありはせぬかと私は睨んでゐます。」
「お輪は探偵して見なすつたか。」
「女探偵を一人放つて見ました。お輪は酒を飮みますね。其他そのほかにどうも餘り要領を得ませんでしてな。」
「借金取に迫られたとかいふではないですか。」
「さうです、けれども勘定は濟みました。」
「金は何處どこから手に入れたでせう。」
「其御不審は御無用です。恩給金を丁度それに宛てたやうです、格別財産が有りさうな樣子も有りませんから。」
「栗瀬が珈琲コーヒーを欲しいとてべるを鳴らしたらばあの女が二階へ登つて行うたさうぢやが、その理由については何と申してゐますか。」
「亭主が大層疲勞くたびれてゐたから、骨休めをさせやうと思つて代つたのださうです。」
「成程、間もなく栗瀬が降りて見ると、亭主は小使室こづかひべや居睡ゐねむりをしてつたさうぢやから、其申立そのまをしたては眞實ほんとかも知れぬ。してみると、お輪の性質以外に、彼等についてもう不審の點も無かりさうですな。あの晩お輪が何故急いで歸つたか御訊きでしたか。そのせはしさうな歩調あしどりが巡査の眼にも觸れたさうぢやが。」
毎時いつもより時間が遲れたので家へ急いだと申立てました。」
「貴君と栗瀬とはすくなくも二十分は遲れてお輪の後を追ひ掛けたでせう。その貴君方が何でお輪よりも先きへき着いたか、其點は如何いかゞです。」
「乘合馬車と二輪馬車とでは速力はやさが違ふと申すのです。」
「では、家へ着くと、裏口の勝手の方へ驅けて行つた譯は?」
「借金取に拂ふべき金を勝手にしまつておいたからださうです。」
れにも辻褄の合ふた答へはなしるな。お輪が役所を出際でぎはに、若しや猿巣町で何者かに逢はなんだか、あるひ其邊そのへんをブラ/\してる者を見掛けなんだか、それを御訊きでしたらうか。」
「巡査のほかは誰も見掛けなかつたやうですな。」
「フム、貴君の御訊問に御手落おておちはなさゝうぢや。そのほかのやうな手段を御取りなすつたらう。」
「屬官の綾田五郎をこの九週間の間密偵して見ました、が、なんかうもなかつたのです。」
「そのほか?」
「いや、もうなんにも有りません――何の證據も手にりません。」
「あのべるが鳴つた原因については何か御考へが有りますか。」
「いや、實際を申すとあれには弱りましたよ。いづれにせよ、彼室あすこへ忍び込んで、わざ/″\警報を與へるといふのは大膽極まる所業しわざですな。」
「さうです、變つたやりかたです。いや、色々お話下すつて有難う若し賊を御手渡しする事が出來たらば、其際はまた我輩の實驗をお話しませう。須賀原君、失禮しやう!」
「今度は何處どこくね。」
 警視廳の門を出ると予が訊ねた。
「現内閣外務大臣にして未來の英國總理大臣たる堀戸ほりど春容しゆんよう卿を訪問するのさ。」
 大臣は都合好く尚ほ役所を退出せずにゐた。保村君がを通ずるとたゞちに引見された。彼は彼特有の舊式の禮法を以て我々に應接した。そして暖爐の兩側に据ゑた二脚の贅澤な安樂椅子に我々を掛けさせた。主人は我々の間に立つてゐる。華車きやしやなスラリとした體格、嚴格にして思慮有りげなる顏付、既に霜を交へた縮毛ちゞれげ、打見たところしんの貴族らしき風采の貴族である。
 大臣は微笑みながら、
「保村さん、貴君の御噂おうはさ能く承つてる。無論貴君の御來訪の目的をわしが存ぜぬと白を切るわけではない。實に役所始まつて以來初めて貴君の御注意を惹くやうな事件が起りました。失禮ぢやが貴君は誰のために御働きになつてられますか。」
栗瀬くりせ律夫りつを君のために骨折つてゐます。」
と保村君が答へた。
「あゝ、不幸な甥のためにですか――貴君はお解りですか――彼が一族一門たるが故に、みちからも彼を庇ふといふことが私には致しにくい。今回の事件は彼の前途のために甚だ不利益な結果をもたらすに違ひない、それが殘念であるのです。」
「併し書類が發見されましたらば?」
「あゝ、無論そのあかつきには問題が違ふて來る。」
「閣下、わたしは一二點御訊ね致し度いことが有るのですが。」
「知つとる限りはよろこんで御答へしませう。」
「條約文の筆寫ひつしやについて閣下が御命令を御與へになりましたのは此御室おへやで御座いますか。」
「左樣。」
「では他人に聽かれる心配はなかつたので御座いますな。」
仰有おつしやるまでもなく。」
「條約文を筆寫させる意志が御有りだと申すことをかつ誰方どなたかに御洩らしでもなさいましたか。」
「決して洩らしません。」
「確に左樣で御座いますか。」
「確です。」
「はア、閣下も御洩らしにならぬ、栗瀬君も秘密を守られた、ほか誰方どなたも御存知の方がないとしますれば、栗瀬君のへやに賊が入つたのは全く偶然であつたので御座いますな。偶然に好機會に觸れた、それで持ち出した、と斯ういふ事になるので御座いますな。」
 大臣はまた微笑んだ。
其邊そのへんわしの領分以外の事に屬しますテ。」
 保村君は一寸考へてから、
「もう一つ御意見を御伺ひせねばならぬ大切な件が御座います。其條約文の内容がに洩れたるあかつきには非常な重大な結果が生じて參る、それを閣下には多分御心配で御座いましたらう。」
 暗い影が大臣の特色ある顏をさつと曇らせた。
「全く、非常な重大な結果が起きますな。」
「その結果が既に現はれましたらうか。」
「まだです。」
たとへばですな、それが佛國あるひは露國の外務省の手に入つたとしますると、自然閣下にはお解りで御座いませうな。」
「解りませう。」
と大臣はしかつらをした。
「併し約十週間を經たる今日こんにちいまだ何の情状じやう/″\にも接せぬのを以て見ますれば、條約文は何等かの理由のもとに敵の手に達しなかつた、さう考へても不穩當では御座いますまいな。」
 堀戸卿は肩をそびややかした。
「だが、保村さん、賊はまさかに條約文へ枠をつけて懸けておく爲めに盜みはしますまい。」
「一段と高値のつくのを待つてゐるのではありますまいか。」
「もう少し待つてるうちには恐らく虻蜂あぶはち取らずになつて了ふでせう。あの條約文は數ヶ月以後には最早秘密ではなくなりますからな。」
「それは最も大切な點です。無論賊が急病にかゝつたなぞといふことも有りべき事ですから――。」
「例へば腦膜炎に罹るといふやうな塲合ですか。」
と大臣は瞥乎ちらりと保村君の顏へ流眄ながしめをくれて言つた。
「いや、さうは申上げません。」と保村君は落着いたもので「所で、閣下の御多忙の時間を大層御邪魔致しました。それでは御暇おいとま致します。」
「賊は何者であらうとも、貴君の御搜索の成功を祈ります。」
 別れて出て來ると保村君はかう言つた。
「大臣は立派な男だ。併し先生、現在の位置にかじりつき主義を取つてゐるね。餘り金持でないのに、招待なぞが澤山有る。無論君は大臣の靴の底が二度も修繕されたのに氣が付いたらうね。さてと、須賀原君、今日はあの新聞廣告に返事のない限りはもうるべき事もないから、此上君の御邪魔をするには當らなくなつた。が、明日あすまた今日と同じ時刻の列車で、一所に王琴町わうきんまちへ行つて貰はれると非常に好都合ぢやがねえ。」
「お安いことだ。ぢや明日あすまた會はう。」

    七 兇器をもつた深夜の曲者……保村探偵苦肉の策

 此約束に從ひ、翌朝はまた保村君と王琴町わうきんまちへ出掛けた。昨日の廣告に對してはいま何處どこからも反響がない、事件の上には何等の新しき光明も投げられてゐないさうだ。
 栗瀬律夫は相變らず戀人の看護のもとに寢て居つた。が、昨日よりは餘程いらしい。我々の姿を見ると起上つて來て、左程難儀でもなさゝに我々に挨拶した。
「何か望みがございましたか。保村さん。」
※心ねつしん[#「執/れんが」、U+24360、90-8]に訊いた。
「昨日御斷おことはりした通り、わしの報告は消極的のものですぞ。私は織部刑事とも會ひました、堀戸卿にも御目に掛つた、そして一二個條かでう取調べの端緒いとぐちを開いて參つたが、これは何等かの結果をるかも知れません。」
「では、全然御失望ではなかつたのですな。」
「失望ではないですとも。」
「まア、さううけたまはつて安心致しました!」と千嘉子が叫んだ。「それならば勇氣を出して辛棒しんばうさへ致して居りましたらば、きつと明りの立つ時も參りますわ。」
「今日は貴君きくんの御報告よりも、かへつ此方こちらから御話せねばならぬ事があります。」
と律夫は再び寢椅子に腰をおろして言つた。
「いや、何か變つた事があればいゝとはおもふて居つたのです。」
「えゝ、昨夜ゆふべ一椿事がありました、しかも容易ならぬ事なんです。」といふ顏の表情がひど嚴肅げんしゆくになり、眼には恐怖と言つたやうな色が閃き出した。「保村さん、僕はかういふ事を信じ初めました――僕は知らずらずのうちに、ある恐るべき徒黨ととうの中心點になつてゐたんですな、そして僕の名譽と共に僕の生命いのちまでもねらはれてゐるといふことなんです。」
「ほオ!」
「元來僕は此世このよに敵といふものを持つてゐないと自信してゐますから、さういふことは甚だ不條理のやうに聞えるのですが、併し昨夜さくやの出來事から見ますれば、どうもう推測するよりほかはありません。」
うけたまはりませう。」
「先づかういふ事を御承知が願ひたいのです、それは昨夜ゆうべ初めて僕が看護婦なしに此室このへやに寢たといふ事なのです。僕は全く一人で始末の出來るほど具合がくなつてゐました。併し終夜よどほし燈火あかりだけはけておきました。何でも朝の二時頃でしたかね、トロ/\としたと思ふと、不意にかすかな物音のために眼が醒まされました。丁度、鼠が板でも噛むやうな音でしてね、僕はそれに違ひないと思つて、しばらくぢツと聽いてゐたんですが、其音が次第に高まつて來る、そして突然だしぬけに窓のところから物をはさみ切るやうな鋭い金屬製の音が聞えて來ました。僕はびツくりして起き直りましたよ。てつきり何の音だか解りました。かすかな音は、曲者が道具を窓框まどわくの間の隙間へとほした音なんで、それから鋭く響いたのは、※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)かきがねを押しのけた時の音なんです。
 すると、やゝ十分間ばかりは音がピタリと止みました。これは僕が眼が醒めたかどうかをうかゞふ爲でしたらう。そのうちにギーといふやはらかな軋みと共に、窓がソロ/\と明けられた樣子ですから、平生ひごろとは違ひ、病後の神經が鋭敏になつてゐる僕が、もうまらなくなりました。で、寢臺ねだいから飛び降りて、窓の扉をさつと明けました。果して一人の曲者が窓につくばツてゐる、が、電光いなづまのやうに逃げ出したものですから、人相も何も辨別みわけられませんでしたが、何でもかつぱのやうなものを纒つて顏の半分を隱してゐるやうでした。只一つ見極めた事は、曲者が手に兇器を握つてゐたことで、これだけは確です。長い小刀ナイフのやうでしてね、身をはして逃げ出す時にキラリと光つたのが見えましたよ。」
「それは非常な椿事ぢや。して何うなすつたか。」
「僕が健康のときでしたらば、窓を飛び越して追跡するところなんですが、病後の今ではさうもなりませんから、早速べるを鳴らして家の者を起しました。けれどもそれが可成かなり手間が取れました、と申すのは、べる臺所だいどころの方へ通じてゐるのに、雇人共やとひにんどもは皆二階に寢てゐるといふ譯ですから、そこで僕は大聲に喚き立てたですな。すると義兄の春藏はるざう君が飛んで來て、それからほかの者を起しました。春藏君と下男たちが外を調べて見ると、窓下の花壇に足跡がついてゐる。が、此頃の乾き切つた氣候でしたから、至極朦朧ぼんやりとしてゐて、草塲くさばの中に消えたのを突き留めることが出來ません。併し、往來をグルリとさかひしてゐる木造の柵に一個所、曲者が乘り越えたと見えて柵の頭が折れてゐる所がありましたさうです。此事はまだ警察へも屆けません。眞先に貴君の御意見を伺はうと思つてゐたものですから。」
 此話は保村君の心に異常の結果をもたらしたらしい。彼は椅子から立上つて靜止じつとしてられぬと言つた風に室内を歩き出した。
「災難といふものは一度で濟まぬものですな。」
と律夫が言つた。微笑みながら言つたのだが、昨夜の一件でやゝ怯えてゐるのは明白である。と、保村君は、
「たしかに御災難であつた。貴君はわしと一所に御宅の周圍まはりまはられますか。」
「えゝ、まはられますとも。少しは日光に當つた方がいんです。春藏君も御供おともするでせう。」
「私もよ。」
と千嘉子が言つた。
「いや、貴女は御出おいでなさらぬ方が宜しい。」と保村君は頭を振つて「貴女はそこに其儘そのまゝ靜止じつとしてゐらしつて頂きたいのです。」
 若い令孃は不滿足げに再び腰を下ろした。が、兄は一行に加はりかくて我々四人は庭へ降りた。芝生を廻つて律夫の窓下へ行つて見ると、彼の話にあつた通り、花壇の中に足跡そくせきがついてゐるが、殘念ながらぼんやりと薄汚れてゐるのみである。保村君は一寸其上に屈みこんだが、直ぐに身を起して、
わしは、賊が入つたにしてはやうなことのあるべき道理がないと思ふ。まアやしきめぐつて見たら、なぜ特別に貴君のこの窓が目指されたか解るでせう。一體ならばあの客室きやくまや食堂の大きな窓の方が、餘計に賊の眼を惹きさうなものであるのに。」
「あれらの窓の方が往來から一層見え易いですな。」
と春藏が言つた。
「えゝ、さうです、無論です。あゝ、こゝにも賊が當つて見たらしいがありますね。これはどうですか。」
「御用聞きの出入口です。無論夜はめておきます。」
「栗瀬さん、以前にも昨夜ゆふべのやうなことがありましたか。」
「決して有りません、初回はじめてです。」
「お宅の中に伸金のべがねとか、其他そのほかなになりとも賊の眼をつけさうなものがありますか。」
「そんな貴重な物は置いておきません。」
 保村君は兩のポケツトに手を突込んだなりで、邸宅の周圍まはりをブラ/\まはつて歩いた。こんな亂次だらしのない姿勢は彼にとつては珍しいことである。
「時に……」と春藏を呼び掛けて「賊が柵を乘り越えたところは多分解つて御居おゐでゞせうな。一寸拜見したいものですが。」
 春藏に導かれた木柵もくさくの一個所は、成程棒のさきが折れて、その折れたのがブラ/\と下がつてゐる。保村君はそれを引きむしツて仔細にしらべて見た。
「これが昨夜ゆふべの仕業でせうか。何だか古く見えるぢやないですか。」
「さうですなア。」
「それに向ふ側に人間の飛び降りた跡がない。いや、どうも何の手掛りもなさゝうです。寢室ねまへ戻つて御相談致さうぢやありませんか。」
 律夫は未來の義兄の腕にもたれて、極くノロ/\と歩いて來る。保村君は歩早あしばやに芝生を横切り、斯くて我々は遲れた二人よりもずツと先きに再び病室の窓際に腰掛けてゐた。
「千嘉子さん。」と保村君は頗る熱心な態度で呼びかけた。「貴女は今日一日そのまゝ其處そこ靜止じつとしてゐらツしやらなければ不可いけませんぞ。何事があつても今日だけは其塲所を御動きになつてはなりませんぞ。さうなすつて頂くことが非常に必要になつて參つたのですからな。」
「お望みなれば御言葉通りに致します。」
と令孃は思ひ惑ひながら答へた。
「で、御寢おやすみになる時には此室このへやぢやうをお掛けになつて、鍵をば御放しなさるな。宜しいか、御約束しましたぞ。」
「けれども律夫樣は?」
「栗瀬君は我々と倫敦ロンドンかれるのです。」
わたくしだけこゝに殘るので御座いますか。」
「さうなさるのは栗瀬君の爲めです。貴女が同君のために御役にたつおりが來ました! 早く! 宜しいか!」
 千嘉子が首肯うなづ其折そのをりしも、遲れた二人が入つて來た。
「千嘉子、なぜそんなにふさいだ顏をして引込んでゐるんだね。」と兄が聲掛けた。「ちつと庭へでも出ておいで、い天氣だよ!」
「いえね、兄樣にひさん、私少し頭痛がしますのよ。このおへやが却つて涼しくて心地がうございますわ。」
「ところで保村さん、御意見は如何いかゞでせう。」
と律夫が促した。
「いや、此樣な些細な事の取調べのために、肝心の例の問題を怠けてはなりません。どうです、貴君が我々と一所に倫敦へ行つて下さると大層好都合ですがね。」
「直ぐにですか。」
「まア御都合のつき次第、左樣、一時間ばかりのうちに。」
「僕の御供するのがそんなに御必要ならば參りませう、體は大丈夫らしいのです。」
「非常に必要です。」
「今晩はあちらに泊らねばなりますまいな。」
「今それを申さうと思うふたところです。」
「すると、昨夜ゆふべの先生がまたやつて來ても、肝心の僕が藻拔もぬけの殼なのでオヤ/\といふことになるんですな、萬事お任せします。其代り保村さん、貴君の御計畫ごけいくわくも伺ひ度いものですな。それから、春藏君が一所にかれると僕の世話が頼まれますが、宜しいでせうな。」
「いや、それには及ばぬでせう。御承知の通り須賀原君が醫師いしやぢやから貴君に對する御注意は充分してあげられます。では御宅こちらで一つ小晝こびるを御馳走になつて、それから三人して御一所に出掛でかくるとしませう。」

    八 皿を凝視みつめてアツと一聲ひとこゑ……葢を取つた其瞬間

 萬事が保村君の希望通りに按配あんばいされた。予には同君が此樣な處置しよちを取る眞意が解らぬ。あるひは令孃を律夫から遠ざける策でもあらうかさて我々は、健康の恢復と活動の喜悦よろこびに滿たされた律夫と共に食堂にて食事を共にしたのち邸宅やしきを出掛けたが、こゝにもう一つ意外な目にはされた、と言ふのは、停車塲ていしやぢやうへ着いて、客車の中へ腰を降ろした我々兩人に向つて、保村君は平氣な顏で、自分は倫敦へく意志がないと言ひ出したことである。
「實はね、倫敦へ歸る前に、もう一つ二つ研究し度いと思ふ小問題が殘つてるのだ。栗瀬さん、貴君の御不在おるすになるのはわしにとつて却て幸福しあはせですぞ。須賀原君、倫敦へ着いたらば直ぐにお客さんを私の家へ御連れして、私のくまで御止おとゞめしておいてくれ給へ。兩君は古い學友ださうぢやから、話が合ふて丁度宜しからう。栗瀬さんさういふ次第ぢやから今晩は我々の豫備よび寢室しんしつ御寢おやすみ下さい。朝の八時にはうおーたーるー停車塲ていしやぢやうに着く汽車がありますから、明日みやうにち朝飯あさはん迄にはまた御目に掛りませう。」
「ですが、倫敦での例の問題の取調べはどうなりませう。」
と律夫は心細げに訊いた。
「それは明日みやうにち出來ます。只今のところは私は此方こつちとゞまる方が一層大切なのです。」
「では宅の者に、明日あしたの晩は歸り度いと思ふてるとお告げ下さい。」
 汽車が動き出すと律夫がかう言つた。
「いや、お宅まで歸るかどうか解らない。」
と保村君は、走り出した汽車に向つて愉快げに手を振つた。
 予等よら兩人は倫敦の保村君の事務所に着くまで、この新しい發展について噂しあふたが、いづれも滿足した理由を發見することが出來なかつた。
「僕の想像では保村さんは昨夜さくやの強盜について何か證據を見付けやうとしてられるのではないだらうか。まア強盜だらうね、僕自身では、どうしてもあれが普通の竊盜せつたうとは思はれない。」
と栗瀬が言つた。
「すると君の考へはどうなのかね。」
「君は屹度きつと僕の衰弱した神經のせいにするだらうが、僕の信ずる所によれば或る深い政治上の陰謀が僕の周圍に企てられてる。そしてどうも其徒黨等ととうなどが僕の生命をねらつてゐるらしく思はれるのだ。あるひは僕の言葉は誇大に響くかも知れん。不條理に響くかも知れん。けれどもまア事實を考へて見てくれ給へ! 何の目ぼしい物もない寢室の窓から、何で竊盜どろばうが忍び込む必要があるだらう。何で手に長い小刀ナイフを握つて來る必要があるだらう。」
「押込の鐵梃かなてこかなぞぢやなかつたのかね。」
「なアに、小刀ナイフだつたよ。其がキラリとひかるのを僕は判然はつきりと見たんだもの。」
「併しだね、君がなぜそんな怨みを受けてゐるのだらう、をかしいぢやないか。」
「あゝ、それが疑問なんだ!」
「兎に角、保村君も同意見とすれば、行爲に現はれるから解らうぢやないか。りに君の意見を正當だとして、彼が昨夜ゆふべ君をおどかした奴に手を下す事が出來るとすれば、百しやく竿頭かんとう一歩を進めて、海軍條約文をぬすんだ奴をも見付けるに違ひない。一方は君から條約文をぬすむ、一方は君の生命をおびやかす――そんな二つの敵を君が持つなぞと考へるのは不條理だよ。」
「だが、保村君は僕の宅迄うちまでは戻らぬかも知れんと言ふたぜ。」
「僕は長い事知つてゐるが、保村君がしツかりした理由なしに漫然と働くといふことはかつてないね。」
 兎角して漸く我々の話はの問題に移つたものゝ、予に取つては實に退屈の一日であつた。栗瀬は長らくの病氣の後とていまだ衰弱してゐる上に、重なる不幸で愚痴ツぽくなり、神經質になつてゐる。予はあふがにすたんの話、印度いんどの話、世間話、なんにてもあれ彼の心を紛らすやうな事をはなしして訊かせたのだが效目きゝめがない。彼の心は常に失はれた條約文の上に後戻りをする。保村君の行動やら、堀戸今日のりつゝある手段やら、明朝みやうあさ接すべき報告やらについてあるひあやしみ或は想像し、或は推測する。夕暮になるにつれ彼の亢奮こうふん状態は全くいたましくなつた。
「君は保村さんを全然信用してゐるのかね。」
と、そんな事も訊く。
「素晴らしい探偵をやつた實例を幾つも見たからね。」
「けれども今度のやうなむづかしい事件を解決したことはないだらう。」
「なアに、君の事件なぞよりはズツと手掛りの少い難問題を美事みごとにやつてのけたことは澤山あるよ。」
「併し今度のやうな國家的の利害に大關係のあるものではなかつたらう。」
「それは知らんがね、僕が確に覺えてゐるのでは、非常な重大事件で歐洲おうしうの三つの皇室のために働いた事がある。」
「兎に角、須賀原君、君は保村さんを能く知つてゐるのだが、あのくらゐ不可思議千萬な人も見たことがないね。まるで僕等には見當がつかない人だ。君は今度も有望と思ふかね。先生自身は成功を期してゐるだらうかね。」
「保村君は何とも言はなかつたよ。」
「ぢやア形勢は惡いのだね。」
「いや反對だ。僕の經驗によると、保村君はまとを外れた時には外れたと言ふ。むツつり默りこんだ時には嗅ぎ當てた時なのだ。それが果して正確であるや否やがまだ不明な時なのだ。それはさうとしてだね、君、こんなことで御互おたがひに神經ツぽくなつてゐるのはもう堪まらんから、後生だから寢てくれないか。寢れば氣分が新鮮さつぱりするよ。そして明朝あすなさの吉報を待つことにしやうぢやないか。」
 やつとの事で説き付けて寢かせる事にした。かう亢奮してゐるのでは到底安眠は出來まいとは知れてゐれど、さうするよりほかに仕方がない。彼の神經質はとう/\予にも傳染した。予も殆ど半夜はんよといふものは、轉輾反側てん/\はんそくして、此怪事件の上に思ひを馳せたり、あれか、これかと無數の理窟りくつね返してみたり、その理窟が後のになるほど段々前のゝよりも出來ない相談になつたりなぞしてを更かした一體保村君は何だつて王琴町に踏み留まつたのだらう。何だつて千嘉子孃に終日いちにち病室に靜止じつとしてゐるやうになぞと注文したのだらう何だつて栗瀬家の近所に留まりながら、用心してその家族にも告げまいとしたのだらう。さういふやうな凡有あらゆる疑問を解決すべき説明をどうかして求めやう/\と腦漿なうみそを絞つてゐるうちに、とう/\ぐツすりと睡眠ねむりちてしまつた。
 翌朝よくあさ起きたのは七時であつた。起きると直ぐに栗瀬のへやへ行つて見ると、共は寢が足りなかつた後の事とてぐツたりと憔悴してゐたそして彼は眞先きに保村君が歸つたかと訊いた。
「約束した異常、先生は一分間の遲速ちそくもなくやつて來るよ。」
 全く予の言葉通りだつた。八時を打つと間もなく、一臺の馬車が扉口とぐちに驅けて來て、保村君が飛降りた。窓から眺めてゐると、彼は左の手に繃帶ほうたいを施してゐる。そして大層物凄い蒼白あをざめた顏色をしてゐる。玄關を入つたと思つたが、やゝしばらくしてから階段を上つて來る音。
「まるで敗北した人のやうに見えるね。」
と栗瀬も叫んだ。
 予もその言葉を是認せぬわけにはゆかなくなつた。
「結局、手掛りは倫敦の方にあるんだらう。」
と言ふと栗瀬は唸聲うめきごゑを出して、
何處どこにあるものやら知らないけれど、先生が歸つて來たらば吉報が聞かれるだらうと待ちこがれてゐたのになア。併したしかに昨日までは左の手があんなに繃帶はしてなかつたよ。どうしたと言ふんだらう。」
「保村君、怪我をしたのかね。」
 へやへ姿を現はしたのを見ると予はかう訊ねた。
「や、これはなに、へまなことをやつて一寸引つ掻いたのさ。」と、御早おはやうの挨拶代りを首でやつて見せて「栗瀬さん、貴君の今度の事件は、確にわしが今迄從事したものゝうちでも最も厄介なものゝ一つですね。」
「若しや御手おてに餘つたんぢやないかと心配しました。」
「いや實に素的な經驗をやりました。」
「その繃帶で見ると何か冐險的の事件があつたね。」と予が言つた。
「その顛末を聞かしてくれ給へ。」
朝飯あさめしの後にしやう。なにしろ我輩は今朝のうちに三十マイルを飛んで來たんだからね。例の馬車についての廣告には何處どこからも返事がなかつたらう。好し/\、さう毎時々々いつも/\都合よくはゆかないものぢやテ。」
 食卓の容易は出來た。予がりんを鳴らさうとするところへ、丁度女中のおりくさんが茶と珈琲コーヒーを持つて入つて來た。それから五六分も過ぎると料理を運んで來た。我々は皆食卓に就いた。保村君はがつ/\してゐるし、予は好奇心に滿ちてゐるし、栗瀬に至つては此上なしの不景氣の顏をしてゐる。
「お陸もなか/\臨機應變をやりるわい。」とカレー料理の雛鷄チキンの皿の覆ひを取りながら保村君が言つた。「彼女あれの料理の範圍は少し狹いことは狹いが、朝飯あさはんだけは兎に角うまく喰はせるね、須賀原君、君のは何だ。」
豚肉ハム鷄卵たまごだよ。」
「うまいね! 栗瀬さん、貴君は何をおあがりか。カレーのにはとりか、鷄卵たまごか、それとも好きなものを御撰おえらみかな。」
「有難う、僕はなんにも喰べられません。」
「そんなことがあるもんぢやない! さア貴君の前にあるのをおりなさい。」
「有難う、けれどほんとに喰べない方がいゝです。」
「はゝア、では。」と保村君は惡戯いたづらさうなめばたきをして「わたしの方へ御渡し下さるには差支へないでせう。」
 栗瀬はふたを取つて見た[#「取つて見た」は底本では「取つた見た」]。と、一せい叫聲さけびごゑを擧げて皿の中をぢツと凝視みつめた。顏色は其皿の如く白くある。

    九 果然くわぜん青灰色の紙圓筒かみえんとう……神の如き探偵の物語

 栗瀬はそもそも何を見たのだらう。
 皿の中央まんなかに青ツぽい灰色をした一まきの紙の圓筒えんとうよこたはつてゐるのだ。彼はそれを取り上げた。喰ひ入るばかりに眺めてゐるかと思ふと、やがて確乎しつかと胸に抱き占めて、歡呼よろこびの聲をげながら、狂人きちがひのやうに室内を躍り廻るのであつた。そのうちに感激の疲勞でグニヤ/\になつて、椅子へドカリと頽折くづをれた。かまはずおくと氣絶もしかねまじいので、我々は慌てゝブランデーを飮ませてやる。
「まア、/\!」と保村君は慰め顏に肩を叩いて「そんなに夢中になつては不可いけない。けれど我輩これで芝居氣しばゐぎのあるのはたしかだからねえ。」
 栗瀬は其手を取つて接吻した。
「あゝ、貴君あなたの上に祝福みめぐみあれ! 貴君は僕の名譽を救つて下さいました。」
「なに、我輩の名譽までがあぶないところであつた。全くアレですぞ、貴君が上官の命令に對して馬鹿間違ひをやられるのが御厭おいやのやうに、我輩も事件を失敗しくじるのは實に七けツぱいですわい。」
 栗瀬は貴重な書類を外套ぐわいたうの一番奧の懷中かくししまつた。
「此上貴君の御食事の御邪魔をするのは何とも失禮ですが、併し僕は死ぬほど知り度いんです。何うしてこれを手にお入れだつたか、何處どこで御見付けになつたのだか。」
 保村君は先づ珈琲コーヒーすゝつて、それから豚肉ハム鷄卵たまごとをたひらげ、さて立上つて、パイプに火をけ、自分の椅子へ腰をおろして、
「先づ最初に我輩が取つた手段をお話しませう、それから、何故そのやうな手段を取るに至つたかの源因げんいんをお話しませう。」と語り出した。「昨日停車塲ていしやばで諸君にお別れしてから、我輩は附近の好景かうけいしやうしながら愉快に散歩をして、里布禮りふれといふ美しい村まで行つた。そこの一軒の旅館で休息して、用意の爲めにフラスコへ水を詰めたり、懷中かくしへサンドウヰツチを入れたりした。そのうちに夕方になつたから、もう一度王琴町わうきんまちへ引返して、丁度日沒ひのいり少し過ぎ頃、栗瀬さん、貴君のお宅の外の往來へ着いたのです。
 そこでト、我輩は往來に人影の絶ゆるのを待つてつた――あの往來は餘り人通りはしげくはないやうですな――そしてから、策を乘り越えて庭へ飛び降りましたよ。」
「門が開いてあつたでせうに。」
「開いてはゐました、けれど我輩元來柵の乘越のつこしなぞが大好きでしてね。庭へ降りるには、あのもみの樹が三本立つてゐるところがありますね、彼處あすこを撰んだね。つまり枝の蔭で決してお宅の人に見付かる心配がなかつたからです。いよ/\飛び降りると、やぶから藪をくゞつて歩いて――まアこのズボンの膝が散々になつてゐるところを見て下さい――とう/\貴君の寢室の窓の前に立つてゐる石楠しやくなぎの樹の下まで辿り着くと、そこへしやがみこんで事件の發展を待つてゐました。
 貴君のへやの窓の目隱めかくしはまだ降りてゐなかつたから、千嘉子さんが卓子ていぶるわき書見しよけんをしてられるのが能く見えました。十時十五分になると千嘉子さんは本を閉ぢ、窓のを閉めて出てかれた、其室そのへやを閉める音も聽えました。其時ぢやうに鍵をおろして行つたのは確です。」
「鍵をですか?」
「左樣、それといふのは我輩があらかじめ千嘉子さんに、御自分の寢室へ御引込おひきこみの時は栗瀬さんの室へ外から鍵をかけて、その鍵を御自分で保管して下さるやうにお頼みしたからです。千嘉子さんは我輩の注文をば一々嚴密に守つて下すつた。全くあの方の應援がなかつたならば、その條約文が今頃貴君の手に入つて居るかどうかあぶないものであつたですぞ。で、千嘉子さんはへやから出なすつた、燈火あかりも消えた、後はたゞ我輩が藪の中に蹲まつてうかゞふてゐるばかりです。
 昨夜ゆふべは誠に美しい夜であつた。けれども徹夜する身にとつては仲々退屈ぢや。無論心持こころもちは亢奮してる。丁度獵師が川岸に隱れて大きな獲物を待ち受けてゐるやうなたのしみはあつたが、さりとて待つ身に取つて長いこと、……町の方からは寺院の時計が十五分毎に響いて來るが、その間の待ち遠しさといふものは、もう時計が止まつて了つたんではないかと思はれるばかりでね、でも漸く朝の二時になると、不意に近所でかんぬきそつと引き拔いて、鍵を廻すギー/\といふひそやかな音が聞えて來た、と思ふと、勝手口の方のが明いて月光の仲へ浮び出たのは與瀬よせ春藏はるざう君です。」
「えゝ春藏君!」
と栗瀬が大聲を出した。
「出て來た姿を見ると、帽子はかむつてゐない、が、肩の上へ黒い合羽かつぱを掛けてゐる。これは萬一人目に觸れた時直樣すぐさま顏を隱す用心でせう。先生月光を避けて、壁の陰影かげばかりを撰んで爪先つまさきで歩いて來たが、いよ/\あの窓下まで着くと、長い刄の小刀ナイフ窓框まどわくへ突きさして※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)かきがねを外した。外すと窓を明け、小刀ナイフの隙間に入れて横木を退け、とう/\すつかり明けてしまつて、内へ忍びこんだ。
 我輩の隱れてゐるところからは、室内の樣子、彼の一々の行動が手に取るやうに能く見ゆる。先生、まづ爐棚ろだなの上の手燭を二つともともしておいて、それから入口のに近いあたり絨氈じうたんすみを上げに掛つたものです。捲くり上げて身を屈めたと思ふとね、一つの四角な板片いたきれを取上げた。あの瓦斯ぐわす會社の職工が、瓦斯管の接目つぎめの工事をするために殘してゆくあれぢやね。それが、實際目撃したところでは、勝手の方へ走つてゐる丁字形ていじけいの接目に被さつてつた、その隱し塲所から先生まるく卷いた一件の書類を取り出した。取り出すとまた板片いたきれ[#「板片を嵌め」は底本では「板片を穿め」]、絨氈を元通りに直し、手燭を吹き消して窓から飛び降りた、ところを我輩が首尾よく取つ捕まへたのです。
 與瀬春藏といふ人は思ふたより惡い人ですな。先生、小刀ナイフを閃かして我輩に飛び掛つた。止むを得ず二度ばかりたゝき伏せたのぢやがツイ指の關節を一刺しやられましたわい。でもとう/\組み敷いたその時の恐しい顏付といふものは、明かに殺意を示してゐる者の顏付であつたが、懇々と利害得失りがいとくしつを説いて聞かすると、斷念あきらめて書類を渡しました。書類が手に入ると共に、春藏君をば放してやつたが併し今朝になつて詳細の顛末は織部探偵まで電報で報じておいた。織部君が敏捷に立ち廻つて先生を逮捕出來ればそれも宜しいが、まづ我輩の察するところでは、折角急行して參つても犯人は逃走の後であらうと思ふ、すれば政府にとつては其方が一段と宜しいのぢや一つには堀戸卿のため、一つには栗瀬律夫君、貴君のため、此事件が法廷に現はれぬ方が好都合であらうと我輩は思ひます。」
「實にどうも意外な事です!」と栗瀬は息をはづませて「では過去十週間、僕が煩悶に暮した長い間、ぬすまれた書類は始終僕の室にあつたと仰有おつしやるのですか。」
「まづさうでした。」
「それで、春藏君が……あの人が犯人なんですか!」
「フム! 春藏君の性格といふものは外貌みかけによらず危險なものですぞ。我輩が其時本人から聞いた言葉で察すれば、先生、株式へ無暗むやみに手を出して大分だいぶん負傷いたでを蒙つたところから、その損失を取り戻すためならば如何なる手段をも取らうと思つてゐたらしい。元來が渾身こんしん利己心で固まつてゐる男であるから、自分に利益ある機會さへあれば實妹じつまいの幸福を蹂躙してもかまはぬ、その夫たるべき貴君の名譽を失墜させても何ぞ關せんといふ風である。」
 栗瀬はドタリと椅子に沈み込んだ。
「あゝ、頭がグル/″\旋轉まわりさうです。ほんとに御話おはなしを聞いて目がまはりさうです。」
 保村君は例の教授的態度をして、
「貴君の事件で最も難所と致したのは、餘りに證據が有り過ぎるといふことでした。だから、眼前に現はれた凡有あらゆる事實の中から眼目がんもくしたゝめた點のみを拾ひ集め、それを順序よくつなぎ合せて、つひに驚くべき一大事實の連鎖を得たのである。我輩は最初から春藏君を疑ふて居つた、と申すのは、あの密書盜難の晩、貴君は彼と同行でお宅へ歸る手筈であつた。して見ると、外務省をよく存じてゐる彼が貴君を役所に訪ねてさそふて歸るといふことは有りうべき事である。それから飛んで一昨夜のお話であるが、何者かゞ貴君の寢室に忍び込まうとした。ところが此室このへやには春藏君のほかに物を隱しておくやうな人は他にない――何故と申すのに、貴君が原井はらゐドクトルに連れられて倫敦から歸られるまで其室そのへやに居つたのは春藏君でせう。其晩貴君より一あし先きに歸つて其室に入つて居つたが、貴君が病人となつて連れ込まれるに及んで、其室を明け渡さねばならなかつたでせう――さういふお話を聞いてから、我輩の彼に對する疑念ぎわくすべて事實に變じた。いはんや、曲者が、看護人が初めて貴君のそばから離れた其夜そのよねらつて忍び込まうとした事實を見れば、其曲者たるや正に家内かないの事情に通じた者に違ひないといふ結論に達するではないですか。」
「僕は何といふ盲目めくらでしたらう!」
「そこで我輩が骨折つて手に入れた事實の眞相はかうである。春藏君は五月二十三日猿巣町さるすまちに面したの方から外務省へ入つて行つた。役所の樣子はう知つてゐるから、眞直まつすぐに廊下を通つて二階の貴君の室へ入つて見た、此時が丁度貴君が珈琲コーヒーの催促に小使室こづかひしつへ降りてゆかれた直ぐ後である。で、室に入つて見ると誰も居らぬので其塲そのばべるを鳴らして見た、が、直ぐに彼の眼に入つたのは卓子ていぶるの上の例の書類、何心なにごゝろなくチラリと見たのであるが解つた、非常に貴重なる國家的の密書がゆくりなくも眼前めのまへに轉がつて來たのだ、と思ふた瞬間、それをば手早く懷中かくし※(「てへん+丑」、第4水準2-12-93)じ込んで行つてしまふた。御存知の如く、寢恍ねぼけた小使が、二階でりんが鳴ると貴君に告げたのは、それから數分間を經てからの事、そのに犯人は悠々と落ち伸びる事が出來たんぢやね。
 さて役所を逃げ出した彼は、停車塲ていしやばに驅けつけ、第一の汽車で王琴町わうきんまちのお宅へ歸つた。室に入つて改めてしらべて見ると、實に容易ならざる獲物であるから、先づ一番安全と思ふところへ隱して了ふた彼の意では一日二日のうちに取り出して、佛國大使なりなになり、値段のかりさうなところへ賣りつけるつもりであつたでせう。ところが貴君が不意に戻つて來られた。そして意外にも早速その室から追ひ出され、爾來じらい少くも二人の人はその室に在るといふ有樣になつたから、折角の寶物たからものを取り出す機會がない。其間彼の心事しんじたるや實に狂ふばかりであつたらうと思はれますね。併し漸く或晩好機會が來た。で、忍び込んだけれども、あいにく貴君が眼醒めざめなすつたからまた/\計畫が齟齬そごして了ふた。御記憶おおぼえぢやらうが、貴君はあの晩に限つて催眠藥を召上らなかつた。」
「覺えてゐます。」
「我輩の想像では、彼、その催眠藥を頼りにして、多分貴君が熟睡してられるだらうと思ふたらしいのが、まんまと失敗したのです勿論、我輩は彼が再擧さいきよを企てるに違ひないと睨んだから、そこで貴君にわざと倫敦へ去つて頂いて、室を空虚からにして誘ひをかけた。が、昨日晝間ひるまのうちに入られると都合が惡いゆゑ、晝間のうちは千嘉子さんに一歩もあの室を去らぬやうにして頂いて、夜を待つた。夜になつての冐險は既にお話した通り。一體我輩は條約文があの室にあるに違ひないと鑑定はつけたものゝ、さりとて板を殘らず剥がしたりなどして大騷動おゝさわぎを致すのは好まぬゆゑ、彼自身の手をりて、隱し塲所より自然に取り出させたわけで、これ即ち濡手であはの掴み取りですかな、まだ何ぞ合點のゆかぬところがお有りぢやらうか。」
「なぜまた窓から忍び込まうとしたんだらう。扉口とぐちから入らうと思へば入られるくせに。」
と予が訊ねた。
「扉口から正式に入るには、都合七つの寢室を通つて來ねばならぬ。それよりは庭から廻ればやす々たるものであるからさ。まだ何ぞお有りか。」
「貴君は彼に殺意がなかつたと御考へですか。おはなし[#ルビの「はなし」は底本では「おはなし」]の模樣では小刀ナイフは單に窓を明ける道具に使つたに過ぎないやうに思はれますが。」
と今度は栗瀬が訊ねた。
「そりやさうかも知れません。が、我輩は只一つかういふ事は斷言が出來る、それは與瀬春藏なるものゝ佛心ほとけこゝろに信頼するのは木につてうをを求むるやうなものであるといふ事である。」
 我が保村ほむら俊郎しゆんらう君は肩をそびやかしてかう言ふのであつた。


 不思議の鈴 終



 底本:「不思議の鈴」磯部甲陽堂
     大正四年六月十日 発行
 作者:三津木春影
 入力:神崎真

※底本の画像データは、国会図書館の近代デジタルライブラリーよりお借りしました。
■近代デジタルライブラリー - 不思議の鈴
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/905339


※誤字脱字が残っている可能性があります。また一部外字などを置き換えている部分があります。
※青空文庫の入力指針に基づき、片仮名の「ケ」のように見える文字の内、文章の流れから「こ」「か」「が」と読むと思われるものを「ヶ」で入力しています。
※底本は総ルビですが、一部省略しています。
※誤字等お気づきの点があれば、お知らせいただければ幸いです。




●表記について

「執/れんが」、U+24360    9-5、44-7、90-8
「口+斗」、U+544C    35-6、46-5


目次へ戻る