魔術師と強制力 ── one chance trigger 1  



 指定場所には、先に相手が着いていました。
「……遅かったわね」
「すみません……急いだのですが」
「ふぅん……姉ちゃんが無事に避難するのを確認して?」
「…………」
 青年は気まずそうに視線を落とします。
「……見てたんですか」
「まぁね。メイド、助けてくれたのもね。チャラにしといてあげる」
「……ありがとうございます」
 彼女はふっと笑い、すぐに、顔を引き締める。
「…………戻ったばかりなのに、悪いわね」
「いいえ。そのための、修行でしたから」
「……呼ばれた理由は分かってるわよね?」
「魔獣復活、ですよね。……にわかには、信じがたいのですが。まぁ、でも、この害虫の群れを見た後では、それもアリなのかと」
「魔術師殿も、そんな嘘はつかないでしょう。実際に、陛下も気味の悪い触手を見たって言うし。出てくるのよ……異界から」
「異界。異界の化け物。……そんなものを実際に見る機会が来るとは、思ってもみませんでしたよ」
「そうね。私も、思ってなかったわ。つい最近までね。でも……」
 彼女は目を細めて遠くを見ます。その先には、荊に囲まれた離宮があるはずで。
「……あの男が、来たから。良くも悪くも、彼は、相当な力を持つから。強い魔力は、それだけで、異界を引き寄せかねない」
 彼女の目は冷たい。泣きぼくろの色っぽい瞳は、冷ややかに冷静に、物事を計る。
「……さて。私たちは、私たちにしかできないことをするわよ」
「了解」
 歩き出すその姿は、真っ黒のスーツ。顔面の目から下を覆う黒いマスク。どこから見てもあやしい二人は、迷う様子もなく歩いてゆく。




 ぴりぴりと大気が震えるような感覚に、ロウウェンは手を止めました。視点を切り替えて見れば、雑多な魔力が不安定に漂っています。憎悪と怒りに満ちた咆吼が、建物の外にいるロウウェンの元まで聞こえてきます。
 ロウウェンは急ぎ作業を終えると、手にした棒っ切れを放りました。上着の内側から、細長い小瓶を取り出します。ちらりと見えた上着の内部には、筒状の小瓶が丁度収まるポケットがずらりと並び、それらにびっしりと瓶が収まっています。瓶に収まっているものは、やたらとカラフル。粉状だったり、液体状だったり、小さな貝殻のような粒も見えます。何に使うものか、一般人には判別不能です。
 ぞわり。
 唐突に、悪寒が走りました。来た、と、本能が告げます。
 見れば、荊の離宮が震えています。輪郭がぼやけて見えるほどの速い周期です。ロウウェンはそちらを睨み据えながら、瓶の栓を指で押し上げます。コルク栓が抜け、地面に描かれた魔法陣に灰色の砂のようなものがふりかかります。
 下から、激しく突き上げる、衝撃。二度、三度。ロウウェンはタクトを取り出し、魔力を絡めて方向性を与えてゆく。
 チカラの波動が広がる。それは、先触れ。ロウウェンはトリガーを引き、完成した魔法を自分の眼前に展開する。そして、内部から破壊される離宮。飛来する大小の破片がロウウェンの目の前で見えない盾に弾かれる。
 ぎぎょぅぅぅるるるるぁぁぁぁあああ!
 不快感の塊のような、咆吼。
 一瞬にして、辺りの風景は一変していました。
 昏く、閉塞感で息が詰まりそうだった離宮は、2階から上を全て失い、かろうじて残った1階部分の壁も、残骸としか呼びようのない有様。周囲の荊も吹き飛ばされ、残ったものも瓦礫が突き刺さり、原形を留めていない。すさまじい破壊痕に、太陽が濃い影を落としている。
 ぺたり
 壁の残骸に、白い触手が、張り付く。力を込めると壁は崩れてしまう。瓦礫と共に触手は向こう側へ消える。しかし、すでに別の触手が別の壁に張り付いている。ぺたぺたと。その数は一つ二つと増え、やがてそれらは一斉に力を込め、下から……地下から、何かが、飛び出してくる。
 羽のない白い蛾。
 それが、魔獣の第一印象。芋虫と言わないのは、細長い足があるから。それから、芋虫のような身体に、頭部が乗っかっているから。頭部は、毛のない鼠……の、ようにも、見える。ただ、鼻と思しきものはなく、鳥の嘴のように、口が、飛び出している。
 名もなき魔獣。身体の節々からうねうねと触手が生えている、そのおぞましさ。
「…………滅しとけよ」
 ぼそりとつぶやく愚痴は、遙か過去の人間へ向けたもの。



 歴史書。
 特に大層な名があるわけでもないその記録は、何のひねりもなく、そう呼ばれている。
 コーリンの前身、ファンロウよりさらに先の時代。ふと、誰か知識人の手により書かれ始めた主要な出来事を記した記録書は、国が変わっても続けて記録された。誰の判断だったか分からないが、それは正解のようで、いまでは重要な書物になっている。書き終わることのない、歴史書。書き終わる時は、この地が、終わる時。
 その歴史書の300年前をひもとくと、魔獣の記述に行き当たる。ある日、突然、異界から化け物が現れた、と。
 曰く、
 それは人をとって喰らう。
 それは刃が通じない。
 それは、……おぞましき生き物。
 旅の魔術師により異界へ送り返されるまでの二日二晩、それは、町を破壊し、人を喰らい続けた。
 最悪の出来事。最悪の魔獣。
 異界は、開いてはならない。

「…………、発動」
 静かな宣言に、地上に降り立った魔獣の周囲で、いくつもの魔法陣が光を放つ。そこから伸びる細い光。その数、8。光は魔獣のあちこちに絡み、動きを封じ、地上に繋ぎ止める。怒りの咆吼と共に身をよじらせる魔獣。光の蔓は、切れない。
 魔獣は触手を振り回す。蔓に絡ませ引きちぎろうとしているようだ。そんな程度で切れるほどヤワな魔法は構築していないが、ダメージが蓄積していくのは確か。動きを封じたことに満足している暇はない。
 ロウウェンは魔獣を屠る魔法を紡ぐ。短期決戦にするつもりだ。トリガーを引けば、いくつものかまいたちが発生し、魔獣の身を切り裂く。…………
 はずだった。
「……嘘だろ……」
 ロウウェンがつぶやく。
 風の魔法は芋虫のような表面に、弾かれて逸れていった。切れたのは、触手の何本かだけ。切り落とされた触手はびちびちと撥ね、体液のようなものを周囲に振りまく。その末端もやがて沈黙し、元に戻ることはなかったけれど。
 魔法は有効。確かに、有効。ただ、惜しむらくは、
 本体には弾かれる。
 と、耳障りな鳴き声と共に、触手が振り下ろされた。ロウウェンは慌てて、後方へすっころぶように避けた。
 地面に叩き付けられた触手から、ぬめぬめとした液体が飛び散る。かざしたロウウェンの手にも数滴かかり、じゅうと、いやな音を立てた。
「…………!」
 叫ぶより、その場を離れる。触手は、何本もある。逃げつつ、トリガーを引く。伸び来る触手の鼻先で派手に爆発が起こる。
 もうもうたる煙に紛れて、ロウウェンは木立に隠れた。上がった息を整えつつ覗き見れば、魔獣は苛立ったように喚きながら、ムダに触手を振り回している。簡単な目くらましだったが、上手く見失ってくれたようだ。
 ずきりと痛む手を見れば、数カ所灼けただれている。強酸だろうか。
 しかし、魔獣の体液の飛び散った草木には、何の変化もない。人体、もしくは動物の身体のみを溶かす溶解液なのだろうか。手をかざして頭部をかばったのは、単なる嫌悪感からだ。そうでなければ、もしかしたら。
 怒りがふつふつと沸き上がる。たかだか虫のくせに、と。
 ロウウェンは再びタクトで魔力を紡ぐ。風と氷を織り込み、一撃に魔力を注ぐ。木立から出ると同時に、魔獣めがけてトリガーを引く。巨大な槍が発射される。反動によろめきつつ、すぐに別の木立へと逃げる。背後で、魔獣が叫ぶ。ちらりとそちらへ視線を向ければ、巨体にふさわしい、巨大な槍が突き刺さっている。見る間に槍は光と砕け、ダメージだけを残す。ある程度以上の魔法なら有効のようだ。
 ふと思いついてタクトを振る。戒めから逃れようとむやみに触手を振るっていた魔獣に向けてトリガーを引く。魔獣の眼前で発動。
 魔獣が身をよじる。しかし、その身に絡まる光は、身動きすら封じている。
 魔獣の頭部の周辺にのみ、濃霧が発生していた。魔獣は激しく頭を振っているようだが、そんなことで消えるほど、ロウウェンの魔法は甘くない。第一、あれは霧に見えるが、実際には幻影だ。白い霧のような幻影に過ぎない。だからこそ、風に吹かれてかき消えることはないし、そこから外れれば何の意味も成さない。魔獣が動きを封じられているからこそ、意味があるのだ。
「……少なくとも、目くらましをいちいち考える必要はなくなったな」
 でたらめに振り下ろされる触手を冷静に見ながら、ロウウェンは次の魔法を構築する。次は、炎と風。トリガーを引けば、薄赤い光の線がロウウェンを反動で弾き飛ばしつつ、魔獣へと襲いかかる。炎の槍は深々とその身体に突き刺さり、魔獣が苦しげに咆える。
 いけそうだと、ロウウェンは思った。300年前はどういう状況だったのか知る由もないが、少なくとも今、この状況は悪くない。
 予め出現することもその場所も分かっていて、仕掛けを施す時間もあった。前回は旅の魔術師とやらが登場することで魔獣を異界に戻すことができたようだが、今、ここには、魔術師たるロウウェンがいる。何より、
 …………魔獣は、蟲だけあって、頭は良くないようだ。と言うより、ものを考えると言ったことができるかどうかさえ、あやしい。
 なぜなら、先ほどから、魔獣はロウウェンが魔法を放った辺りを触手で叩きまくっているだけだからだ。いつまでもそんなところにいるわけないのだが、しつこくしつこく、叩いている。
 あきれるほど、頭が悪い。
 ここまで頭が悪いと、300年前の旅の魔術師とやらも、大したことなかったんじゃないかと思える。異界に送り返すだけで、滅することもできずに。
 巨大な風の鎌が魔獣を切り裂く。魔獣は苦しそうに身をよじり、それが飛来してきた方向に触手を叩き付ける。
 当然、ロウウェンは移動済だ。
 拘束魔法の時間切れにさえ注意すればいいのだから、むしろ楽な仕事だ。
 闇雲に触手を振り回す魔獣に、ロウウェンは次の魔法を構築し、
 ……激烈な、悪寒。
 ロウウェンはためらわなかった。構築途中の魔法が解けていくのも構わず、走り出す。木立の影にかがみ込み、辺りが一瞬、まぶしく輝いた。
 ……何かが後方で。
 振り向いたロウウェンの目に、輝く光が見えた。きらきらと、神々しいまでに美しい、白い光。唐突なことに、身動きもできずに、ただ、目を瞠る。
 やけに、長く感じられた。一瞬に過ぎなかったのだろうが、やけに、長く。
 光が消え、現実がそこに現れた。
 ……なくなっていた。
 光が通った後には、何もなかった。
 深くえぐれた地面は、きれいな切り口を見せ、砂利の一欠片もこぼれていない。同様に、木も、草も、光が通った箇所だけが、なくなっている。
 蒸発したのかも知れない。異空間にでも飲み込まれたのかも知れない。
 真偽の程はともかく、きれいに、なくなっている。
 だらりと、冷や汗が伝う。もし、逃げ遅れていたら。
 こんな記述は、歴史書にはなかった。
 ロウウェンは苛立ち、歴史書を綴ったであろう先人を罵る。とは言え、溶解液のことも触れてはいなかったし、歴史書は歴史を綴るのみで、細かい生態観察は些末に過ぎないのだろう。
 ロウウェンは魔獣を睨む。その光を発生させたらしい頭部は白い霧状の魔法に包まれ、こちらからも視認できない。それをどこから発射したのか、ロウウェンには、分からない。
「蟲の……分際で……」
 ロウウェンの怒りは頂点に達していた。




 黒服の二人が、礼拝堂から出てくる。青年の手には、女神の矢が握られている。青年が女神の矢に付けられた装飾の矢羽根をわしわしとむしる。
「よし。これでなんとか……」
 青年は矢を特製の弓にセットする。
 弓の分類に括ってはいるが、それの見た目は普通の弓とずいぶんと異なっている。台座の上に弓は横倒しに固定されており、レバーを引くことで弦を引き絞る。固定された弓は通常のものより遥かに強靱で、手で引き絞ることなど到底できない。矢はすでに引き絞られた状態で固定された弦にセットする。台座にあるトリガーを引けば、矢は通常の何倍もの初速を持って発射されることになる。
 しかし、矢羽根をなくしたことにより、飛距離は初速に対してあまり伸びない。ある一定距離までなら、威力も命中精度も通常の弓に勝るが、超長距離になると途端に役に立たなくなる。
 青年は固定式の弓を構える。狙うは、遙か先のバケモノ。
「どう、いけそう?」
 彼女の言葉に、青年は弓を降ろし、多分、と素っ気なく応えた。
「……これが、何の役に立つんですか?」
 青年の言葉は当然といえた。巨大な魔獣に対して、その矢はあまりにも小さい。
「役に立つかもしれない、といっただけのこと。実際には、宮廷魔術師様次第ね」
「もし、……上手くいかなかったら?」
 彼女は目を伏せ、ため息を吐く。
「……考えたくないわね」




 口の奥が白く光る。
 ロウウェンは構築途中の魔法をキャンセルし、猛スピードで別の魔法を構築する。見る間に、光は強くなる。
 魔獣の口から放たれる白い光。それは、超高速震動により対象を丸ごと蒸発させてしまうもののようだった。とんでもない隠し技に、有効な手段はいくつもない。避けるにしても、何にしても、発生を見極めないとどうしようもない。
 なので、目眩ましの幻影魔法は早々に消し去った。待ってましたとばかりに狙ってくるのには閉口するが、いつどこに向かって光を放つのか、分からないよりはずっといい。
 いっそ神々しいまでに輝く光のブレスが来る。ぎりぎりでトリガーを引かれたロウウェンの魔法は、盾となって光を阻む。ロウウェンの周囲、盾魔法が届かない場所のものが、光の中で消えていく。
 ぎしり。
 ロウウェンの魔法が、いやな音を立てた。
 魔法を維持するロウウェンに、想定以上の負荷がかかる。焦りの色がにじむ。
 魔獣の吐き出す光のブレスが切れた。ロウウェンは思わず息を吐き出し、盾は軽い音と共に砕ける。
 一息吐いている暇はなかった。
 触手が横薙ぎに来た。避けるにも、呪文詠唱するにも、間がなさ過ぎた。
 ロウウェンは全力で跳んだ。触手と反対方向へ。
 触手に叩かれ、木立の間を為す術も無く転がる。ぐるぐると天地が入れ替わり、木の幹にぶつかり、ようやく止まる。
 跳躍のおかげでダメージを減らせたはずだが、それが気休めにしか思えない。飛びそうになる意識を何とか繋ぎ止め、木の洞に半分埋もれるようにうずくまる。
 すぐ側に、触手が叩き付けられる。一瞬肝が冷えるが、魔獣は相変わらずでたらめに触手を振り回しているだけのようだ。
 ため息のように吐き出す。
 触手に叩かれ地面を転がったダメージに、ロウウェンはしばらく動けそうになかった。息もすっかり上がって、跳ね回る心臓が弾けそうで痛い。
 荒い息を吐きながら、ロウウェンは上着を開いて内側に目をやる。たくさん並んだ小瓶が幾つか割れている。全滅はしないまでも、半壊くらいしたのではと杞憂していたロウウェンは、ほっとため息を吐く。
 魔獣はロウウェンを見つけられず、イライラと触手を振り回している。
 どうしたものかと、ロウウェンは思案する。
 思ったよりずっと面倒な相手だ。できれば極大魔法で一気にカタを付けたい。それこそ、光のブレスなんてお話にならないほど、塵芥に。
 ほんの数日前の、アレクシアとの会話を思い出す。実用性の低い極大魔法を使うための魔力増幅薬。何のためと聞かれた。万が一のためと答えた。
 今がまさにその万が一の時なのだが。
 肝心の魔力増幅薬は未完成。今、この状態でやたらと時間のかかる魔法が使用できるだろうか。
 何かが、弾ける音がした。四散する魔力は、ロウウェンが構築したもの。その、欠片。
 今のはおそらく、魔獣を縛る光の一本が切れたのだろうと、ロウウェンは結論づけた。残り、7。いよいよ持って、時間がない。
 破壊力の大きい魔法を使おうと思ったら、やたらと長い呪文詠唱をするか、魔方陣の助けを借りるかしかない。呪文詠唱は、本当に長くて、唱えている間に全ての蔓が切れるだろうことが予想される。魔方陣は、効果を拡散させるなら術者を中心に描くのだが、効果を一点に集中させるなら、その対象を中心に据えねばならない。つまりこの場合は、魔獣を中心に超巨大な魔方陣を敷く必要がある。こそこそ隠れながらでは時間が掛かりすぎ、急げば無防備な姿をさらしてしまう。
 このまま、ちまちま削っていくしか手はないようだ。
 一つため息を落とし、身体の痛みに顔をしかめながら起き上がり、ロウウェンはそこに羽虫を見た。ぷよぷよした白っぽい身は蛾のようで、高速で振動する羽はトンボのものによく似ていた。
 軽い羽音を立ててホバリングするその虫と、ロウウェンはしばし見つめ合う。その羽虫が、絶叫とも言えそうな鳴き声、を
 ぎぃぇぇぇぇぇ!!
あげる、まで。
「……っ」
 ロウウェンは耳を塞いだ。脳に直接響くような、不快かつ甲高い音。きぃん、と耳の奥に残る。
 ロウウェンはタクトで虫を叩く。簡単に避けられる。風の魔力を捉まえ、虫にトリガーを引く。
 ぱじゅっ
 四散する、虫。しかし、
 ……ゎゎゎゎゎゎゎ……
 羽音が、近付く。複数の、いや、多くの、羽音。重なり合う、それ。
 ロウウェンは、見た。押し寄せる、羽虫の群れを。
「……っっ」
 広範囲にトリガーを引く。しかし、木々に阻まれ大半は虫に届かない。トリガーを引くタイミングを、完全に見誤った。本日二度目の虫の大群に、不覚にも焦ってしまったようだ。心中で舌打ちしながら、改めて魔力を構築し直し、
 と、影が掛かる。
 見上げたロウウェンは、魔獣の触手が頭上から迫っているのに気付いた。慌てて身を投げ出し、触手は虚しく地面をえぐる。
 ゎゎゎゎゎゎゎ……
 その間に、羽虫が肉薄してきた。構築途中の魔法を制御し直し、一瞬で、風を纏う。
 わわわわわわわわ
 羽虫がまとわりつく。視界が覆われる。盛んに何かを吐きかけているようだが、全て風に阻まれている。グロテスクなその様相は、黒い羽ね虫とは違った嫌悪感を催す。
 舌打ちし、新たに魔法を構築し始めたロウウェンを、衝撃が襲う。
 それは、横から来た。風の障壁があったはずだが、それをものともしない勢いで、魔獣の、触手が。
 触手は油断していたロウウェンを完全に捉えた。気付けばロウウェンは羽虫の群れを突き抜けて、地面に叩き付けられていた。何度も、何度も、バウンドしながら、転がる。何かにぶつかり、ようやく止まった。
 ……ゎゎゎゎゎゎゎ……
 羽虫が近付いているのは分かるが、ロウウェンは動けそうになかった。痛みにうめき、脇腹のあたりに手をやる。背中から脇にかけてざっくりと、服も皮膚も、裂けていた。変色した皮膚の下で、肋骨がイってるのが分かる。
 動けない。
 何とかタクトを執ろうとしたが、その手にない。少し離れた場所に落ちている。手を伸ばし、痛みに悲鳴が漏れる。
 羽虫が、来た。液体を、吐きかけられた。例の、植物には影響を及ぼさない、不可解溶解液。不愉快、の方がしっくり来るかも知れないが。
 とっさに頭をかばう。むき出しの手に降りかかる液体が、煙を上げる。
 皮膚が灼ける。ただれる。それでも、タクトを執らねば、ジリ貧どころではない。必死で、手を伸ばす。
 タクトに、手が、届く。
「……がっ」
 激痛。
 裂けた皮膚から、異臭が立つ。脇腹の傷が、灼けている。痛みが脳天を突き抜けていくようだ。
 虫が、溶液を吐きかける。傷口に、ふりかかる。痛みに、意識が、白濁してゆく。



「スウィングフライパンアタックSP!!」
 よく分からない技名に、ロウウェンの意識が再浮上する。ぼやけた視界に、虫の死骸がぽたぽたと落下するのが見える。
「ローリングアイアンハリケーンEX!」
 びしびしびしびし
 虫が、落下してくる。
 誰かが、そこにいる。自分の他にも、闘うものがいる。
 気力がわいた。意志の力で、身体の痛みをねじ伏せる。タクトを握り、漂う魔力を、捉える。
 なおもセンスのない技名を叫びながら虫を叩き潰すその手を取り、後方へ、引く。集まった羽虫に向けて、殺傷力などないに等しいけれど範囲の広い暴風を起こす。巻き込まれ、飛ばされる羽虫。
 全身を貫くような痛みに、倒れ込みそうになる。しかし、それは許されなかった。
 手を、強く引かれる。こちらの激痛などお構いなしに、引く。走る。転びそうになりながら、必死で付いていく。追ってくる羽虫から、ひたすら、逃げる。
 力強く握る、けれども細い手。小さな肩。躍動する力は、生命そのもの。
 そして、フライパン。
 ……フライパン?
 二人は、物置小屋に、飛び込んだ。庭師達の道具などが仕舞われている、小屋。敷地が広いので、物置小屋はあちこちにある。
 飛び込み、扉を閉め、小窓から外を見る。ずいぶん走ったからか、羽虫は付いてきていない。
 痛みと疲労で膝を着き、両手を着き。息をするだけで痛みが貫く。
「ロウウェン……大丈夫?」
 顔を上げれば、アレクシアがそこにいる。狙撃豆退治でも活躍した、いつかのフライパンを手にしている。
 思わず、笑いが漏れる。
「何で、フライパン」
 アレクシアが朱くなる。
「いや、だって、……意外と、使えるなって、その……ねぇ」
 ねぇと言われても。
 突っ込む言葉は、音にならなかった。代わりに苦しそうなうめきが漏れる。
 ロウウェン自身より、アレクシアの方が狼狽えていた。
「ロウウェン、血が……っ あ、ど、どうしよう、応急処置とか、どうやったら……!」
 無意味におろおろと辺りを見回すアレクシアを、手で制す。懐を探って透明な液体の詰まった小瓶──ヒビが入り、力を込めれば砕けそうになっている──を取り出し、差し出す。かけて、と言う言葉は、かろうじてアレクシアの耳に届いた。
「かけるの? 傷口に?」
 アレクシアは恐る恐るといった風に、液体をロウウェンの傷口に振りかけた。途端に傷口はぼこぼこと沸き立ち、白い煙が立ち上る。ロウウェンは声もなく、苦悶の表情で耐えている。
 やがて煙は消え、ロウウェンは冷や汗と共に荒い息を吐いている。為す術も無く、蒼白な顔でそれを見守っていたアレクシアは、大丈夫、と震える声を出す。
「今の、何? 何をしたの? まさか、毒!?」
 まさかの発言に、ロウウェンはすっこけそうになった。
「ってか、何で毒? この状況で、自分に毒かけることって、そうそうないから」
「いや、うん、そうなんだけど、……あれ? 何か、ちょっと、復活した?」
 ロウウェンはため息をついて座り直す。
「復活って言うか、まぁ……痛みが気にならなくなった」
「……どういうこと?」
「つまり、さっきかけてもらった魔法薬、あれは傷口を塞いでついでに痛覚を麻痺させてしまう、その場しのぎの魔法なんだよ」
 ん、と考え込むように眉根を寄せる。
「痛覚を麻痺……? それって、治ったわけじゃないってこと?」
「一瞬で怪我が治るような魔法が考案されればいいんだけど、今のところその兆候はないね」
 ロウウェンはもう一度ため息をつき、ところで、と口調を改めた。
「ところでアレクシア、さっき助けてもらったことには礼を言う。けれど、どうしてここにいるんだい? 退避命令が出ているはずだろう?」
 非難めいた口調に、アレクシアは気まずそうにうつむく。
「……出てた。一応、避難した」
「ほう。避難したのに、どうしてここにいるのかな?」
 冷たく咎める言葉に、アレクシアは口を尖らせる。
「だって…………なか……から」
 ぼそぼそとした言葉で聞き取れない。
「……んん、何て?」
 アレクシアはますます口を尖らせた。
「だから……っ」
「うん、」
「…………いなかったから」
「……何が?」
 アレクシアは顔を上げ、威勢よく、ロウウェンを睨む。その迫力に、ロウウェンも思わずたじろぐ。
「君が!」
「は?」
「君が! いなかったから!」
 怒鳴るように、ではなく、ほぼ、怒鳴っていた。
「スーシアまで避難して、めちゃめちゃ混乱してたけど、それでも、君の姿がなかったから! 探して、聞き回って、……ここに残ったって、聞いたから……!」
「………………」
 ロウウェン、反応できず。勢い、沈黙が降りる。
 アレクシアは視線を落とし、ついでに、声のトーンも落ちる。
「独りで、残ったって……聞いたから。Gの大群に大混乱で、それなのに魔獣復活、なんて……何だよ、それ。魔獣復活って、復活って、……意味わかんないよ」
 だんだん声はか細く、震えだし。
「魔獣って、前に聞いた話だよね? 300年前に現れて、えっと……コーリンより前の国を滅ぼしたって言う」
 ロウウェンは小さく、笑った。
「滅ぼしてないよ。相当な打撃は被ったけどね。滅ぼしちゃいない。そこまで、強大な相手じゃないよ、アレは。っていうか、蟲だし」
 実際は、蟲と括っていいものかどうか疑問が残るが。しかし、その点においてはアレクシアに異存はなさそうだった。
「いや確かに虫だったけど、十分気味悪いし、驚異だし、普通は対抗なんてできないよ。っていうか、君だって苦戦してたじゃないか、その、虫に」
 ロウウェンは決まり悪そうに視線を逸らす。
「ん〜……あ〜……まぁ、ね。あの蟲、いろいろと想定外の手段を持っていてね。いやぁ、あの、羽虫は参った。虫の大群は、もう勘弁して欲しいし、溶解液も、いちいち鬱陶しいったらないね」
「いや、じゃなくて、そうじゃなくて、その、だから……!」
「うん、心配してくれたんだよね。ありがとう」
「…………!」
 アレクシアは赤面した。への字口でうつむき、不機嫌そうに、まぁね、とつぶやく。ロウウェンは苦笑いとため息をこぼす。
「心配してくれるのはありがたいんだけどね。でも、何でそこで、ここまで来ちゃうかな」
「……文句あるの?」
 いかにも不満そうな顔に、ロウウェンは肩をすくめるしかない。
「そりゃ、あるさ。君を危険な目に遭わせるのは、本意じゃない。というか、むしろ、本末転倒」
「ほ、ほんまつ? その言葉、前にも聞いた。何のこと?」
「だからさ。……あ〜〜」
 ロウウェンは何やら視線を彷徨わせている。不審そうなアレクシアの視線に、少し慌てたように、とにかく、と結論を急いだ。
「……とにかく。後は僕が何とかするから、君はスーシアに帰りなさい。分かった?」
「分かんない」
「即答? いやだって、……こう言っちゃ何だけど、君がいたところで、戦力にはならないから。守りに気を配らないといけない分、戦力ダウンになる。これは分かるよね?」
「まぁね」
「じゃあ、帰りなさいって意味も、分かるよね、当然」
「まぁね」
「じゃあ大人しく帰りなさい」
「いやだ」
「だから何で即答……」
 ロウウェンは頭を抱えてため息を吐きだす。
「言いたくはないけど、……邪魔」
「そう?」
「そうなの。確かに、さっきは助けられたけど、向こうの手の内が分かった以上、対処法も検討済み。だから、もう後れをとることはない。ほら、君のできること、ないだろ? そのフライパンで羽虫は退治できても、あの強烈な触手をはじき返すなんて、どう考えても無理だから。ね?」
「うん、そうかも」
「じゃぁ、いい子だから、避難しよ『やだ』」
 ロウウェンの言葉を最後まで聞かず、アレクシアはきっぱりと拒否する。アレクシア相手とは言え、さすがのロウウェンも、こめかみに青筋を浮かべている。震えているのは、怒りを抑えている証拠。
「……アレクシア。いい加減にしなさい。わがまま言わずに、避難する」
「いやだって、言ってるよね? そっちこそ、いい加減にしてくれる?」
 何故か一歩も引かないアレクシアと、にらみ合う形になる。
 先に動いたのはロウウェンだった。怒りと共にため息を吐き出す。
「……聞かせてくれるかな。何で、そんなに避難することを嫌がる訳? ここにいて、足手まといになりたいのかな?」
「そんなわけないよ。ボクがいようといまいと、君は君のすべきことをすればいい。ボクはボクでできることをするから」
 不遜とも取れる言葉に、ロウウェンは、自分でも知らぬうちに小馬鹿にするような表情を取っていた。
「できること? 何言ってるの? さっきも言ったけど、君にできることはない。あの魔獣を倒せるとしたら、魔法以外にあり得ない」
「知ってる」
「だったら」
 真っ直ぐ見上げる瞳に、たじろぐ。続けようとした言葉は、形にならなかった。
 アレクシアは僅かに首を傾げる。
「分からない?」
「……何を?」
「時間を稼ぐんだよ。注意を引きつけるんだよ。君が魔法を完成させる間」
「…………はぁ?」
 思ってもみない理由に、口が開いたまま閉じようとしない。何の冗談かとも思ったが、アレクシアの顔は真剣そのもので、譲歩の余地もなさそうだ。
 ようやくロウウェンは口を閉じた。えっと、と言ったきり、後に言葉が続かない。
「特大の魔法って、呪文詠唱が半端ないって、言ってたよね」
 アレクシアが口を開く。呪文詠唱が半端ない。確かに、言った。だから実戦向きじゃない、と。あれは、魔力増幅薬の失敗作が見つかった時だ。
「その時言ってた、実戦向きじゃないって、魔法発動まで時間が掛かりすぎるって言うのと、後、……呪文詠唱中が無防備になるから、じゃない?」
 その通り。
 タクトを振るだけで、呪文を唱えるだけで、魔法を構築できるわけではない。そこにこそ、特異な才能が必要となる。例えば、魔力を見る。例えば、それを捉える。非日常の動作は、意識しないとできるものではない。呼吸をするように無意識下で、と言うわけにはいかない。扱うものが大きくなれば、何かの片手間で済ますことは難しくなる。
「……だから?」
 ロウウェンの声はささやきに近かった。
 アレクシアが、何を言いたいのか、理解した。だから、聞きたくない。言わせたら、いけない。
「……それは問題じゃない。魔獣の攻撃範囲外で、呪文詠唱すればいいだけの話だ。それ、だけの」
「そうだね。でもさ、それができるなら、とっくにやってるよね?」
 アレクシアの推測は鋭い。それは、きちんとロウウェンを見て、言葉を聞いている証拠。
 言わせては、いけない。
「……できないんでしょ? 魔獣の攻撃範囲外は、自分にとっても攻撃範囲外。例え遠く離れて魔法を構築したとしても、完成した魔法を維持したまま目標に近付かないといけない。……前に、強い魔法をコントロールするのにも魔力が必要って言ってたよね。それってさ、言い換えれば、集中しなくちゃいけないって、ことじゃない?」
 いけない。
「僕なら、可能だ」
 ロウウェンは言い切った。
「僕を見くびらないで欲しいね。僕は、天才だよ。知らなかった? 不可能とされてきたことを、今までいくつも可能にしてきた。僕の実力からすれば、コーリンなんて小国に留まる必要もない。それこそ、大陸に出れば引く手数多だ。その、僕が……!」
「できないんでしょ?」
 アレクシアの言葉が、冷たく突き刺さる。
「……さっきも言ったけど、ロウウェン、君だったら、最も効率のいい方法をとる。誰かにとってじゃなくて、君自身にとって。それなのに魔獣の攻撃範囲内で、わざわざ身を危険にさらしてたんだ、それはつまり……できないから、だよね」
 言葉もない。
 それでも、聞きたくない。
「ボクが魔獣を引きつける。ボクが、……囮になる」

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