死ニ至ル病 ── 緊急事態 emergency 2  




 ……寒い。
 さっきから、四肢の痙攣が止まらない。そのくせ筋肉は弛緩しきっていて、だらしなく開いた唇から、ひっきりなしに涎がこぼれてゆく。当然、下半身も弛緩しているので、尿が、小さな池を作っている。こんな状態でも身体は尿を作り続けているようで、時折、ぱたぱたと、溢れた液体がイスからこぼれ落ちる。
 バッドトリップなら経験済みだった。ひどい焦燥感と得体の知れない恐怖とにとりつかれた。最近は、その回数が増えていた。今考えれば、止め時だったかも知れない。しかし、……あの快感を、もう一度、味わいたかった。量を、通常の3倍にも増やした結果が、これだ。トリップどころか、身体が自由に動かない分、逆に意識は冴え渡っている。
 寒い。
 心臓の動きがおかしい。さっきまではやけに大きく動いていたのに、今じゃ不規則に弱々しく、今にも止まりそうだ。
 寒い。
 体温調節が出来ない。意識と身体とのつながりが完全に切れている。急激な体温の低下に頭が警告じみた命令を下しても、それは届かない。
 寒い……!
 ゆっくりと、手足の先から命のぬくもりが消えていくのが分かる。だんだんと、感覚もなくなっていく。心臓すらも、冷たく感じる。
 ……寒い。なんて、……寒いんだ……

「レイシン!」
 鋭い声に、レイシンは我に返る。大量の冷や汗と、荒い息を吐きながら、心臓に手をやる。……動いている。
「しっかりしろ、生きてるか!?」
「……生きてます」
 手にした短剣で、貌を持つ煙を斬る。
「よくやった! ど派手なの行くぞ!」
 ロウウェンが高らかにトリガーを引く。きらめく星がいくつも飛び出したかと思えば、星は真っ赤な光を辺りに撒き散らす。折り重なる、悲鳴。悲鳴のような、断末魔。
 赤光が消えれば、煙が一掃されている。目の前にいるヒトガタが一体だけ残された。
  おのれ おのれ! 何故だ!? 何故、何度も何度も死を体験しているのに、死なない!?
 ふっ、と、ロウウェンが嗤うように、呆れるように、息を吐き出す。
「それは僕も同意見だ。レイシン、君、よく生きてるな」
「……」
 レイシンは何やら微妙な表情をする。
「まぁ…………体質です」
「体質!? ……省いたな? 説明、おもいっきり省いたな!?」
「そりゃ、省きますよ、こんな状況じゃ」
「そうか。なら、とっとと終わらせないとな」
 言いながら、ロウウェンのトリガーは光球を生み出し、ヒトガタを貫く。また少し、小さくなるヒトガタ。
  畜生! 畜生! こんなはずじゃ……!
 レイシンは大きく息を吐く。
「厄介なのは、あの煙だけですね」
「そうだな。また呼ばれたら面倒だ、本ボシの術者の情報はあきらめよう。消し去るぞ」
 タクトが、魔力を紡ぐ。それに、ロウウェンの詠唱が重なる。ヒトガタが飽きもせず水の槍を飛ばしてくるが、レイシンに軽くあしらわれてしまう。
「……君の境遇には同情の余地もなくはないが、状況がそれを許さない。だからここで、……消えろ」
 歪む顔に、トリガーを引く。生み出された無慈悲なそれは、黒い、巨大な獣の顎のようにも見える。それが、牙を剥き、ヒトガタを呑み込もうと、
  来た! ようやく来たか!
 水路に、人影。



 かつん……
 足音。
 ひゅっ
 飛来する、石。
 ぼひゅっ
 霧散する、黒い獣。
 ……それは、瞬く間の出来事だった。
 ロウウェンの作り出した魔法が、石が当たっただけで、散った。魔力の構成を、破壊された。ただの石に、そんなことが出来るわけがない。ならば、
 嗤う、ヒトガタ。
  来た! ようやく、来たか!
 愕然として、ロウウェンは振り向く。
 ……水路の入り口に、人影があった。ゆっくりと、二人から距離をとりつつ、地下湖へと歩を進める。
 白い、ローブ。赤みがかった、金髪。翠の瞳。蒼ざめた顔に浮かぶ、血の色をした痣……呪いのアキツ語。
「……アレクシア!」
 ロウウェンが叫ぶ。
「どうして、ここに……!?」
 その言葉に、全てが集約されていた。
 何故ここにアレクシアがいる。何故ここにいるのがアレクシアなのか。
 その答えは、明白だった。
「……祟り神……!」
 レイシンの言葉に、ロウウェンが殺気立ち、ヒトガタが嗤う。
  祟り神か! 実に言い呼び名だ! それに、ふさわしい!
 ヒトガタが嗤う。嗤う。最初と比べて、実に半分以下になってしまった容れ物で、嗤う。嗤う。
  さぁ! お前のチカラを、見せつけてやれ!
 アレクシアの能力は一般人と変わりないが、祟り神としての能力は未知数。先ほど、ロウウェンの魔術を破った方法も、分からない。レイシンは迷いなく短剣を構える。対してロウウェンは、……迷っている。混乱していると言った方がいいかもしれない。
 アレクシアの無表情な瞳が、二人を捉える。ゆっくりと手が上がり、指、差す。
「ぅ……ぅああああああああ!」
 チカラ。
 それが何なのか、分からない。ただ、純粋なるチカラが、襲いかかる。雹混じりの吹雪に晒されているような、痛み。実際には、何もない。けれど、確かに、全身を……身体を貫くチカラを、感じる。
 絶え間ない痛みに、気が遠くなる……
 ……ふっ、と、プレッシャーが切れる。閉じていた目を開ければ、レイシンが前に立っている。例の、短剣を手にして。
 プレッシャーが途切れたのはほんの一瞬だった。再び襲い来る、チカラ。
「……ロウウェン様!」
 レイシンが斬る。短剣で、チカラを、断ち斬る。次々に、斬る。絶え間なく押し寄せるチカラを。
「惚けてないで、何とかしてください!」
「何とかって……何を!」
「何って……彼を、ですよ! 決まってんでしょ!」
「相手はアレクシアだぞ!」
「だから何ですか!? このままじゃ、自分たちが殺られるだけですよ!」
 アレクシアが、こちらを指していた指を、すい、と、水平になぞる。
「……?」
 束の間、降り注ぐチカラが消える。しかしすぐに、
「……!!」
 横合いから来た。堪らず、吹っ飛ばされる。地べたに這いつくばった二人に、容赦ないチカラが間断なく降り注ぐ。
「……いわんこっちゃない!」
「ぅぅるさいっ さっきの、もう一回だ!」
「気軽に言わないでくださいっ」
 文句を言いながらも、レイシンはまたもアレクシアの放つチカラを斬った。押し寄せるチカラの波を、次々と、斬る。
「待ってろアレクシア、今、元を絶つ!」
 ヒトガタを睨み据え、素早く魔力を構築する。見る影もなく小さくなったヒトガタは、ひぃっと、情けない悲鳴を上げる。
 アレクシアが、走った。自らのチカラを追いかけるように。見えないチカラの対応に追われるレイシンは舌打ちし、来るであろう次なる攻撃に備える。
 アレクシアは、素早く、レイシンの脇を抜けた。虚を突かれたレイシンは、何も出来ずにただ振り返る。
 ロウウェンは構築した魔力をヒトガタに向ける。
「……これで、」
 終わりだと続けようとした言葉は、出てこなかった。目の前、ヒトガタと自分との間に割って入ったアレクシアに、思考を奪われる。
 どぐっ
 アレクシアの拳が、鳩尾にたたき込まれた。ご丁寧に、チカラを上乗せしている。内臓のどれかが、ひしゃげた音を立てる。一拍遅れて、逆流してきた何かが辺りに飛び散った。
「……。」
 アレクシアが、その場を飛び退く。飛び込んできたレイシンの短剣が、はためくローブを捉え、切り裂く。アレクシアがローブを解放する。一気に広がりレイシンの視界を覆い尽くす。レイシンは舌打ち一つ、軽く、退がる。そこに、
「ぅぉっ」
 膝の裏を蹴られ、一瞬、バランスを崩す。
「何するんですか!?」
「それは、こっちの……っ」
 振り返れば、ロウウェンは苦痛に顔を歪めている。
「アレクシアに、手を出すな……!」
「……な!?」
 レイシンは唖然とするも、すぐにその瞳は烈火の如き怒りを宿す。
「ふざけてるんですか!?」
「そんな訳がっ」
「自分は! 祟り神なんて訳の分からないものに殺されるのは真っ平です!」
 再び襲い来るチカラの波を、斬る。
「僕もそれは同じだが、それ以上に、アレクシアを助けないと意味がないんだ!」
「馬鹿ですか!?」
「何とでも!」
 ようやく、ロウウェンがタクトを取り、そのトリガーを引く。レイシンにかかっていたプレッシャーが、嘘のように消える。
 チカラを斬り続けたレイシンは、さすがに肩で息をしていた。シールドのようなものを張り続けているらしいロウウェンを振り向く。
「……じゃぁどうするつもりですか? 呪いを解く方法があるのですか!?」
「うるさい! とりあえず、あの水のヒトガタを消す! 核を担うものが消えれば……!」
 完全に傍観者になっていたヒトガタが慌てふためく。
  おい! 何をしている! 早く、そんなヤツら、一ひねりにしてしまえ!
 ふっと、アレクシアの視線がヒトガタを捉える。無表情な瞳に、僅か、嫌悪のようなものがよぎる。
 唐突に、ロウウェン達に降りかかっていたチカラが、止んだ。アレクシアが、ヒトガタを、指差す。
  な……何を!?
 焦るヒトガタ。アレクシアは無表情に、無慈悲に、チカラを注ぐ。
 悲鳴。ヒトガタの、悲鳴。最期の、絶叫。
 降り注ぐチカラに、ヒトガタは白っぽく固まり、ひび割れ、ベリベリと剥がれ落ちていく。荒れ狂う波の中に、吹き散らされていく。
 やがて、ヒトガタが消滅した。
 ロウウェンとレイシンは、それを唖然としてみていた。唖然として、そして僅かな期待を持って。
 あのヒトガタがこの魔方陣の核なら、それが消滅した今、──
 アレクシアの顔が、ゆっくりとこちらに向く。虚ろに、無表情な、血の痣も鮮やかな、その顔。
 冷たい汗が、流れる。
「……ロウウェン様……」
 レイシンがささやく。
「……呪い、解除できそうですか?」
 無言でタクトを握りしめる。




 患者の顔を覗き込んでいた看護師が、弾けるように、顔を上げた。
「……自発呼吸、戻りました!」
「よっしゃ、血圧も安定したし、とりあえず一山越えた!」
 ヤンの言葉に、部屋には何とも言えない歓喜が広がる。
「すまんけど、まだまだ患者はおるで。魔術師殿の薬は、まだあるな?」
 乱暴に開かれた箱の中には、目にも鮮やかな情熱的ブルーのポーションが並んでいる。人の治癒力と免疫力を大幅に高める魔法と、滋養強壮薬とを合わせた病人用特製ポーションらしいが。その様相は、こんな切羽詰まった状況でなければ、手軽に使ってみようなどと思うはずもない。
「それ、2、3コ残して、重篤患者に飲ませて回ってくれ。子供にはちょっとづつ、様子見ながら与えてくれよ」
「はい、……あの、」
 ヤンが顔を上げると、不安げな看護師達の顔が並んでいる。
「……何や」
「……先生達は、まだ、こちらに……?」
 罹患者は他にもたくさんいる。重篤者とは言え、一人の患者に優秀な医師が二人付けば、他に、手が回らない。
「この患者は……っ」
 言いかけて、怪訝な看護師達の顔に、ヤンは言葉を呑み込む。祟り神の話は出来ない。この騒動が呪いだと、今は知らせるべきではない。ましてや、この患者の命が尽きれば、ほぼ間違いなく、行方をくらませたあの異邦人が呪いの代弁者になるなど。知られるわけにはいかない。パニックは、容易く伝染する。
「……私が行きますよ、ヤン先生」
 ジョシュアが言う。
「大丈夫です。これ以上、……誰一人、殺させやしない」
 決意のまなざしに、ヤンは頷く。
「お願いします。こっちは、何とかします」
「はい、お任せします。……さぁ、ポーションを手分けして持って……行きましょう、患者が待ってます」
 ジョシュアを先頭に、看護師達が他の患者の元へ散っていく。最後の看護師が扉を閉めた後、ヤンは盛大なため息をつく。
「……魔術師殿、レイシン……頼むで……頼むから、……終わらしてくれ……」
 目の前の患者は、小康状態を保っている。しかし全身に現れたアキツ語は、朱く、脈打っている。呪いが、今にも吹き出そうとしているように、見える。
「少年……自分らに出来るんは、患者を死なせんようにすることだけや。後は、……祟り神に成るかどうかは、お前次第や。せやから……」
 ヤンは大きな両手を組む。命を救うために傷だらけになった両手を組む。そして、祈る。
「…………負けるな」
 何に、祈る。




 アレクシアの指が、こちらを指す。間髪を容れず、ロウウェンの防御魔法が発動する。強烈なチカラがロウウェンの魔法とぶつかり、パシパシと白い火花が散る。
「もう無理ですよ!」
 非難めいた言葉に、ロウウェンはレイシンを睨む。殺気の込もった視線にも、レイシンは動じない。
「このままじゃジリ貧です! 殺るなら今しかない!」
「却下だ!」
 にべもない。レイシンの眉が、不快に跳ね上がる。
「打つ手、ないでしょう!? 魔方陣の核らしきヒトガタも消えたのに、呪いが解ける様子はない! 後は何が出来ますか!? 水の中にある魔方陣壊してみますか? それで解けなかったら? それでもまだ彼に執着するんですか!」
「する!」
 驚くほど短い即答に、レイシンから思わず舌打ちが洩れた。
「……分かってるんですか!? こんな防戦一方……破綻しないわけないです! ここで自分たちが殺られるようなことになったら、本当に、祟り神降臨、ですよ!」
「そうだな!」
「そうだなって……! アレが地上に上がったら町がどんなことになるか! それ以前に、自分は死にたくありませんけどね!」
「君はっ」
 ロウウェンの顔が苦しげに歪む。
「祟り神と聞いて、どんなことが起こると予想した?」
「……は? いや、今、そんなこと……!」
「いいから!」
 止むことのないチカラを防ぎ続けるのは、相当な負担を強いられるようで、魔術師の額には汗が噴き出ている。苦しそうな息の下、切羽詰まったような声に、レイシンは言いかけた言葉を飲む。
「……争い。……互いに、憎しみあって、争って。果ては殺し合って。そんなことを」
「奇遇だな、僕も同じようなことを考えた」
「でも、それが……」
「悪いが魔法が切れる。フォロー頼むっ」
 途端に押し寄せるチカラの波を、レイシンは手にした短剣で斬る。チカラは目に見えないが、何となく、異質なものとして感じられる。
 一旦退がったロウウェンは、再び魔力を紡ぐ。タクトを構え、トリガーを引けば、見えぬチカラが見えぬ壁に阻まれる。
 一歩、ロウウェンが前進する。
「今のアレクシアを、どう思う? 本当に、考えていた祟り神だと思うか?」
「え……? いや、……それは、」
 また、一歩。
「違うよな。確かに、祟り神なんてこっちが勝手にそう考えただけで、実際何が生まれるかなんて分かりはしない。けれど、」
 また、一歩。プレッシャーに耐えつつ進める歩みは、想像以上に、重い。
「今のアレクシアは、絶対に、……祟り神じゃない。この呪いが生み出す最終的な何かじゃ、ない。断言できる」
 一歩進もうとして、逆に押し戻される。その背を、レイシンが支える。
「理由を、教えてもらえますか。出来れば、簡潔に」
「注文するな。簡単なことだ、この……よく分からんチカラは、確かに一般人に対抗しようもない。しかし、少なくとも、アレクシアの背中は、がら空きだ」
「た、……確かに」
 レイシンに支えられるまま、ロウウェンはじりじりと進む。アレクシアへと。
「全方向から矢で一斉掃射。若しくは、犠牲を覚悟で一斉に斬りかかる。多分それで、……カタが付く」
「……」
「簡単なものだ。逆に、ここまで手間暇かけてやることじゃない。つまり、」
 ロウウェンの背を支える手に、力がこもる。
「まだ、……まだ、祟り神になっていない」
「そうだ。これは多分、呪いが不完全なカタチで発動したに過ぎない。あの先生達が贄の候補者をむざむざ死なすわけがないし、何より、アレクシアが、」
 ロウウェンの目に映るアレクシアは、どこまでも、無表情。ガラスのような瞳に、世界は本当に映っているのか。
「……アレクシアは、それを望まないし、それに屈しない」
 背中で、レイシンがため息をついた。
「……何か手はあるんですか? 呪いが不完全だとしても、それだけで事態が好転とはいきませんよ」
「分かってる。だから、こうして、アレクシアに近付いているんじゃないか」
 もう少し。後もう少しで、手が届く。
「近付いて、そして?」
「呼びかける」
「呼び……!?」
 レイシンは思わず絶句する。
「よ、…………呼びかけって、また、……随分古典的ですね」
「古典を馬鹿にするな。侮れないからこその、古典だ。まずは呼びかけて、他はその後だ」
 じわりと、近付く。手を伸ばせば、アレクシアの指先に届くだろう。
「……アレクシア!」
 呼び、かける。
「アレクシア! 聞こえてるんだろう!? 君を、助けたいんだ!」
 アレクシアに反応はない。
 ロウウェンは足場を探り、チカラに押し負けないように前傾姿勢になる。
「レイシン」
 ぼそりと呼びかける声は随分低い。
「僕がアレクシアの気を引いておく。君は湖の魔方陣を壊してくれ」
「了解」
 答えるレイシンの声も、低い。
「アレクシア! 君は、化け物になりたくないと言った! 誘惑する声に抵抗すると! もっと! もっともがいてくれ! 足掻いてくれ! 僕は、……僕は、君が好きなんだ!」
 ロウウェンの声を合図に、レイシンは素早く湖へ駆けた。最初に見た、浅瀬に突き刺さった場違いな枝。あれが魔方陣の一角に間違いない。
 レイシンは水に足を取られながらも、枝に駆け寄り、引っこ抜く。
 あるいは、これで。淡い期待。
 ロウウェンとレイシンの視線が交差する。互いに、一縷の希望を持ち、しかしすぐに失望に変わる。アレクシアは、まだ正気に戻っていない。
 レイシンが枝をへし折り投げ捨てた。湖の、もっと深いところへザブザブと進んでいく。
「レイシン、待て!」
「もう一つ枝を引っこ抜いてみますよ! それでダメなら、他の……」
 レイシンの言葉が止まる。足も、止まる。
 彼の目の前には、手が、あった。水面から伸びる手。白くて、細くて、およそ骨が存在するとは思えない、それでも見た目は人の手によく似ている。
 呆気にとられたレイシンだったが、それが自分の方へ迫ってきたことで、我に返った。ためらいなく、斬る。
 手は一本では済まなかった。次々に生えてきた。次々に、縋るように押し寄せる。レイシンは手を斬りつつ、後退する。
 その足が、がくりと止まる。レイシンの背後からも手のようなものは生えていて、それがレイシンの足を絡めている。腰にしがみついている。腕にも。すでに全身に、巻き付かれている。
「っあ……がっっ」
 死を追体験しながらも平然としていたレイシンが、手のようなものに絡みつかれているだけで、震えていた。傍目にも分かるほど、がたがたと、震えている。
「……レイシン! どうした!?」
「……! ……!」
 何か言おうとしていることだけは分かる。それが、言葉にならない。そもそも、痙攣しているように震える以外、出来ていない。
 ロウウェンはがくりと膝を着いた。尽きないチカラのプレッシャーに、支える身体が悲鳴を上げている。
 もう、打つ手はないのか。考えることすら、困難なこの状況。
 見開かれたレイシンの瞳から、徐々に意思の光が消えていく。ロウウェンの魔力障壁がぎしぎしと音を立てている。
「ア……アレクシア……!」
 ロウウェンは必死で叫ぶ。
「君が、なりたくないと言った祟り神になるのなら、僕は、この町を道連れに君と心中したっていい! でも! 僕は、君に、生きて欲しい! だからアレクシア! 頼むから…………僕の声を、……聴けーーー!!」
 魔法が、弾けた。チカラに、破壊された。衝撃にひっくり返る。見上げる先で、アレクシアの視線はレイシンに向いている。その右手が、鋭く手刀を切る。チカラが大鎌のように疾っていく。
 それがもたらす結末を見届ける暇はない。ロウウェンは胸ぐらを掴まれ、引き寄せられていた。




 痙攣。
「……来たか!」
 ヤンは跳ねるように痙攣する患者の身体を、力任せに押さえつける。傍らに置いていた注射器を手にするや、患者に突き立て、一気に流し込む。情熱的な蒼い薬を。
 患者に浮かぶ痣が、赤黒く脈打っている。彼に審判が下されようとしている。が。
「もう……死なせへんて決めたんや! 何が何でも……!」
 ヤンは患者の服を裂き、痣を、呪いのアキツ語を露わにした。
 皮膚の直ぐ下で、何かが蠢いている。拳の半分にも満たない、何か。脇腹の辺りから、身体の中心部へと、もぞもぞと移動している。
 全身に、鳥肌が立つ。
「な……何やこれ!?」
 蠢く。蠢く。脈打つ。脈打つ。
 それは悪だと。悪しきものだと。そう、確信するに十分な。
 怒りが、満ちた。医師の血が、沸点に達する。
「……呪いが、なめんなぁ!」
 吼える。メスに手を伸ばす。


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