死ニ至ル病 ── 緊急事態 emergency 1  




 ロウウェン、と、それは確かにそう言った。
「……おまえか」
 レイシンは思わすロウウェンの顔を見る。ロウウェンは不快そうに顔をしかめている。
「ロウウェン様、あれとお知り合いなのですか?」
「勝手に知り合いにするな。少し前の魔獣騒ぎを起こしたやつだ。……随分人間離れしてるから、多分、が付くがな」
 初夏、仮死状態で発見された中年男性。それによって引き起こされた、押し寄せる黒い虫と、異界から召還された蟲。どちらも、記憶に新しい。特に城に勤めるものにとって、黒い虫の波は、一生消えない忌まわしい記憶になっているに違いない。
「……確認しますが、魔獣を召還したときには、確かに、人間だったのですね?」
「そうだな」
「では、この状況は一体何がおきてこうなったと?」
 視線の先には、盛り上がった、水。水面に映る、顔。歪む、歪む。
 ロウウェンは短く息を吐き出す。
「……さぁな。あの男は、最期は自分で首を切り裂いて魔獣を召還した。挙げ句、その死体は魔獣に喰われてた。魔方陣の向こう側の出来事だ、その後何が起こったかなんて、知る由もない」
「魔方陣の向こう側と言うことは、異界ですか? なら、……化け物になってもおかしくない……と?」
 水が、ゴボゴボと沸き立った。水面に映る顔は益々崩れていく。
  オれ、ハ、……すべテうしなッタ……!
 怨嗟に満ちた、声。不明瞭で、どこから聞こえているのか、よく分からない。ざらりとした、不快さ。
  ならば、ミナ、……キエてしまエバいい……!
 湖が泡立ち、ぷかぷかと水泡が宙に浮かぶ。瞬く間にそれらは長く細い針と化し、
  キエろ!
 生身の二人に、襲いかかる。
「ぬるい」
 ロウウェンの持つタクトが、烈風を生み出す。針は全て飛沫となって吹き散らされる。
「……下らないな。スオーラが言ってたように、自分が失ったから消えればいい、自分のために世界が消えろ。そういった思考は、他人には受け入れられない。それが正当化されれば、そもそも世界は存在し得ない。おまえ独りの意見が、多人数の意見を圧倒するとか思うな。おまえは、小さな存在だ。……クソ、」
 ロウウェンの口元に浮かぶ、自嘲的な嗤い。
「……全く、小さな存在だ」
 ばしゃばしゃと、波打つ。目に見えぬ手が、苛立ち、水面を叩いているような。
  オレハ、おれハ、コんなていドじャナイ……こんナ……!
「消え失せろ」
 ロウウェンが素早くトリガーを引く。いくつもの風の鎌が不定型な水の塊を薙ぐ。苦しそうな、叫び。しかし、それは水だけに、いかほどのダメージを与えたのか、推し量ることも困難。
 それは、ロウウェンとて分かっている。
 ロウウェンは立て続けにトリガーを引く。風の鎌がいくつも発生し、ざくざくと刻む。その度に飛沫が散り、少しだけ、小さくなっていく。
 不定型なそれが、喚いている。何を言っているのかは分からない。ただ、喚き散らしている。
 風が止む。ロウウェンは冷ややかに見ている。ゴボゴボと泡立つ水は、二回りも小さくなっている。
「……無様だな」
 と、ロウウェン。
「使い捨てられて、命と引き替えに魔獣なんて呼び寄せて。挙げ句、これか」
 水が、震えている。怒りに震える顔が、ゆらゆらと歪む。
「何もかも、おまえの力不足が招いた結果だろう? まず、人質を取られた。言い換えれば、守れなかった。人質を奪還できなかった。考えなしに言いなりになった結果だ。誰にケンカを売って、どれだけの勝算があるのか、何故前もって考えなかった? 何故言いなりになる以外に方法を考察しなかった? 面倒だったからだ。違うか? 考えるのが面倒だった、隙を窺うのが面倒だった、反撃するのが面倒だった。そのツケが、今の状態だ。何とまあ、無様なことだ。ああ、手に取るように分かる!」
  ろうウうぇンン!
 それは叫び、直後、小さな火球がその表面で弾ける。
 真っ直ぐにタクトが向けられていた。タクトの先からは細く煙が上っている。タクトを構えるロウウェンの顔は、怒りのような、嫌悪のような、黒い黒い感情を映している。
「……おまえと一緒にするな、下衆。僕は……、僕は、違う」
  お……おオォぉおおオオ……!
 憤怒の声。それは湖面を波打たせ、震えながら形を変えた。うにうにと粘土のように腕が生え、頭が生え、顔が形作られる。色はない。透明な、水。ともすれば、氷像のようにも見える。氷像とは違い、それは、よく動く。
  ロウウェン!
 それははっきりとそう言った。相変わらず、どこからその音が聞こえているのかわからないが、先ほどまでの不明瞭さが、ない。はっきりと、憎しみを込めて。
  確かに、お前の言うとおり、これはオレが不甲斐なかったことの結果だ。だが! だからと言って! お前への憎しみが消えるわけじゃない! お前達への怒りが消えるわけじゃない!
 それは喚く。その間にも、ロウウェンの作り出す風の刃が水の塊を切り刻み、飛沫をあげる。
  お前がいなければ、オレがやり玉に挙げられることもなかったし、そもそも、スオーラが国王にならなければ、こんなごたごたも起こらなかったはずだ!
 水面から、水が槍のように飛び出してきた。ロウウェンの前に、レイシンがすいと立つ。
「止めろ、レイシン!」
 帯革の背後から抜いた短剣を構えるレイシンに、ロウウェンは制止をかける。しかしレイシンは、軽い気合いと共に、魔力で構成された水の槍を一振りで全て斬る。
 消滅する槍。呆気にとられるロウウェン。さらに怒り悪し様に罵るヒトガタ。
「レイシン? 何をした?」
「……斬りました」
「見りゃ分かる。何で斬っただけで魔法が消える?」
「それは……」
 またも、鋭い針のように水が飛び出してくる。レイシンが鮮やかに斬れば、構築された魔力は容易く解け、ただの水飛沫となって辺りに散る。
  お前!
 と、ヒトガタが叫ぶ。
  お前! 何者だ!?
 レイシンはひょいと肩をすくめる。
「アンタと違って、自分は人だ。ちょっと特殊な短剣を持ってるだけだ」
「特殊? ……例えば?」
「……興味は後回しでお願いします。魔力も断ち切ることが可能、とだけ」
「本当か!? すごいもの持ってるじゃないか!」
「ある程度、です。ロウウェン様、また来ますよ」
 今度は、小さな飛沫が矢の速度を持って飛んでくる。ロウウェンがタクトを一振りするだけで、風が起こり、飛沫を散らす。
「……こんなモノか」
 馬鹿にしきったような、失望したような、声。
「三流は、三流でしかないな。この呪いを仕掛けたやつのことを話せ。おまえの価値は、その程度でしかない」
  ……!!
 ヒトガタが、震える。怒りに、震える。この上ない侮辱に、震える。
  バカにするな……
 ヒトガタの背後で、何かが揺らめく。
  オレは、……オレの恨みは、こんな程度じゃ……!
 煙のようなものが、立ち上る。いくつも、そこかしこで。
「……貌?」
 レイシンがつぶやく。細い煙に、昏い空洞が見える。目のような空洞、口のような空洞。それから、小さな牙のようなもの。
「……思念ってやつかな」
 ロウウェンが油断なくタクトを構える。その先で、煙に浮かんだ貌のようなものが、嗤う。
「思念……何でそんなものが」
「知るか。人間の恨み辛みがどこへ行くのかなんて知らないし、けどまあ、考えられるのは、これらはそういった負の思念が集まる異界から出てきたか、この辺りに残留していたものが異界に触発されてカタチを持ったか、だ」
「じゃあアレは、一応、人なんですね?」
 レイシンの言葉に、ロウウェンはぴたりと止まった。
「……ロウウェン様? どうかしましたか?」
「ひょっとしたら、異界の住人というのは、ああいったものかも知れないな」
「どっちですか?」
「知らん。状況に大差ない」
 貌を持つ煙が、牙をむきだして飛来する。
「……ふっ」
 レイシンが煙を斬る。か細い、悲鳴のような音を立てて霧散していく。
「……アレに噛まれたら、やっぱり痛いですか?」
「だから、知らんと。試す気もないな」
 ロウウェンのトリガーで光の粒が出現。それらは正確に煙を射貫いていく。
 煙は次々に襲い来、ヒトガタは水の槍を飛ばしてくる。とは言え、戦い慣れしていない単調な攻撃は、さほど脅威ではない。レイシンはひらりひらりとかわしながら、魔力を断ち切っていく。むしろ脅威は、
「レイシン後ろだ!」
 ロウウェンの鋭い声と共に背後に生じる、悪寒のような気配。振り向き様に、確かめもせず剣を振り抜く。真っ二つに斬られ、気味の悪い悲鳴を上げながら消えゆく煙。見れば、すっかり周囲を囲まれている。
 むしろ脅威は、数の多さ。
 レイシンはロウウェンと背中合わせに立つ。
「……ちょっと、さすがに、まずくないですか?」
「ふむ……まとめて消滅させる。しばらく何とかしろ」
「なっ…………了解」
 レイシンは言いかけた言葉を呑み込み、煙を斬る。ロウウェンはすでに呪文詠唱に入っている。
 煙を斬る。水を斬る。後方に回り込む煙を追いかけ、斬る。
 振り向く。水の槍が複数来る。同時に、煙も来る。槍を斬る。煙と違い、氷のような手応え。想定外の抵抗力に、切っ先が鈍る。別方向から来る煙に、届かない。手を伸ばす。剣を持たない、左手を。煙がロウウェンに届く前に、握りつぶす。その途端、
 ……女を、感じた。
 耳元、すぐ側に、確かに女を、感じた。
 ──あり得ない。

 ……コロサレタノ

 ささやく、声。



 両手は、柱に縛り付けられていた。その状態で、犯されていた。容赦なく、打ち付けられる度に、みちみちと、どこかで何かが裂ける音がする。
 やめて、と。叫ぶ声は虚しく響く。すすり泣きは、男の歪んだ欲望をあおり立てる。
 首に手がかかる。いっそ優しげに、愛しげに、両手が女の首に掛かる。
 じわり。じわり。
 突き上げるごとに、徐々に、首が絞まる。優しく優しく、気道が潰れる。
 もがく両手はロープにこすれて血が滲む。それでも、自由にはならない。
 犯される。犯される。殺される。
 男が、こらえきれなくなったように、嗤い出す。濡れた音を立てて、気道が潰れた。
 ──追体験。

 辺りが白くフラッシュしたことで、レイシンは我に返った。顔を上げれば、集まっていた煙のほとんどが消えている。
「ロウウェン様……」
 どっと、冷や汗が流れる。
「あの煙、思った以上にヤバイですよ」
「は?」
「死者の記憶。……死に際を、追体験しました」
「……!?」
 ロウウェンの顔色が、変わる。初めて、焦りが見えた。
 ヒトガタが、嗤う。
  死ね! 死ね! 何度でも、死んでしまえ!
「ヤバイどころの話じゃないぞ」
「確かに、臨死体験はそう何度もしたいものじゃ……」
「そうじゃない。追体験でも、死は死だ。心が死ねば、身体も死ぬ」
 哄笑。
「……まさか」
「逆に、死を体験してなお平気な顔してる君がこの上なく不気味だよ」
 湖面から、またも煙が立ち上ってきた。その小さな一つ一つに、死が、詰まっている。
「まだまだたくさんいますね。どうしますか?」
「……こんなことになると分かっていれば、魔法薬の一つも持ってきたのに」
「あくまで、奇病だと思っていましたからね」
「やるしかないか」
 立て続けに引かれるトリガー。煙が霧散してゆく。
「なるべく遠距離で消し去る。君はすり抜けたものを逃すな」
「了解」
 レイシンはすでにすり抜け迫るものを斬り捨てていた。




「こないな、ことが…………」
 つぶやくヤンの顔面から、つつと、血が、伝い落ちる。
 全身、血にまみれている。顔半分は血で染まり、白衣も血のシミが未だに広がり続け、裾からはぽたぽたと血が滴る。
「……先生……」
 隣に立つ看護師が、震える声を絞り出す。彼女もまた、血まみれだった。
 ばたばたと足音が近付き、勢いよく扉が開かれる。
「ヤン先生!? 今の音は、何ですか!?」
 ヤンが虚ろに振り向けば、ジョシュアがぎょっと肩を震わせる。
「ど、どうしたんですか、一体!?」
 ヤンはうつむき、力なく首を振る。
「分かりません。……分からないんですわ。いきなり、爆発しよった……」
 ぽとりと、音を立てて天井から何かが落ちてきた。灰白色の、やわらかそうな、何か。ジョシュアは天井を見る。そして、絶句する。
 天井に、べったりと血が付いている。血に交じって、明らかに人体を構成する一部であったろう何かも、張り付いている。構成していたものを特定できないほどに粉々に。今まさに、潰れた眼球らしきものが、天井からずるりと剥がれ落ちようとしている。
「先生!? これは、一体!?」
「……だから! 分からんと! 言うとるでしょうが!!」
 悲鳴のようなヤンの叫び。ジョシュアは我に返ったように、扉を閉じる。鍵もかけ、誰も入ってこないように。
 つかつかと中央に近付き、震えっぱなしの看護師の手を取り、そっと、壁際まで待避させる。血の海に、背を向けさせて。
「ヤン先生。落ち着いてください。それは……例の、罹患者ですよね? 今朝意識不明になった」
「……」
「それが……爆発した? そう言いましたか?」
 ヤンは両手で顔を覆う。血溜まりのまっただ中、逃げるように。
「爆発以外に、……どう言い表せますか。いきなり、苦しみだして、腹とか、胸とか、頭とか、とにかく、身体中がふくれだして、それが、弾けるみたいにして、…………弾けたんですわ」
 弾けた。見事に、弾けた。粉々に。
「人体が弾ける? どうやったら、そんなこと……医学的に、あり得ない。それもこれも、呪いだからか?」
 壁を、殴る。荒事に向かないヤワな皮膚は、簡単に血が滲む。
「……まともな死体すら残らないなんて……!」
「大勢の命を、……呪いを、一手に引き受けて、平気でおられる人間なんかおらへん! その結果がこれか!」
 為す術無く。まともに死ぬことさえ出来ず。絶望的な無力感に、医師二人は身を震わせる。
『先生! ヤン先生!』
 鋭い声。乱暴に扉を叩く音。ただ事ではない。一気に現実に引き戻される。
「どないした!?」
 ヤンが怒鳴り返す。
『例の患者さんが、今、危篤状態になりました! 早く、来てください!』
 ヤンとジョシュアははっと顔を見合わす。最悪の事態が、想定された。
「分かった、すぐ行く!」
 言いながらヤンは白衣を脱ぎ、血で汚れていない部分で自身の顔や手を拭う。それから、震えっぱなしの看護師の元へ行き、乱暴に肩を掴む。
「おい! しっかりせぇ!」
 視点の定まらぬ瞳が、かろうじてヤンを捉える。
「ええか、このことは他言無用や。絶対に、悟られるな。それがでけんようなら、帰ってまえ!」
 厳しい言葉に、彼女の看護師としてのプライドに火が灯る。真っ正面から、ヤンを睨み返す。まるで怒りに燃える瞳に、ヤンの頬がほんの少し、緩む。
「よし、……血ぃ拭いて、あの異邦人の様子見てから来い。ええな?」
「……分かりました!」
 ヤンはジョシュアを振り返り、無言で頷き、部屋を飛び出した。
 例の、患者。つまり、身体中の痣が、血のような色に変化した患者。確認できているのは、3人。最初に確認された罹患者は、早朝に容態が悪化し、先ほど、……四散した。2人目の罹患者が、今また、危篤状態になっている。呪いは確実に、最後の一人を選別しようとしている。
 ヤンとジョシュアが部屋に飛び込めば、看護師達の縋るような目が迎える。
「脈は? 呼吸は?」
「どちらも、不安定です!」
「……っし、……心臓、止まりました!」
 看護師の悲鳴に、病室の空気も、一瞬で止まる。
『心臓マッサージ!』
 二人の医師が同時に叫ぶ。
「あかん! 何としても死なすな!」
「そうだ! ロウウェン様が何か薬を……誰か、誰か持ってきてくれ!」
 ばたばたと、近付く足音。
「先生──!」
 看護師が、飛び込んでくる。状況をさらに悪くする知らせと共に。
「あの少年、病室から消えました!!」
「──!?」
 言葉も、ない。


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