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 エアカーはある建物の前で止まった。
「氷室?」
「よお。ハル」
「久野医院」と書かれたガラス貼りのドアから飛び出てきたのは、その医院の 看護婦でもある久野の恋人、波留さくら、通称・ハルだった。
 やや色素が薄めで長く美しい髪をなびかせた美人だが、当の美人はまったく そんなことを気にせずに、氷室の姿を見るなり、怒鳴りつけた。
「まったく、どうなっているの?この前から久野君の様子はおかしいし、氷室 は連絡がつかないときてるし」
「…スマン」
 氷室はそう詫びる。
「聞き飽きた。説明も要らない。そのかわり、今度モロゾフでも持ってきなさ いよ」
 そう言ってハルはそっぽを向いた。
「はいはい」
 氷室は苦笑しながら答えた。後ろでその様子を見ていた有沢は、どう反応す べきか考えている様子だった。そんな有沢にハルが気付く。
「ところで、その子は?」
 そう氷室に訊いた。
「ああ、ちょっとな。ワケアリで」
 氷室はやや躊躇いがちに言った。
「……まさか誘拐してきたんじゃないでしょうね?」
 ハルはそんな氷室を睨んだ。
「ひでぇな」
 氷室はまた苦笑する。
「いや、診てもらいたかったんだが、久野はいないのか?」
 ハルの表情が歪んだのを二人は見逃さなかった。だがハルはそれをすぐに取 り繕って何事もなかったように振る舞う。
「いるわよ。待ってて」
 明るくそう言い、くるりと背を向けるハル。そんな様子に氷室は有沢を振り 返った。有沢はそれに頷く。それを見て氷室はハルを追った。
 診察室へ入ったハルの肩を氷室は掴んだ。ハルはやっと振り返る――泣きそ うな顔で。
 氷室はハッと息を呑むが、それも一瞬。すぐにハルは氷室から顔を背けた。 氷室は一つ溜息をつくと彼女を呼んだ。
「ハル」
 静かだが、どこか窺うような声。
 沈黙。
 やがてぽつりとハルは呟いた。
「……貴方、変わらないのね。私、昔を思い出したわ」
 ハルの長い髪が揺れ、再び氷室を振り返る。じっと氷室の瞳を見つめ、ハル は言った。
「初めてここに来たとき、私、あの子のようだった」
 氷室は静かに頷いた。そしてゆっくりと言う。
「…ああ」「俺もそう…」
 氷室が言いかけたその時、カチャリとドアの開く音がした。久野医師であっ た。
「久野」
「久野君…」
 何かを言おうとするハルを制し、久野は二人に頷いてみせた。聞こえていた
「いいから、患者を連れてこい」
 良いのか?というような顔をして氷室は久野を見た。 「……どういうことなのかは、そのうち説明しろ。とりあえず今はそれで良 い」
 そう久野は言う。 
「訊かないのか?」
 氷室は意外だという表情だ。
「何年友人をやっている」
 …訊いても無駄ということを、久野は長年の付き合いからわかっていた。
 そんな久野の答に氷室は一つ笑い、すぐ表情を改めて
「すまない」
と短く詫びた。

 ハルが有沢を連れて診察室に入って来た。あらためて氷室が有沢を紹介し た。
「有沢 海という。うちの事務員に雇った」
「そうか」
 久野は一つ頷くと有沢を見た。
「有沢君、でいいかな?」
「はい」
 有沢は答えた。
「君はコイツについてくことにしたんだね」  指をさされた当人は不機嫌そうな顔で「当然だろう」と言う。
「お前に訊いてない、診療の邪魔だ出て行けよ」
 久野はそんな氷室を一蹴し、追い出す。チッと舌打ちして出ていく氷室を見 送ると、久野は軽く笑った。
「……子供のような奴だろう?」
「不思議な人だとしか言いようがないです」
 有沢はやや不器用に微笑みながら久野に返した。
「そう、それも魅力の一つだろうな」
 久野はうんうんと、首を縦に振る。
「俺もなんだかんだ言っても、縁が切れない」
 喋りながらも、久野はちゃんと診察している。いつの間にかハルが横に来て いて有沢の傷に包帯を巻いていく。
「ガラスを割るときは気をつけた方が良いわ」
 ハルは片目を瞑って有沢に言う。有沢は微苦笑を浮かべた。
 そんな様子も久野は観察している。そして巻き終わるのを待って言った。
「何かあったら来るように」
 それは医者の口調だった。そんな久野の言葉にハルは「あら」と声をあげ る。 
「何かなくったって歓迎よ」
 美味しい紅茶かコーヒーでも淹れて待っている、とハルは続ける。そして微 笑まれる。
「ええ、是非」
 有沢は微笑み返す。
「じゃあ、帰って良いよ。氷室を呼んできてくれないか?」
 久野は言う。
 有沢は頷くと、部屋を出ていき、そして有沢と入れ違いに氷室が入ってき た。
 入るなり久野は氷室に言った。
「擦過傷と軽い打撲。それから疲労。…恐らく精神的にもだ」
 ふぅ、と氷室が溜息をもらした。
「なら、大丈夫だな」
「だが無理はさせないように。それからあまりショックを与えないように」
 そんな久野の言葉に、どうだか、と氷室は苦笑した。
「…しかし随分と深いワケアリのようだな。自分のことをほとんど語らない」
 久野はそう感想を述べた。その言葉に氷室は何か引っかかったらしく、反応 を示した。
「語らない。語れない……」
 そう呟くように言う。それをきいて久野は訊き返す。
「意味深な発言だな。確証は?」
「ない。…勘だ」
 即答だった。
「まあ、お前の勘は良く当たるからな、良いことも悪いことも」「祈るしかな いか」
 その久野の言葉に
「…背徳者だぜ、俺は」
と、口の端を歪め、嗤いながら氷室は答えた。
「自称、な。だいたい背徳者は自分では言わないものだ」
 久野はやや咎めるような口調で言った。氷室は答えない。短く溜息をつき、 久野は言う。
「しっかり守ってやれ」
「…ああ」
「当然、お前自身もだからな」
 氷室は答えなかった。久野は不審気に氷室を見遣る。
「…スマン。謝って済むワケじゃないが」氷室は言う「不眠剤もくれないか ?」
 久野は思わず声を荒げた――久野には珍しいことである。
「氷室」
「判っている。安定剤は止めるさ」
 この前の薬の瓶のことである。しかし久野は首を横に振る。
「わかってない」「俺はお前自身をいたわれって言ったばかりだ」
 そんなことはできない、そういう顔を氷室は久野に向けた。
 久野はそれを直視できなかった。そしてぽつりと言う。
「お前。…馬鹿だ」
「馬鹿だったらもう少しマシな生き方が出来ただろうよ」  氷室は笑った。
「それもそうだ」
 久野は呆れたような笑みを浮かべた。…仕方ないことなのだ、彼の選んだ道 からすれば。そう思う。
 氷室は言った。
「判っている。お前が俺のことを信頼してくれているのはさ」「…本当は判っ ているんだろ?俺が何を望んでいるのか」
 久野はその問いには答えずに言った。
「――言ったはずだ、お前に死なれたくないと」
 氷室は何も言わなかった。
「今お前が死んだらあの子はどうなる?拾った責任はちゃんと取れよ」
 久野は言う。 
「お前が引き取ってはくれないだろうな、ハルじゃないんだから」
 昔を思い出すように言った。
「ハルには俺が惚れたんだ」眉をひそめる「氷室」そう名を呼ぶ。
「……判ってる。むざむざ殺されるような真似はしない」
 氷室は立ち上がり部屋を出ていこうとする。そして、出る間際にこう続け た。
「守るために拾ったはずなんだ」
 パタンとドアが閉まった。
 久野は溜息をつかずにはいられなかった。しかし、すぐに自分も立ち上がり 氷室の後を追う。
 玄関口では有沢が氷室を待っていた。氷室はそんな有沢にほとんど構わずポ ケットからエアカーのキーを取り出すと、ドアロックを解除する。そしてさっ さと乗り込む。
 それに続こうとした有沢を久野は呼び止めた。
「有沢君」
 振り向く有沢に久野は言った。 
「あいつは悪い奴じゃない。きっと君の目は間違っていなかった」
 その言葉に有沢は頷いた――微笑みながら。
 そしてくるりと背を向けるとエアカーに乗り込む。すぐにエンジンが掛か る。
「じゃあな。助かったぜドク」
 氷室はそう言って、手をひらひらと振った。有沢はぺこりと頭を下げた。
「ああ、またな」
 久野も手をあげた。
 氷室はそれを口の端を上げて返すと、静かにエアカーを発進させた。銀のエ アカーはやがて姿を小さくしていく。久野はずっとその様子を見つめていた。
「……良かったの?久野君」
 エンジン音に気付いたのだろう、ハルが中から出てきた。見送る久野の背中 にハルはそう声を掛けた。
「ああ」
 振り返らずに久野は答えた。
“守るために拾ったはずなんだ”という氷室の言葉――不器用な奴だと思わず にはいられなかった。
「…あいつも少しは自分を大切にできるようになるかもしれない」
 タバコをくわえたまま久野はぽつりとそう言った。
「そうね」
 ハルはそっと久野に寄り添った。






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