不思議の鈴
三津木春影
八 皿を凝視てアツと一聲……葢を取つた其瞬間
萬事が保村君の希望通りに按配された。予には同君が此樣な處置を取る眞意が解らぬ。或は令孃を律夫から遠ざける策でもあらうかさて我々は、健康の恢復と活動の喜悦に滿たされた律夫と共に食堂にて食事を共にした後邸宅を出掛けたが、こゝにもう一つ意外な目に遇はされた、と言ふのは、停車塲へ着いて、客車の中へ腰を降ろした我々兩人に向つて、保村君は平氣な顏で、自分は倫敦へ行く意志がないと言ひ出したことである。
「實はね、倫敦へ歸る前に、もう一つ二つ研究し度いと思ふ小問題が殘つて居るのだ。栗瀬さん、貴君の御不在になるのは私にとつて却て幸福ですぞ。須賀原君、倫敦へ着いたらば直ぐにお客さんを私の家へ御連れして、私の行くまで御止めしておいてくれ給へ。兩君は古い學友ださうぢやから、話が合ふて丁度宜しからう。栗瀬さんさういふ次第ぢやから今晩は我々の豫備の寢室に御寢み下さい。朝の八時にはうおーたーるー停車塲に着く汽車がありますから、明日の朝飯迄にはまた御目に掛りませう。」
「ですが、倫敦での例の問題の取調べはどうなりませう。」
と律夫は心細げに訊いた。
「それは明日出來ます。只今のところは私は此方に留る方が一層大切なのです。」
「では宅の者に、明日の晩は歸り度いと思ふて居るとお告げ下さい。」
汽車が動き出すと律夫がかう言つた。
「いや、お宅まで歸るかどうか解らない。」
と保村君は、走り出した汽車に向つて愉快げに手を振つた。
予等兩人は倫敦の保村君の事務所に着くまで、この新しい發展について噂しあふたが、何れも滿足した理由を發見することが出來なかつた。
「僕の想像では保村さんは昨夜の強盜について何か證據を見付けやうとして居られるのではないだらうか。まア強盜だらうね、僕自身では、どうしてもあれが普通の竊盜とは思はれない。」
と栗瀬が言つた。
「すると君の考へはどうなのかね。」
「君は屹度僕の衰弱した神經の故にするだらうが、僕の信ずる所によれば或る深い政治上の陰謀が僕の周圍に企てられて居る。そしてどうも其徒黨等が僕の生命を的つてゐるらしく思はれるのだ。或は僕の言葉は誇大に響くかも知れん。不條理に響くかも知れん。けれどもまア事實を考へて見てくれ給へ! 何の目ぼしい物もない寢室の窓から、何で竊盜が忍び込む必要があるだらう。何で手に長い小刀を握つて來る必要があるだらう。」
「押込の鐵梃かなぞぢやなかつたのかね。」
「なアに、小刀だつたよ。其刄がキラリと閃るのを僕は判然と見たんだもの。」
「併しだね、君がなぜそんな怨みを受けてゐるのだらう、怪しいぢやないか。」
「あゝ、それが疑問なんだ!」
「兎に角、保村君も同意見とすれば、行爲に現はれるから解らうぢやないか。假りに君の意見を正當だとして、彼が昨夜君を脅かした奴に手を下す事が出來るとすれば、百尺竿頭一歩を進めて、海軍條約文を竊んだ奴をも見付けるに違ひない。一方は君から條約文を竊む、一方は君の生命を脅す――そんな二つの敵を君が持つなぞと考へるのは不條理だよ。」
「だが、保村君は僕の宅迄は戻らぬかも知れんと言ふたぜ。」
「僕は長い事知つてゐるが、保村君がしツかりした理由なしに漫然と働くといふことは甞てないね。」
兎角して漸く我々の話は他の問題に移つたものゝ、予に取つては實に退屈の一日であつた。栗瀬は長らくの病氣の後とて未だ衰弱してゐる上に、重なる不幸で愚痴ツぽくなり、神經質になつてゐる。予はあふがにすたんの話、印度の話、世間話、何にてもあれ彼の心を紛らすやうな事を話して訊かせたのだが效目がない。彼の心は常に失はれた條約文の上に後戻りをする。保村君の行動やら、堀戸今日の執りつゝある手段やら、明朝接すべき報告やらについて或は訝み或は想像し、或は推測する。夕暮になるにつれ彼の亢奮状態は全く傷しくなつた。
「君は保村さんを全然信用してゐるのかね。」
と、そんな事も訊く。
「素晴らしい探偵をやつた實例を幾つも見たからね。」
「けれども今度のやうなむづかしい事件を解決したことはないだらう。」
「なアに、君の事件なぞよりはズツと手掛りの少い難問題を美事にやつてのけたことは澤山あるよ。」
「併し今度のやうな國家的の利害に大關係のあるものではなかつたらう。」
「それは知らんがね、僕が確に覺えてゐるのでは、非常な重大事件で歐洲の三つの皇室のために働いた事がある。」
「兎に角、須賀原君、君は保村さんを能く知つてゐるのだが、あのくらゐ不可思議千萬な人も見たことがないね。まるで僕等には見當がつかない人だ。君は今度も有望と思ふかね。先生自身は成功を期してゐるだらうかね。」
「保村君は何とも言はなかつたよ。」
「ぢやア形勢は惡いのだね。」
「いや反對だ。僕の經驗によると、保村君は的を外れた時には外れたと言ふ。むツつり默りこんだ時には嗅ぎ當てた時なのだ。それが果して正確であるや否やがまだ不明な時なのだ。それはさうとしてだね、君、こんなことで御互に神經ツぽくなつてゐるのはもう堪まらんから、後生だから寢てくれないか。寢れば氣分が新鮮するよ。そして明朝の吉報を待つことにしやうぢやないか。」
漸との事で説き付けて寢かせる事にした。かう亢奮してゐるのでは到底安眠は出來まいとは知れてゐれど、さうするよりほかに仕方がない。彼の神經質はとう/\予にも傳染した。予も殆ど半夜といふものは、轉輾反側して、此怪事件の上に思ひを馳せたり、あれか、これかと無數の理窟を捏ね返してみたり、その理窟が後のになるほど段々前のゝよりも出來ない相談になつたりなぞして夜を更かした一體保村君は何だつて王琴町に踏み留まつたのだらう。何だつて千嘉子孃に終日病室に靜止としてゐるやうになぞと注文したのだらう何だつて栗瀬家の近所に留まりながら、用心してその家族にも告げまいとしたのだらう。さういふやうな凡有る疑問を解決すべき説明をどうかして求めやう/\と腦漿を絞つてゐるうちに、とう/\ぐツすりと睡眠に陷ちてしまつた。
翌朝起きたのは七時であつた。起きると直ぐに栗瀬の室へ行つて見ると、共は寢が足りなかつた後の事とてぐツたりと憔悴してゐたそして彼は眞先きに保村君が歸つたかと訊いた。
「約束した異常、先生は一分間の遲速もなくやつて來るよ。」
全く予の言葉通りだつた。八時を打つと間もなく、一臺の馬車が扉口に驅けて來て、保村君が飛降りた。窓から眺めてゐると、彼は左の手に繃帶を施してゐる。そして大層物凄い蒼白めた顏色をしてゐる。玄關を入つたと思つたが、やゝしばらくしてから階段を上つて來る音。
「まるで敗北した人のやうに見えるね。」
と栗瀬も叫んだ。
予もその言葉を是認せぬわけにはゆかなくなつた。
「結局、手掛りは倫敦の方にあるんだらう。」
と言ふと栗瀬は唸聲を出して、
「何處にあるものやら知らないけれど、先生が歸つて來たらば吉報が聞かれるだらうと待ち焦れてゐたのになア。併したしかに昨日までは左の手があんなに繃帶はしてなかつたよ。どうしたと言ふんだらう。」
「保村君、怪我をしたのかね。」
室へ姿を現はしたのを見ると予はかう訊ねた。
「や、これはなに、拙なことをやつて一寸引つ掻いたのさ。」と、御早うの挨拶代りを首でやつて見せて「栗瀬さん、貴君の今度の事件は、確に私が今迄從事したものゝうちでも最も厄介なものゝ一つですね。」
「若しや御手に餘つたんぢやないかと心配しました。」
「いや實に素的な經驗をやりました。」
「その繃帶で見ると何か冐險的の事件があつたね。」と予が言つた。
「その顛末を聞かしてくれ給へ。」
「朝飯の後にしやう。なにしろ我輩は今朝のうちに三十浬を飛んで來たんだからね。例の馬車についての廣告には何處からも返事がなかつたらう。好し/\、さう毎時々々都合よくはゆかないものぢやテ。」
食卓の容易は出來た。予が鈴を鳴らさうとするところへ、丁度女中のお陸さんが茶と珈琲を持つて入つて來た。それから五六分も過ぎると料理を運んで來た。我々は皆食卓に就いた。保村君はがつ/\してゐるし、予は好奇心に滿ちてゐるし、栗瀬に至つては此上なしの不景氣の顏をしてゐる。
「お陸もなか/\臨機應變をやり居るわい。」とカレー料理の雛鷄の皿の覆ひを取りながら保村君が言つた。「彼女の料理の範圍は少し狹いことは狹いが、朝飯だけは兎に角うまく喰はせるね、須賀原君、君のは何だ。」
「豚肉と鷄卵だよ。」
「うまいね! 栗瀬さん、貴君は何をお喰りか。カレーの鷄か、鷄卵か、それとも好きなものを御撰みかな。」
「有難う、僕は何にも喰べられません。」
「そんなことがあるもんぢやない! さア貴君の前にあるのをお喰りなさい。」
「有難う、けれどほんとに喰べない方がいゝです。」
「はゝア、では。」と保村君は惡戯さうな瞬をして「私の方へ御渡し下さるには差支へないでせう。」
栗瀬は葢を取つて見た[#「取つて見た」は底本では「取つた見た」]。と、一聲の叫聲を擧げて皿の中をぢツと凝視めた。顏色は其皿の如く白くある。