不思議の鈴
三津木春影
四 外交問題の危態……恐怖と絶望とで昏倒
栗瀬は尚も語をついで、
「それから我々は役所へ歸りました。そして階段や廊下を隈なく搜索しましたが何の効も有りませんでした。僕の室續きの廊下には、一種の柔かな油團が敷きつめてありますから、靴跡などは直ぐ目につかねばなりませんのが、どんなに仔細に檢査しても何の靴跡もないのです。」
「その晩は雨が降りましたか。」
「七時頃から降り出しました。」
「すると、九時頃外から來た者の靴には無論泥濘がついて居らねばならぬわけであるが、小使の女房が何の跡も殘して行かなんだといふのは怪しな次第ぢやないですか。」
「いや、それは御道理の御質問です。其時は僕も同じ疑ひを抱いて見たんですが[#「見たんですが」は底本では「見たんですか」]、調べて見ると、役所で雜役に使ふ女共は小使室で皆靴をぬいで、上穿をつけることになつてゐたのでした。」
「ハヽア、さういふわけですか。すると結局、雨降りの晩であつたにも係らず、役所には何の怪しい靴跡もなかつたといふのですね。ふム事件の連鎖が確に奇怪である。それからどうなすつた。」
「我々は室も檢査しました。併し秘密の扉といふやうなものは在る筈がありませんし、二つの窓は何れも地面から五六間の高さにあつて、二つとも内から閉められてあります。床はぎツしりと絨氈を張りつめてありますから、陷扉などは無論なく、天井は普通の白い塗料を使つたものなんです。ですから書類を盜んだ曲者は、階下の扉口から忍び入つたに違ひないといふことは、僕が首を掛けても斷言します。」
「爐はどうですか。」
「役所には壁に据え付けの爐はございません。僕の室には一つのストーブがあるばかりでした。鈴の紐は、丁度僕の書擡の右手の邊へ電線から垂れ下つてゐます。誰にせよそれを鳴らすには、書擡の傍まで近寄らねばなりません。併し苟も盜賊をしやうとするほどの者が、何でわざ/″\鈴を鳴らす必要がありませう。實に不可思議千萬ぢやありませんか。」
「全く奇怪なお話ぢや。それから何うなすつたか。多分曲者が何か手掛を殘して行つたらうとお思ひで、室内を搜索なすつたらうな――卷煙草の吸殼とか、手袋とか、又は女ならば頭の針とか、さういつたやうな物を。」
「いや、何一つ殘してゐませんでした。」
「匂ひはどうでしたか。」
「匂ひですか……そこ迄は氣がつきませなんだ。」
「はア、斯のやうな事件にあつては、煙草の匂ひといふやうなものが極めて大切な手掛になるのですぞ。」
「私は元來煙草は一切吸ひませんから、若し匂ひが殘つてゐたならば直ぐに感ずる筈だと思ひます。絶對に何の手掛もありませんでした。只一つ明白な事實は、例の小使の女房が――お輪といふ名ださうで――それが急いで役所を出たといふ事だけであります。小使に言はせると、もう時刻が時刻でしたから女房が急いで家へ歸るに不思議はないと辯解します。で、僕と巡査とは、犯人は何うしてもお輪だと鑑定して、さて犯人が盜んだ書類の始末をつけぬうちに捕まつてしまうふのが最上の策と考へました。
此時はもう警報が警視廳へ達したものですから、織部といふ刑事が早速出張して參つて、非常に※[#「執/れんが」、U+24360、44-7]心に事件を擔當してくれることになりました。そこで織部君と僕とは馬車を雇ふて、三十分もたゝぬうちに、愛比町の小使の家へ着きました。出て參つたのは一人の若い娘で、これはお輪の長女であるさうです。阿母はまだ居らぬとの事ですから、我々は入口の室で待つ事にしました。
十分も過ぎると、コツ/\と表扉を叩く音が聞えましたが、こゝで我々は飛んだ失策をしてしまひましてね、その責任は僕ですが、我々が扉を開けばよいのを、ツイ迂かりして娘に開かせてしまつたのです。すると娘の聲が聞えます「お母さん、先程からお二人の男の方がお母樣を待つてゐますよ」其聲と等しく、廊下をパタ/\いふ跫音がし出したので、刑事は扉を押し開き、僕も續いて勝手の方へ驅け出して見ると[#「驅け出して見ると」は底本では「懸け出して見ると」]、お輪はもうそこに立つてゐて、惡怯れぬ眼付で我々をジロ/\と眺めたのですが、其うちに不意に僕の顏が解るとびつくりしましてね、
「おやまア、誰方かと思つたら、お役所の栗瀬樣ではございませんか!」
と※[#「口+斗」、U+544C、46-5]びました。
「オイ/\、一體誰と間違へて逃げ出さうとしたんだね。」
と刑事が申しますと、
「私はまた借金取とばかり思ひ込ん了つたんですよ。實はある商人との間に少しゴタ/\が起きてゐるものですからね。」
「いや、そんな言譯は止して貰はう。お前は外務省から大切な書類を盜み出して、それを何者かに賣り拂ふために急いで戻つて來たんだらう。此方にはさう信ずる理由がチヤンとあるんだ。さア、取調べをするから我々と一所に警視廳へ來い。」
と刑事が引張らうとする。辨解をする、行くまいとする……併し幾ら抵抗しても無駄でさア、とう/\馬車へ乘せられて、我々は小使の家を出ました。其前に念のため勝手を搜索してみました。殊に今の間に火にでも焚べてしまひはせぬかと、爐の中は特けても仔細に搜したのですが、それらしい紙片もなければ、燃え殘りの灰もありませんでした。で、警視廳へ着きますと、お輪は直ぐ婦人檢査部の方へ廻されました。僕はその間實に不安の心持で煩悶しながら待つてゐたのですが、書類の行衞はどうしても解りませんでした。
茲に至つて初めて、自分の現在の地位の恐怖といふものが、其全力を擧げて心に迫るのを覺えました。それ迄は僕は活動してゐました。活動に紛れて精神が麻痺してゐました。なに、書類は苦もなく取り戻せるに違ひないとばかり信じ切つてゐたものですから、取り戻されなかつた日には果して如何なる椿事に立ち至るかといふ事は夢想だもしませんでした。所が絶望の淵に臨んだ其時になつて、初めて現實的に自分の位置を顧るやうになつたのです。氣が付いてみれば、何といふ怖しいことでせう! 須賀原君は知つてゐますが、僕は學校時代から神經質な感情ツぽい性情でした。僕は叔父のことを考へました。他の内閣の諸大臣の事を考へました。あゝ、自分は叔父へ耻辱を蒙つた、いや、自分に關係する種々の人に耻辱を蒙らせた、この大事件に對して、たとへ自分一人が犧牲になつたところで偖てどうなるか。外交上の利害問題を危態に瀕せしむるやうな失策に對しては何の宥恕を乞ふ術もない。自分はもう破滅だ、世間に顏出しもならぬ絶望的の破滅であるもう何をどうしたのか一切夢中です。何でも一塲の騷ぎを惹き起したには違ひないと思つてゐます。微に覺えてゐますが、大勢の役人が僕を取り卷いていろ/\に慰めてくれる。其中の一人は僕を停車塲まで連れて行つて汽車に乘せたやうでした。そして僕の家までも同行してくれるつもりだつたでせうが、幸福と其時、僕の家の近所に住む原井といふ醫師が同じ汽車で歸るところでしたから、醫師が其者から僕を受取つて、隨分親切に家まで連れて來てくれました。全く醫師に遇つたのが天の祐けでしたよ。停車塲でもつて僕は發作を起して了ひましてね、家へ着かないうちから、もう躁狂に陷つてゐましたんですもの。
さて其状態でいよ/\家へ着いた時の家人の騷ぎといふものは御推察を願ふよりほかありません。皆寢込んでゐたのが醫師の呼鈴で起され、思ひがけぬ僕の躁狂を見た時は、可哀相に、この千嘉子も母も胸が潰れるばかりだつたさうです。そこで原井醫師は、停車塲で刑事から殘らず聽いた事件の顛末を物語つたさうですが、併し家の者はそれで安心が行くわけがない、何れこれは長い病氣になるだらうと申すので、千嘉子の兄はこの樂しい寢室から追はれて、此室は忽ち僕の病室と變つて了ひました。夫以來、保村さん、僕は實に九週間といふもの、腦膜炎のために人事不省となつて寢て居たんです。この千嘉子と原井醫師との看護がなかつたならば、今頃かうして貴君方にお話する事も出來なかつたかも知れません。全く僕のやうな狂的發作では、どのやうな危ない事をするかも知れませんから、晝は千嘉子、夜は雇ひ看護婦が交代で看護してゐてくれた有樣でした。其故かだん/″\頭腦も明瞭して參りましたが、併し記憶がすつかり恢復したのは、漸くこの三日以前からなのです。時々はこのまゝいつ迄も前後不覺であり度いと念ふやうなことも有ります。所で記憶を恢復してから最先に僕のやつた事は、織部刑事へ手紙を出した事でした。すると刑事は早速訪ねて來てくれましたが、其報告によれば、爾來凡有る手段を採つたけれども、何の手掛も依然發見されない。小使夫婦も百方訊問したけれども、何等の光明も認められない。そこで警視廳の嫌疑は役所の屬官の綾田五郎君の上に掛りました。綾田君は今もお話しました通り、あの晩一番遲くまで殘つて仕事をしてゐた君なんです。嫌疑が掛つたわけは、第一、遲くまで殘つてゐた事、第二は同君の名が佛蘭西人の名であるといふ其二ヶ條なんですが、實際のところ、僕は同君の退出を見屆けてから安心して寫しに取り掛つたのですからね。それから姓名のことは、同君の家はゆぐのー教徒(佛蘭西の耶蘇新教徒)である事はあるが、同情と慣例に於て英國民である事は、貴君方や僕なぞと變りはありません。ですから、綾田君は結局此事件には何の關係もない人なんです。しますると、保村さん、僕は最後の唯一の希望として貴君の御助力を乞ふよりほか有りません。若しその貴君にして尚ほ御力が及ばぬとあれば、僕の名譽と位置とはもう永久に失はれねばならぬことになるのです。」