一 外務省の
舊友の手紙……一大災難とは何ぞ?
我が民間大探偵
保村俊郎君は、まだ
寢衣姿にて
側擡に向ひ、一心不亂に
何やらん化學上の研究に熱中してゐた。一個の
大形の
彎曲した蒸溜器が、
ぶんせん火口の蒼い炎の中でグラ/\と煮立ち、蒸溜液は一
升ほどの量にまで凝縮されてゐる。
予が室内へ入つて行つても、彼は
瞥乎と瞳を動かしたばかりで又もや研究に夢中になつてゐるので、餘程重大事件に相違ないと思つたから、予は肘掛椅子に腰掛けて手の明くのを待つてゐた。眺めてゐると、
此方の
壜を上げて見たり
彼方の壜を下げて見たり、
硝子の
移液管でどの壜からも數滴づゝを拔き出して見たり、
終ひに溶液の入つた一本の試驗管を
卓子の上に持つて來た。右の手には
りとます試驗紙を一枚持つてゐる。
「
須賀原君、君は
危急いところへ參つたね。この試驗紙が青のまゝで居れば無難であるが、赤に變つた日には人間一人の命にかゝはるのだ。」
と言つて試驗管の中へ浸すと、紙片は見る/\鈍い
暗紅色に變つた。
「フン!
私の思ふた通りぢや! 君、直きに御相手をするからね一服やつてゐてくれ給へ。」
彼は
机に向き直り、數通の電報を
急がしく
認めて給仕に渡した。それが濟むと、向ふ側の椅子にドツカと腰を下ろし、膝を縮めて兩手をヒヨロ長く痩せた
向脛の上で組合せる。
「平々凡々、些細な殺人事件だ。須賀原君、君の方がよつぽど面白い種がありさうだね。それは何?」
と予の手に持つた一通の手紙に目を付ける。で、それを渡すと非常に注意を緊張させて讀み始めた。
其手紙には實に次の如き
文言が
認めてあつたのである。
我が親愛なる須賀原直人君よ――兄が三年級の時に五年級にありし「蝌蚪」の栗瀬を兄は必ずなほ記憶し給ふべしと信じ候。然るに今や突然戰慄すべき一大災禍に遭遇して、生が未來の道程は挫折せられたり。
其恐るべき事件の詳細に至りては筆紙の盡すべきに候はねば、幸いに兄が生の懇望を容れ給ひて御面會の榮を賜はらば、其際懇と御物語りいたす心得に御座候。生は昨今漸く九週間の腦膜炎より恢復いたし候間際にて、尚ほ頗る衰弱いたし居り候。兄は兄の親友保村俊郎氏に乞ひて御同伴を願はれまじく候や。警察の方にては最早策の施すべき餘地なきやう斷定いたし居り候へば、生は本事件に對する保村氏の見解を是非共拜聽致し度く念じ居り候。兄よ、願わくは一刻も早く同氏を同伴せられん事を。この恐怖すべき不安の中に住む生にとりては、一日千秋の思ひに御座候。或は何故に其際至急同氏を煩はさゞりしやとの御疑念も有之候はんかなれども、そは同氏の伎倆を疑りての躊躇にてはこれなく、全く打撃を蒙り候以來意識朦朧たりしが故なることを同氏に宜しく御傳へ下され度く候。今や生の頭腦は再び明晰と相なり候。たゞ再發を恐れて多くそれにつき思念致さゞるのみ。されども衰弱中に候へば、此手紙は餘の者に筆記いたさせ候ふて差上申候。願くは御便宜御計り下され候て保村氏を御勸め下さる事を。敬具。
王琴町字降矢にて
舊學友
栗 瀬 律 夫
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讀み終つた保村君曰く、
「この栗瀬律夫君といふのは君の學友ぢやね。」
「學級は二年上だつたが、同年輩ぐらゐだつたから親友だつたよ。非常に秀才でね、學校の
賞與はいつも彼に占められたつけ。そしてとう/\奬學資金を
獲て
[#「奬學資金を獲て」は底本では「奬學資金を護て」]、ます/\景氣よく
劔橋大學へ入つたが何でも
縁故が大層好くて、例の保守黨の大政治家
堀戸春容卿は、彼の母の兄弟に當るといふことは、その頃子供であつた僕等にも解つてゐた。併しこのピカ/\光つた親類を
有つてゐるといふことは、學校では
餘まり彼のために
利益にもならなかつたね。ならないばかりぢやない、僕等は
寧ろ一種の反感を
抱いて
運動塲で彼を追ひ廻したり、クリツケツトの道具で足を
打つ
拂つたりして兎角酷い目に遇はしたものさ。だが、一旦學校を卒業して社會へ乘出したら形勢が一變した。
天稟の才能と、今言つた有力な
縁故とのおかげで、外務省の好い椅子を占めたといふことは仄かに聞いたけれども、
其後全く忘れはてゝゐたのに、突然この手紙を受けて久振りで想ひ出したやうな次第でね。」
「成程、突然に舊友に縋りついて來たといふわけぢやね。」
「全く、この手紙を讀んだら何だか僕は感動させられた。繰返し
々々君を連れて來て貰ひたいといふのだから何となくあはれでね、むづかしい迄も當つて見やうと思つたのさ。一つは君といふ人は事件に對して非常に興味を持つ人で、
※[#「執/れんが」、U+24360、9-5]心に頼み込めば
毎時でも
快く腕を貸してくれることを知つてゐるから、家内にも相談すると大賛成でね、直ぐに行つてお上げなさいと勸められたので、早速御邪魔にあがつたやうなわけなのさ。」
保村君は手紙を戻しながら、
「併しこの手紙だけでは何の事やら當りがつかぬ。」
「僕にも解らない。」
「この
手蹟は面白いね。」
「けれども、自分の手でないことは手紙に
斷つてある。」
「それは知つてゐる。是は女の手だ。」
「男には違ひないさ!」
「いや、女だよ、
而も珍しい性格の女の手だ。
先づ見給へ、研究の第一歩としてぢやね、かういふことを知つて置くのも
何かの足しにならう――それは、君の友人は、善惡
何れにせよ、
通常人と異つた性格を
有つた
或者と密接の關係を有してゐるといふことである。いや、我輩にはこの事件が面白くなり出したぞ。君の用意さへ
宜くば直ぐにも
王琴町へ出掛けやうではないか。そしてそのやうに難儀をしてゐる外交官と、この手紙を筆記した婦人とに會はうではないか。」