死刑か無罪か
THE ADVENTURE OF THE BOSCOMBE VALLEY MYSTERY
コナンドイル A. Conan Doyle
手塚雄訳
(五一)「やい、虎澤、是に譯があるんだよ」と本田は石を差し出して
「これで弑したんだよ」
「何所に證跡があるの?」
「證跡なんぞは無いさ」
「それぢや如何してそんな事が明かる?」
「此下に草が生いて居たのさ、だからこりあ二三日しか載つて居ないので何所からか持つて來たんだろよ、瘡跡[#「跡」は底本では「踉」]としッくり合ふのだ、此外に武器は見當らないよ」
「では加害者は?」
「それは大體恁いふ者だ丈高[#ルビの「せいたか」は底本では「めいたか」]で左利で右足で跛行を引く先の太[#ルビの「ふと」は底本では「とふ」]い獵靴で鼠色の外套を着てインディアン葉卷を煤し煙管《》を用ゐ、懷中に鈍《》い小刀《》を入れて居たのだ、其他《》も色々形蹟はあるが先づ差當り此位で充分だろ」
(五二)虎澤笑つて
「如何《》も僕は懷疑派だ理屈はそれでも通るが悲しい哉相手は嚴正なる裁判官閣下だからな」
「そんならいゝさ」と本田は落着《》拂つて「君は君、僕は僕で遣《》つて見やうや、僕は今日午後は忙しい多分夜行で倫敦へ歸らなけりあなるまいて」
「此事件はそれで放棄《》か」
「否《》放棄《》ぢあない、成就《》のだ」
「然し疑《》は?」
「晴れたぢあないか」
「そんなら罪人は?」
「今、叙《》た人さ」
「然し誰《》?」
「恁麼《》人數の少ない所ぢあ見付かるまいよ」
(五三)虎澤は憤《》たい樣に肩《》をしやくつて
「いくら何だつて跛足《》で左利《》の人は居ないかなんて方々騷き廻《》はる譯にあ往くまい、なあそれこそ探偵町の良い笑い草だ、僕は實際主義だからそんな狎戯《》は出來んて」
「良いさ」本田は穩《》やかに「出來なけりあ出來ない迄だ、只僕は君に出來る迄に仕て遣つたんだから、兎に角此家《》は君の宿《》だから是で失禮するよ、出發前に再《》何とか手紙を上げるよ」
これで虎澤に別れて宿《》へ歸ると食卓《》の上には晝飯《》が出て居る本田は深い熟考《》に沈んだ樣子で靜《》として進退維れ谷《》れりといふ面相《》、「おい」と本田は飯が濟むと俺《》を呼んだ「まあ、これへ恁《》け給へ、些《》と話したい事がある、君如何《》したら良《》からうかね君の意見を聽きたいものだ、まあ一腹やり給へ緩《》くり説明《》すから」
(五四)「何卒《》左樣《》して呉れ」
「で恁《》いふ譯さ、此事件に關して善二の申立ての中に二つの凡《》ならぬ點があるね、それで僕は善二に方《》を持つし君は反對だ、そりやあ外でもない、一つは親爺が善二を見ぬ内にクイーと叫んだといふんだね、尚《》一つは死際《》にラツト(鼠)の事を云ふた事さ死際《》に種々《》囈《》いた由《》だが其外には何も善二の耳には這入らなかつた由《》だね、さあ此二點が差當り僕等の出發點で是から善二の申立てを本當として研究して見やう」
「そんなら「クイー」たあ何の事だい」
「そりあ善二に向つて叫んだのぢあない事は明白だ、善二は鰤須《》へ徃つて留守中だと知れての話、これが善二に聞《》へたのは偶然といふものだ一體「クイー」といふのは約束ある人を呼ぶ意味がある、勿論是は豪州訛《》で豪州人の間に用ゐらるる詞だ卷山親爺が保須池の端《》で會ふ約束を仕たのは慥かに豪州に居た人だ」
(五五)「そんならラツト(鼠)とは?」
本田は懷中から卷いた一枚の紙を取り出しテーブルの上に展けて「見給へ之れが豪州ヴイクトリアの殖民地の圖だ、實は昨晩《》鰤須《》へ電報を打《》つて取り寄せたんだ」と云ふて地圖の一部に手を置きながら
「君これを何と讀むか」
「アラツト」と俺は讀む
「それで今度は?」と本田は手を引き取つて問《》ふ
「バララツト」
「左樣だろ親爺は夫れを※[#「口+斗」、U+544C、48-12]んだのだそれを息子は終りの二音節だけ※[#判読不能、49-1]き取つたのだ、親爺は「何の某、バララツト」とと加害者の名を※[#「口+斗」、U+544C、49-1]んだのだ
「そりや、奇體だね」と俺は※[#「口+斗」、U+544C、49-3]ぶ、
「そりあ、君明白な事實だ夫れで余程《》明《》かつて來たねそれから善二の申立に據れば鼠色の外套は眞物《》だね、して見ると今迄何の事やら雲を掴《》む樣だつたが今度は確《》と鼠色の外套を着《》て豪州人がバララツトから來たと掴《》へ所が出來て來たね、」
(五六)「成程左樣だね」
「其邊《》の地理を詳《》く知つて居たに違《》ひない、池端へ出るには是非田圃《》か屋敷か何所《》か通らなけりやならない、それがあの樣《》だから地理を知らずには歩けやしないんだから‥‥」
「全然《》左樣《》だ」
「だから今日は御苦勞願つて往つて見たのさ、地面を精《》く調べて見て加害者の人物に就いて[#「就いて」は底本では「就てい」]先刻《》虎澤の頓馬奴《》に話した樣な些《》つとした事柄を知つたのさ」
「然し如何して知つたの?」
「そりや、君も知つての通り僕は綿密家だからねえ些《》とした事から見當つたのさ」
「身長は踏張《》の長さで大概《》見當がついたろうね、靴も痕跡《》で知つたろうね」
「左樣さ、全く妙な格向な靴だつたよ」
「然し跛《》は何所《》で知つた?」
「右足の方が左足より痕《》が淺かつたよ、つまり重みが少ないからさ なぜ? なぜつて跛《》を引いたのさ‥‥不具《》さ」
「左利《》の方は」
「君も驚いたぢあないか、あの外科醫が檢屍の時打撃は後方《》からだが左方《》だつたぢやないか、左利《》でなくてそんな事が出來るものか、卷山親子《》が面談《》て居た時はあの椈《》の樹の後方《》に立つて居て煙草まで喫《》たんだ、僕は煙草の灰殼《》を見出した、あれはインデアン、シガーであると斷言したのは元來僕は煙草に關《》ては素人《》ぢやない[#「素人ぢやない」は底本では「素人ぢない」]僕は是でも煙草の事は幾程《》か研究したもので烟管《》や、葉卷《》や紙卷《》の灰殼を百四十種も掴まへて小册子を著はした位だあの灰殼を發見《》[#ルビの「みつけ」は底本では「みつつ」]てから近傍《》を見たら苔《》の上に吸半《》の葉卷《》が放棄《》つて在るぢやないか、あれは無論ロッテルダム製のインデイアン、シガーさ」
(五八)「ぢや煙管《》は?」
「で葉卷の本《》は噛《》ちあなかつたよ、だから煙管《》を用ひたといふのだ先端《》は噛切《》てなくつて鹵※《》[#「くさかんむり/奔」、U+83BE、51-12]斬《》り去《》つてあつた、して見ると鈍《》い小刀《》で切つたに違いない、」
「本田」と俺は叫《》ぶ「君は犯人《》の身に網《》を張つたねそれ迄見られては遁《》れッ便《》ない善二もお蔽蔭《》で救かる無實の繩《》を切つてやつた樣なものだね、是迄の説明で僕には明瞭《》と覺《》つた、その犯人《》は‥‥」
「棚橋常二樣」と宿の給仕が戸を啓《》けて來客を通し乍《》ら叫《》ぶ
見れば妙な顏の人が這入つて來る、その顏つたら一度見れば忘れられない位だ遲慢《》で跛《》を引いて肩《》は弓曲《》で居るので老耄《》た樣だがよく見れば嚴酷《》い皺《》の深刻《》※《》[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]骨《》の聳えた面相と、圖太い手足とで、身神倶に獰猛らしくい[#「獰猛らしくい」はママ]
(五九)縺《》れ鬚《》鼠色の髮《》、俯向《》の凸出《》た眼相《》は威嚴《》いが顏は蒼白《》、唇と鼻の先の所は一層《》蒼く稍《》紫《》がかつて居るので其人は何か烈《》しい慢性病に罹つて居るのだなと一瞥して直に覺れた「何卒《》御凭《》なさい」と本田は穩和《》に「私からの手紙が屆きましたか」
「はい、貴宿《》の番頭が持つて參りました、御手紙中に世評を憚るから[#「憚るから」は底本では「憚るかるから」]會い度《》いと仰在つたですね、」
「はい私から尊堂《》へ伺ひましては世間の浮評《》もあるだろうと思ひましてつい、」
「何故會いたいと仰在つたんですか」と老人は萎《》れ眼《》に[#「萎れ眼に」は底本では「委れ眼に」]絶望の色を浮べて宛ら此質問は既《》答へられたといふ風に本田を見て、
(六〇)「はい」と本田も氣を利かして質問よりは顏色に答へる樣に「全く左樣です、私は卷山の事を悉皆《》存じて居ります」
老人は顏を兩手で蓋うて
「南無阿彌陀佛‥‥とにかく善二をば救けて遣りたいですな、若し裁判が不首尾《》の節は私は屹《》と白状して救けてやります」
「然《》承れば安心です」と本田は嚴肅《》に云ふ
「可愛娘さへ無ければ既《》申したんですが、只今申しては彼女《》が泣きます[#「泣きます」は底本では「泣さます」]、今申して拘引されゝば彼女《》は甚麼《》泣くか知れません」
「拘引なんて事にあなりません」
「何故《》ですか」
「私は警官でも何でも無いんです、一體私が此所《》へ參つたのは孃さんの爲と覺悟の上、萬事其見計《》で遣《》とるんです何《》せ卷山の息子は無罪が本當ですね」