(一一)宇作は夫れ切り卷山親子を見なかつたが其後
再一人の娘が見たんだ、差詰この保須池といふのは茂つた森で取り卷かれて居て
水端には草や
蘆で
縁を取つた樣になつて居る、森山さだ子といふ門番の娘、本年十四歳といふのがその池の端の森で花を採つて居たのだ、此娘兒の云ふには卷山親子は森
外れの
水端で
烈く
爭論て
親父さんの方は
酷い言葉使ひで息子さんの方は手を振り上げて今にも
擲るといふ
爲體を見て、
(一二)
驚愕して
逃げ歸つて母に告げた「あの卷山の御
父さんと息子さんで保須池の端で喧嘩して居ましたよ、今にも
格鬪ふかも知れませんよ」と云つて居ると息子が
驅て來て「救けて呉れ森に親爺が死んで居る」と
激動て云ふ見れば鐵砲も帽子も持つて居ない、右の手と
袖の所とは
鮮血で
汚れて居る、
(一三)息子の後を
跟いて往つて見ると
親爺の死體が水端の草の上に大の字
形に伸びて居る、頭には何か
鈍い刄物で撃たれた樣な
凹い
傷痕が所々にある如何にも息子の鐵砲の銃床で撃たれた樣でその鐵砲は屍骸の二三歩
傍に横はつて居る、
恁ういふ事情であるから息子は直に拘引されて今週火曜日訊問の結果「故殺」といふ申渡しを受け翌水曜日彼は露須町の裁判所へ引渡され次回の公判には
愈吟味さるゝのだ、先づ大概此位の事が檢事と警察には知れて居るのさ」
(一四)
俺は云ふた、
「君そりや
有罪に
定つて居るさ、
甚麼證據が擧つたつてそれ程
明白な
罪收があるものか」
本田は深く考へ込んだ風で
「證據なんてえ物は隨分如何がわしいものだぜ、一つの證據を
掴まへて見て明白に有罪に
違ないと思はれても
鳥渡觀察面を變へて
察れば
全然無罪といふ樣な事があるからな、
左も
右、今度の事件は
余程面倒だ
如何も息子が有罪らしい、
然亦あの近所に無罪を主張する者もあるんだあの棚橋の孃なんぞも、その
方で
何所までも無罪にして遣つて見せるッて
力んで虎澤――それあの驗血探偵事件で覺えて居るだろ――あの虎澤に
頼んだんだ、
(一五)然し虎澤も是には隨分
手古摺と見えて僕に
依頼のさ、だから君、
恁いふ風に大急ぎの汽車旅行といふ騷ぎになつたんだ、
朝飯も
緩然喰ねえで
恁うして一時間五十哩の飛脚に乘つて西國巡禮と
洒落[#ルビの「しやれ」は底本では「しやけ」]るんだから隨分
急々しいね、これも虎澤に頼まれたからさ」
「事實が明り
極つて居るで君も今度の件ぢあ余り目
覺しい
手柄は出來まいて」
本田「いや
明り
極つた事實に
極詐され易いのだ、して虎澤には未だ知れない、明白な事實があるかも知れんよ、それに運よく
的中れば
占めたものだ、君も僕の
伎倆を知つて居て呉れるから
誇張とは思ふまいが僕は
此種事件にかけては遙かに虎澤の
上手だぜ、隨分
突飛な
手段で虎澤の説を
正いとも
誤とも
宣告て見せるが是は彼には出來る藝ぢあない、てんで
解らないんだ、差當り
一つやつて見やうか、よし、君の身の上の探偵を仕やう、君の
寢室には向つて右側に窓があるね、こりや、知れた事だ、虎澤にはこんな事でも知れまいて」
(一六)「
如何して――?
「だつて君、僕は君を
詳く知つて居るさ、君の
扮裝は
平素清楚で軍隊的だよ、君は毎朝
髭を
剃るね、
今時期は朝日で
剃るんだろ、うん、そうだろ、
左の方へ
往く程
剃り樣が
杜撰だぜ、
左頤から
頸へ
亘ては
極しだらが無いぜそれは無論右から受ける光線が左へ及ばぬ證據だ、君の樣な几帳面な人が正面から光線を受けてそんな剃方ぢあ
迚も滿足が出來ない筈だ、まあ是は僕の觀察力の
些した一例さ、これが差詰僕の
十八番で今度の事件にも此筆法で遣つて往けば
幾程か役に立つだろうよ、それから審問の時に
明つた一二の
些とした事實があるこれも參考にすべきだ」
(一七)「そりあ何だい?」
本田「息子が拘引されたのは其場ではなくて平澤へ歸つてからだ巡査が息子に向つて「其方は監獄へ行くんだぞ」と告げると平氣で「左樣でしやう、
當然です」と濟まして居たといふので豫審判事は確かに彼が犯罪者であると思つたのだ」
「夫れは罪を自白したといふものだ」
本田「
否、
左樣ぢあない、夫れから續いて無罪の申立を仕たから」
「變だね、それ程までに、有罪の證據が擧つて居る揚句に「左樣でしやう」なんて云ふ言草ぢあ
愈以て疑しいね」
(一八)本田「いや、それこそ本當に
闇夜に提灯といふもので、それから段々明かつて來るのだ、
例彼が殺したでないにしろ
滿更馬鹿ぢああるまいし、いくら何だつて
四圍の事情で疑はれる位な事は知つて居る
筈、いざ拘引といふ
段に
喫驚して見せたり
怒つて見せたりしちあそれこそ疑はざるを得んのだ、
其麼事をしちあ全體境遇から考へて見ても無理ぢあないか、然し深い
畫策でもありあ
好興で
爲るかも知れん、「左樣でしよう」と
濟まして居たのを
察れば彼は潔白の身であるに違ない、左もなけりあ
餘程圖太根性の奴に違いない、
(一九)それから「當然です」と云つた事だ、是あ、何も當然ぢあないか、彼は父の屍體を
眼前に控へて突立つて居たんだし、子たるものゝ本分を忘れて親爺と
爭論た揚句手を振り上げて
毆る風まで仕たんだもの、その手を揚げたといふのは門番の娘が云ふたので聞捨てならぬ
件だ「當然です」といふ中には親不孝をして惡かつたと云ふ後悔の意味も含まれて居るから馬鹿でも
犯人でも何でもない、正氣の者だと思はれるのだ」
是迄聞いて
俺は首を振つて返問した、
「君、今迄もつと僅かな證據で首を切られたものが
幾らもあるぜ」
「
左樣さ、そりあ、無實の刑といふものが澤山だからね」
「息子は此件に就いて何といつて居る?」
(二〇)「うー、どうも、云ひ樣が面白くないのさ、
夫故、無罪論者も大部閉口しとるんだ、只一つ二つ
一寸氣の聞いた
言を云つて居るんだ、
先是を見給へ君獨りで讀んで見給へ」
といふて、本田は
束の中から平戸地方發行の一新聞を取り出し
疊み
直して
爰に息子の
申立の文句があると云うて一節を指示して呉れた、
俺は客車の
角に腰を落着かせて注意して讀むと
恁だ
○「依つて直に被害者唯一の遺子卷山善二氏は召※[#「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31]され左の通り申立てたり
「拙者は
鰤巣に趣き三日間不在なりき、去る三日(即ち月曜日)の朝歸宅せり、愚父は拙者歸宅の當時
同然不在なりき、馬丁熊田八重吉と露須方面に向へりと家婢より聞き及べり