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 名馬の犯罪
 三津木春影
 

   10…米飯ライスカレーへ阿片を入れたは誰?………………

 其日の夕刻競馬が終へてから、松戸經由けいゆ、上野行きの列車の一等室の片隅には、本邸に歸る畑野男爵と、呉田博士と中澤醫學士の三人とが一團となつて居た。そして男爵と醫學士との二人は、博士が物語る月曜日以來の犯罪の經路、博士が取つた靈妙な探偵方針について、宛然さながら醉はされたやうになつて聽きれるのであつた。
 博士は話し續ける。
 實を言ふとわしも、新聞記事から綜合そうがふして色々の理論を築き上げたが、それは皆間違ふて居ました。新聞記事といふ物にも教へられる所はあるが、をしかな、餘りに詳細迅速の報導はうだうたつとんで、かへつて事實の眞相を朦朧たらしむる。併し初めて松戸へ出掛けた時には、比志島ひしじまなる者を矢張りしんの犯人と心に認定して出掛けました。彼に對する證據が不完全であることは認めて居つたが、どうも彼らしい所もあつた。が、汽車を降りて畑野さんの自動車で別莊迄走る間に、不圖ふと私は一大事實に氣が付いた。と言ふのはの晩馬飼の濱一はまいちがライスカレーを喰つたといふ事である。覺えてお居でぢやらうが、あの時皆さんが別莊の玄關前で降りてからも、私だけは茫然ぼんやりと自動車に殘つて居て、中澤君に注意された位であつたが、實は斯樣な明白な、緊要きんえうな一大證跡しようこを何故氣付かなかつたかと自分ながら呆れて居たのでした。」
「はア、ライスカレーが其樣そのやうに緊要ですかナ。私にはさう仰有られてもどうもまだ解りません。」
と男爵が首を傾けた。
「あれが、私の推理の第一連鎖でありましたのぢや。一體粉末にした阿片といふものは決して匂ひの無いものぢやない。かう少し不快な香氣かうきでナ、かすかにプンと鼻へ來るものである。若し普通の食物しよくもつへ混ぜてあつたらば必ず解る、そして一口で吐出してしまふものですワ。所がカレー粉は適當のものぢや、あれへ混ぜたらば匂ひは消されて了ふさてさういふ前提を置いてあの晩の事情を考へるに、の比志島といふ何の關係もない男が、あの晩特に奧花の家庭をしてライスカレーを調理せしめたといふ法は斷じてない。さればと言ふて、阿片の匂ひを消すに都合の好いライスカレーが出來た晩に、丁度に阿片を持つて、廐へやつて來たと考へるのは餘りに暗合あんがふが巧過ぎる。さういふ筈も先づ斷じてないと言つてよろしい。だから比志島は事件のうちから除く事が出來ます。されば第二に目指すのは奧花夫婦でなければならぬ。無論あの晩夕食に、ライスカレーをこしらへさせたのは夫婦にまつて居る。そして阿片を加へたのは、特に廐の當番であつた濱一の所に持つてく皿が別になつてからである。何故ならば、私が女中に訊ねた[#「女中に訊ねた」は底本では「女中に訪ねた」]所によれば、ほかの者も同じやうにライスカレーを喰べたが、何れも何の異變もなかつたので解る。」
「では、女中の氣付かぬやうに阿片を混ぜたのは、夫婦のうちで誰であらうといふ問題になりますね。」
と、中澤醫學士が言つた。
「さう/\、併し其問題を決定する前に、犬が鳴かなかつたといふ事實に眼を付けねばならぬ。兎に角一つの眞相を發見すると必ずを類推する事が出來るからねえ。比志島の事件をもつて、私は其の廐に番犬が飼ふてある事を初めて知りました。それからぢや、何奴なにやつ夜中やちゆう廐へ入つて來て、馬を引出して行つたのに、吠えてほかの二人の馬飼を起すといふ事もせなんだとはをかしいではないですか。即ち其夜そのよの曲者は犬が日頃慣れしたしんで居る者であつた事が明瞭ぢや。」
「犬が一番慣れしたしんで居るのは[#「慣れ親んで居るのは」は底本では「慣れ親しで居るのは」]奧花以外には有りません。」
と、男爵が體を乘出して言つた。
「ですから、夜中よなかに廐のを合鍵で明けて銀月を盜み出したのは即ち奧花です。」
「ですが何ういふ目的でやつたのでせう。」


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