名馬の犯罪
三津木春影
9…犯人は貴君の後に居る…………えツ、え、直ぐ後に! と驚いた…………
それから四日後、松戸の秋期競馬會が始まつた日に、呉田博士と中澤醫學士とはまた上野から汽車で松戸の町に赴いた。豫ての打合せに從つて、畑野男爵は前の通り停車場に出迎へ、自動車で博士等を競馬場へ送つた。
「銀月については其後依然として何の手懸もありませんかなア………。」
と、男爵は車を驅けさせながら不平さうに言つた。
「多分目前御覽になつたらばお解りぢやらうと思ふ。」
男爵は腹立たしさうに顏を紅くして
「さういふ御挨拶は心外ですナ。私も競馬が道樂で廿年來これに關係して居るが、その樣な御挨拶を受けた事がありません。銀月といふ馬は額が白くて、前脚が雜色だぐらゐは此邊の子供でも存じて居ますからなア。」
博士は素知らぬ顏して賭金の話しなどをして行くうちに、自動車は競馬場へ着いた宏莊な建物の内外には血眼になつた群衆が一パイ充滿して、罵り騷いだり、笑ひ興じたりして居る。其間を分けて札賣場へ行くと、掲示板には賭金の條例、競爭哩數其他の要項が掲示してあつて、其次に第一回競爭の馬の名と選手の色別とが左の樣に書いてある。
一、仁高玄作氏所有「隼」 (帽子紅、短衣肉桂色)
二、眞泉禮太氏所有「電光」(帽子淡紅色、短衣青と黒)。
三、厚川金成氏所有「野嵐」(帽子黄、袖黄)。
四、畑野男爵所有 「銀月」(帽子黒、短衣紅)。
五、柴田宏助氏所有「荒浪」(帽子紫、袖黒)。
「私は貴君の御言葉を信じて、他の持馬の名は全部抹殺して出場させませんでした。」
と男爵は博士の顏を不安さうに竊み見ながら言つた。
競馬のグラウンドを見て居た中澤醫學士は
「皆なで六疋居りますよ。」
「成程六疋ぢや! すると私の馬も出て居るのかナ!」と男爵は急に眼を光らせて
「けれども私には見えない。私の色のゝはまだ見えませんね。」
「今五疋だけ過ぎましたから、今度が大方さうかも知れません。」
と言ふ時しも、出立點の方から一疋の肥滿した栗毛の駒が、背に例の有名な黒赤の帽子、短衣の打扮の選手を乘せて走り出た。
男爵は頭を振つて
「ありや私の馬ぢやない。あの馬の毛は白くないぢやありませんか。呉田さん、貴君の御見付けになつた銀月は一體何ういふのでしたらう。」
「まアお待ちなさい、近寄つたら能く御覽じろ。」と、博士は落着き拂つて双眼鏡で暫時眺めて居たが「これは素的ぢや! あの駈け振りの良さはどうぢや! おゝ/\、もう廻目へやつて來居つた!」
六疋の駿馬は非常に密接して、殆ど一枚の毛布で覆ひ盡せるばかりに肩を列べて走つて來たが、半ば頃から厚川某の所有にかゝる泉原の廐の黄帽の野嵐が他を拔いて先頭に立つやうになつた。銀月を除いては此が優勢の評ある馬だからそれも無理はあるまい、と、群衆が見物して居る中に、こは什麼、畑野男爵の持馬と定められた黒帽の逸足が、博士等の面前に來ると、突如として長鬣一振、猛然速力を速めて、野嵐を拔くこと正に六挺身となつた。
「ハテ變だナ、銀月でなくては彼の樣に野嵐を追ひ拔くものはない筈ぢやが………。」
と男爵は額に手を加へて呆れ惑ふのみであつた。
「さう、貴君の銀月でなくて他に拔く馬は無い筈ぢや。が、まア傍へ寄つて熟くりと覽やうではありませぬか、そしたら萬事お解りぢやらう。」
と、博士は男爵を促して、馬の持主と其友人ばかりが入場を許されてある特別の出立點の場席に入り込んだ。そして今しも大喝采の裡に決勝點に先着した栗毛の馬を指しながら。
「畑野男爵、彼の馬の顏と前脚とを燒酎で洗ふて御覽じろ。そしたら彼馬が眞物の銀月ちうことがお解りの筈ぢや。」
「そりやまた何うしてゞすか!」
と、半信半疑で馬の傍に近寄つた男爵の眼には、次第に愛馬の姿が髣髴として映つて來た。色こそ違へ、鬣、肉附、背恰好、此馬がそも銀月か、銀月がそも此馬か……。
で、男爵は振返つて
「實に貴君の靈妙なる手腕には驚きました。確かにこれは銀月です。而かも今迄に嘗て無いほど肥滿して健康さうに見えるのは不思議ですなア。斯くとも知らず先日から色々無禮な事を申上げたのは、何とも汗顏の至に堪へません。馬を御取戻し下すつたといふ事は非常な御骨折です。この上奧花を殺した犯人をさへ御見付け下さればもう申分はありません。」
「それも見付けました。」
と、博士は靜かに言つた。
男爵のみならず、中澤醫學士迄が駭然として眼を見張つて
「何と仰有る、犯人を御見付けになつた! ど、何處に居ますか、何處ですか!」
「犯人は此處に居ます。」
「えツ、此處に! 何處に!」
「此處に、現在私の傍に。」
男爵は短氣の質とて赫と急き込み
「呉田さん、御戯談も程によりけりです。貴君の御盡力に對しては何處までも感謝を捧げますが、其樣な紳士の態面に關はるやうな侮辱の御言葉は御免を蒙り度いものです。」
「ハヽヽ、何も貴君が犯罪に關係が有りなさるとは言ひはしませんぞ。眞の犯人といふのはソレ、直ぐ貴君の後に立つて居るではないですか!」
「えツ、直ぐ後に!………」
と、クルリと振向いた鼻先きに立つて居るのは男爵の愛馬銀月である。其光澤々々した頸首に手を置いた男爵と、中澤醫學士とは他に人の影さへ見えないのに異句同音に
「馬ですか!」
と※[#「口+斗」、U+544C、164-3]んだ。
「さう、銀月こそが眞の犯人であつたのですワ。併し銀月は罪を犯して罪が無いのぢや何故かと言へば、生命の危害に對する正當防禦を行ふたからなので、男爵の多年信任せられて居た奧花こそ却て喰せ者であつたのです。や、併し鈴が鳴り出した。二番目の競爭が始まるぢやらうで、悠くり見物してから御物語りを致さうではないですか。」