名馬の犯罪
三津木春影
8…跛の豚が大事實を語つて居る…………博士の奇言は誰にも分らぬ…………
博士と助手とは黄昏れかゝつた野路を、以前の千駄堀に向つて話しながら歸つて行つた。
「ハヽヽ、外擴がりの内容まりとは彼奴の事ぢや。見掛ばかり暴慢のくせに、あの樣子な卑怯な男はまだ見た事がない。」
「すると、矢張り銀月を隱したのは彼奴の仕業ですか。」
「初めは威張りくさつて彼此と辯駁し居つたがの、私があの兇行の翌朝の彼奴の行動を詳しう説明して聞かせたところ、彼奴まるで私に目前視てゞも居られたやうに意外に思ふたらしいのぢや地面に一種特別の四角なやうな足の跡のあつたのは君も氣付いて居つた喃。あれがぢや、彼奴の靴にピタリと合ふたではないか。思ふにあの朝の彼奴の行動は斯うなんぢや。……毎時の朝起の癖で、先生暗い中に起出たと思ひ給へ。すると一疋の見慣れぬ馬が野を徘徊ふて居るのが眼に入つた。で、近寄つて見ると吃驚した。と言ふのは額の白い所から、鬣の栗色の具合、毛並、體格、どう見ても銀月である。松戸の競馬場で第一番と讃へられらるゝ名馬である。そこで、初めは畑野男爵の廐へ連れ返さうと思ふて馬を引張つて出掛けたのぢやが、考へて見ると敵の馬ぢや三四日後に行はれる競馬會の濟むまで引留めて置けば、自分等の持馬に大した利益が來る。さういふ惡念が不圖萌したから、忽ちまた中途から引返して自分の廐に慝まふたのぢや。これは君と二人で見た足跡で證明が出來る。……どうだ大地を打つ槌は外るゝとも此推定に間違ひはあるまいがナと急所を刺すと、彼奴一も二もなく恐入つての、どうぞ内濟に/\とばかり哀願するのぢや。」
「すれば馬を彼奴の手許に殘して行くのは危險ではありませんか。彼馬を損へば即ち彼奴の利益となるのですからなア。」
「なに最早その懸念には及ばぬ。却て馬を無事に返す樣にと思ふて喘々焉として保護して居る事ぢやらう。」
「畑野男爵といふ人は大變慈悲深い人とも思はれませんね。」
「事件と男爵とは何の關係もない。私は只私の採るべき方法を採つて進むのみぢや。それが御役人でない幸福といふものさ。君は氣付かなんだかも知らぬが、男爵が私に對する態度が少し傲慢であつた。で、私も少し彼方を戯弄つてやらうと思ふのぢや。馬の事については男爵にはまだ何の話もせぬやうにして貰ひたい。」
「先生の御許可のない中は喋りません。」
「なに、馬の問題なぞは、奧花の殺害事件と比べては些細な事ぢやがねえ。」
「今度は其方へお取り掛りですか。」
「いや、夜行で東京へ歸りませう。」
中澤醫學士は意外な言葉に驚いた。松戸へ出張して來たのは、僅々數時間以前だのに、此成功の希望の光赫灼たる事件を放擲して歸京するとは何とも怪訝の至りである。併し奧花の家へ行き着く迄は、博士は其理由に關しては最早一言も漏らさなかつた。奧花の家には男爵と鹿島警部とが待受けて居た。
「私等は今夜の夜行で東京へ歸ります。いや、お蔭で此邊の美しい景色を見たり、良い空氣を吸ふたりして愉快でした。」
と、博士は何氣なく言つた。
警部は眼を圓くした。男爵はさも輕蔑したやうに唇を引歪げて
「すると、奧花の下手人を御見付けになる見込みが有らつしやらないですか。」
「犯人を捕縛するのは仲々容易な仕事ではありませんのぢや。併し貴君の馬は來週の火曜日の競馬會には十中八九までは、現はれる望みが立ちましたで、競馬の用意をなすつたら宜しからう。鹿島さん、奧花の寫眞を御持ちかの。」
警部は一枚の寫眞を懷中から取出して渡した。
「流石は御職掌柄、私の必要と思ふほどの物は皆チヤンと用意して居られるのは辱ない。序でにもう暫時待つて下され、一寸此家の女中に聞き質しておき度い事が有りますから。」
博士が勝手の方に立つて行くと、直姿を見送つた男爵が無遠慮に
「どうも折角東京から來て頂いたが、大に失望ぢや。先刻と今と、事件の解決に向つて一歩も進んでは居らん。」
「併し少くも貴君の愛馬が競馬會に間に合ふといふ保證は博士がされたでは厶いませんか。」
と中澤醫學士が言つた。
「そりや然う言はれたが………馬を彌々發見してからに保證なさるが好いテ。」
中澤醫學士がなほ何をか辯解しやうとする折しも、博士が勝手から戻つて來た。
「御待遠でした。これで殘らず用事が濟みました。」
で、一同外へ立出でた。もう日が暮れて青黒い空には星が一面に撒布つて居た。そこへ丁度一人の若い馬飼が通り掛つた。すると博士は不意に何をか思ひ付いたと見え行き過ぎた馬飼の後を追ふて引留めて
「コレ/\、少し物を訊ねるがの、晝間見たらば此處の牧場の隅で豚を飼ふて居るらしかつたが、飼番は誰れであらう。」
「私が豚掛りです。」
「おゝ、それは僥倖ぢや。近頃豚に何か變つた事はないかの。」
「さうですね、格別變つた事もありませんが………あゝ、さう/\、四五日前から、不思議な事には四五疋の奴が跛になりました。」
「おゝ、然うか、然うか、いやもう宜しい、有難う………中澤君、追々成功するぞ」
と、博士は非常に何か御機嫌の體で
「鹿島さん、豚の間に奇體な傳染病が流行るさうぢやから御注意なさい!」
男爵は相變らず見絞つた眼付をして居るが、鹿島警部は※[#「執/れんが」、U+24360、155-7]心な調子で
「豚の傳染病が本事件に必要事項で厶いませうか。」
「非常に緊要です。大なる事實を語つて居ます。」
「他に何ぞ御注意を願ふやうな事は厶いますまいか。」
「兇行の夜の犬の樣子が不思議ですナ。」
「犬には格別變事がありませんでしたが………。」
「それが不思議ぢやと申すのです。」
警部は默つて考へながら、暗い野路を歩いた。