紳士か乞食か
THE ADVENTURE OF THE MAN WITH THE TWISTED LIP
コナンドイル A. Conan Doyle
手塚雄訳
(二一)餘り堅く斷言して居る故、探偵も面喰て遂倉河夫人はうつかり欺されたんだろと思うと夫人はキヤツと※[#「口+斗」、U+544C、21-3]んでテーブルの上の小さい松板製の箱に飛び付いて蓋を剥ぐと小供に遣る筈の煉瓦板がドサ/\落ちた、是は土産にする約束の玩具である、
さあ是が發見されたし、あの不具の奴が大變周章て居たので探偵も事容易ならぬ次第だと感付いた、室内を篤く調べて見ると如何にもそれは大罪が犯されたに違ないと思はれた、といふのはその表部屋は居間としては家具が極めて質素で後は寢室に續いて居る、その裏手は波止場の裏だ、波止場と寢室との間は狹く小高い堤の樣なものがあつて干潮の時は水が上らないが滿潮の時は少くも四尺五寸位水が深くなる、その窓は廣いので下から開く樣になつて居る、
(二二)調べて見たら窓台の所に血が着いて居るし、室の床の上にも血の涓滴が在つた、前室には幕があつて其蔭に倉河幸助氏の着物が脱ぎ捨ててあつて上着だけが無い、靴でも靴下でも時計でも皆在つた、着物の無傷なのから判じれば如何も暴惡な事があつたらしくもない、又、此外には倉河幸助の跡形がない、窓台の血から判じれば水を泳いで救かつたとは思へぬ、それにあの時は折惡く滿潮であつたから」
(二三)偖て此件に直接に關係して居るものは誰かといふ問題だね、あの亭主與太郎の奴なか/\の惡黨者で經歴は此上なし惡いんだ、倉河夫人も云うた如く幸助が窓口に居た時から二三秒しか經ぬにあの階子段の直下に居たのだから彼は少くも犯罪の與かつて力あつたに違ない、然し彼は全然そんな事は知らぬといふし獅太(三階に下宿して居る奴)の仕業も毫も知らぬといふしあの衣服が何故在るのだか是れも判らぬといふて居る
亭主與太郎の話は是丈にして置いて今度はあの三階に居る不具者だね、彼奴は確か最後に倉河幸助を見たに違ない、のだ名前は獅太といふのであの恐い面相は街へ度々行くものは皆な知つて居る
(二四)職業は乞食で警察の御目に[#「警察の御目に」は底本では「驚察の御目に」]留らぬ樣燐寸行商といふ姿を裝ふて居たのさ、絲針町を少し下つて行くと左手の壁に些とした角がある、彼所で奴は毎日胡坐を掻いて前垂の上に小數マツチを載せ垢染た帽子を前に据ゑ誠に變手古な哀れツぽい風をして居るので通行人の目に留まり惠みの錢は雨の如く落ちて來たのだ、僕は別に調べる氣もなく、彼を見た事があるんだが、奴の收入の多いには驚いたね、風彩があの通りだから通行人は皆眼を留めて見る、橙色の髮が尨々して居る所、蒼い顏に創痕があるので上唇が釣り上つて居る、頤は四角で猛犬のそれに酷似、黒く鋭い兩眼は橙色の髮毛と好個の反照、是丈でも乞食の中で立役者だのに搗てゝ加へて頓智があり通行人の嘲弄には一々相應の挨拶するといふ滑稽者、
(二五)これがあの阿片屋に下宿して居るので今探求中の幸助を最後に見たのだ由だ」
「然し不具ぢあないか、あの不具[#ルビの「かたわ」は底本では「かかわ」]がたつた獨りで血氣盛りの男に敵つて何が出來るい?」
「不具といふても只片足が跛歩を引くだけだ、他は却頑丈者らしい、君も醫者をやつとるから此位な事實は知つとるだろうが、片足が弱けりあ他の手足が特別に發達して居て平均されるのが普通ぢあないか」
「まあ良いから、話を續けて呉れ」
「倉河夫人は窓台に落ちて居た血を見て氣絶したのさ、そこで彼所に居たとて何の役にも立たないから警官が馬車で家へ護送したのだ、で本件取調の任務を帶びて居る高村といふ探偵は綿密に家宅搜索を爲たが何の證據も擧らなかつたのだ
(二六)只あの獅太を直に逮捕らなかつたのが缺點だつた、それがために數分間の隙があつたから其間に與太郎と何か話をしたかも知れぬが然し此缺點も直に盛り返した、彼を掴へて吟味して見たが何の罪證も擧らなんだ、成程彼のシヤツの右腕の所に血の痕は在つたんだが、これは右の藥指を害めたからだつた、彼はその爪に近い所を指して血の出たのは爰からで今しがた窓口へ往つたからあの血も無論爰から出たのだといふた、それで倉河幸助を見たことはないと斷然云うて居るし自分の部屋にあの衣服の在るのは何故か毫も解らぬ、また、あの倉河夫人は實際夫を窓口の所で見たといふのは多分一時の迷ひか乃至は夢でも見たに違いないと云うて居る、巡査は彼が聲を張り揚げて辯ずるにも構はず警察署へ引張つて往つた、後に殘つた高村探偵、やがて干潮が波を引き去る曉には何か別に手蔓が見着かるだろと頼母敷思ひで居※[#判読不能、26-4]
(二七)所が果たして見當つた隨分骨は折れたが泥の上に手蔓と思はしき物が見えた、それは幸助の身體でなくて上衣だ是は潮が引去つた時に露はれて來たのだ、それでその懷中の中にあつたものは何だか、君は何だと思ふ?」
「僕には想像が出來ん」
「左樣だらうよ、その懷中には一錢や五厘の貨幣で充滿だつた、――一錢貨が四百二十一個と五厘貨が二百七十個あつたんだもの、恁麼だつたから重くて潮に流されないのも道理だ、然し身體は別物だ、あの波止場と家との間に烈い渦流があるんだ、だから上衣は錢の御蔭で殘つて裸體身は河中へ押し流されたのかも知れんよ」
「上衣以外のものは皆室内に在つたと聞いたが一體上衣一枚ばかりで居られるものだろうか?」
(二八)居られまいさ、然し是も本件では眞實らしく解釋が出來るんだ、先づあの獅太が幸助を窓から抛げ出した時に誰も見て居らぬとして如何だ、勿論嫌疑の種となるあの衣服を無くして仕舞ふがよいと感付だろ、それで第一に上衣を取つて窓から放り出さうと思つては見たが着物は輕いから浮んでは困るとは感付いたが既時間が無い、倉河夫人は階下で無理に昇つて來やうとする
喧嘩の聲が聞えるし巡査が街上を走つて來ると與太郎から傳聞たろうし、一瞬時たりとも浪費すべからざる境であるから急しく日頃貰ひ集めた錢を蓄へて置いた所へ往つて手當次第にその上衣の懷中へ詰め込んで沈むやうにしそれを窓から投げ出して尚時間さへあつたら他の衣類をも左樣したかつたんだが何せ階下から昇つて來る音が聞えたから急しく窓を閉ると既巡査が來て居たと斯樣も思へるね」
(二九)「成程それは道理に聞えるね」
「さあ、それでさ、差當り是以上の手蔓がないから此事を假設と定めて考へて見やう、するとあの獅太だな彼は直に警察へ拘引されたんだが彼に對する罪状は毫も見付からないんだ彼は多年乞食を職業に仕て居たんだが極めて穩しく無邪氣に日を送つて居たらしいので目下の處で疑問は倉河幸助は當時阿片屋で何を仕て居たのか、今何所に居るのか、彼が阿片屋を去つた事が獅太に何の關係があるかといふ事だが是れ亦不相變不可解で居るのだ、僕も是迄隨分經驗もあるがこんなに簡單で其實面倒な事件は今度が初めてだ」
(三〇)本田宗六が此不思議な事情を詳述て居る間俺等ははや倫敦の市外を驅り行くので、いつしか人家參差たる邊も過ぎ今は全くの田舍道左右に籬を控へつゝ進むのである、丁度話が終ると人家まばらの村落を二つも通り越し今は彼方此方の窓に燈火がちら/\見える、
本田「おい、郷村へかゝつたよ、話して紛れて短い樣に思はれるが隨分長い旅をしたぜ、僕等は三郡に跨がつて來たんだぜ中の郡で出發して猿柄郡へ少し懸て險途郡迄來たんだ、あの樹の間の燈火を見給へ、あれが齊田舘だよ、あの洋燈の傍に倉河夫人が待ち焦がれて居るんだぜ、既馬の蹄音を聞き取つたろうよ、」