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 紳士か乞食か
 THE ADVENTURE OF THE MAN WITH THE TWISTED LIP
 コナンドイル A. Conan Doyle
 手塚雄訳
 

(一)聖善神學校長神學博士故太見ふとみ入也いりや氏の弟に太見愛佐あいさといふのがある、此人阿片が大好き、在學中に出苦烟デクエンの阿片夢物語を讀んで、深く感じ不意ふと魔がさして自分も矢張此夢物語を實際に試みやうと煙草に阿片丁幾を浸してんで見たが因果、いよ/\以て阿片馴染なじみとなつた、べて此惡習くせは得るは易く捨つるは難いが愛佐も矢張此譬にれず多年阿片に溺れたその果は、友達親兄弟の人々にさへこわい者氣の毒者よと指を差さるゝ始末、薄黄色の顏しをれた眼瞼まぶた、小さい瞳の彼が椅子に丸まり込んで居る樣は如何にも名家の零落者おちぶれものと見受けられるので、今でもこれが僕の眼に瞭々あり/\と見えるんだ。
(二)頃は(千八百)八十九年の六月、ある夜おそくの事、もうそろ/\欠伸あくびを出して時計を眺める[#「時計を眺める」は底本では「時計る眺める」]時刻ころ戸口の呼鈴ベルを鳴らす者がある、之を聽いて俺は椅子にり妻は裁縫おはりめ少々失望の面相おもざし
「あら患者ですね、また御出懸なさらなけりあなりませんね」
と云はれておれ呻吟うめいた、といふのは終日患者訪問めぐりつかつて今歸つたばかしだのにまたといふまたが患者ではたまらないからである、
戸の開く音、急々せか/\しい二言三言ふたことみことゆかの上の跫音あしおとが聞えると部屋の戸がバツとひらく這入つて來たのは黒裝束で黒い面被ヴエールけた婦人だ、
「御めん下さい恁麼こんなに晩く上りまして」と挨拶したかと思ふと急に何かこらえ兼ねた樣子で妻のそばへ驅けり首に抱き付きかたすがつて泣きながら「本當にまあわたしは困ります、何卒御助け下さいな」と叫んだ、
(三)「おやまあ」と妻は彼女の面被ヴエールを引き上げ「まあー太見かた子さんですこと、まあわたし大變驚きましたよ本當に貴方あなたとは夢にも思ひませんでしたよ、」
わたし本當に困りましたから上りました」
 行所ゆきかに迷ふ海鳥は燈明台に集まる如く困つた人は必ず愚妻さいたよつて來るが當時の風習ならはしであつた、
御入來いらつしやいました、餘り御きの樣ですから少し葡萄酒と水を御りなさい、ちと氣を落ちつかせなさるが良いですからまあ、爰へらくに御けなさい、して御用のむきを詳しく承りませう、それとも愚夫やどを寢かしてわたしだけでうけたまはりませうか」
否々いーえ、先生に御願ひしたいんです、別では御座いません愚夫やどの事ですよ、たつきり、二日ふつかも歸らないんですもの、如何どうしたか心配でたまりません」
(四)賢子がおつとの心配事で吾宅たくへ相談に來たのは今始めてでない、それをおれは醫者の資格で聞き妻は舊友同窓の友といふ格で聽いてり、毎時いつもあらゆる言葉を盡して憮恤いたはなぐさめてやつたのだが、今の話では彼女は愛佐の在所ありかを知つて居るだろか、俺等は愛佐をれ戻す事が出來るだろか、
 どうも出來るらしひ、賢子は慥の筋から聞いたそうだが愛佐は近頃氣が向くと直に市の東端に在る阿片屋へ往つてよろしくるが、それも一回一日と限るので二日と居續けたためしはなく夕刻には必ず醉歩蹣跚のていで歸るが常であるのに、此度だけは四十八時間も續けざまにつて、あの造船所の呉呂突ごろつき人足にんそくと毒煙を吸込すいこんで居るだろ、左もなけりあ、ましに眠入つてでも居るのだろ、あの上須藤町の金屋に居るに違ないがなにせ彼女はまだ年若としわか内氣うちき手弱女たよはめそんな所へしやばつて呉呂突仲間からおつとを引張りして連れてる譯にはかぬ故途方にれて居るのだ
(五)先づこういふ譯、して道行みちゆき一條ひとすぢより外ない、賢子さんを須藤町へ連れて行かうか、いや/\考へて見ればそんな事する要はない、俺は太見愛佐の出入の醫者であるからには俺の云ふ事をば彼はそれ相應に承諾きくはずだ、それ故いつそ獨りで行く方がましだろと思つて妻に向ひ「若し本當に上須藤町の金屋に居るなら必ず二時間以内に連れて來る」と云うて夫れから十分間ばかりつとはや安樂椅子となつかしい私室へやとを立ちき馬車を東方に驅つて急いだのだ實に變手古な用事もあつたものだなと思つたが實際は尚更變手古であつたといふのはあとで知れる、だが初めは格別骨も折れなかつた、上須藤町といふのは倫敦橋の東に當つて河の北側きたがわに伴うて在る、高い波止場つゞきの後方で日蔭町とでもいふ所だ、古着屋と揚酒屋との間のけはしい階段きだはしを降ると、宛然まるで岩窟いはやの入口の樣なくらい入口がある爰が即ちくだんの阿片屋である、馬車に待つて居れと命じて其階段を下つて往つた、階段は幾多の醉漢よつぱらいが引きも切らずりするので中程の所がへらされてくぼくなつて居る、戸口の上に薄暗うすぐら油燈ランプがあるのでかけがね[#「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37]が見付かつた、是をひらくと長い天井のひくへやへ這入る、室内の空氣は茶褐色とびいろの阿片烟で飽和點に達して居る、室の兩がはには木製の寢臺が据ゑて在つて移民船の前甲板といふ格だ
(七)薄暗いからくは見えないが何でも大勢の人が妙な姿勢で横ざまにし肩を曲げひざを居り仰向あをむきになりほゝ[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]を天井に向けて居る、俺が這入つて往くと曇然どんよりとした眼で見る者がある、暗い中に赤い星の樣な光りがちら/\するのは煙管に着いて居る阿片の火で雁首がんくびの所でぽかぽか吹かれるまゝに燃えたり失えたりするのである、
大概の者はだまつてて居るが中には獨言つぶやくもの、互に語り合ふものがある、語り合ふといふた所で只妙な低い單調な聲で突如ふと話し出すかと思ふとぱつたりめて靜になつたりして只自分の思ふ事をもぐ/\云ふてひとの云ふ事をば一向に聽かぬばかりである、先側むかふがはに火鉢があつて木炭がさかんえて居る、その傍に三脚付の腰掛が在つて、夫れにけて居るのは娉※すらりツ[#「女+亭」、第3水準1-15-85]とした老人であごを兩手のこぶひぢを膝に俯向うつむきになつてぢつ[#「目+爭」、第3水準1-88-85]と火を睨んで居る、
(八)俺が這入ると淡黄うすきな氣味の惡いつらの給仕(馬來マレー半島)がき立てた擧動みぶり煙管きせると阿片とをもつて來て此所こちらへと空席あなを指した、
「有難う然し左樣して居られません、私は友人に面會あひに來たんです、爰に太見愛佐君が居ますね、ちよつ談話はなしがあるんですが」と云ふと右の方に少し動いて※[#「口+斗」、U+544C、8-1]ぶ聲がしたから誰だろと思つて薄暗がりをぢつ[#「目+爭」、第3水準1-88-85]見探みさがすと果たして愛佐が居る、顏は蒼白あをくしほれて髮はくしけずられず亂れた儘で俺をにらんで
「おや、和津だぜ」といふ彼は餘りやり過ごして渾身そうみの神經が悉く麻痺まひされた樣子
「おい、和津、何時なんどきだい?」
もう十一時近いよ」
何日いつかだい」
「六月十九日、即ち金曜日さ」
「驚いたね、水曜日だと思つて居たに、いや水曜日に違いねえ、おい人を馬鹿にするな、なんぼなんでもあんまりぢあねえか」
と云ふて面を俯向うつむかせ兩手で蓋ひ高調子で號泣なきだした、
(九)「本當だよ、金曜日だよ、妻君が二日ふつかも待ちこがれて居るんぢあないか、よくもそんんあに、君や耻かしかねえか」
「うん耻かしい、然し君だつて間違つて居るぜ、おい和津、僕あたつた二三時間爰に居つたツきりだぜ、‥‥三腹四腹とそれから‥‥忘れた、幾腹だつたか、兎も角一緒に還ろう、かた(妻)に心配させるのは可厭いやだからな、は、可哀相な奴だおい手を貸して呉れ、馬車は?」
うん待つて居るよ」
「ぢあ、乘つて行かうよ、然し勘定、君見て呉れ和津僕あまいつて居るもう何も出來ん、」
と頼まれて、俺は毒煙を吹込まない樣にぢツと氣息いきおさへて歩き出した、そこら邊に番頭が居るかと見搜しながら醉漢の二列に眠つて居る間のせまい所を通つて行く途中火鉢にあたつて居るあの脊高の老人のわきを過ぎるとすそをぐいツと引張つて低聲で
「ずん/\行き給へ、してから振返つて僕を見給へ」
といふ聲がよく聽えるおれは見下した、
(一〇)此さゝやきは慥かその老人から出たに違いないが彼は相變らずの姿勢で熟考おもひに沈んだ儘で居る、見れば肉落ちた皺面しはづらに腰は梓弓といふ老人だ兩ずねの間に煙管きせるがたらりと垂れ下つて居るこれは彼が醉ひれて手から落したのらしい、俺は二歩ふたあし進んで振り返つて見たら二度喫驚びつくり辛じて驚きの※[#「口+斗」、U+544C、10-8]びを止め得た、彼は振り返つておれだけに顏を見せるといふ風であつたがその姿はさき瘠形やせがたに引換へ肉付にくづきい立派な男、顏のしは何所どこかへ飛び去りしほれ眼は活氣を帶びて來た、齒をいて何を驚くんだいといふ風に嘲笑あざわらひしたこれはほかでもない、本田宗六其者であつた、近寄り給へといふ風にちよつし招いてすぐまた衆人の方へ半分なかば顏を差し向けた時は再前またもと泥醉爺のんだくれぢゝいに成つて仕舞つた、


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