(二)氣になる鞄
直ぐ其の翌日、僕は京都の東山ホテルに出張した
[#「出張した」は底本では「出張して」]。支配人の
茂佐君は
恰度僕の
舊知だつたから、萬事に好都合であつた。保科君が話した如く、孃は
慥かに
此家へ數週間滯在して居た。支配人の話に依ると、孃は話をする毎に人々から大層愛好された。妙齡の事ではあり、事には
天成の麗質玉の如しと云ふので、人々は天使か
何ぞの樣に
皆な孃と談話を交へるのを光榮とした。茂佐支配人は例の
頸輪に
就ては何も知らなかつたが、
婢僕の話に依ると、孃は其の寢室に在る鞄を始終氣にして、絶
ず
錠を
下して置いた
相だ。召使の
鞠子と云ふのは
極く
温順な女で、現に
給仕頭と
夫婦になつて居る。其の住所も直ぐ解つた。住居は
桃戸町十一番地だ
僕は是れ丈の探偵事項を仔細に手帖へ控へ保科君の腕前では、失敬だが是丈の材料は得られまいと、内々快心の微笑を禁じ得なかつた。
然れども僕の探査すべき事項は是で全部では無い。
未だ一つ大切な事が殘つて居る。「
何故孃は突然
此地を出發したか」是れだ。此の原因に就ては
頓と手懸りが無い。京都は孃が大好きな土地で、加茂川を一
目の
下に
見張らす一
室を借り切つて、
未だ暫くは滯在する計畫だつた事は、色々の事情から考へて
爭はれぬ事實であつた。所が一週間の
宿料を拂つてから、僅か一日でプイと出發して仕舞つたのだ。
夫れに就て例の召使鞠子の亭主の次郎と云ふのが、僅か
斗りの事實を知つて居る。次郎の話に依ると、孃が突然出發した二三日前、
背の高い、色の淺黒い、
※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]髯の一杯生
た男が、孃を訪ねて來た。是れが何うも孃の出發に何か關係があるらしい。
「全く惡黨の樣な奴でしたよ」
と迄次郎は
言加へた、其男も矢張り何所かに間借りして居る筈なんだ。
孃が
河岸を散歩して居ると、其の男は
※[#「執/れんが」、U+24360、11-3]心[#ルビの「ねつしん」は底本では「ねんしん」]に孃に話し掛け、孃の家へも幾度も訪問して來たが、其
都度孃は
手強く面會を拒絶した。
此奴は
慥に
英人なのだが、肝腎の名前が判らない、
恁んな事があつてから直ぐ孃は出發して仕舞つた。次郎の話は單に是れ丈だが、
尚ほ
同人の
考として、
「ですから所詮、此の訪問と出發とが、何の事はない原因で又た結果なのですね」と
附言した。
夫れから
未だ譯の解らぬのは、
何故召使の鞠子が孃から
暇を貰つたらう?と云ふ點だ。夫に就ては次郎は何も言へぬし、又現在女房の事であるから言ひ
度くもあるまい。だから若し夫を知りたいと思つたら、直接桃戸町の鞠子を
捉へて聞き取るの外はないのだ。
僕の第一の調査はともかくも是で
了つた。
仍で僕は更に一歩を進めて、第二の事項たる、
「楠子孃は京都を出立して
何處へ
往つたのだらう」
と云ふ問題に全力を盡くした。
茲に
聊か奇怪なのは孃が出立に際して、何者かに跡を
尾られぬ樣、
密つと
飛出した形跡のある事である。即ち孃の荷物の宛名が公然と「名古屋行」とは書いて無い。
而して孃と荷物とは
夫々廻り道をして
桐ヶ
瀬温泉場に到着して居るのである。