博士臨終の奇探偵
三津木春影
五、禿頭の佝僂老爺が……黴菌毒素の壜中に埋つて居る
外濠に添つた南紺屋町の片側町には、早や黄昏の鈍い光と薄暗とが縺れ漂うてゐた。
「榛澤移民會社」――さういふ金文字の看板が電燈に照らされてゐる圖ある一軒の、重いガラス扉を持つた建物の前に自働車は止まつた。中澤醫學士が案内を乞ふと、頭髮を分けた若い一人の社員が出て來た。
「ハイ、社長はお在宅になります。兎に角一應伺つて參りませう。」
と社員は名刺を持つて二階へ登つて行つたが、直樣階段を傳うて癇癖らしい、刺すやうな高い聲が聞えて來る――
「何ういふ人だ? 何の用があるといふのか? 毎日今頃は己の研究の時間だから、誰でも取次ぐことは成らんと、あれほど命令けてあるではないか。」
店員が何やらクドクドと言譯する聲も落ちて來る。
「いや、何というても今面會は出來ぬよ。折角の研究が邪魔されては困るのだ。不在だとでも言ひなさい。是非共御用ならば明日の朝來るやうに言ひなさい。」
又も店員の低い聲。
「あゝ、さう言つて返してくれと言ふに可煩いなア! 朝來るやうに……でなければ、仕方がない、待つてゐてくれるか、何方道今は駄目だよ。」
助手は病床の上で輾轉苦悶しつゝある博士の病状を想ひやつた。定めて一分千秋の思ひで救助の來るのを待ち焦れてゐるだらう。博士の生命は全く助手の行動の遲速如何に關つてゐる……然う思つた助手は、今しも店員が降りて來て
「まことに御氣の毒さまですが、社長は只今手の放されぬ用事最中で御座いますから何なら明朝…………」
と言ひかけるのを關はず突きのける樣にして、トン/\と疾風のやうに二階へと驅け上つた。直ぐ右手の室の扉が半分明いてゐる、其中へ彼は闖入した。
鋭き一聲の憤怒もろとも、一人の男がストーヴの傍の安樂椅子から立上つた。只見る助手の眼に映つたのは、一個の黄色の脂肪ぎつた大きな顏である。重さうに刳りこんだ二重の肉厚の頤二つの陰氣な威嚇的の鼠色の眼、それが蓬々と生へた濃い眉毛の下から此方を睨んでゐる。禿げたビリケン頭には、ビロードの滑稽な土耳古帽を斜ひに被つた風體、兎に角恐しく大きな頭であるが、驚いたことには胴體が如何にも小さい、如何にも脆さうである。肩と背中が變に歪んでゐるところは、子供の頃に佝僂病でも患つたものらしくも見受けられる。
「何うしたんぢやい! なぜ斷りもなう人の室へ飛込むんぢやい!」と其男が金切聲で怒鳴り立てる「今若い者に、明朝訪ねらるゝ樣申したではないですか。」
「いや、失禮の段は幾重にも御詫びを致します、が何分事態が切迫致して居りますので、止むを得ず失禮を敢て致しました。實は呉田博士が――」
と言ひかけると、不思議や博士の名前がこの小男の上に非常なる結果を齎した。流石の憤怒の表情も見る/\その面から消え失せた。彼の容貌は急に緊張し、且つ油斷なき活氣を呈して來た。
「すると貴君は呉田博士のお使ひで。」
「さうです。」
「博士の御近状は何うですな。お達者ですかな。」
「いや、大病に罹られましてね、危篤に瀕して居ります。今日上りましたのは實はそのためであります。」
主人は一つの椅子を指して腰掛けろといふ意を示し、自分も以前の安樂椅子に腰を下ろした。さうする最中に、ふと、暖爐棚の上なる姿見に映つた彼の顏が助手の眼に映る。其顏には確かに惡意を含んだ忌はしい微笑が漂つてゐた。が、助手は深くもそれを訝しまなかつた。多分は意外の報告を受けた神經の加減であらうと思つた。その證據には、もう一秒と經たぬ間に、主人は眞面目な掛念の色を浮かべてゐるのであつた。
「呉田さんがそのやうな大病に罹れて……それは/\!……拙者は或用件でほんの一二度御目に掛つたばかりであるが、先生の人格と智慧とには悉く敬服致して居りますて。拙者が素人の醫者である如く、あの方は素人の探偵です。あの方の相手は惡人、拙者の相手は微生物、ソレ、其處に拙者のこしらへた牢屋が有りますわい。」
と指し示したのは、テーブルの上に列べてある壜だの、壺だの、ガラス管だの。
「夫等の膠質の培養物の中に、世界に於ける極惡非道の或物が今成長うなつてゐるところですぞ。」
「博士が貴君に御眼にかゝりたいと申されるのは、全く貴君のさういふ醫學上の知識に信頼してのことであります。博士は非常に貴君を賞讚して居られます。自分の病氣を療治して下さる方は、廣い東京にも貴君以外にはないと思うて居られますので。」
これを聞くと、主人は愕然として腰を浮かした。途端に禮の土耳古帽が禿頭から辷り落ちる。
「何ですと? なぜまた博士は拙者が其病氣を療治出來ると考へるのですかな。」
「それは貴君がスマトラの熱病通でゐらつしやるからです。」
「けれども、なぜ其病氣がスマトラの熱病だと考へるのですかな。」
「何でも用事があつて横濱の波戸場へ出張し、荷揚人夫の中へ混つた一日があつたさうで、其時傳染したのだらうと申されて居ります。」
榛澤社長は愉快げに微笑んで、土耳古帽を拾ひ上げ
「フン、成程、ほんとにそんな原因からですかな。何にしても貴君の想像なさるほどの重大事件ではありますまい。病みついてから何日ばかりになりますかな。」
「ざツと三日ださうであります。」
「夢中ですかな。」
「時々夢中になります。もう三日三晩飯も水も咽喉を通らず、熱は高く、衰弱も激しく、誠に氣遣はしい經過を取つて居るのであります。」
「それは、それは! 成程、さう承ると容易ならぬ容體らしい。其樣な危急な際に折角お招きを受けたのに、お斷はり致すのは道でない。元來拙者は自分の研究時間を邪魔されるのは一番閉口ですがな、併し今日は特別な場合であるで、宜しい、早速御同行致すとしませう。
中澤醫學士は博士の注意を想ひ出した。
「では御承諾下さるのですな。御多忙のところを實に有難う厶います。病人もどんなにか滿足で厶いませう……只、殘念なことには私は他にもう一軒至急の用事を控えて居りますので、失禮ながら御同行が願はれませんのですが…………」
「宜しい。ナラ一人で行きませう。博士の御住所も存じて居る。遲くも三十分以内にはお見舞致すから御安心なされ。」
「何分宜しくお願ひ致します。」